今日7月26日は、看護師だった飯山博己さんが、吃音による困難を原因に自死されて12年となる日でした。享年34。その経緯は拙著『吃音 伝えられないもどかしさ』に詳しく書きました。当初は労災が認められなかったものの、不当なその決定に対して、ご家族が諦めずに訴えを続けたことによって7年後に労災が認定されました。
最近、その飯山さんの事例が、労働法の代表的な教科書とされる『労働法』(弘文堂)に掲載されていることを親しい弁護士から聞いて知りました。調べると、この本以外にも、<国・札幌東労基署長(カレスサッポロ)事件>として各所で引用・紹介される事例となっていました。
無念だっただろう飯山さんの死の経緯が、こうして広く法律家などに参照される形で伝えられていくとすれば、つらく悲しい出来事であることは変わらないながらも、せめて、よかったと感じます。飯山さんのご両親とお姉さんが大変なご苦労をされて訴訟を続けてこられ、かつ担当の弁護士の方たちが真摯にこの問題に取り組んでくださったゆえのことです。
自分も、取材をしてきた身として、同じ吃音当事者として、飯山さんのことがこれからも引き続き多くの人の心に残ってほしいです。飯山さんの死と労災認定の経緯については、2021年に、「Web 考える人」に書きました。節目の日に改めて、読んでくださる方がいれば嬉しいです。
100万人が苦しむ吃音 新人看護師を自死に追いつめた困難とは
自分がどんな本を読んできたかについて、京都新聞で記事にしてもらいました
今朝(12月17日)の京都新聞に、これまで読んできた本について、広瀬一隆記者に取材してもらった記事が掲載されました。若い頃、本を読まずに来てしまったけど、大学以降に読み出して、以来出会ってきた本に改めて自分が動かされてきたなあと感じます。
記事の中で触れている本は、登場順に、立花隆『宇宙からの帰還』『脳死』『田中角栄研究全記録』、遠藤周作『深い河』、沢木耕太郎『深夜特急』『敗れざる者たち』、サイモン・シン『フェルマーの最終定理』、角幡唯介『空白の五マイル』。登場する作家は、上記以外には旅中に読む機会がちょくちょくあった作家として、清水一行、村上春樹、ポール・オースター。
立花隆さんは当時大学にいらしたこともあって身近で影響を受けたし、沢木耕太郎さんは記事にもある通り、旅に出る直前に電話をくださって、それが旅中に挫けそうになってもなんとか書き続けてこられた要因の一つでもあり、深い感謝。
また、旅中に安宿に置いてある本は傾向があって、当時(2000年代半ば頃)よくあって結構読んだのが、清水一行、渡辺淳一、村上春樹作品とかだった記憶。清水一行の経済小説はよくあって、当時けっこう読んだ。渡辺淳一も。ちなみにポール・オースターは、日本語の本に出会う機会も少なくなってたヨーロッパ滞在時に原著の『ティンブクトゥ』を確かポーランド古本屋で買って読んだ。当時は英語の本でも、読めるというだけでありがたかった。スマホなかったもんなあと当時の気持ちを思い出します。
村上作品は読んだ土地となんとなく記憶が結びついていて、『ノルウェーの森』は暑かったインドネシア・バリのカフェで、『ダンス・ダンス・ダンス』はマイナス10度くらいの真冬のキルギス・ビシュケクの宿でストーブの前で、訳書の『心臓を貫かれて』はユーラシア横断初期の北京近くの町の宿で、それぞれ読んだ記憶が蘇る。
本と人生の記憶は繋がっているなあと再確認させられました。ちなみに『吃音』を書いてからは重松清さんの作品にも強く影響を受けるように。その重松さんの作品は、一年暮らした中国・雲南省昆明で『流星ワゴン』を読んで心打たれたのを思い出します。
広瀬さん、ありがとうございました!
