20代のころ、旅する自分の背中を押してくれた『婦人公論』の「ノンフィクション募集」。荻田泰永さんと河野通和さんの対談から蘇った記憶。

冒険家の荻田泰永さんが主催する「冒険クロストーク」で荻田さんと河野通和さんの対談を見た。河野さんは『婦人公論』『中央公論』『考える人』などの編集長を歴任された編集者。対談では、河野さんの青年期、編集、野坂昭如、婦人公論、本、冒険、考えるとは…、興味ある話題ばかりで、3時間半という長さながら、飽きる所がなかった。

感想はとてもたくさんあるのだけれど、自分にとって特に大きかったのは、ずっと忘れていたかつての記憶がふと蘇ったこと。それは河野さんが編集長をされていた『婦人公論』のことである。

僕は長い旅に出る前の2002年ごろ、ライターとして一つでも実績を作るために、いくつかの雑誌の賞に、手探りで書いたルポを 送ったりしていた(当時はネットで書くという選択肢はほとんどなく、ライターになるためには紙の雑誌に書く場を見つけなければならなかった)。そのため当時、本屋に行ってはいろんな雑誌を見たり買ったりしていたのだが、 その中で確か知る限り『婦人公論』にだけ、「読者体験記・ノンフィクションを随時募集しています」といった記載があった。

河野さんのお話から考えると、 当時『婦人公論』はリニューアルしてすでに4年ほど経っていたことになるが(河野さんは、1998年の同誌のリニューアル時から数年の間編集長をされていたとのこと)、なんとなく自分の中に、表紙がスタイリッシュになって新しくなった雑誌という印象があり、内容も自分の感覚に近いような印象があった。加えて、ノンフィクションを募集している雑誌としても記憶に残った。

そして2003年6月、僕は結婚直後の妻とともに旅に出た。旅をしながら、なんとかライターとしての道筋を構築するために、ほとんどツテも縁もない中で、書いたものをいろんな雑誌にメールで送ったりしていたが、送る先はほとんど、ネットで見つけたinfo@出版社名.co.jpとかwebmaster@出版社名.co.jp的なアドレスだった。当然返事は期待できなそうな中、『婦人公論』だけは、原稿を募集しているし、でも旅の話なんてお門違いかなあとか…、いろいろ思いながらも、堂々と送ってもよさそうな媒体だった。そして旅のことだったか、取材したことだったかを、オーストラリアからだったか、東ティモールからだったか、送ったのだった。

すると思いがけずご丁寧な返事が届いた。原稿の掲載は難しいという内容だったものの、読んで返事を下さったことがとても嬉しく、 それからまた別なのを送って、また返事をもらい、 ということにつながった。結局原稿が掲載されることはなかったものの、やり取りができたことに背中を押された。その後、5年にわたった旅の日々の最初の時期、つまり、ライターとして全く仕事になっていなかった時代に、投げ出すことなくなんとか書き続けていくための原動力の一つに、『婦人公論』から届いたメールは確かになっていた。その時に送った原稿は、『遊牧夫婦』の元型の一部になっていると思う。

その時、お返事をくださった編集者はTさんで、 いま、中公新書の編集長されている。旅を終えて日本に帰ってから、 お会いしに行ったり、やり取りさせていただいたり、 ということにつながっていった。

そして、Tさんとのつながりから、旅の終盤、2007年~08年、ユーラシアを横断している最中には、『中央公論』のグラビアページに、 写真と短い文章を2度掲載していただいたが(中国西部で出会ったイスラム教徒たちの姿と、スイスの亡命チベット人の僧侶の姿)、その時の編集長はおそらく河野さんだったことを知り、思わぬご縁を感じるのだった(河野さんとはその後、氏が『考える人』の編集長をされていた時に同誌で連載をする機会をいただいたりして、以来いろいろとお世話になっています)。

いずれにしても、当時の『婦人公論』の、 「読者体験記・ノンフィクションを随時募集しています」 という記載は、先行きが見えなかった自分にとって、 一つの目標となるような、数少ない希望になっていた。また、ライター経験はほとんどなく、海外で旅をしながらメールで文章を送ってきた若者にお返事をくださったTさんにすごく励まされたことはいまもよく覚えているし、本当にありがたかった。 そういう意味で、『婦人公論』には助けられた感覚があり、いまもなんとなく身近であり続けている。原稿を書いたことは今なおないのだけれど。そして同誌のサイトを見たら、同様の「ノンフィクション募集」の記載がいまもあり、嬉しくなった。

『婦人公論』のことを書いていたら、また別の形で背中を押してもらった媒体がいくつかあることを思い出した。その編集者の方たちが下さった一本のメールが、いまの自分へとつながっているんだなあと改めて思った。

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下の写真は、旅出してから間もないころ、オーストラリア東部のカウラという町で、日本人捕虜暴動事件について取材らしきことをしていて、地元の新聞社を訪ね、事件の関係者を探しているといったら載せてくれた記事(Cowra Guardian, July 4, 2003)。急にこの記事のことも思い出し、探したら出てきた。

10日前に日本を出たところ、と記事に。一番の連絡先が滞在していた安ホテルの電話番号になっているのがすごい。メールアドレスも載せてもらっているけれど。当時は携帯電話も持ってなかったし、メールより電話だった時代なような。
『婦人公論』に送った原稿にも、この事件のことを書いた部分があったような…。

『遊牧夫婦 はじまりの日々』<6 Uさんの死>

毎日、TBSラジオ<朗読・斎藤工 深夜特急 オン・ザ・ロード>を聞き、深夜特急の旅を一緒にしている気分になっています。もうトルコまで来てしまった。そして聞いてる途中で本当によく、自分自身が旅をしていたころのことを思い出します。

昨日は聞きながら、自分は旅をしてなかったらどんな人生を送っていたかを想像し、その一方で、旅をするきっかけをくれた大切な友人について思い出したりしていました。

ふと懐かしくなって、『遊牧夫婦』の中でその友人の死について書いた章を読み返し、そしたら、いろんな人に友人のことを知ってもらいたくなり、その章「6 Uさんの死」をアップすることにしました。彼の死から今年で20年。自分の年齢は当時の彼と離れていくばかりだけれど、その一方で、最近、死がいろんな意味で身近になってきたゆえに、彼との距離が近づいているような気もします。

本を読んで下さった方からもっとも言及されることの多かった章の一つでもあります。よかったら是非読んでみてください。

6 Uさんの死

「八月五日に兄が亡くなりました。とても静かな顔で、まるで、眠っているようでした」

高校時代の友人からそんなメールが届いたのは、まだバンバリーでの生活を始めて間もない二〇〇三年八月十一日のことだった。

「兄」といっても、「友人の兄」としてちょっと知っているという程度の関係ではない。「兄」もまた、ぼくと同じ高校で、二つ年上のバスケ部の先輩としてぼくは彼と知り合った。そしてその後、大学で同期になったことによって、ぼくは「兄」と仲のよい友人として付き合うようになった。その彼が、日本で命を絶ったというのだった。

何の前触れもない突然の知らせで、メールを読んでぼくはとても動揺した。ワンダーインのコンピュータスペースで、驚きのあまりしばらく呆然とした。

彼は、親しい友人という以上に、明らかに自分が大学時代にもっとも影響を受けた人の一人だった。なんといっても、ぼくが何年にもわたって海外で生活しようと思ったきっかけを与えてくれたのが、まぎれもなく彼だったのだ。

その彼が、この世を去った。そのことがすんなりとは納得できないまま、ぼくは自分が知っている彼のいろんな姿をコンピュータの前で思い出していた。先輩・後輩から始まった関係で、ずっとぼくは彼を「○○さん」と呼んでいたので、以下、Uさんとする。

Uさんは、高校時代からおしゃれで都会的で大人びた雰囲気を持った、とにかくかっこいい先輩だった。そのころは部活の一先輩後輩という程度の付き合いだったが、その時代から数年がたったある日、思わぬところでぼくは彼と再会することになった。

それは、Uさんが高校を卒業してから二年以上がたっていたときのことで、ぼくはその何カ月か前――ちょうど阪神・淡路大震災が起きた直後で、地下鉄サリン事件が起きる直前の二月――に大学受験に失敗し、浪人界へ暗く静かなデビューを果たしたばかりのころである。ぼくが通っていた駿台予備校がある東京・御茶ノ水の本屋「丸善」で、ばったりと出会ったのだ。

「おお、コンドー!」

ちょっといたずら好きそうで、でもいつもながらの凛々しい笑顔と軽快な口調の彼に、ぼくは呼び止められた。黒く焼けた肌を、いますぐにでもインドに行ってしまいそうなシンプルな衣服に包んだUさんがそこにいた。彼がすでに、ある私立大学に入学していたことを知っていたぼくは、こんな浪人たちの巣窟で参考書を片手に持った彼と会うことが意外だった。あれ、どうして……? と聞くと、

「おれ、大学やめたんだよ。カンボジアに行ってアンコールワットを見てさ、すげえ衝撃を受けて、どうしても建築をやりたくなって。帰国してからすぐに大学やめてさ、いまは建築学科に入り直そうと思って、もう一度予備校に通い出したんだ」

そう言って彼は、どんよりとした浪人時代を過ごしていた自分とは全く異なる明るいエネルギーをみなぎらせながら、参考書を選んでいた。ぼくは当時、大学で物理学を真剣にやりたいと思っていたバリバリの理系男子で、旅をしたいと思ったことなど一度もなかった。だから、「カンボジアでアンコールワットを見て感動して大学をやめる」という流れ自体が、よく理解できずにいた。

