<ウェブ連載> 遊牧夫婦こぼれ話。

みんなのミシマガジン ウェブ連載 2014年6月~ 月1回更新

「遊牧夫婦」シリーズの中に収められなかったエピソードや出来事を振り返りつつ、しかしただ過去を振り返るだけでなく前を向いて、旅や生き方について、いまだからこそ感じられることを綴っていきます。
http://www.mishimaga.com/yubokuhu-kobore/

<ウェブ連載> 劇的進行中~“夫婦の家”から“家族の家”へ

積水ハウス 住ムフムラボ ウェブ連載 2013年4月~ 3ヵ月に1回更新

子どもができると夫や妻は「親」になる。海外で5年間、放浪の旅を続けて帰国した「遊牧夫婦」が、やがて「遊牧家族」に変わっていく日々を。
http://www.sumufumulab.jp/sumufumulab/column/writer/w/2

ここがぼくらのホームタウン 第4回 ミャンマー人漁労長の「今日の朝」 

考える人 2017年冬号

日本に来て二十三年。アモウはその間に一度だけミャンマーに帰っている。海士町に移り住む少し前のことだった。/十年ぶりに見た故郷は大きく変わっていたが本当に懐かしかった。両親や兄弟と一緒に過ごした一ヵ月間は、楽しくて仕方なかった。でも、戻ろうとは思わなかった。/「自分は長男だし、両親は帰ってきてほしかったとは思います。でも一度もそうは言わなかった。好きなようにしていいって」/ただその両親に、妻と四人の子どもをまだ会わせることができてないことは気にかかっている。/「みなで帰るのは時間もお金も大変で……。でも親父もお母さんももう年です。死ぬまでには会わせたいです」

吃音と生きる 6 ――極私的吃音消失体験

新潮45 2016年12月号

この連載を始めて数多くの吃音のある人たちと会うようになってから、自分の吃音は、症状の程度でいえば軽い方であったことを実感するようになった。重度の吃音で苦しんでいる人に会うと、とても自分が、吃音の辛さを知っていると言ってはいけないような気にもさせられる。また、ひとまずいまは吃音で悩んでいない自分が、いままさに苦しんでいる人たちの気持ちをどこまで理解できるのかという不安のようなものもいつもある。決してわかった気になってはいけない、と。/そうした気持ちを持った上でなお、過去を振り返って感じるのは、周囲の人からは一見わからないような症状でありながらも、自分の人生が、本当に大きく吃音によって動かされてきたということである。思うように言葉が発せられないこと、そしてその問題を周囲の人に理解してもらうことが難しいという状況がいかに苦しいか。そのことは多少なりとも実感として知っているつもりだ。/だからこそ、吃音が消えていき、言いたいことが言えるようになるにつれ、私は話せることの喜びを心から感じるようになった。自分の名前を恐れずに言えて、店で好きなものを注文できることが本当に幸せだった。思ったことを思ったままに伝えられるというのはこんなにもうれしいことなのか。日々、言葉を発しながら、私は小さな幸福感に満たされ続けた。

ここがぼくらのホームタウン 第3回 逆境の企業城下町で〝跡継ぎ〟の覚悟 

考える人 2016年秋号

そうして〇六年、覚悟を決めて泰洋は相鐵に戻ってきた。自分が志してきたのとは全く異なる世界だったが、彼は懸命に働いた。親父に絶対に負けたくないという気持ちも力になった。父親との衝突は頻繁で、怒鳴られる声の大きさに他の社員が心配することもあった。しかしそのうち父親の病状が重くなると、泰洋がすべてを任されるようになっていった。そして〇九年一二月、泰洋は代表取締役社長に就任する。事実上引退していた父親に泰洋は直接言った。「おれに社長を譲ってくれ」。/社長となった泰洋は、その後三年はこれまでの方針を変えないことに決め、父親のやってきたことを一つひとつ覚えていった。変えようにもどうすればいいか分からないということもあった。その一方で、東京での広告の仕事への思いもまだ残っていた。テレビでいいCMを目にしたり、知人の活躍を知ったりするたびに、自分はもうあの世界にはいないんだと実感して気持ちが揺れることが少なからずあった。/まさにそうしたころ、震度六強の激震が日立市を襲ったのだ。

ここがぼくらのホームタウン 第2回 麻の漁網が結う未来

考える人 2016年夏号

移住するたびに麻太朗は、確実に都会的なものから離れる方向に向かっていった。そのたびにそれまで背負い込んできた都会的なものを一つひとつ「積み下ろして」きた。そこには簡単には言葉にできないいくつもの理由があっただろう。ただいずれにしても、彼は、人と人のつながりや、金銭には換えられない何かを強く求めるようになっていった。都市ではどうしても「でも、しかし」という言葉が続きそうなシンプルな理想を彼は真っ直ぐに追い求めた。それを南伊豆という地で、「いときち」として形にしたのだ。/その彼の核にあるものがひもであり、麻だった。考える人 2016年夏号

