ものを書くのは、幸せになるためだ――スティーブン・キングの『書くことについて』

今年度、書くことについて授業したりする機会が少し増えそうな予感がある。であればこれまでよりも確固たる意識で臨みたく、こないだ本多勝一の『日本語の作文技術』を20年以上ぶりに読み返した。やはり名著だなと感じ、その流れで、スティーブン・キングの『書くことについて』も読み返した。

『書くことについて』は、10年程前、作家の新元良一さんに薦められて読み、大きな刺激をもらって以来、文芸学科の学生などによく薦めている。一度読んだきりだったので詳細は忘れてしまいつつも、読んだ時の気持ちの高まりや、おれももっと書こう!と思った気持ちだけはずっと頭に残っていた。久々に読み返すとまさに、「そうだった、この興奮だった」と、最初に読んだ時の気持ちを思い出した。

キング本人の自叙伝的文章から始まり、書くことについての具体的な方法論へと移っていく。全体として物語性があり、引っ張る力がすごい(田村義進さんの訳の良さもあると思う)。1つのノンフィクション作品のような作風だが、読み進めるほどに、「書くことついて」というテーマがいろんな形で伝わってくる。

自叙伝的部分からは、超大御所の作家でもやはり最初は苦労したんだなということが伝わってくるし(クリーニングの仕事や高校教師をしながら、作品を投稿しては不採用通知が届く、という時代がしばらくあった)、方法論の部分も、文章の技術的な点(とにかく文章はシンプルにしろ、と)、どう書き進めるか、原稿の見直しの仕方、リサーチの方法、編集者へ手紙を書く上で大事な点など、自身の経験に基づいた方法や考えを率直に、具体的に書いている。

方法論の中で特に印象的な部分がある。<ストーリーは自然にできていくというのが私の基本的な考えだ>(p217)というあたりだ。<作家がしなければならないのは、ストーリーに成長の場を与え、それを文字にすることなのである><ストーリーは以前から存在する知られざる世界の遺物である。作家は手持ちの道具箱のなかの道具を使って、その遺物をできるかぎり完全な姿で掘りださなければならない>

ストーリーは、土の中に埋まった化石のようにすでにそこにあり、それを丁寧に、傷つけずに掘り起こすのが作家の仕事だと言うのである。

<最初に状況設定がある。そのあとにまだなんの個性も陰影も持たない人物が登場する。心のなかでこういった設定がすむと、叙述にとりかかる。結末を想定している場合もあるが、作中人物を自分の思いどおりに操ったことは一度もない。逆に、すべてを彼らにまかせている。予想どおりの結果になることもあるが、そうではない場合も少なくない。サスペンス作家にとって、これほど結構なことはないだろう。私は小説の作者であると同時に、第一読者でもある。私が結末を正確に予測できないとすれば、たとえ心のなかでは薄々わかっていたとしても、第一読者はページをめくりたくてうずうずしつづけるだろう。いずれにせよ、結末にこだわる必要がどこにあるのか。どうしてそんなに支配欲をむきだしにしなければならないのか。どんな話でも遅かれ早かれおさまるべきところへおさまるものなのだ>(p219)

この言葉は、小説に限らずさまざまな文章を書く上でのスタンスとして、すごくヒントになる気がした。

方法論について書かれたあと、再びキング自身の話に戻るのだが、そこには、1999年の大事故について書かれている。彼は散歩中にヴァンに轢かれ、生死の境をさまようほどの大けがを負ったのだ。それはこの本を書いている最中のことだった。病院での苦しい治療中に彼は考える。<こんなところで死ぬわけにはいかない。> <もっと書きたい。家に帰れば、『書くことについて』の書きかけの原稿が机の上に積まれている。死にたくない>(p346)……。

その章の最後は、大事故による困難を経たあとの彼の、書くことについての思いで結ばれているが、その言葉が深く響いた。

<ものを書くのは、金を稼ぐためでも、有名になるためでも、もてるためでも、セックスの相手を見つけるためでも、友人をつくるためでもない。一言でいうなら、読む者の人生を豊かにし、同時に書く者の人生も豊かにするためだ。立ち上がり、力をつけ、乗り越えるためだ。幸せになるためだ><あなたは書けるし、書くべきである。最初の一歩を踏みだす勇気があれば、書いていける。書くということは魔法であり、すべての創造的な芸術と同様、命の水である。その水に値札はついていない。飲み放題だ。/腹いっぱい飲めばいい>(p358-359)

文筆業をはじめて20年以上が経ち、いま、書くことは自分にとって、生きるための手段という側面が随分大きくなってしまった。だからこそか、この言葉はすごく響いた。強く背中を押してもらった。読者を幸せにし、自分も幸せになるために――。

あと一点、どこだったか見つけられなくなってしまったけれど、前半に書いてあったこと。投稿しては不採用の通知をもらうという日々でのことだったか、作家デビュー直前のころのことだったか。ある編集者がかけてくれた一言によって、救われた、といった話があった。

それを読んで思い出したのが、自分が旅に出る前に、「週刊金曜日」のルポルタージュ大賞に応募した時のことである。確か原稿を送ったのは2002年の年末で、2003年3月に発表があった。送ったのは、吃音矯正所について書いた原稿用紙50枚ほどのルポルタージュ。

受賞の連絡はないままに結果発表の号が発売する日となったので、「ああ、だめだったんだな……」とがっくりしながらその号を手に取った。結果発表のページを見ると、やはり受賞はしていなかった。ところが意外なことに、誌面に自分の名前が見えた。編集長が講評の中で、自分の応募作について触れてくれていたのである。確かこんな主旨の言葉だったと記憶している。

<近藤さんの吃音矯正所のルポもよかった。ただ、構成の面でもう少し工夫がほしかった。次回作に期待したい>

その言葉は、実績もなく先行きも見えないまま、ライターとしてやっていくために日本を離れる直前だった自分にとって、かすかな、しかし大きな希望となった。その言葉があったから、結果発表のすぐあとに思い切って「週刊金曜日」の編集部を訪ね、なんとか載せてもらえないかと相談に行けた。結果、分量を半分くらいにし、追加取材をすることで掲載してもらえることになった(その記事)。そうして初めて、自らテーマを決めて書いた記事が雑誌に載ることが決まり、一応はライターと名乗ってもいいだろうと思える状態で6月、日本を出発することができたのだった。

その時の編集長は岡田幹治さん。2008年に帰国した後、同編集部に挨拶に行ったときにはすでに編集長を退任されていたのでお会いすることはできなかったが、あの一言が自分の背中を大きく押してくれたことは間違いない。いまもとても感謝している。