記事に掲載してもらった本棚の写真も追加しました。
9月23日(祝) 名古屋市の守山図書館で吃音をテーマとして講演します
9月23日に、名古屋市の守山図書館で吃音をテーマとして講演させていただきます。演題は
「吃音とは何か "伝えられないもどかしさ"の中を生きる100万人の苦悩」
『吃音 伝えられないもどかしさ』を出版した5年前は、自分の中で吃音に関する悩みはほとんどなくなったと思っていました。しかし、それからの5年の間で、吃音の症状に関しても浮き沈みがありました。また、症状とは別に、自分自身の性格や生き方、書き手としてのあり方に、ずっと影響し続けていることを感じさせられています。つくづく一筋縄にはいかないなあと感じます。
ご興味のある方、よろしければお気軽にご参加ください。人数も多くなく、交流の時間もあり、アットホームな場になりそうだなあと想像しています。
以下のURLよりお申込みいただけます。今日9月3日から受付開始になりました。どうぞよろしくお願いいたします。
https://eventwebreserve.tackport.co.jp/eventUsr_ngy/main/view/4889
6月に朝日新聞Re:Ronに寄稿した文章もよろしければぜひ。
マリリン・モンロー、エド・シーランも当事者 吃音の苦しみと理解
『吃音 伝えられないもどかしさ』の単行本をこちらからも販売します
『吃音 伝えられないもどかしさ』文庫版の「品切れ重版未定」について、このブログやSNSでお伝えしたところ(そのブログ記事はこちらです)、たくさんの方にご連絡をいただきました。気にかけてもらって嬉しかったです。ありがとうございました。いろいろなありがたいお声がけにも感謝です。とても励まされました。
そうした中、これからは単行本をもっと広く読んでもらうべく、単行本をほしいと思ってくださる方には、自分でも販売していくことにしました。
もしほしいという方がいらっしゃったら、『吃音 伝えられないもどかしさ』の単行本を、僕から直接、少し安くでお送りします。税込&送料込で1500円で大丈夫です(参考まで、定価は税込1650円)。ご希望であれば喜んでサインもします(…と、自分で書くのは気恥ずかしいですが^^;)。
ご希望の方がいらしたら、メール(ykon★wc4.so-net.ne.jp ★=@)や旧Twitter(@ykoncanberra)のDM、Instagram(kondo7888)のDMなどで、ご連絡ください。詳細をご連絡します。また、お送り先を伺わなければなりませんが、差し支えない宛先を教えていただければ幸いです。
どうぞよろしくお願いいたします!
↓重松清さんによる書評もぜひ。
<頁をめくるごとに、つらかった記憶や悔しかった記憶、言葉がうまく出ないもどかしさに地団駄を踏んだ記憶がよみがえって、何度も泣いた。いい歳をして子どものように――子どもの頃の自分のために、涙をぽろぽろ流した。>
とても残念なことながら、『吃音 伝えられないもどかしさ』の文庫版が――
自分としてかなりショックなことながら、『吃音 伝えられないもどかしさ』の文庫版が「品切れ重版未定」となってしまいました。事実上の絶版のような形です。
まだ3年も経っていないので、いまそんなことになるとは全く想像していなく、知った時には愕然としました。また、正直拙著の中でも、『吃音』に限ってはまさかそういうことはないだろうと思っていたのですが、皮肉なことに、自分の著書の中でこの本だけがそのような事態に陥ってしまいました。無念です。
さすがにもう少し粘ってほしかったし、他の方法はなかったものかとも思ってしまいますが、思うように売れてなかったということであり、商業出版であれば仕方なく、現実を受け入れるしかないのだろうとも思います。
数日間だいぶ沈みましたが、単行本の方はまだ生きています。今後は、これを生き延びさせるべく尽力しなければと、いまできることを考えています。
そんな状況のため、『吃音』の文庫版は、今後あらたに書店に補充されることはありません。
単行本も、決して安穏と構えていられる状態でもないようです。もし、本書にご興味を思ってくださる方がいたら、よろしければ単行本の購入を検討いただければ幸いです。
…と、なりふり構わない感じになって恐縮ですが、この本は、まだまだ果たすべき役割があるように思っています。興味ありそうな方などいらっしゃいましたら、紹介していただけたりしたら嬉しいです。
『吃音 伝えられないもどかしさ』(新潮社)、今後ともどうぞよろしくお願いいたします。
重松清さんによる本当にありがたい書評も、改めてこちらに。よろしければ…!
