「郷司さん、今度こそはいいクジラの写真が撮れますように!」

昨日一昨日と放送大学の面接授業「旅することと生きること」を行うにあたって、久々に拙著『まだ見ぬあの地へ』を読み返しました。書いたことをすっかり忘れていた内容もあって、のめりこんで読んでしまいましたが、広く読んでもらえたらなと思う文章も多く、機会を見つけてアップしていけたらとも思っています。

その中で、まずこれをと思ったのが、インドネシアの捕鯨村ラマレラで出会った写真家・郷司正巳さんについて書いた一篇「いつかまたラマレラで」です。郷司さんは、旅の中で出会ったの人の中でも特に、「将来自分も、このような人になれたら」と思った方です。当時自分は27歳で、郷司さんは50歳でした。ラマレラで4、5日くらい一緒に過ごし、またいつかどこかでお会いしたいと思っていたのですが、永遠に叶わなくなってしまいました。自分は間もなく、当時の郷司さんの年齢になろうとしています。果たして自分は郷司さんのような人間になれているだろうか。そう考えながら、読み返しました。以下、その文章です。


いつかまたラマレラで

先日、パソコンに保存されている旅の写真を、通して見返す機会がありました。

二〇〇三年のオーストラリアから順に、膨大な枚数を一枚一枚見ていくと、時に当時の自分の悩みや考えが思い出され、また時に、オーストラリアの強い日差しや、肌に張りつく東南アジアの空気感が蘇りました。そして、東ティモールやインドネシアにいたころの、さあ、これから東南アジアを北上するんだ、という気持ちの高ぶりを久々に追体験していたとき、一枚の写真に写る一人の男性の姿を見て、ふと手が止まりました。

それはインドネシア東部、レンバタ島のラマレラという小さな村の宿の中で撮ったものでした。

男性は、日に焼けた肌を白いTシャツから覗かせて、楽しそうに笑っています。笑い声まで聞こえてきそうなそのにこやかな表情に猛烈な懐かしさを覚えながらぼくは改めて思いました。もう二度と、彼に会うことはできないのだ、と。

 

バリ島から東に向かって飛行機、バス、船、乗り合いトラックを乗り継いで足掛け三日はかかる位置にあるラマレラは、四〇〇年前とほとんど変わらない方法で行われている伝統捕鯨によって知られています。当時、レンバタ島の港から、島の反対側にあるラマレラまでは道もなく、船で島に着いてからは、トラックの荷台に乗って四時間ほど山道を行かなければたどり着けませんでした。電気も通ってない、現代文明とは無縁に見える村でしたが、クジラを捕まえる瞬間を見ようとやってくるぼくらのような外国人旅行者がポツポツといて、そんな旅行者を泊める民家が当時四軒ほどありました。

ぼくらはそのうち、村を貫くメインストリート(といっても、むき出しの石の上を土などで固めただけの細い道なのですが)沿いにある一軒の家に泊まっていました。

白い塗り壁のその家は、入口のテラスに竹でできたベンチがあり、中に三、四つの部屋があります。こぎれいで心地よく、発電機や、おそらく村では数少ないテレビもあったため、夜、村の大部分が暗闇に包まれても、近所でこの家だけは灯りがあり、いつも、複数の村人が奥の部屋に集まってじっとテレビを見ているような場所でした。

 

ラマレラ滞在中、ぼくたち以外の外国人は村に数人しかいませんでしたが、たまたまその一人が日本人の男性で、しかもぼくたちと同じ家に泊まっていました。その人こそが、ぼくが写真の中に姿を見つけて手を止めた人物、郷司正巳(ごうじまさみ)さんでした。

当時ちょうど五〇歳だった郷司さんは、写真家で、捕鯨をする人々の姿を撮影するために、ラマレラを訪れていました。以前ベトナムでも海の民の写真を撮っていて、クジラを捕るラマレラの人々にもまた、長い間興味を惹かれつづけていたようでした。

郷司さんは、温厚で笑顔が優しいとても魅力的な人物で、ラマレラについて思い出すと、いつも彼の顔が浮かびます。だから、二〇一〇年に『遊牧夫婦』を書いていたとき、ラマレラの場面ではぜひ、郷司さんのことも書きたいと思い、久々に彼に連絡を取ってみることにしたのでした。

郷司さんとは、二〇〇四年にラマレラで知り合って以来、半年ほどはちょくちょくメールのやり取りをしていたものの、ぼくたちが中国に住みだした二〇〇五年ころには次第にその頻度も減りました。

それでも彼は、ぼくにとってもモトコにとっても、五年間の旅で出会った中で最も素敵な人の一人だったので、いずれ再会を果たしたいと思っていました。しかしながら、気づくと最後に連絡を取ってから五年もの歳月が経ってしまっていたのでした。

久しぶりにメールを送る前にちょっとでも近況を知れたらと、ぼくは彼の名前を検索しました。あれからまたラマレラに戻ったのだろうか。もしかしたら写真集ができあがっているのではないか。いろいろな想像を膨らませながら検索しました。すると、しかしネット上で見つかったのは、郷司さんの知人らしき人のブログに書かれていた、全く予想もしていなかった言葉でした。郷司さんはその前年、二〇〇九年一一月に、亡くなられたというのです。