その岡田幹治さんが、2021年7月に亡くなられていたことをいま知った。

確実に時間が経った。いまやるべきことはいまやらないと、と改めて思う。

本多勝一さんの『日本語の作文技術』を20年以上ぶりに再読し、この本から受けてきた多大な影響に気がついた。

文章を書く上で自分が最も影響を受けてきた書き手は、沢木耕太郎さんだ。最初の出会いは確か、学部時代、研究室のスタッフだった女性に『一瞬の夏』を勧められたこと。その後、大学4年の卒業前に数週間インドに行った後に『深夜特急』を読み、そこから沢木さんのノンフィクション作品を次々読んだ。そして沢木さんのようなノンフィクションを自分も書きたいと思うようになり、ライター修行も兼ねた長い旅に出ることになった。長旅に出たとき、教科書としてバックパックに入れていったのもすべて沢木さんの文庫本だった。『敗れざる者たち』、『人の砂漠』、『紙のライオン』、『彼らの流儀』、『檀』などで、中でも、『彼らの流儀』と『人の砂漠』は、書き出しや構成を考える上で、何度も何度も読み返した。

一方、そもそも本の面白さを初めて自分に知らしめてくれたのは、立花隆さんの作品だった。それは沢木耕太郎作品に出会う前、大学に入って間もないころのことである。一浪をへて大学に入り、「物理学者か宇宙飛行士を目指すぞ」と高いモチベーションを持っていたころ、立花氏の『宇宙からの帰還』を知った。高校時代まで、読むことにも書くことにも興味を持てず、本とはほとんど無縁だったが、ふとこの本を読み出したら、夢中になった。初めて本を面白いと思った。その後、彼の作品をあれこれ読み進めていく中で、もしかしたら自分は、サイエンスについて書くジャーナリストのような仕事に興味があるのかもしれない、と思うようになる。当時大学で立花氏の講義があり、それを何度か聴講した影響もきっとあったのだろうと思う(やってくるゲストがすごかった。大江健三郎だったり、鳩山邦夫だったり。90分の授業を180分まで延長したあげく「これで前半終了。これから後半」と言ったのにも衝撃を受けた)。

いずれにしても、そうして立花隆の影響を受けたあと、ようやくそれなりに本を読むようになり、その過程で沢木耕太郎作品に出会った。そして結果として沢木さんの影響をより濃く受けるようになったというのが、自分自身の認識である。

しかしその認識は少し修正されるべきかもしれないと、最近ある本を読んで、思った。それは本多勝一の『日本語の作文技術』である。大学時代に読んだこの本を再読し、自分はこの本の影響をとても強く受けているだろうことに気づかされたからだ。

立花隆を知ってからか、沢木耕太郎を知ってからかははっきりとは覚えていない。けれども、文章を書いて生きていきたいと考えるようになってからこの本を読み、読んだだけでなぜか文章がうまくなった気がしたことはよく覚えている。

読んだだけでどうしてそんな気持ちになれたのか。それを知りたいという気持ちもあって今回再読したのであるが、読むほどに納得できた。いま自分が文章を書く上で大切にしている技術的なポイントの数々が、これでもかと書かれていた。緻密ながらもわかりやすく。「そうか、自分はこの本を読んだから、このような意識で文章を書いているのか」と再認識した。

2章の冒頭にこんな例文が登場する。

<私は小林が中村が鈴木が死んだ現場にいたと証言したのかと思った。>

多くの人は、「こんなわかりにくい文を書く人はいないだろう」と思うだろう。自分も思った。ちょっと笑った。うん、確かにこれは極端だ。しかし、私たちが日々接する少なからぬ文章が、実際にはこのような書き方になってしまっているらしいことが本書を読むと見えてくる。こうならないように気を付けるだけで文章はかなりわかりやすくなる、そのためにはどうすればいいか、を様々な側面から極めて具体的に教えてくれるのがこの本なのだ。

私たちが学校で習う日本語の文法は、明治以降の西洋の文法観の影響のもとに築かれたものであると本書は言う。その結果、日本語の文法は、日本語にそぐわない形で体系化されてしまったという話もなるほどだった。特に、「主語と述語」が大事だというのは英語の話で、日本語には「主語はない」(主格があるだけ)、という論には頷かされた。この例を代表とするような西洋の文法観が知らぬ間に私たちの日本語の捉え方にも影響を与えているのだとすれば、それは私たちが書く日本語にも影響を与えているのだろう。50年前に書かれたことだから、いまでは常識なのかもしれないけれど。

一方、50年近く前の本ゆえに、いま読むと驚かされることも数多い。
たとえば、本多氏は言う。いま(=70年代)「あぶないです」「うれしいです」という言葉遣いが増えているがこれは間違い、「あぶのうございます」「うれしゅうございます」と言うべきである、と。また、英語は専門家にしか必要がないから中学生が学ぶ必要などない、とも書かれていた。いずれも、いま読むと逆にとても新鮮だった。さらに、当時は手書きで書くのが当然の時代だったからだろう、植字工が植字を間違えないようにするための原稿執筆段階での工夫なども書いてあって興味深い。

背景がそれだけ違う時代に書かれた本でありながら、しかし、文章技術に関する話は、いま読んでも一切古びた感じがないし、違和感もない。

文筆を生業として20年以上がたったいま、改めて読めてよかった。

古賀史健『さみしい夜にはペンを持て』を読んで、思いがけない光が見えた

次女は本が好きなので、学校に行かずに家で過ごす午前中に、よく一緒に本屋に行く。

行くといつも、「何か一冊ほしいのがあったら」ということになり、次女は喜んで本を探す。その彼女が先日選んだのがこの本だった。古賀史健さんの『さみしい夜にはペンを持て』。娘はこの本を書店で何度か見たことがあるようで知っていて、自分も読みたいと思っていた本だった。

帰って早速読み出した次女は、学校に行けない主人公のタコジローに共感することが多かったようで、「気持ちすごくわかるー」「読書感想文が好きじゃない理由、タコジローと全く同じやわ」などと言っていた。読み終わると「好きな本の一冊になった」。「日記、少し書いてみようかなって気持ちになった」とも。実際に書いてはいないようだけど。また、ならのさんのイラストにもとても惹かれたようだった。

僕も昨日読み出して、さっき読み終わった。娘の話から想像するよりも文章読本的要素が強かったけれど、娘が「気持ちわかる」と言っていたのにすごく納得した。文章、そして日記を書く意味を教わっていくタコジローが、教えにすぐには納得せずに「でも……」と疑問をぶつける様子が、娘の感覚に似ているのだろうなと思った。

