「郷司さん、今度こそはいいクジラの写真が撮れますように!」

昨日一昨日と放送大学の面接授業「旅することと生きること」を行うにあたって、久々に拙著『まだ見ぬあの地へ』を読み返しました。書いたことをすっかり忘れていた内容もあって、のめりこんで読んでしまいましたが、広く読んでもらえたらなと思う文章も多く、機会を見つけてアップしていけたらとも思っています。

その中で、まずこれをと思ったのが、インドネシアの捕鯨村ラマレラで出会った写真家・郷司正巳さんについて書いた一篇「いつかまたラマレラで」です。郷司さんは、旅の中で出会ったの人の中でも特に、「将来自分も、このような人になれたら」と思った方です。当時自分は27歳で、郷司さんは50歳でした。ラマレラで4、5日くらい一緒に過ごし、またいつかどこかでお会いしたいと思っていたのですが、永遠に叶わなくなってしまいました。自分は間もなく、当時の郷司さんの年齢になろうとしています。果たして自分は郷司さんのような人間になれているだろうか。そう考えながら、読み返しました。以下、その文章です。


いつかまたラマレラで

先日、パソコンに保存されている旅の写真を、通して見返す機会がありました。

二〇〇三年のオーストラリアから順に、膨大な枚数を一枚一枚見ていくと、時に当時の自分の悩みや考えが思い出され、また時に、オーストラリアの強い日差しや、肌に張りつく東南アジアの空気感が蘇りました。そして、東ティモールやインドネシアにいたころの、さあ、これから東南アジアを北上するんだ、という気持ちの高ぶりを久々に追体験していたとき、一枚の写真に写る一人の男性の姿を見て、ふと手が止まりました。

それはインドネシア東部、レンバタ島のラマレラという小さな村の宿の中で撮ったものでした。

男性は、日に焼けた肌を白いTシャツから覗かせて、楽しそうに笑っています。笑い声まで聞こえてきそうなそのにこやかな表情に猛烈な懐かしさを覚えながらぼくは改めて思いました。もう二度と、彼に会うことはできないのだ、と。

 

バリ島から東に向かって飛行機、バス、船、乗り合いトラックを乗り継いで足掛け三日はかかる位置にあるラマレラは、四〇〇年前とほとんど変わらない方法で行われている伝統捕鯨によって知られています。当時、レンバタ島の港から、島の反対側にあるラマレラまでは道もなく、船で島に着いてからは、トラックの荷台に乗って四時間ほど山道を行かなければたどり着けませんでした。電気も通ってない、現代文明とは無縁に見える村でしたが、クジラを捕まえる瞬間を見ようとやってくるぼくらのような外国人旅行者がポツポツといて、そんな旅行者を泊める民家が当時四軒ほどありました。

ぼくらはそのうち、村を貫くメインストリート(といっても、むき出しの石の上を土などで固めただけの細い道なのですが)沿いにある一軒の家に泊まっていました。

白い塗り壁のその家は、入口のテラスに竹でできたベンチがあり、中に三、四つの部屋があります。こぎれいで心地よく、発電機や、おそらく村では数少ないテレビもあったため、夜、村の大部分が暗闇に包まれても、近所でこの家だけは灯りがあり、いつも、複数の村人が奥の部屋に集まってじっとテレビを見ているような場所でした。

 

ラマレラ滞在中、ぼくたち以外の外国人は村に数人しかいませんでしたが、たまたまその一人が日本人の男性で、しかもぼくたちと同じ家に泊まっていました。その人こそが、ぼくが写真の中に姿を見つけて手を止めた人物、郷司正巳(ごうじまさみ)さんでした。

当時ちょうど五〇歳だった郷司さんは、写真家で、捕鯨をする人々の姿を撮影するために、ラマレラを訪れていました。以前ベトナムでも海の民の写真を撮っていて、クジラを捕るラマレラの人々にもまた、長い間興味を惹かれつづけていたようでした。

郷司さんは、温厚で笑顔が優しいとても魅力的な人物で、ラマレラについて思い出すと、いつも彼の顔が浮かびます。だから、二〇一〇年に『遊牧夫婦』を書いていたとき、ラマレラの場面ではぜひ、郷司さんのことも書きたいと思い、久々に彼に連絡を取ってみることにしたのでした。