享年五六。まだあまりに若く、ラマレラでお会いしたときもとても元気そうだったのですぐには信じられませんでした。しかしブログには、その数年前に郷司さんが大変な手術をされ、闘病されていたことも書かれていました。その文面を読み、掲載されていた郷司さんのさわやかな笑顔を見ながら、ぼくは、ラマレラで過ごした彼との日々を鮮明に思い出したのでした。

 

二〇〇四年の七月のことでした。

郷司さんは、ラマレラで毎日、日本語堪能なインドネシア人ガイドのマデさんとともに撮影に出かけていました。そして夕方、宿に戻ってくると、入り口のテラスに腰掛けて外を眺め、海風に吹かれながら、その日の出来事を丁寧にノートに綴りました。「今日もクジラは出なかったね。明日は出るかなあ……」。そう言って、穏やかに笑いながら。

マデさんはまん丸な顔でいつもけらけらと笑っている、ちょっとおっちょこちょいな二〇代前半くらいの男性で、いつも郷司さんと一緒にいました。マデさんが郷司さんを助け、郷司さんがマデさんをからかいながら楽しそうにしている姿はまるで親子のようでもありました。

ぼくもラマレラについてはあとで文章を書きたいと思っていたため、郷司さんの存在はとても心強いものでした。夕方、彼がテラスにいるときは、ときどきぼくも隣に座らせてもらい、その日の出来事を互いに共有し合いました。そして、時に郷司さんの持っていた資料を見せてもらったり、写真の撮り方を尋ねたり、また、マデさんにはインドネシア語を教えてもらったりするなど、二人にはずっとお世話になっていました。

一方、ぼくが自分たちのこれまでの旅や、今後の計画について話をすると、郷司さんはいつも、「うん、そうかー。へえ、すごいなあ」と熱心に聞いてくれました。自分よりも二〇歳以上年長で、ずっと多くの経験をされていながら、偉ぶったりすることは全くなく、とても真摯にぼくたちに向き合ってくれるのです。そんな彼の姿を見てぼくは、自分も五〇代になったら郷司さんのようにありたいと思うようにもなりました。

そのような人だったので、ぼくはつい、「写真家として生活していくのは大変ではないんですか?」 などと不躾なことも聞いてしまったりしたのですが、そういった問いにも郷司さんは、「そうだね」と言いながら丁寧に答えてくれました。家族のことなども話しながら、「楽じゃないけど、まあ、なんとかやってるよ」と、日焼けした黒い顔にしわをよせて苦笑いします。その表情を見ていると、たしかに楽ではないのかもしれないけれど、写真を撮ることが本当に好きなんだろうなと感じられ、彼の、写真と正面から向き合って生きる姿にぼくは強く惹かれていったのです。

ぼくは、自分が旅をしながらライターとしてひとり立ちしようとしているものの、悪戦苦闘していることを郷司さんに話しました。細々と仕事はしているけれど、これで将来生計を立てられるイメージはまだ全く見えてこない。本当に食べていけるようになるのだろうか。でも、がんばりたいと思っている、と。

そんな自分に郷司さんは「大丈夫だよ」などと言うことはありませんでした。ただ、優しく笑いながら、「二人の生き方は羨ましいよ」と言ってくれたように記憶しています。ぼくはそんな言葉に、がんばろうと励まされたり、また、ライターとしてどうなるかは別としても、郷司さんのように素敵に年をとっていきたいな、と思ったりしたのでした。

 

そうして、一日一日と滞在を重ねる中で、ある日、彼にとても不運なことが起りました。

その日は土曜日で、ラマレラでは「バーターマーケット」すなわち物々交換の市場が開かれる日でした。ここではクジラは、単に村人の食料となるだけではなく、その肉は貨幣としても使われていました。すなわち、男たちが海へクジラを捕りに行くのに対し、女たちはクジラ肉を担いで山に行き、クジラ肉を、山の民が育てたトウモロコシなどの農作物と交換するのです。

ぼくはその日、風邪をひいて体調が悪く、残念ながら市場を見に行くことはできなかったのですが、昼ごろ、宿でごろごろと休んでいると、朝から市場に行っていた郷司さんが戻ってきて、「いやあ、やっちゃったよ……」と、苦い顔をしてこう言いました。

「カメラ、落としちゃったんだ、海に……。市場からの帰り、山道は大変そうだったから、船で回って戻ってきたんだけど、船から下りたときに足滑らせちゃってね。カメラごとドボンだよ……」

ニコンのカメラが二台、そしてレンズもすべて水没してしまったというのです。

山道を歩いて帰るガイドのマデさんに預けようかと思ったものの、まあ大丈夫だろうと自分で持ってきてしまった。それが間違いだったよ、とすごく残念そうにしていました。写真家にとってこれ以上ないやりきれない展開に、ぼくはかける言葉が見つかりませんでした。

その後も郷司さんは、苛立ったりすることはなくにこやかなままでしたが、多大な労力と費用をかけてラマレラまで来ていたために、さすがにショックは隠しきれないようでした。「いやあ、本当にバカなことをしてしまったよ」と繰り返し、時折悔しそうな表情を見せました。そしてほどなく、こう言ったのでした。

