20代のころ、旅する自分の背中を押してくれた『婦人公論』の「ノンフィクション募集」。荻田泰永さんと河野通和さんの対談から蘇った記憶。

冒険家の荻田泰永さんが主催する「冒険クロストーク」で荻田さんと河野通和さんの対談を見た。河野さんは『婦人公論』『中央公論』『考える人』などの編集長を歴任された編集者。対談では、河野さんの青年期、編集、野坂昭如、婦人公論、本、冒険、考えるとは…、興味ある話題ばかりで、3時間半という長さながら、飽きる所がなかった。

感想はとてもたくさんあるのだけれど、自分にとって特に大きかったのは、ずっと忘れていたかつての記憶がふと蘇ったこと。それは河野さんが編集長をされていた『婦人公論』のことである。

僕は長い旅に出る前の2002年ごろ、ライターとして一つでも実績を作るために、いくつかの雑誌の賞に、手探りで書いたルポを 送ったりしていた(当時はネットで書くという選択肢はほとんどなく、ライターになるためには紙の雑誌に書く場を見つけなければならなかった)。そのため当時、本屋に行ってはいろんな雑誌を見たり買ったりしていたのだが、 その中で確か知る限り『婦人公論』にだけ、「読者体験記・ノンフィクションを随時募集しています」といった記載があった。

河野さんのお話から考えると、 当時『婦人公論』はリニューアルしてすでに4年ほど経っていたことになるが(河野さんは、1998年の同誌のリニューアル時から数年の間編集長をされていたとのこと)、なんとなく自分の中に、表紙がスタイリッシュになって新しくなった雑誌という印象があり、内容も自分の感覚に近いような印象があった。加えて、ノンフィクションを募集している雑誌としても記憶に残った。

そして2003年6月、僕は結婚直後の妻とともに旅に出た。旅をしながら、なんとかライターとしての道筋を構築するために、ほとんどツテも縁もない中で、書いたものをいろんな雑誌にメールで送ったりしていたが、送る先はほとんど、ネットで見つけたinfo@出版社名.co.jpとかwebmaster@出版社名.co.jp的なアドレスだった。当然返事は期待できなそうな中、『婦人公論』だけは、原稿を募集しているし、でも旅の話なんてお門違いかなあとか…、いろいろ思いながらも、堂々と送ってもよさそうな媒体だった。そして旅のことだったか、取材したことだったかを、オーストラリアからだったか、東ティモールからだったか、送ったのだった。

すると思いがけずご丁寧な返事が届いた。原稿の掲載は難しいという内容だったものの、読んで返事を下さったことがとても嬉しく、 それからまた別なのを送って、また返事をもらい、 ということにつながった。結局原稿が掲載されることはなかったものの、やり取りができたことに背中を押された。その後、5年にわたった旅の日々の最初の時期、つまり、ライターとして全く仕事になっていなかった時代に、投げ出すことなくなんとか書き続けていくための原動力の一つに、『婦人公論』から届いたメールは確かになっていた。その時に送った原稿は、『遊牧夫婦』の元型の一部になっていると思う。

その時、お返事をくださった編集者はTさんで、 いま、中公新書の編集長されている。旅を終えて日本に帰ってから、 お会いしに行ったり、やり取りさせていただいたり、 ということにつながっていった。

そして、Tさんとのつながりから、旅の終盤、2007年~08年、ユーラシアを横断している最中には、『中央公論』のグラビアページに、 写真と短い文章を2度掲載していただいたが(中国西部で出会ったイスラム教徒たちの姿と、スイスの亡命チベット人の僧侶の姿)、その時の編集長はおそらく河野さんだったことを知り、思わぬご縁を感じるのだった(河野さんとはその後、氏が『考える人』の編集長をされていた時に同誌で連載をする機会をいただいたりして、以来いろいろとお世話になっています)。

いずれにしても、当時の『婦人公論』の、 「読者体験記・ノンフィクションを随時募集しています」 という記載は、先行きが見えなかった自分にとって、 一つの目標となるような、数少ない希望になっていた。また、ライター経験はほとんどなく、海外で旅をしながらメールで文章を送ってきた若者にお返事をくださったTさんにすごく励まされたことはいまもよく覚えているし、本当にありがたかった。 そういう意味で、『婦人公論』には助けられた感覚があり、いまもなんとなく身近であり続けている。原稿を書いたことは今なおないのだけれど。そして同誌のサイトを見たら、同様の「ノンフィクション募集」の記載がいまもあり、嬉しくなった。

『婦人公論』のことを書いていたら、また別の形で背中を押してもらった媒体がいくつかあることを思い出した。その編集者の方たちが下さった一本のメールが、いまの自分へとつながっているんだなあと改めて思った。

                   *

下の写真は、旅出してから間もないころ、オーストラリア東部のカウラという町で、日本人捕虜暴動事件について取材らしきことをしていて、地元の新聞社を訪ね、事件の関係者を探しているといったら載せてくれた記事(Cowra Guardian, July 4, 2003)。急にこの記事のことも思い出し、探したら出てきた。

10日前に日本を出たところ、と記事に。一番の連絡先が滞在していた安ホテルの電話番号になっているのがすごい。メールアドレスも載せてもらっているけれど。当時は携帯電話も持ってなかったし、メールより電話だった時代なような。
『婦人公論』に送った原稿にも、この事件のことを書いた部分があったような…。

旅立ちの日から20年。

昨日(6月22日)で、『遊牧夫婦』の長い旅に出発してからちょうど20年だった。

旅立ちの時考えていたのは、数年間、旅をしようということ。26歳だった自分にとって数年というのは永遠のように思えたし、旅の終わりなど来ないように思っていた。また、できることなら、いつまでも終わりのない旅がしたいと思っていた。そのためにも旅をしながらライターとして稼げるようにならねばと。

しかし5年旅して、終わりがあるからこそ旅なんだと感じるようになった。何を見ても、ほとんど感動することがなくなってしまったからだ。そして思った。終わりがあるからこそ、人は感動するし、生きる原動力も湧くのだろう、と。旅も人生も。それが5年旅しての最大の気づきだったように思う。

そしていま改めて、そうだなと思う。

ところが、昨年あるコラムに自分がこんなことを書いていたのを思い出した。

ロームシアター京都のサイトへの寄稿「終わりがあるからこそ、と思えるように」より

そういえば去年、終わりがあるからこそ、と思えなくなっていたのだった。そのことを忘れていた。そしていままた、終わりがあるからこそ、と思えている自分に気づかされる。
それはもしかすると、最近、とても親しかったある人の死に向き合わないといけなかったからかもしれない。彼女の死のあとからなんとなくまた、終わりがあるからこそ、と思えているような気もする。去年、上のように書いていたことをいまはすっかり忘れていたのだ。

こうして移りゆく自分の気持ちもまた、記憶しておきたいと思う。

2003年6月23日、シドニーに降り立つ前の飛行機から。

2008年9月30日 旅の最後に撮った写真。マラウィ湖からモザンビークの大地を望む。

眞子さんの結婚会見を見て、香田証生さんのことを想い出す

眞子さんの結婚会見を見て、結婚の会見で謝らないといけない状況に追い込む日本って本当に辛いなあ、と感じました。

思い出したのは2004年にイラクで香田証生さんが亡くなった後にご両親がお詫びの言葉を発表したことでした。息子を殺された親がまず謝らないといけない社会って何なんだろうと当時思ったのですが、それからずっと変わってないんだなあと愕然としました。

いや、いま思えば2004年は、SNSもまだ黎明期だったし、状況はいまよりずっと穏やかだったのかもなあとも思ったり。

そんなことをツイートして、興味ある方がいればと思い、拙著『中国でお尻を手術。』の香田証生さんについて書いた部分もアップしたら思っていた以上に多くの人に読んでもらってる感じだったので、こちらにも掲載します。

自分は長旅の途中、タイにいたときに事件を知り、香田さんの死、そして日本の反応が衝撃でした。香田さんが動画で「すみません」とは言ったものの「助けて」とは一度も言わなかったことも心に残っています。

新刊『まだ見ぬあの地へ --旅すること、書くこと、生きること--』が10月29日に発売になります。

新刊のお知らせです。

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旅にまつわる断想集
『まだ見ぬあの地へ --旅すること、書くこと、生きること--』(産業編集センター)https://www.shc.co.jp/book/13537

が10月29日に刊行になります。産業編集センターの「わたしの旅ブックス」というシリーズの一冊となります。

最近全然旅とかしてないのに、いつまで過去の旅を引っ張るんだ…と若干自分で突っ込みたくもなりますが^^;、内容としては、長い旅を終えて帰国してからのこの10年ほどの日々の中で、旅がさまざまな形で自分に与えてきた影響、そしてそこを発端として自分が考えてきたことをまとめたものになっています。

2014~17年にミシマ社のウェブ雑誌「みんなのミシマガジン」に連載していた「遊牧夫婦こぼれ話。」をベースに構成したものですが、その中から、今も違和感なく読めると思ったものだけを選び、書籍化にあたってだいぶブラッシュアップしました。

基本的には過去に書いたものでありながら、結果としては、いまの自分のさまざまな考えや正直な気持ちがこもった、自分にとっても新鮮な本になったような気がしています。この本を書いて、あの旅の5年間の経験がいまの自分の考え方や生き方に本当に大きく影響していることを改めて感じました。

どのように感じてもらえるのか、いつもながら発刊前はどきどきしてしまいますが、ご興味もってもらえたら、手に取っていただけたら嬉しいです。

ちなみに、『遊牧夫婦』シリーズを読んでないとわからない部分があるとか、そういうことは全くないように書いたので、この本だけでもよろしかったら是非。

どうぞよろしくお願いします!