自分にとっても、タコジローが疑問を挟むのは、「そう、そこを聞いてほしいと思ってた!」と感じる点ばかりで、とてもしっくりきた。本全体として「誤魔化していない」感じがあった。子どもを言いくるめようとしてなくて、正面から答えている。だから、子どもに届くのだろうなと思った。

また、書くことについてたくさんの発見があった。「世界をスローモーションで眺める」「メモは、ことばの貯金」「『これはなにに似ているか?』と考えてみよう」などの言葉は、なるほど!だった。文章を書く上でなんとなく自分もそのようにやっているような気はするけれど、言語化できるほど意識できてはいなかった。このような形で明確に言葉にしてもらえると、その点に意識的になれて、これから書いていく上で少なからず助けになりそうに思う。これらが書かれた<4章 冒険の剣と、冒険の地図>はまた読み直したい。

そして何よりも、この本を読みながら、ふと大きな気づきを得た。
どうすればいいかわからないまま1年ほどが経とうとしている事柄について、もしかしたら、こうすればいいかもしれないという案が浮かんだ。初めて、フィクションとして書いたらいいのかもしれない、と思った。ある人に宛てた手紙のような形にして。会ったことはなく、向こうも自分を知らない、ある一人の人に宛てた物語として。

明らかにこの本がくれた気づきだった。
大きな光が見えた気がする。
できるかどうかわからないけれど、やってみたい。

タコジローの物語に、大きな力をもらいました。
この物語を届けてくれた古賀さんに感謝です。

『君たちはどう生きるか』と『心に太陽を持て』

年明け最初に読了した本は『君たちはどう生きるか』(吉野源三郎著)になりました。

この本は、子どものころ全く本を読まなかった自分に、ある時(おそらく小学生のとき)祖母が「読んでみたら」と岩波文庫版を買ってきてくれたのをきっかけに読んだものでした。おそらく自分が初めて最後まで読み通した本だったように記憶しています。

先日、宮崎駿の映画『君たちはどう生きるか』を子どもたちとともに見にいったのをきっかけに久々に本書を読みたくなり、子どもたちも読むのではと思い買って、結局いまのところ自分だけが読んだ、という状況です。

90年近く前に書かれた本なので、さすがに現在と価値観の違いを感じる部分はあるものの、人としてどうあるべきかという根本の部分は全然変わらないなと思い、心打たれるものがありました。近年再びブームが来て読まれるようになったのもよくわかる作品でした。

ぼくはこの本を読んだのをきっかけに、この本と深く関係する山本有三の本をいくつか読み、その中の一つが『心に太陽を持て』という短編集でした。これもずっと心に残っている素敵な作品で、この本について少し前に、「こどもの本」という雑誌に以下のようなエッセイを書いたことがありました。こちらに転載しておきます。『君たちはどう生きるか』も『心に太陽を持て』も、ずっと読まれ続けるんだろうなあ。

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私は小学校時代、本を全く読まない子どもでした。そんな自分に、一緒に暮らしていた祖母がある日、「読んでみたら」と一冊の本を勧めてくれました。『君たちはどう生きるか』という本でした。その内容に心を動かされた私は、その作品と強いつながりがある本としてあとがきに紹介されていた一冊を、読んでみたいと思いました。それが、山本有三著『心に太陽を持て』でした。

この本は、子どものためのよい本を作りたいと願った著者が、今から八〇年以上も前に、世界の様々な逸話を集めてまとめたものです。何かを成し遂げた人の話もあれば、困難を抱えた人々にひたすら尽くした名もなき人の話もあります。どの話も、生きる上で大切なものは何かということを優しく真っ直ぐに伝えてくれます。努力すること、思いやりを持つこと、希望を捨てないこと、公正、正直であること……。

三〇年以上ぶりに読み返してみると、驚くほど、「あ、この話」と思い出すものが多くありました。幼少期に読んだこれらの話が自分の心のどこかにずっと残り、今の自分につながっているのかもしれないと感じました。

 今の時代にはもしかすると、メッセージがきれいすぎると感じる人もいるかもしれません。でも私は、子どものころに、理想に満ちた真っ直ぐな物語を読み、それを心の中に留めておくのは大切なことだと思っています。そのような物語は、誰にとっても、複雑な現実の中を生きていく上での心の支えや人生の指針になりうると思うからです。

 この本は、多くの人の心の中にそのような形で生き続けている気がします。久々に読み直してそう感じました。そして自分にとってはこの本こそが、タイトルにある「太陽」の一つだったのかもしれないと思い、ふと胸が熱くなりました。

(「こどもの本」2020年4月号)

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読売新聞夕刊の書評欄「ひらづみ!」の担当最終回『ナチスは「良いこと」もしたのか?』

読売新聞夕刊の書評欄「ひらづみ!」に先週、『ナチスは「良いこと」もしたのか?』(小野寺拓也、田野大輔著(岩波ブックレット))を紹介しました。記事がオンラインでも読めるようになりました。

良い本かつ重要な本だと思うので、ご興味ありましたらぜひ本書を手に取って読んでみてください。

https://www.yomiuri.co.jp/.../columns/20231204-OYT8T50037/

自分は2021年春から3年近く、この欄のノンフィクション本を担当してきましたが、今回で最後となりました。

最近になってようやくオンラインでも読めるようになったところということもあり残念ですが、長くやらせていただき、ありがたい仕事でした。「ひらづみ!」という名の通り、売れてる本から毎回自分で1冊選び、概ね隔月で17回書きました(全部載せ切れてないですが、14回目までは こちらから、紙面の画像で読めます。 読売新聞月曜夕刊 本よみうり堂 の「ひらづみ!」欄の書評コラム )。

ところで、自分は子どものころは本に全く興味が持てず、ほとんど本を読まないまま10代を終えてしまいました。

大学時代までにちゃんと読んだ本は通算10冊あるかないかというレベル。読書感想文は、一度読んだ漱石の『こころ』で中高で何度も書き、高校の時は『火垂るの墓』をアニメを見るだけで本の感想文を仕上げました。

国語は苦手で、高校入試直前の模試では、国語だけ極端に成績が悪く、確か、625人中598番で偏差値34でした(直前にかなり衝撃的な順位だったのでよく覚えています)。第一志望の高校では本番の国語で、幸運にも、古文の文章が読んだことあるもので「うおおお、助かった!」と感激したことを覚えています(それで合格できたのかも)。

