7年以上にわたった「月刊すこーれ」連載「子どもの"なぜ"へのある父親の私信」が終了

2018年から7年以上にわたって「月刊すこーれ」(スコーレ家庭教育振興協会刊)で続けさせてもらった連載「子どもの"なぜ"へのある父親の私信」が、2025年12月号でついに終了することになりました。

元『ミセス』編集長の岡崎成美さん(「月刊すこーれ」編集長、今年『戦下の歌舞伎巡業記』を出版されました!)にお声がけいただいて始めることになったこの連載では、毎月2つの「子どもからの問い」にそれぞれ700~800文字程度で自分なりに回答するというものでした。幼かった娘たち(現在高1と小6)にはいつも、何か疑問があったら言ってもらい、それをヒントに毎月、2つの問いを考えていきました(うまく文章化できるものが見つからず、結果として完全に自分で考えた問いも少なからずありましたが……)。

娘たちの問いを聞いて、「あ、そんなこと考えたこともなかった!」と思うことも多々あって、回答を考える中で自分自身の見方も様々に広がった気がします。また、子どもたちにとっても、身の回りのことについていろいろと考える機会になっていたようです。そしてまた、この連載の一部をまとめて、2023年に『10代のうちに考えておきたい「なぜ?」「どうして?」』(岩波ジュニアスタートブックス、岩波書店)という本を出版することができたのも、とても嬉しいことでした。この本の内容は、最近もちょくちょく小中学生の教材や模試の問題などとして使っていただいています。

SNSしかり、生成AIしかり、今の子どもたちは、外から与えられる情報をただ受け止めることだけで疲弊してしまう時代に生きています。そうした中で僕自身、自分で考えることの大切さ、外から入ってくる情報を前に一歩立ち止まって考えてみることの大切さ、自分で考えたことに基づいて自分なりに行動してみることの大切さ、自分が正しいと思っていることも常に疑う気持ちを持つことの大切さ、自分とは違う立場の人が何を考え、どのように生きているかを想像することの大切さ、などを日々痛感しています。

そんな思いを抱きながら、連載を書き、上の本を書きました。
7年にもわたって連載させていただけたこと、ありがたかったです。
岡崎さん、月刊すこーれのスタッフや読者の皆様、どうもありがとうございました。

『10代のうちに考えておきたい「なぜ?」「どうして?」』、これからも機会がありましたら、手に取っていただければ幸いです。

『月刊すこ~れ』連載 「子どものなぜへのある父親の私信」第3回(2018年11月号掲載)

『月刊すこ~れ』2018年11月号掲載の連載第3回です。

Q シイタケが嫌い。でも、「好き嫌いしないで、食べなさい」って言われる。なぜ、嫌いなものも食べないといけないの? 

A ぼくも子どもの頃、シイタケが嫌いでした。いまは美味しいって思うけれど、当時は、なんでこんなものを好んで食べる人がいるのだろうと不思議でした。でもやはり、親には「食べなさい」って言われたし、いま自分自身、子どもに対して、好き嫌いはよくないよと、当然のように言っている気がします。
 でも、「どうして嫌いなものも食べないといけないの?」と問われると、じつは少し考えてしまいます。栄養が偏らないようにというのが、おそらく一番よく言われる理由でしょう。でも、よく考えると少し疑問も。もちろん、野菜を一切食べなかったり、嫌いなものがすごく多かったりすれば、栄養が偏って身体によくないと思いますが、たとえばシイタケだけを食べなくても、そんなに問題ではないのでは? 栄養という意味では、きっと他の食べ物で補えるし、何か一種か二種だけを食べなかったから病気になるということはおそらくないような気がします。そう考えると、嫌だなと思うものを無理に食べる必要は、ないのかもしれません。そのためにご飯が楽しく食べられなかったら、その方が問題のようにも思います。
 ただその一方で思うのは、食事にはいつも、作ってくれた人がいるということ。お母さんやお父さん、おばあちゃんやお店の人。好き嫌いしないで食べられたら、そういう人たちが喜んでくれるということはきっとあります。特に、毎日のご飯を作ってくれる人、たとえばお母さんやお父さんは、家族が何でも食べてくれたらきっと嬉しい。ぼく自身、まさにそうです。逆に、自分が作った料理を子どもが、「これは嫌!」って言って残したら、悲しい気持ちになってしまいます。
 でも、作った人のことを考える以上に、好き嫌いなく何でも食べられたら、きっといつも食事が楽しくなるし、毎日の喜びも増えるはずです。それが何よりも大切なようにも思います。そのことを知っているから、大人は子どもに、好き嫌いしないように、っていうのかもしれませんね。  

Q 猫や犬を殺してはダメ。でもどうして牛や豚は食べてもいいの?

