差別以外の何ものでもない

先日、近所の知人の店に、妻とともにランチに行った。
その際、カウンターで調理する知人に、飲食店の経営の大変さについて聞いたりする中、インバウンドのお客さんはどのくらいかと聞き、外国人客の話になった時、知人が言った。

「うちは中国人はお断りしてるよ」

全く想像していなかったその言葉に、僕は動揺するとともにすごく残念な気持ちになった。

「彼らはうるさくて常連の客が嫌がるから。これは差別ではないよ」

と知人。彼の人柄的に、たぶん実際、差別してる意識はないのだと思う。でも国籍や人種で一括りにしてお断りというのは、差別以外の何ものでもない。

とても親しいというわけではなく、そして感じのいい彼に対して、なんといっていいかわからなくて、「うーん、中国人にもいろんな人がいますよね。みなお断りというのは……」などとぼそぼそと言うことしかできなかった。

好感を持っている人からこういう言葉を聞くのはなかなか辛く、かつ、それに対して自分なりに納得のいく応答ができなかった自分自身に対しても嫌気がさした。

20年近く前、妻とユーラシア横断の旅中に、グルジア(ジョージア)の首都トビリシで、レストランに入ろうとした時のこと。普通に営業しているにもかかわらず「もう閉店の時間だ」と言われて入れてもらえなかったことがあった。翌日もう一度その店に行き、同じ対応をされたことで差別されていることに気が付いて、怒りが沸き、僕は、その数カ月前にキルギスで一カ月ほど学校に通って身に付けた片言のロシア語で、尋ねた。「僕たちがアジア人だから?」。すると店員は言った。「そうではない」。いや、そうだろう。

あの一つの経験が自分の心に残したものはとても大きい。

『吃音 伝えられないもどかしさ』プロローグ 

拙著『吃音 伝えられないもどかしさ』のプロローグを以下にアップしました。2019年に刊行した本をいまさらですが、興味を持ってもらえるきっかけになればと思い。プロローグだけでもよかったらぜひ読んでみてください。書籍内では人物は実名で書いていますが、ここではイニシャルにしました。(以下の文章は2021年に刊行した文庫版。2019年の単行本版から微修正あり)

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プロローグ

 

T(=書籍内は実名)は、物心がついたころから思うように話すことができなかった。

言葉を発しようとすると、なぜだかわからないが喉の辺りが硬直する。そのまま音を出そうとすると、「ご、ご、ごはん……」のようにどうしてもつっかえる。

幼稚園にも保育園にも通うことはなく祖母の家で育てられた彼にとって、小学校に入るまでは、スムーズに話せなくとも何も問題は起こらなかった。しかし、小学校に入学するとすぐに問題が露になる。皆の前で自己紹介をして、「ぼ、ぼ、ぼ、ぼ……」とどもって話すと、同級生みなが笑ったのだ。Tはそのとき初めて実感した。どもるのは恥ずかしいことなのだ、と。

しかし、話し方は変えられなかった。あらゆる場面で言いたいことが言葉にならず、会話ができない。同級生たちも、そんなTにどう接するべきかがわからなかったのだろう。みなとの距離は少しずつ広がっていった。

学校を休む回数も増え、高学年のころには不登校気味になっていく。格闘技が好きで地元の道場で習い出した柔道も、うまく話せないことが壁になった。練習の前後にみなで整列して挨拶をするが、その掛け声をかける当番にあたる日は、練習を休んだ。また、同級生が通っていたこともあり、不登校になると道場からも少しずつ足が遠のいた。

中学、高校と進むごとに症状は悪化し、高校に入るころには、ほとんど何も話せなくなった。毎朝出欠をとるときに、「はい」という返事がどうしてもできない。なんとか言葉を絞り出そうとしても声にはならず、息苦しさばかり増していく。「は、は、は……」。口元は硬直したまま、気持ちは焦り、ただ身体だけが意思に反してもがくように動く。その姿を不思議そうに見つめる周囲の視線に、強い羞恥心や劣等感がこみ上げる。クラスメートはそんなTに対して、時に、「Tはいませ~ん」などとからかうのだった。

他のことを考える余裕が一切ないまま、毎日が過ぎていった。高校ではレスリング部に入り一年の時は地区の新人戦で優勝もしたが、言葉の問題によって内面が不安定で、やはり続けることができなくなった。

そして高校二年の夏、Tは耐え切れなくなり学校を辞めた。十七歳のときのことである。

 

だが、問題は学校を辞めても解決はしない。思うように他の人と会話ができないことは、彼を社会から遠ざけた。人に話しかけられても思うように答えられず、相手に不可解な顏をされる。言うべき言葉を発せられないためにとりたい行動を断念せざるを得なくなる。そうした経験を繰り返すうちに、社会はいつしか、身を置くだけで不安を引き起こす場になっていった。

病院で診てもらえば対処法が明らかになるというわけでもなかった。その上、問題を他人に理解してもらいにくいという現実が追い打ちをかける。どうすればいいかわからず家にいると、父親になじられた。いったいお前は何をやっているんだと。母親も何も言ってはくれなかった。

出口も光も見えないし、助けを求める先もわからない。これからの先の人生を生きていく意味があるとも思えなかった。そう感じる日々が続く中、Tはいつしか毎日、考えるようになる。

死に、たい、と。

ただ、実行に移すことは容易ではなかった。日々、家を出て近所を自転車でふらふらしたり、近くの神社の境内で一人時間をつぶしたりした。あるいは公園のベンチに座ってゲームをした。何も行動には移せないまま、ただそうしているうちに、一日、また一日と時間だけが過ぎていった。

 

しかし、何カ月かが経ったある秋の日のことだった。ふと気持ちが固まった。Tは一気に動き出した。

 両親と暮らしていたのは、名古屋市熱田区の公団である。三〇棟ほどが立ち並ぶ大きな敷地は、緑豊かな公園に隣接して南北に延びている。その北端に近い一四階建ての一棟の、五階にある一室に、Tたちは住んでいた。

その棟の八階に、通路から格子扉を挟んで建物の外側に突き出た平らな部分があるのを、Tは知っていた。以前にも何度かその前まで行ったことはあった。けれども、外に突き出たその部分を通路から隔てる格子扉を前に、いつもただ立ちつくした。

だがこの日、Tは、その先へと踏み込んだ。狭い階段を上がって八階に着いた後、さらにもう一階上がって九階に行くと、そこからは低い柵を越えれば外側に出られることに気がついた。そして実際に柵を越え、外側から柵を持って少しずつ身体を下していくと、八階の突き出た部分へと飛び降りることができたのだった。

地上に比べて少し強い風が吹きつける中、その平らな場所の端にTは立った。外の広い空間と彼を隔てるものはもう何もない。視線の先には、よく見慣れた郵便局の角ばった無機質な建物と市立体育館の赤い屋根、そして隣接する公園に生い茂る木々がある。しかしそれらの景色も、彼には日々の辛い記憶を蘇らせるだけだった。真下を覗くと、遥か下方に緑の芝生と数本の小ぶりの木が見える。