「これでクジラが出たら悔しくてやりきれないから、もうぼくは帰るよ」

ある意味当然な決断かもしれないと思いつつも、彼がラマレラを去ってしまうことをぼくはとても寂しく思いました。

別れるとき郷司さんは、笑顔でぼくたちに言いました。

「来年、きっとまたラマレラに戻ってくるよ!」

 郷司さんとマデさんがラマレラを出発した日、ぼくは早朝から船に乗り、漁に同行しました。クジラに出会うことはなかったものの、イルカの大群に遭遇し、まるで哺乳類同士の闘いといえる瞬間を経験することになりました。その圧倒的な興奮がさめやらないその翌日、ぼくらもラマレラを去りました。

帰り際にモトコは、郷司さんが来年戻ってきたときのためにと、宿のゲストブックの小さく空いたスペースに、短いメッセージを残しました。

「郷司さん、今度こそはいいクジラの写真が撮れますように!」

しかし、その後郷司さんがラマレラに戻ったのかどうかは、ついに知ることのないままとなってしまいました。

 

郷司さんについては、『遊牧夫婦』の本のベースとなったウェブ連載には書いたものの、結局本の中には収められず、ずっと心残りがありました。だから今回、久々に彼の写真を見て思い立ち、この原稿を書くことにしました。

彼の闘病期には、友人たちによって「郷司正巳さんを支援する会」が立ち上がり、彼を支えていたようでした。郷司さんの人柄を思い出すたびに、そういった仲間を持ちうる人であっただろうことがすんなりと理解できました。そしておそらく、郷司さん自身もまた、多くの人の支えになってきただろうことを想像しました。ぼく自身、郷司さんから、いまもずっと心に残る、優しさや寛容さを教わったのです。

旅の一番の醍醐味は、人との出会いだと思います。互いに全く異なる人生を歩んできたもの同士が、未知の土地で、偶然に人生を交錯させる。そしてその短いひとときが、何らかの形で互いの人生に影響を残し合う。郷司さんを思い出すたびに、まさに旅でのこうした出会いが、いまの自分の大きな部分を作り上げていることを、ぼくは実感するのです。

                                    (2014.11)

『IN/SECTS vol.18』の不登校特集(「THE・不登校」)に寄稿しました。

現在小6次女の不登校状態が始まってからかれこれ7年(保育園時代から)。

基本的には自分も妻も、無理に学校に行かなくても、と思う方でしたが、しかし、これだけ長くこの状況下の娘を見るうちに、決してそう簡単には割り切れなくなってきました。日中、家にずっと1人でいて、ほとんど誰ともコミュニケーションを取らず、身体もほとんど動かさずにこの発育期を過ごしている姿を見ていると、やはりなかなか心配ではあります。

いまは週に1,2回、本人が今日は行ってみようかな、という気分の時だけ(あとは家でオンラインで参加したりしなかったり)、僕か妻かが娘と一緒に学校に行き、教室の外に椅子を並べて2人で座り、廊下から1時間くらいだけ授業を聞いて、また一緒に帰ってくるという日々です。

この7年間、本当にいろんな状況を経て、いまはそんな状態にあります。自分自身も、おそらく娘も、様々な気持ちの変化を経てきました。

『IN/SECTS vol.18』の不登校特集にて、機会をいただき執筆しました。正解も出口も見えない現状について自分がいま思うことを、本人の許可を得て、書きました。そしていまの自分の娘への向き合い方につながってる、自分自身の小学校時代の忘れられない思い出を。

特集「THE・不登校」、多様な執筆者が、いろんな切り口から不登校について書いていて、とても充実した特集になっています。ご興味ある方はぜひ。
『IN/SECTS vol.18』の詳細・目次はこちらから
https://insec2.com/in-sects-vol-18

                   *
昨日(今日はオンライン参加)も1時間目の途中から娘と一緒に学校に行き、教室の扉の前に椅子を並べて国語の授業を廊下から聴講。いつもならその時間だけで帰るのだけれど、昨日は少し気分が乗ったのか、次の算数も廊下から参加。
そして3時間目の総合の時間はみなで畑づくりをするとのことで、友達らが「一緒にやらない?」、って声をかけてくれて、その時間も参加することに。結局その時間も、遠くから2人で眺めている感じだったけれど、僕の仕事の関係で帰らざるを得なくなった11時くらいまで滞在し、下校。これだけ長くいたのは1年以上ぶりくらいかも…。

先生もクラスメートもいつも本当に温かく、程よい距離感で娘に接してくれて、そのことはとてもありがたく、娘も自分たちも、いつもみなに助けられているなあと感じます。

朝日新聞の言論サイト「Re:Ron」に寄稿  <「1%のリスク」と「99%のいい出会い」 旅で考えた警戒心と分断>

朝日新聞の言論サイト「Re:Ron」に寄稿しました。

「1%のリスク」と「99%のいい出会い」 旅で考えた警戒心と分断

分断が進み、信頼し合うことが難しくなりつつある今だからこそ、信頼し合うことの大切さと可能性について改めて考えたいと思い、書きました。<信頼こそが人を幸福にする>という事実は、心に留めておきたいと最近切に思います。