<目次>

はじめに

<第一部 あの日がいまを作ってる>

赤面モノ、思い出の手紙
はじまりの場所へもう一度
いつかまたラマレラで
「違い」はあっても「壁」はない
新年は巡る
いきたくないよう、いやだよう
幻想ではない世界に向けて
旅の生産性

紀行文1 短い旅だからこそ

<第二部 自分にとっての書くということ>

二〇代、まだ何も始めていなかったころ
話を聞いてわかること
思い出すことが糧になる
お金がないっ!
七年前の旅を書き直す
自分に全然自信がない?
何かを選ばないといけないときに

紀行文2 上海の落とし穴

<第三部 旅することと生きること>

取り戻せない自転車旅行
自分の力ではどうにもならないことがある
先の見えない素晴らしさ
あたたかな後ろ姿
もしもの人生
生きることの愛おしさ

紀行文3 荒野を、ヴェガスへ

おわりに

ルート66を「ヴェガス」へ (2014年12月執筆の紀行文です)

(2014年12月にウェブ連載のために書いたものの、諸事情より掲載できなかったアメリカのルート66を巡る紀行文です。とても気に入っている文章ながらお蔵入りしたままだったのでこちらに再掲します。前編、後編と以下に続きます)

 
(前編) 

先月末(=2014年11月末)、海外紀行文の連載の仕事でアメリカ西海岸に行きました。アメリカ大陸は「遊牧夫婦」の旅では行くことができてなく、ぼくにとっては大学1年のとき以来、18年ぶりとなりました。
 今回の一番の目的地はロサンゼルスでしたが、より広大なアメリカを体感するため、車を借りてロサンゼルスの外へも行くことにしました。目指したのはラスベガスです。
 ロサンゼルスからラスベガスへ向かう道は、いわゆる「ルート66」と一部重なります。ルート66は、アメリカ西部の開拓のために1926年に開通した、シカゴ(五大湖の畔、アメリカ中北部の大都市)とサンタモニカ(ロサンゼルス郊外)を結ぶ道路です。すでにその多くの部分は他の大きな道に取って代わられ、その役割を終えていますが、アメリカを語る上で外すことができないこの道を走るのはひとつの憧れでもありました。
 ここを走れば、アメリカを感じられるのではないか。そう思い、撮影を担当してくれている写真家の吉田亮人さんとぼくは、ロサンゼルスからラスベガスへ向けて、NISSANの白い車で走り出したのです――。
                                                             *

  ロサンゼルスを出て5時間ほど経っても、ぼくらはまだロス市内から1時間程度のところにいた。ロス郊外で入ったガソリンスタンドで、キーを中に残したままドアをロックしてしまい、4、5時間立ち往生してしまったからだ。ガソリンスタンドの人たちに助けてもらって道具を借りて自力で開けようとするもかなわない。仕方なくレンタカー会社に電話して救援を呼んでもらうことにしたけれど、それもなかなか来なかった。ようやく問題を解決できたのは夕方6時ごろになってからのことだった。

このまま5時間ほどガソリンスタンドで待つことに

このまま5時間ほどガソリンスタンドで待つことに

 「今日はもうラスベガスまでは無理そうだなあ……」
 そう言いながらも、すでに真っ暗になった中、とりあえず少しでもラスベガスに近づこうとぼくらは再び走り出した。日本の高速に当たるフリーウェイは、片道5,6車線で頻繁に合流と分岐を繰り返す。オレンジ色の灯りの中、他の無数の車とともにひたすら走った。右側走行の運転にはすでにぼくも吉田さんも慣れていた。
 ルート66にはどうやったら入れるのだろう。不覚にもほとんど何も調べていないままだったので、フリーウェイからどうやってルート66を見つけられるのかがわからなかった。ルート66に行くためにはどこかでフリーウェイを降りなければならないはずだが、どこを出ればいいのか検討もつかない。しかも周囲は深い暗闇に包まれていて、どんなところを走っているのかもわからない。
 「これは見つかりっこないな……」
 何度かそう口にし、あきらめるしかないかとぼくは思った。もうこのままフリーウェイを突っ走ってラスベガスに向かうことになるのかもしれないなと。しかし、あるとき、前方に茶色の小さな看板が見えてきた。そこにこう書いてあった。
“Historical Route 66 Next Exit” 
―歴史的なルート66へは、次の出口―
 「サインがあったよ。ここだ、きっと」
 そのサイン以外には何もわからないまま車線を急いで右に移してフリーウェイを降りた。そしてその下の道を走ってみる。しばらくいくと、ここが確かにルート66であることを示す石柱みたいなのものが中央分離帯に立っていた。
 おお、これでいいんだ、と盛り上がる。これを走っていけばきっとそれらしい風景になるのだろう。いつ、果てしない荒野が見えてくるのだろうか。二人でそれを期待ながら走り続けた。
 しかし、行けども行けども風景はこれまで見てきたロス付近の国道沿いと変わらない。ファーストフード店などが道の両脇にただ無秩序に並ぶ、大雑把で投げやりな風景がただ続くだけだった。
「ルート66っていっても、いまはやっぱりこんな感じなのかな……」。
 もうそろそろ、フリーウェイに戻ったほうがいいのだろうか。きっとこのまま進んでも何もないのだろう。カーナビを見ると、このまま東にルート66を進んでいくと、北東にあるラスベガスへ通じるフリーウェイからは離れるばかりのように見えた。そして、21時ぐらいになってからだろうか、通りがかった「バーガーキング」に寄って夕食としたあと、ぼくらはフリーウェイに戻ることにした。
 もうあきらめるしかないのか、とも思った。しかしそれからしばらくフリーウェイを走ると、再び茶色い小さな看板が見えてきた。
“Historical Route 66 Old Town Victorville”
 「オールドタウン」とある。おそらくここを降りたらルート66沿いのVictorvilleという古い町に出るに違いなかった。これだと思い、出口を降りた。そして交差点に出ると、こここそが自分たちの来たかった場所であることがすぐにわかった。
 道路の端にはゴツゴツした岩肌が遠くまで広がっているのが、暗闇の中でもよく見えた。使われてなさそうな建物が複数あり、トレーラーを家のようにしたひと気のないトレーラーハウスもいくつもあった。建物には、ときどき、Route66の文字が見える。空気は常に砂埃で白濁しているかのようでもある。場末感にあふれ、いかにもアメリカ映画の舞台のようなその光景に、吉田さんが言った。
 「おお、まさにこれですよ!映画で見ていたぼくのアメリカの雰囲気って!」
 ぼくらはついに、ルート66の旧跡の町の一つに着いたのだ。
 人の気配のほとんどない中、オレンジ色の街灯だけが闇を静かに照らし出す。ガソリンスタンドなどといくつかの店だけが開いているだけで、人々がどうやって暮らしているのか、ぱっとはわかりにくい光景だった。
 とにかく今日は休もうと、宿を探して適当に大きな道を走ってみた。すると一軒のモーテルが見つかった。こぎれいだったがアメリカらしい寂しげな雰囲気。”VACANCY” (空室あり)という赤い電飾文字が寂しげに光っていた。
 駐車場に車を泊めてレセプションを見ると、アジア系の老婦人が遠い目をしてじっとこちらを見つめている。どこかうつろで不思議な視線だった。その女性の脇を通り、静かに「ハイ」と挨拶をしてレセプションの中に入ると、ヒスパニック系の夫婦が迎えてくれて無事に部屋を確保できた。
 書類にサインをしていると、隣では先のアジア系の女性が、外にいる夫らしい西洋人男性に向かって怒鳴っている。するとあるとき驚いたことに、女性はにわかに日本語で声を荒げた。その声にぼくは思わず振り返った。どうしてこんな場所に、70代ぐらいの日本人らしき女性がいるのだろうか。そしてぼくはつい、「日本の方ですか?」と聞いてしまった。すると彼女は、不快そうな顔つきで眉間にしわをよせてぼくを見ながら日本語でこう言った。
 「え?何?あなたがお迎えに来てくれた方?」
 ぼくはその意味が理解できなかった。ぼくを誰かと勘違いしているのかもしれない。その上彼女は、ぼくが日本人であることには一切興味はなさそうだった。いずれにしても、話しかけるべき状況でなかったことは確かだった。「いや、すみません、違います」と言い、それだけで会話を終え、ぼくらはレセプションを後にした。
 車から荷物を出し、2階の部屋に運びながら、その日系の女性とアメリカ人男性が駐車場で「うるさい!」「FUCK!」と両言語で罵り合う声が聞こえてくる。周囲は暗くてはっきりとは見えないものの、ゴーストタウンのように荒涼として真っ暗な景色の中に、昔ながらの電飾の文字がいくつも浮かんでいる。そのすべてが、この町の寂寥感を色濃く感じさせるのだった。
 ロサンゼルスとはまったく違う世界がここにはあった。アメリカ西部がまだ未開の地であったころとおそらく同じ景色が、そのままここには残っていた。
 来るべき場所にたどり着いた。そう思い、部屋のドアを開けて、ソファに荷物を投げ出した。赤いベッドカバーがかかったこぎれいなベッドの上には木の台が置かれ、その上に聖書が開かれている。その聖書を手にとって薄い紙の感触を手に感じたのち、ぼくは身体をベッドに横たえた。テレビをつけると、アメリカンアイドルというのだろうか、オーディション番組がにぎやかな音を立てている。
 広い荒野の中にいま自分はいる。そのことがうれしかった。明日の朝、外にはどんな景色が見えるのだろうか。いろいろな想像を膨らませながら、ぼくはテレビをしばらく眺めた。
 長い一日がようやく終わりを告げたのだった。