穿いていたのはいつもの破れたジーンズだった。空は白く曇っている。

いま視界に入っているものが、この世で見る最後の風景になりそうだった。しかしそんな意識を持つ間もなく、ただ彼は、自身の人生から抜け出すことだけを考えていた。

これで、全部、終わる、んだ。

 あと一歩、前に出れば、何もかもを、終わりに、できる。あの、息苦しさや、恥ずかしさも、もうなくなる――。

意識は徐々に鮮明でなくなった。吸い込まれるように一歩を踏み出し、中空に身を任せると、彼の身体は一気に地面に向かって落下した。

 

記憶はそこで途切れている。

すべては終わったはずだった。

 

しかしTは生き延びた。

 

私がTと知り合ったのは、それから十八年が経った後のことだった。

(プロローグ終わり)
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以降、書籍では、Tさんの人生を軸として、様々な当事者たちの物語が描かれます。ご興味持っていただけたら、本書を手に取っていただければ幸いです。吃音がいかに人の人生を大きく左右しうるものか、知っていただけると思います。現在、文庫版は品切れ重版未定となってしまったので、お求めの場合は、単行本をぜひ。

吃音「治療」の歴史について書いた第二章の冒頭も、こちらから読めます。


広島・江田島の、祖父たちが暮らした場所へ

週末に家族で広島に小旅行へ。ならばこの機会にと、広島市のすぐ南の江田島にも行きました。祖父が戦前から終戦時まで、広島・江田島の海軍兵学校の教官をしていました。そのため以前から江田島はなんとなく身近で、いつか機会があればと思っていたのでした。

当時、祖父母とともに一緒に江田島に住んでいた伯父(3年前に他界)が祖父のことを文章に残していたので、これを機に読んだところ、江田島のどこに住んでいたかが詳細に書かれていて、住所はなかったものの、地図から見つけることができました。それは、海軍兵学校の官舎で、しかも調べるとその一帯は、当時兵学校の人たちが住んでいた家の数々がそのまま残っているらしい。島についてまず海軍兵学校の見学ツアーに参加したあと(毎日数回、詳細なツアーをやっていて、誰でも参加できます)、官舎のあった一帯に行ってみました。まさに当時が思い出せる風景が広がっていました。

終戦当時、ここに祖父母とともに住んでいたのは、小学生だった伯父と伯母、5歳の伯父(僕の母は祖母のお腹の中)。伯父伯母の中で唯一いまも存命の、当時5歳だった伯父に、上の写真を見せると、記憶はいろいろと残っているようで、原爆投下の日の記憶を教えてくれました。家の前の坂を下りた橋の下の川で姉たちが洗濯する姿を、石鹸の泡が珍しくて眺めていた。その時にピカドンが襲い、泣きながら家に帰ったのを覚えている、と。またある日は、米グラマンの戦闘機が撃墜され、死亡して運ばれてきた米兵が腰にカメラをつけていたのがとても印象に残っていると。

また、亡き伯父の文章には、写真の奥に見える海、小用港に停泊していた戦艦榛名が爆撃されたころの様子も。戦艦の上に大きな黒いネットのようなものがかけられ、その上に大量の木などが被せられてカモフラージュされていたけれど、小学生の目にもそこに戦艦があるのがバレバレだったと。

自分にとっては歴史の中の出来事だったことが、実際にこの地を訪れ、伯父の言葉を聞き、亡き伯父の文章を読んだことで、血の通う、自分につながる出来事に。

記録を残してくれた伯父に感謝です。

自分の記録まで。

海軍兵学校の祖父が教えていた建物はいまもそのまま。

飯山博己さんの死から12年。飯山さんの事例<国・札幌東労基署長(カレスサッポロ)事件>が『労働法』(弘文堂)に。

今日7月26日は、看護師だった飯山博己さんが、吃音による困難を原因に自死されて12年となる日でした。享年34。その経緯は拙著『吃音 伝えられないもどかしさ』に詳しく書きました。当初は労災が認められなかったものの、不当なその決定に対して、ご家族が諦めずに訴えを続けたことによって7年後に労災が認定されました。

最近、その飯山さんの事例が、労働法の代表的な教科書とされる『労働法』(弘文堂)に掲載されていることを親しい弁護士から聞いて知りました。調べると、この本以外にも、<国・札幌東労基署長(カレスサッポロ)事件>として各所で引用・紹介される事例となっていました。

無念だっただろう飯山さんの死の経緯が、こうして広く法律家などに参照される形で伝えられていくとすれば、つらく悲しい出来事であることは変わらないながらも、せめて、よかったと感じます。飯山さんのご両親とお姉さんが大変なご苦労をされて訴訟を続けてこられ、かつ担当の弁護士の方たちが真摯にこの問題に取り組んでくださったゆえのことです。

自分も、取材をしてきた身として、同じ吃音当事者として、飯山さんのことがこれからも引き続き多くの人の心に残ってほしいです。飯山さんの死と労災認定の経緯については、2021年に、「Web 考える人」に書きました。節目の日に改めて、読んでくださる方がいれば嬉しいです。

100万人が苦しむ吃音 新人看護師を自死に追いつめた困難とは

荻上チキさんのラジオで陰謀論研究の烏谷昌幸さんの話を聞いて思ったこと。

荻上チキさんのラジオで陰謀論研究の烏谷昌幸さんの話を聞いて思ったこと。

烏谷昌幸さんはこう言います。「トランプが嘘を言ってるのはわかってる。でも彼の世界観を支持する」という<陰謀論を抱きしめる人>が多くいると。

その話を聞いて、陰謀論とは少し違うけど、思い出したことがありました。それは20年以上前、インチキ吃音矯正所について調べてる時に、その矯正所に通う女性に言われた言葉です。

「この矯正所がインチキかどうかを調べることはやめてもらえませんか。効果がないかもしれないということは私も感じています。でも、吃音の苦しさをどうすればいいのかを誰も教えてくれない中、ただこのクリニックの先生だけが、『吃音は治る』って言ってくれたんです。インチキかどうかという事実なんかは知りたくありません。ただわたしにとって、クリニックは神様のような存在なんです」

僕にとっては、この女性の言葉が深く心に残ったことが、いつか吃音についてちゃんと調べて書きたいと思った原点の一つです。当時、自分自身吃音で苦しむ中、彼女の気持ちは痛いほど理解できる部分があったからです。

一方いま、世界の現状を見ると、彼女の言葉はより大きな広がりを持ったものとして迫ってきます。ファクト以上に人を惹きつけるものの力がいかに大きいかを改めて感じさせられるし、自分自身、それは人間にとって必要なものでもあるともと思います。そういう物語を信じることで、人間はなんとか生きている部分があるということを痛感します。

しかしそう考えると、陰謀論の前に、ファクトは想像以上に無力かもしれない気がしてきます。「ファクトがこうだ」と言っても決してかなわない力を陰謀論が持っているとすれば、いったいどうすればいいのだろうと途方にくれてしまいます。

烏谷昌幸さんの話を聴いて、そんなことを思いました。

以下よりYouTubeで聴くことができます。
『荻上チキ・Session』TBSラジオ
【特集】根拠のない陰謀論はどこで生まれ、なぜ拡散するのか(烏谷昌幸)