<頁をめくるごとに、つらかった記憶や悔しかった記憶、言葉がうまく出ないもどかしさに地団駄を踏んだ記憶がよみがえって、何度も泣いた。いい歳をして子どものように――子どもの頃の自分のために、涙をぽろぽろ流した。>
読売新聞書評欄「ひらづみ!」『どうしても頑張れない人たち』(宮口幸治著、新潮新書)
読売新聞月曜夕刊 本よみうり堂 の「ひらづみ!」欄の書評コラム、担当4回目は、立命館大学の宮口幸治教授の『どうしても頑張れない人たち』を紹介しました。前著『ケーキの切れない非行少年たち』に続いてのベストセラー。児童精神科医として病院や少年院に長く勤務した著者の言葉は温かくも現実的です。「頑張れない人たち」を支援したい思いに満ちています。少年院で出会った吃音のある少年が、いい環境に巡り合えていますように、と思いながら書きました。
第三文明社の教育誌『灯台』9月号にインタビュー掲載
第三文明社の教育誌『灯台』9月号に、インタビューを載せていただきました。
「吃音と向き合う中で」というタイトルで、『吃音 伝えられないもどかしさ』の文庫化をきっかけとして、ここ数年に感じていることをお話しし、まとめていただきました。吃音がテーマですが、やり切れない出来事が多い中、さまざまな生きづらさを抱えている人をはじめ、他の人への想像力の大切さを改めて痛感している、といった内容を多く載せてくださいました。
『吃音 伝えられないもどかしさ』文庫版が発売になります。
『吃音 伝えられないもどかしさ』の刊行から早いもので2年以上が経ち、この度、装いを新たにして新潮文庫の一冊となりました。重松清さんに、身に余る、自分にとっては宝物のような解説をいただき、また文庫版あとがきを書き加え、全体を見直して表現や情報を若干修正しています。
さらに広く多くの人に届いてほしいです。4月26日発売です。
どうぞよろしくお願いします。
100万人が苦しむ吃音 新人看護師を自死に追いつめた困難とは
2013年に自死された看護師の飯山博己さん(拙著『吃音 伝えられないもどかしさ』に詳述)について、昨年10月の労災認定の判決を受けて書いた記事が、ウェブ「考える人」に掲載されました。掲載までだいぶ時間がかかってしまいましたが、弁護士の見解や自分の考えを含め、思いを込めて書きました。
ご家族に写真も複数枚提供いただきました。飯山さんの人生について、少しでも多くの方の記憶にとどめていただける機会になれば嬉しいです。
ラジオ深夜便▽ 『明日へのことば』アンコール <吃音 もどかしさの中で>
NHKラジオの「ラジオ深夜便」に昨年出演させていただいた回が、アンコールで7日早朝に再放送されました。
再放送ながら多くの人に聴いていただけたようでした。
14日朝までは、以下のリンクから聴けるので、よろしければ是非。
【聴き逃し】ラジオ深夜便 | 11月7日(土)午前4:05放送 | 関西発ラジオ深夜便▽ 『明日へのことば』アンコール <吃音 もどかしさの中で>ライター・近藤雄生さん NHKラジオ らじる★らじる
この放送の翌日である今朝、バイデンさんの当確の報が流れました(よかった!)。バイデンさんも吃音で苦しんだことで知られる方だけに、偶然ながら、不思議な縁を感じるタイミングの放送となりました。
早朝4時という時間帯ながら、放送後には『吃音』のアマゾンの在庫が一掃され、すごく多くの人が聞いているのだなあ、と実感したのでした。
八木順一朗監督『実りゆく』、10月9日より新宿武蔵野館ほか全国公開
前回紹介しましたが、先月、八木順一朗監督『実りゆく』を渋谷での試写会で観る機会をいただきました。
家族や夢をテーマにした、吃音のある青年が主人公の青春映画。想像以上に素晴らしい作品でした…!泣けて笑えて心に染みました。
監督は、この映画を作るにあたって、拙著に登場する吃音のある子のお母さんに会いに行き、そのお母さんの気持ちを念頭に映画を作ったとのことでした。
主人公とお母さんの関係が重要な役割を果たすこの映画で、ぼくは何度も、そのお母さんと息子さんのことを思い出して、たびたびこみ上げてしまいました。
吃音のある人にも、ない人にも広く観てもらいたいです。10月9日より、全国公開です。
また観たいです!