Victorvilleの大通りにはこんなゲートも

Victorvilleの大通りにはこんなゲートも

(後編)

VictorvilleにはRoute66 Museumも

VictorvilleにはRoute66 Museumも

 寝たのは2時ごろだったが、翌朝6時半ごろには眼が覚めた。寒くて起きてしまったのだ。若干体調が悪いような気もして、風邪をひいてしまったかなと思いながらベッドの中でうとうとしていると、外から「ボー!ボー!ボー―!」「ダダンダダン、ダダンダダン」という音が、長く、細く、聞こえてくる。
 そばを列車が走っているのだ。とても長い貨物列車のようだった。音がいつまでも途切れない。その音を聞きながら、昨日は真っ暗で見ることができなかった外の風景を想像し、またしばらくベッドの中で寝たり起きたりを繰り返した。そしてそれから1時間ほどもしていよいよ起き上がったあと、部屋のドアを開けてみた。
 ドアを開けるとすぐ外で、目の前には大きな駐車場がある。その向こうに、ヤシの木が並ぶ大通り。そして通りの逆側には、雲一つない青空の下、黄土色や薄茶色のザラザラした表面を持つ山が延々と連なっていた。映画『パリ・テキサス』や小説『オン・ザ・ロード』の世界としてイメージしていた荒涼としたアメリカそのものの風景を前に、ぼくは思わずため息が出た。
 「こういうのを見たかったんだ」
 そう思いながらじっと眺めていると、また列車の音が聞こえてくる。「ボー!ボー!ダダンダダン、ダダンダダン……」。その音はそのまましばらく響き続けた。

 準備をして部屋を出て、吉田さんとともに車に乗り込んだ。町のメインストリートらしき道沿いにある駅らしき建物に入ってみると、すぐ向こうには線路が通っている。何人か立っている人がいるので、見ると、そこはグレイハウンドという長距離バスの乗り場だった。グレイハウンドもまた、アメリカを語るときに欠かせない、長距離の旅の代表的な交通手段だ。
 建物の前を歩いていると、カメラを持っているぼくらを見て、40代ぐらいの中肉中背の男性が、おちゃらけたポーズで近寄ってきた。着古した黒いロック系のスウェットとカーゴパンツ、そしてキャップ。ラフな格好のその男は、片手を顔の横に上げて、「撮ってくれよ」と笑いながら言った。グレイハウンドを待っているらしいので、どこに行くのかと聞くと、彼は低くつぶれた声でこう答えた。
 「ヴェガスだよ」
 ヴェガス――。強い響きが突き刺さった。砂漠の町からグレイハウンドで「ヴェガス」を目指す。それは典型的な小説の世界のようにぼくには聞こえた。
 きっと地元の人間が何らかの用事があってラスベガスに行くのだろう。そう思い、ぼくは率直に、この町を見て感じた感動を伝えた。
 「この町にはとても雰囲気があるよね。すごいアメリカっぽいなって感じてるよ」
すると彼は、顔をしかめて苦笑しながらこう言った。
 「おい、本気かよ?この町はおわってるじゃねえか」
そして、続けた。
 「まったくひどい町だ。やることなんて何もねえよ。おれはもともとヴェガスの人間だ。仕事をしにこの町に来て1年住んだけど、暇で仕方なくて、もういやなんだ。だから今日、ヴェガスに戻るんだ。ここにはもういたくねえよ」
 何をしている人なのかと聞くと、彼は、いや、何ってことはないんだ、と口ごもった。そしてこう続けた。背中を怪我してからは社会保障をもらって暮らしてるんだ。ヴェガスで何をするかなんて決まってないし、これから先のことなんてわからない、と。
 ただとにかく、おれはこの町から出たい。ヴェガスに帰りたいんだ。そんな気持ちが一言ひとことに込められていた。
 退屈な小さな町を離れ、新たな生活を求めてグレイハウンドで都市を目指す。これまで何人ものアメリカ人が同じ理由でこの町を離れたに違いない。40号線が開通し、このあたりのルート66が役目を終えたあとVictorvilleは荒涼としていったのだろう。ラスベガスは、産業のなかったネバダ州の政策によって生まれた町だ。1929年からアメリカを襲った大恐慌のとき、税収を増やすために賭博を合法化してことによって一気に成長していった。何もない砂漠の中で、巨額の金と人の欲望を吸い上げることで肥大化していったこの巨大な人工世界は、きっと、その周りの荒涼とした小さな町のアメリカ人たちの夢を託される存在でもあったのだろう。
 彼の話を聞きながら、ぼくはふと、その2日前にロサンゼルスのヴェニスビーチの桟橋で出会った一人の釣り人のことを思い出した。
 それはちょうど日が沈む夕方の時間のことだった。桟橋の向こうに広がる海は、夕日がとても幻想的な風景を作り上げていた。空から水平線に向かって、青から赤の繊細なグラデーションが真っ黒な水面を覆い、その上には、全体の輪郭をうっすら残す三日月が、白く静かに輝いている。
 その月の光に導かれるように桟橋を海の方へと歩いていくと、その一番突端に、グレーの髪の毛のヒスパニック系の男性がいた。ふと気になり、釣竿をセットする彼の隣に立って桟橋のふちにもたれながら話しかけた。
 「釣れる?」
 すると「いや、いまはじめたところなんだ」と、作業をしながら陽気に答えてくれた。そして彼がえさの準備をするのを見ながら、さらにいろんな話を聞いていった。
 週2回はここにきて釣りをしているんだ。サバがたくさん釣れる、でも釣っても誰かにあげるかまた海に戻すよ。楽しみのためにやっているだけだから。ヒラメだけは持ちかえってバターで焼いて食べるけどな。本当にうまいんだ。釣竿を海に投げて、その様子を見ながらビール2本を数時間かけてゆっくり飲む。それがいまの自分の楽しみなんだ。ビールがなくなったら帰る。それだけだよ。
 LA育ちの53歳。すでに退職して仕事はしていないという。もとはトラックの運転手だったが、2000年に怪我をして車が運転できなくなったので、いまは社会保障で暮らしてる。運転で事故に遭ったのかと聞くと、そうじゃないと彼はいった。
 「刺されたんだ。強盗に襲われてよ。それでおれは運転ができなくなってしまったんだ」
 そういって、シャツをまくり上げて、わき腹の傷あとを見せてくれた。胸の下の前から後ろにかけて、横に10センチ以上の太い線がくっきりと刻まれていた。
 あの日で、おれの人生は変わった。でも、そんなことはもう昔の話だよ。人生はそんなもんさ。でもいまが楽しいから、それでいいんだ。楽しそうに釣りをする彼の表情は、そういっているようにもぼくには見えた。
 物価の高いロスでの生活は大変じゃないのか、と聞くと、彼は言った。ロサンゼルスは安く暮らしていける方法がいろいろある。だから大丈夫なんだ、と。
 「おれはこの町が好きだよ。ずっとこの町で育ったんだから当然だよ」
そしてそれからしばらくあれこれ話したあとのこと。ふと彼は「ヴェガス」という言葉を口にした。
 「来月はヴェガスに行くよ。娘と孫たちが住んでるからさ。そのために、今週からひとつ新しい仕事を始めることになってるんだ。クリスマスまでは仕事がいっぱいある。そしてクリスマスは家族でヴェガスで過ごすんだ……」
 その言葉を聞いて、ぼくは思わずこう言った。「明日からラスベガスに行く予定なんです」。そう言うと、それまで真っ暗な海に向かって作業をしながら話していた彼が、驚いた顔をしてこちらを向いた。
 「明日、ヴェガスに行くのか?本当か?そうなのか……」
 その少し寂しげな声に、いますぐにでもおれも行きたい、でも行けない……そんな気持ちが読み取れた。

ヴェニスビーチの夕日と桟橋

ヴェニスビーチの夕日と桟橋

 Victorvilleでグレイハウンドを待つ男性と話しながら、ぼくはこの釣り人のことを思い出した。彼がいまにでも行きたがっていたラスベガスに、自分たちは今日つくのだ、と。
 10分ほどするとグレイハウンドがやってきた。青く大きなバスには大勢が乗っていて、すぐそばを通る線路上には、列車が、100個以上はあるだろうコンテナを引いて、ダダンダダン、ダダンダダン、ダダンダダン……といつまでも音を立てながら通り過ぎていった。その光景を目に焼き付けて、ぼくらもこの町を後にした。
 