平民金子さん『幸あれ、知らんけど』を読んで思い出した33年前の雪の風景

ご恵投いただいた平民金子さんの『幸あれ、知らんけど』(朝日新聞出版)、読み始めてまだ少しだけれど、本当に柴崎友香さんと岸政彦さんの帯の言葉通りだなあと感じる。数十ページですでに、心の奥に深く沁み込む言葉と風景に出会った。語られるのは、平民さんのお子さんとの日々やコロナ禍での日常で感じたこと、過去の記憶、などなど。お子さんとともに物乞いのおじさんに出会ったときのこと、ドラえもんで描かれる世界を子どもに読み聞かせようとして気づいたこと、海辺の凧揚げはなぜ盛り上がらないか、カレーうどんの汁は飲むべきかどうか……。

毎日ただ同じように過ぎていくだけのような日常の中に、どれだけ生きることの意味を深く感じさせる瞬間があるのかを、気づかせてくれる。そしてその言葉が本当に優しくて、一篇一篇に励まされる。

まだ途中なのだけど、いま読んだ一篇には、平民さんの小学校時代に、先生が授業を中断して雪遊びをさせてくれた記憶が書かれていた。それを読んで、自分もほとんど同じような瞬間があったのを思い出した。

中3の受験前の塾でのこと。冬期講習の時だったように思う。かなり追い込みの時だったものの、雪が降ってきたのを見て先生が「少しだけ雪合戦しようか」としばらく授業を中断して、皆で外にいって遊んだのだ。それがすごく楽しくて嬉しくて、部屋に戻ってから「じゃ、いまから集中してがんばろう」って言われた時に「よし、やるぞ!」という気持ちになったのを記憶している。いまもその塾の記憶と言えば、まずその日のことが思い浮かぶ。

ちなみにその塾は、おそらく現在の中学受験界では最も存在感が大きい感じのS塾(自分は、まだその塾ができたばかりのころの中学部に、3期生として通っていた)。先生はS塾創立メンバーの一人である英語の先生。

いまのS塾は、なんとなく噂で聞く限りでは上記の印象とはかけ離れてそうだけど(実際どうなのかは知らない)、自分にはずっとその時の印象が、その塾のイメージになっている。いい意味で。こないだ東京に行ったとき、その先生が後に開いた別の塾の前を通った。「あ、もしや先生がいるのでは」と、つい中を覗きかけた。

ほんの短い時間でも、ああいう時間を作ってくれたことの価値は本当に大きいと30年以上経って実感する。自分にとっても、そして塾にとっても。

『幸あれ、知らんけど』、昼の休み時に、また続きを読もう。

6月9日(月)夜19時~  NAgoyaBOOKCENTERにてトークイベント<本嫌いだった私がなぜ、本を書く道を選んだか 〜旅、科学、吃音に導かれて〜>

来週月曜日6月9日、夜19時~

名古屋市のNAgoyaBOOKCENTER(特設会場・喫茶リバー)にてトークイベントをやらせていただきます。

<本嫌いだった私がなぜ、本を書く道を選んだか 〜旅、科学、吃音に導かれて〜>

ライター・文筆業を20年以上やってきて、今さらながら、自分はこの仕事に向いているのだろうかと思うことが多い最近です。元々自分は、文章を読んだり書いたりとは最も縁遠い人間でした。

幼少期から大学入学までに読んだ本は通算10冊ほどしかありません汗。高校入試直前の模試の国語は衝撃の625人中598位、偏差値34(忘れられず)。感想文の宿題は、一度読んだ『こころ』で何度も書き、高校時代、『火垂るの墓』の感想文は読まずにアニメだけを見て書いてしまったことも。大学の合格を知った時に最初に思ったことの一つが、これでもう国語の勉強をしなくていい、ということでした。

そんな10代を過ごしながらも、いろいろな経緯から、文章を書いて生きていきたいと思うようになり、その道を選択して現在に至ります。いまでも、やはり自分は書くことが得意ではないなと思うことが多くあり、その一方で「このことを書きたい」という思いも引き続きあり、しかしうまく書けなくて、という日々で四苦八苦してます。

イベントの中では、そんなお話しとともに、各時代に自分が特に影響を受けた本の一部を紹介します。それらの本の写真を、NAgoyaBOOKCENTERの店長藤坂康司さんが撮ってくださいました(下写真)。


初めて最後まで読めた本(中学1年のとき?)、初めて「本って面白いかも!」と思わせてくれた本(大学1)、初めて「自分も書き手になりたい!」と思わせてくれた本(大学4?)、「いつか自分もこんな本が書きたい」といまも思ってる本、などなどです。これらの本も、当日お店にご用意いただいているようです。

名古屋近郊で、ご興味ある方がいらっしゃいましたら、ぜひご検討いただければ幸いです。

(チラシの写真は、吉田亮人さんに撮影してもらったものです)

「郷司さん、今度こそはいいクジラの写真が撮れますように!」

昨日一昨日と放送大学の面接授業「旅することと生きること」を行うにあたって、久々に拙著『まだ見ぬあの地へ』を読み返しました。書いたことをすっかり忘れていた内容もあって、のめりこんで読んでしまいましたが、広く読んでもらえたらなと思う文章も多く、機会を見つけてアップしていけたらとも思っています。

その中で、まずこれをと思ったのが、インドネシアの捕鯨村ラマレラで出会った写真家・郷司正巳さんについて書いた一篇「いつかまたラマレラで」です。郷司さんは、旅の中で出会ったの人の中でも特に、「将来自分も、このような人になれたら」と思った方です。当時自分は27歳で、郷司さんは50歳でした。ラマレラで4、5日くらい一緒に過ごし、またいつかどこかでお会いしたいと思っていたのですが、永遠に叶わなくなってしまいました。自分は間もなく、当時の郷司さんの年齢になろうとしています。果たして自分は郷司さんのような人間になれているだろうか。そう考えながら、読み返しました。以下、その文章です。


いつかまたラマレラで

先日、パソコンに保存されている旅の写真を、通して見返す機会がありました。

二〇〇三年のオーストラリアから順に、膨大な枚数を一枚一枚見ていくと、時に当時の自分の悩みや考えが思い出され、また時に、オーストラリアの強い日差しや、肌に張りつく東南アジアの空気感が蘇りました。そして、東ティモールやインドネシアにいたころの、さあ、これから東南アジアを北上するんだ、という気持ちの高ぶりを久々に追体験していたとき、一枚の写真に写る一人の男性の姿を見て、ふと手が止まりました。

それはインドネシア東部、レンバタ島のラマレラという小さな村の宿の中で撮ったものでした。

男性は、日に焼けた肌を白いTシャツから覗かせて、楽しそうに笑っています。笑い声まで聞こえてきそうなそのにこやかな表情に猛烈な懐かしさを覚えながらぼくは改めて思いました。もう二度と、彼に会うことはできないのだ、と。

 

バリ島から東に向かって飛行機、バス、船、乗り合いトラックを乗り継いで足掛け三日はかかる位置にあるラマレラは、四〇〇年前とほとんど変わらない方法で行われている伝統捕鯨によって知られています。当時、レンバタ島の港から、島の反対側にあるラマレラまでは道もなく、船で島に着いてからは、トラックの荷台に乗って四時間ほど山道を行かなければたどり着けませんでした。電気も通ってない、現代文明とは無縁に見える村でしたが、クジラを捕まえる瞬間を見ようとやってくるぼくらのような外国人旅行者がポツポツといて、そんな旅行者を泊める民家が当時四軒ほどありました。

