『吃音 伝えられないもどかしさ』プロローグ 

拙著『吃音 伝えられないもどかしさ』のプロローグを以下にアップしました。2019年に刊行した本をいまさらですが、興味を持ってもらえるきっかけになればと思い。プロローグだけでもよかったらぜひ読んでみてください。書籍内では人物は実名で書いていますが、ここではイニシャルにしました。(以下の文章は2021年に刊行した文庫版。2019年の単行本版から微修正あり)

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プロローグ

 

T(=書籍内は実名)は、物心がついたころから思うように話すことができなかった。

言葉を発しようとすると、なぜだかわからないが喉の辺りが硬直する。そのまま音を出そうとすると、「ご、ご、ごはん……」のようにどうしてもつっかえる。

幼稚園にも保育園にも通うことはなく祖母の家で育てられた彼にとって、小学校に入るまでは、スムーズに話せなくとも何も問題は起こらなかった。しかし、小学校に入学するとすぐに問題が露になる。皆の前で自己紹介をして、「ぼ、ぼ、ぼ、ぼ……」とどもって話すと、同級生みなが笑ったのだ。Tはそのとき初めて実感した。どもるのは恥ずかしいことなのだ、と。

しかし、話し方は変えられなかった。あらゆる場面で言いたいことが言葉にならず、会話ができない。同級生たちも、そんなTにどう接するべきかがわからなかったのだろう。みなとの距離は少しずつ広がっていった。

学校を休む回数も増え、高学年のころには不登校気味になっていく。格闘技が好きで地元の道場で習い出した柔道も、うまく話せないことが壁になった。練習の前後にみなで整列して挨拶をするが、その掛け声をかける当番にあたる日は、練習を休んだ。また、同級生が通っていたこともあり、不登校になると道場からも少しずつ足が遠のいた。

中学、高校と進むごとに症状は悪化し、高校に入るころには、ほとんど何も話せなくなった。毎朝出欠をとるときに、「はい」という返事がどうしてもできない。なんとか言葉を絞り出そうとしても声にはならず、息苦しさばかり増していく。「は、は、は……」。口元は硬直したまま、気持ちは焦り、ただ身体だけが意思に反してもがくように動く。その姿を不思議そうに見つめる周囲の視線に、強い羞恥心や劣等感がこみ上げる。クラスメートはそんなTに対して、時に、「Tはいませ~ん」などとからかうのだった。

他のことを考える余裕が一切ないまま、毎日が過ぎていった。高校ではレスリング部に入り一年の時は地区の新人戦で優勝もしたが、言葉の問題によって内面が不安定で、やはり続けることができなくなった。

そして高校二年の夏、Tは耐え切れなくなり学校を辞めた。十七歳のときのことである。

 

だが、問題は学校を辞めても解決はしない。思うように他の人と会話ができないことは、彼を社会から遠ざけた。人に話しかけられても思うように答えられず、相手に不可解な顏をされる。言うべき言葉を発せられないためにとりたい行動を断念せざるを得なくなる。そうした経験を繰り返すうちに、社会はいつしか、身を置くだけで不安を引き起こす場になっていった。

病院で診てもらえば対処法が明らかになるというわけでもなかった。その上、問題を他人に理解してもらいにくいという現実が追い打ちをかける。どうすればいいかわからず家にいると、父親になじられた。いったいお前は何をやっているんだと。母親も何も言ってはくれなかった。

出口も光も見えないし、助けを求める先もわからない。これからの先の人生を生きていく意味があるとも思えなかった。そう感じる日々が続く中、Tはいつしか毎日、考えるようになる。

死に、たい、と。

ただ、実行に移すことは容易ではなかった。日々、家を出て近所を自転車でふらふらしたり、近くの神社の境内で一人時間をつぶしたりした。あるいは公園のベンチに座ってゲームをした。何も行動には移せないまま、ただそうしているうちに、一日、また一日と時間だけが過ぎていった。

 

しかし、何カ月かが経ったある秋の日のことだった。ふと気持ちが固まった。Tは一気に動き出した。

 両親と暮らしていたのは、名古屋市熱田区の公団である。三〇棟ほどが立ち並ぶ大きな敷地は、緑豊かな公園に隣接して南北に延びている。その北端に近い一四階建ての一棟の、五階にある一室に、Tたちは住んでいた。

その棟の八階に、通路から格子扉を挟んで建物の外側に突き出た平らな部分があるのを、Tは知っていた。以前にも何度かその前まで行ったことはあった。けれども、外に突き出たその部分を通路から隔てる格子扉を前に、いつもただ立ちつくした。