 ラスベガスへの道は、ますます砂漠の中のようになっていく。砂地の上に強靭な灌木だけが連綿と生え、遠くには木の一本も見えない茶色い山が連なっている。ときどき遠くには、長い列車が見えてくる。あれはさっきVictorvilleで眺めていた列車かもしれない。そう思いながら、茶色い山陰に消えてくるその長い車列の姿を見送った。
 荒涼とした風景の中を走り続けていくほどに、ほとんどの生物が生きていくことはできないだろうこの厳しい環境の中に、滑らかに舗装された真っ直ぐな道がずっと続いていることがとても不思議に思えてきた。19世紀、ゴールドラッシュのころに東部から西部を目指した人たちは、おそらく何も道らしきものもないところを、きっと何週間も何ヶ月もかけて移動してきたのだろう。1920年代にルート66が開通してアメリカの東西が「道路」で結ばれたことがどうしてそれほど衝撃的な出来事だったのか、ルート66がアメリカにとってどうしてそれほど重要なのか、この荒野の中を走るほどにわかるような気がしてくる。
 前方をずっと眺めていると、真っ青だった空は、日が沈むとともに不思議な色に染まってきた。地平線沿いに、きれいに虹のような色の層が見えてきたのだ。空から地面に向かって青、黄、赤、紫、そして緑。緑色は空なのか、それとも向こうに草原が広がるのか一瞬わからなくなるほどだった。でもそれは、確かに空の色だった。茶色しかない陸地の上に、自然が豊かな色を輝かせていた。
 「こんな風景、これまで見たことない気がします……」
 吉田さんは何度もそう言い、ぼくもまた、同じことを繰り返した。

虹色に染まった夕焼けの空

虹色に染まった夕焼けの空

 その夕日の色に驚いてから数十分もしたとき、ネバダ州へと州境を越え、徐々に巨大な人工世界が近づいてくることが感じられた。車が増え、大きな建造物がポツポツと増えていく。そろそろかな、と考えていると、砂漠の中の地平線上の遠い向こうに、無数の白い光が見えてきた。
 気がつくと目の前は赤いテールランプに満ちていて自分たちも渋滞の中にいた。そして、空が青から深い濃紺に変わったころ、ぼくらは煌びやかなネオンライトの中にいた。
 ついに、ラスベガスに着いたのだ。
 それはまるでオアシスだった。いや、砂漠の中に作られたこの巨大都市は、この地の人々にとってオアシス以外の何物でもないだろう。
 Victorvilleの男性も、いまごろここにいるのかもしれない。あの釣り人は、今日もあの桟橋で、ときどきラスベガスのことを思いながらビールを飲んでいるのかもしれない。
 毒々しいまでのネオンに彩られたヴェガスの町を歩きながら、もう二度と会うことはないだろうあの二人の日々を想像した。そして考えた。自分にとっても、この欲望渦巻く巨大都市はオアシスとなるのだろうかと。
 

 (終わり)

『遊牧夫婦こぼれ話』第13回「自分に全然自信がない?」(2015年6月「みんなのミシマガジン」掲載記事を再掲)

【『遊牧夫婦こぼれ話』は、ミシマ社のウェブマガジン「みんなのミシマガジン」にて、2014年6月~2017年7月まで毎月書かせてもらっていた連載です(全38回)。「遊牧夫婦」シリーズの中に収められなかったエピソードや出来事を振り返りつつ、しかしただ過去を振り返るだけでなく前を向いて、旅や生き方について、いまだからこそ感じられることを綴っていく、というコンセプトの連載でした。現状、ミシマガジンでは読むことができないので、ひとまず、当時面白がってもらえた回だけでもこちらに随時アップしていく予定です。】

第13回 自分に全然自信がない?
2015.06.04更新

 先日、26歳の男性から、相談に乗ってもらえないかと連絡をもらいました。
 ぼくの本を読んでくださった方で、いま、アルバイトをしながら就職活動をしているけれど、思うところあって就職以外の生き方を模索している、ぼくの紀行文やインタビューを読むかぎり、自分と重なるところが多くあるように感じ親近感が沸いて連絡した、とのことでした。

 数週間後、この方と会いました。
 話を聞くと、彼は大学院の修士課程修了後、一度会社に勤めたもののほどなくやめて、いま次の就職先を探している。しかし本当は就職する以外に具体的にやりたいことがあり、その道に進みたいと思っている。ただ、なかなか思い切って踏み出せない、また両親にも反対されている、という状況のようでした。
 もちろん状況は違うとはいえ、自分が2003年に旅に出たときも同じく、修士課程を終えたばかりの26歳で、また、確かに彼が言うように、考え方にも似たようなところが少なからずありました。話を聞きながらぼくは、どこか当時の自分を見るような気持ちになり、自分が日本を出たときのことを思い出しました。そしてふと、あのとき自分が、随分と大胆な決断をしたような気がしてきたのでした。

 大学院を修了し、周囲はみな、さあこれから社会に出るという中、就職せずに、貯めたお金で旅をしながら自分でライターの修業をする――。ライターとしての経験はほとんどなく、そんな生活が成り立つとは自分自身思えていなかったことを考えると、とても思い切った行動です。そもそもそんな豪快な性格でもない自分が、どうしてそんな決断を下し、実際に実行に移せたのか。いまさらながら不思議に思えたのです。

 なぜあのとき、自分はあまり迷うことなく旅に出ることができたのだろう。
 そのもっとも大きな理由が、吃音であったことは間違いありません。吃音のために会社勤めがうまくいかなそうだから就職しない道を模索し始め、そこに、文章を書きたい、旅をしたいという気持ちが合わさった結果、こういう選択に行きつきました。会社勤めができそうにない、という消極的な理由がとても大きく自分を後押しすることになったのです。
 しかし、それ以外にも何かあったのではないか。彼と話しながら、改めてその点を考え直す機会を得て、一つ、思い至ることがありました。
 彼はぼくにこう言いました。
「私は自分に全然自信が持てない人間なんです。いつも他者に対して猛烈な劣等感を持っています」
 それを聞いて、それが自分にも少なからず共通する点であると、ぼくはその方に伝えました。そして、まさにその性格こそが、自分が旅に出ることを決意し実行できたもう一つの理由なのではなかったかと、気がつきました。

 
 こんなことを告白するように書くのはなんだか気恥ずかしさがありますが、ぼくはかなり「自己肯定感」(というのでしょうか)が低い人間だと自分について感じています。
 劣等感というのとは少し違うのかもしれませんが、ぼくはいつも、ちょっとしたことで、自分は嫌われてしまったかもしれないと不安に思ったり、自分はつまらない人間だと思われているのではないか、相手を怒らせてしまったのではないか、と落ち着かない気持ちになっています。年齢とともに少し和らいだ気はするものの、学生時代からいまに至るまで基本的にそうした傾向は変わっていません。

 自分のそうした性格の原因を考えると、中学時代まで遡ります。小学校時代は特にそういうことを思わずに、どちらかといえば気楽でやんちゃにやっているほうでしたが、中学1年のとき、あることをきっかけに急激に学校内での人間関係が難しくなり、それからおそらく1年くらいの間、ぼくは周囲の人にひどくおびえながら過ごすことになりました。
 そのころの感覚や気持ちはいまもとても鮮明で、とにかく人間関係をこれ以上悪化させてはならないと、毎日、自分でも驚くぐらいビクビクしていました。関係がうまくいってない人に少しでもそっけなく見える反応をされたり、すれ違った先輩に一瞬でも睨まれたような気がすると、「やはり自分は嫌われている」「あの先輩は自分のことを怒っている、いつか殴られるのではないか」といったことを明けても暮れても考え続け、再度その人に会って自分の考えすぎであったことが何らかの形で確認できるまで、常に恐怖感を抱えながら過ごすという状況でした。

 中学3年になるころには、そうした関係も一応はすべて沈静化していったのですが、自分は嫌われているのではないか、馬鹿にされているのではないか、みなが自分のことを怒っているのではないか、という不安感はずっと拭い去れないままでした。
 その感覚は高校時代も根深く残りました。高校2年ごろに吃音が深刻になったのも、そのことが関係しているのではないかとぼく自身は感じていますが、いつしかそうした感覚は自分の性格そのものとなり、その後大学に入ると、今度は別の形で表面化することになりました。

 大学で仲良くなった友だちの多くは、本や音楽、映画や旅が好きな、ある種文化的な匂いのする人たちだったのですが、自分はそれまで、本を読んだり、映画を見たりということを全くしてこなかった人間で、物事を斜めに見たり、深く考察するということがあまりできないタイプでした。
 食べ物でいえば、カレーとハンバーガーが好きという感じの、シンプルでド直球な人間だったので(いや、決してカレーとハンバーガーを軽く見ているわけではありません。カレーもハンバーガーも、いまなお大好きです)、友人たちの話はとても新鮮で、ある種の羨望を持って聞いていました。