大学に合格した時、真っ先に思ったことの一つが、「これでもう本とか一切読まなくていいんだ、数学や物理だけをやっていこう」ということでした。

というくらい、活字を読むのが苦手かつ縁遠かったので、いまでも本を読むのがとても遅く、我ながら残念な限りです。

そんな状態から大学時代にライターを志すようになったのにはいろいろ紆余曲折があったのですが、いずれにしても、そんなだったので、この欄の担当メンバーの一人として、定期的に書評を書く機会をいただけたことは、自分にとってもとても貴重な経験でした。

さすがに文筆業を20年以上やってきたので、いまでは、読むのが遅くとももちろんそれなりに読みますし、本っていいなあとことあるごとに感じています。ただ、本を読むことが自分にとって自然な営みにになってきたのはここ数年の気がします。

書評を書く機会は今後も他紙誌で少なからずありそうなので、また見つけたら読んでいただければ嬉しいです。

『ナチスは「良いこと」もしたのか?』書評の記事誌面↓

『遊牧夫婦 はじまりの日々』<6 Uさんの死>

毎日、TBSラジオ<朗読・斎藤工 深夜特急 オン・ザ・ロード>を聞き、深夜特急の旅を一緒にしている気分になっています。もうトルコまで来てしまった。そして聞いてる途中で本当によく、自分自身が旅をしていたころのことを思い出します。

昨日は聞きながら、自分は旅をしてなかったらどんな人生を送っていたかを想像し、その一方で、旅をするきっかけをくれた大切な友人について思い出したりしていました。

ふと懐かしくなって、『遊牧夫婦』の中でその友人の死について書いた章を読み返し、そしたら、いろんな人に友人のことを知ってもらいたくなり、その章「6 Uさんの死」をアップすることにしました。彼の死から今年で20年。自分の年齢は当時の彼と離れていくばかりだけれど、その一方で、最近、死がいろんな意味で身近になってきたゆえに、彼との距離が近づいているような気もします。

本を読んで下さった方からもっとも言及されることの多かった章の一つでもあります。よかったら是非読んでみてください。

6 Uさんの死

「八月五日に兄が亡くなりました。とても静かな顔で、まるで、眠っているようでした」

高校時代の友人からそんなメールが届いたのは、まだバンバリーでの生活を始めて間もない二〇〇三年八月十一日のことだった。

「兄」といっても、「友人の兄」としてちょっと知っているという程度の関係ではない。「兄」もまた、ぼくと同じ高校で、二つ年上のバスケ部の先輩としてぼくは彼と知り合った。そしてその後、大学で同期になったことによって、ぼくは「兄」と仲のよい友人として付き合うようになった。その彼が、日本で命を絶ったというのだった。

何の前触れもない突然の知らせで、メールを読んでぼくはとても動揺した。ワンダーインのコンピュータスペースで、驚きのあまりしばらく呆然とした。

彼は、親しい友人という以上に、明らかに自分が大学時代にもっとも影響を受けた人の一人だった。なんといっても、ぼくが何年にもわたって海外で生活しようと思ったきっかけを与えてくれたのが、まぎれもなく彼だったのだ。

その彼が、この世を去った。そのことがすんなりとは納得できないまま、ぼくは自分が知っている彼のいろんな姿をコンピュータの前で思い出していた。先輩・後輩から始まった関係で、ずっとぼくは彼を「○○さん」と呼んでいたので、以下、Uさんとする。

Uさんは、高校時代からおしゃれで都会的で大人びた雰囲気を持った、とにかくかっこいい先輩だった。そのころは部活の一先輩後輩という程度の付き合いだったが、その時代から数年がたったある日、思わぬところでぼくは彼と再会することになった。

それは、Uさんが高校を卒業してから二年以上がたっていたときのことで、ぼくはその何カ月か前――ちょうど阪神・淡路大震災が起きた直後で、地下鉄サリン事件が起きる直前の二月――に大学受験に失敗し、浪人界へ暗く静かなデビューを果たしたばかりのころである。ぼくが通っていた駿台予備校がある東京・御茶ノ水の本屋「丸善」で、ばったりと出会ったのだ。

「おお、コンドー!」

ちょっといたずら好きそうで、でもいつもながらの凛々しい笑顔と軽快な口調の彼に、ぼくは呼び止められた。黒く焼けた肌を、いますぐにでもインドに行ってしまいそうなシンプルな衣服に包んだUさんがそこにいた。彼がすでに、ある私立大学に入学していたことを知っていたぼくは、こんな浪人たちの巣窟で参考書を片手に持った彼と会うことが意外だった。あれ、どうして……? と聞くと、

「おれ、大学やめたんだよ。カンボジアに行ってアンコールワットを見てさ、すげえ衝撃を受けて、どうしても建築をやりたくなって。帰国してからすぐに大学やめてさ、いまは建築学科に入り直そうと思って、もう一度予備校に通い出したんだ」

そう言って彼は、どんよりとした浪人時代を過ごしていた自分とは全く異なる明るいエネルギーをみなぎらせながら、参考書を選んでいた。ぼくは当時、大学で物理学を真剣にやりたいと思っていたバリバリの理系男子で、旅をしたいと思ったことなど一度もなかった。だから、「カンボジアでアンコールワットを見て感動して大学をやめる」という流れ自体が、よく理解できずにいた。

しかし、とにかくかっこいい遊び人で夜の東京を駆け回っているような印象のUさんが、自分には未知の外国で本当にやりたいことに気が付いて、大きな一歩を踏み出そうとしているらしいことは、新鮮な刺激となった。

それからたまに予備校で会ったりしながら、ともに一年の浪人生活を終えた春、ぼくらは同じ大学に入学することになった。Uさんは、受験当日に会場で会ったときは、「おれは記念受験だよ」などと笑っていたが、ふたを開けてみればしっかりと合格を手にしていた。ぼくが本格的に彼とつるみ出したのは、それからのことである。

類は友を呼ぶのか、浪人は浪人を呼び、大学時代のぼくの友だちには一浪した同い年の人間が多かった。その中に、年齢的にはぼくらの二つ上をいくUさんもいた。

彼はただ年上であるという以上に、カリスマ的なかっこよさと陽気なキャラ、そして、豊富な遊びと旅の体験に裏打ちされた確固たる豪快さと幅の広さがあった。都会らしいスマートさを漂わせつつも、アジア、アフリカ、南米などを数カ月から半年の単位で旅し続けている経験をもとに、とにかく旅が面白くすばらしいものであることを、色白でもやしっ子なぼくらに全身で教えてくれた。