移住するたびに麻太朗は、確実に都会的なものから離れる方向に向かっていった。そのたびにそれまで背負い込んできた都会的なものを一つひとつ「積み下ろして」きた。そこには簡単には言葉にできないいくつもの理由があっただろう。ただいずれにしても、彼は、人と人のつながりや、金銭には換えられない何かを強く求めるようになっていった。都市ではどうしても「でも、しかし」という言葉が続きそうなシンプルな理想を彼は真っ直ぐに追い求めた。それを南伊豆という地で、「いときち」として形にしたのだ。/その彼の核にあるものがひもであり、麻だった。

吃音と生きる 5 ――就職活動という大きな壁

新潮45 2016年7月号

メガネの奥の眼差しを優しく崩して話す吉永を見ながら、私は思った。きっと彼は生徒たちにとってかけがえのない存在なのではないかと。自身の苦悩を正面から見せる吉永にだからこそ本音を言える。そんな生徒が必ずいるような気がするのだ。/八木が中高時代に必要としていたのも、吉永のような教員だったのかもしれない。/「先生は話す仕事だから、吃音があると難しいのではと思っていました。でも先生だからこそ、障害などを抱えた人がなることに意味があるのだとも感じます」/八木は吉永にそう言った。八木もまた、教員になるとすれば、彼だからこそ果たせる役割があるに違いない。「吃音があってもできる」のではなく、「吃音があるからこそできる」ことがきっとある。私はこのとき、そう確信した。
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ここがぼくらのホームタウン 第1回 島とヒップホップとチョコレート

考える人 2016年春号(新連載第1回)

それぞれに異なる思いがあるし、生き方がある。移住という選択によって出会った彼らは、いつかまた別々の道を進むときが来ることも知っている。そしてお互いにそう認め合えるからこそ、いまこの瞬間をともに全力で楽しもうと思えるのだろう。中村は言う。/「自分の原動力は、自分も必ずいつか死ぬということへの怖さなのかもしれません。死ぬまでに会える人は世界のほんの一部でしかないし、経験できることも限られている。危ない道を選んだら死ぬかもしれない。けれど、じっとしててもいずれ死ぬ。それだったら、できるだけいろんなことをしたいし、いまこのときに本当にしたいことをして生きていきたいと思うんです」

ニュートリノ研究を支えた日本企業の光センサー

Newton 物理学をゆるがすニュートリノ  別冊(2016年1月発売)
(ニュートリノ研究の根幹をなす光電子増倍管を開発した浜松ホトニクス株式会社を取材した記事)

「超新星爆発のことは新聞で見て知ってはいたのですが,当時私は,それならばニュートリノが放出されてカミオカンデで検出されているかもしれない,といったことは考えてもいませんでした。ところが,ちょうどそのころに東大に電話したら,みなさんどうも落ち着かないようすだったのです。いつも電話に出てくれる先生方も電話に出てくれなくて『何かおきたのかな』と感じました。それから間もなく,東京大学で重大な発表があるらしいという噂が入ってきて,それがニュートリノ検出の発表だったのです」。/この成果によって,小柴教授は2002年にノーベル賞を受賞した。開発や製造にかかわった浜松ホトニクスの社員たちも,自社の光電子増倍管がその性能を存分に発揮したゆえの偉業に歓喜したのだった。

宇宙に染み出す地球の暮らし

考える人 2015年秋号(特集「宇宙 空のかなたに何がある?」内の評論)

誕生日がアポロ11号による月面着陸の日と同じだと、私は幼い頃から聞かされていた。おそらくそれがきっかけで月や夜空が身近になり、大学では航空宇宙工学を専攻し、宇宙飛行士という道も考えるようになった。結局その夢は果たされなかったが、いまなおアポロ計画のことを考えると気持ちがとても昂揚する。

伝えることへの不安は、伝える喜びになる

PHPスペシャル 2015年10月号

ミーガン・ワシントンにとっての歌うことの喜びを、私は、自分のそんな経験に重ねて想像します。彼女は講演の中で言いました。/「私にとって、歌う時だけが唯一、流暢に話せると、感じられ、言いたいことを、そのまま、言葉にできる、瞬間です。歌は私に、大切な安らぎを、与えてくれるものなのです」/普段うまく伝えられないからこそ、歌で伝えることの喜びは彼女にとって本当に大きなものなのでしょう。そして、その思いが詰まっているからこそ、彼女の歌は人の心を動かすことができるのではないかと思うのです。
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吃音と生きる 4 ――新人看護師はなぜ死んだか

新潮45 2015年9月号

姉はワークショップの壇上に立ち、吃音のあった弟が死に至る経緯について話をした。もともと警察官を目指していたものの、何度受けても面接でうまく言葉を発せないことから落ち続け、看護師を目指すようになった。そして看護学校に入り、三四歳でようやく看護師として初めて正規の仕事に就いたのに、そのわずか四カ月後に自ら人生に幕を下ろしてしまったのです、と。/その言葉には、大きな悲しみだけでなく、飯島が勤務していた病院への強い怒りが込められていた。/「弟が自死するまでに至ったのは、病院での新人教育が原因だったのではないかと私たち家族は考えています」/彼は、緊張する場面で吃音が強く 出た。指導者はそれを知りながら、同僚たちがいる目の前で話す練習をさせたり、患者の前で怒鳴ったりした。そうやってどもる弟に特にきつく当たり、彼を追い詰めていったようなのだ、と。/「吃音を含めた人間性を、弟は否定され続けたのです」/声を詰まらせながら懸命に訴える彼女の言葉に私は心を動かされた。詳しく知りたい、知らなければならない。そう思った。いったい何があったのか。なぜ飯島は亡くならなければならなかったのか。
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書評「ネアンデルタール人は私たちと交配した」(スヴァンテ・ペーポ著)