しかし、とにかくかっこいい遊び人で夜の東京を駆け回っているような印象のUさんが、自分には未知の外国で本当にやりたいことに気が付いて、大きな一歩を踏み出そうとしているらしいことは、新鮮な刺激となった。

それからたまに予備校で会ったりしながら、ともに一年の浪人生活を終えた春、ぼくらは同じ大学に入学することになった。Uさんは、受験当日に会場で会ったときは、「おれは記念受験だよ」などと笑っていたが、ふたを開けてみればしっかりと合格を手にしていた。ぼくが本格的に彼とつるみ出したのは、それからのことである。

類は友を呼ぶのか、浪人は浪人を呼び、大学時代のぼくの友だちには一浪した同い年の人間が多かった。その中に、年齢的にはぼくらの二つ上をいくUさんもいた。

彼はただ年上であるという以上に、カリスマ的なかっこよさと陽気なキャラ、そして、豊富な遊びと旅の体験に裏打ちされた確固たる豪快さと幅の広さがあった。都会らしいスマートさを漂わせつつも、アジア、アフリカ、南米などを数カ月から半年の単位で旅し続けている経験をもとに、とにかく旅が面白くすばらしいものであることを、色白でもやしっ子なぼくらに全身で教えてくれた。

エチオピアからだったか、ぼくらに手紙をくれ、彼の興奮を短く伝えてくれたこともあった。また、外国にいても「ホットメール」を使えばメールを送受信できるんだよ、と教えてくれて、当時まだ、大学に行かないとメールが出せず、家で手書きのファックスを夜な夜なオーストラリアに送ったりしていた自分は、へえ、そうなのか、すごいなあ、とびっくりしたことを覚えている。

またUさんは、大学の授業にも手馴れたメリハリをよく効かせた。単位を落としそうな科目については、「試験が悪かったら、あとは政治力だよ。×○先生には菓子折りだ、がはははー」などと言って、オトナのやり方があることを見せてくれたりもするのであった。

一般教養の授業では、相対性理論だったか量子力学だったか、難しい物理学の授業を一緒に受講し、ぼくは自分が物理学を志す身なのにほとんど理解できないことをまずいなあと思っていると、Uさんは頭のよさそうな本を手に、なんとなくそれらしいことを言っている。よく聞くと、やはり彼もわかっていないのだが、それっぽい本を携えることによって、ちゃんと物理学をファッションへと昇華させる術を心得ていて、Uさん、やっぱりさすがだなあ、と笑わせてくれたりするのである。

そして一九九七年十二月、すなわち大学二年の冬、ぼくが「ストーカー」時代を成功裡に終えて、今度は楽しく前向きな旅行のためにその年最後のオーストラリアへと向かうときには、Uさんが他の友人とともに、車でぼくを成田空港まで送ってくれた。

車内にはジミヘンの曲が流れ、軽快な走りでレインボーブリッジを渡って空港に向かった。ぼくも、その数カ月前の悲愴感溢れる旅立ちとは違い、今度ばかりは楽しいオーストラリア滞在になりそうで気持ちはとても軽かった。

空港が近づいてくるとUさんは、助手席に座るぼくに言った。

「パスポート、出しとけよ」

するとその直後、空港のパーキングの入り口で係員がUさんに、「免許証を――」と言うか言わぬかのところで、Uさんはすかさずぼくのパスポートを差し出した。すると係員は、パスポートを見て、「はい、いいですよ」と通してくれた。通り過ぎると、Uさんがニヤリと笑った。

「おれ今日、免許証忘れちゃってよ。ここ、ヤバイなって思ってたんだけど、お前らに言うときっと動揺すると思って、言わなかったんだよ」

さすがUさん、とぼくは思った。たしかに、Uさんが免許証を持っていなくて空港に入れないかもしれないことを知っていたら、この係員の前でぼくは若干不自然な挙動をとっていたかもしれなかった。けれどUさんが機転を利かせてくれたおかげでそうはならず、ぼくはすんなりとこの年四度目のオーストラリアへと飛ぶことができたのだった。

いつもそんな感じで、Uさんはぼくらにはない余裕と貫禄を見せてくれた。旅で培ったワイルドさと都会的で洗練された華やかさがいい具合に調和されて染みついている人で、とにかく別格の魅力があったのだ。そんなUさんの存在はぼくらの仲間内ではとても大きく、おそらく彼がいたからこそ、長期の旅をする友人が増えていった。

ぼくが学部卒業前にアジアを旅しようと思ったのも、やはりUさんの影響が大きかった。行き先がインドになったのも、Uさんに、「どこか一カ所っていうなら、インドかな。やっぱりインドは違うよ」と言われたことが決め手となった。そのインドでの体験によってぼくは旅の魅力に激しく惹かれ、この長期の旅について考えるようになったのだ。

「旅をして生き続けることができたら、めちゃくちゃ幸せなんだけどな。でも、そうはいかねえよなあ」

牧歌的な学生時代の終わりが近づき、自分の生き方を各自が真剣に考えなければならない時期がやってくると、Uさんはそんなことをよく言った。どうやってこの社会の中で生きていくべきなのか、何が自分にとって一番いい選択なのか。そう考えるとき、Uさんの中にはいつも旅のことがあったのだと思う。彼は本当に旅が好きだったのだ。

彼の言葉を聞きながら、そんなことができたらいいよなあ、とぼくも漠然とは思ったものの、実践しようとは考えてもいなかった。だがそのときすでに、Uさんと日々接する中で、旅がいかに魅力的なもので、かつ人をたくましく育てるものなのかを、肌で感じていたことは確かだった。Uさん自身の魅力が、そのままぼくらにとっては旅の魅力と映っていたともいえるのだ。

しかし、皮肉なことに、そんなUさんを少しずつ別の方向に変えていったのもまた旅だった。いつだったか、Uさんはたしか半年ほど南米に行ったが、帰ってくると明らかに様子が変わっていたのだ。

最初はただ、旅の疲れか何かで体調が悪いだけかと思っていたが、言動がはっきりとそれまでとは違ったものになっていることにぼくらは気づいた。どうしたのだろうと、何度か尋ねたことはあったけれど、ペルーあたりでなにやら凄まじい経験をしたと言うだけで、彼は決してそれ以上詳しく話そうとはしなかった。少なくともぼくにはそうだった。

ただ明らかだったのは、Uさんが激しく厭世的になっているらしいことであった。

もともとUさんは、いまの世の中に対して旺盛な批判精神を持っている人だった。それはおそらく、簡単にいえば、旅をして世界を見て回る中で培っていったものの一つなのだろう。

その思いは、たとえばコンビニは利用しないなど、物質的で記号化した現代社会を象徴するものを避けるような形で、彼の行動の随所に表れていた。ただ以前は、そんなUさんの独特なポリシーは、常にUさん一流の明るいポップさを伴っていて、ぼくたちも「おお、Uさん、アツいなあ、こだわるなあ」、などといって笑って見ていられる陽気さとコミカルさがあった。

しかし南米への旅のあとに様子が変化してからは、その一つひとつが普通ではないシリアスさとストイックさで実践されるようになり、そこまでやらなくても、とぼくらが思うぐらいのものになっていった。彼はそれまでとは全く違うレベルで、いまの社会に対して違和感を覚えているようだった。すべてが薄っぺらく見えるいまの社会をなんとか変えないといけない、自分はこんないい加減な生き方をするわけにはいかないんだと、何かに追われ、思いつめているようにぼくには見えた。

そんなUさんが心の底に抱えている思いは、極めて真っ当で、ぼくたちにも激しく訴えるものがあった。とはいっても、誰もがあらゆることになんらかの形で妥協しながら生きていかざるをえなかったし、Uさんほどその信念をストイックに貫き、行動に移すことはぼくたちにはできなかった。

だんだんと会話がかみ合わなくなった。そしてときに非常に緊迫した言葉を発するようにもなっていった末に、すっかり大学にも姿を見せなくなってしまったのだ。

最後にUさんと話したのは、二〇〇〇年にぼくが大学院に入ったのちフィリピンに行こうとしていたときのことだったと思う。フィリピンについて何か教えてくれようとしたのか、突然電話をくれたときだった。詳細は思い出せないが、そのとき久しぶりに話したUさんは、やはり少し張り詰めた様子でぼくに何かを伝えようとしてくれていた。

その同じ年のことだったはずだ。ついに彼は外界との一切の接触を絶ってしまった。ぼくらの誰にも、Uさんに何が起こったのかはわからないままだった。

生前、彼の近況を最後に聞いたのは、それから三年後の二〇〇三年三月、東京で友人たちを招待して行ったぼくとモトコの結婚パーティーの日のことである。パーティーに来てくれたUさんの弟に、「Uさんどうしてる?」と聞くと、

「じつは兄貴、こんちゃんのパーティーに参加するって言っててね、渋谷までは一緒に来たんだよ。でも、やっぱりやめるって、帰っちゃったんだ」

その次に聞いた報告が、その五カ月後の、冒頭のメールだったのだ。

ワンダーインでの掃除の仕事を終えたあとに、そのメールを見て呆然としながら、ぼくは自分が知る彼のいくつかの姿を断片的に思い出し、もうその彼がこの世にいないんだ、ということを落ち着かない思いで繰り返し考えた。

キッチンで作ったパスタを夕食に食べたあと、ぼくはUさんの弟にすぐ返事を書き始めた。書きながらいろんなことを思い出した。「旅をしながら生きていきたい」と言っていた彼が、旅によって変わり、この世を去った。その一方、もともと旅にあまり興味もなかった自分が、彼と出会ったことをきっかけに、いま旅を生きようとオーストラリアで暮らしている。それが不思議だった。ぼくは、Uさんの弟への返事にこう書いた。