 そうした影響でようやく本などにも興味を持つようになり、徐々に世界が広がっていったのですが、同時に、友人たちの話を聞きながら常に、おれはなんて何も知らないんだろう、ああ、おれはつまらないやつだと思われているに違いない、という恥ずかしさのような感覚がいつもありました。きっと、自意識過剰でプライドが高かったのでしょう、表面的にはそんなそぶりを隠しつつ、いつしかそれが劣等感にもつながっていきました。

 ぼくが大学時代に旅をしたいと思うようになったきっかけの一つは、そうした友人たちの影響であり、さらに言えば、彼らに認めてもらいたいという気持ちがあったのは間違いありません。
 大学院修了後に長期的な旅に出る、そしてライターになる、という決断の拠り所の一つも、こうして独自なことをすれば周囲に認めてもらえるのではないかという気持ちだったのです。それは他の人を抜きんでたいという気持ちではなく、そうすることでようやく他の人に追いつける、やっと対等に扱ってもらえるのではないか、という、いま思うとあまりにも自己肯定感の低い意識ですが、確かにそういう感覚でした。

 ライターとしてうまくいくかどうかはとりあえず考えずに飛び出すことができたのは、おそらくそのような意識があったからです。
 つまり、ライターとして生計を立てるなどということはそもそも無理だとしても、とにかく旅に出て金が尽きるまで数年ふらふらしさえすれば、それだけで自分は、少しは独自の経験をしたと胸を張れるのではないか。そんな気持ちが間違いなくあったのです。

 もちろん、生活していくためには必死にやらねばという意識も強くあり、だからこそあれこれやっていくことになるわけですが、とにかく旅に出るということさえ実行すれば目的が一つ達成される、そう考えていたからこそ、ぼくはある意味とても楽観的に、うまくいくかどうかを深く考えることなく思い切って踏み出すことができたのだろうと思います。吃音という悩みから逃れたいという気持ちと重なって、その、認められたいという願望は、驚くほどのエネルギーをぼくに与えていたのです。
 そうした気持ちをいま改めて思い出して、はっとさせられました。

 ぼくはいまもなお、自己肯定感が低く、何事にもあまり自信が持てません。常に、周囲の人は自分に対して不満を募らせているのではないかと想像しておどおどする性格は変わっていません。そうした意識はときにとてもしんどくて、自分自身はもちろん、ときには周囲にもストレスを与えていることがあるように思いますが、それはきっと一生変わらないのでしょう。
 でも、年齢とともに、そうした自分を認められるようにはなってきました。さらには、そういう性格だからこそ、後れをとらないよう、嫌われないよう、できる限りのことをしなければと願う気持ちが強く、それがいまの自分を支えているのだなと実感しています。そうした性格こそが自分にとっての一番の原動力であり、もっとも大切なものの一つなのかもしれないと思えるようになったのです。

 コンプレックスは最大のエネルギー源になることがある。
 弱さの中にこそ、最大の強みが眠り、打開策が潜んでいる。
 ぼくはいまそのように感じています。もちろんあらゆるコンプレックスが必ずしもそうなるとは言い切れませんし、そう簡単にプラスに転化なんてできないよ、という声も多くあると思います。
 ただ、コンプレックスから逃れたいというエネルギーは誰にとってもとても大きなもののはずです。だからこそ、それをもし何らかの形で別の方向に活かすことができれば――、思わぬ道が開けるかもしれないという気がするのです。

 相談に来てくださった男性は、彼自身の弱さを存分にぼくに見せてくれました。
 その中にこそ、彼の強みが隠れているのではないか。ぼくはそう想像しています。
 迷いや葛藤はそう簡単に消えないだろうし、容易に打開策が見つかるわけでもないと思います。でも、彼がこの先どういう選択をし、どういう道を進むことになっても、自分の弱さと向き合う経験はきっといつか力になる。ぼくはそのように感じています。
 なんとか、踏ん張ってくれますよう。

『遊牧夫婦こぼれ話』第2回「上海の落とし穴3」(2014年7月「みんなのミシマガジン」掲載記事を再掲)

【『遊牧夫婦こぼれ話』は、ミシマ社のウェブマガジン「みんなのミシマガジン」にて、2014年6月~2017年7月まで毎月書かせてもらっていた連載です(全38回)。「遊牧夫婦」シリーズの中に収められなかったエピソードや出来事を振り返りつつ、しかしただ過去を振り返るだけでなく前を向いて、旅や生き方について、いまだからこそ感じられることを綴っていく、というコンセプトの連載でした。現状、ミシマガジンでは読むことができないので、ひとまず、連載時に面白がってもらえた回だけでもこちらに随時アップしていく予定です。再掲にあたって細部は少し調整しました。】

第2回 上海の落とし穴 その3 (その1 その2
2014.07.06更新

  男を斜め前に歩かせて、そのすぐ後ろをついていった。
 河南中路と南京東路の大きな交差点を、車のクラクションの音とヘッドライトをかきわけるようにして、斜めに渡り、河南中路を北に歩いた。
 「おい、警察官を一緒に連れて行くからな。いいか」
 そう言ってみたが、「いいよ」とまったく動じない。むしろこっちが若干ビビっているのがばれただけかもしれなかった。
 そもそもぼくが金を巻き上げられたという証拠はない。その上、警察を連れて行っても、場合によっては言葉が通じない中、むしろウソをでっち上げられ警察に金をにぎらせられて、逆にぼくが窮地に陥る可能性も十分にある。というか、その可能性の方が高そうだ。異国にいることを否応なく実感させられた。

 くそ、どうすればいいんだ。どうすればこの男に一番のダメージを当たられるのか。どうすれば悔しい思いをさせられるのか――。いい案は何も思い浮かばなかった。そして、それならばとぼくは思った。とにかくはったりでもビビらせよう、と。
 静かにポケットからiPhoneを取り出して、ぼくはカメラアプリを立ち上げた。写真を撮って、これを雑誌などに載せるぞと言ったらビビるのではないか――。古典的だがそう考え、横を歩きながら、突然彼の前にiPhoneを無言でかざしたのだ。そして、有無を言わさずシャッターを数回押した。

 「おい、なんだよ! なんで、撮るんだ! やめろよ!」

 男はびっくりした顔でこちらを向いた。苛立たしそうに僕のiPhoneを手で遮る。ぼくは言った。

「この写真を、雑誌とかに載せてやる。撮ったからな!」

  何の証拠にもなりえない無意味な写真であることを自覚しつつもそうすごむと、男は、手でぼくを遮りながら

「やめろよ!」

 ともう一度言った。そしてその次の瞬間、彼はその手をパッとどけて、体勢を変えた。と思ったら、一気に走り出したのである。東西に走る小さい道を河南中路から西に向かってダッシュで逃げた。あ――、と思ったときにはもう、彼は手の届かないところにいた。

  男の後ろ姿を、ああと思って眺めながら、もう追う気はなくなっていた。一目散に駆けていくその男の後ろ姿を、ぼくはその場でじっと見つめた。
 何か最後の捨て台詞でも吐きたかった。しかし、いい言葉が浮かばない。そうしているうちに彼は、河南中路よりも暗く細い東西の通りを、ダッダッダッダッという足音だけを響かせて、暗がりの中に消えていった。

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この男に注意、しようがない。

この男に注意、しようがない。

 ああ、行ってしまった・・・。ただ脱力感に襲われて、その場にじっと立ち尽くした。無意味な写真だけが手元に残った。 

 ただ、やり場のなかった悔しさと怒りは、男に直接言いたいことを言ったことで軽くなった。しかしその一方、男はいまごろほくそ笑んでいるのだろうかと想像するとまた頭に来た。でもこれ以上はどうしようもなかった。 

 そのまま男が歩いた道を西に歩いた。一応、見つけられただけでもよしとしないといけないのだろう。そう思いつつ歩きながら、彼との慣れないやりとりによって自分が猛烈に疲労していることに気が付いた。

 このまま地下鉄に乗って宿に帰ろう・・・。再び南京東路へと戻り、けばけばしく光り輝くネオンの中を、人民広場駅を目指してさらに西に歩いていった。通りの輝きが、すべて胡散臭く見えてくる。

 息をつく間もなくまた、怪しげな男たちから次々に声がかかる。

「ち○ち○マッサージ?」
「セックス?」
「どう? 安いよ。カワイイ子いるよ」
「ドコカラキタ?」
「ニホンジン?」

 無視して通り過ぎても、5秒もするとまた別の男から声がかかる。そして、挨拶のように、言われるのだ。

 ち○ち○マッサージ?――。

  ふざけんなよ、こいつら・・・。ち○ち○ち○ち○、小学生みたいにうるせえなああ。聞いているうちに再び怒りが込み上げてくる。そして、あの男へのいら立ちが蘇るように、途中で本当にカチンときた。
 勢い余って、ずっとついてくる若い男をぼくは思わず威嚇した。
 「おい!」
 と言って、急に振り返り、男に向かって攻めるようなポーズをとった。
 ビビって退散するだろう。そう思ったが、よく見ると血の気が多そうな男だった。男は一瞬ビクッとしながらも顔に怒りを露わにした。そして、こっちを指さしながら、逆上して声を荒げた。 