共同通信配信記事(2015年8月頃) 掲載紙 京都新聞、岩手日報など

ネアンデルタール人とは、3万年前に絶滅したとされる古代の人類である。私たち現生人類(ホモ・サピエンス)は彼らと共存していた時期があるが、そのとき両者の間に交配があったかどうかはこれまで分からないままだった。その謎を解いたのが、この本の著者である。/彼は、ネアンデルタール人のゲノム(全遺伝情報)を解明し、アフリカ以外の現生人類すべてにネアンデルタール人の遺伝子が残っていることを証明し、交配があったことを明らかにした。その発見は、人間が現在に至るまでの道筋を知る上でこの上なく重要なものとなった。
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吃音と生きる 3 ――就労を阻む高い壁

新潮45 2015年8月号

「結局、数カ月で、辞めさせられました。うちの診療スタイルと、合わないとか、先生は小児の診療の、方が向いているから、とか言われましたが、話し方で、辞めさせられたのは、明らかでした」/時々少しだけ言葉を詰まらせながら竹内はそう言った。そして、ふとメガネを外すと目をこすった。「なんで涙が出てくるんだろう」。照れ笑いを浮かべ、一呼吸を置いてから話を続けた。/自信を失った竹内は、辞めさせられたことを親にも言えず、しばらくは医院に通っているふりをしながら、パン工場でアルバイトをした。なんておれはダメな人間なんだ。劣等感に苛まれ、自分の今後に絶望したが、ベルトコンベアの前で黙々と食材に向き合う仕事は、何も話さなくていいという一点によって彼に安らぎを与えてくれた。
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真筆発見! 長谷川等伯の水墨画

芸術新潮 2015年7月号

「見てすぐに、《松林図》に使われたのと同じ墨だと直感しました。いまも美しいツヤが残り、近くで見ると濃い部分が立体的に盛り上がっているのがわかります。劣化が少ないことからも、”墨の黄金期”とされる明の時代の中国で作られた最高級の油煙墨だと考えられます。それが京都の軟らかい水で溶かれると、接着力は強いまま粘度が低くなり良くのびる。水墨画に最高に適した状態になります。等伯は、そうした墨の性質を知り尽くしていたのでしょう。だからこそ、その墨の力を最大限に生かして濃淡を自在に使い分けるこのような作品が描けるのであり、さらに、作品自体もこうして400年残るのです」(京都造形芸術大学・青木芳昭教授、本文より)

カウチサーフィンが開く出会いの扉

考える人 2015年春号(コラム「考える春」)

イスタンブールで泊めてくれたセルジャンという男性は、毎日複数の旅人を泊めながら、高価なものなどもすべてそのまま家の中に置いていた。その様子に思わず、大丈夫なのかと尋ねると、彼はこんなことを言った。/「多少モノがなくなることは確かにある。でも、それは稀だよ。もしそういうわずかな盗難も防ごうとしたら、鍵を閉めて誰も泊めないという方法を選ぶしかなくなる。しかしそうやって警戒ばかりしていたら、素晴らしい出会いをも失うことになるだろう? 一%のリスクを防ぐために九九%のいい出会いをあきらめるなんてもったいないじゃないか」/私はいまの日本社会の、時に極端なほどあらゆるリスクを警戒し排除しようとする風潮に違和感を覚える。もちろん深刻なものには十分に気をつける必要がある。ただ、多少のリスクについてはある程度寛容になり、人と人が、まずは信頼し合おうと思える社会の方がきっと誰にとっても心地よいのではないだろうか。そして互いに心を開き合うことは、結果として重大なリスクを減らすことにもつながるように私は思う。
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「Webでも考える人」でも読めます

遊牧夫婦が世界で出会った家族の物語

考える人 2015年冬号(特集「家族ってなんだ?」内のエッセイ)

家族の数だけ物語の数がある。そのあり様は世界各地で異なるが、本質は何も変わらない。長い旅をする中で、私はそう感じるようになっていった。/好き嫌いでは離れ得ない関係、それが家族ではないかと思う。物理的に離れたとしても心理的には決して離れられない。だからこそ、家族にはさまざまな物語が生まれるし、シンプルには割り切れない気持ちを共有することになる。そして、好悪の感情だけでは説明できない物語をともに作り上げる関係だからこそ、何かあったとしても、いつかまたどこかで人生が交錯する可能性が生まれるのだ。それがきっと家族の難しさであると同時に、かけがえのなさであると私は思う。
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本と私 沢木耕太郎「敗れざる者たち」

共同通信配信記事(2014年11月~12月頃) 掲載紙 京都新聞、神戸新聞、宮崎日日新聞、中国新聞、山梨日日新聞、大阪日日新聞、日本海新聞、高知新聞、岐阜新聞、新潟日報、福井新聞、東奥日報、河北新報、千葉日報、福島民報、山陽新聞、佐賀新聞など

