重松さんとのトークを半年経って振り返り、いま少し補足したいこと

先日、ウェブ「考える人」にアップされた重松清さんとのトークは、今年5月に行われたもので、すでに半年以上前。その後、いろんな場で話したり、人と会ったりを繰り返すうちに、いまならこんなことも話したかもしれないと思う点があり、少し補足まで。

記事の中には含められなかったのですが、重松さんとのトークの時、「辛さを抱える吃音の当事者はどうすればいいのか」という問いに対して、ぼくはどう答えていいかわからず、ただ「わからない、解決策がない」という感じで答えたように記憶しています。それに対して重松さんが、「解決には至らなくても理解してもらえたら、それだけでも意味があるのでは」といった趣旨のことをおっしゃったときに、ああ、そうだなあと思いつつも気持ちをうまく表現できなかったことも記憶しています。

その後もしばらくは、解決策がないという難しさばかりに意識が向かいがちだったのですが、ここ数カ月の間に、多くの当事者の方たちと話し、やり取りをする中で、改めて、人と人がつながることの意味の大きさを強く実感するようになりました。特に10月に、大阪で開催された言友会全国大会の際、当事者同士で夜遅くまで語り合った時にそう感じました。吃音に関わる困難そのものを直接的に解決できなかったとしても、やはり当事者や関係者がお互いにつながれる場があることはすごく大きな力になる、と。

いま、若い人たちを中心に、当事者同士、LINEでお互いの気持ちを共有する場を持ったり、定期的に集まって交流したり、という機会が多くなっています。それは本当にいいことだなって思いますし、きっとそれは一つの解決策というか、それぞれが困難を乗り越える大きな力になっているのではないかと感じます。

しかしその一方、そういう場や人間関係を持てない人もいると思います。そういう仲間を持てている人は当事者全体からみたら少数なのかもしれません。そのような中で、最近自分が思うのは、辛いときには「逃げる」という選択肢を持っておくことの大切さです。

学校でも職場でも、辛くてどうしようもなかったりしたら、無理して行き続けることはないし、行かない、またはやめる、という選択もしていいんだっていうことをどこかで思っておいてほしい、とよく思います(この夏ごろ、しばらく保育園に行くことができなくなった娘を見ていた影響もあるかもしれません)。もちろん、いろんな状況から、簡単にはそうはできないかもしれないけれど、でも、生きているのが嫌になるくらい本当に辛かったりしたら、何をおいてもまずそこから逃げる、ということをしていいし、する方法を考えてほしい、と。

そこまで至らなくても、辛かったら、弱音を吐いたり、人に頼ったりすることも必要で、決して我慢してがんばるのがいいわけではない。とにかく、自分が楽になることを第一に考える、ということが何よりも必要な時はあるし、そういう気持ちをどこかに持っておいてほしい、といまはよく思います。

『吃音』出版後、重松さんとのトークをはじめ、いろんな人とやり取りをしていった中でのいまの気持ちを、記録まで。

「吃音」をもっと知るために~重松清が近藤雄生に聞く 

すでに半年がたってしまいましたが、重松清さんに聞き手となっていただく形で5月に下北沢のB&Bで実現した、拙著『吃音 伝えられないもどかしさ』の刊行トークイベントが記事になり、ウェブ「考える人」に掲載されました。

重松さんの素晴らしいリードとお言葉の数々、熱心に聞いてくださった来場者の皆さまのおかげで、深く心に残るイベントになりました。今日から4日間連続更新の全4回です。是非多くの方に読んでいただきたいです。
どうぞよろしくお願いします。

「吃音」をもっと知るために~重松清が近藤雄生に聞く


重松さんにいただいた書評も、改めて掲載してもらっています。未読の方は是非こちらもどうぞ。

〈書評〉理解されない苦しさ、を理解するために。

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大阪で開催された言友会全国大会に参加して

10月13日と14日、大阪で、吃音の当事者団体である言友会の全国大会に参加しました。

台風の影響で、3日間だったところ12日が中止となるなど、直前まで大変な状況ながら、実行委員の皆さんのご尽力によって素晴らしい大会になりました。さまざまな充実したプログラムがあり、全体での会も、分科会も、参加したものはどれも印象に残る時間となりました。僕はその中で講演の機会をいただきました。

実行委員のみなさま、改めてお疲れ様&ありがとうございました。

夜は会場に併設されたユースホステルに皆で宿泊して深夜遅くまで懇親会。多くの当事者の人たちと話しながら、多く笑い、いい出会いに嬉しくなるとともに、それぞれの経てきた日々を思い、胸が熱くなること多々ありました。吃音のみならず、個々の様々な問題について、互いに想像力と寛容さを持ち合える社会になってほしいと改めて思いました。