エチオピアからだったか、ぼくらに手紙をくれ、彼の興奮を短く伝えてくれたこともあった。また、外国にいても「ホットメール」を使えばメールを送受信できるんだよ、と教えてくれて、当時まだ、大学に行かないとメールが出せず、家で手書きのファックスを夜な夜なオーストラリアに送ったりしていた自分は、へえ、そうなのか、すごいなあ、とびっくりしたことを覚えている。

またUさんは、大学の授業にも手馴れたメリハリをよく効かせた。単位を落としそうな科目については、「試験が悪かったら、あとは政治力だよ。×○先生には菓子折りだ、がはははー」などと言って、オトナのやり方があることを見せてくれたりもするのであった。

一般教養の授業では、相対性理論だったか量子力学だったか、難しい物理学の授業を一緒に受講し、ぼくは自分が物理学を志す身なのにほとんど理解できないことをまずいなあと思っていると、Uさんは頭のよさそうな本を手に、なんとなくそれらしいことを言っている。よく聞くと、やはり彼もわかっていないのだが、それっぽい本を携えることによって、ちゃんと物理学をファッションへと昇華させる術を心得ていて、Uさん、やっぱりさすがだなあ、と笑わせてくれたりするのである。

そして一九九七年十二月、すなわち大学二年の冬、ぼくが「ストーカー」時代を成功裡に終えて、今度は楽しく前向きな旅行のためにその年最後のオーストラリアへと向かうときには、Uさんが他の友人とともに、車でぼくを成田空港まで送ってくれた。

車内にはジミヘンの曲が流れ、軽快な走りでレインボーブリッジを渡って空港に向かった。ぼくも、その数カ月前の悲愴感溢れる旅立ちとは違い、今度ばかりは楽しいオーストラリア滞在になりそうで気持ちはとても軽かった。

空港が近づいてくるとUさんは、助手席に座るぼくに言った。

「パスポート、出しとけよ」

するとその直後、空港のパーキングの入り口で係員がUさんに、「免許証を――」と言うか言わぬかのところで、Uさんはすかさずぼくのパスポートを差し出した。すると係員は、パスポートを見て、「はい、いいですよ」と通してくれた。通り過ぎると、Uさんがニヤリと笑った。

「おれ今日、免許証忘れちゃってよ。ここ、ヤバイなって思ってたんだけど、お前らに言うときっと動揺すると思って、言わなかったんだよ」

さすがUさん、とぼくは思った。たしかに、Uさんが免許証を持っていなくて空港に入れないかもしれないことを知っていたら、この係員の前でぼくは若干不自然な挙動をとっていたかもしれなかった。けれどUさんが機転を利かせてくれたおかげでそうはならず、ぼくはすんなりとこの年四度目のオーストラリアへと飛ぶことができたのだった。

いつもそんな感じで、Uさんはぼくらにはない余裕と貫禄を見せてくれた。旅で培ったワイルドさと都会的で洗練された華やかさがいい具合に調和されて染みついている人で、とにかく別格の魅力があったのだ。そんなUさんの存在はぼくらの仲間内ではとても大きく、おそらく彼がいたからこそ、長期の旅をする友人が増えていった。

ぼくが学部卒業前にアジアを旅しようと思ったのも、やはりUさんの影響が大きかった。行き先がインドになったのも、Uさんに、「どこか一カ所っていうなら、インドかな。やっぱりインドは違うよ」と言われたことが決め手となった。そのインドでの体験によってぼくは旅の魅力に激しく惹かれ、この長期の旅について考えるようになったのだ。

「旅をして生き続けることができたら、めちゃくちゃ幸せなんだけどな。でも、そうはいかねえよなあ」

牧歌的な学生時代の終わりが近づき、自分の生き方を各自が真剣に考えなければならない時期がやってくると、Uさんはそんなことをよく言った。どうやってこの社会の中で生きていくべきなのか、何が自分にとって一番いい選択なのか。そう考えるとき、Uさんの中にはいつも旅のことがあったのだと思う。彼は本当に旅が好きだったのだ。

彼の言葉を聞きながら、そんなことができたらいいよなあ、とぼくも漠然とは思ったものの、実践しようとは考えてもいなかった。だがそのときすでに、Uさんと日々接する中で、旅がいかに魅力的なもので、かつ人をたくましく育てるものなのかを、肌で感じていたことは確かだった。Uさん自身の魅力が、そのままぼくらにとっては旅の魅力と映っていたともいえるのだ。

しかし、皮肉なことに、そんなUさんを少しずつ別の方向に変えていったのもまた旅だった。いつだったか、Uさんはたしか半年ほど南米に行ったが、帰ってくると明らかに様子が変わっていたのだ。

最初はただ、旅の疲れか何かで体調が悪いだけかと思っていたが、言動がはっきりとそれまでとは違ったものになっていることにぼくらは気づいた。どうしたのだろうと、何度か尋ねたことはあったけれど、ペルーあたりでなにやら凄まじい経験をしたと言うだけで、彼は決してそれ以上詳しく話そうとはしなかった。少なくともぼくにはそうだった。

ただ明らかだったのは、Uさんが激しく厭世的になっているらしいことであった。

もともとUさんは、いまの世の中に対して旺盛な批判精神を持っている人だった。それはおそらく、簡単にいえば、旅をして世界を見て回る中で培っていったものの一つなのだろう。

その思いは、たとえばコンビニは利用しないなど、物質的で記号化した現代社会を象徴するものを避けるような形で、彼の行動の随所に表れていた。ただ以前は、そんなUさんの独特なポリシーは、常にUさん一流の明るいポップさを伴っていて、ぼくたちも「おお、Uさん、アツいなあ、こだわるなあ」、などといって笑って見ていられる陽気さとコミカルさがあった。

しかし南米への旅のあとに様子が変化してからは、その一つひとつが普通ではないシリアスさとストイックさで実践されるようになり、そこまでやらなくても、とぼくらが思うぐらいのものになっていった。彼はそれまでとは全く違うレベルで、いまの社会に対して違和感を覚えているようだった。すべてが薄っぺらく見えるいまの社会をなんとか変えないといけない、自分はこんないい加減な生き方をするわけにはいかないんだと、何かに追われ、思いつめているようにぼくには見えた。

そんなUさんが心の底に抱えている思いは、極めて真っ当で、ぼくたちにも激しく訴えるものがあった。とはいっても、誰もがあらゆることになんらかの形で妥協しながら生きていかざるをえなかったし、Uさんほどその信念をストイックに貫き、行動に移すことはぼくたちにはできなかった。