いま、不登校についてのエッセイを書いていて

ある雑誌が不登校の特集を組むとのことで、執筆を依頼され、長らく学校にあまりいかない次女について書いている。娘のことを書くのは久しぶりで、どう書こうか考えながら、昨夜から、以前(2013年春から約7年間)娘たちについて書いていた連載の記事を読み直している。思い出してちょっと泣けてしまったり、いまの娘の姿とつながりふと心があったまったり。自分の娘のことだからなのは間違いないけど、興味持ってもらえる人もいるかもと思って、ひとまず最終回だけ貼っておきます。連載していたウェブ媒体がなくなってしまい、いまはどこにも公開されていないので、それももったいないかなと。よろしければ読んでいただけたら嬉しいです。

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積水ハウスオウンドメディア「スムフムラボ」掲載の連載記事
《劇的進行中~”夫婦の家”から”家族の家”へ》

最終回 「書くこと」は「子どもと一緒に生きること」(2020年秋ごろ掲載)

 この欄で3ヵ月に一度、成長する娘たちの姿と、父親としての自分自身について書き始めたのは、いまから7年前のことである。
 それはちょうど、今年7歳になった次女が、生まれたばかりのころだった。この連載は、その当時から現在に至るまで、2人の娘がどう成長したかを季節ごとに振り返るきっかけをつくってくれる大切な仕事であり続けたが、それが、今回で最終回となることを告げられた。

 読者の方から嬉しい感想をもらうことも時折あったし、振り返ると家族についての貴重な記録(あくまでも父親としての自分の視点からのものではあるが)にもなっていた。そして勝手にいつまでも続いていくような気持ちでもいたので、唐突に終わりがやってきたことを知り、驚き、残念に思った。ただその一方で、少しほっとした気持ちが沸いてきたのも確かだった。もしかすると、ちょうどいいころ合いなのかもしれないな、とも思ったのだ。


 長女は昨年10歳になった。今年で小学5年である。当然のことながらだんだんと自立した一人の人間らしさが増している。ほっとした、というのは、最近その長女について、自分がどこまで自由に書いていいのかという点で、だんだんと複雑な気持ちを持つようになっていたからだ。

 以前にも少し触れたが、長女は、あまり自分のことを人にさらけ出したくないタイプに見える。人前に出て目立ったりすることを好まないし、自分が考えていることを人に知られたくないと思っていそうな節もある。そうであるとすれば、やはり娘のその気持ちは、尊重しなければと思っている。

 ある程度の年齢までは、親の判断で子どもについて書いたり報告したりすることは、基本的には許されるだろう。それがいくつぐらいまでなのかは、はっきりとはわからないが、長女の様子を見る限り、小学校高学年ぐらいからは、その範疇を超えるのかもしれないなと感じている。

 そんな思いから、父親として自分が勝手に書いていい娘たちの物語はそろそろ終盤に近づいているのかもしれないと最近思うようになっていた。この連載を始めたころの気持ちを思い出せば、そのような時期がもう訪れてしまったことに驚かされ、寂しくもあるけれど、でもそれゆえに、この連載を終えなければならないと聞いたとき、それはそれでよかったのかもしれないと感じたのだ。そして自分にとってはこの連載の終了が、これから娘たちが自分自身で歩いていく様子を遠くから見守るための、一つの節目になるのかもしれないな、と思っている。

 7年間、子どもたちの幼少の時代をこのようなコラムに書き残せたのは、とても幸運なことだった。自分自身、娘たちの気持ちを想像しながら書き進めていく中で、少なからぬ発見があったし気づくことがあった。またいろんな方に読んでもらい、さまざまな感想をもらえたことも、自分の子どもとの向き合い方に影響した。つまりぼくは、3カ月ごとに子どもとの日々を振り返って文章化することで反省したり考えたりする機会を得ながら、子どもたちと生きてきたような気がするのだ。その日々を、読者の皆さんや関係者の方々に見守っていただけたことを、とてもありがたく思っている。そして今回、その最後の機会として、以下に娘たちの近況をお伝えして、連載を終えたい。


 小5の長女、そよは、背もだいぶ高くなり、妻と服を共有したりするようになっている。内面はまだまだ幼いけれど、容易に言うことをきかなくなっている様は、反抗期の到来が近いのを感じさせる。その姿に、ああ、これから大変な時期が来るのかな、と思うとともに、着実に成長しているんだなとも実感する。そんな彼女の姿を見て、なぜか時折、大人になった娘に助けられたり励まされたりする老いた自分を想像したりもしてしまうが、いや、その前に思春期の娘と対峙する、おそらく自分にとってはハードな時期がやってくる。まずはその時期を、ちょっと覚悟しながらも楽しみに待ちたいと思っている。

 一方、次女のさらは、今春、小学校に入学した。この連載にも度々書いてきた通り、彼女は保育園に行けない時期が長くあった。その上、コロナ禍によって入学直後に長い休みに入ったということもあり、スムーズに小学校生活を始められるのかが心配だった。そしてその懸念通り、6月の学校再開直後の日々は、なかなか困難なものとなった。

 行きたがらない日が続き、玄関で泣くのをなんとか学校まで連れていっても、校門の前で「中には入らへん!」と激しく抵抗したりする。ある日は、門の辺りまで迎えに来てくれた先生が「あとは任せてください」と、少し力を入れて彼女をぼくから引き離そうとすると、「むりやりはしない、っていうたやろ!」と、ものすごい力でぼくの体を叩きながら、必死な形相で泣き叫んだ。そんな娘に、無理やり先生に引き渡したり突然いなくなったりはしないという保育園時代からの約束は絶対に破らないからと改めて告げて、ぼくは彼女を教室まで連れていき、廊下から見守ったり、教室の端っこに座らせてもらって眺めたりした。