ぼくらはそのうち、村を貫くメインストリート(といっても、むき出しの石の上を土などで固めただけの細い道なのですが)沿いにある一軒の家に泊まっていました。

白い塗り壁のその家は、入口のテラスに竹でできたベンチがあり、中に三、四つの部屋があります。こぎれいで心地よく、発電機や、おそらく村では数少ないテレビもあったため、夜、村の大部分が暗闇に包まれても、近所でこの家だけは灯りがあり、いつも、複数の村人が奥の部屋に集まってじっとテレビを見ているような場所でした。

 

ラマレラ滞在中、ぼくたち以外の外国人は村に数人しかいませんでしたが、たまたまその一人が日本人の男性で、しかもぼくたちと同じ家に泊まっていました。その人こそが、ぼくが写真の中に姿を見つけて手を止めた人物、郷司正巳(ごうじまさみ)さんでした。

当時ちょうど五〇歳だった郷司さんは、写真家で、捕鯨をする人々の姿を撮影するために、ラマレラを訪れていました。以前ベトナムでも海の民の写真を撮っていて、クジラを捕るラマレラの人々にもまた、長い間興味を惹かれつづけていたようでした。

郷司さんは、温厚で笑顔が優しいとても魅力的な人物で、ラマレラについて思い出すと、いつも彼の顔が浮かびます。だから、二〇一〇年に『遊牧夫婦』を書いていたとき、ラマレラの場面ではぜひ、郷司さんのことも書きたいと思い、久々に彼に連絡を取ってみることにしたのでした。

郷司さんとは、二〇〇四年にラマレラで知り合って以来、半年ほどはちょくちょくメールのやり取りをしていたものの、ぼくたちが中国に住みだした二〇〇五年ころには次第にその頻度も減りました。

それでも彼は、ぼくにとってもモトコにとっても、五年間の旅で出会った中で最も素敵な人の一人だったので、いずれ再会を果たしたいと思っていました。しかしながら、気づくと最後に連絡を取ってから五年もの歳月が経ってしまっていたのでした。

久しぶりにメールを送る前にちょっとでも近況を知れたらと、ぼくは彼の名前を検索しました。あれからまたラマレラに戻ったのだろうか。もしかしたら写真集ができあがっているのではないか。いろいろな想像を膨らませながら検索しました。すると、しかしネット上で見つかったのは、郷司さんの知人らしき人のブログに書かれていた、全く予想もしていなかった言葉でした。郷司さんはその前年、二〇〇九年一一月に、亡くなられたというのです。

享年五六。まだあまりに若く、ラマレラでお会いしたときもとても元気そうだったのですぐには信じられませんでした。しかしブログには、その数年前に郷司さんが大変な手術をされ、闘病されていたことも書かれていました。その文面を読み、掲載されていた郷司さんのさわやかな笑顔を見ながら、ぼくは、ラマレラで過ごした彼との日々を鮮明に思い出したのでした。

 

二〇〇四年の七月のことでした。

郷司さんは、ラマレラで毎日、日本語堪能なインドネシア人ガイドのマデさんとともに撮影に出かけていました。そして夕方、宿に戻ってくると、入り口のテラスに腰掛けて外を眺め、海風に吹かれながら、その日の出来事を丁寧にノートに綴りました。「今日もクジラは出なかったね。明日は出るかなあ……」。そう言って、穏やかに笑いながら。

マデさんはまん丸な顔でいつもけらけらと笑っている、ちょっとおっちょこちょいな二〇代前半くらいの男性で、いつも郷司さんと一緒にいました。マデさんが郷司さんを助け、郷司さんがマデさんをからかいながら楽しそうにしている姿はまるで親子のようでもありました。

ぼくもラマレラについてはあとで文章を書きたいと思っていたため、郷司さんの存在はとても心強いものでした。夕方、彼がテラスにいるときは、ときどきぼくも隣に座らせてもらい、その日の出来事を互いに共有し合いました。そして、時に郷司さんの持っていた資料を見せてもらったり、写真の撮り方を尋ねたり、また、マデさんにはインドネシア語を教えてもらったりするなど、二人にはずっとお世話になっていました。

一方、ぼくが自分たちのこれまでの旅や、今後の計画について話をすると、郷司さんはいつも、「うん、そうかー。へえ、すごいなあ」と熱心に聞いてくれました。自分よりも二〇歳以上年長で、ずっと多くの経験をされていながら、偉ぶったりすることは全くなく、とても真摯にぼくたちに向き合ってくれるのです。そんな彼の姿を見てぼくは、自分も五〇代になったら郷司さんのようにありたいと思うようにもなりました。

そのような人だったので、ぼくはつい、「写真家として生活していくのは大変ではないんですか?」 などと不躾なことも聞いてしまったりしたのですが、そういった問いにも郷司さんは、「そうだね」と言いながら丁寧に答えてくれました。家族のことなども話しながら、「楽じゃないけど、まあ、なんとかやってるよ」と、日焼けした黒い顔にしわをよせて苦笑いします。その表情を見ていると、たしかに楽ではないのかもしれないけれど、写真を撮ることが本当に好きなんだろうなと感じられ、彼の、写真と正面から向き合って生きる姿にぼくは強く惹かれていったのです。

ぼくは、自分が旅をしながらライターとしてひとり立ちしようとしているものの、悪戦苦闘していることを郷司さんに話しました。細々と仕事はしているけれど、これで将来生計を立てられるイメージはまだ全く見えてこない。本当に食べていけるようになるのだろうか。でも、がんばりたいと思っている、と。

そんな自分に郷司さんは「大丈夫だよ」などと言うことはありませんでした。ただ、優しく笑いながら、「二人の生き方は羨ましいよ」と言ってくれたように記憶しています。ぼくはそんな言葉に、がんばろうと励まされたり、また、ライターとしてどうなるかは別としても、郷司さんのように素敵に年をとっていきたいな、と思ったりしたのでした。

 

そうして、一日一日と滞在を重ねる中で、ある日、彼にとても不運なことが起りました。

その日は土曜日で、ラマレラでは「バーターマーケット」すなわち物々交換の市場が開かれる日でした。ここではクジラは、単に村人の食料となるだけではなく、その肉は貨幣としても使われていました。すなわち、男たちが海へクジラを捕りに行くのに対し、女たちはクジラ肉を担いで山に行き、クジラ肉を、山の民が育てたトウモロコシなどの農作物と交換するのです。

ぼくはその日、風邪をひいて体調が悪く、残念ながら市場を見に行くことはできなかったのですが、昼ごろ、宿でごろごろと休んでいると、朝から市場に行っていた郷司さんが戻ってきて、「いやあ、やっちゃったよ……」と、苦い顔をしてこう言いました。

「カメラ、落としちゃったんだ、海に……。市場からの帰り、山道は大変そうだったから、船で回って戻ってきたんだけど、船から下りたときに足滑らせちゃってね。カメラごとドボンだよ……」

ニコンのカメラが二台、そしてレンズもすべて水没してしまったというのです。

山道を歩いて帰るガイドのマデさんに預けようかと思ったものの、まあ大丈夫だろうと自分で持ってきてしまった。それが間違いだったよ、とすごく残念そうにしていました。写真家にとってこれ以上ないやりきれない展開に、ぼくはかける言葉が見つかりませんでした。