だがこの日、Tは、その先へと踏み込んだ。狭い階段を上がって八階に着いた後、さらにもう一階上がって九階に行くと、そこからは低い柵を越えれば外側に出られることに気がついた。そして実際に柵を越え、外側から柵を持って少しずつ身体を下していくと、八階の突き出た部分へと飛び降りることができたのだった。

地上に比べて少し強い風が吹きつける中、その平らな場所の端にTは立った。外の広い空間と彼を隔てるものはもう何もない。視線の先には、よく見慣れた郵便局の角ばった無機質な建物と市立体育館の赤い屋根、そして隣接する公園に生い茂る木々がある。しかしそれらの景色も、彼には日々の辛い記憶を蘇らせるだけだった。真下を覗くと、遥か下方に緑の芝生と数本の小ぶりの木が見える。

穿いていたのはいつもの破れたジーンズだった。空は白く曇っている。

いま視界に入っているものが、この世で見る最後の風景になりそうだった。しかしそんな意識を持つ間もなく、ただ彼は、自身の人生から抜け出すことだけを考えていた。

これで、全部、終わる、んだ。

 あと一歩、前に出れば、何もかもを、終わりに、できる。あの、息苦しさや、恥ずかしさも、もうなくなる――。

意識は徐々に鮮明でなくなった。吸い込まれるように一歩を踏み出し、中空に身を任せると、彼の身体は一気に地面に向かって落下した。

 

記憶はそこで途切れている。

すべては終わったはずだった。

 

しかしTは生き延びた。

 

私がTと知り合ったのは、それから十八年が経った後のことだった。

(プロローグ終わり)
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以降、書籍では、Tさんの人生を軸として、様々な当事者たちの物語が描かれます。ご興味持っていただけたら、本書を手に取っていただければ幸いです。吃音がいかに人の人生を大きく左右しうるものか、知っていただけると思います。現在、文庫版は品切れ重版未定となってしまったので、お求めの場合は、単行本をぜひ。

吃音「治療」の歴史について書いた第二章の冒頭も、こちらから読めます。


「郷司さん、今度こそはいいクジラの写真が撮れますように!」

昨日一昨日と放送大学の面接授業「旅することと生きること」を行うにあたって、久々に拙著『まだ見ぬあの地へ』を読み返しました。書いたことをすっかり忘れていた内容もあって、のめりこんで読んでしまいましたが、広く読んでもらえたらなと思う文章も多く、機会を見つけてアップしていけたらとも思っています。

その中で、まずこれをと思ったのが、インドネシアの捕鯨村ラマレラで出会った写真家・郷司正巳さんについて書いた一篇「いつかまたラマレラで」です。郷司さんは、旅の中で出会ったの人の中でも特に、「将来自分も、このような人になれたら」と思った方です。当時自分は27歳で、郷司さんは50歳でした。ラマレラで4、5日くらい一緒に過ごし、またいつかどこかでお会いしたいと思っていたのですが、永遠に叶わなくなってしまいました。自分は間もなく、当時の郷司さんの年齢になろうとしています。果たして自分は郷司さんのような人間になれているだろうか。そう考えながら、読み返しました。以下、その文章です。


いつかまたラマレラで

先日、パソコンに保存されている旅の写真を、通して見返す機会がありました。

二〇〇三年のオーストラリアから順に、膨大な枚数を一枚一枚見ていくと、時に当時の自分の悩みや考えが思い出され、また時に、オーストラリアの強い日差しや、肌に張りつく東南アジアの空気感が蘇りました。そして、東ティモールやインドネシアにいたころの、さあ、これから東南アジアを北上するんだ、という気持ちの高ぶりを久々に追体験していたとき、一枚の写真に写る一人の男性の姿を見て、ふと手が止まりました。

それはインドネシア東部、レンバタ島のラマレラという小さな村の宿の中で撮ったものでした。

男性は、日に焼けた肌を白いTシャツから覗かせて、楽しそうに笑っています。笑い声まで聞こえてきそうなそのにこやかな表情に猛烈な懐かしさを覚えながらぼくは改めて思いました。もう二度と、彼に会うことはできないのだ、と。

 