 その日、さらは休み時間ごとにぽろぽろと涙をこぼしていた。また他の日には、半日ずっとそばにいないといけなかったこともあって、これからどうなるのだろう、とそのころは思った。しかし彼女は、何日か一進一退を繰り返すうちに、慣れていったようだった。学校が始まって3週間ほど経ったころには、すっと行ってくれるようになったのだ。短い夏休みを経て、8月後半から2学期が始まると、しばらくはまた、週に一回くらいのペースで教室までついていかないといけなかったが、それもまた落ち着いた。その後も毎日のように、学校に行きたくないとは言うものの、なんとかかんとか通っている。そしてすでに10月に入った。

 このままスムーズに通い続けてくれたらいいな、と思う。でも、また行きたくないという時期が来るのも想像できるし、いずれそのような時期がやってきて本格的に行かないということになれば、その時はまた、さらの気持ちに向き合おうと思っている。いやむしろ、いまは平穏に過ごしているそよの方に、今後大変な時期がやってくるのかもしれない。ただいずれにしても、そんな時にはきっとまた、この連載に書いた文章を読み直し、どうするべきかを過去の自分に問うことになるような気がしている。

 そして願わくばこの一連の文章が、自分自身にとってのみならず、誰かにとっても、何かのきっかけでふとしたときに読み返したいと思うものになっていれば嬉しく思う(各コラムは、今後もアーカイブとしてこのサイト上に残してもらえるそうなので…!<→数年前にサイトが閉鎖に:2025年1月追記>)。


 連載の初回に書いた、長女が生まれた日は、さすがに昨日のことのようではない。しかし、10年も前とも思えない。月並みだが、本当に子どもの成長は早く、一緒にいられる期間も決してもうそんなに長くはないと感じている。それは親としては寂しいことでもあるけれど、でもいずれ、娘たちが自分たちの保護下を離れて自らの道を歩き出す日が来たときには、2人がそれぞれ、安心して前に向かっていけるように、力強く背中を押してあげられる存在でありたいと思う。彼らがどんな道をたどるのかは、いまは全くわからない。そしてその、先が全く未知であるということの素晴らしさを、40代も半ばに入ったいま、心より感じている。

 いつか娘たちがここに書いた文章を読むことがあるとしたら、彼女たちはいったい何を思うだろう。幼いころのことであるゆえに、彼女たちの記憶にもなく、「ああ、そういうことがあったのか」という感想だけで終わるのかもしれないが、もしかしたら彼女たちは、この一連の文章の中に、自分たち自身以上に、父親であるぼくの姿を見るような気もする。お父さんは自分に対してこんなことを感じていたのか、そうかあの時、こんなことを思いながら自分と接していたのか……、と。父親としてのささやかなエゴを書き記しておくとすれば、そのとき、「ああ、お父さんは、お父さんなりにいろいろ考えてくれてたんやな」などと、思ってもらえたら嬉しいな。

 また最後にもう一点付け加えておきたいが、本連載では、妻については必要以上に書かないようにした。彼女もまた、あまり書かれることを望まないからだ。それゆえに、子育てに関してなんだか自分ばかりが色々やっているように読めてしまった部分もあるかもしれないが、当然のことながらそんなことは全くない。娘たちはいつも母親にべったりだし、この一連の文章で書いた風景の隣には、常に妻の姿があるということを念のために記しておきたい。妻がいつも娘たちを気にかけ、彼女たちにさまざまな指針を示してくれることをありがたく思う。

 連載を読んでくださった皆様に、心より感謝申し上げます。長い間、ありがとうございました。それぞれの方にとって、わずかにでも記憶に残る言葉が書けたことを願いつつ。
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AIR DOの機内誌「rapora」に、<能楽師・有松遼一と巡る 源氏物語の京都>を執筆

北海道の航空会社AIR DOの機内誌「rapora」2024年4月号(4月1日発行)に記事を執筆しました。

<能楽師・有松遼一と巡る 源氏物語の京都>

大河ドラマ「光る君へ」によって『源氏物語』が盛り上がる中、舞台となる京都にある物語ゆかりの地を紹介しようという6ページの特集記事です。案内役となってもらったのは、若き能楽師として活躍する有松遼一さん。京都在住の有松さんとは友人でもあり、この特集の案内役に彼以上の適任はいないだろうと、依頼することになりました。取材・執筆は、僕と堀香織さんで担当し、撮影は松村シナさん。

有松さんとの打ち合わせで4か所のスポットが決まり(夕顔町、上賀茂神社、野宮神社、宇治川)、有松さん、堀さん、松村さん、そして制作会社である140Bの営業・青木さんとともに、昨年末に取材。記事を書きながら、この4か所を通じて『源氏物語』の大きな流れが見えてきて、学び多く楽しい仕事になりました(取材も大人の遠足のようで楽しかった!)。有松さんに案内役になってもらえて本当によかったです!