大学院を修了した翌年、私は5年以上に及ぶ長い旅に出た。当時、ライターとしての経験はゼロに等しかった自分にとって、それは「修業期間」でもあった。世界を旅しながら各地で取材・執筆し、数年のうちに書き手として自立できないだろうか。そう考えたのだ。/指導を仰ぐ人もいない異国でひとり修業する中、「教科書」となってくれたのが沢木耕太郎さんの本だった。私は大きなバックパックの中に彼の本4、5冊を詰めて日本を出た。その中の1冊、「敗れざる者たち」(文春文庫)こそ、自分がルポルタージュを書きたいと強烈に思うきっかけを与えてくれた本だった。
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吃音と生きる 2 ――「治す」ために何ができるか

新潮45 2014年7月号

「彼とはそれきりでした。そして去年の年末、突然奥さんから電話があったんです。『主人が亡くなりました』って……。吃音から鬱病になって、とのことでした。彼とは、夜遅くに病院の時間が終わった後に訓練をしたりと、いろんな思い出がありました。『電話で、言えなかったことが言えて、受話器を置いた瞬間に涙が出てきた』って手紙をくれたこともありました……。彼が望んでいたのはきっと、”普通に”話し、”普通に”名前が言えること、ただそれだけなんです。そんな極々ささやかな望みをかなえるために、一緒になってもがくことがぼくの仕事だと思っています」
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海外・出会い紀行(紀行文連載)

KIX-ITM MAGAZINE(関西国際空港発行の隔月刊フリーマガジン) 2014年6月発行号~2015年4月発行号

満たされた気持ちでフランクフルトに戻ってくると、旅も本当に終盤となった。その最後の2日間を、ドイツ人と結婚した中学時代の友人の家に泊めてもらえる幸運を得た。/彼らの生活の中に少しだけ身を置かせてもらいつつ、短いけれど濃密だったこの旅を振り返った。そして思った。出会った人たちがみな楽しそうにみえたのは、きっとみな時間の流れを大切にしているからなのではないか、と。この一瞬一瞬の貴重さと、積み上げてきた歴史の重みを、人々が無意識であれ知っているからではないだろうかと。/出発の朝、目を潤ませた友人を見て、ぼくも目頭が熱くなった。この旅が終わることを惜しく思った。けれど同時に、終わりがあるからこそこの日々が貴重なのだと思い直した。(ドイツ編より)
ここからすべての号を読むことができます。2014年の6回が自分の担当分です

吃音と生きる ――百万人の知られざる苦悩

新潮45 2014年2月号

「私は、高校を、中退したあと、一七歳のとき、自殺、未遂を、したことが……あり、ます。ビルの、八、階から、飛び降り、たんです。でも、下に、草の茂みが、あって……。死ね、な、なかったんです。こないだ、北海道で、吃音を苦に、自殺、した、という人の、ニュースが、あり、ました。その人や、自分以、外にも、すれすれ、の人は、多い、はずです。仕事に、就け、ない、人などに、対して、打、開策が、ないん、です。そうした、人たちに、対して、早く、なんとか、しないと、と思って、います。自分も、妻と、子、どもが、いな、ければ、いま、ここには、いないと、思います」
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旅が与える生きる実感

読売新聞 2013年9月17日

誰にも先のことはわからない。想像以上の難局にも直面しうる。しかしそれは、生き方も可能性も無限にあるということの裏返しでもあるのだ。そう思えればこそ、どう生きるかを自ら考え行動しようという意思が生まれるのではないか。
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この本と出会った 「宇宙からの帰還」立花隆著

産経新聞 2013年9月15日

1年浪人して大学に合格したとき、まずこう思った。「これでもう国語の勉強をしなくていいし、本も読まなくていいんだ」/私はそれほど本が嫌いだった。高校時代までに読んだ本は累計でも10冊に満たない。物理学を志す自分には本はいらないと思っていた。/ただ大学では、興味ある分野の本だけは読もうと考えた。そして薦められて手に取ったのが『宇宙からの帰還』だった。
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ウェブ版

妙心寺退蔵院の襖絵プロジェクトを支える職人たち

芸術新潮 2013年5月号

「内側でいい加減な仕事をしても外からすぐにはわかりません。それがわかるのは、たとえば100年ぐらい後に修復するときだけなのです。でもそのときに、平成の職人がちゃんとした仕事をしていたことを示したい。そんな気持ちでやっています」
———
絵師としての村林の仕事は、そんな職人たちの熱い思いと丹念な仕事に新たな命を吹き込むことなのだとも言える。「絵を描きながら、職人さんたちの顔が思い浮かび、言葉が思い出されたりもします。それが本当に私にとって大きな力になっています」。彼女が襖の上に描く1本の線には、それだけの人の仕事と思いが詰まっている。
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若き絵師・村林由貴の挑戦

PHPスペシャル 2013年3月号

自分なら、いますぐに逃げ出したくなるかもしれない。そうも思う。しかし彼女は、ときに苦悩しながらも、すべてを襖絵の仕事に捧げ、全身全霊で一枚一枚を描いていた。「作家生命を賭ける」。そう言った。それは言葉だけではなく、まさに彼女の筆を握る姿に如実に表れていた。ただそれでも、彼女がいつも、いろいろな気持ちの揺れを抱えていることは確かだった。/(中略)/その話をしているうちに、いつもの彼女のにこやかな表情は少しずつ変わっていった。ふと、張り詰めた糸が切れたように、目に涙がたまっていく。「すみません……」。そう言って、涙を溢れさせた。若き一人の女性の揺れ動く気持ちがにじみ出ていた。
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私たちのターニングポイント