その後も郷司さんは、苛立ったりすることはなくにこやかなままでしたが、多大な労力と費用をかけてラマレラまで来ていたために、さすがにショックは隠しきれないようでした。「いやあ、本当にバカなことをしてしまったよ」と繰り返し、時折悔しそうな表情を見せました。そしてほどなく、こう言ったのでした。

「これでクジラが出たら悔しくてやりきれないから、もうぼくは帰るよ」

ある意味当然な決断かもしれないと思いつつも、彼がラマレラを去ってしまうことをぼくはとても寂しく思いました。

別れるとき郷司さんは、笑顔でぼくたちに言いました。

「来年、きっとまたラマレラに戻ってくるよ!」

 郷司さんとマデさんがラマレラを出発した日、ぼくは早朝から船に乗り、漁に同行しました。クジラに出会うことはなかったものの、イルカの大群に遭遇し、まるで哺乳類同士の闘いといえる瞬間を経験することになりました。その圧倒的な興奮がさめやらないその翌日、ぼくらもラマレラを去りました。

帰り際にモトコは、郷司さんが来年戻ってきたときのためにと、宿のゲストブックの小さく空いたスペースに、短いメッセージを残しました。

「郷司さん、今度こそはいいクジラの写真が撮れますように!」

しかし、その後郷司さんがラマレラに戻ったのかどうかは、ついに知ることのないままとなってしまいました。

 

郷司さんについては、『遊牧夫婦』の本のベースとなったウェブ連載には書いたものの、結局本の中には収められず、ずっと心残りがありました。だから今回、久々に彼の写真を見て思い立ち、この原稿を書くことにしました。

彼の闘病期には、友人たちによって「郷司正巳さんを支援する会」が立ち上がり、彼を支えていたようでした。郷司さんの人柄を思い出すたびに、そういった仲間を持ちうる人であっただろうことがすんなりと理解できました。そしておそらく、郷司さん自身もまた、多くの人の支えになってきただろうことを想像しました。ぼく自身、郷司さんから、いまもずっと心に残る、優しさや寛容さを教わったのです。

旅の一番の醍醐味は、人との出会いだと思います。互いに全く異なる人生を歩んできたもの同士が、未知の土地で、偶然に人生を交錯させる。そしてその短いひとときが、何らかの形で互いの人生に影響を残し合う。郷司さんを思い出すたびに、まさに旅でのこうした出会いが、いまの自分の大きな部分を作り上げていることを、ぼくは実感するのです。

                                    (2014.11)

「偶然」に身をゆだねる

「旅と生き方」に関する講義を、かれこれ13,4年、大学でやっています。

毎回テーマがあり、それに沿って映画やドキュメンタリー映像などを数十分見てもらい、それに自分の経験などを重ねて話すことで授業を構成しています。
(授業の概要についてはこちらに詳しく書いてます)

学生から<死とかが関わる話が多くて、毎回テーマが重い、、>という声があったこともあり(笑)、先週、少し趣向を変えて、「旅と出会い」というテーマにして、自分の過去の話(28年前(!)の妻との出会いの話)をして、「ビフォアサンライズ」の最初の30分くらいを見てもらいました。「偶然」がいかに人生において大きな意味を持つか、ということを伝えたく(自分たちの話を、ビフォアサンライズのジェシーとセリーヌに重ねるのは恐縮すぎるのではありますが笑)

150人前後くらいの受講者に、毎回感想を書いてもらっているのですが(その中の3,4つくらいを次回に共有)、「ビフォアサンライズ」について、<たまたま電車で出会って一緒に降りて旅をするとか、そんなことあるのかと驚いた>などといった感想がとても多くて新鮮でした。

学生たちの反応を見て、「偶然」が人生の中で果たす役割がかつてに比べてぐっと小さくなっているのだろうなあと実感。店を選ぶのでも、電車に乗るのでも、あらゆることを事前に予測したうえで行動するのが当然となっているいまの時代には、なるほど、それはそうだよなあとも思います。

だからこそ「ビフォアサンライズ」や僕の過去の話を、思っていた以上にみなが驚き、楽しみ、偶然の持つ意味を考えてくれたように思いました。学生たちにこのテーマの話をしてよかったです。

予測することができない人生の余白部分、そしてそこに入り込む偶然に身をゆだねることによって、人生は豊かに広がっていくのだろうなと改めて感じました。

ちなみに、授業をするにあたって「ビフォアサンライズ」と「ビフォアサンセット」を久々に見直して、このシリーズのすばらしさに再度打たれました。本当に名作。見てない方はぜひ!

『IN/SECTS vol.18』の不登校特集(「THE・不登校」)に寄稿しました。

現在小6次女の不登校状態が始まってからかれこれ7年(保育園時代から)。

基本的には自分も妻も、無理に学校に行かなくても、と思う方でしたが、しかし、これだけ長くこの状況下の娘を見るうちに、決してそう簡単には割り切れなくなってきました。日中、家にずっと1人でいて、ほとんど誰ともコミュニケーションを取らず、身体もほとんど動かさずにこの発育期を過ごしている姿を見ていると、やはりなかなか心配ではあります。

いまは週に1,2回、本人が今日は行ってみようかな、という気分の時だけ(あとは家でオンラインで参加したりしなかったり)、僕か妻かが娘と一緒に学校に行き、教室の外に椅子を並べて2人で座り、廊下から1時間くらいだけ授業を聞いて、また一緒に帰ってくるという日々です。

この7年間、本当にいろんな状況を経て、いまはそんな状態にあります。自分自身も、おそらく娘も、様々な気持ちの変化を経てきました。

『IN/SECTS vol.18』の不登校特集にて、機会をいただき執筆しました。正解も出口も見えない現状について自分がいま思うことを、本人の許可を得て、書きました。そしていまの自分の娘への向き合い方につながってる、自分自身の小学校時代の忘れられない思い出を。

特集「THE・不登校」、多様な執筆者が、いろんな切り口から不登校について書いていて、とても充実した特集になっています。ご興味ある方はぜひ。
『IN/SECTS vol.18』の詳細・目次はこちらから
https://insec2.com/in-sects-vol-18

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昨日(今日はオンライン参加)も1時間目の途中から娘と一緒に学校に行き、教室の扉の前に椅子を並べて国語の授業を廊下から聴講。いつもならその時間だけで帰るのだけれど、昨日は少し気分が乗ったのか、次の算数も廊下から参加。
そして3時間目の総合の時間はみなで畑づくりをするとのことで、友達らが「一緒にやらない?」、って声をかけてくれて、その時間も参加することに。結局その時間も、遠くから2人で眺めている感じだったけれど、僕の仕事の関係で帰らざるを得なくなった11時くらいまで滞在し、下校。これだけ長くいたのは1年以上ぶりくらいかも…。