バリ島から東に向かって飛行機、バス、船、乗り合いトラックを乗り継いで足掛け三日はかかる位置にあるラマレラは、四〇〇年前とほとんど変わらない方法で行われている伝統捕鯨によって知られています。当時、レンバタ島の港から、島の反対側にあるラマレラまでは道もなく、船で島に着いてからは、トラックの荷台に乗って四時間ほど山道を行かなければたどり着けませんでした。電気も通ってない、現代文明とは無縁に見える村でしたが、クジラを捕まえる瞬間を見ようとやってくるぼくらのような外国人旅行者がポツポツといて、そんな旅行者を泊める民家が当時四軒ほどありました。

ぼくらはそのうち、村を貫くメインストリート(といっても、むき出しの石の上を土などで固めただけの細い道なのですが)沿いにある一軒の家に泊まっていました。

白い塗り壁のその家は、入口のテラスに竹でできたベンチがあり、中に三、四つの部屋があります。こぎれいで心地よく、発電機や、おそらく村では数少ないテレビもあったため、夜、村の大部分が暗闇に包まれても、近所でこの家だけは灯りがあり、いつも、複数の村人が奥の部屋に集まってじっとテレビを見ているような場所でした。

 

ラマレラ滞在中、ぼくたち以外の外国人は村に数人しかいませんでしたが、たまたまその一人が日本人の男性で、しかもぼくたちと同じ家に泊まっていました。その人こそが、ぼくが写真の中に姿を見つけて手を止めた人物、郷司正巳(ごうじまさみ)さんでした。

当時ちょうど五〇歳だった郷司さんは、写真家で、捕鯨をする人々の姿を撮影するために、ラマレラを訪れていました。以前ベトナムでも海の民の写真を撮っていて、クジラを捕るラマレラの人々にもまた、長い間興味を惹かれつづけていたようでした。

郷司さんは、温厚で笑顔が優しいとても魅力的な人物で、ラマレラについて思い出すと、いつも彼の顔が浮かびます。だから、二〇一〇年に『遊牧夫婦』を書いていたとき、ラマレラの場面ではぜひ、郷司さんのことも書きたいと思い、久々に彼に連絡を取ってみることにしたのでした。

郷司さんとは、二〇〇四年にラマレラで知り合って以来、半年ほどはちょくちょくメールのやり取りをしていたものの、ぼくたちが中国に住みだした二〇〇五年ころには次第にその頻度も減りました。

それでも彼は、ぼくにとってもモトコにとっても、五年間の旅で出会った中で最も素敵な人の一人だったので、いずれ再会を果たしたいと思っていました。しかしながら、気づくと最後に連絡を取ってから五年もの歳月が経ってしまっていたのでした。

久しぶりにメールを送る前にちょっとでも近況を知れたらと、ぼくは彼の名前を検索しました。あれからまたラマレラに戻ったのだろうか。もしかしたら写真集ができあがっているのではないか。いろいろな想像を膨らませながら検索しました。すると、しかしネット上で見つかったのは、郷司さんの知人らしき人のブログに書かれていた、全く予想もしていなかった言葉でした。郷司さんはその前年、二〇〇九年一一月に、亡くなられたというのです。

享年五六。まだあまりに若く、ラマレラでお会いしたときもとても元気そうだったのですぐには信じられませんでした。しかしブログには、その数年前に郷司さんが大変な手術をされ、闘病されていたことも書かれていました。その文面を読み、掲載されていた郷司さんのさわやかな笑顔を見ながら、ぼくは、ラマレラで過ごした彼との日々を鮮明に思い出したのでした。

 

二〇〇四年の七月のことでした。

郷司さんは、ラマレラで毎日、日本語堪能なインドネシア人ガイドのマデさんとともに撮影に出かけていました。そして夕方、宿に戻ってくると、入り口のテラスに腰掛けて外を眺め、海風に吹かれながら、その日の出来事を丁寧にノートに綴りました。「今日もクジラは出なかったね。明日は出るかなあ……」。そう言って、穏やかに笑いながら。

マデさんはまん丸な顔でいつもけらけらと笑っている、ちょっとおっちょこちょいな二〇代前半くらいの男性で、いつも郷司さんと一緒にいました。マデさんが郷司さんを助け、郷司さんがマデさんをからかいながら楽しそうにしている姿はまるで親子のようでもありました。

ぼくもラマレラについてはあとで文章を書きたいと思っていたため、郷司さんの存在はとても心強いものでした。夕方、彼がテラスにいるときは、ときどきぼくも隣に座らせてもらい、その日の出来事を互いに共有し合いました。そして、時に郷司さんの持っていた資料を見せてもらったり、写真の撮り方を尋ねたり、また、マデさんにはインドネシア語を教えてもらったりするなど、二人にはずっとお世話になっていました。