《(ぼくらの友人たちの)誰もがUさんの大胆な発想や生き方をどこかで自分と比べながら、どうやって生きていこうかって考えていたんだと思う。今現在の状況を見れば、おれはその中でもとくに、自分の生き方を考える上でUさんのことがいつも頭にあるんだと思っています。だからUさんには、言葉ではいえないような感謝の気持ちがあります。Uさんと同期で大学に入学して、ともにあの時代をすごせたことをとても幸運に思ってるし、そしてそれは、これからも間違いなく自分にとっては、とてもとても大きな財産になるんだと思っています》

人は何よりも、人との出会いによって変わっていく。そんなことを、Uさんと出会ったことによってぼくは感じるようになった。

この日、ワンダーインの部屋の中で、考えていた。Uさんから得たものを自分の身体に染み込ませて、ぼくはこの先何年になるかわからない旅生活の中で、どのような日々を送り、どのように変わっていくのだろうかと。

どんな絵も思い浮かんではこなかった。そして考え直した。想像などできないからこそ、人は旅をするのだろうと。

きっとUさんも、同じだったのだろうと思う。

(6 Uさんの死 終わり)


『遊牧夫婦 はじまりの日々』プロローグ全文

「トラヴェル・ライティング」のスクーリング授業(京都芸大通信教育部)を受講して下さった方へ

10月末に、京都芸大通信教育部で、トラヴェル・ライティングに関する2日間のスクーリング授業を行いました。その時に皆さんが書いてくださった紀行文を読み、僭越ながら若干のコメントをいま書いているところです。短い旅時間と短い執筆時間によく書いてくださったなあ……、と思うものばかりで、楽しく拝読しています。

そうした中、駆け足だった授業時間中にお伝えできなかったなあと思うことがいろいろと思い浮かんできました。蛇足かもですが、見て下さる方がいればと思い、授業の際にお伝えしたかったけれどできなかったことのいくつかをここに書いておこうと考えました。と言いつつ、もしかしたら授業で話したことと重複する部分もあるかもですが、よかったら参考にしていただければ嬉しいです。

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まず、紀行文を書く上で、自分はこのような手順でやってます、ということを話しましたが、それはあくまでも自分にとっての方法で、そうやった方がいい、ということでは全くありません、ということは授業の中でもお話ししたかと思います。

自分はもともと、すらすらと文章が書けるタイプではありません。それゆえに、なんらかの手順があった方が書きやすく、長年いろいろとやっていくうちになんとなく、このような手順で書いているなあという方法ができていきました。その方法や考え方を、皆さんの参考までにお伝えした感じです。人それぞれ、どのように書くのがよいか、というのは全く違うと思うので、僕が授業でお伝えした方法や考え方の中で「なるほど、そのようにしたら書きやすい」といったことがあれば、参考にしていただければと思いますし、「いや、自分は全然別の書き方の方が書きやすい」ということであれば、ご自身の方法を優先する方がよいと思います。

ただいずれにしても、どんな文章を書く上でも、自分なりの手順や方法、あるいは型のようなものを身に付けておくことは、文章を長く書き続けていく上で大切だと思っています。それがあると、ひとまず書き出せる。たたき台ができる。するとその先に進めます。

文章が自然に湧き出てくる人にはそのような型は必要ないかもしれないなと想像しつつも、自分の場合は、そういう型がそれなりに身に付いてきたゆえに、なんとか文章を書き続けられているように思います。

一方、逆説的かもですが、いま自分としては、なんとなくてできてきた型をどうやって崩していくかということが、重要になってきています。その型にはまらない文章を書きたく、しかしそれがなかなかできず、どうすればいいのだろうかと悩んだりしています。

でも、そのように考えられるのも、ひとまず自分なりの型があるからこそだとも思います。型があるから、それを壊す、という次の道ができてくるのだろうと。そういう意味も含めて、それぞれ、ご自分の書き方、型、というものを身に付けていってほしいなと思います。

また、その際に、この人のような文章を書きたい、という自分の理想形のような書き手を持っておくことはとても大きな助けになると思います。目指すところがあると、自分が何をすべきかが見えてくるはずだからです。自分にとっては学生時代に、沢木耕太郎さんの文章に出会い、沢木さんのような文章、ノンフィクションを書きたいと心から思えたことが、大きな指針を与えてくれました。

旅に出る前には沢木さんになんとか自分の文章を読んでもらおうと手紙を書き、厚かましくも、自宅のプリンターで印刷したどこに載るあてもない文章を出版社経由でお送りし(その結果どうなったか…といったあたりは『まだ見ぬあの地へ』に書きました)、長い旅に出てからも、沢木さんの文庫本数冊(『敗れざる者たち』『紙のライオン』『檀』『彼らの流儀』『人の砂漠』あたり)をバックパックに入れて、記事を書くたびに、沢木さんの文章の構成、文体、書き出し、を参考にし、真似していました。一人で文章を書いていく上で、ほとんどそれだけが自分にとっての指針でした。

ただ、型の話と重なりますが、自立した書き手として長くやっていくためには、好きな書き手を真似るということをどこかでやめ、自分自身の書き方を身に付ける必要があります。自分はどう書いていくのか、何を軸にして書いていくのか、といったことを模索していかなければなりません。僕は、沢木さんのような作品を書きたい、という当初の思いはいまなお全く実現できてはいないけれど、少なくとも、自分なりの方法、文体というのは、いつしかなんとなく自分の中にできていったような気がしています。その過程においてやはり、この人のような文章を書きたいと思える書き手がいたことが本当にありがたかったです。そうした経験から、好きな作家・書き手を持てることは、文章を書いていく上で大切なことであり、幸せなことだと僕は考えています。
                   
20年ほど文筆業をやってきた中で強く思うのは、書く上での「技術」を身に付けることはとても大事だということです。文章はこれといった技術がなくとも書くことはできるし、こう書くのが正しいという正解もありません。むしろ技術なんてない方が、思いが伝わる場合もあるかもしれません。でも確実に、書く上での技術はある。長く書き続けようと思えば、そのような、基盤となる技術がとても重要になってくることを実感してきました。

だから大学で授業をするのであれば、自分は、自分なりにその技術の部分を伝えないといけないと思ってきました。紀行文に関して言えば、授業中にお話した自分なりの手順・型のようなものがそれにあたります。その部分を授業でお伝えして、各人がそれぞれにあった形で自分の中に取り入れてもらって、自分自身の型・方法を構築していってほしいと思っています。それが大学で学ばれる上で最も大切なことだと考えています。

しかしその一方で、技術では人の心は動かせないとも痛感してきました。やはり、人の心を動かすのは、書き手の思いであり、言葉にどれだけ気持ちを込められるかだと思います。

それはその書き手の生き方、考え方、これまでに経てきた悲しみや喜びなど、その人自身の人生が問われます。取材して書くのであれば、書かれる側の気持ちや、読む人たちの思いにも想像力を働かせられるか。また、書くことに伴う責任などを意識できるか。文章を書くということは、そういったあらゆることが問われているように思います。

文章を書くことの魅力でもあり怖いところは、そうしたその人自身の人間性のようなものが、必ずどこかに滲み出ることです。それは文章に書かれた主張そのものではなく、一文一文のちょっとした表現や語尾などに表れるもののように思います。本一冊分くらいの分量の文章を書くと、避けがたくその人自身が表れるものだと感じます。

その点をどうすればいいかは、おそらく人から学ぶことはできないし、日々を生きていく中で自分自身で作り上げていくしかありません。そしてそれだからこそ、一人ひとり、異なる人が書いたものに価値があるのだと思います。文章を書くこと自体は決して好きとは言えない自分が、それでも書きたいものがあり、書き続けてこられたのはそれゆえのようにも感じます。

技術と思い。

その両面を身に付けていくことを、大学で学ばれる中で意識していってほしいなと思っています。

……と、そんなことを、授業の中で伝えられていたら、と、みなさんの紀行文を読みながら思ったのでした。とりわけ今回、そんな気持ちをこのような文章にしようと思ったのは、こないだのトラヴェル・ライティングが、京都芸大における最後の授業だったからのようにも思います。最後の授業にお付き合いくださって、どうもありがとうございました。

少しでも、皆さんの今後につながることをお伝えできていたらと願っています!