郷司さんとは、二〇〇四年にラマレラで知り合って以来、半年ほどはちょくちょくメールのやり取りをしていたものの、ぼくたちが中国に住みだした二〇〇五年ころには次第にその頻度も減りました。

それでも彼は、ぼくにとってもモトコにとっても、五年間の旅で出会った中で最も素敵な人の一人だったので、いずれ再会を果たしたいと思っていました。しかしながら、気づくと最後に連絡を取ってから五年もの歳月が経ってしまっていたのでした。

久しぶりにメールを送る前にちょっとでも近況を知れたらと、ぼくは彼の名前を検索しました。あれからまたラマレラに戻ったのだろうか。もしかしたら写真集ができあがっているのではないか。いろいろな想像を膨らませながら検索しました。すると、しかしネット上で見つかったのは、郷司さんの知人らしき人のブログに書かれていた、全く予想もしていなかった言葉でした。郷司さんはその前年、二〇〇九年一一月に、亡くなられたというのです。

享年五六。まだあまりに若く、ラマレラでお会いしたときもとても元気そうだったのですぐには信じられませんでした。しかしブログには、その数年前に郷司さんが大変な手術をされ、闘病されていたことも書かれていました。その文面を読み、掲載されていた郷司さんのさわやかな笑顔を見ながら、ぼくは、ラマレラで過ごした彼との日々を鮮明に思い出したのでした。

 

二〇〇四年の七月のことでした。

郷司さんは、ラマレラで毎日、日本語堪能なインドネシア人ガイドのマデさんとともに撮影に出かけていました。そして夕方、宿に戻ってくると、入り口のテラスに腰掛けて外を眺め、海風に吹かれながら、その日の出来事を丁寧にノートに綴りました。「今日もクジラは出なかったね。明日は出るかなあ……」。そう言って、穏やかに笑いながら。

マデさんはまん丸な顔でいつもけらけらと笑っている、ちょっとおっちょこちょいな二〇代前半くらいの男性で、いつも郷司さんと一緒にいました。マデさんが郷司さんを助け、郷司さんがマデさんをからかいながら楽しそうにしている姿はまるで親子のようでもありました。

ぼくもラマレラについてはあとで文章を書きたいと思っていたため、郷司さんの存在はとても心強いものでした。夕方、彼がテラスにいるときは、ときどきぼくも隣に座らせてもらい、その日の出来事を互いに共有し合いました。そして、時に郷司さんの持っていた資料を見せてもらったり、写真の撮り方を尋ねたり、また、マデさんにはインドネシア語を教えてもらったりするなど、二人にはずっとお世話になっていました。

一方、ぼくが自分たちのこれまでの旅や、今後の計画について話をすると、郷司さんはいつも、「うん、そうかー。へえ、すごいなあ」と熱心に聞いてくれました。自分よりも二〇歳以上年長で、ずっと多くの経験をされていながら、偉ぶったりすることは全くなく、とても真摯にぼくたちに向き合ってくれるのです。そんな彼の姿を見てぼくは、自分も五〇代になったら郷司さんのようにありたいと思うようにもなりました。

そのような人だったので、ぼくはつい、「写真家として生活していくのは大変ではないんですか?」 などと不躾なことも聞いてしまったりしたのですが、そういった問いにも郷司さんは、「そうだね」と言いながら丁寧に答えてくれました。家族のことなども話しながら、「楽じゃないけど、まあ、なんとかやってるよ」と、日焼けした黒い顔にしわをよせて苦笑いします。その表情を見ていると、たしかに楽ではないのかもしれないけれど、写真を撮ることが本当に好きなんだろうなと感じられ、彼の、写真と正面から向き合って生きる姿にぼくは強く惹かれていったのです。

ぼくは、自分が旅をしながらライターとしてひとり立ちしようとしているものの、悪戦苦闘していることを郷司さんに話しました。細々と仕事はしているけれど、これで将来生計を立てられるイメージはまだ全く見えてこない。本当に食べていけるようになるのだろうか。でも、がんばりたいと思っている、と。

そんな自分に郷司さんは「大丈夫だよ」などと言うことはありませんでした。ただ、優しく笑いながら、「二人の生き方は羨ましいよ」と言ってくれたように記憶しています。ぼくはそんな言葉に、がんばろうと励まされたり、また、ライターとしてどうなるかは別としても、郷司さんのように素敵に年をとっていきたいな、と思ったりしたのでした。

 