PHPスペシャル 2013年2月号

仕事が終わったあとに通うダンスの時間が理恵にとって素晴らしく魅力的だったのは、ただ踊ることが楽しいからだけではなかった。そこでいろんな人と出会えることがうれしかったのだ。会社にいるのは同じような人たちばかりだけれど、ここには全く違う種類の人たちが集まっている。プロのダンサーを目指す人、フリーター、子育ての手が離れた女性……。/いろんな生き方があるんだ。理恵は改めてそう気づかされた。自分がこれまで当たり前に思ってきた生き方にはいまも違和感はない。ただ、決してそれだけが選択肢ではない。その実感が強くなったとき、理恵は、ふと思うこともあった。また別の生き方もあるのかもしれないな、と――。一つのターニングポイントが、彼女に訪れようとしていた。
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よみがえる「お抱え絵師」 京都・妙心寺「退蔵院方丈襖絵プロジェクト」

新潮45 2012年10月号

薄暗い部屋の中で、老師はまるで背中に虎がついているかのような迫力で座っている。目は開いているか閉じているのか分からない。その姿に緊張し、一歩引いてしまいそうになりながらも、彼女は懸命に言葉を継いだ。/「絶対に負けるかと思い、一日一日やっています。自分との戦いです。絶対に描き切ります。そう思って、痛みに耐えています」/思いが溢れ、涙と鼻水で顔がぐしょぐしょになった。老師は温かな言葉で彼女に応えた。/「人生初めての大舞台だろう。こんなチャンスはめったにないんだ。絵は何百年と残る。自分の分身だ。禅の香りがしてくる絵を描きなさい。そのためにもいま、頑張って坐らないといけないよ」/村林は、涙が止まらなくなった。
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世界から見た黒門市場・道具屋筋の旅。

Meet Regional 2012年7月号(2012年6月)

寝静まる前の黒門市場の、最後の息遣いがこの店にあった。人々が、今日と明日について語り合うのを見守りながら、市場はこの日を終えるのだ。ぼくとM氏も雑誌について大いに語り、話は尽きずに盛り上がる。そしてしばらくすると、隣の大学生が僕らの話に入ってきた。/「雑誌に興味があるんです。編集の仕事をやりたくて」/人々の生活を包み込むようなこの市場が、いくつもの縁をつないでくれる。そして自分もきっと、黒門市場にも道具屋筋にも、縁がつながったような気がした。また来るだろうな。そう思わせてくれる何かがあった。/灯りが消えた黒門市場の風景は、『夫婦善哉』の二人が暮らした戦前の世界を思い浮かばせる。「おーい」と声をかけたら、どこかの二階が開くかもしれない。そこから、ふと柳吉と蝶子が顔を突き出す。そんな想像を巡らした。

「四季つれづれ」(エッセイ連載)

朝日新聞京都版 2012年5月~7月(計5回)

しかし、30歳を過ぎたころから、そんな日々もいつかは終わる、ということを実感するようになった。いずれこの旅も終わるのだ、と。/ただ、それは決して悲観的な実感ではなかった。時間が有限だからこそむしろ、この一瞬一瞬を大切に思い感動できることに気づいたからだ。旅も人生も、終わりがあるからこそ、いまこの瞬間が輝くのだ。/そして、旅を終えて京都に住み出してからはこうも感じるようになった。自分たちが永遠には生きられないからこそ、人は歴史ある土地にひかれるのだろう、と。
(最終回より)

湖上の聖域・竹生島、風景のなかの物語を見つめる。 写真家・津田直×ルポライター・近藤雄生

おとなのぶら旅 [関西版]<Lmaga Mook> (2012年4月)

「ようやく着いた、竹生島ってここだったのかっていう感じがするなあ……。一番ここが、湖といい関係にある場所に思えます。たとえれば、さっきまでヘビの体の中を歩いていたのが、その口からいま、しゅーっと抜け出たような感覚というか。船の、へさきにいる感じがしませんか。まるでこの島が湖の中を進んでいってるみたいな錯覚が」/ぼくは大きく頷いた。竹生島がまさに命を吹き込まれ、この湖の主として、音を立てて動き出すかのような錯覚がした。いや、津田の視点を共有することで、実際に、ぼくの中でこの島の存在は動き始めていた。
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歌い続ける本当の理由 若旦那(ミュージシャン)

G2 Vol.09 (2012年1月)

「ワカダンナ――!!」 会場がドカンと盛り上がった瞬間に、若旦那は、一気にステージへと駆け上がる。彼がステージに姿を現すと、客席はさらに大きな絶叫でホールを揺らす。地響きがした。全身に鳥肌が立った。ステージを見ると、そこには、1万人を一瞬で沸かすことができる一人の大物歌手の姿があった――。/ぼくはこの若旦那という男と、幼少期をともに過ごすという幸運を得た。彼が、ただの不良ではない鮮烈なカリスマ性を備えはじめたその時代を知るからこそ聞ける言葉があるのかもしれない。そんな希望を抱きながら、彼の姿を追うようになった。
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私の京都新聞評