「HEY! FUCK OFF!!」

  予想しなかった反撃にむしろこっちがビビッてしまった。慣れないことをするもんじゃなかった。見かけ倒しでビビりの自分は、パパイヤにボディを褒められたとはいえ(「何気に結構喜んでるんじゃないか?」という推測ははずれです、念のため)、ケンカして勝てる自信などまったくないし、そもそもこんなところで暴力沙汰を起こせば、それこそ大変なことになるだろう。

  そして、若干目が覚めた。冷静になれ、落ち着け、落ち着け・・・。こんなところでわけのわからないトラブルを起こしたら本当の馬鹿だぞ。気持ちを静めるのに必死だった。

  それからは寄ってくる男たちをすべて無視しながら歩いて行った。そして、しばらく歩いたあと、猛烈に疲れを感じ、デパートの横のベンチ的なところに腰かけた。すると間髪入れずに今度は女性が寄ってくる。髪が長く、すらっとして、顔つきも整った比較的きれいな20半ばぐらいの子だった。彼女は中国語でこう言った。

 「すみません、道がわからないんだけれど・・・」

  ああ、またこれか。そうか、これは定番の手口だったのかと、そのときようやく気がついた。脱力感に襲われて、「もういいから」と追い払うように手を振った。すると彼女は言ってくる。

 「あれ、中国人じゃないの?どこの人?」

  しばらく黙って無視した挙句、根負けして、ぼくは言った。「中国語わからないから、聞かないで」。すると、彼女はマニュアル通りなのだろう、昨日の男と同じようなことを次々に言ってきた・・・。

  「目的はわかってるから。どっかいってくれよ。昨日同じやつに会ったから」

  「え、どういうこと、どういうこと?私の目的って何?ただ道を聞いただけなのに」

  途中から、英語と中国語が混じりあった会話になった。彼女は英語がうまかった。なかなか立ち去ろうとしない彼女を見ながら、ぼくは思った。そうか、それならば、逆に彼女にこの手口の内実を聞いてみようじゃないか、と。ぼくは、昨日騙されて金をとられたこと、その上今日も同じような連中が次々に来ることにむしょうに腹が立っていると、彼女に告げた。

  彼女は「え?いくらとられたの?」などと言って驚いたふりをしながらも、ぼくが、「もういいから、いいから」と言い続けると、ようやく素の様子で話し始めた。自分もまた、同じようにあなたをKTVに誘おうとしているんだ、と。

 「男の人はみんな女の子が好きでしょ?女の子としたいんでしょ?私は、ただ男の人にお店を紹介するだけよ。行くか行かないかは本人の勝手。選べるんだから、別に騙してるわけじゃない」

  そんなことを言い、結局あなたもお店に行ったんだから、やりたかったんでしょ・・・などと言った。

  いやいや、ちがうんだ・・・、と言いながら、細かく説明する気もしなくて、とにかく、まあ、いいから、と彼女がどんな生活をしているのかをぼくは聞いた。 

「昼間は英語を習いに行って、夜はこの仕事をしてるの。好きでやってるわけじゃない。他の仕事を探してるけれど、見つからなくて。だからしょうがいないのよ、みな生活のために働くんでしょ」

  そして、言った。
"That's life, right?"

 彼女のその言葉を聞いたとき、ぼくは少し笑って「うん、そうだよな」と頷いた。そして、思った。あの男にも、それなりの事情があったのかもしれないと。無駄な怒りをぶつけるのではなく、むしろ、金はいいから、その代わりにどんな生活をしているのかを教えてくれ、と言うべきだったと思い至った。それが自分の仕事のはずだった。

  やられたことはむかつくけれど、たしかにあの男も、こうでもしないと生きていけないのかもしれなかった。怒りとは別に、それを聞きだすことこそ、書き手として、自分がやるべきことではなかったのか。いや、しかし、あんなに日本語がうまいなら、いくらでもまともな仕事を見つけることだってできるはずだ・・・。

  そんなことを思っているうちに、彼女が言った。 

「ねえ、飲みに行かなくてもいいから。あそこのハーゲンダッツでアイスを買ってくれるぐらいいいでしょ」

  ぼくは冷たく言い放った。

 「何言ってんだ。なんでおれが奢るんだよ。おれと話してても時間の無駄だよ。他の男を探しにいけよ」

 「ちょっとぐらいお金をちょうだいよ」

 「ふざけんな、やらねえーよ」

 彼女は顔に怒りを表した。そして、「チッ」と舌打ちをして足早に立ち去った。
 彼女が立ち去ると、待っていたかのように、今度は2人組の大学生ぐらいの女の子が話しかけてくる。彼女らを遮って歩き始め、地下鉄の人民広場駅の入口に入ろうとすると、次は派手な女の子が、露骨にぼくの腕をつかんできた。

 「ねえ、どこにいくの・・・」

 ぼくは唖然としてしまった。上海ってこんなところだっただろうか――。住んでいたころは、あまり南京東路などには来なかったから気づかなかっただけだろうか。それとも今回はあまりにも自分が観光客然として映っているのだろうか――。

 異国にいるということをこんなにも実感したのは久々のことだった。地下鉄の駅に入りながら、ぼくはあの男のことを考えた。いったい今、あいつはどんな顔をしているのだろう。馬鹿な日本人だったな、と笑っているのか。そして次の獲物と一緒に南京東路をすでに歩き出しているのだろうか――。

 あの男にも事情が・・・なんていう気持ちは消え去った。そしてまた猛烈に怒りが襲ってきた。 

 クソッ!

 何度もそう呟きながら、そしてその一方、さっき"FUCK OFF!"と言った男の仲間なんかがまさか追いかけてきたりしてないだろうな、とわずかばかりビビりながら、ぼくは終電間際の地下鉄に乗り込んだ。

IMG_6987-2-s.JPG

                   *

  というのが2014年に久々に訪れた上海での経験でした。 

 ただし、上海は基本的にはとても平和で安全な町です。ぜんぜん説得力ないかもですが、上海はおそらく、世界でも数少ない外国人女性が夜一人で歩いても大丈夫な大都市のひとつであるはず。この時も現地に住む日本人女性がそのように言ってました。2014年のことですが。

 ちなみにこの何日か後、ぼくが帰国した後に、この仕事の写真を撮ってくれた写真家の吉田亮人さんが、同じ詐欺男に同じ場所で声をかけられたとのこと。カツオ氏、全くたくましい男です。

『遊牧夫婦こぼれ話』第2回「上海の落とし穴2」(2014年7月「みんなのミシマガジン」掲載記事を再掲)

【『遊牧夫婦こぼれ話』は、ミシマ社のウェブマガジン「みんなのミシマガジン」にて、2014年6月~2017年7月まで毎月書かせてもらっていた連載です(全38回)。「遊牧夫婦」シリーズの中に収められなかったエピソードや出来事を振り返りつつ、しかしただ過去を振り返るだけでなく前を向いて、旅や生き方について、いまだからこそ感じられることを綴っていく、というコンセプトの連載でした。現状、ミシマガジンでは読むことができないので、ひとまず、連載時に面白がってもらえた回だけでもこちらに随時アップしていく予定です。再掲にあたって細部は少し調整しました。】

第2回 上海の落とし穴 その2 (その1はこちらです
2014.07.05更新

 「一緒だった男はどうした?」
そう聞くと、パパイヤ女はすぐ言った。
「あいつは金を持ってなかったから、すぐに帰らせたよ!」

  ・・・そういうことだったのか。男はとても感じがよくて、ぼくは正直、1ミリたりとも、1秒たりとも疑わなかった。1時間ほど楽しく話していたあの時間が、すべて自分をはめるための伏線だったのかと思うと、本当にショックで悔しくて、強い怒りが込み上げてきた。

  5年半の旅を含めても、こんなに完全に騙されたことは初めてだった。中国に慣れ切っていたということもあったけれど、あまりにも初歩的な騙され方に、自分が本当に情けなかった。
 ただ同時に、1000元でよかった、とも思っていた。高々17000円程度だし、はめられて盗られる額としては大したことはない。10倍ぐらいとられてもおかしくない状況だったので、その点はほっとした。
 そして若干気を取り直して、とりあえず強気に言った。

 「ふざけんな、そんな金払わねえーぞ!」 

 大使館に電話するぞとか、500元にまけてくれとか、手当たり次第にいろいろと言いながら、打開策を考えたが、パパイヤ女は気にする様子もまるでないし、自分も妙案は浮かばない。するとそのうちにパパイヤ女はこんなことを言いだした。

 「そんなに払いたくないなら、私と一発やれ。そしたら金は払わなくていい。お前はいい身体してるから」

  まさか上海で、この展開で、高校のバスケ部時代に若干鍛えただけの見せかけボディを褒められようとは。おお、これぞ旅! などと思っている余裕はなかったけれど、あまりに意外で、ありえない「妙案」に思わず吹いてしまいそうになった。 