だんだんと会話がかみ合わなくなった。そしてときに非常に緊迫した言葉を発するようにもなっていった末に、すっかり大学にも姿を見せなくなってしまったのだ。

最後にUさんと話したのは、二〇〇〇年にぼくが大学院に入ったのちフィリピンに行こうとしていたときのことだったと思う。フィリピンについて何か教えてくれようとしたのか、突然電話をくれたときだった。詳細は思い出せないが、そのとき久しぶりに話したUさんは、やはり少し張り詰めた様子でぼくに何かを伝えようとしてくれていた。

その同じ年のことだったはずだ。ついに彼は外界との一切の接触を絶ってしまった。ぼくらの誰にも、Uさんに何が起こったのかはわからないままだった。

生前、彼の近況を最後に聞いたのは、それから三年後の二〇〇三年三月、東京で友人たちを招待して行ったぼくとモトコの結婚パーティーの日のことである。パーティーに来てくれたUさんの弟に、「Uさんどうしてる?」と聞くと、

「じつは兄貴、こんちゃんのパーティーに参加するって言っててね、渋谷までは一緒に来たんだよ。でも、やっぱりやめるって、帰っちゃったんだ」

その次に聞いた報告が、その五カ月後の、冒頭のメールだったのだ。

ワンダーインでの掃除の仕事を終えたあとに、そのメールを見て呆然としながら、ぼくは自分が知る彼のいくつかの姿を断片的に思い出し、もうその彼がこの世にいないんだ、ということを落ち着かない思いで繰り返し考えた。

キッチンで作ったパスタを夕食に食べたあと、ぼくはUさんの弟にすぐ返事を書き始めた。書きながらいろんなことを思い出した。「旅をしながら生きていきたい」と言っていた彼が、旅によって変わり、この世を去った。その一方、もともと旅にあまり興味もなかった自分が、彼と出会ったことをきっかけに、いま旅を生きようとオーストラリアで暮らしている。それが不思議だった。ぼくは、Uさんの弟への返事にこう書いた。

《(ぼくらの友人たちの)誰もがUさんの大胆な発想や生き方をどこかで自分と比べながら、どうやって生きていこうかって考えていたんだと思う。今現在の状況を見れば、おれはその中でもとくに、自分の生き方を考える上でUさんのことがいつも頭にあるんだと思っています。だからUさんには、言葉ではいえないような感謝の気持ちがあります。Uさんと同期で大学に入学して、ともにあの時代をすごせたことをとても幸運に思ってるし、そしてそれは、これからも間違いなく自分にとっては、とてもとても大きな財産になるんだと思っています》

人は何よりも、人との出会いによって変わっていく。そんなことを、Uさんと出会ったことによってぼくは感じるようになった。

この日、ワンダーインの部屋の中で、考えていた。Uさんから得たものを自分の身体に染み込ませて、ぼくはこの先何年になるかわからない旅生活の中で、どのような日々を送り、どのように変わっていくのだろうかと。

どんな絵も思い浮かんではこなかった。そして考え直した。想像などできないからこそ、人は旅をするのだろうと。

きっとUさんも、同じだったのだろうと思う。

(6 Uさんの死 終わり)


『遊牧夫婦 はじまりの日々』プロローグ全文

読売夕刊「ひらづみ!」23年10月30日掲載『熟達論』(為末大著、新潮社)

10月30日の読売新聞夕刊書評欄「ひらづみ!」には、為末大さんの『熟達論』(新潮社)について書きました。人が熟達していく過程をこんなに説得力ある形で言語化できるなんてすごいです、為末さん。自分が文筆の道で経てきた過程を振り返りながら、そうだったのかと納得できたことも多々ありました。背中を押され、よしやろうと思わせてくれる一冊です。

読売夕刊「ひらづみ!」23年8月21日掲載『「山上徹也」とは何者だったのか』(鈴木エイト著、講談社+α新書)

少し間が空いてしまいましたが、8月に鈴木エイトさんの『「山上徹也」とは何者だったのか』(講談社+α新書)について読売夕刊「ひらづみ!」に書きました。統一教会問題を20年以上ひとり追ってきた著者の凄みが滲む一冊。それがいかに大変なことか、自分も書く立場として想像できる部分があり、感服です。鈴木エイトさんが長年の取材・報道に対しては複数の賞を受けているのもとても納得です。

『デオナール アジア最大最古のごみ山』(ソーミャ・ロイ著、山田美明訳、柏書房)の書評を「週刊現代」に

10/16発売の「週刊現代」に『デオナール アジア最大最古のごみ山』(ソーミャ・ロイ著、山田美明訳、柏書房)の書評を書きました。

いまこの瞬間もこのような驚くべき環境で生きる人たちがいることを生々しく突きつけられました。そして彼らが置かれた状況は決してどこか遠い世界の出来事なのではなく、いまの自分の生活とも繋がっているということを思わざるを得なかった。

『責任 ラバウルの将軍 今村均』で知った、オーシャン島での日本軍による驚愕の島民200人殺害事件。

長らく積読だった『責任 ラバウルの将軍 今村均』を、先日思い出して読み出したら想像以上に面白い。その中に、自分は全く初耳の驚愕の事件についての記述があって驚かされました。太平洋のオーシャン島(現キリバスのバナバ島)で終戦直後に起きた日本軍による島民200人の殺害事件。

本書では、殺害を行った元日本兵が率直にその背景を語っています。

この島を日本が占領した時、島民2500人のうち屈強な男性200人だけを残してあとは他の島に移住させた。その200人には武器を与えて訓練し、良好な関係を結んできたのに、1945年8月、終戦の4,5日後に全員を銃殺したのだと。理由は、占領当時に島にいた宣教師など数人の白人を処刑したことが発覚するのを恐れたためというのです。

白人の処刑については200人の誰もが知っていたとのこと。だから、敗戦となって連合国軍が島にやって来た時にとても隠し通せないだろうから、全員殺してしまったのだと…。島民の殺害についてはその後ラバウルでの戦犯裁判で明らかになり、8人の日本兵が処刑されたけれど、白人殺害を隠すための集団殺害だったというのは裁判でも隠されたまま、資料にも一切残ってないようでした。

実際このオーシャン島の島民殺害事件についてはその後も全然知られていないのではないかと思って、調べたら、1年前の東京新聞にこんな記事がありました。
最後の指揮官命令は島民の虐殺だった…元日本兵が書き残した敗戦直後のオーシャン島で起きたこと
いまなお、やはり全然知られてない事件なのだなと改めて驚かされました。

角田房子著『責任 ラバウルの将軍 今村均』は1985年ごろに刊行されていて、当時、関係者の多くが存命で、こういう話を当事者に取材で直接聞いています。この島民殺害事件を語った元日本兵も当時まだ60代。生々しさがすごいです。また、今村均の人格者ぶりもとてもリアルに描かれてて説得力があります。ラバウルの戦犯裁判のいい加減さ、無実の罪で処刑された日本兵がかなりの数いたのだろうことも伝わってきます。