A 多くの日本人は、牛、豚や鶏を肉として食べることにおそらく抵抗はないでしょう。でも犬や猫を食べることは、普段はまずありません。ペットとして飼い、一緒に暮らす対象です。しかし韓国や中国では、犬を肉として食べることもあります。一方、インドに行けば、牛はとても大切にされていて、基本的には食べません。また、イスラム教の国では豚を食べないのですが、その理由は、大切にされているからではなく、汚い動物と考えられているからです。そしてオーストラリアでは、牛や豚などに加え、カンガルーもよく食べられます。とてもたくさんいるからです。
 こうしてみると、人がどの動物を食べて、どの動物を食べないかは、その国や地域の風土、文化、宗教など、様々な要素と関係しているのがわかるでしょう。
 つまり結局は人間側の都合であって、どの動物は食べてよくて、どの動物はダメ、ということにみなが納得する客観的な基準はありません。
 ただ、確かなのは、生物は生きていくためには他の命を食べなければならないということ。人間も、他の生命を殺し、食べることがどうしても必要です。しかしそれは本当に重いことです。自分たちは他の生命によって活かされているのだということを、私たちは常に意識しておかなければならないと思います。
 昔、アマゾンのある民族の話を読んだことがあります。その民族の人たちは、子どもが生まれると、一匹の子猿を飼い、子どもとともに育てるそうです。すると子どもと猿は、仲の良い親友として一緒に大きくなっていきます。しかしその子が、一定の年齢に達し、大人になる儀式を行う時に、その猿を殺してみなで食べなければならないのです。その子は当然、とても嘆き苦しみます。残酷なことに思えるかもしれません。しかし、他の生命を食べて生きていくというのはこういうことなのです。そのことをしっかりと知って生きていかなければならないのだ、というこれ以上ない教育法なのでしょう。
 私たちはいま、食べることの重さを少し忘れすぎているのかもしれません。

『月刊すこ~れ』連載 「子どものなぜへのある父親の私信」第9回(2019年5月号掲載)

『月刊すこ~れ』2019年5月号掲載の連載第9回です。

Q ニュースを見ると、世界ではいつもどこかで戦争が起きているし、日本もいつも近くの国といがみ合ったりしているように見えます。国と国って仲良くはなれないの?  

A 大学時代に受けた政治や国際問題に関する講義の中で、先生が次のようなことを言っていたのが強く印象に残っています。
「国と国の関係も、基本的には一対一の人間の関係と同じです。喧嘩もするし、仲良くもなる。ただ、関係をつくる上で考えなければならない要素が、人と人の場合より多くて、複雑なだけ」だと。
 国と国の関係も、人と人の関係も、基本は同じ。どちらにしても、気が合うか合わないか、感覚的に好きか嫌いかということが関わってきます。ただし、国と国の関係の場合、ものすごく多くの人の生活、そして政治、経済、歴史など、様々な要素が関係してくるために、お互いに意気投合できる部分と、いや、そこは認められないと対立する部分が必ず出てきます。そうした中で、何か問題が発生したり、うまくいかないことがあったりした場合に、ニュースとして伝えられることが多いので、テレビなどを見ていると、いつも関係が良くないように見えるのかもしれません。
 そして、関係がうまくいかない点ばかりを目にしていると、そのうち本当に相手に対していい感情を持てなくなることも考えられます。その結果、お互いに相手を嫌いになり、対立が増して、ついには戦争へと発展してしまうことも……。
 嫌だなと思う友だちでも、ふとその人のいい部分を目にすることで、あ、やっぱりいいやつかもしれない、もうちょっと話してみようかな、と思い直したことがある人はいるのではないでしょうか。国と国の関係もきっと同じはず。
 特に文化や常識が異なる相手については、誰でも誤解したり、警戒したり、違和感を持ったりしがちです。だからこそ、国同士の関係においては意識して相手のいい部分を探して、そこに目を向けることが大切だと思います。
 私たち一人ひとりの感情が積もり積もって国と国との関係につながっていきます。ニュースなどを見るときに、ふとここに書いたこと思い出してもらえたら嬉しいです。

Q テレビや新聞で見たことをうのみにしてはいけないよ、って先生に言われた。テレビや新聞は本当のことを伝えているわけではないの?

A テレビや新聞のように、様々な情報を伝えてくれるものを「メディア」といいます。普段私たちは、メディアのニュースや情報を通じて、世の中で起こっていることを知ります。最近では、インターネットの発達によって、ありとあらゆる意見や情報を簡単に知ることができるようになりましたが、そうした中で、テレビや新聞といったメディアは、情報を伝えることを職業とする人たちが、時間やお金をかけて調べ、内容を吟味したうえで発信する情報であるという点で、信頼性が高いといえます。
 でも、だからといって、それらのメディアが伝える情報がいつも正しいのかといえば、必ずしもそうではありません。それは、テレビや新聞がウソを伝えているというわけではなく、メディアとはそういうものだということです。
 たとえば、同じ日に出た複数の新聞を見比べてみると、一面に載っているニュースは新聞ごとに違います。それは、新聞社によって、どのニュースが大事かという判断が異なるからです。つまり、新聞は決して客観的なわけではなく、作り手の意図や価値判断が含まれているということです。ある新聞では大事なニュースだと判断されて大きな記事になっている出来事が、別の新聞では、自分たちの考えに合わないから目立たない小さな記事にしよう、といったことが当然あります。また、賛否両論ある政治家の発言について街の人の声をテレビで紹介する場合、賛成意見を紹介したあとに反対意見を紹介するのか、その逆にするのかで、見ている人の印象は大きく変わります。一般に人は、後に紹介した意見の方を正しく感じる傾向があり(伝え方にもよりますが)、そのような性質を利用して、メディアは自分たちの考え方に合った方法で伝えようとします。
 すなわち、どんなメディアも、作り手の考え方が反映されたものになります。うのみにしてはいけないというのは、そういうことでしょう。これは、メディアに悪意があるということではなく、情報とは必ずそういうものだということです。そのことを知っておくと、ニュースなどをより深く理解することができるはずです。