 しかしさすがに自分も、パパイヤにボディを褒められ、お前とやりたいと言われて喜ぶほど間抜けではない。それは相手を諦めさせる定番の決め台詞だったのかもしれない。そしてその台詞が有用だとすれば少々パパイヤが哀れでもあるけれど、実際その辺りからぼくはもう諦め始めた。

 どうやっても1000元取られるのは避けられなそうな展開だった。ドアの外には格闘技でもやっていそうなごつい男が腕を組んで控えている。
 財布を出した。1500元はバッグの中に隠していて、財布の中には900元+細かいのしかなかったのが幸いした。

「なんだ、それしかないのか!」

 若干もめはしたものの、最後にはパパイヤも手を打った。
「じゃあ、900元でいい!さっさと、帰れ!」 

 情けなさと怒りをうちに秘めながら、ぼくは、ガードマン的筋肉男に見送られ、先ほど隣で上半身を肌けようとした若い女のツンとした顔を睨みながら、彼女の横を通って店を出た。ガードマンに、なぜか妙に丁寧に、「再見」と手を振って見送られたのが、ますます気持ちをいらだたせた。

  本当に情けなかった。すでに人通りが少なくなり、道端にごみが散乱するうす暗い通りを歩きながら、あまりの不甲斐なさに呆然とした。

  あの男・・・。チクショー、本当に頭に来る。まったく疑わなかった自分にもまた頭に来た。そうして、なんだかずぶ濡れになったような気持ちで、地下鉄に乗って、ぼくは宿へと戻っていった。やり場のない怒りをいったいどうすればいいんだろう、と思いながら――。

男に声をかけられて、しばらくルンルン気分で歩いてしまった南京東路。

男に声をかけられて、しばらくルンルン気分で歩いてしまった南京東路。

  しかし、まだ話は終わらない。

  その翌日、ぼくは旧日本人街と言われる虹口(ホンコウ)地区を訪ね、四川北路という大通りをずっと南に歩いていった。そして夜になったころ、また前日と同じエリアにまでたどり着いた。上海のランドマークとも言えるテレビ塔が煌々と輝き、川を挟んで高層ビルと壮麗な西洋建築がずらりと並ぶ外灘から少し入ったあたりの南京東路。そう、あの男に会った辺りの場所である。

  そのころにはだいぶ気持ちも収まって、昨日のことは、自分の中でむしろ笑いのネタに変わりつつあった。しかし、観光客で溢れ、賑わいを極めている南京東路の辺りまで来たときに、ふと、昨日のことを思い出し、怒りが蘇ってきたのである。そして、思った。

  あいつ、今日もここにいるんじゃないか?もしかしたら、ばったり出くわすんじゃないか――?くそ、このままでは終わらせねーぞ。

  いつになく強気な気持ちで、ぼくは、男に声をかけられた辺りをゆっくりと周囲を見回しながら歩き始めた。南京東路を西に歩き、河南中路という南北の広い通りとの交差点までやってきた。凄まじい人ごみとクラクションの音、そして、アディダスやGAPといった大企業の巨大な広告と複数のネオンがまばゆいばかりに輝いている。

  チクショー、あの野郎、待ってたらこの辺を通りがかるんじゃねえか? 見つけたら絶対許さねーぞ。

 我ながら久々にアグレッシブな気持ちが次々に湧き上がる。ますます気持ちを盛り上げながら、交差点の南東の角に立ち、ぼくは無数の西洋人観光客の間にじっと視線を送り続けた。そしてそれから5分も経ってないころのこと――。

  自分が立っていた同じ角で、信号を待つ観光客の奥の方、10メートルも離れていないところに、見覚えのある男の顔が、タンクトップ姿の欧米人の中に紛れて一瞬現れたのである。まさかこんなすぐに、と思ったが、背が低く、磯野カツオのような坊主頭をしたその姿は、たしかにあの男のように見えた。

  ぼくが身体を動かすと、ほぼ同時に、男もこちらに気が付いたようだった。観光客と角の建物の間ですぐに身を低くして、左手で顔を覆い隠すようにして、少し足早にその場から立ち去ろうとした。その動作で確信した。間違いない。あの野郎だ、と。

 ぼくは何も言わずに、大股で観光客の間をぬって一気に距離を縮めていった。すると男も走り出す。

  おい、待てよ――!

  そういって、ぼくも駆けだした。思っていた以上に距離は近く、すぐ追いついた。ぼくは男の腕をぐいっとつかんだ。すると男は、「はなせ!」というように腕を大きく振り上げる。しかしそんな力で振り切られるほどぼくの決意は甘くない。力を入れて観念させた。

 すると男はあきらめて、足を止め、強張った顔をこっちに向けた。

 「おい、この野郎、だましやがって・・・お前、ふざけてんじゃねーぞ!」

 渾身のヤンキー顔を作って、一気に凄んだ。すると男はとっさに言った。

 「ぼくも、だまされたんだ」

  ・・・なんだとこの野郎。この期に及んでまだ言い訳しようとは、全くしけた輩である。その言葉にさらに頭に来て、ぼくはたたみかけるようにいった。 

「おい、ふざけたこと言ってんなよ!じゃあ、なんで逃げんだよ!」

  男はだまった。そして少し恐れおののくような顔をして、ただぼくのことをじっと見つめた。別に彼を改心させようというような高尚な思いは持っていない。けれども、悪かった、とは思わせたかった。彼にもきっとあるはずの良心に訴えかけたいと思っていた。だからぼくは、悔しいけれど本心を言った。 

「ほんとに信じたんだよ。話してて楽しかったし。ショックだったよ、あれが全部、騙すためのウソだったなんて・・・」

  おれはなんてあまちゃんなんだと思いつつ、男を睨みつけながらそう言ってみた。すると男は困惑したように、ただ、そのままの顔で「ああ・・・」とだけ言った。
 何を期待していたわけではないけれど、そんなやりとりを何度かしているうちに、やはりむしょうにむかついてきた。 とにかくこの男に後悔させてやりたかった。自分が物書きをしていることは話していたので、渾身のハッタリをかましてこう言った。 

「お前のこと、全部調べて雑誌とか新聞に書くからな。もう調べ始めてんだよ。ふざけたことしやがって、絶対後悔させてやるよ」

  男は強張った顔のまま、ぼくの目を見つめ続ける。なんとか言えよ、と思った。しかし何も言ってこないので、それ以上言うことがなくなってしまった。調べているわけではないし、具体的に言えることがあるはずがない。なんだか分が悪くなり、仕方なく話を変えた。 

「お、おい、とにかくお前、金返せよ。もってんだろ」 

 すると男は口を開いた。

「いくら払ったの?」

 悔しい気持ちを思い出しながらぼくはいった。

「1000元だよ」

 そして続ける。

「おい、お前そのくらいもってんだろ、返せよ!」

 そう言いながら男を睨みつけていると、いつの間にか自分が、小男をつかまえて脅すカツアゲ野郎になったような気分になる。いや、ちがうんだ、これは正当な要求なんだ、被害者はおれなんだ・・・、と言い聞かせながら、慣れない台詞を繰り返した。

「おい、金出せよ!」

  男は言う。

「いまは持ってない。金は店にあるよ。店に行こう」

  このアウェイな異国の道端で無理やり金を出させるわけにもいかない。それにこの男が大した金を持ってないのは本当だろう。しかも強引に金を奪ったりしようものなら、いよいよ強盗ふうになってしまう。

 しかし、店に行っても金が戻ってくるわけがない。そして第一、さすがに店に戻るのはまずいと思った。ただ、とりあえず歩きながらいい作戦を考えるしかなかった。

 「よし、じゃあ、店に連れていけよ」

「うん、わかった」

 そうして二人、人ごみをかき分けて、誰もいない北側の暗がりに向かって足早に歩き出したのである。

その3に続く)

『遊牧夫婦こぼれ話』第2回「上海の落とし穴1」(2014年7月「みんなのミシマガジン」掲載記事を再掲)

【『遊牧夫婦こぼれ話』は、ミシマ社のウェブマガジン「みんなのミシマガジン」にて、2014年6月~2017年7月まで毎月書かせてもらっていた連載です(全38回)。「遊牧夫婦」シリーズの中に収められなかったエピソードや出来事を振り返りつつ、しかしただ過去を振り返るだけでなく前を向いて、旅や生き方について、いまだからこそ感じられることを綴っていく、というコンセプトの連載でした。現状、ミシマガジンでは読むことができないので、ひとまず、面白がってもらえた回だけでもこちらに随時アップしていく予定です。再掲にあたって細部は少し調整しました。】

第2回 上海の落とし穴 その1

2014.07.04更新

  6月、上海に行きました。4月にソウルに行ったのと同じく紀行文の連載のためです。
 行き先はドイツかニューヨークになりそうだということだったのに、直前になって急に、「上海に決まりました」との連絡が。すっかり気分は西洋だったので、気持ちを切り替えるのがちょっと大変だったものの、上海といえば、2006~07年にかけて1年半ほど住んだ土地です。気持ちを切り替えてしまえば、7,8年ぶりの再訪がとても楽しみになりました。 