吃音の問題についていえば、自分が学生で悩んでいたころに比べると、ネットによって当事者同士がつながり、問題を共有し合うことが容易になったことは本当に大きいと思います。それでも、職場や学校で吃音で困り悩むときはそれぞれ一人。その苦しさを軽減するのは容易ではありません。だからこそ、苦しいときは、弱音を吐き、人に頼り、逃げるという選択も大事だと思うし、逃げていいんだと思ってほしいです。無理をせず、それぞれ自分が楽に生きられる方法を考えてほしい。僕にとっては、それが旅へと出ることでした。

一方、拙著『吃音 伝えられないもどかしさ』に寄せられた多くの感想からは、当事者ではない人の多くが、吃音について真剣に考えてくれていることを感じました。からかわれたり、笑われたり、というネガティブな経験を持っている当事者は多いけれど、それはきっと吃音の困難が知られていなかったことが大きくて、ちゃんと知ってもらえたら、少なからぬ人は理解してくれようとするのではないかと感じました。そこに希望を感じるし、本に寄せられた数々の温かい言葉から、きっとそうなんだと思うようになりました。

同時に、私たち当事者の側も、当事者でない人が問題を理解することが難しい、ということを理解する必要があると感じています。それは吃音以外のあらゆる問題でも同じはずであり、自分たちも、吃音以外の問題を抱えている人を知らずに傷つけているかもしれない。そのことを意識しなければならないと思います。

みながお互いにその可能性を意識しつつ、想像力を持ちあうこと。お互いに、自分とは違う立場の人に寛容になること。そんなことが大切なのではないかと、改めて思うようになっています。

そんなことを講演会でお話しさせていただきました。

本当に素晴らしい大会でした。
また皆さんにお会いできる機会を楽しみにしてます。
実行委員のみなさま、本当にありがとうございました!

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重松清さんとのイベント(5月31日@下北沢B&B)を振り返って

5月31日に下北沢の書店「B&B」で、拙著『吃音 伝えられないもどかしさ』の刊行に際して、作家・重松清さんとトークイベントをやらせていただきました。

そのレポートをすぐ書きたく、早々に書き始めていたのですが、力が入りすぎて?なかなかまとまらず……、アップできないままだいぶ日が経ってしまいました。

自分にとって、重松さんのような大御所の作家の方と一緒にイベント、というのは初めてのことで、しかも聞き手になってくださるというので、本当に自分なんかで大丈夫かな、、という思いが強く、始まる前はだいぶ緊張もしていました。しかし重松さんにお会いして、実際にトークイベントが始まってみると、思っていた以上に、いい具合に進んでいっているらしいことを感じました。

重松さんがぼくに質問をし、それにぼくが答えつつ、重松さんもご自身の経験を話されるという形で進行していったのですが、重松さんのリード、構成、そしてご自身の言葉が素晴らしく、自然と話が深まっていったように思います。

普段、重松さんは、誰かと一緒のイベントというのはほとんどなさらないそうなのですが、今回ご快諾いただいたのは、それだけ吃音というテーマが重松さんにとって重要だったということだと思います。そしてトークが進んでいく中で、重松さんの吃音への思いはとても深く伝わってきました。

重松さんが今回、対談ではなく聞き手であればという条件でお相手をお引き受けくださったのも、ご自身の吃音が関係あるということ(聞き手の方がお話しやすいとのこと)、ご自身の作品をどれか一冊だけ棺桶に入るとしたら、迷うことなく『きよしこ』であるということ、さらには、思うように話せなかったという経験が作家を志したことと深く関係していること、そして、吃音があって作家であるという現在の人生と、吃音がなくて作家でもないという人生を選べるとしたら、きっと吃音がない人生を選ぶだろう、ということ……。

重松さんにとっていかに吃音が大きな問題であったのか。それは想像していた以上のものでした。お話を聞きながら、拙著に登場する方たちの思いと強く重なり、重松さんが書評の中で書かれていた言葉が改めて深く思い出されました。そして同時に、重松さんがこうおっしゃっていたのが、とても印象的でした。

「吃音があってよかったと思うことはないけれど、吃音がある人生も悪くないといまは思える」

それはきっと、吃音で悩んでいる人たちにとって少なからず力になる言葉のように感じました。
ぼく自身もまた、重松さんの思いに同感でした。ぼくもやはり、吃音で悩んできたことと文筆の道に進もうと思ったことは無関係ではないし、それ以外の自分の性格や考え方も、良いと思う点もそうではない点も含めて、吃音と無縁では語れない。そして現状吃音で悩んでなくとも、吃音が自分の根幹にあることを、重松さんのお言葉を聞いて改めて思いました。

また一方、ぼく自身は、重松さんが作ってくださった流れのおかげで、身を任せるようにして話していくことができましたが、あとから思えば、言葉の選び方を間違ったように思う部分や、うまく言えなかった部分が少なからずありました。それでも、重松さんの心の奥底からの言葉と呼応し、その場で思いつく限りの言葉を発することができたようには思います。

それゆえに、うまく言えなかった部分も含めて、伝えたいという意思、そしてその核にあるものを、感じてもらえる場になったのではないかという気がしています。まさに、伝えたいという思いと「伝えらないもどかしさ」とを、重松さんとともに懸命に言葉にしようとした2時間だったようにも思います。

