書けるようになるために、『檀』を読む

先月、沢木耕太郎『檀』を読みました。通して読んだのはすでに4度目か5度目かもしれません。断片的にであれば、または好きな章とかだけであれば、ここ20年以上の間に何十回と読んでいる気がします。記録を見たら、去年もちょうど同じ春のこの時期に僕は『檀』を読んでいました。なぜこの同じ時期だったのか、また、その時はなぜ読もうと思ったのかは全く覚えていないのですが、今回は明らかに、文章が書けなくなっていることが原因でした。『檀』を読んで、再び書けるようになりたいなと思って読んだのでした。

書けなくなっている、といっても、僕は今も収入の9割くらいは文章を書くことで得ているので、毎日だいぶ書いています。特にこの2月、3月は、これまでにないくらい仕事が重なり、ひたすら書くことに追われていました。ただ、そうして書いている文章は、いまはほとんどが企業や大学に依頼されての仕事です。研究者などにインタビューして、研究やその周辺のこと、あるいはその企業の取り組みなどについて書くことがほとんどです。

で、そうした文章については、これまで以上に効率的に、そして技術的にも先方の期待を裏切らないものを書けるようになっている実感はあります。しかしその一方で、そのような文章を書けば書くほど、自分にとってよりクリエイティブと言えるような、枠組みの決まっていない表現としての文章が書けなくなってくるような気がする時があります。

ちなみにいま書いているこの文章も、思いつくままに書いているという意味では、最近書けない類の文章です。でもさっき『「書くこと」の哲学』(佐々木敦)という本を大学で買って、少し読んだら久々に書けそうな気持ちになったのでいま一気に書いています。まだ30ページくらいしか読んでませんが、この本、帯に【読み終えると、なぜか「書ける自分」に変わっている!】とありますが、本当かもしれません。

話を戻して、そのように「ああ、依頼仕事以外の自由な文章が書けないなあ」と思う時、何かを読むと急に書きたいと思って筆が進むようになることがあるのですが、僕にとってそういう時に手に取りたくなる本の代表的な一冊が『檀』なのです。

この本は、作家、檀一雄の妻である檀ヨソ子さんの独白のような形式で書かれた作品です。むろん書いたのは沢木耕太郎さんですが、沢木さんがヨソ子さんに週に一度、一年間ほどにもわたって繰り返し話を聞いて、あたかもヨソ子さん本人の手記のような形で書かれています。

檀一雄は、自身の愛人との日々を書いた『火宅の人』が代表作とされる作家です。その作品は当然のことながら妻にとっては心地よい作品ではないはずで、それが夫の代表作であるということは嬉しいことではないだろうと想像できます。しかしヨソ子さんは、『火宅の人』が長年にわたって書かれ続けるのを、しかもその一部の文章は、愛人との生活がリアルタイムに進行中で雑誌に掲載されていくという日々の中を、妻として生きていました。その時、ヨソ子さんは何を思い、どのように生きていたのか。その日々を沢木耕太郎が、檀一雄が死んで20年近い月日が経った後にヨソ子さんから直接聞いて書いたのがこの本です。

内容としては、とりわけ派手さはないというか、その当時の出来事がヨソ子さんの内面とともに淡々と描かれているような作品なのですが、僕はこの本が、「好きな本ベスト3」くらいに入るかもしれないほど好きです。理不尽でわがまま極まりない夫・檀一雄の身勝手さに苦しみながらもなんとか折り合いをつけて生きていくヨソ子さんの姿に心打たれる、みたいに書くと、そういう日本の家父長制的な空気を美化し肯定するように聞こえるかもしれませんが、全くそうではありません。むしろそういう、男が好き勝手やって女性が従うみたいな構図には僕はかなり嫌悪感があり、それ自体は「檀一雄、ひどすぎる、ありえないな」と読むたびに思います。しかしそれはそれとしても、自分自身がだんだんと年齢を重ね、いろいろ思うようにいかないまま人生が終盤に向かって進んでいることを実感するようになるほどに、そういう時代を生きるヨソ子さんが、内面に怒りや葛藤、苦しみを抱えながらも、それでも夫・檀一雄を受け入れ、思いを寄せ、最後までそばにいる姿になんとも心を揺さぶられるのです。

愛人との日々が終わり、ヨソ子さんとの関係も落ち着いてきた檀一雄が、旅先で体調を崩していると聞いて心配して、ポルトガルにまで一人訪れるシーンは、読むたびにぐっとくるものがあります。そして、そのヨソ子さんの様子そのものと同時に、そのシーンを目の前に思い浮かべさせてくれる文章の力に引き込まれ、その辺りを読むといつも、ああ、自分もこういうものが書きたいなと思わされます。

今回『檀』を読み返して、まだ書くべき文章は書けずにいます。でもなんとなく、今のこの時間は、何か大切なものを自分の中に培ってくれているようにも感じます。

とりあえず、いまこのブログの文章を一気に書くことができたことで、ちょっと嬉しい気持ちになっています。