もっと広く知られるべき内容が多々あり(自分が知らないだけかもですが)、本としてもすごく面白いです。


読売夕刊「ひらづみ!」23年7月3日掲載『「戦前」の正体』(辻田真佐憲著、講談社現代新書)

今日3日の読売夕刊「ひらづみ!」欄に、この本、辻田真佐憲さんの『「戦前」の正体』の書評を書きました。明治維新後、近代化を進める理屈づけのために都合よく神話が使用・解釈され、その結果、日本全体が絡め取られていく過程に驚かされました。すでにかなり読まれている本ですが、ますます広く読まれてほしいと思いました。

本書を読んだ流れで、未読だった半藤一利『日本のいちばん長い日』をいま読んでいるのですが(こちらも超面白い)、神武天皇の物語がこのように45年8月15日へとつながるのかと思うと、実に考えさせられます。

『なんでそう着るの? 問い直しファッション考』(江弘毅著、亜紀書房)を読んだ

江弘毅さんの新刊『なんでそう着るの? 問い直しファッション考』(亜紀書房)。

読み出した時に書いたツイートが↓。

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「はじめに」の一行目から一気に江さんの世界に引きずり込まれ、テンションが上がる!厄介なおじさんにバーで捕まり、延々語られながら、しかしもっと聴かせてほしい!と思わせる文章には本当憧れる。続きが楽しみ。
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そして少し間が空いたけれど、昨夜読了。最初の印象のまま最後まで。

仕事の本を読む合間に、一話ずつ読んでいったけれど、だんだんと江さんの文体に中毒になり、進みが早くなっていった。めちゃくちゃ笑い、唸り、思い出し、考えた。

最初の方では、著者のファッションについての各種の論に対して、「うわ、この人の前では何を着ていったらいいんだろう」と思ったりする人もいるかもだけれど(若干自分も思ってしまった)、時折、文末に()で囲まれた一言を読んでいくと、江さん”B面”とも言おうか、自分でツッコミを入れるお茶目な姿が見えまくり、全然そんな心配はないことがわかっていく。(リアルな江さんを知る自分にとっては、()内の方が”A面”感がある)。ポロシャツの辺りだったか、いくつかの章ではめちゃくちゃ笑った。

著者は、表層や情報だけで服を見る人には厳しいが、自分の感覚を大切にして、悩みつつ服を着る人にはすこぶる優しく愛がある。その姿勢にしびれる。

この本の主旨を自分なりにまとめると、次のようになった。
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ダサいかダサくないか、カッコいいか悪いかは、着ているもの自体の問題ではなく、その人自身の服やカッコよさへの向き合い方である。

社会に承認された権威や巷の情報を頼って、安全そうな逃げ場の中にあるカッコよさのようなものを求める人間は猛烈にダサい。一方、何を着るか自ら悩み、権威や情報に頼らずに自分の感覚や好き嫌いで服を選び、カッコよさに常に伴う不確実性に身をゆだねる人間はカッコいい。そして、後者の道を歩み続けることによって自分の感性を育てあげていくことでしか、人はカッコよくはなれない。

ただ同時に、社会を無視して自分の好き嫌いだけを貫くのは違う。何を着るかを考えるうえで、場や環境を意識することも重要である。

その間、つまり、自分と社会との間で、自分は何を着るか、というところが服の面白さである。
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改めてしびれる。

読みながら思い出したのが自分自身の高校時代。

部活のない日は学校の帰りに下北、渋谷、原宿によって古着屋を回るのが何よりも楽しかった。ヴィンテージのジーンズやミリタリー系が好きで、あとはスウェットやTシャツ、ブーツ、スニーカーなども自然にディテールをあれこれ知るようになっていった。うわ、これかっけー、これすげー、などと言って、渋谷から原宿まで歩いたりして、しかし金がないので買えるのはわずかだが、というのが趣味のようになっていた。

ヴィンテージのジーンズは価格的に全く手が出ず、結局、軍モノのチノパン(これは結構価格的に買いやすかった)をはいてることが多かったなあとか、また、いまふと思い出したのはジージャンのこと。リーの101Jのだいぶコンディションが悪いのをなんとか出せる金額のものを見つけて買って大事に着て(破れまくって血痕もついていた)、あとはどう手に入れたのか覚えてないがマーベリックのを着ていた記憶が蘇る(しかしサイズが小さかった)。

あと思い出深いのはやはりMA-1。初期型、中期型とかをよく見て回ってやたらと知識がついてしまい、ほしくなるのは全部何十万とかして、ただ眺めることしかできない。そんな中、高2のときかなあ、いよいよ本物のMA-1、それなりの物を買おうと思って、バイト代を貯めに貯め、予算8万くらいで探し回った。裏地がオレンジ色になった70年代くらいのしか手が届かなかったけれど、たしか高円寺のヌードトランプで見つけたのが汚れ具合などがすごくカッコよくて、8万くらいで、少しサイズが大きかったけど、腰の辺りもちょっと伸びてたんだけど、これくらいは仕方ない、「一生着る!」と自分で自分を納得させて購入。

しかし、買ってみたら、やはりだんだんと、サイズが大きいのが気になってくる。買った時に思っていた以上にデカい。腰回りがカパカパして「これ、デカすぎだろ?」という感じがしてきて、これが似合うように太ろうか、とも考えたような考えてないような(たぶん20キロは太らないとジャストフィットしない感じ)。結局、そんなこんなで、「一生着る」はずが、大学に入って以降は、どうも着た覚えがない(笑)。いまはいったいどこにあるのか。

また、この後、レプリカか本物か微妙な感じのL2-Bを手に入れた(今度は懲りてジャストフィットのもの)。MA-1っぽいけど、違うやつ。何が違うのかは忘れてしまった。見た目は本物感あったけれど、本物にしては安すぎて、でもなんとか納得して着ていた。胸にかつての所有者のものらしき名前が刺繍されていて、その名前が「PAI.O」だった。これが本物感を出していたのだけれど、友人らにいつしか「これ、パイ・オツ?」と言われ出し、そのL2-B自体が「パイオツ」と命名されてネタにされるうちに、なんだか嫌になってきてこれも着なくなってしまった(笑)。これもどこにあるのやら。ああ。

……江さんの本を読みながら、30年前のそんな記憶が次々に蘇った。あのころは雑誌からかなり情報を仕入れつつ、でもやはり、自分の足で見て回り、金を使って失敗し、自分なりの好き嫌いを構築していったという感覚がある(というか、ネットないし、店に行かないと服なんて見られない)。そして、いまもその感覚が生きている。