一方、ぼくが自分たちのこれまでの旅や、今後の計画について話をすると、郷司さんはいつも、「うん、そうかー。へえ、すごいなあ」と熱心に聞いてくれました。自分よりも二〇歳以上年長で、ずっと多くの経験をされていながら、偉ぶったりすることは全くなく、とても真摯にぼくたちに向き合ってくれるのです。そんな彼の姿を見てぼくは、自分も五〇代になったら郷司さんのようにありたいと思うようにもなりました。

そのような人だったので、ぼくはつい、「写真家として生活していくのは大変ではないんですか?」 などと不躾なことも聞いてしまったりしたのですが、そういった問いにも郷司さんは、「そうだね」と言いながら丁寧に答えてくれました。家族のことなども話しながら、「楽じゃないけど、まあ、なんとかやってるよ」と、日焼けした黒い顔にしわをよせて苦笑いします。その表情を見ていると、たしかに楽ではないのかもしれないけれど、写真を撮ることが本当に好きなんだろうなと感じられ、彼の、写真と正面から向き合って生きる姿にぼくは強く惹かれていったのです。

ぼくは、自分が旅をしながらライターとしてひとり立ちしようとしているものの、悪戦苦闘していることを郷司さんに話しました。細々と仕事はしているけれど、これで将来生計を立てられるイメージはまだ全く見えてこない。本当に食べていけるようになるのだろうか。でも、がんばりたいと思っている、と。

そんな自分に郷司さんは「大丈夫だよ」などと言うことはありませんでした。ただ、優しく笑いながら、「二人の生き方は羨ましいよ」と言ってくれたように記憶しています。ぼくはそんな言葉に、がんばろうと励まされたり、また、ライターとしてどうなるかは別としても、郷司さんのように素敵に年をとっていきたいな、と思ったりしたのでした。

 

そうして、一日一日と滞在を重ねる中で、ある日、彼にとても不運なことが起りました。

その日は土曜日で、ラマレラでは「バーターマーケット」すなわち物々交換の市場が開かれる日でした。ここではクジラは、単に村人の食料となるだけではなく、その肉は貨幣としても使われていました。すなわち、男たちが海へクジラを捕りに行くのに対し、女たちはクジラ肉を担いで山に行き、クジラ肉を、山の民が育てたトウモロコシなどの農作物と交換するのです。

ぼくはその日、風邪をひいて体調が悪く、残念ながら市場を見に行くことはできなかったのですが、昼ごろ、宿でごろごろと休んでいると、朝から市場に行っていた郷司さんが戻ってきて、「いやあ、やっちゃったよ……」と、苦い顔をしてこう言いました。

「カメラ、落としちゃったんだ、海に……。市場からの帰り、山道は大変そうだったから、船で回って戻ってきたんだけど、船から下りたときに足滑らせちゃってね。カメラごとドボンだよ……」

ニコンのカメラが二台、そしてレンズもすべて水没してしまったというのです。

山道を歩いて帰るガイドのマデさんに預けようかと思ったものの、まあ大丈夫だろうと自分で持ってきてしまった。それが間違いだったよ、とすごく残念そうにしていました。写真家にとってこれ以上ないやりきれない展開に、ぼくはかける言葉が見つかりませんでした。

その後も郷司さんは、苛立ったりすることはなくにこやかなままでしたが、多大な労力と費用をかけてラマレラまで来ていたために、さすがにショックは隠しきれないようでした。「いやあ、本当にバカなことをしてしまったよ」と繰り返し、時折悔しそうな表情を見せました。そしてほどなく、こう言ったのでした。

「これでクジラが出たら悔しくてやりきれないから、もうぼくは帰るよ」

ある意味当然な決断かもしれないと思いつつも、彼がラマレラを去ってしまうことをぼくはとても寂しく思いました。

別れるとき郷司さんは、笑顔でぼくたちに言いました。

「来年、きっとまたラマレラに戻ってくるよ!」

 郷司さんとマデさんがラマレラを出発した日、ぼくは早朝から船に乗り、漁に同行しました。クジラに出会うことはなかったものの、イルカの大群に遭遇し、まるで哺乳類同士の闘いといえる瞬間を経験することになりました。その圧倒的な興奮がさめやらないその翌日、ぼくらもラマレラを去りました。