京都芸大でのスクーリングを今年度で終えるにあたって、来年以降の計画として考えていること

この土日は、京都芸術大学通信教育部のスクーリングの講義だった。6,7年くらいやってるインタビューの授業で、2日間の間に、学生同士で互いにインタビューしてもらい、それを文章にするところまでをやってもらう内容。

自分が考えた内容ながら、学生さんたちにとってはタイトな時間の中でやることが多くて大変だろうなと思うものの、終わって、満足して下さった方が多かった様子が伝わってきて、とても嬉しかった。

ここ数年は、インタビューに関して自分が伝えたいこと、伝えるべきこともしっかりと確立してきた感じがあって、その意味では、ある程度自信を持って話せるようになった気もする(いつも緊張しているのだけれど)。試験後、一人の方の提案で、残っていた人で集合写真を撮る展開に。ああ、よかったなと思った瞬間。ご提案感謝です。

やはり対面でインタラクティブにやる授業は充実感があるなあと思う。学生さんたちの充実感もオンラインとは全然違う感じがするし、通信の学生さん同士が互いにつながる貴重な機会でもある。だから京都芸大で来年度から対面のスクーリングがなくなり全部オンラインになるというのは自分としては何とも残念。全部オンラインで受けられるという選択肢があるのはいいことだと思うけれど、対面のスクーリングという選択肢もやはりあった方がよいのではないかといまなお強く思う。

対面がなくなる今年度で、自分の授業も終わり。あとは今月末のトラヴェル・ライティングを残すのみ。自分がやってきたスクーリングの授業は、インタビューのと、トラヴェル・ライティングの2つで、特にみなで実際に”小旅行”(というか近年は、時間が短くなって数時間の京都散策しかできないけれど)して、それを文章にする後者のスクーリングは、オンラインでは不可能なので終わるのも納得。

というわけで、通学の学生を教えてた時期から含めると10数年にわたった京都芸術大学(「京都造形芸術大学」の名称の方がいまもなじみがあるけれど)で教えるのは、今月でひとまずおしまいに。

いま思うと、3日間のスクーリングができた時代(ここ数年は、すべて土日の2日間になった)のトラヴェル・ライティングの授業は特に、自画自賛するようで恐縮ですが、参加者の多くがいつもすごく満足して下さった印象で、自分もいつもすごく充実感があった。

参加者は毎年10人程度で、1日目にみなで小旅行(→朝から一日、琵琶湖の竹生島や長浜に行って帰ってくるので、これは実際に”小旅行感”はあった)して、2日目、3日目で授業&紀行文を執筆してもらうという内容。

3日目はたいてい数時間、書いたものを互いにシェアしてみなで円になって意見を言い合い、ディスカッションした。その時間がいつも盛り上がり、有意義だったように思う。その時間を経て、さらに書き直してもらって後日提出してもらっていた 。

この形式の授業は毎年、3日間で受講者同士の交流も深まり、いい人間関係が生まれ、最後はみな名残惜しい様子で、終了していった印象。この授業を機に、学内の文芸サークルも誕生し、いまもこの授業のことを思い出して連絡を下さる方がいてとても嬉しいです。

そんなわけで、来年から自分で、この形式の講座を復活させられないかな、と模索しています。しかし、大学の枠なしでこれをやって、果たして人が来てくれるのかなと、少々不安。というか、だいぶ不安。小心な自分はそこで躊躇してしまう。が、これから具体的に考えていきたいところです。

旅立ちの日から20年。

昨日(6月22日)で、『遊牧夫婦』の長い旅に出発してからちょうど20年だった。

旅立ちの時考えていたのは、数年間、旅をしようということ。26歳だった自分にとって数年というのは永遠のように思えたし、旅の終わりなど来ないように思っていた。また、できることなら、いつまでも終わりのない旅がしたいと思っていた。そのためにも旅をしながらライターとして稼げるようにならねばと。

しかし5年旅して、終わりがあるからこそ旅なんだと感じるようになった。何を見ても、ほとんど感動することがなくなってしまったからだ。そして思った。終わりがあるからこそ、人は感動するし、生きる原動力も湧くのだろう、と。旅も人生も。それが5年旅しての最大の気づきだったように思う。

そしていま改めて、そうだなと思う。

ところが、昨年あるコラムに自分がこんなことを書いていたのを思い出した。

ロームシアター京都のサイトへの寄稿「終わりがあるからこそ、と思えるように」より

そういえば去年、終わりがあるからこそ、と思えなくなっていたのだった。そのことを忘れていた。そしていままた、終わりがあるからこそ、と思えている自分に気づかされる。
それはもしかすると、最近、とても親しかったある人の死に向き合わないといけなかったからかもしれない。彼女の死のあとからなんとなくまた、終わりがあるからこそ、と思えているような気もする。去年、上のように書いていたことをいまはすっかり忘れていたのだ。

こうして移りゆく自分の気持ちもまた、記憶しておきたいと思う。

2003年6月23日、シドニーに降り立つ前の飛行機から。

2008年9月30日 旅の最後に撮った写真。マラウィ湖からモザンビークの大地を望む。

初めてメディアに載った自分の文章を手に… (2001年8月18日朝日新聞「声」欄) 

3年前にフェイスブックにアップしたらしく通知が。初めてメディアに載った自分の文章(2001年8月18日 朝日新聞「声」欄)。この翌年に大学院を修了し、03年に結婚、旅立つのだけれど、その際、ほぼこの投稿記事で得た図書券3000円?だけを根拠に、「ライターしながら2人で旅して暮らします」と京都の両親の元へ結婚の了承を得に行ったのは我ながらワイルドだった。


職はなく、旅の予定は3,4年。そして結婚3カ月後に2人で日本を出ますなんて、さすがに一発殴られるかもしれないと覚悟していったら、逆に背中を押してくれるような両親で「行ってきなさい」と。改めてとてもありがたかった。自分もそう言える親でありたい。

ロームシアター京都のウェブサイトにコラム執筆

ロームシアター京都のウェブサイトにコラムを書きました。
ロームシアター京都は2022年度、「旅」をテーマに自主事業ラインアップを決定。
そのラインアップテーマ「旅」への応答、ということで寄稿しました。

2022年度自主事業ラインアップテーマへの応答
終わりがあるからこそ、と思えるように


旅も人生も、終わりがあるからいい、と思い続けてきました。終わりがあるから感動があるし、今日を充実させようと思うのだと。それが5年間の旅を終えての実感でした。しかし最近そう思えない自分がいます。そんな気持ちを、いまの状況含め、率直に書きました。そしてなぜ旅が必要なのかを。

眞子さんの結婚会見を見て、香田証生さんのことを想い出す

眞子さんの結婚会見を見て、結婚の会見で謝らないといけない状況に追い込む日本って本当に辛いなあ、と感じました。

思い出したのは2004年にイラクで香田証生さんが亡くなった後にご両親がお詫びの言葉を発表したことでした。息子を殺された親がまず謝らないといけない社会って何なんだろうと当時思ったのですが、それからずっと変わってないんだなあと愕然としました。

いや、いま思えば2004年は、SNSもまだ黎明期だったし、状況はいまよりずっと穏やかだったのかもなあとも思ったり。

そんなことをツイートして、興味ある方がいればと思い、拙著『中国でお尻を手術。』の香田証生さんについて書いた部分もアップしたら思っていた以上に多くの人に読んでもらってる感じだったので、こちらにも掲載します。

自分は長旅の途中、タイにいたときに事件を知り、香田さんの死、そして日本の反応が衝撃でした。香田さんが動画で「すみません」とは言ったものの「助けて」とは一度も言わなかったことも心に残っています。

12月4日の中日新聞夕刊に寄稿しました。

12月4日の中日新聞の夕刊に、旅をテーマにしたコラムを書きました。すでに8年ほど毎年やっている、大谷大学の旅と生き方についての講義、今年は動画配信での実施となり、果たしてどうなることやらと思ったら、意外にも…、という話です。旅ができないからこそ見えてくる旅の魅力があるのかも、と思います。旅をしたいと思っている若い人たちが、自由にまた各地に行ける日が早く戻ってくることを願います。

『まだ見ぬあの地へ』の刊行に絡めての執筆です。これ読んで、本を読みたいと思ってくださった方がいれば嬉しいのですが…、引き続き、本の方もよろしくお願いします!

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11月30日 京都新聞夕刊『まだ見ぬあの地へ』インタビュー

月曜日11月30日の京都新聞の夕刊に、『まだ見ぬあの地へ』について、インタビューを載せてもらいました。

行司千絵記者の充実した内容で、感謝です。時間が有限だからこそ生きる原動力が生まれるし感動もする。そして今も、1日1日、記憶に残る毎日を生きたいです。

『まだ見ぬあの地へ』、是非よろしくお願いします。

しかし我ながら年相応の風貌だなあと、しみじみ…。

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新刊『まだ見ぬあの地へ --旅すること、書くこと、生きること--』が10月29日に発売になります。

新刊のお知らせです。

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旅にまつわる断想集
『まだ見ぬあの地へ --旅すること、書くこと、生きること--』(産業編集センター)https://www.shc.co.jp/book/13537

が10月29日に刊行になります。産業編集センターの「わたしの旅ブックス」というシリーズの一冊となります。

最近全然旅とかしてないのに、いつまで過去の旅を引っ張るんだ…と若干自分で突っ込みたくもなりますが^^;、内容としては、長い旅を終えて帰国してからのこの10年ほどの日々の中で、旅がさまざまな形で自分に与えてきた影響、そしてそこを発端として自分が考えてきたことをまとめたものになっています。

2014~17年にミシマ社のウェブ雑誌「みんなのミシマガジン」に連載していた「遊牧夫婦こぼれ話。」をベースに構成したものですが、その中から、今も違和感なく読めると思ったものだけを選び、書籍化にあたってだいぶブラッシュアップしました。

基本的には過去に書いたものでありながら、結果としては、いまの自分のさまざまな考えや正直な気持ちがこもった、自分にとっても新鮮な本になったような気がしています。この本を書いて、あの旅の5年間の経験がいまの自分の考え方や生き方に本当に大きく影響していることを改めて感じました。

どのように感じてもらえるのか、いつもながら発刊前はどきどきしてしまいますが、ご興味もってもらえたら、手に取っていただけたら嬉しいです。

ちなみに、『遊牧夫婦』シリーズを読んでないとわからない部分があるとか、そういうことは全くないように書いたので、この本だけでもよろしかったら是非。

どうぞよろしくお願いします!