minoriyuku-movie.jp
月刊「文藝春秋」2月号(1月10日発売)<著者は語る>
刊行から今月で早くも丸1年になりましたが、先週発売の月刊「文藝春秋」2月号(1月10日発売)に『吃音』の著者インタビューを掲載していただきました。
<「思うように喋れないのって、社会から自分が隔離されているような気分になるんです。そういう悩みを抱えている人が、この世界にいることを知ってもらいたかった。」>
引き続き、よろしくお願いします…!
一方、先日書いた通り、
https://www.yukikondo.jp/blog/2020/1/5/2020
最近若干、自分の吃音の感覚が戻ってきた感じがあり、気になってます。ここ一週間くらいは全然そんなことなくてちょっとほっとしていたものの、今日、大学の体験入学の講義をしたら、だいぶ言葉が発せなくて、話しづらく、言葉を言い換えたり不本意な言い方になったりして、普段よりだいぶ消耗してしまいました。もう何年もこんなことなかったのに…。
いやあ、戸惑ってます。。吃音の複雑さ、わからなさを改めて体感してます。
吃音の感覚が若干戻りつつある2020年の年始のご挨拶として
先ほど、今年最初となる原稿を書き終えて送信しました。いよいよ年末年始の休みも終わり、本格的に新しい年が始まるなあという気がしています。
昨年1月に『吃音 伝えられないもどかしさ』を上梓してから早くも1年になりますが、昨年は年始から年末まで、この本に関連する仕事で過ぎていったように思います。想像していた以上に多くの方に読んでいただき、吃音について少なからぬ方が理解しようとしてくださるのを感じられたのが何よりも嬉しいことでした。そして本を通じて多くの当事者と再会できたり、新たに知り合ったりすることもでき、忘れがたい一年となりました。
その一方で、実は最近、自分自身の吃音が少し戻ってきたような感覚があり、人に話しかけるときに不安な気持ちが頭をよぎったり、話しながら言葉を置き換えたりしないといけなかったりすることが生じるようになっています。2013年ぐらいからほぼなくなっていた感覚が戻ってきて正直困惑したり、若干不安になったりしています。
本を出して以来、吃音について話したりすることを続けていたのが関係しているのだと思いますが、改めて自分自身、決して吃音が過去のことになったわけではなく、いまなお当事者として吃音と向き合っていかなければと感じています。
とはいえ、このまま以前のように吃音で困ることが出てきても、年齢もせいもあるのか、かつてのようには悩まないような気がしています(いや、わかりませんが……)。自分自身の状態がこれからどうなっていくのか、冷静に見ていきたいというような気持ちです。
また、本書を複数のノンフィクション賞にノミネートしていただけたことは、書き手としてとても嬉しいことでした。次は、宇宙や物理学をテーマにしたノンフィクションを書こうと動き始めていますが、精魂を込めて書き上げた『吃音』を評価していただけたことは、次作へ向けて大きな励みにもなっています。
『吃音』に5年、『遊牧夫婦』もシリーズ3巻で約5年がかかっています。1作5年だと、あと4作書いたら60代、6作書いたら70代。いつまで書き続けられるのかはわからないし、残りの人生でできることは決してそう多くはないことを実感しています。
それゆえに、日々を大事にするとともに、なんとか次作は3年ぐらいで形にしたいところです。必要な収入を得ることは前提として、今後は、それ以外についてはできるだけ多くの時間を、自分が残りの人生で世に残したいと思える本を書くことに費やせるようにと、仕事の仕方も考えていくつもりです。