そうして、一日一日と滞在を重ねる中で、ある日、彼にとても不運なことが起りました。

その日は土曜日で、ラマレラでは「バーターマーケット」すなわち物々交換の市場が開かれる日でした。ここではクジラは、単に村人の食料となるだけではなく、その肉は貨幣としても使われていました。すなわち、男たちが海へクジラを捕りに行くのに対し、女たちはクジラ肉を担いで山に行き、クジラ肉を、山の民が育てたトウモロコシなどの農作物と交換するのです。

ぼくはその日、風邪をひいて体調が悪く、残念ながら市場を見に行くことはできなかったのですが、昼ごろ、宿でごろごろと休んでいると、朝から市場に行っていた郷司さんが戻ってきて、「いやあ、やっちゃったよ……」と、苦い顔をしてこう言いました。

「カメラ、落としちゃったんだ、海に……。市場からの帰り、山道は大変そうだったから、船で回って戻ってきたんだけど、船から下りたときに足滑らせちゃってね。カメラごとドボンだよ……」

ニコンのカメラが二台、そしてレンズもすべて水没してしまったというのです。

山道を歩いて帰るガイドのマデさんに預けようかと思ったものの、まあ大丈夫だろうと自分で持ってきてしまった。それが間違いだったよ、とすごく残念そうにしていました。写真家にとってこれ以上ないやりきれない展開に、ぼくはかける言葉が見つかりませんでした。

その後も郷司さんは、苛立ったりすることはなくにこやかなままでしたが、多大な労力と費用をかけてラマレラまで来ていたために、さすがにショックは隠しきれないようでした。「いやあ、本当にバカなことをしてしまったよ」と繰り返し、時折悔しそうな表情を見せました。そしてほどなく、こう言ったのでした。

「これでクジラが出たら悔しくてやりきれないから、もうぼくは帰るよ」

ある意味当然な決断かもしれないと思いつつも、彼がラマレラを去ってしまうことをぼくはとても寂しく思いました。

別れるとき郷司さんは、笑顔でぼくたちに言いました。

「来年、きっとまたラマレラに戻ってくるよ!」

 郷司さんとマデさんがラマレラを出発した日、ぼくは早朝から船に乗り、漁に同行しました。クジラに出会うことはなかったものの、イルカの大群に遭遇し、まるで哺乳類同士の闘いといえる瞬間を経験することになりました。その圧倒的な興奮がさめやらないその翌日、ぼくらもラマレラを去りました。

帰り際にモトコは、郷司さんが来年戻ってきたときのためにと、宿のゲストブックの小さく空いたスペースに、短いメッセージを残しました。

「郷司さん、今度こそはいいクジラの写真が撮れますように!」

しかし、その後郷司さんがラマレラに戻ったのかどうかは、ついに知ることのないままとなってしまいました。

 

郷司さんについては、『遊牧夫婦』の本のベースとなったウェブ連載には書いたものの、結局本の中には収められず、ずっと心残りがありました。だから今回、久々に彼の写真を見て思い立ち、この原稿を書くことにしました。

彼の闘病期には、友人たちによって「郷司正巳さんを支援する会」が立ち上がり、彼を支えていたようでした。郷司さんの人柄を思い出すたびに、そういった仲間を持ちうる人であっただろうことがすんなりと理解できました。そしておそらく、郷司さん自身もまた、多くの人の支えになってきただろうことを想像しました。ぼく自身、郷司さんから、いまもずっと心に残る、優しさや寛容さを教わったのです。

旅の一番の醍醐味は、人との出会いだと思います。互いに全く異なる人生を歩んできたもの同士が、未知の土地で、偶然に人生を交錯させる。そしてその短いひとときが、何らかの形で互いの人生に影響を残し合う。郷司さんを思い出すたびに、まさに旅でのこうした出会いが、いまの自分の大きな部分を作り上げていることを、ぼくは実感するのです。

                                    (2014.11)

生産性という言葉に蝕まれているの感じながら思い出した、生産性を求めていた自分

朝日新聞Re:Ronに掲載された「微うつ」歴50年の異変…ヨシタケシンスケさんと「助けてボタン」を読んで、「生産性」ということについて考えました。

ここ数年、自分自身、生産性の魔にがんじがらめになっている感じがします。生活していくためにそうならざるを得ない部分もあるものの、じつは自分で自分を必要以上に焦らせているような気も。ヨシタケさんの言葉にはとても共感しました。