<目次>

はじめに

<第一部 あの日がいまを作ってる>

赤面モノ、思い出の手紙
はじまりの場所へもう一度
いつかまたラマレラで
「違い」はあっても「壁」はない
新年は巡る
いきたくないよう、いやだよう
幻想ではない世界に向けて
旅の生産性

紀行文1 短い旅だからこそ

<第二部 自分にとっての書くということ>

二〇代、まだ何も始めていなかったころ
話を聞いてわかること
思い出すことが糧になる
お金がないっ!
七年前の旅を書き直す
自分に全然自信がない?
何かを選ばないといけないときに

紀行文2 上海の落とし穴

<第三部 旅することと生きること>

取り戻せない自転車旅行
自分の力ではどうにもならないことがある
先の見えない素晴らしさ
あたたかな後ろ姿
もしもの人生
生きることの愛おしさ

紀行文3 荒野を、ヴェガスへ

おわりに

京都新聞夕刊連載「旅へのいざない」が4月2日で最終回となりました

昨年春より月1回、京都新聞夕刊のアジアページに連載していた「旅へのいざない」が4月2日木曜掲載分で最終回となりました。
アジアがテーマだったので、国別はイランを最後として、最終回となった今回はまとめ的な内容にしました。これだけ世界が小さくなりながらも、互いに内向きになっている今の時代、個と個が繋がる大切さ、そのための旅の意義を痛感します。日々コロナのことで気持ちも生活も満たされてしまっていますが、再び自由に世界を旅できる日が来るのを楽しみにしつつ。

読んでくださった皆様、一年間どうもありがとうございました。

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ルート66を「ヴェガス」へ (2014年12月執筆の紀行文です)

(2014年12月にウェブ連載のために書いたものの、諸事情より掲載できなかったアメリカのルート66を巡る紀行文です。とても気に入っている文章ながらお蔵入りしたままだったのでこちらに再掲します。前編、後編と以下に続きます)

 
(前編) 

先月末(=2014年11月末)、海外紀行文の連載の仕事でアメリカ西海岸に行きました。アメリカ大陸は「遊牧夫婦」の旅では行くことができてなく、ぼくにとっては大学1年のとき以来、18年ぶりとなりました。
 今回の一番の目的地はロサンゼルスでしたが、より広大なアメリカを体感するため、車を借りてロサンゼルスの外へも行くことにしました。目指したのはラスベガスです。
 ロサンゼルスからラスベガスへ向かう道は、いわゆる「ルート66」と一部重なります。ルート66は、アメリカ西部の開拓のために1926年に開通した、シカゴ(五大湖の畔、アメリカ中北部の大都市)とサンタモニカ(ロサンゼルス郊外)を結ぶ道路です。すでにその多くの部分は他の大きな道に取って代わられ、その役割を終えていますが、アメリカを語る上で外すことができないこの道を走るのはひとつの憧れでもありました。
 ここを走れば、アメリカを感じられるのではないか。そう思い、撮影を担当してくれている写真家の吉田亮人さんとぼくは、ロサンゼルスからラスベガスへ向けて、NISSANの白い車で走り出したのです――。
                                                             *

  ロサンゼルスを出て5時間ほど経っても、ぼくらはまだロス市内から1時間程度のところにいた。ロス郊外で入ったガソリンスタンドで、キーを中に残したままドアをロックしてしまい、4、5時間立ち往生してしまったからだ。ガソリンスタンドの人たちに助けてもらって道具を借りて自力で開けようとするもかなわない。仕方なくレンタカー会社に電話して救援を呼んでもらうことにしたけれど、それもなかなか来なかった。ようやく問題を解決できたのは夕方6時ごろになってからのことだった。

このまま5時間ほどガソリンスタンドで待つことに

このまま5時間ほどガソリンスタンドで待つことに

 「今日はもうラスベガスまでは無理そうだなあ……」
 そう言いながらも、すでに真っ暗になった中、とりあえず少しでもラスベガスに近づこうとぼくらは再び走り出した。日本の高速に当たるフリーウェイは、片道5,6車線で頻繁に合流と分岐を繰り返す。オレンジ色の灯りの中、他の無数の車とともにひたすら走った。右側走行の運転にはすでにぼくも吉田さんも慣れていた。
 ルート66にはどうやったら入れるのだろう。不覚にもほとんど何も調べていないままだったので、フリーウェイからどうやってルート66を見つけられるのかがわからなかった。ルート66に行くためにはどこかでフリーウェイを降りなければならないはずだが、どこを出ればいいのか検討もつかない。しかも周囲は深い暗闇に包まれていて、どんなところを走っているのかもわからない。
 「これは見つかりっこないな……」
 何度かそう口にし、あきらめるしかないかとぼくは思った。もうこのままフリーウェイを突っ走ってラスベガスに向かうことになるのかもしれないなと。しかし、あるとき、前方に茶色の小さな看板が見えてきた。そこにこう書いてあった。
“Historical Route 66 Next Exit” 
―歴史的なルート66へは、次の出口―
 「サインがあったよ。ここだ、きっと」
 そのサイン以外には何もわからないまま車線を急いで右に移してフリーウェイを降りた。そしてその下の道を走ってみる。しばらくいくと、ここが確かにルート66であることを示す石柱みたいなのものが中央分離帯に立っていた。
 おお、これでいいんだ、と盛り上がる。これを走っていけばきっとそれらしい風景になるのだろう。いつ、果てしない荒野が見えてくるのだろうか。二人でそれを期待ながら走り続けた。
 しかし、行けども行けども風景はこれまで見てきたロス付近の国道沿いと変わらない。ファーストフード店などが道の両脇にただ無秩序に並ぶ、大雑把で投げやりな風景がただ続くだけだった。
「ルート66っていっても、いまはやっぱりこんな感じなのかな……」。
 もうそろそろ、フリーウェイに戻ったほうがいいのだろうか。きっとこのまま進んでも何もないのだろう。カーナビを見ると、このまま東にルート66を進んでいくと、北東にあるラスベガスへ通じるフリーウェイからは離れるばかりのように見えた。そして、21時ぐらいになってからだろうか、通りがかった「バーガーキング」に寄って夕食としたあと、ぼくらはフリーウェイに戻ることにした。
 もうあきらめるしかないのか、とも思った。しかしそれからしばらくフリーウェイを走ると、再び茶色い小さな看板が見えてきた。
“Historical Route 66 Old Town Victorville”
 「オールドタウン」とある。おそらくここを降りたらルート66沿いのVictorvilleという古い町に出るに違いなかった。これだと思い、出口を降りた。そして交差点に出ると、こここそが自分たちの来たかった場所であることがすぐにわかった。
 道路の端にはゴツゴツした岩肌が遠くまで広がっているのが、暗闇の中でもよく見えた。使われてなさそうな建物が複数あり、トレーラーを家のようにしたひと気のないトレーラーハウスもいくつもあった。建物には、ときどき、Route66の文字が見える。空気は常に砂埃で白濁しているかのようでもある。場末感にあふれ、いかにもアメリカ映画の舞台のようなその光景に、吉田さんが言った。
 「おお、まさにこれですよ!映画で見ていたぼくのアメリカの雰囲気って!」
 ぼくらはついに、ルート66の旧跡の町の一つに着いたのだ。
 人の気配のほとんどない中、オレンジ色の街灯だけが闇を静かに照らし出す。ガソリンスタンドなどといくつかの店だけが開いているだけで、人々がどうやって暮らしているのか、ぱっとはわかりにくい光景だった。
 とにかく今日は休もうと、宿を探して適当に大きな道を走ってみた。すると一軒のモーテルが見つかった。こぎれいだったがアメリカらしい寂しげな雰囲気。”VACANCY” (空室あり)という赤い電飾文字が寂しげに光っていた。
 駐車場に車を泊めてレセプションを見ると、アジア系の老婦人が遠い目をしてじっとこちらを見つめている。どこかうつろで不思議な視線だった。その女性の脇を通り、静かに「ハイ」と挨拶をしてレセプションの中に入ると、ヒスパニック系の夫婦が迎えてくれて無事に部屋を確保できた。
 書類にサインをしていると、隣では先のアジア系の女性が、外にいる夫らしい西洋人男性に向かって怒鳴っている。するとあるとき驚いたことに、女性はにわかに日本語で声を荒げた。その声にぼくは思わず振り返った。どうしてこんな場所に、70代ぐらいの日本人らしき女性がいるのだろうか。そしてぼくはつい、「日本の方ですか?」と聞いてしまった。すると彼女は、不快そうな顔つきで眉間にしわをよせてぼくを見ながら日本語でこう言った。
 「え?何?あなたがお迎えに来てくれた方?」
 ぼくはその意味が理解できなかった。ぼくを誰かと勘違いしているのかもしれない。その上彼女は、ぼくが日本人であることには一切興味はなさそうだった。いずれにしても、話しかけるべき状況でなかったことは確かだった。「いや、すみません、違います」と言い、それだけで会話を終え、ぼくらはレセプションを後にした。
 車から荷物を出し、2階の部屋に運びながら、その日系の女性とアメリカ人男性が駐車場で「うるさい!」「FUCK!」と両言語で罵り合う声が聞こえてくる。周囲は暗くてはっきりとは見えないものの、ゴーストタウンのように荒涼として真っ暗な景色の中に、昔ながらの電飾の文字がいくつも浮かんでいる。そのすべてが、この町の寂寥感を色濃く感じさせるのだった。
 ロサンゼルスとはまったく違う世界がここにはあった。アメリカ西部がまだ未開の地であったころとおそらく同じ景色が、そのままここには残っていた。
 来るべき場所にたどり着いた。そう思い、部屋のドアを開けて、ソファに荷物を投げ出した。赤いベッドカバーがかかったこぎれいなベッドの上には木の台が置かれ、その上に聖書が開かれている。その聖書を手にとって薄い紙の感触を手に感じたのち、ぼくは身体をベッドに横たえた。テレビをつけると、アメリカンアイドルというのだろうか、オーディション番組がにぎやかな音を立てている。
 広い荒野の中にいま自分はいる。そのことがうれしかった。明日の朝、外にはどんな景色が見えるのだろうか。いろいろな想像を膨らませながら、ぼくはテレビをしばらく眺めた。
 長い一日がようやく終わりを告げたのだった。