京都新聞 (2011年6月~11月、各月第2日曜日、全6回)、以下は最終回、11月13日掲載分

「信念と覚悟 感じる記事を」
この欄の連載も今回で最後となった。半年間、京都新聞をいつも以上に精読する中で、社説のバランス感覚や各連載の中にある温かみを感じてきた。今回は最後に、今後への願いを込めて、こうしてほしいと思うところを書きたい。(中略)記者一人一人が持つそういった信念や怒りこそが新聞の命である気がするし、それがしっかりと紙面を埋めてほしいと願う。京都新聞の静かに輝く良識がより熱く感じられる紙面作りに期待したい。/偉そうなことを書き並べ誠に恐縮だが、この欄で書く意義、そして同じ書き手としての自戒も込めて、あえて率直に書かせていただいた。半年間、どうもありがとうございました。
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―野菜と農業のいま― (特集・地球のことなど。第5回)

エネファームライフ Vol.5  (2011年夏) <燃料電池「エネファーム」の季刊PR誌。巻頭特集「地球のことなど。」を連載中。これまで扱ったテーマは、空気、水、海、森林、農業、ゴミ、異常気象、エネルギー問題(2012年3月現在)>

伊賀での取材2日目、朝から畑に行って、スナップエンドウを支えるネットの設置を筆者も手伝わせてもらった。ひたすら棒とネットを一つずつ結んでいく作業。それを山口さんと奥さんの万理子さんと、3人で黙々と続ける。土の感触や草木のにおいが全身を通して伝わってくる。使い慣れない筋肉を動かしていることがよくわかる。野菜はこうしてできているんだということを少しだけでも感じることができた。また生産者の顔、姿が見えた。/野菜を食べるとき、お米を食べるとき、そこに生産者の顔を思い浮かべられるかどうかが大切だと思った。決して農作物があることは当たり前ではない。その背後にはいつも、それを作る人々がいる。
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アルプスの麓に生きるチベット人

週刊金曜日 第745号(2009年4月3日)

スイス中部のトゥーンという町で、若いチベット人女性・ドルマ(仮名)に会った。一八歳だという彼女は、ときにそれより上にも、また若くも見えた。彼女がスイスに来たのは二〇〇六年のことだという。「スイスでの生活は本当に夢のようです。山もあってチベットに似てるし、それに自由だし……」 ――中略―― 明るい笑顔の奥にアジアへの強い望郷の思いを覗かせ、別れ際に、「いつまたスイスに戻ってきてくれる?」と寂しげな照れ笑いを見せた姿に、彼女には帰る国がないのだという事実を突きつけられた気がした。
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この人たちの通勤・通学・練習路。

キョースマ! 09年春号

●下立売通を歩いていくと、目の前には東山が見える。きっと紫式部もその山を見ながら、「さて、今度は誰を光源氏の餌食にしようか」などと考えていたのかもしれない。(紫式部)
●野口から杉山さんに宛てたはがきを拝見すると「そっと走らせていただいて」と、商店街の人々への感謝の言葉が記されていた。彼女のおかげで三条会は大いに盛り上がったと杉山さんは感謝するが、逆に礼を言われ、杉山さんは野口と監督の人柄に打たれたという。(野口みずき)
●「佐藤君たちとはよくキエフの後で[リラ亭]や[楽](共に閉店)といったこの界隈の店に飲みに行きました」と言って、佐藤が好んだロシアのウォトカ「スタルカ」を見せてくれた。(佐藤優)
●「本人を直接は知らへんけど、(彼亡き後の)家に猫が沢山いたのを覚えてます。60過ぎの私でもそのくらいやから、面識ある人はまずいないやろうね」/西田邸のあった路地から京大までのルートを尋ねると、「そこの鞠小路を下がって今出川まで出て、左折すればもう百万遍やからね」(西田幾多郎)
●彼が週に何度か行くという某名曲喫茶が、出町柳駅の近くにある。この店で彼がどう過ごすのか、話を伺おうとすると「お客さんのことを勝手に話すことはできません」。確かにそれももっともな話ではある。益川は落ち着けるひとときを求めてここに来るのだろう。それを理解した店長がいるからこそ、彼はここに通い続けているのかもしれないのだ。(益川敏英)
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ヒマラヤから、アルプスへ

中央公論 2009年2月号

スイスには亡命チベット人が多く暮らす。その数、インド、米国などに次ぎ三〇〇〇人ほど。五〇年前ダライ・ラマと中国を脱出した者から十代の若者まで、世代や背景はさまざまだ。難民資格なしで潜りこんだものも少なくない。チベット料理店を営む男が言う。「スイスの山に、故郷が重なるんだ」。だが、故郷には帰れない。亡命政府から派遣され三〇年以上スイスで暮らす男は、チベットに残る同胞の苦境に、涙した。十八歳の少女は、アジアへの思いを笑顔の裏に覗かせた。青年は、チベットへ帰る日を夢見た。目の前のアルプスは美しい。しかし、ヒマラヤは遠い。
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中国 異教徒たちの風景