帰り際にモトコは、郷司さんが来年戻ってきたときのためにと、宿のゲストブックの小さく空いたスペースに、短いメッセージを残しました。

「郷司さん、今度こそはいいクジラの写真が撮れますように!」

しかし、その後郷司さんがラマレラに戻ったのかどうかは、ついに知ることのないままとなってしまいました。

 

郷司さんについては、『遊牧夫婦』の本のベースとなったウェブ連載には書いたものの、結局本の中には収められず、ずっと心残りがありました。だから今回、久々に彼の写真を見て思い立ち、この原稿を書くことにしました。

彼の闘病期には、友人たちによって「郷司正巳さんを支援する会」が立ち上がり、彼を支えていたようでした。郷司さんの人柄を思い出すたびに、そういった仲間を持ちうる人であっただろうことがすんなりと理解できました。そしておそらく、郷司さん自身もまた、多くの人の支えになってきただろうことを想像しました。ぼく自身、郷司さんから、いまもずっと心に残る、優しさや寛容さを教わったのです。

旅の一番の醍醐味は、人との出会いだと思います。互いに全く異なる人生を歩んできたもの同士が、未知の土地で、偶然に人生を交錯させる。そしてその短いひとときが、何らかの形で互いの人生に影響を残し合う。郷司さんを思い出すたびに、まさに旅でのこうした出会いが、いまの自分の大きな部分を作り上げていることを、ぼくは実感するのです。

                                    (2014.11)

『IN/SECTS vol.18』の不登校特集(「THE・不登校」)に寄稿しました。

現在小6次女の不登校状態が始まってからかれこれ7年(保育園時代から)。

基本的には自分も妻も、無理に学校に行かなくても、と思う方でしたが、しかし、これだけ長くこの状況下の娘を見るうちに、決してそう簡単には割り切れなくなってきました。日中、家にずっと1人でいて、ほとんど誰ともコミュニケーションを取らず、身体もほとんど動かさずにこの発育期を過ごしている姿を見ていると、やはりなかなか心配ではあります。

いまは週に1,2回、本人が今日は行ってみようかな、という気分の時だけ(あとは家でオンラインで参加したりしなかったり)、僕か妻かが娘と一緒に学校に行き、教室の外に椅子を並べて2人で座り、廊下から1時間くらいだけ授業を聞いて、また一緒に帰ってくるという日々です。

この7年間、本当にいろんな状況を経て、いまはそんな状態にあります。自分自身も、おそらく娘も、様々な気持ちの変化を経てきました。

『IN/SECTS vol.18』の不登校特集にて、機会をいただき執筆しました。正解も出口も見えない現状について自分がいま思うことを、本人の許可を得て、書きました。そしていまの自分の娘への向き合い方につながってる、自分自身の小学校時代の忘れられない思い出を。

特集「THE・不登校」、多様な執筆者が、いろんな切り口から不登校について書いていて、とても充実した特集になっています。ご興味ある方はぜひ。
『IN/SECTS vol.18』の詳細・目次はこちらから
https://insec2.com/in-sects-vol-18

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昨日(今日はオンライン参加)も1時間目の途中から娘と一緒に学校に行き、教室の扉の前に椅子を並べて国語の授業を廊下から聴講。いつもならその時間だけで帰るのだけれど、昨日は少し気分が乗ったのか、次の算数も廊下から参加。
そして3時間目の総合の時間はみなで畑づくりをするとのことで、友達らが「一緒にやらない?」、って声をかけてくれて、その時間も参加することに。結局その時間も、遠くから2人で眺めている感じだったけれど、僕の仕事の関係で帰らざるを得なくなった11時くらいまで滞在し、下校。これだけ長くいたのは1年以上ぶりくらいかも…。

先生もクラスメートもいつも本当に温かく、程よい距離感で娘に接してくれて、そのことはとてもありがたく、娘も自分たちも、いつもみなに助けられているなあと感じます。

朝日新聞の言論サイト「Re:Ron」に寄稿  <「1%のリスク」と「99%のいい出会い」 旅で考えた警戒心と分断>

朝日新聞の言論サイト「Re:Ron」に寄稿しました。

「1%のリスク」と「99%のいい出会い」 旅で考えた警戒心と分断

分断が進み、信頼し合うことが難しくなりつつある今だからこそ、信頼し合うことの大切さと可能性について改めて考えたいと思い、書きました。<信頼こそが人を幸福にする>という事実は、心に留めておきたいと最近切に思います。