一方、自分は、「もっと生産性の高い生活をしたい」と思っていた時期がありました。長い旅から帰国したすぐあとのことです。そんなころにあった忘れられない出来事について書いたエッセイを『まだ見ぬあの地へ』に載せています。「旅の生産性」というタイトルの文章です。思い出したのでこちらに転載します。「旅が非生産的」だとすれば、それを5年間も続けられていたことはいかに豊かなことかと思います。「旅は非生産的だ」という言葉がいまは、まるっきり別な意味に聞こえます。ここに書いた友人とは、それ以降連絡を取ってないのですが、機会があったら、このことを直接話したいなあ…。

(以下、『まだ見ぬあの地へ 旅すること、書くこと、生きること』(産業編集センター)より)

旅の生産性

「『旅は非生産的だ』って近藤さんは言っていましたが、どういうことなのでしょうか」

『遊牧夫婦』の旅を終えて日本に帰ってきた直後、二〇〇八年の暮れに、ぼくは一人の友人からそんな内容が書かれたメールをもらいました。

友人というのは、その前年の二〇〇七年に中央アジア・キルギスの首都ビシュケクで知り合った二〇代の女性です。ぼくらが中央アジアを東から西へと移動しているときのことで、彼女は確か一週間ぐらいの日程でキルギスを訪れていて、宿だったかで一緒になったのでした。

それから一年ほどが経ち、ぼくらが五年間の旅を終えて帰国して少ししたころ、彼女を含めキルギスで一緒だった数人と、東京で再会する機会がありました。そのときぼくは、自分たちが日本に帰ってきた理由について彼女にこんなことを言ったのです。

「五年間、ずっと旅の中にいたら、ふと、『おれ、何やってるんだろう』って思うときが出てきたんだよね。ただ移動を繰り返してるだけの日々に嫌気がさしてきたというか。旅って、なんていうか、非生産的だし、だからもっと、仕事をしたりして生産的な生活がしたい、って思うようになった。それも日本に帰ろうって思った大きな理由の一つだったんだ」

その場では彼女は特に何も言わなかったものの、ぼくのその言葉が引っかかっていたようでした。そのすぐあとに、冒頭のメールが彼女から届いたのでした。

 

そのころぼくは、日本に帰ってまだ数カ月しか経っていなく、ライターとしてやっていくかどうかもはっきり決めていない時期でした。京都に住むことは決まったものの、いきなりフリーのライターとして食べていける自信など全くなく、とりあえず理系の仕事に就いて、会社などで働きながら細々と書いていくしかないかなと思い、派遣の登録に行ったりする日々を送っていました。しかし、就職経験が一切なく、五年間海外をふらふらしていた三〇代の自分にとって、就職先を見つけるのは想像以上に困難であるのがだんだんとわかってきました。こちらが興味を持った会社は、どこも会ってもくれませんでした。最初はタイミングが合わないだけかと思ったのですが、何らかの理由をつけられて「会えない」と告げられるケースが続くうちに、そうか、これは拒絶されているのだ、と気がつきました。そして思ったのです。これはもう、覚悟を決めてフリーライターでいくしかないな、と……。

ただ、いずれにしても、何をやっていくにしても、ちゃんと仕事をして、日本で普通に生活できるようにならなければ、という思いが強くありました。そして、旅に対しては、倦んでいたとも言える気持ちを抱いていました。それが言い過ぎでも、旅することに疲れ切り、とにかく、じっくりと腰を据えた生活がしたかった。

その気持ちの中には、自分は三二歳にもなりながら、社会に対してほとんど何も生み出すことができていない、積極的にかかわることもできていない、という焦りのようなものがありました。まずは日本でしっかりと稼いで食べていくということを最低限実現しなければいけない。そのためには自分が何かを生み出さなければいけない。しかし自分にとっては、それが決して容易ではなさそうなことをこのころ実感するようになっていたのです。

そう思うのと表裏一体な気持ちとして、良くも悪くも雑誌の原稿料などのわずかな収入で細々と食いつないでこられてしまった旅中の自分が、やたらと非生産的であったように感じるようになりました。そしてそのことをネガティブに捉えるようになっていました。「旅は非生産的だ」と負の意味合いで言ったのは、当時の自分のそのような状況と内面の表れでした。

 