また、話がうまく流れていったように思えた要因には、休憩時間に会場の皆さんから紙面でいただいた質問の素晴らしさ、そして、限られた時間の中で、それらの質問を的確に、時間が許す限り紹介していく重松さんの巧みなディレクションがありました。さらに、参加者のみなさんが本当に真剣に聞いてくださっているのが伝わってきたことが、ぼくにとっても、おそらく重松さんにとっても、話をする上で大きかったように思います。

重松さんには、本の帯と書評を書いていただけただけでこの上なくありがたかったのですが、その上、このような貴重な場を持たせていただけたこと、本当に嬉しく、深く心に残る夜となりました。

重松さん、来て下さった皆さん、B&Bのスタッフの方々、新潮社の編集者のお二方、本当にありがとうございました。

イベント後は、サイン会でいろんな方とお話し(初めての方も、懐かしい方との再会も多数)、そしてその後、新潮社のお二人と打ち上げをしたのちに、余韻に浸りつつ、神楽坂の新潮社クラブに泊まりました。夜、歴史ある和室で一人横になりながら、いつか再びこういう機会を持つことができるだろうかと、寂しさのようなものも、また同時に感じたのでした。

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明後日10月28日土曜日、京都岡崎の蔦屋書店さんでのイベントでご紹介予定の本を読み直しています。

明後日10月28日土曜日、京都岡崎の蔦屋書店さんでのイベントでご紹介予定の本を読み直しています。

『荒野へ』(ジョン・クラカワー)、『檀』(沢木耕太郎)、『最後の冒険家』(石川直樹)。他もいろいろと話の中でご紹介する予定ですが、今回は主に、それぞれ思い出深いこの3冊を。

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『荒野へ』を読むと、自分に旅の魅力を教えてくれた友人かつ先輩のことを思い出します(『遊牧夫婦』登場のUさん)。彼は心から旅を愛し、旅によって変わり、自らの信念を貫いて28歳で亡くなりました。彼が短く濃密な人生の中で僕の心に残したものはとても大きく、いまもふとしたときに、彼に時々問われる気がします。「そんな生き方をしていてお前はいいのか」と。

『檀』は、読み返す度に心の深いところに響きます。沢木耕太郎作品で最も好きなものの1つ。書く側として、書かれる側の複雑な思いについて深く考えさせてくれるからでしょうか。沢木さんの、書かれる側への敬意が、檀ヨソ子さんの言葉の端々に現れていて、自分も旅をしながらこの本を読んで受けた影響がいまも色濃く残っています。そして後半、舞台がポルトガルに移る辺りは、なんかいつもこみ上げてくるものがあります。同じ人間でも、別の土地で会うとき、また違った関係になるのかも、と思ったりも。

『最後の冒険家』は、冒険の本として本当に素晴らしい作品です。石川直樹さんの、「冒険」に対する真摯な姿勢と内面の葛藤や、もう一人の主人公である神田道夫さんの冒険に対する突き抜けた思いと人生は、ずっと心に残っています。人はなぜ冒険をするのか、人間にとって冒険とは何なのかということを、鮮烈な物語とともに深く考えさせてくれます。

この3冊を軸に、グーグルアースで場所を実際に見て、思い浮かべ、自分の体験と重ね、写真なども交えながら、旅について、紀行作品について、いろいろと感じていただける時間にできればと思っています。

まだ席はある感じなので、よろしければ是非いらしてください!

【トークイベント】旅を読む、旅を書く ―ノンフィクションライター近藤雄生と読む旅行記3選―
http://real.tsite.jp/kyoto-okazaki/event-news/2017/…/-3.html

「旅も人生も、終わりがあるからこそ感動がある」 リュエルしなやかでのイベント無事終了

今日(7月29日)は、滋賀県大津市のリュエルしなやかにて、年配の方を中心とした場で自分の旅についてお話をさせていただきました。自分の親ぐらいの年齢の方がほとんどの中、どのようなテーマでお話するのがよいだろうかといろいろ考え、結局、「旅も人生も、終わりがあるからこそ感動がある」という、自分が最近もっとも強く思うようになっていることを一番のメッセージとして全体の話を構成しました。

今回、中国から北朝鮮へと無理やり国境を越えた話から始めることにしましたが、自分たちのやったことの無謀さを改めて痛感。まだ30歳になったばかりのあの頃は、どんなことがあっても自分は大丈夫、とどこかで思っていたのでしょう。それは結局は、自分の人生にもいつか終わりが来ることを意識できていなかったということなのだと思います。いまから見ると、当時の自分は無知だったと感じます。その一方、それゆえに得られる自由さや行動力こそが若さであるんだろうなとも。

あそこで思い切って国境を越えられる自分を再び取り戻したい。今日、そんな気持ちにもなりました。

イベント終了後も、皆さんと、そして個人的にもいろいろとお話することができて、充実した半日になりました。主催してくださったみなさま、ご来場の方々、どうもありがとうございました!