『光る君へ』もきっとさらに楽しくなるかと思います。
AIR DOご利用の機会には是非手に取ってみてください。







読売新聞夕刊の書評欄「ひらづみ!」の担当最終回『ナチスは「良いこと」もしたのか?』

読売新聞夕刊の書評欄「ひらづみ!」に先週、『ナチスは「良いこと」もしたのか?』(小野寺拓也、田野大輔著(岩波ブックレット))を紹介しました。記事がオンラインでも読めるようになりました。

良い本かつ重要な本だと思うので、ご興味ありましたらぜひ本書を手に取って読んでみてください。

https://www.yomiuri.co.jp/.../columns/20231204-OYT8T50037/

自分は2021年春から3年近く、この欄のノンフィクション本を担当してきましたが、今回で最後となりました。

最近になってようやくオンラインでも読めるようになったところということもあり残念ですが、長くやらせていただき、ありがたい仕事でした。「ひらづみ!」という名の通り、売れてる本から毎回自分で1冊選び、概ね隔月で17回書きました(全部載せ切れてないですが、14回目までは こちらから、紙面の画像で読めます。 読売新聞月曜夕刊 本よみうり堂 の「ひらづみ!」欄の書評コラム )。

ところで、自分は子どものころは本に全く興味が持てず、ほとんど本を読まないまま10代を終えてしまいました。

大学時代までにちゃんと読んだ本は通算10冊あるかないかというレベル。読書感想文は、一度読んだ漱石の『こころ』で中高で何度も書き、高校の時は『火垂るの墓』をアニメを見るだけで本の感想文を仕上げました。

国語は苦手で、高校入試直前の模試では、国語だけ極端に成績が悪く、確か、625人中598番で偏差値34でした(直前にかなり衝撃的な順位だったのでよく覚えています)。第一志望の高校では本番の国語で、幸運にも、古文の文章が読んだことあるもので「うおおお、助かった!」と感激したことを覚えています(それで合格できたのかも)。

大学に合格した時、真っ先に思ったことの一つが、「これでもう本とか一切読まなくていいんだ、数学や物理だけをやっていこう」ということでした。

というくらい、活字を読むのが苦手かつ縁遠かったので、いまでも本を読むのがとても遅く、我ながら残念な限りです。

そんな状態から大学時代にライターを志すようになったのにはいろいろ紆余曲折があったのですが、いずれにしても、そんなだったので、この欄の担当メンバーの一人として、定期的に書評を書く機会をいただけたことは、自分にとってもとても貴重な経験でした。

さすがに文筆業を20年以上やってきたので、いまでは、読むのが遅くとももちろんそれなりに読みますし、本っていいなあとことあるごとに感じています。ただ、本を読むことが自分にとって自然な営みにになってきたのはここ数年の気がします。

書評を書く機会は今後も他紙誌で少なからずありそうなので、また見つけたら読んでいただければ嬉しいです。

『ナチスは「良いこと」もしたのか?』書評の記事誌面↓

読売夕刊「ひらづみ!」23年10月30日掲載『熟達論』(為末大著、新潮社)

10月30日の読売新聞夕刊書評欄「ひらづみ!」には、為末大さんの『熟達論』(新潮社)について書きました。人が熟達していく過程をこんなに説得力ある形で言語化できるなんてすごいです、為末さん。自分が文筆の道で経てきた過程を振り返りながら、そうだったのかと納得できたことも多々ありました。背中を押され、よしやろうと思わせてくれる一冊です。

読売夕刊「ひらづみ!」23年8月21日掲載『「山上徹也」とは何者だったのか』(鈴木エイト著、講談社+α新書)

少し間が空いてしまいましたが、8月に鈴木エイトさんの『「山上徹也」とは何者だったのか』(講談社+α新書)について読売夕刊「ひらづみ!」に書きました。統一教会問題を20年以上ひとり追ってきた著者の凄みが滲む一冊。それがいかに大変なことか、自分も書く立場として想像できる部分があり、感服です。鈴木エイトさんが長年の取材・報道に対しては複数の賞を受けているのもとても納得です。

読売夕刊「ひらづみ!」23年7月3日掲載『「戦前」の正体』(辻田真佐憲著、講談社現代新書)

今日3日の読売夕刊「ひらづみ!」欄に、この本、辻田真佐憲さんの『「戦前」の正体』の書評を書きました。明治維新後、近代化を進める理屈づけのために都合よく神話が使用・解釈され、その結果、日本全体が絡め取られていく過程に驚かされました。すでにかなり読まれている本ですが、ますます広く読まれてほしいと思いました。

本書を読んだ流れで、未読だった半藤一利『日本のいちばん長い日』をいま読んでいるのですが(こちらも超面白い)、神武天皇の物語がこのように45年8月15日へとつながるのかと思うと、実に考えさせられます。

読売夕刊「ひらづみ!」23年5月29日掲載 『ウクライナ戦争』(小泉悠著、ちくま新書)

5月29日読売夕刊「ひらづみ!」に書いた、小泉悠さん『ウクライナ戦争』(ちくま新書)の書評です。著者の、軍事・ロシアの専門家としてのわかりやすく説得力のある分析に加え、研究者としての誠実さ、人としての優しさが感じられる一冊。おすすめです。