そんな時期から、三年以上が経ちました。

いまは一応、文章を書いて最低限食べていけるようにはなっています。生産的でありたいという思いも、それなりに満たされるようになりました。でもその一方、毎日、仕事や子育てに追われ、旅らしい旅など全くできなくなっている中で、過去の旅を思い出しながら紀行文を書いていると、旅をしたい、と思う気持ちが再び強烈に湧き上がってくるのを感じます。

正直なところぼくはこれまで、紀行文の面白さ、魅力というものを、さほど感じたことがありませんでした。それゆえに、もともとは紀行文を書くつもりはなかったのですが、いろいろな経緯から『遊牧夫婦』などを書くことになり、いまもずっと書き続けています。さらに昨年からは大学で紀行文についての講義を担当するようにもなりました。

そうした中、ようやくいま、紀行文は面白いと確信をもって人に伝えられるようになっています。一言でまとめることは困難ですが、それはおそらく、旅というものが人間にとっていかに普遍的で必然的な行為であるのかを、自分自身の旅を振り返りながら文章化することを通じて、実感できるようになったということなのだろうと思います。

旅の持つ普遍的な魅力を感じられるようになるにつれて、自分が三年半前に言った、「旅は非生産的だ」という言葉をふと思い出すようになりました。友人がぼくに対して、「なぜそんなことを思うのか」と、おそらく多少の反感も抱きながら問うてきた気持ちがいまはよくわかる気がします。

そしていまはこう思います。旅は、何か具体的なものを生産する行為ではないかもしれない。でも、だからこそ、形では表せない無限の世界をその人の中に生み出すのだろう、と。

(2012・5)

20代のころ、旅する自分の背中を押してくれた『婦人公論』の「ノンフィクション募集」。荻田泰永さんと河野通和さんの対談から蘇った記憶。

冒険家の荻田泰永さんが主催する「冒険クロストーク」で荻田さんと河野通和さんの対談を見た。河野さんは『婦人公論』『中央公論』『考える人』などの編集長を歴任された編集者。対談では、河野さんの青年期、編集、野坂昭如、婦人公論、本、冒険、考えるとは…、興味ある話題ばかりで、3時間半という長さながら、飽きる所がなかった。

感想はとてもたくさんあるのだけれど、自分にとって特に大きかったのは、ずっと忘れていたかつての記憶がふと蘇ったこと。それは河野さんが編集長をされていた『婦人公論』のことである。

僕は長い旅に出る前の2002年ごろ、ライターとして一つでも実績を作るために、いくつかの雑誌の賞に、手探りで書いたルポを 送ったりしていた(当時はネットで書くという選択肢はほとんどなく、ライターになるためには紙の雑誌に書く場を見つけなければならなかった)。そのため当時、本屋に行ってはいろんな雑誌を見たり買ったりしていたのだが、 その中で確か知る限り『婦人公論』にだけ、「読者体験記・ノンフィクションを随時募集しています」といった記載があった。

河野さんのお話から考えると、 当時『婦人公論』はリニューアルしてすでに4年ほど経っていたことになるが(河野さんは、1998年の同誌のリニューアル時から数年の間編集長をされていたとのこと)、なんとなく自分の中に、表紙がスタイリッシュになって新しくなった雑誌という印象があり、内容も自分の感覚に近いような印象があった。加えて、ノンフィクションを募集している雑誌としても記憶に残った。

そして2003年6月、僕は結婚直後の妻とともに旅に出た。旅をしながら、なんとかライターとしての道筋を構築するために、ほとんどツテも縁もない中で、書いたものをいろんな雑誌にメールで送ったりしていたが、送る先はほとんど、ネットで見つけたinfo@出版社名.co.jpとかwebmaster@出版社名.co.jp的なアドレスだった。当然返事は期待できなそうな中、『婦人公論』だけは、原稿を募集しているし、でも旅の話なんてお門違いかなあとか…、いろいろ思いながらも、堂々と送ってもよさそうな媒体だった。そして旅のことだったか、取材したことだったかを、オーストラリアからだったか、東ティモールからだったか、送ったのだった。