週刊金曜日 第721号(2008年10月3日)

中国では、憲法で宗教信仰の自由が保証され、仏教も、道教も、キリスト教も、イスラム教も存在し、活動を認められている。なんらかの宗教を信仰する人は一億人いるといわれている。ここに挙げた三者はそのほんの一例に過ぎない。/ただ中国で認められているその自由には、政府の指導・監督に従うという制約がつく。従わない宗教は邪教として、弾圧の対象となる。――中略――もはやチベット問題もウイグル問題も、その地域だけの論争点ではなくなった。チベットを語ることはその人自身の政治的スタンスを物語るといっても過言ではないほどに、個々人の持つ背景によって善悪が見事に逆転する。
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チャドルの内側にある自由

週刊金曜日 第709号(2008年7月4日)

イラン北東部の聖地マシュハドで、一緒に旅を続けている妻が、神聖なエマーム・レザー廟に入るためにチャドルを買いに行くと、布屋の中で私たち の姿を興味深く眺めていた数人のチャドル姿の女性たちが妻に着方を手ほどきしてくれた。そのうちの一人が「ほら、こうやって着るのよ」と、笑顔で自らの チャドルをさっと開いてみせてくれたことに驚いた。決してその中など見ることはできないと思っていたチャドルの内側は”普通”の洋服だった。――中略―― 「ぼくら若い世代は、ほとんど誰もイスラム教なんて気にしてないですよ。酒だって飲むし、パーティだってやる。イランは街なかにそういうものがないだけ で、家の中にはなんでもあります。日本やアメリカと同じなんですよ。礼拝なんて、九〇%の人はやってないんじゃないかな」/テヘランのメガネ店の二七歳の 男性が当たり前のようにそう話した。イラン人は誰もが日の出前からアッラーの神に礼拝しているのだろうと考えていた自分にとって、それはショッキングな言 葉でもあった。ただその一方で、そう聞いてやっと、「女性は髪の毛を隠さなくてはならない」という法律をほとんど気にしないかのように、スカーフを大きく 後ろにずらし髪を露にして颯爽と歩くテヘランの若い女性たちの姿に納得がいった。イランが採用するイスラム法の下では女性が外では着られるはずもないノースリーブのドレスが街で売られていることも頷けた。
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中国に息づくイスラム教

中央公論 2008年6月号

「シルクロード」が賑わった時代に、陸や海を通じて、中国にもイスラム教が伝わり、人々の生活習慣を変えていった。そして中華人民共和国の時代に入って、イスラム教を信仰する人々として「回族」という少数民族が認定された。/いまでは中国全土に広く分布し、漢族と姿形に大差はないが、男性の被る白い帽子がひときわ印象に残る。その白で周囲が埋め尽くされると、一瞬そこが中国であることを忘れかけたが、その多様性こそがまさに中国なのだと思い直した。
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存在するものすべてにニセモノがある

週刊金曜日 第673号(2007年10月5日)

安そうな服やカバンが並ぶ店の裏に、やはりソウコがあった。売り子が密かに私を導いた先は、一見普通の店の中だが、カバンが並べられた棚の一つがまるで忍者屋敷のようにくるりと回転し、奥の部屋へと続く扉となっていた。そしてその中には、店頭にはない数々のニセブランドのバッグや時計が並んでいた。/「襄陽の時代ほどじゃないけど、商売はまあまあだな。取り締まりも、前より厳しくなったけど、おれたちは捕まらないようになってるんだ。いま警察が入ってきたら困るのはあんたの方だよ」/と、オーナー風の上海出身の中年男が冗談っぽく笑った。――中略――「ここでの商売とは別に、銃やコカインなどを仕入れて売ってるよ。危険だけど金はいい。ニセモノを売るだけでもまあまあ稼げるけど、おれには夢があるんだ。自分の店を持ちたいし、いい車にも乗りたい。山東にいる家族にも金を送ってる。兄貴の大学の学費も高いしな。もちろん、家族にはおれが危ない仕事をしてるなんてことは言ってない」
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中国と北朝鮮の国境に架かる橋 (連載「国境を往く」第一回)

LINK CLUB NEWSLETTER  Vol.142 (Mar. 2007)
(『国境を往く』 連載期間:2007年3月より隔月程度で、2009年秋まで)

橋の上は静かで、風の音しか聞こえなかった。/北朝鮮の緑の大地と、両国が共有する青い空を正面に見て直進する。「いきなり撃たれるんじゃないか」といった偏見に満ちた不安をよぎらせながら、落ち着かない気持ちで歩いた。たった数百メートル、5分ほどの距離が、随分と長かった。――中略――周囲には緑あざやかな畑と丘が広がるだけ。正面の入国審査の建物に入って行く。建物の薄汚れたガラスの向こうに、金正日と金日成が描かれた真っ赤な絵が見えたとき、ここは北朝鮮なんだということを実感した。
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寝技を操る日本人選手の夢 ―中国でも総合格闘技!―