読んでる途中に、服がほしくなり、アウトレットに行った時に、バナナ・リパブリックでコートと、アダム・エ・ロぺでTシャツを買った。テンション上がった。また、久々にポロシャツも欲しくなってる(自分はラコステではなく、ラルフローレンが多かったけれど)。

久々に、服を買うことが本当に幸せだったころの感覚を思い出した。
そしてなんとなく文体が江さんの影響を受けた(笑)。あのような文章は自分には決して書けないけれど。

大人気の小説を読んで感じた物足りなさの正体について

先日一つの小説を読み終えて思ったことを、記録まで。(6月30日にツイートした内容を書き直したものです)

それは大きな賞もとっている大評判の作品で、実際とても面白くてほとんど一気に読んでしまった。文章もストーリーも素晴らしい。ただ一方、何か物足りなさが残った。それは大人気の作品によく同じように感じることなので、なぜなのだろうかと考えていた。

自分なりに考えたところ、それは、描かれていない部分の堅牢さ、みたいなことにあるような気がした。登場人物たちの人生が、本に描かれていない部分にもしっかりと広がり、描かれていない部分でも生きていると信じられるかどうか。作者がその人物の人生を、
本の中に描く部分以外にどこまで想像し、作り上げられているか。本で読んでいるのはその人物の壮大な人生のほんの一部なのだと感じられるかどうか。行間や言葉の端々に、本来はだらだらと続いているはずのその人の人生の日々の時間経過、物語にならない部分の存在を感じられるかどうか、というか。その点において、自分には物足りなさが残ったのだと思った。

ヘミングウェイが確か、知らないから書かないのは物語をやせ細らせる、一方、知っていることを削り、書かないのは物語を強固にする、というようなことを言っていた、というのを沢木耕太郎が昔のエッセイに書いていた(『紙のライオン』に収録されているはず)。それがとても印象的なのだけど、最近その意味をとても強く実感している。

小説でもノンフィクションでも記事でも、文章として表面に見えている以外の部分をどこまで掘り下げ、練り、考えられているかがその文章の厚みや深みを決めているのではないかとよく感じる。

大人気の小説に対して、今回と同じような物足りなさを感じることが少なくないのは、もしかすると、書かれていない部分を深く掘り下げる、みたいなことが、次々にページをめくらせるストーリーの展開とトレードオフの関係になってたりするのかなとも思ったりする。または両立させるのが難しいのか。

自分が文章を書く上で、読む上で、何を大切だと感じるかが、最近ようやくある程度明確になってきた気がする。

東京新聞・中日新聞に『毒の水』の書評を書きました。

東京新聞・中日新聞に『毒の水 PFAS(ピーファス)汚染に立ち向かったある弁護士の20年』(ロバート・ビロット著、旦祐介訳、花伝社)の書評を書きました。

書評の全文こちらから読めます。

PFASの問題が注目を集めるいま、広く読まれるべき一冊です。緻密でドラマチックです。アン・ハサウェイ出演の『ダーク・ウォーターズ』原作。

読売夕刊「ひらづみ!」23年5月29日掲載 『ウクライナ戦争』(小泉悠著、ちくま新書)

5月29日読売夕刊「ひらづみ!」に書いた、小泉悠さん『ウクライナ戦争』(ちくま新書)の書評です。著者の、軍事・ロシアの専門家としてのわかりやすく説得力のある分析に加え、研究者としての誠実さ、人としての優しさが感じられる一冊。おすすめです。

2月18日の東京新聞朝刊に新刊の紹介記事

2月18日の東京新聞朝刊に、新刊『10代のうちに考えておきたい「なぜ?」「どうして?」』について、栗原淳記者が紹介記事を書いてくださいました。栗原さんの許可をいただいたのでアップさせてもらいました。《問いを見つけ、自ら考えることの大切さ》という本書のテーマを温かい言葉でご紹介下さいました。栗原さん、ありがとうございました。

記事も本も、ぜひ読んでいただけたら嬉しいです~。

読売夕刊「ひらづみ!」23年2月6日に、山本文緒さんの『無人島のふたり』を

読売新聞夕刊の書評欄「ひらづみ!」に、山本文緒さんの『無人島のふたり』について書きました。

山本さんが2021年10月にがんで亡くなられる前の最期の日々につづった日記で、本当に心揺さぶられる一冊でした。この書評も、いつも以上に自分の感情が露わになる内容になりました。未読の方、この記事を読んで興味を持ってくださったら是非読んでみてください。

『自転しながら公転する』も面白かったです。自分の中にある隠しておきたい部分を明らかにされるような、それゆえに、ああ、そうなんだよなあと思い、切なくなるような面白さでした。

共同通信配信の書評記事『寄生生物の果てしなき進化』

少し前になってしまいますが、共同通信配信の記事として、『寄生生物の果てしなき進化』(トゥオマス・アイヴェロ著、セルボ貴子訳、草思社)の書評を書きました。各種細菌やウィルスなど、さまざまな「寄生生物」が進化してきた壮大で驚くべき歴史が見えてくる一冊です。コロナ禍を経たいま、誰にとっても身近な内容なのではないかと思います。興味を持ってもらえたら是非本を手に取ってみてください。共同通信配信の記事なので、多数の地方紙に掲載されました。写真は河北新報掲載の記事です。

読売新聞夕刊「ひらづみ!」『目の見えない白鳥さんとアートを見にいく』(川内有緒著)

読売新聞月曜夕刊 本よみうり堂 の「ひらづみ!」欄の書評コラム、担当7回目(5月30日)は、川内有緒さんの『目の見えない白鳥さんとアートを見にいく』を紹介しました。タイトル通りの内容ながら、いい意味で思わぬ方向に話が展開する、自由さあふれるノンフィクションでした。ほんとにいろんなことを考えさせてくれる一冊です。大宅賞候補にも。

読売新聞書評欄「ひらづみ!」『心はどこへ消えた?』(東畑開人著、文藝春秋)

読売新聞月曜夕刊 本よみうり堂 の「ひらづみ!」欄の書評コラム、担当5回目は、臨床心理士の東畑開人さんの『心はどこへ消えた?』を紹介しました。記事に書いた通りですが、東畑さんの、軽妙ながらも実に考えさせられる文章は、とても魅力的です。前作『居るのはつらいよ』は大きな話題となり、大佛次郎論壇賞も受賞した名作ですが、こちらも本当にいい本です。両方ともぜひ。