Victorvilleの大通りにはこんなゲートも

Victorvilleの大通りにはこんなゲートも

(後編)

VictorvilleにはRoute66 Museumも

VictorvilleにはRoute66 Museumも

 寝たのは2時ごろだったが、翌朝6時半ごろには眼が覚めた。寒くて起きてしまったのだ。若干体調が悪いような気もして、風邪をひいてしまったかなと思いながらベッドの中でうとうとしていると、外から「ボー!ボー!ボー―!」「ダダンダダン、ダダンダダン」という音が、長く、細く、聞こえてくる。
 そばを列車が走っているのだ。とても長い貨物列車のようだった。音がいつまでも途切れない。その音を聞きながら、昨日は真っ暗で見ることができなかった外の風景を想像し、またしばらくベッドの中で寝たり起きたりを繰り返した。そしてそれから1時間ほどもしていよいよ起き上がったあと、部屋のドアを開けてみた。
 ドアを開けるとすぐ外で、目の前には大きな駐車場がある。その向こうに、ヤシの木が並ぶ大通り。そして通りの逆側には、雲一つない青空の下、黄土色や薄茶色のザラザラした表面を持つ山が延々と連なっていた。映画『パリ・テキサス』や小説『オン・ザ・ロード』の世界としてイメージしていた荒涼としたアメリカそのものの風景を前に、ぼくは思わずため息が出た。
 「こういうのを見たかったんだ」
 そう思いながらじっと眺めていると、また列車の音が聞こえてくる。「ボー!ボー!ダダンダダン、ダダンダダン……」。その音はそのまましばらく響き続けた。

 準備をして部屋を出て、吉田さんとともに車に乗り込んだ。町のメインストリートらしき道沿いにある駅らしき建物に入ってみると、すぐ向こうには線路が通っている。何人か立っている人がいるので、見ると、そこはグレイハウンドという長距離バスの乗り場だった。グレイハウンドもまた、アメリカを語るときに欠かせない、長距離の旅の代表的な交通手段だ。
 建物の前を歩いていると、カメラを持っているぼくらを見て、40代ぐらいの中肉中背の男性が、おちゃらけたポーズで近寄ってきた。着古した黒いロック系のスウェットとカーゴパンツ、そしてキャップ。ラフな格好のその男は、片手を顔の横に上げて、「撮ってくれよ」と笑いながら言った。グレイハウンドを待っているらしいので、どこに行くのかと聞くと、彼は低くつぶれた声でこう答えた。
 「ヴェガスだよ」
 ヴェガス――。強い響きが突き刺さった。砂漠の町からグレイハウンドで「ヴェガス」を目指す。それは典型的な小説の世界のようにぼくには聞こえた。
 きっと地元の人間が何らかの用事があってラスベガスに行くのだろう。そう思い、ぼくは率直に、この町を見て感じた感動を伝えた。
 「この町にはとても雰囲気があるよね。すごいアメリカっぽいなって感じてるよ」
すると彼は、顔をしかめて苦笑しながらこう言った。
 「おい、本気かよ?この町はおわってるじゃねえか」
そして、続けた。
 「まったくひどい町だ。やることなんて何もねえよ。おれはもともとヴェガスの人間だ。仕事をしにこの町に来て1年住んだけど、暇で仕方なくて、もういやなんだ。だから今日、ヴェガスに戻るんだ。ここにはもういたくねえよ」
 何をしている人なのかと聞くと、彼は、いや、何ってことはないんだ、と口ごもった。そしてこう続けた。背中を怪我してからは社会保障をもらって暮らしてるんだ。ヴェガスで何をするかなんて決まってないし、これから先のことなんてわからない、と。
 ただとにかく、おれはこの町から出たい。ヴェガスに帰りたいんだ。そんな気持ちが一言ひとことに込められていた。
 退屈な小さな町を離れ、新たな生活を求めてグレイハウンドで都市を目指す。これまで何人ものアメリカ人が同じ理由でこの町を離れたに違いない。40号線が開通し、このあたりのルート66が役目を終えたあとVictorvilleは荒涼としていったのだろう。ラスベガスは、産業のなかったネバダ州の政策によって生まれた町だ。1929年からアメリカを襲った大恐慌のとき、税収を増やすために賭博を合法化してことによって一気に成長していった。何もない砂漠の中で、巨額の金と人の欲望を吸い上げることで肥大化していったこの巨大な人工世界は、きっと、その周りの荒涼とした小さな町のアメリカ人たちの夢を託される存在でもあったのだろう。
 彼の話を聞きながら、ぼくはふと、その2日前にロサンゼルスのヴェニスビーチの桟橋で出会った一人の釣り人のことを思い出した。
 それはちょうど日が沈む夕方の時間のことだった。桟橋の向こうに広がる海は、夕日がとても幻想的な風景を作り上げていた。空から水平線に向かって、青から赤の繊細なグラデーションが真っ黒な水面を覆い、その上には、全体の輪郭をうっすら残す三日月が、白く静かに輝いている。
 その月の光に導かれるように桟橋を海の方へと歩いていくと、その一番突端に、グレーの髪の毛のヒスパニック系の男性がいた。ふと気になり、釣竿をセットする彼の隣に立って桟橋のふちにもたれながら話しかけた。
 「釣れる?」
 すると「いや、いまはじめたところなんだ」と、作業をしながら陽気に答えてくれた。そして彼がえさの準備をするのを見ながら、さらにいろんな話を聞いていった。
 週2回はここにきて釣りをしているんだ。サバがたくさん釣れる、でも釣っても誰かにあげるかまた海に戻すよ。楽しみのためにやっているだけだから。ヒラメだけは持ちかえってバターで焼いて食べるけどな。本当にうまいんだ。釣竿を海に投げて、その様子を見ながらビール2本を数時間かけてゆっくり飲む。それがいまの自分の楽しみなんだ。ビールがなくなったら帰る。それだけだよ。
 LA育ちの53歳。すでに退職して仕事はしていないという。もとはトラックの運転手だったが、2000年に怪我をして車が運転できなくなったので、いまは社会保障で暮らしてる。運転で事故に遭ったのかと聞くと、そうじゃないと彼はいった。
 「刺されたんだ。強盗に襲われてよ。それでおれは運転ができなくなってしまったんだ」
 そういって、シャツをまくり上げて、わき腹の傷あとを見せてくれた。胸の下の前から後ろにかけて、横に10センチ以上の太い線がくっきりと刻まれていた。
 あの日で、おれの人生は変わった。でも、そんなことはもう昔の話だよ。人生はそんなもんさ。でもいまが楽しいから、それでいいんだ。楽しそうに釣りをする彼の表情は、そういっているようにもぼくには見えた。
 物価の高いロスでの生活は大変じゃないのか、と聞くと、彼は言った。ロサンゼルスは安く暮らしていける方法がいろいろある。だから大丈夫なんだ、と。
 「おれはこの町が好きだよ。ずっとこの町で育ったんだから当然だよ」
そしてそれからしばらくあれこれ話したあとのこと。ふと彼は「ヴェガス」という言葉を口にした。
 「来月はヴェガスに行くよ。娘と孫たちが住んでるからさ。そのために、今週からひとつ新しい仕事を始めることになってるんだ。クリスマスまでは仕事がいっぱいある。そしてクリスマスは家族でヴェガスで過ごすんだ……」
 その言葉を聞いて、ぼくは思わずこう言った。「明日からラスベガスに行く予定なんです」。そう言うと、それまで真っ暗な海に向かって作業をしながら話していた彼が、驚いた顔をしてこちらを向いた。
 「明日、ヴェガスに行くのか?本当か?そうなのか……」
 その少し寂しげな声に、いますぐにでもおれも行きたい、でも行けない……そんな気持ちが読み取れた。

ヴェニスビーチの夕日と桟橋

ヴェニスビーチの夕日と桟橋

 Victorvilleでグレイハウンドを待つ男性と話しながら、ぼくはこの釣り人のことを思い出した。彼がいまにでも行きたがっていたラスベガスに、自分たちは今日つくのだ、と。
 10分ほどするとグレイハウンドがやってきた。青く大きなバスには大勢が乗っていて、すぐそばを通る線路上には、列車が、100個以上はあるだろうコンテナを引いて、ダダンダダン、ダダンダダン、ダダンダダン……といつまでも音を立てながら通り過ぎていった。その光景を目に焼き付けて、ぼくらもこの町を後にした。
 
 ラスベガスへの道は、ますます砂漠の中のようになっていく。砂地の上に強靭な灌木だけが連綿と生え、遠くには木の一本も見えない茶色い山が連なっている。ときどき遠くには、長い列車が見えてくる。あれはさっきVictorvilleで眺めていた列車かもしれない。そう思いながら、茶色い山陰に消えてくるその長い車列の姿を見送った。
 荒涼とした風景の中を走り続けていくほどに、ほとんどの生物が生きていくことはできないだろうこの厳しい環境の中に、滑らかに舗装された真っ直ぐな道がずっと続いていることがとても不思議に思えてきた。19世紀、ゴールドラッシュのころに東部から西部を目指した人たちは、おそらく何も道らしきものもないところを、きっと何週間も何ヶ月もかけて移動してきたのだろう。1920年代にルート66が開通してアメリカの東西が「道路」で結ばれたことがどうしてそれほど衝撃的な出来事だったのか、ルート66がアメリカにとってどうしてそれほど重要なのか、この荒野の中を走るほどにわかるような気がしてくる。
 前方をずっと眺めていると、真っ青だった空は、日が沈むとともに不思議な色に染まってきた。地平線沿いに、きれいに虹のような色の層が見えてきたのだ。空から地面に向かって青、黄、赤、紫、そして緑。緑色は空なのか、それとも向こうに草原が広がるのか一瞬わからなくなるほどだった。でもそれは、確かに空の色だった。茶色しかない陸地の上に、自然が豊かな色を輝かせていた。
 「こんな風景、これまで見たことない気がします……」
 吉田さんは何度もそう言い、ぼくもまた、同じことを繰り返した。