先生もクラスメートもいつも本当に温かく、程よい距離感で娘に接してくれて、そのことはとてもありがたく、娘も自分たちも、いつもみなに助けられているなあと感じます。

NHKラジオ第2で、NHKカルチャーでの講座を放送。3月16日夜です。

1月に青山で行ったNHKカルチャー講座の内容が、1時間ほどに編集されて、明日16日の夜20時から、ラジオNHK第2で放送されます。

https://www.nhk.jp/p/rs/GPV3P86GMP/episode/re/ZN57QQ1XL2/

講座の費用がまあまあしたので、誰も来なかったらどうしよう…と不安な気持ちで臨んだ講座でしたが、思って以上の方に来ていただきみなさんに熱心に聴いていただけたおかげで、自分なりに充実したお話ができました。

トランプ就任前だったので、それと関連する辺りがラジオではどう編集されているかわかりませんが、演題は以下です。

旅することと生きること

ーー寛容さが失われそうな時代にーー

よろしければ。

来週再放送、オンライン配信もある感じです。

朝日新聞の言論サイト「Re:Ron」に寄稿  <「1%のリスク」と「99%のいい出会い」 旅で考えた警戒心と分断>

朝日新聞の言論サイト「Re:Ron」に寄稿しました。

「1%のリスク」と「99%のいい出会い」 旅で考えた警戒心と分断

分断が進み、信頼し合うことが難しくなりつつある今だからこそ、信頼し合うことの大切さと可能性について改めて考えたいと思い、書きました。<信頼こそが人を幸福にする>という事実は、心に留めておきたいと最近切に思います。

荻田泰永さん『君はなぜ北極を歩かないのか』読了 「旅とは、憧れだ」

冒険家の荻田泰永さんが書いた『君はなぜ北極を歩かないのか』(産業編集センター)読了。 12人のバックグラウンドの異なる若者(+写真家)を引き連れて、北極圏600キロを踏破する物語。荻田さんと若者たちが、それぞれに葛藤し、真剣にぶつかり合い助け合いながら極限の環境を歩く様子に、とても心を打たれ、気持ちを揺さぶられた。

最近、ある大学の先生が、高校生への講演の中で、「自己紹介をするときは、自分がどう相手に役に立つ存在かを伝えなければいけない。そうでなければ相手に興味を持ってもらえない」と話していた。それを聞いてものすごい違和感を持ったのだけれど、荻田さんが本書に書いている言葉の中に、まさにその逆とも言えることがあった。役に立つかや意味があるか、ではなく、「やりたい」という個人の衝動とその結果の行為自体に価値がある、社会はそれを尊重する場であるべきだ、といったことが、とても説得力のある形で書かれていて、本当にそうだなあと思った。なぜ冒険をするのか、なぜ北極へ行くのか。最後まで読んですごく腑に落ちた。

そういったことを、この極限環境の中で若者たちに全身で伝える荻田さん、それに食らいついて600キロを歩き抜いた若者たち、そして撮影しながら両者を結びつける重要な役割を果たす写真家の柏倉陽介さん、全員に圧倒された。参加者の中の4人が本書の最後に寄せている振り返りの文章もそれぞれよかった。荻田さんのあとがきにあった言葉「旅とは、憧れだ」がずっと心の中を漂っている。

興味もたれた方は是非読んでみてください。

いま、不登校についてのエッセイを書いていて

ある雑誌が不登校の特集を組むとのことで、執筆を依頼され、長らく学校にあまりいかない次女について書いている。娘のことを書くのは久しぶりで、どう書こうか考えながら、昨夜から、以前(2013年春から約7年間)娘たちについて書いていた連載の記事を読み直している。思い出してちょっと泣けてしまったり、いまの娘の姿とつながりふと心があったまったり。自分の娘のことだからなのは間違いないけど、興味持ってもらえる人もいるかもと思って、ひとまず最終回だけ貼っておきます。連載していたウェブ媒体がなくなってしまい、いまはどこにも公開されていないので、それももったいないかなと。よろしければ読んでいただけたら嬉しいです。

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積水ハウスオウンドメディア「スムフムラボ」掲載の連載記事
《劇的進行中~”夫婦の家”から”家族の家”へ》

最終回 「書くこと」は「子どもと一緒に生きること」(2020年秋ごろ掲載)

 この欄で3ヵ月に一度、成長する娘たちの姿と、父親としての自分自身について書き始めたのは、いまから7年前のことである。
 それはちょうど、今年7歳になった次女が、生まれたばかりのころだった。この連載は、その当時から現在に至るまで、2人の娘がどう成長したかを季節ごとに振り返るきっかけをつくってくれる大切な仕事であり続けたが、それが、今回で最終回となることを告げられた。

 読者の方から嬉しい感想をもらうことも時折あったし、振り返ると家族についての貴重な記録(あくまでも父親としての自分の視点からのものではあるが)にもなっていた。そして勝手にいつまでも続いていくような気持ちでもいたので、唐突に終わりがやってきたことを知り、驚き、残念に思った。ただその一方で、少しほっとした気持ちが沸いてきたのも確かだった。もしかすると、ちょうどいいころ合いなのかもしれないな、とも思ったのだ。


 長女は昨年10歳になった。今年で小学5年である。当然のことながらだんだんと自立した一人の人間らしさが増している。ほっとした、というのは、最近その長女について、自分がどこまで自由に書いていいのかという点で、だんだんと複雑な気持ちを持つようになっていたからだ。

 以前にも少し触れたが、長女は、あまり自分のことを人にさらけ出したくないタイプに見える。人前に出て目立ったりすることを好まないし、自分が考えていることを人に知られたくないと思っていそうな節もある。そうであるとすれば、やはり娘のその気持ちは、尊重しなければと思っている。

 ある程度の年齢までは、親の判断で子どもについて書いたり報告したりすることは、基本的には許されるだろう。それがいくつぐらいまでなのかは、はっきりとはわからないが、長女の様子を見る限り、小学校高学年ぐらいからは、その範疇を超えるのかもしれないなと感じている。

 そんな思いから、父親として自分が勝手に書いていい娘たちの物語はそろそろ終盤に近づいているのかもしれないと最近思うようになっていた。この連載を始めたころの気持ちを思い出せば、そのような時期がもう訪れてしまったことに驚かされ、寂しくもあるけれど、でもそれゆえに、この連載を終えなければならないと聞いたとき、それはそれでよかったのかもしれないと感じたのだ。そして自分にとってはこの連載の終了が、これから娘たちが自分自身で歩いていく様子を遠くから見守るための、一つの節目になるのかもしれないな、と思っている。

 7年間、子どもたちの幼少の時代をこのようなコラムに書き残せたのは、とても幸運なことだった。自分自身、娘たちの気持ちを想像しながら書き進めていく中で、少なからぬ発見があったし気づくことがあった。またいろんな方に読んでもらい、さまざまな感想をもらえたことも、自分の子どもとの向き合い方に影響した。つまりぼくは、3カ月ごとに子どもとの日々を振り返って文章化することで反省したり考えたりする機会を得ながら、子どもたちと生きてきたような気がするのだ。その日々を、読者の皆さんや関係者の方々に見守っていただけたことを、とてもありがたく思っている。そして今回、その最後の機会として、以下に娘たちの近況をお伝えして、連載を終えたい。