2009年に帰国して以来初めて、年賀状を一枚も書かずに年を明けてしまいました(お返事だけとさせていただきました)。来年からはついに自分も年賀状を断念することになりそうで、身近な方たちには、この文面を新年のご挨拶にかえさせていただきたく思っています。
春に5年生となる長女、小学校入学となる次女、そして二人で旅をしていた時から常に冷静に物事を判断し続けてくれる妻とともに、今年もいい一年にしたいです。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。
近藤雄生
重松さんとのトークを半年経って振り返り、いま少し補足したいこと
先日、ウェブ「考える人」にアップされた重松清さんとのトークは、今年5月に行われたもので、すでに半年以上前。その後、いろんな場で話したり、人と会ったりを繰り返すうちに、いまならこんなことも話したかもしれないと思う点があり、少し補足まで。
記事の中には含められなかったのですが、重松さんとのトークの時、「辛さを抱える吃音の当事者はどうすればいいのか」という問いに対して、ぼくはどう答えていいかわからず、ただ「わからない、解決策がない」という感じで答えたように記憶しています。それに対して重松さんが、「解決には至らなくても理解してもらえたら、それだけでも意味があるのでは」といった趣旨のことをおっしゃったときに、ああ、そうだなあと思いつつも気持ちをうまく表現できなかったことも記憶しています。
その後もしばらくは、解決策がないという難しさばかりに意識が向かいがちだったのですが、ここ数カ月の間に、多くの当事者の方たちと話し、やり取りをする中で、改めて、人と人がつながることの意味の大きさを強く実感するようになりました。特に10月に、大阪で開催された言友会全国大会の際、当事者同士で夜遅くまで語り合った時にそう感じました。吃音に関わる困難そのものを直接的に解決できなかったとしても、やはり当事者や関係者がお互いにつながれる場があることはすごく大きな力になる、と。
いま、若い人たちを中心に、当事者同士、LINEでお互いの気持ちを共有する場を持ったり、定期的に集まって交流したり、という機会が多くなっています。それは本当にいいことだなって思いますし、きっとそれは一つの解決策というか、それぞれが困難を乗り越える大きな力になっているのではないかと感じます。
しかしその一方、そういう場や人間関係を持てない人もいると思います。そういう仲間を持てている人は当事者全体からみたら少数なのかもしれません。そのような中で、最近自分が思うのは、辛いときには「逃げる」という選択肢を持っておくことの大切さです。
学校でも職場でも、辛くてどうしようもなかったりしたら、無理して行き続けることはないし、行かない、またはやめる、という選択もしていいんだっていうことをどこかで思っておいてほしい、とよく思います(この夏ごろ、しばらく保育園に行くことができなくなった娘を見ていた影響もあるかもしれません)。もちろん、いろんな状況から、簡単にはそうはできないかもしれないけれど、でも、生きているのが嫌になるくらい本当に辛かったりしたら、何をおいてもまずそこから逃げる、ということをしていいし、する方法を考えてほしい、と。
そこまで至らなくても、辛かったら、弱音を吐いたり、人に頼ったりすることも必要で、決して我慢してがんばるのがいいわけではない。とにかく、自分が楽になることを第一に考える、ということが何よりも必要な時はあるし、そういう気持ちをどこかに持っておいてほしい、といまはよく思います。
『吃音』出版後、重松さんとのトークをはじめ、いろんな人とやり取りをしていった中でのいまの気持ちを、記録まで。