読売夕刊「ひらづみ!」23年2月6日に、山本文緒さんの『無人島のふたり』を

読売新聞夕刊の書評欄「ひらづみ!」に、山本文緒さんの『無人島のふたり』について書きました。

山本さんが2021年10月にがんで亡くなられる前の最期の日々につづった日記で、本当に心揺さぶられる一冊でした。この書評も、いつも以上に自分の感情が露わになる内容になりました。未読の方、この記事を読んで興味を持ってくださったら是非読んでみてください。

『自転しながら公転する』も面白かったです。自分の中にある隠しておきたい部分を明らかにされるような、それゆえに、ああ、そうなんだよなあと思い、切なくなるような面白さでした。(記事写真の下に全文)

(以下全文)
著者の山本文緒さんが亡くなったのは2021年10月のこと。当時自分は、彼女の著書を読んだことがなく、ただ名前を知るくらいだったが、彼女を悼む多くの声を聞くうちに、いつか作品を読んでみたいと思うようになった。そして先日、『自転しながら公転する』を本屋で見かけて手に取って、とても引き込まれた流れで本書を知った。

この本は、山本さんが膵臓がんのステージ4という診断を受けた翌月から亡くなるまでの、5カ月弱の間に綴られた日記である。

山本さんは、自身が冒された病を知り、途方に暮れ、なぜと割り切れない思いを抱え、夫と別れたくないと思い、繰り返し泣いた。しかし体調は無情にも悪化を続け、徐々に書くことも困難になる中で、ただその日々を生きるしかない自身について、包み隠さず綴っていった。

悲しみややるせなさの中にユーモアも込められた文章には、山本さんの作家としての執念が宿る。私は、その一文一文を追いながら、彼女が死へと近づく様を何もできずにただ見ているような気持ちになり、何度も込み上げ、読み終わりたくなくて中断した。日記が書かれた最後の日の、忘れがたい5行を読み終えると、ぽっかりと穴の開いた気持ちになって涙が滲んだ。

山本さんがこの文章を遺してくれたことの意味は、読者の多さが物語っているが、私自身強く感じずにいられない。読後もいまも、ずっと思い続けている。今日書けること、そしていまこの瞬間生きていることのありがたさを。

一読者としてのそんな思いが山本さんに届いたら。そう願い、空を見上げる。

「村林由貴が描く禅の世界」がついにスタート!

絵師・村林由貴さんが11年かけて描いた渾身の襖絵の一般公開が、12月24日からからついに始まりました。

特別公開詳細はこちら 

2011年から今年まで、24歳から35歳という時期を、村林さんは、まさにこの襖絵を描くためだけに生きてきたと言っても過言ではない日々を送ってきました。

寺に住み込み、絵の技術を磨き、禅の修行を繰り返し、悩みながら、一歩一歩描き進める日々。行き詰まって描けなくなり、寺も離れた時期もあり、しかし、その時期も乗り越え、モチーフを固め、膨大な量の絵を描き続けた末に、仕上げていった退蔵院方丈の5部屋76面の襖絵。

約6年の間、修行や訓練を重ねて描くべきものが決まり、そこからさらに2年ほどかけて本番に向けて技術を高め、そして本番を描き始めてから完成までが3年。

それだけの間、禅に身を投じて、深く自分と向き合った結果、何百年もの間描きつがれてきた対象へと行き着いたところに、大きなすごみ、そして村林さんの過ごした日々の重さを感じます。

プロジェクト開始当時からこの11年間、ぼくは取材者の立場で、村林さんの姿を近くで見させてもらってきました。ぼく自身、彼女の創作の姿勢にはとても影響を受けていて、また、途中の彼女の苦労も肌で感じてきたため、本当にこの絵の完成には感無量でした。

一般公開が始まってからいろんな方がこの絵を見る様子もここ何日かで見させてもらってきましたが、多くの人が絵に、彼女の姿勢に、感嘆する姿にぼく自身も感激しています。

本当に、彼女が人生をかけて描いた大作です。

引き続き是非多くの人に見てもらいたいです。

村林さんについて、このプロジェクトについて、ぼくが過去に書いた記事の一部がこのウェブサイトにpdfでアップされています。すでに絵を見られた方、これから見ようという方、併せてこちらの記事を読んでいただくとより楽しめると思います。

『新潮45』2012年10月号
<よみがえる「お抱え絵師」 京都・妙心寺「退蔵院方丈襖絵プロジェクト」>
プロジェクトが始まった当初の村林さんの姿を描いたものです。

『芸術新潮』2013年5月号
<妙心寺退蔵院の襖絵プロジェクトを支える職人たち>
プロジェクトのもう一つのカギを握る、職人さんたちの仕事についてです。

『文藝春秋』2020年6月号
「令和の開拓者たち」絵師・村林 由貴
京都・妙心寺退蔵院の襖絵を描く“現代の御用絵師”村林由貴の「新しい水墨画」

退蔵院の襖絵を描き出して、いよいよプロジェクト終盤に向かう村林さんの姿を描いたもの。リンク先は、文藝春秋digitalのサイトで記事全体の前半部分が読めます。彼女の苦悩の部分は後半にあり、そちらが話の中心だったのでそこを読んでもらいたいですが…。pdfがアップできるようになれば、後日そうします。