虹色に染まった夕焼けの空

虹色に染まった夕焼けの空

 その夕日の色に驚いてから数十分もしたとき、ネバダ州へと州境を越え、徐々に巨大な人工世界が近づいてくることが感じられた。車が増え、大きな建造物がポツポツと増えていく。そろそろかな、と考えていると、砂漠の中の地平線上の遠い向こうに、無数の白い光が見えてきた。
 気がつくと目の前は赤いテールランプに満ちていて自分たちも渋滞の中にいた。そして、空が青から深い濃紺に変わったころ、ぼくらは煌びやかなネオンライトの中にいた。
 ついに、ラスベガスに着いたのだ。
 それはまるでオアシスだった。いや、砂漠の中に作られたこの巨大都市は、この地の人々にとってオアシス以外の何物でもないだろう。
 Victorvilleの男性も、いまごろここにいるのかもしれない。あの釣り人は、今日もあの桟橋で、ときどきラスベガスのことを思いながらビールを飲んでいるのかもしれない。
 毒々しいまでのネオンに彩られたヴェガスの町を歩きながら、もう二度と会うことはないだろうあの二人の日々を想像した。そして考えた。自分にとっても、この欲望渦巻く巨大都市はオアシスとなるのだろうかと。
 

 (終わり)

バンコクに数日行ったら、血圧が見たこともない数値に…

2月9日から12日まで、バンコクに行っていました。

今回の滞在の目的は、タイで吃音の当事者・関係者とのつながりを作って、3年に一度世界各地で開催されている吃音関係者による世界大会のアジア版を開く足がかりを作ろう、ということでした。

僕自身は、声をかけてもらって、どちらかといえば付いていく側での参加のつもりだったのですが、提案者のお二人が、諸々の事情でともに来られなくなり、結果として僕と他二人、付いていく側の3人だけで行くことになりました。

コロナウィルスのこともあり、さらに僕個人としては、謎の胸の痛みと高い血圧がしばらく続いていて、心臓を検査してもらっていたのもあって、前日の昼頃までは行かない方向に傾いていました。しかし検査での異常はなく、直前に体調が好転してきたこともあり、やはり行くことにしたのですが、来てよかったなと感じています。

当初の目的通り、バンコクの病院に勤務されている日本人の言語聴覚士の方にお会いして吃音に関連した現地の状況を伺い、さらにタイ国日本人会の方にもお会いして、アジアでの大会を開催する上での今後のいろんな可能性について伺いました。

海外ならではの事情を知って新たな知見を得させてもらうとともに、色々と簡単ではない点もわかり、アジア大会を開催するとしても道のりは長いことを感じましたが、少なくとも第一歩にはなるつながりを持つことができて、有意義な滞在になったように思います。

また、自分としては中国・昆明時代の友人にも会えたり、久々に東南アジアの雰囲気を体感することができて、すごく気持ちがリフレッシュされました。

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その友人には、彼女自身を含め、昆明時代に親しくしていた同世代の人たちの近況を聞き、それぞれ今も世界各地で、全く常識にとらわれない「マジか、すげえ…!」という日々を送り続けている様子を知って、当時の感覚を色々思い出させてもらいました。

今回会ったその友人自身も、バンコク生活が約10年となるといういま、今後どう生きていくかを考えていて、これから、未知の冒険の旅に出るということで話がまとまり(!)、今後が楽しみでありつつ、すごく刺激を受けました。やはり自分もいまなお、新たな未知の場所に身を置いて、「さあ、どうやって生きていこうか」という先の見えない人生を送りたい願望が強くあることを改めて確認しました(って、ずっとそう思いつつ京都生活が10年を過ぎてしまったのですが)。 また、バンコクの町を歩いていて、各所のガードマンや店員、ホテルの人が、隙あらばスマホゲームに興じたり寝てたりするのを見て、それでも世の中は回ってるわけで、なんかほっとするというか、本来このくらいでいいんじゃないのかなとすごく感じました。

日本で暮らし続けていると、思うように効率よく進むのが当然で、そうでなければ文句が出て、人がみなさらに効率的、合理的に行動する、という流れに馴れてしまうけれど、そろそろ効率化も、誰も望んでないレベルにまで至ってる気がします。

バンコクの、なあなあな力の抜けた雰囲気と人々の大らかな感じ、各人が思い思いに日々暮らしてそうな様子を見て、世の中、ちょっと不備不足があって思い通りにならないくらいがちょうどいいんじゃないかなあと再確認?しました。

とともに、自分が知らず知らず、いかに日本の感覚を普通に思うようになっていたかに気づかされます。やはりとりあえず異国・異文化の空間に、できるだけ身を置く機会を作ることが大事だと痛感しました。ただその場にいて空気を吸って人々の様子を見ているだけで、日々の考え方がほぐされるし、そういう機会をもっと持たねばと。旅のこと書いたり、大学で講義をしつつも、完全にエア旅人になってしまっている昨今の自分は特に。

また、観光エリアを歩いていると、年配の客引きが、古典的な手法でにじり寄ってきたので話していると、「ジャパン、フットボールプレイヤー、グッ!」という定番の展開になり、その流れで出てきた名前は案の定、ナカタ、イナモト、ナカムラ、オノ…と、20年くらい前からアップデートされてない状況。それがまた味わい深く、そして、お互い時代の変化の速さについていけない感じで共感したりもしました。

血圧が若干心配だったため、バンコクにも血圧計を持ってきて毎日測ってたのだけど、こっちに来て急に、これまで見たこともない正常値が出るようにもなりました。一時的かもしれないけど、やはりこっちに来てストレスが軽減されたのかなと思ったり。15年前に、中国・昆明にいた頃に吃音の症状が消えていったのも、やはり何かそういうことと関係あるのかなと改めて考えたりもしています。

最後の日は深夜の便だったので日中はアユタヤに行ってきました。アユタヤの遺跡は思っていた以上に壮大で、この周囲に当時、日本人町があったというのも新鮮で、色々思いを馳せました。アユタヤの中心部の郊外、チャオプラヤ川沿いの確か長さ1キロ、幅200mだったかな、そのくらいの土地に、様々な理由で日本では暮らしづらそうなキリシタンや浪人などが自由に暮らしていたそうな。タイに日本とは違う居心地の良さを求めて移住する流れは実はものすごく歴史が長かったということかな、などと想像しました。

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バンコクからアユタヤまでは、電車で2時間弱、15バーツ(50円ほど!)。目の前に乗り合わせたイタリア人のイケメン大学生と話し、これからどうやって生きていこうかと考えている彼の話を聞きながら、20年前の自分を思い出しました。夏に日本に来る予定とのことなので、京都に来たら、よかったら会おうと言い、インスタとFBを交換。爽やかないい出会い。
アユタヤでは、レンタルバイクで移動。タイでは免許なしでパスポートだけで借りられるので(1日200バーツ)、郊外ではよく利用します(バンコクで運転するのは怖いので借りたことないですが)。自分での移動手段を持つと、やはり楽しいです。

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アユタヤからバンコクへは、また電車で戻るつもりだったものの、バイクを返して駅に着くと、電車が遅れていて2時間後まで来ないことが判明。2時間待つと、夜の飛行機にかなりギリギリになりそうだったので、どうしようかと思っていると、バンコクへ乗り合いのバンがあることを教えてもらい、バイクに乗せてもらってバン乗り場へ。するとバンコクへ出発直前のバンに乗ることができてホッ(70バーツ、1時間半ほど)。

バンの中で、その日までに返信しなければいけなかった物理学関係(原子核時計に関する研究)の原稿の確認があったことを思い出し、車内でなんとか確認し、修正案を書いて送信。するとすぐに神戸にいる担当者から了解の返事。その返信をタイの田舎道を突っ走るバンの中で読んでいる状況に、つくづく不思議で面白い世の中になったなと思い、やはりもっと旅をしなければと気持ちを新たにしたのでした。

京都新聞夕刊「旅へのいざない」第8回 ロシア(毎月第一木曜日掲載)

京都新聞夕刊連載「旅へのいざない」第8回は、ロシア。モンゴルからロシアへ入り、シベリア鉄道で足掛け9日間移動して、再び中国へ。日本を出て4年になり、当時の自分の現状についてあれこれ悩みながらの鉄道での日々について書きました。ひとまず第12回での完結を目指してます。

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戦争で残虐な行為に手を染めた二人の元日本兵が語った言葉(映像)

ぼくは学生のころ、日本と中国をテーマとした映像制作を中国人留学生はじめ複数の学生たちとともにやっていました(『東京視点』)。その中で自分が中心となって作った作品の一つに「ある二人の戦後」(14分、2002年)があります。戦中から戦後にかけて中国で残虐な行為に手を染めたと語る二人の元日本兵(永富博道さんと湯浅謙さん)の姿を撮ったものです。

先日ふと、こうしたことを語れる人がもはやほとんどいないということを考える機会がありました。そこで、やはりすでに亡くなられているこのお二人が自らの過去を思い出して語る姿はもっと広く見られてほしいという思いがわき、ここにアップしようと考えました。