すると思いがけずご丁寧な返事が届いた。原稿の掲載は難しいという内容だったものの、読んで返事を下さったことがとても嬉しく、 それからまた別なのを送って、また返事をもらい、 ということにつながった。結局原稿が掲載されることはなかったものの、やり取りができたことに背中を押された。その後、5年にわたった旅の日々の最初の時期、つまり、ライターとして全く仕事になっていなかった時代に、投げ出すことなくなんとか書き続けていくための原動力の一つに、『婦人公論』から届いたメールは確かになっていた。その時に送った原稿は、『遊牧夫婦』の元型の一部になっていると思う。

その時、お返事をくださった編集者はTさんで、 いま、中公新書の編集長をされている。旅を終えて日本に帰ってから、 お会いしに行ったり、やり取りさせていただいたり、 ということにつながっていった。

そして、Tさんとのつながりから、旅の終盤、2007年~08年、ユーラシアを横断している最中には、『中央公論』のグラビアページに、 写真と短い文章を2度掲載していただいたが(中国西部で出会ったイスラム教徒たちの姿と、スイスの亡命チベット人の僧侶の姿)、その時の編集長はおそらく河野さんだったことを知り、思わぬご縁を感じるのだった(河野さんとはその後、氏が『考える人』の編集長をされていた時に同誌で連載をする機会をいただいたりして、以来いろいろとお世話になっています)。

いずれにしても、当時の『婦人公論』の、 「読者体験記・ノンフィクションを随時募集しています」 という記載は、先行きが見えなかった自分にとって、 一つの目標となるような、数少ない希望になっていた。また、ライター経験はほとんどなく、海外で旅をしながらメールで文章を送ってきた若者にお返事をくださったTさんにすごく励まされたことはいまもよく覚えているし、本当にありがたかった。 そういう意味で、『婦人公論』には助けられた感覚があり、いまもなんとなく身近であり続けている。原稿を書いたことは今なおないのだけれど。そして同誌のサイトを見たら、同様の「ノンフィクション募集」の記載がいまもあり、嬉しくなった。

『婦人公論』のことを書いていたら、また別の形で背中を押してもらった媒体がいくつかあることを思い出した。その編集者の方たちが下さった一本のメールが、いまの自分へとつながっているんだなあと改めて思った。

                   *

下の写真は、旅出してから間もないころ、オーストラリア東部のカウラという町で、日本人捕虜暴動事件について取材らしきことをしていて、地元の新聞社を訪ね、事件の関係者を探しているといったら載せてくれた記事(Cowra Guardian, July 4, 2003)。急にこの記事のことも思い出し、探したら出てきた。

10日前に日本を出たところ、と記事に。一番の連絡先が滞在していた安ホテルの電話番号になっているのがすごい。メールアドレスも載せてもらっているけれど。当時は携帯電話も持ってなかったし、メールより電話だった時代なような。
『婦人公論』に送った原稿にも、この事件のことを書いた部分があったような…。

旅立ちの日から20年。

昨日(6月22日)で、『遊牧夫婦』の長い旅に出発してからちょうど20年だった。

旅立ちの時考えていたのは、数年間、旅をしようということ。26歳だった自分にとって数年というのは永遠のように思えたし、旅の終わりなど来ないように思っていた。また、できることなら、いつまでも終わりのない旅がしたいと思っていた。そのためにも旅をしながらライターとして稼げるようにならねばと。

しかし5年旅して、終わりがあるからこそ旅なんだと感じるようになった。何を見ても、ほとんど感動することがなくなってしまったからだ。そして思った。終わりがあるからこそ、人は感動するし、生きる原動力も湧くのだろう、と。旅も人生も。それが5年旅しての最大の気づきだったように思う。

そしていま改めて、そうだなと思う。

ところが、昨年あるコラムに自分がこんなことを書いていたのを思い出した。

ロームシアター京都のサイトへの寄稿「終わりがあるからこそ、と思えるように」より

そういえば去年、終わりがあるからこそ、と思えなくなっていたのだった。そのことを忘れていた。そしていままた、終わりがあるからこそ、と思えている自分に気づかされる。
それはもしかすると、最近、とても親しかったある人の死に向き合わないといけなかったからかもしれない。彼女の死のあとからなんとなくまた、終わりがあるからこそ、と思えているような気もする。去年、上のように書いていたことをいまはすっかり忘れていたのだ。

こうして移りゆく自分の気持ちもまた、記憶しておきたいと思う。

2003年6月23日、シドニーに降り立つ前の飛行機から。

2008年9月30日 旅の最後に撮った写真。マラウィ湖からモザンビークの大地を望む。