 2008年の北京オリンピック、2010年の上海万博を経て、中国はガラリと変わったというようなことは聞いていました。いったいどうなっているんだろう、とわくわくしながら上海の町に降り立ちました。
 しかし、着いた瞬間の感想としては、みながスマホを持っていることぐらい以外、ほとんど記憶通りの風景でした。
 ああ、懐かしい――。

  上海は、自分のライター人生にとって1つの転機となった場所です。というのは、ここに住んでいるときに初めて、貯金を食いつぶすことなくライターとしての収入で生活ができるようになったからです。ちょうど30歳になったころのことでした。
  そういう意味でも、いろんな思い出のある、極めて親しみのある町です。そこに1週間滞在して紀行文を書くのが今回のミッション。
 こんなに楽しい仕事はめったにない! そう思って、ぼくは気楽に、本当に気楽な気持ちで上海の町を歩き続けたのでした。 

 しかし、そこに落とし穴が待っていました。
 まんまとやられてしまったのです――。
 5年半の旅においても、こんなに間抜けななことはありませんでした。

  自分の馬鹿っぷりをしっかりと記録するため、
 この悔しさを忘れないため、
 さらにみなさんに注意を促すために、
 そしてなんといっても、こんな話をネタにしない手はないので、
 その顛末の一部始終を書きました。

 長文すぎて3回にわたって掲載という、連載2回目から変則的な形になってしまいますが、どうぞみなさまお付き合いください。

  *

  上海滞在2日目の夜――。
 テレビ塔や超高層ビル、西洋近代建築がまるで博物館のように川の両側にずらりと並ぶ外灘(ワイタン)から西に延びる南京東路を歩いていたときのことである。無数の観光客の中にいた旅行者風の男が突然地図を出しながら中国語で聞いてきた。
「ここからどう進めば○×に行けますか?」

外灘(ワイタン)から西に延びる南京東路。写真奥は東向き。ピンクと紫に光っているのが川の向こうにあるテレビ塔。この道を西向き(写真手前方向)に歩いてるとき、男に声をかけられた。

外灘(ワイタン)から西に延びる南京東路。写真奥は東向き。ピンクと紫に光っているのが川の向こうにあるテレビ塔。この道を西向き(写真手前方向)に歩いてるとき、男に声をかけられた。

  「すみません、わかりません。ぼくも上海の人間じゃなくて旅行者なんです」
 そう答えると、ああそうなんですか、と彼は言った。日本人だというと、彼も自分のことを話しだした。
「ぼくは天津から旅行で上海に来ています。日本の会社の工場で働いているので、日本語が少しわかります」
 なるほど、たしかに日本語が話せるようだった。白いシャツに薄茶色のパンツをはいた典型的な中国人ファッション。坊主頭で背は小さく、人の良さそうな顔が印象的だった。年齢は45歳だと言い、話しているうちに日本語はだんだんと流暢になる。途中から会話はすべて日本語になった。 
「ぼくは劉です」「近藤です」
 互いに自己紹介をし、何をしているのかなどを話しながら、賑やかな南京東路を西に向かって二人で歩いた。今回、いろんな中国人の話を聞きたいと思っていたこともあって、ちょうどいい人が声をかけてくれたと内心ぼくは喜んでいた。 

 そしてそのうち、彼はこんなことを言い出した。
「天津じゃ、家族といるからなかなか羽を伸ばせないでしょ。だからこうやって旅行に来たときに、女の子と遊ぶのが好きなんだよね。それが一番楽しいんだよね。近藤さんはどう? 日本では最後までやるといくらくらい?」
 ああ、普通にエロいおっさんなんだなと思い、笑って適当に答えておく。ホテルの人に安くてかわいい子が多い店を聞いてきたんだ、エヘエヘと笑うので「そうか、よかったね、楽しんでね」とぼくも笑った。

 その後15分ぐらい歩いていると、彼は「一緒にお茶屋さんにいかないか」と誘ってきた。話していて楽しかったし、時間もあったので、ぼくは一緒に行くことにした。
 鉄観音のお茶を試飲しながらまた二人で世間話。彼は、試飲させてもらった鉄観音を家族に買うといって50元(800円ほど)払い、ぼくは何も買わないで店を出た。
 「じゃ、ぼくはこれから女の子と遊びに行くけど、近藤さんはどうする?」
 男が言うので、じゃあ、ぼくはもう帰るよと言った。すると彼は名残惜しそうに誘ってくる。
「ビール一杯だけでもどう?一杯飲んで帰っても大丈夫だから。そのあとぼくは女の子と遊ぶから」

  このとき、会話では女の子と遊ぶ場所として「KTV」という言葉を使っている。ぼくの認識では、KTVとは、キャバクラや風俗店の意味がありつつも、普通のカラオケという意味でも使われているものと思っていた。上海に住んでいた当時、日本人の友達と何度かカラオケに行ったことがあったけれど、そのときも「KTVに行こう」と言っていたと記憶している。境界がよくわからずにいた。
 だからこのとき、男にKTVと言われても、ビールだけ飲んで話したりできる部屋があり、そこでまず飲んでから、彼だけ女の子と奥に行くのだろうぐらいに思っていた。

 ビール一杯だけ飲んで帰ろう。本当に何の疑問もなくそう思って、ぼくは男についていった。そして暗がりの中にあった、男が「ここだ、ここだ」という店に彼と二人で入っていった。

  カラオケのある大きな部屋に案内されると、数秒遅れてミニスカートの女性2人と普通の店員っぽい女性が入ってきた。おいおい、いきなりそういう展開か、とソファに腰を掛けつつ思っていると、ミニスカートの女性2人はそれぞれぼくと男の横に座り、店員女が説明を始めた。 

「30分150元、1時間300元、うちは明朗会計の店だから、安心して遊んで行ってくださいね」

  ビールを頼むとハイネケンの缶が2本出てきて、早速30分150元(約2500円)を払わざるを得ない展開になった。
「ああ、ビールだけとちがったのか......」
 と思ったが、仕方がない。

  一方、男は1時間だからと300元を支払った。そして男は、話す間もなく隣で女性に触り始め、2分もしないうちに、「じゃあ、ぼくは別の部屋に行くから」と女性の身体をまさぐりながら消えてしまった。

 随分話がちがうじゃないかとぼくは思った。でも、彼はやりたくてしょうがない感じだったので、まあ納得した。ただ、ぼくも女の子と二人になってしまい、彼女もなんだか積極的な雰囲気なので、そういう店なら、もうぼくは帰ることにした。

  女性は、髪が長く、顔立ちのはっきりとしたちょっとベトナム人っぽい子だった。仕事熱心なのか、積極的に誘ってくるので、「いや、ほんとにそういうのはなしで。ビールだけ飲んですぐに帰るから」というも、「ええ、なんで~。いいじゃない、誰も入ってこないから、あなたの好きにしていいのよ」と食い下がる。

 「いや、ほんとにそういうんじゃないから」
「いや、でも・・・」

 そんなやり取りが何度か続いた。彼女はなんとかぼくを説得しようと必死だった。最初に来た店員ふうの女性を連れてきて、「とりあえずblow jobだけでも」と言わせたり、私が気に入らないんだったら、ほかの女の子を選んでもらってもいいのよ、と別の3人を並ばせたり・・・。
 いくら、「そういうのはいいんだって」といってもわかってもらえず、ぼくはだんだんと面倒になった。そして帰ろうとすると、彼女は言った。
「わかった、わかった、話すだけでいいから」
 さっさと帰りたいと思ったものの、30分まであと10分ぐらいになっていたため、時間まで話してすぐ帰ろうと、とりあえず話し出した。
 しかし、ただ話すだけだったはずの彼女は、暗がりの中、気づくと自ら脱ごうとしている。その執拗さにいよいよ呆れ、ぼくはバックパックを持って勢いよく立ちあがった。中国語に英語を交え、「いいっていってんだろ!話すのがいやなら、もう帰るから!」といって、足早に外に出ようとした。

  が、そのときのことである――。
 部屋を出ようとしたのとほとんど同じタイミングで、外からゴツいおばちゃんが体を揺らしながら入ってきた。パパイヤ鈴木と大仁田厚を混ぜ合わせた感じの、タフそうで、見るからにめんどくさそうな中年女だった。「私は厄介です」と、顔に書いてあるようなそんな女だ。
 うわ、こいつはやばそうだ・・・と思っていると、パパイヤ女が言った。
「おい、おまえ!帰るなら、わかった。帰っていいから、その前に金を払っていけ!」「金?さっき150元払ったじゃないか!まだ30分もたってないぞ!あ、ビール代は払うよ、いくらだよ」
 というと、彼女は言う。

「さっきの150元は、あの女のチップだ。うちとは関係ないよ。ビール2本で70元、あとはこのVIPルームが400元、あの女の子のギャラが300元、それに○○が300元、全部で1070元。金を置いて出ていけ!」 

 その言葉を聞き、ぼくははっとした。そして、ドアの中央の窓越しに部屋の外を見ると、ドアの前にはゴツイ男がこっちをにらみながら立っている。

 このとき初めて気がついた。おれははめられていたんだと。愕然として、全身から力が抜けた。思わず前に倒れそうになる身体を、ぼくはひざに手を当てて必死に支えた。

 くそ、いったい、どうすりゃいいんだ……。

その2に続く)