 小5の長女、そよは、背もだいぶ高くなり、妻と服を共有したりするようになっている。内面はまだまだ幼いけれど、容易に言うことをきかなくなっている様は、反抗期の到来が近いのを感じさせる。その姿に、ああ、これから大変な時期が来るのかな、と思うとともに、着実に成長しているんだなとも実感する。そんな彼女の姿を見て、なぜか時折、大人になった娘に助けられたり励まされたりする老いた自分を想像したりもしてしまうが、いや、その前に思春期の娘と対峙する、おそらく自分にとってはハードな時期がやってくる。まずはその時期を、ちょっと覚悟しながらも楽しみに待ちたいと思っている。

 一方、次女のさらは、今春、小学校に入学した。この連載にも度々書いてきた通り、彼女は保育園に行けない時期が長くあった。その上、コロナ禍によって入学直後に長い休みに入ったということもあり、スムーズに小学校生活を始められるのかが心配だった。そしてその懸念通り、6月の学校再開直後の日々は、なかなか困難なものとなった。

 行きたがらない日が続き、玄関で泣くのをなんとか学校まで連れていっても、校門の前で「中には入らへん!」と激しく抵抗したりする。ある日は、門の辺りまで迎えに来てくれた先生が「あとは任せてください」と、少し力を入れて彼女をぼくから引き離そうとすると、「むりやりはしない、っていうたやろ!」と、ものすごい力でぼくの体を叩きながら、必死な形相で泣き叫んだ。そんな娘に、無理やり先生に引き渡したり突然いなくなったりはしないという保育園時代からの約束は絶対に破らないからと改めて告げて、ぼくは彼女を教室まで連れていき、廊下から見守ったり、教室の端っこに座らせてもらって眺めたりした。

 その日、さらは休み時間ごとにぽろぽろと涙をこぼしていた。また他の日には、半日ずっとそばにいないといけなかったこともあって、これからどうなるのだろう、とそのころは思った。しかし彼女は、何日か一進一退を繰り返すうちに、慣れていったようだった。学校が始まって3週間ほど経ったころには、すっと行ってくれるようになったのだ。短い夏休みを経て、8月後半から2学期が始まると、しばらくはまた、週に一回くらいのペースで教室までついていかないといけなかったが、それもまた落ち着いた。その後も毎日のように、学校に行きたくないとは言うものの、なんとかかんとか通っている。そしてすでに10月に入った。

 このままスムーズに通い続けてくれたらいいな、と思う。でも、また行きたくないという時期が来るのも想像できるし、いずれそのような時期がやってきて本格的に行かないということになれば、その時はまた、さらの気持ちに向き合おうと思っている。いやむしろ、いまは平穏に過ごしているそよの方に、今後大変な時期がやってくるのかもしれない。ただいずれにしても、そんな時にはきっとまた、この連載に書いた文章を読み直し、どうするべきかを過去の自分に問うことになるような気がしている。

 そして願わくばこの一連の文章が、自分自身にとってのみならず、誰かにとっても、何かのきっかけでふとしたときに読み返したいと思うものになっていれば嬉しく思う(各コラムは、今後もアーカイブとしてこのサイト上に残してもらえるそうなので…!<→数年前にサイトが閉鎖に:2025年1月追記>)。


 連載の初回に書いた、長女が生まれた日は、さすがに昨日のことのようではない。しかし、10年も前とも思えない。月並みだが、本当に子どもの成長は早く、一緒にいられる期間も決してもうそんなに長くはないと感じている。それは親としては寂しいことでもあるけれど、でもいずれ、娘たちが自分たちの保護下を離れて自らの道を歩き出す日が来たときには、2人がそれぞれ、安心して前に向かっていけるように、力強く背中を押してあげられる存在でありたいと思う。彼らがどんな道をたどるのかは、いまは全くわからない。そしてその、先が全く未知であるということの素晴らしさを、40代も半ばに入ったいま、心より感じている。

 いつか娘たちがここに書いた文章を読むことがあるとしたら、彼女たちはいったい何を思うだろう。幼いころのことであるゆえに、彼女たちの記憶にもなく、「ああ、そういうことがあったのか」という感想だけで終わるのかもしれないが、もしかしたら彼女たちは、この一連の文章の中に、自分たち自身以上に、父親であるぼくの姿を見るような気もする。お父さんは自分に対してこんなことを感じていたのか、そうかあの時、こんなことを思いながら自分と接していたのか……、と。父親としてのささやかなエゴを書き記しておくとすれば、そのとき、「ああ、お父さんは、お父さんなりにいろいろ考えてくれてたんやな」などと、思ってもらえたら嬉しいな。

 また最後にもう一点付け加えておきたいが、本連載では、妻については必要以上に書かないようにした。彼女もまた、あまり書かれることを望まないからだ。それゆえに、子育てに関してなんだか自分ばかりが色々やっているように読めてしまった部分もあるかもしれないが、当然のことながらそんなことは全くない。娘たちはいつも母親にべったりだし、この一連の文章で書いた風景の隣には、常に妻の姿があるということを念のために記しておきたい。妻がいつも娘たちを気にかけ、彼女たちにさまざまな指針を示してくれることをありがたく思う。

 連載を読んでくださった皆様に、心より感謝申し上げます。長い間、ありがとうございました。それぞれの方にとって、わずかにでも記憶に残る言葉が書けたことを願いつつ。
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1月10日金曜日(19:00~20:30)にNHKカルチャーで。「人間を考える」【近藤雄生】<スズケン市民講座> ~旅に学ぶ~

今年も残りわずかな段階で、年始の告知を失礼します。

1月10日金曜(19:00~20:30)に、NHKカルチャー の講座でお話しさせていただくことになりました。~旅に学ぶ~というシリーズの中の1回として登壇します。

「人間を考える」【近藤雄生】<スズケン市民講座>

~旅に学ぶ~

https://www.nhk-cul.co.jp/programs/program_1298747.html

テーマが大きすぎて恐縮してしまいますが、聞いてよかったと思っていただける内容にできるように力を尽くします。

受講料は講座通じて共通の価格なようですが、自分などの講座にこの価格はチャレンジングかと…。誰もいない教室で一人で話している図がすでに思い浮かんでしまってます汗。ご興味ある方がいらっしゃったら、ぜひ来ていただければものすごく嬉しいです。

一方、学生さんは無料とのことですので、躊躇なくぜひ!笑

「旅と生き方」をテーマに長年大学の講義で話していることのエッセンスを凝縮してお伝えできたらと思っています。

申し込みは、上のリンクよりしていただけるようです。

どうぞよろしくお願いします!