共同通信配信の書評記事『寄生生物の果てしなき進化』

少し前になってしまいますが、共同通信配信の記事として、『寄生生物の果てしなき進化』(トゥオマス・アイヴェロ著、セルボ貴子訳、草思社)の書評を書きました。各種細菌やウィルスなど、さまざまな「寄生生物」が進化してきた壮大で驚くべき歴史が見えてくる一冊です。コロナ禍を経たいま、誰にとっても身近な内容なのではないかと思います。興味を持ってもらえたら是非本を手に取ってみてください。共同通信配信の記事なので、多数の地方紙に掲載されました。写真は河北新報掲載の記事です。

読売新聞夕刊「ひらづみ!」『目の見えない白鳥さんとアートを見にいく』(川内有緒著)

読売新聞月曜夕刊 本よみうり堂 の「ひらづみ!」欄の書評コラム、担当7回目(5月30日)は、川内有緒さんの『目の見えない白鳥さんとアートを見にいく』を紹介しました。タイトル通りの内容ながら、いい意味で思わぬ方向に話が展開する、自由さあふれるノンフィクションでした。ほんとにいろんなことを考えさせてくれる一冊です。大宅賞候補にも。

ロームシアター京都のウェブサイトにコラム執筆

ロームシアター京都のウェブサイトにコラムを書きました。
ロームシアター京都は2022年度、「旅」をテーマに自主事業ラインアップを決定。
そのラインアップテーマ「旅」への応答、ということで寄稿しました。

2022年度自主事業ラインアップテーマへの応答
終わりがあるからこそ、と思えるように


旅も人生も、終わりがあるからいい、と思い続けてきました。終わりがあるから感動があるし、今日を充実させようと思うのだと。それが5年間の旅を終えての実感でした。しかし最近そう思えない自分がいます。そんな気持ちを、いまの状況含め、率直に書きました。そしてなぜ旅が必要なのかを。

読売新聞書評欄「ひらづみ!」『心はどこへ消えた?』(東畑開人著、文藝春秋)

読売新聞月曜夕刊 本よみうり堂 の「ひらづみ!」欄の書評コラム、担当5回目は、臨床心理士の東畑開人さんの『心はどこへ消えた?』を紹介しました。記事に書いた通りですが、東畑さんの、軽妙ながらも実に考えさせられる文章は、とても魅力的です。前作『居るのはつらいよ』は大きな話題となり、大佛次郎論壇賞も受賞した名作ですが、こちらも本当にいい本です。両方ともぜひ。

読売新聞書評欄「ひらづみ!」『どうしても頑張れない人たち』(宮口幸治著、新潮新書)

読売新聞月曜夕刊 本よみうり堂 の「ひらづみ!」欄の書評コラム、担当4回目は、立命館大学の宮口幸治教授の『どうしても頑張れない人たち』を紹介しました。前著『ケーキの切れない非行少年たち』に続いてのベストセラー。児童精神科医として病院や少年院に長く勤務した著者の言葉は温かくも現実的です。「頑張れない人たち」を支援したい思いに満ちています。少年院で出会った吃音のある少年が、いい環境に巡り合えていますように、と思いながら書きました。

共同通信配信記事に、神里雄大著『越えていく人』(亜紀書房)の書評

少し前になりますが、共同通信の配信記事として、神里雄大さんの『越えていく人』(亜紀書房)の書評を書きました(写真は熊本日日新聞掲載の記事。通信社の記事は、全国の各新聞社のうち、その通信社と契約している新聞の紙面に随時掲載になります)。

本書は、南米に生まれて日本で育った劇作家である著者が、現地の日系人を訪ねて歩く旅の本です。

日本に暮らす日本人のおそらく誰もが南米日系人になり得たことを知らしめてくれるととともに、自分自身が今ここにいることの意味を考えさせてくれる本でした。著者がかなり感じたままの思いを書き記している点、そしてその姿勢に、いろんな人生への敬意が感じられるのがまたこの本の魅力でした。

ご興味ある方は、是非手に取ってみてください。

読売新聞書評欄「ひらづみ!」『物理学者のすごい思考法』(橋本幸士著、集英社 インターナショナル新書)

読売新聞月曜夕刊 本よみうり堂 の「ひらづみ!」欄の書評コラム、担当3回目は、京都大学の理論物理学者・橋本幸士さんの『物理学者のすごい思考法』を紹介しました。もともと物理学者になりたかった自分としては、物理学者はどこか親近感があったり、気になる存在だったりします。橋本さんが自らの頭の中を開陳する本書を読んで、もし自分が物理学者になっていたら、、などと夢想しました。また、最近「年を取ることは重力の存在に気付くことだ」なあとよく感じていて、その話を盛り込めたのも自分としては嬉しかったり。

気軽にさらさらと読める一冊です。ご興味ある方は是非。

読売新聞書評欄「ひらづみ!」『実力も運のうち 能力主義は正義か?』(マイケル・サンデル著、早川書房)

読売新聞月曜夕刊 本よみうり堂 の「ひらづみ!」欄の書評コラム、担当2回目は、ハーバード大学のマイケル・サンデル教授の『実力も運のうち 能力主義は正義か?』を取り上げました。自分は比較的、タイトルのように考えてきた方だと思うけれども、世の中が不平等であるということについてもやもやした気持ちを持ちつつも、「能力主義」についてここまで突き詰めて考えることもなく、いままで来ました。そんな自分をとても動揺させ、ずっと考えさせ続けてくれる一冊でした。この記事で興味を持ってもらえたら、是非読んでみてください。

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