「吃音」をもっと知るために~重松清が近藤雄生に聞く
すでに半年がたってしまいましたが、重松清さんに聞き手となっていただく形で5月に下北沢のB&Bで実現した、拙著『吃音 伝えられないもどかしさ』の刊行トークイベントが記事になり、ウェブ「考える人」に掲載されました。
重松さんの素晴らしいリードとお言葉の数々、熱心に聞いてくださった来場者の皆さまのおかげで、深く心に残るイベントになりました。今日から4日間連続更新の全4回です。是非多くの方に読んでいただきたいです。
どうぞよろしくお願いします。
「吃音」をもっと知るために~重松清が近藤雄生に聞く
重松さんにいただいた書評も、改めて掲載してもらっています。未読の方は是非こちらもどうぞ。
〈書評〉理解されない苦しさ、を理解するために。
大阪で開催された言友会全国大会に参加して
10月13日と14日、大阪で、吃音の当事者団体である言友会の全国大会に参加しました。
台風の影響で、3日間だったところ12日が中止となるなど、直前まで大変な状況ながら、実行委員の皆さんのご尽力によって素晴らしい大会になりました。さまざまな充実したプログラムがあり、全体での会も、分科会も、参加したものはどれも印象に残る時間となりました。僕はその中で講演の機会をいただきました。
実行委員のみなさま、改めてお疲れ様&ありがとうございました。
夜は会場に併設されたユースホステルに皆で宿泊して深夜遅くまで懇親会。多くの当事者の人たちと話しながら、多く笑い、いい出会いに嬉しくなるとともに、それぞれの経てきた日々を思い、胸が熱くなること多々ありました。吃音のみならず、個々の様々な問題について、互いに想像力と寛容さを持ち合える社会になってほしいと改めて思いました。
吃音の問題についていえば、自分が学生で悩んでいたころに比べると、ネットによって当事者同士がつながり、問題を共有し合うことが容易になったことは本当に大きいと思います。それでも、職場や学校で吃音で困り悩むときはそれぞれ一人。その苦しさを軽減するのは容易ではありません。だからこそ、苦しいときは、弱音を吐き、人に頼り、逃げるという選択も大事だと思うし、逃げていいんだと思ってほしいです。無理をせず、それぞれ自分が楽に生きられる方法を考えてほしい。僕にとっては、それが旅へと出ることでした。
一方、拙著『吃音 伝えられないもどかしさ』に寄せられた多くの感想からは、当事者ではない人の多くが、吃音について真剣に考えてくれていることを感じました。からかわれたり、笑われたり、というネガティブな経験を持っている当事者は多いけれど、それはきっと吃音の困難が知られていなかったことが大きくて、ちゃんと知ってもらえたら、少なからぬ人は理解してくれようとするのではないかと感じました。そこに希望を感じるし、本に寄せられた数々の温かい言葉から、きっとそうなんだと思うようになりました。
同時に、私たち当事者の側も、当事者でない人が問題を理解することが難しい、ということを理解する必要があると感じています。それは吃音以外のあらゆる問題でも同じはずであり、自分たちも、吃音以外の問題を抱えている人を知らずに傷つけているかもしれない。そのことを意識しなければならないと思います。
みながお互いにその可能性を意識しつつ、想像力を持ちあうこと。お互いに、自分とは違う立場の人に寛容になること。そんなことが大切なのではないかと、改めて思うようになっています。
そんなことを講演会でお話しさせていただきました。
本当に素晴らしい大会でした。
また皆さんにお会いできる機会を楽しみにしてます。
実行委員のみなさま、本当にありがとうございました!