自分がどんな本を読んできたかについて、京都新聞で記事にしてもらいました

今朝(12月17日)の京都新聞に、これまで読んできた本について、広瀬一隆記者に取材してもらった記事が掲載されました。若い頃、本を読まずに来てしまったけど、大学以降に読み出して、以来出会ってきた本に改めて自分が動かされてきたなあと感じます。

記事の中で触れている本は、登場順に、立花隆『宇宙からの帰還』『脳死』『田中角栄研究全記録』、遠藤周作『深い河』、沢木耕太郎『深夜特急』『敗れざる者たち』、サイモン・シン『フェルマーの最終定理』、角幡唯介『空白の五マイル』。登場する作家は、上記以外には旅中に読む機会がちょくちょくあった作家として、清水一行、村上春樹、ポール・オースター。

立花隆さんは当時大学にいらしたこともあって身近で影響を受けたし、沢木耕太郎さんは記事にもある通り、旅に出る直前に電話をくださって、それが旅中に挫けそうになってもなんとか書き続けてこられた要因の一つでもあり、深い感謝。

また、旅中に安宿に置いてある本は傾向があって、当時(2000年代半ば頃)よくあって結構読んだのが、清水一行、渡辺淳一、村上春樹作品とかだった記憶。清水一行の経済小説はよくあって、当時けっこう読んだ。渡辺淳一も。ちなみにポール・オースターは、日本語の本に出会う機会も少なくなってたヨーロッパ滞在時に原著の『ティンブクトゥ』を確かポーランド古本屋で買って読んだ。当時は英語の本でも、読めるというだけでありがたかった。スマホなかったもんなあと当時の気持ちを思い出します。

村上作品は読んだ土地となんとなく記憶が結びついていて、『ノルウェーの森』は暑かったインドネシア・バリのカフェで、『ダンス・ダンス・ダンス』はマイナス10度くらいの真冬のキルギス・ビシュケクの宿でストーブの前で、訳書の『心臓を貫かれて』はユーラシア横断初期の北京近くの町の宿で、それぞれ読んだ記憶が蘇る。

本と人生の記憶は繋がっているなあと再確認させられました。ちなみに『吃音』を書いてからは重松清さんの作品にも強く影響を受けるように。その重松さんの作品は、一年暮らした中国・雲南省昆明で『流星ワゴン』を読んで心打たれたのを思い出します。

広瀬さん、ありがとうございました! 

記事に掲載してもらった本棚の写真も追加しました。

ちょっと気になってふらっと隣のおばあちゃんを訪ねたら

親しくしている隣のおばあちゃんの姿を最近見ないので気になって、今朝、東京土産を持って訪ねたところ、とても元気にしていたうえに、驚きの話が。1944年にフィリピンのレイテ島で戦死した、おばあちゃんの従兄弟である元プロ野球選手の天川清三郎さんが亡くなった時に持っていた日章旗が返ってきたとのことでした。そして、ちょうどその返還式がその前日にあって、新聞に記事が出たところだったんです、と。

平安中から入団し1年半でレイテ島へ 戦死した南海元選手の日章旗、遺族に返還
(リンクは産経新聞(↓はこの記事のキャプチャ画像)。おばあちゃんが見せてくれたのは京都新聞だったけれど、見られないので産経の記事を)

この日章旗を持っていたのは、天川さんを撃ったアメリカ兵の孫。

レイテの村で天川さんとばったり出会ったそのアメリカ兵は、天川さんと同年代。互いに戦うような状況でなかった中、出会って互いに少し間を置いてから「しかし敵だ」と思い、彼を撃ったと。そしておそらく複雑な思いで、天川さんの所持品の中の日章旗を取り出して、いつか遺族に返そうとずっと持っていたようでした。そしてそれから80年が経ち、そのアメリカ兵の孫が、日章旗の遺族を探し続けていて、今年になっておばあちゃんがその報道を知って、返還されることになりました。

たまたまぼくがおばあちゃんを訪ねた日の前日(12月5日)がその返還式で、日章旗と米兵の孫から手紙を見せてもらいました。手紙には、その米兵もまた、野球をやっていて、大リーグの入団テストを受けたりしていたことも書いてあった。いまであれば、大リーグの舞台で勝負していたかもしれない二人が、たまたまレイテの村で出会って、互いに全く知らないながら、敵だからということで殺し合わなければならなかったことの不条理さは、戦争の悲惨さや愚かさをよくよく感じさせてくれます。

殺してしまった天川さんへの複雑な思いをおそらくずっと抱えて日章旗を大切に保管し続けていた米兵と、遺族を探し続けたその家族の思い、そして、「92歳になってこんなことがあるなんて、本当に生きててよかった」と満面の笑みを見せたおばあちゃんの姿に、本当に胸がいっぱいになる朝でした。

シャワーの修理を頼んだら、やってきた業者がやばかった

10日ほど前の夜、浴室のシャワーが急に全く出なくなった。自力で直すのは無理そうだったので、夜中、ネットで見つけた24時間対応の業者に連絡した。すると翌日電話が来て、夕方、提携先だという大阪の会社から3人の男性がやってきた。

早速見てくれたところ、「本体交換が必要です。製品10万、工賃2万、税込で132000円になりますが、製品を発注していいですか」とのこと。そんなにするのかと思いつつも、他に選択肢はなさそうだったので、仕方なく発注をお願いした。しかし彼らが帰ったあと、「もっと安い業者があるんじゃない?」と妻。改めて調べてみると、同じメーカーの製品は、高くでも5万くらい。10万もする製品など見当たらない。

そこで、家の建築業者と繋がりのある他社に尋ねると、本体交換+工賃で4万円台でできるという。10万円することはないだろうとのこと。これは怪しいなと思い、家に来た業者の男性にすぐ電話して、半額以下で見つかったのでキャンセルしたい旨を伝えた。すると男性は言った。「火災保険入ってますか?入ってたら、転んでぶつかって壊れたことにすれば保険おりますんで」。いきなり詐欺の誘いとなり、だいぶやばい業者だったかもしれないと気が付いた。結局、新たに頼んだ修理屋さんに来てもらったら、本体交換の必要はなく、部品交換だけですみ、工賃込みで14000円ほどですっきり直った。

ネットで見つけた「最短5分で対応」「出張費・お見積 0円」を売りにしている”水道修理屋”に連絡してやってきた業者です(サイトは、水道修理で調べるとたぶんすぐに出てきます)。来たのは爽やかな人たちで、僕もうっかり騙されるところでした。その日も大阪から、滋賀、宇治を回ってうちに来たと言っていたので、なかなか繁盛してそうで、騙されている件数もきっと多いはず。どうぞご注意を!

20年の節目の年に

『遊牧夫婦』の旅で最初に住んだのは、オーストラリア西部の小さな町バンバリーでした。半年暮したこの町では、イルカに関するボランティアをしながらゲストハウス(Wander Inn Backpackers)で働かせてもらっていたのですが、その時のゲストハウスのマネージャーで、僕らの"上司”だったマークが来日し、京都へ僕らに会いに来てくれました。

ゲストハウスで働いていたのは2003~04年。04年3月に僕らが、900ドル(当時約7万円)で買った中古のバンに乗ってバンバリーを出発した時以来、20年ぶりの再会でした。

当時ちょうどぼくらと同時期に、宿に住みだして一緒にボランティアをしていたけいすけくんも名古屋から参加。4人で京都で合流し、マークとぎゅっとハグした瞬間、思わずこみ上げてしまいました。

その後マークとは2日間一緒に過ごし、あっという間に別れる時が。20年前の別れ際(↓画像の文章参照)、思わず涙してしまった僕を慰めてくれたマークは、今回の別れ際は、声を詰まらせて笑いながら「泣かないぞ!」と言って、涙を見せないように遠ざかり、遠くから手を振ってくれました。

緑のバンと若い3人の写真は、2003年、バンバリーでの別れの時。長女も写っているのが一昨日の別れの時。

いまも夢だったような2日間。来てくれたマークに感謝。

20年前のマークとの別れの場面(『遊牧夫婦 はじまりの日々』(角川文庫))