いま見ると、内容的に不十分な部分が多々あって作り手としては気恥ずかしくもあるのですが、若いころに多くの人を残虐な方法で殺し「閻魔大王」と呼ばれたという永富さん、そして、生きたままの中国人を解剖したことを語る元軍医の湯浅謙さんが、戦後半世紀以上が経ってから自らの行いについて語る姿をこのような形で記録できてよかったと、改めて思ってます。永富さんが涙ながらに思いを語る部分は、何度見ても胸がいっぱいになります。

永富さんはこの映像を撮った2、3ヵ月後に亡くなられました。そのタイミングに何か意味を感じざるを得ない永富さんの言葉があったこともあり、当時ぼくは、永富さんへの追悼文を書く機会をいただきました。その追悼文も映像の下に載せました。それを読んでいただくと概要がわかるかと思います。その上で、よかったら映像も見ていただければ嬉しいです。

そして先ほど、この映像のアップ作業を始めた昨日11月4日がちょうど永富さんの命日であることに気づかされ、何かただならぬ思いを感じています。


追悼文:『季刊 中帰連』23号(2002年冬)に寄稿
映像:2002年制作(近藤雄生、吉田史恵)「東京ビデオフェスティバル2004」優秀作品賞受賞

(以下が追悼文です)

「永富さん、安らかに」 (近藤雄生、『季刊 中帰連』23号 2002年冬)

私は永富さんについてほとんど何も知らないといってもいいかもしれません。少なくとも永富さんにとって私は一介の若者以上のものではないはずです。そんな自分がここに永富さんの追悼文を書かせていただいて本当にいいものだろうかと、正直多少とまどいを覚えながらも、その機会をいただけたことを感謝しています。

私が永富さんのことを知ったのはほんの最近のことであり、お会いしたのも先の八月のある真夏日のたった数時間あまりでしかありません。永富さんの八六年に及ぶ人生の中に自分が多少なりとも直接的な関係を持つことが出来たのは、ドキュメンタリー映像を作るための取材でお会いした、そのほんのわずかな時間だけでした。しかしそれは、私にとってどれだけ長い時間に匹敵するか分からないほど貴重な出会いだったということを今、切に感じています。

そのころ私はもう一人の同年代の者とともに、生体解剖に関わった元軍医である湯浅謙さんの現在の活動を取材しており、そのときに湯浅さんから永富さんをご紹介いただきました。永富さんが近くの老人ホームにいらっしゃると聞いて、是非お会いしたいとお願いしました。「閻魔大王」と呼ばれていたほどの永富さんが今何を思いながら生活されているのか、私は聞いてみたいと思ったのです。

突然の訪問にもかかわらず快く私たちを迎え入れてくださった永富さんの、私たちへの最初の言葉は、「申し訳ありません、申し訳ありませんでした……」というものでした。背中を丸め、前かがみになりながら、しっかりと手を合わせて祈るようにそうおっしゃる姿を前に、私はなんと対応していいものか分からず、ただ沈黙し続けていたことを覚えています。

ただじっと聞いていることしかできない私たち若者に対して丁寧な言葉で接してくださるその姿からは、この人がそれほど残虐な行為を繰り返したなどということがどうしてもイメージできませんでした。しかし、そのギャップこそが現実だったのだと思います。永富さんの人生が半世紀以上前の話だけで説明されるものでは決してないという当然のことが、本人を目の前にして再確認できたような気がしたのです。特異な経験を経てきた人の人生は、その特異さだけで語られがちになりますが、もちろん実際にはその何倍もの、他の人と変わらぬ静かな日々が続いています。数々の残虐な行為と戦犯管理所での生活を経た後に、永富さんには四〇年ほどの時間がありました。私の会った永富さんはその全ての時間を内に抱えていたのです。それは、過去を見つめ、そして今自分が生きていることの意味を深く考える一人の老人の姿でした。

意識がない状態で同じ老人ホームに暮らしていらっしゃる奥様のことに話が及んだときに、永富さんのただならぬ思いはもっとも強く伝わってきました。

「生かされているというだけで…、ほんとうに幸せです…」

家内は「眼も見えない、口もきけない…、死んでるとおんなじ」です。しかし、生きている。その生きているという事実がいかに大きなことなのか…。「死んだらもうさわることもできない…」生きているからこそ、「毎日、いって、さわって、手を握って」やることができるんです…。「生きているということだけでも、ほんとうに幸せです…」

多くの人の命を自ら絶たせてしまった永富さんが、目を潤ませながらおっしゃったその言葉からは、他のどんな人にも表しえない重みと感慨が滲み出ていました。そのときの永富さんの涙は、奥様へと同じくらいに今生きている自分自身に、そして何よりも、彼が命を絶たせることになってしまった多くの人たちにへ注がれていたような気がします。

その涙は、いつしか取材を続ける私たちのもとへとつたってきました。

そしてその日から一ヶ月半ほどして、ドキュメンタリー映像は完成しました。

永富さんが亡くなられたのはその映像のテープを氏のおられた老人ホームに送ってから三週間ほどしてからのことです。テープが着いた頃にはすでに他の病院に入院されていたということを知らず、「永富さんはあれを見てどう思ったかな…」などとのどかに考えていた自分にとって、彼の死はあまりにも突然のことでした。

死の報告を受けたとき、永富さんのおっしゃっていたある言葉が頭をよぎりました。体が不自由になってはいるけど、特に病気もなく今を過ごしていることについて、

「私は死なせてもらえないのです。自分の罪をすべてこの世でぬぐいつくせるまで私はしぬことができないみたいなのです。…まだすべきことがたくさんある。そのためにこうして生かされているのではないかと思うんです…」

永富さんは「すべきこと」を終えることができたのだろうか…。それはしかし、私には分かるはずもありません。ただ、ちょうど偶然にも私たちがこの時期に映像を撮ることになったことが、もしかしたら死を迎える前の永富さんにとっての「すべきこと」に何らかの関係があったのか…そんな気がしないでもありません。私たちが作ったものが、少しでも永富さんが安らかに眠れず材料になればと願うばかりです。
(終)

京都新聞夕刊「旅へのいざない」第2回(毎月第一木曜日掲載)

アジアの旅をテーマとした月一の連載「旅へのいざない」の第2回が昨日掲載に。今回は東ティモール。5年間の旅の中でも最も心が揺さぶられた日々について。結局過去の旅をまた振り返っていることに気恥ずかしさもあるけれど、思い出すたびに新たな気持ちが浮かび、旅の日々は、自分の中で更新され続けるものだなと感じています。

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京都新聞夕刊にて、アジアの旅をテーマに新連載「旅へのいざない」を始めます(毎月第1木曜日)

昨日(5月9日)の第1回(今回だけGWの関係で第2木曜に)は導入として、色々なきっかけとなった大学時代のインドへの旅について。その時の写真で残っているのが自分が写ってる1枚しかなく、プロフィールもかねて今回は19年前のその写真を使うことに^^;。もう大学卒業が19年前とは。。

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気持ちに素直に、進みたい進路を。旅と生き方の講義のレポートを読んで。

旅と生き方の講義のレポート、200人弱の分を読んでいます。多くの学生が次のように書いているのが印象的でした。

<なんとなく日々を過ごし、時期が来たらとりあえず就活する。それでいいのかなと若干疑問に思いつつも、大学時代とはそんなものだと考えていた。でもそうじゃなくていいことに気づかされた。一年遅れるしなあと迷っていた留学に行くことに決めました。夏は旅に行ってみることにしました。やろうと思っていたことに思い切って挑戦してみることに決めました>

と。今の学生は内向きで従順で、などと思いがちだったけれど、きっかけがないだけなのではないかと思います。やりたいことをみなが必ず追求すべきだとは思わないけれど、システマティックに進んでいく学生時代を少しでも疑問に思うのであれば、やりたいことをやっていいんだと、背中を押してあげたいとすごく思います。

お金のことなど現実的な問題は別として、一年遅れたらヤバイとか、履歴書に空白時期があってはいけないとか、人生的には本当にどうでもいい、ただ企業の採用的にだけ意味をなすローカルな価値観を、社会が意識させすぎではないかと思います。

1年や2年遅れようが、振り返れば人生に影響はほとんどないし、遅れないようにとわけもわからず就活をするよりも、疑問があれば、立ち止まって自分がどう生きたいかをじっくり考える期間を持つ方がよっぽど大切だと感じます。その上で、本人が納得した上で就活をするならする、別の道を進むなら進む、という選択を後押ししたい。

僕の講義は、人生の長い道のりを考えたとき、若い時代の旅は少なからぬ意味をもちうること、同時に、生き方はそれぞれ違って当然だということを、15回かけて様々な角度から伝えるのが目的なのですが、毎回の講義に対しての学生の感想やレポートを読むほどに、思い切って自分の道を進んでいっていいんだということをこれまで全く言われたことがないらしい学生が多いことに気づかされました。

もちろん、やりたい道に進んだ結果、思う通りに行かず苦労する可能性は大いにあります。頑張れば夢は叶うとは僕は思っていません。ただ、こう生きたいと思って自分なりに方法を模索して、考え、動いていけば、思い通りには行かずとも、きっとそれまで見えてなかった広い世界が目の前に見えてくる、そしてそれなりに道は開けていくはずであると思っています。

だからみな、気持ちに素直に、進みたい進路を選んでほしいと思います。そこで思い切り動いて悩んで、人生を模索してほしいなと。その際に旅は、きっと大きなヒントを与えうるものであるはずです。応援しています。