 

『月刊すこ~れ』連載 「子どものなぜへのある父親の私信」第8回(2019年4月号掲載)

『月刊すこ~れ』2019年4月号掲載の連載第8回です。

Q 中学生になって以来、「もう子どもじゃないんだから」と言われたり「まだ子どもなんだから」と言われたり。大人の都合で使い分けられているような……。いったい自分は子ども?大人?  

A 中学生になると電車などが大人料金になるせいか、ぼくも中学に入った時、自分も大人の仲間入りだと思った記憶があります。でも振り返ると、中学生はやはり子どもの側だろうと思うし、ほとんどの大人は同じように考えている気がします。おそらくそう思いながらも「もう子どもじゃないんだから」と言ったりする。それは中学生のみんなが、自分は大人になりつつあるんだという自覚を持てるように後押しする意味と、あとはまさに、都合よく使い分けているのでしょう(笑)。
 それはさておき、人はいったいいつ、子どもから大人に変わるのでしょうか。大人と子どもの違いは何なのでしょうか。
 成人となる二十歳を境目だとするのが最も客観的と言えるかもしれません。また、働き出したら大人、自分で生活を営むようになったら大人、という意見もあるでしょう。つまり人によっていろんな捉え方があるように思います。
 そうした中で、ぼくにとってもまた、自分なりに考える大人と子どもの境目があります。それは、自分がいつか死ぬ、ということをはっきりと意識できるかどうか、であると考えています。ぼくは二十九歳でちょっとした手術をする機会があり、その際、自分ががんになるかもしれない可能性を意識することになりました。そしてそのとき初めて、自分もいずれ死ぬんだという実感を得ました。それはショッキングな気づきでしたが、しかし同時に、そう実感できて以来、毎日がとても貴重に思えるようになって、生きていく上での心構えが変化したように感じています。
 言い換えるとそれは、人生もう後戻りはできないんだと自覚することなのだと思います。年齢には関係なく、その気持ちを持ったときに人は、行動や考え方に変化が生じ、子どもだった時代を終えるのではないかという気がしています。それが具体的にどんな変化なのかは人によって異なると思いますが、戻れないという事実を受け入れ、向き合うようになったときに人は大人なるのかな、と。でも、そうすると、大人になるのはまだだいぶ先になりそうかな?         

Q 私は自分自身の中に、どうしても受け入れられない嫌いな部分があります。どうして自分だけこんななんだろう、って思ってしまう。どうしたらいいでしょう。

A 自分自身について受け入れられない嫌いな部分というのは、いわゆる「コンプレックス」と呼ばれるものだろうと思います。能力や容姿、性格などについて、自分が望むような状態ではなく、できることなら変えたい、直したい、と思う点。それが具体的に何なのかはわかりませんが、きっと、あなたにとって大きな問題なのだろうと想像しています。
 だとすればおそらく、誰かに、大丈夫だよ、気にすることないよ、などと言われても解決することではないかもしれません。むしろ、簡単にわかったようなことを言ってほしくないという気持ちになるかもしれません。それゆえぼくは、あなたがそれを乗り越えたり受け入れたりするのを願うことしかできないようにも思います。ただ、もしかすると参考になるかもしれない自分の経験を一つ書いてみます。
 ぼくは、高校時代から吃音、つまり、話すときにどもることで悩むようになりました。うまく話せなくて意思疎通ができなくなることがあったり、どもる姿を見られたらどうしようといつも考えてしまったり、とても大きなコンプレックスでした。自分にとってその悩みは深刻で、なんとか克服できないかといろいろ試みましたが、叶わず、結局ぼくはそれをきっかけに就職するのを断念しました。そして、考えた結果、旅をしながらフリーでライターとしてやっていけないかと、大学院を修了後に日本を離れて文章を書き始めたのでした。つまり、ぼくが文筆業で生計を立てるようになった発端は、自分のコンプレックスだったのです。そしていまは、そのような選択をしてよかったと思っています。
 一概には言えないけれど、コンプレックスをなんとかしたいと悩む気持ちは、自分の人生を動かす原動力にもなりうるように思います。嫌だという気持ちに素直になって、では、どうすれば自分は生きやすいのかを考えると、あなたならではの生き方が見えてくるかもしれません。
 ちなみにぼくの吃音は、旅の途中でなぜか突然消えていきました。その理由はわかりません。