母校で講義 & 各賞の選評を読む
先週、母校の高校で講義をする機会をいただきました。じつは2011年3月に、高校に講義のために呼んでいただいたことがあったものの、直前に東日本大震災が起き、急遽キャンセル。それから8年半が経って、また違った形で実現しました。今回は、障害講座で吃音について話してほしいというご依頼で、生徒や保護者の方々の前でお話しさせていただきました。
自分が吃音で悩みだしたのが、まさに高校時代だったこともあり、話しながら当時の感覚が蘇りました。バスケ部でキャプテンをしていたとき、円陣を組んで掛け声をかけるのが本当に嫌で、悩んだなあとか。その一方、考えてみたら、授業中などでは不思議なことに吃音で悩んだ記憶はほとんどない。なぜだろう。
学校全体の雰囲気もほとんど変わってなく、校舎や体育館を見ては懐かしい日々が思い出され、ああ、青春だったなあ、と感慨に。校内を歩いている中、当時いらした先生の何人かとも挨拶。すでに卒業から24年かあ、としみじみ。
そしてその帰りに、コンビニで『週刊現代』と『週刊新潮』を購入。今号にそれぞれ、講談社本田靖春ノンフィクション賞と新潮ドキュメント賞の選評が載っているのです。両賞とも落選ではあったものの、各委員からお褒めの言葉をいただいて大いに励みになりました。しかし、ギリギリだったと言われると、嬉しさとともに残念さも増してしまう。でもその思いは、次作へのエネルギーにしなければと思います。
新潮ドキュメント賞にノミネートされました。
連日になりますが、新潮ドキュメント賞の候補作品も先ほど発表になり、こちらにも拙著『吃音 伝えられないもどかしさ』を選んでいただきました。ありがとうございます。8月23日に発表です。
https://www.shinchosha.co.jp/prizes/documentsho/
Yahoo!ニュース|本屋大賞「2019年 ノンフィクション本大賞」にノミネートされました
先ほど、 Yahoo!ニュースと本屋大賞による「2019年 ノンフィクション本大賞」のノミネート作品の発表があり、拙著『吃音 伝えられないもどかしさ』も、その6作品の中に入りました。投票していただいた書店員の皆さま、ありがとうございました。
https://news.yahoo.co.jp/promo/nonfiction/#section-nominee
これを機に、拙著もさらに多くの人に届いてほしいと願うと同時に、ノミネート作品のみならず、ノンフィクションという分野全体が盛り上がる一つのきっかけになってほしいなと思います(この賞の創設の目的がまさにその点なのですが)。
次に自分がどのようなテーマに取り組むべきかずっと考えてきましたが、ようやく、ぼんやりとながら、これを書きたい!と思うテーマがここ数日の間に見えてきました。今ぼんやりと頭に思い浮かべているテーマを、なんとか数年のうちに、実際に手に取れる本の形にしていきたいです。
『吃音』は、一昨日5刷が決まりました。想像以上に多くの方に、想像していた以上に多様な形で「伝えられないもどかしさ」を受け止めていただいていることが感じられて嬉しいです。読んでくださったみなさま、本当にありがとうございます。
講談社 本田靖春ノンフィクション賞、残念ながら受賞ならずでした
今日は午後、東京での取材を終えて、夕方、講談社 本田靖春ノンフィクション賞の結果を待つため新潮社へ。担当編集者と編集長とともに新潮社クラブで緊張の1時間を過ごした後に連絡があり、はっと息を止めた数秒後には、受賞には至らなかったことを知りました。
思ってた以上にずっしりとショックを受けましたが、その後、残念会的に美味しいジンギスカンを3人で食べに行っているうちに気持ちがだいぶ切り替わりました。
そして松本創さんの『軌道』が受賞したこと、自分の残念さとは別に、改めてよかった!と思いました。松本さんが10年以上の期間をかけた素晴らしい作品です。是非これを機にさらに広く読まれますよう。
応援してくださった皆さま、どうもありがとうございました!