門川未來さんのこと

最近、なかなかブログが書けないのですが、昨日のことは、自分の記憶にとどめたく、また少しでも読んでくれる人がいたらと思い、久々に書きたいという気持ちになりました。

昨日、大阪の住吉大社の近くに行き、ある方の葬儀に参列しました。門川未來(かどかわ みく)さんという方で、まだ22歳の若さでした。「ボーリングオピッツ症候群」というとても希少で重い先天性の障害があり、話したり、自力で動いたりなどが困難という大変な状態の中を生きてきた方でした。

重い障害を抱えながらも、彼は、小・中・高はすべて通常学級に通い、他の子たちと同じ教室で一緒に成長してきました。そしてその後は、放送大学の学生となって学び続けていたのですが、昨年、僕のスクーリング授業「旅することとと生きること」を受けてくれたのをきっかけに、僕は未來さんを知ることになりました。

授業は90分×4コマ×2日間という長時間のもので、両日、朝から夕方までぶっ通しです。集中して聞いてもらうのは誰にとってもなかなか大変だと思うのですが、未來さんは、最初から最後まで、隣の教室でお父さんと一緒に、画面を通して受講してくれたのでした。

確か、始まる前、途中、授業終了後という具合で、何度か未來さんの教室をのぞきに行ってお話をしました。言葉での直接のやり取りはできなかったものの、表情やお父さんの言葉を通して、気持ちが伝わってきました。未來さんにとって、長時間の授業を受けることは、ものすごく大変なことなのではないかと僕は想像していましたが、振り返って思えば、彼にとって授業を受ける時間はかけがえのない大切なものだったようにも思いました。一生懸命聞いてくれて、レポートも仕上げてくれました。そして僭越ながら、僕の授業をとても楽しんでくれたようで、また、「未來はこれまでになく集中して聞いていました」とお父さんが言ってくださって、僕自身すごく励まされ、かつ、彼の学ぶことに対する姿勢にとても背中を押されたのでした。

その後SNSでもつながって、時々様子を見たり、お父さんともやり取りさせてもらっていました。また、お父さんがものすごく献身的に未來さんをサポートされている様子を知って、そこにも心を打たれるものがありました。自分も当時、次女の学校に毎日のように付き添う日々だったこともあって、状況は全く違ってはいるものの、ひそかに励まされたりもしていました。

その未來さんが、2月16日の早朝に突然亡くなられたと、その日の午後、お父さんからのご連絡で知りました。その時まで未來さんの障害について詳しくは知らずで、SNSを見ている限り、すぐに命に係わるような障害とは全く想像していなかったので、あまりにも突然のことにとても驚かされました。しかしその後にいろいろと読んで、彼の障害が、ボーリングオピッツ症候群という日本でも数人しかいない、とても希少で未知のものであることを知りました。僕が勝手に想像していた以上に、本当に大変なことだったのだと思います。

未來さんに会ったのは、授業の時の、合わせてもほんの10分か15分ほどでしかありません。そのため、19日に友人たちで集まってのお葬式を行うとのことを知ったとき、自分がうかがうのも場違いなような気もしました。それでも、授業の時の印象や、その後のお父さんとのやり取りなどから、やはり最後にひとめ会えたらと思い、参列させていただくことにしました。

こんな再会になってしまうとは思ってない中で、未來さん、お父さんと再会し、お母さんとも初めてお会いすることになりました。検死の結果、「自然死」だったとのことで、お父さんが「未來は人生を全うしたんです」とおっしゃって、本当にそうだなあと思いました。いろいろと不便や困難がありながらも、未來さんは本当に自身の人生を走り切り、生き抜いたんだなあと感じました。ジャケットを着て、色彩豊かなきれいなネクタイをしめ、目をつぶっている未來さんの姿からは、大きな仕事を終えた心地よい達成感のようなものがにじみ出ているようでもありました。

お葬式には、小中高時代の同級生がたくさん集まっていて、その多くが、前日の通夜から連日の参列とのことでした。皆が未來さんととてもいい関係を築いてきたことが伝わってくる温かい雰囲気で、かつ、お父さんお母さんがとても明るく楽しい方であることもあって、たくさんの涙の中には笑いもあふれていました。僕自身、未來さんのことを実際にはほとんど何も知らないといっていい状況なのですが、若い同級生たちと一緒に過ごさせてもらう中で、未來さんが陽気で人を惹きつけるキャラクターであったこと、そして学校ではすごく楽しい日々を過ごしていたのだろうことがよく想像できたのでした。

最後にお父さんお母さんが、それぞれお言葉を話されるのを聞いて、未來さんは素敵なご両親のもとで幸せに生きてこられたんだろうなということも改めて感じました。不便なこと、困難なこと、思い通りにいかないことは本当に数えきれないほどあったとは思うけれど、でも、その日々の中でお父さんお母さんとともに、未來さんにしかできないことをきっとたくさんやってきて、多くの人にかけがえのないものを届け続けてきたのだろうことがとてもよく伝わってきました。

葬儀に来ていた同級生の皆さんにとっても、未來さんと同じ教室で過ごした日々は、きっといろんな形で今に生きているのだろうと想像できました。同級生の中には、未來さんと出会ったことをきっかけに障害に関する教育の道に進むことを決め、大学では未來さんをテーマに論文を書き、これからその道に進んでいこうという方がいる、というのも聞きました。