読売ウィークリー 2007年2月11日

試合開始から間もなく2分。武田が腕十字を決めると、相手の廬学斌(ルー・シュエビン)はロープ際で苦しげにタップした。降参の合図だ。試合はそこで終わったはずであり、武田は跳び上がって喜んだ。が、レフェリーは試合続行を告げた――。「ウェイシェンマ!?(どうして!?)」と、両手を開いてレフェリーに叫ぶ武田の声が、場内に響いた。/抗議は容れられなかった。その余波がまだ残るなか、中国の打撃格闘技「散打(サンダ)」の名手である廬の強烈な右ローキックが武田を襲った。バランスを崩した武田の顔面に、さらに左フックが打ち込まれると、武田は一気にマットに倒された。
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悠久の時を生き、一瞬の死闘に賭ける

望星 2006年5月

「一番幸せなときは、獲物が捕れるとき。一番辛いときは、獲物が捕れないときだ」/そう言ったのは、すでに六十九歳でありながら現役でクジラを捕り続けるゴリス・タポンという男だった。彼は「ラマファ」と呼ばれる銛撃ちとしてその当時もまだ船に乗っていた。これ以上ないほど明快な彼のその言葉が、まさにこの村の男たちの強靭で一途な生き様を表しているように思えた。/そんなラマレラに着いてから六日目のこと。ぼくは彼らの「至福の瞬間」を見るために、浅黒い肌の寡黙な男たちとともに小船に乗った。――中略――その二頭のイルカからふと目を離したとき、ぼくは思わず息をのんだ。強い太陽の光の下にどこまでも続く深い濃紺色の海水の上は、一〇〇頭以上はいようかというイルカで埋め尽くされていたのだ。 pdf をダウンロード

※ラマレラの伝統捕鯨のすごい写真がここに(dailymail.co.ukの記事)

フォト・ルポ 上海 近未来ビルの直下で物乞いして生きる人々

読売ウィークリー 2006年4月30日

――5人ほどの物乞いが、地下鉄の駅から地上に上がってきた。その中の一人、左足が不自由で背中が大きくもり上がった中年の男に話しかけた。豊かな髭と彫りの深い顔が印象的だ。/足と背中は、幼いころに病気でそうなった。物乞いをして1日に稼げるのは7~8元だが、それでも現金が手に入り、物がなんでもある上海での生活は、江蘇省の農村での日々よりはマシだという。ただ、寂しい。/「自分のような人間と交流してくれる人なんているわけない」/そう言って苦笑した。いつか路上で小物を売るのを仕事にしたいという彼は、笑顔が多く、何を聞いても丁寧に答えてくれたが、名前だけは決して口にしようとはしなかった。
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「ラペ」と呼ばれた日本人 ある残留兵の戦後

世界 2005年9月号

そんなラペとの結婚生活は、ギィアンにとって必ずしも幸せといえたかはわからない。しかしそれでも、彼女は偶然から人生をともにすることになった彼を愛していた。いや、愛することに決めただけなのかもしれないが、五人の子どもを授かり、ラペが死ぬまで一緒に過ごしてきたことはたしかだった。/ポーパが思い出せる祖父の姿は、そのような当たり前の一人の人間としての姿でしかない。祖父の過去について、それまで断片的には聞いたことはあったものの、ギィアンの言葉を通訳しながら、ポーパ自身が、驚き、笑い、聴き入っていることが何度もあった。/そんなポーパの様子を見ながら、ラペは日本兵である前に、一人の祖父であり、父であり、夫であったのだという当たり前のことを私は感じていた。
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罪と、時代と ―「生体解剖」の軍医として生きた男の「いま」を追う―

望星 2004年1月号(上) 2004年2月号(下)

湯浅はその小柄なほうの男を解剖する班の一人として、初めての生体解剖を体験した。解剖の始まる前《軍医たちは皆、談笑していた。男たちが可哀そうだとか、生きた人間を切り刻むなんて恐ろしいことだとか、そんなことを考えたり悩んだりしているような人間は誰もいないいよう》だった。――中略――男の体は切り刻まれ、喉からは泡沫を含んだ真っ赤な血液がヒューヒューという呼吸音とともに噴き出した――。/息も絶え絶えになったその男に、最後に絶命のために心臓に五、六回ほど空気を注入する。だがそれでも呼吸を止めないので、首を絞め、さらにその中国人の腰紐で湯浅はもう一人とともに両方から引っ張り合って首を絞めた。それでも男は呼吸をやめなかったため、最後にクロベルエチールを静脈に打つと、二、三cc入ったところで、男は数回咳き込んでから呼吸を止めた。
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なんとか治したい 吃音矯正所にすがる人々

週刊金曜日 第469号(2003年7月25日)

問題は事実なんかじゃない。信じたいという気持ちを壊すようなことはやめてくれませんか・・・。そんな思いが「神様みたいな存在」という言葉からにじみ出ている気がした。/事実がどうであれ、信じることで何かが変わるかもしれない。そう思う局面は誰にでもある。関西―東京という距離を越えて、四二万円をかけて中央興人院に通った彼女からは、そんな切実は気持ちが感じられた。――中略――矯正方法の良し悪しや事実関係は、もはやそのとき問題ではないのかもしれない。根拠などはどうでもいい、ただ”どもり”は治るんだと信じさせてほしい、そんな潜在的な思いが、もしかしたらここに通う多くの人たちにはあるのではないか・・・。
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その他、多数。これから少しずつアップしていく予定です