最後にお母さんが、「通常学級でみんなと一緒に学校生活を送り、みなと同じ仲間として一緒に成長してこれたことが未來にとって本当に幸せなことだった」という旨のことをおっしゃっていて、そのことの意味をお葬式の時間を通じてとても強く感じました。

みなが未來さんを特別視していなく、何も変わらない同級生の一人と認識していることが伝わってきました。お父さんもその具体的なエピソードを面白おかしく、そして涙ながらに話されていて、同級生たちみながその懐かしく素敵な時間を思い出して、涙と笑いに場が包まれました。まさに未來さんがみなと同じ教室で一緒に過ごしてきたからのことであり、障害の有無で子どもたちを分けない教育のもたらす結果なのだなあと痛感しました。未來さんが同級生のみなさんとともに過ごしてきた日々を想像するとともに、インクルーシブ教育の持つ価値が、とてもとても強く感じられる時間でした。

未來さんが周囲の人に与えてきたものはきっと本当に大きくて、それはこれからもずっと生き続けると思います。それは僕にとっても同じです。ほんの少しだけでも人生が交錯できたことを嬉しく、ありがたく思います。

未來さん、本当にお疲れさまでした。
次の世界で、また素敵な旅を!

差別以外の何ものでもない

先日、近所の知人の店に、妻とともにランチに行った。
その際、カウンターで調理する知人に、飲食店の経営の大変さについて聞いたりする中、インバウンドのお客さんはどのくらいかと聞き、外国人客の話になった時、知人が言った。

「うちは中国人はお断りしてるよ」

全く想像していなかったその言葉に、僕は動揺するとともにすごく残念な気持ちになった。

「彼らはうるさくて常連の客が嫌がるから。これは差別ではないよ」

と知人。彼の人柄的に、たぶん実際、差別してる意識はないのだと思う。でも国籍や人種で一括りにしてお断りというのは、差別以外の何ものでもない。

とても親しいというわけではなく、そして感じのいい彼に対して、なんといっていいかわからなくて、「うーん、中国人にもいろんな人がいますよね。みなお断りというのは……」などとぼそぼそと言うことしかできなかった。

好感を持っている人からこういう言葉を聞くのはなかなか辛く、かつ、それに対して自分なりに納得のいく応答ができなかった自分自身に対しても嫌気がさした。

20年近く前、妻とユーラシア横断の旅中に、グルジア(ジョージア)の首都トビリシで、レストランに入ろうとした時のこと。普通に営業しているにもかかわらず「もう閉店の時間だ」と言われて入れてもらえなかったことがあった。翌日もう一度その店に行き、同じ対応をされたことで差別されていることに気が付いて、怒りが沸き、僕は、その数カ月前にキルギスで一カ月ほど学校に通って身に付けた片言のロシア語で、尋ねた。「僕たちがアジア人だから?」。すると店員は言った。「そうではない」。いや、そうだろう。

あの一つの経験が自分の心に残したものはとても大きい。

広島・江田島の、祖父たちが暮らした場所へ

週末に家族で広島に小旅行へ。ならばこの機会にと、広島市のすぐ南の江田島にも行きました。祖父が戦前から終戦時まで、広島・江田島の海軍兵学校の教官をしていました。そのため以前から江田島はなんとなく身近で、いつか機会があればと思っていたのでした。

当時、祖父母とともに一緒に江田島に住んでいた伯父(3年前に他界)が祖父のことを文章に残していたので、これを機に読んだところ、江田島のどこに住んでいたかが詳細に書かれていて、住所はなかったものの、地図から見つけることができました。それは、海軍兵学校の官舎で、しかも調べるとその一帯は、当時兵学校の人たちが住んでいた家の数々がそのまま残っているらしい。島についてまず海軍兵学校の見学ツアーに参加したあと(毎日数回、詳細なツアーをやっていて、誰でも参加できます)、官舎のあった一帯に行ってみました。まさに当時が思い出せる風景が広がっていました。

終戦当時、ここに祖父母とともに住んでいたのは、小学生だった伯父と伯母、5歳の伯父(僕の母は祖母のお腹の中)。伯父伯母の中で唯一いまも存命の、当時5歳だった伯父に、上の写真を見せると、記憶はいろいろと残っているようで、原爆投下の日の記憶を教えてくれました。家の前の坂を下りた橋の下の川で姉たちが洗濯する姿を、石鹸の泡が珍しくて眺めていた。その時にピカドンが襲い、泣きながら家に帰ったのを覚えている、と。またある日は、米グラマンの戦闘機が撃墜され、死亡して運ばれてきた米兵が腰にカメラをつけていたのがとても印象に残っていると。

また、亡き伯父の文章には、写真の奥に見える海、小用港に停泊していた戦艦榛名が爆撃されたころの様子も。戦艦の上に大きな黒いネットのようなものがかけられ、その上に大量の木などが被せられてカモフラージュされていたけれど、小学生の目にもそこに戦艦があるのがバレバレだったと。

自分にとっては歴史の中の出来事だったことが、実際にこの地を訪れ、伯父の言葉を聞き、亡き伯父の文章を読んだことで、血の通う、自分につながる出来事に。

記録を残してくれた伯父に感謝です。

自分の記録まで。

海軍兵学校の祖父が教えていた建物はいまもそのまま。