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YUKI KONDO WRITER

近藤雄生・こんどうゆうき ライター
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『中国でお尻を手術。 遊牧夫婦、アジアを行く』 7 二十八歳、旅と人生を考える

October 21, 2026

<6 蛆虫とともにうんちが動く?>

7 二十八歳、旅と人生を考える

 ……目を覚ますと、すでに外は明るくなりかけていた。バスは相変わらず、ガタガタ、ゴーゴーと音を立てながら突っ走っていた。そろそろかなと思い、下段を覗き込み、「もうすぐ着くんじゃない?」と小声でモトコに話しかけた。モトコはまだ眠そうにしていた。

 そうしているうちに、車内が慌しくなってくる。朝の冷たそうな空の下には、いくつもの大きな建物が見え始め、走っている車の数も急激に増えてきた。いよいよ昆明にちがいなかった。

 朝七時半ごろ、たくさんのバスが集まる広場にぼくらのバスも入っていった。「プー、プーッ!」とクラクションの高い音がいくつも聞こえ、バスとバスの間には大勢の中国人が歩き回っていた。

 着いたのだ。

 眠気と窮屈さによる疲れを体に感じながら、外に降りると朝の寒さに驚かされた。「ヤバイ、寒すぎる!」と身震いしながら、すぐにバックパックを背負い、少し暖かそうなバスの待合室へと入っていった。そしてそのときぼくは気がついた。

 「あ、今日からもう十二月なんだな」

 もうすっかり冬なのだ。

 そう考えると、必ずしもそれほど寒いわけではないようにも思えてくる。

 冬空の下を突き抜ける大きな通りには車が渋滞し、「ブー! ブーブーブー!」とクラクションが激しく鳴り響く。信号が変わると、無数の自転車がシャーシャーシャーッと一斉に道路を駆け抜けていく。人の吐き出す白い息がモクモクと上がり、朝食らしきものを売る屋台からも豊かな湯気が上がっていた。客引きや商売人の熱気と声が、寒さを吹き飛ばす勢いで響き渡る。

 モトコは、ついに到着したこの町を眺め、

 「昆明、すごい大都会やなあ……。もっと田舎かと思ってたのに」

 と、その大都会ぶりに若干残念そうな顔をした。

 ぼくは、思っていたより都会であることは逆にうれしいぐらいだったが、このときは、その大都会の大通りを走る自転車の数にただただ圧倒されていた。中国は、想像していた通りに中国なのだった。

 それは昆明の町にとってはいつもと変わらぬ十二月の朝にすぎなかったはずだ。しかし、ぼくたちにとっては、新たな日々の始まりを告げる全く新鮮な朝だった。

*

 昆明に二泊した間に、ぼくらはこれからここに住むことをほぼ決定した。すでにそのつもりではあったものの、やはり実際に来てみて初めて、「よし、ここに住もう」という気になれたのだ。

 もともとは雲南省の北隣の四川省の省都・成都(チャンドゥー・せいと)に住もうと思っていたのを昆明にしたのは、東ティモールで仲良くなったスウェーデン人ヨハンの言葉によっていた。

 「成都に住むなら、昆明の方が絶対いいよ。昆明は気候がいいしね。成都はいつも天気がよくないけど、昆明はずっと春みたいなんだ」

 ヨハンはその何年か前に昆明に住んでいたことがあったのだ。雲南省の省都である昆明は、標高約一九〇〇メートルという高地にある。だから涼しく、夏は暑くなく冬も寒くない。天気もいつもいい、という。一方、成都は基本的に雨が多くていつも天気が冴えないらしい。本当にそうだとすれば、確かに昆明の方が成都より魅力的に思えてくる。

 さらにもう一点ヨハンの教えてくれた大事な点があった。正しくいうと、モトコにとって大事なこと。つまりゴキブリ事情である。

 「ゴキブリ? 昆明にはいないよ、そんなの。見たことないよ。標高が高くて涼しいからね」

 「ほんとに? じゃあ、昆明にしようよ!」

 モトコはうれしそうにそう答えた。そうして昆明が第一候補に躍り出たというわけだった。ただ、ゴキブリがいないというのは、まったくの誤解であることが住み出してから判明した。夜道を歩いているとき、排水溝の近くを集団で闊歩するゴキブリの大群を何度も見ることになったのだ。そのたびにモトコは、「あわわわ……」と恐れおののいた。

 いずれにしても、ぼくらは昆明に住むことを決めた。そして、住み出す前の一時帰国に向けてとりあえずいったん昆明をあとにした。

 二十四時間以上列車に乗って中国南東部の広州へ。そして香港へ移動し、一週間ほど滞在したあとに上海経由で成田へと飛んだ。

 

 オーストラリアから中国まで、移動は十カ月弱に及んだ。激しい疲労感を少しばかり日本の空気を吸い込むことで回復させたかった。おそらくこういう機会をつくった方がきっと旅は長続きすることをぼくもモトコも感じていた。ぼくには、一時帰国するにあたってのなんとも言えない不安感みたいなものもあったけれど、家族や友だちと再会できることはすごくうれしいことだった。

 久々に会った友だちの近況を聞くと、みなそれぞれに進展があった。仕事が忙しくなってきた。子どもが生まれた。仕事が変わった。大学を受けなおす。これから海外に行く……。友人の多くが三十歳の手前で、それぞれ、社会人としての経験も積んで、動きが活発な時期だった。

 そんな報告のなかに、友人の死の知らせがあった。週刊誌の記者をしていた高校時代の友人が、少し前に自ら命を絶ったというのだった。

 彼と最後に連絡を取ってからすでに数年がたっていたが、まさかそんなことになっていようとは想像すらできなかった。楽しく陽気だった姿しか思い浮かばない。あいつがなんで……。

 どう受け止めていいのかわからなかった。言葉がなかった。しかし、自分が吃音のことを隠し続けてきたのと同様に、彼にも、周囲には見せない大きな苦悩があったのかもしれない、と思った。

 友人の死によって、ぼくは時間の経過を強く感じた。旅を始めてからまだ一年半がたったにすぎない。しかしその間に、彼はこの世からいなくなった。ぼくに旅に出るきっかけを与えてくれた先輩でもあり同輩でもあったUさん(※)に続いて、あまりにも頻繁すぎる死の知らせだった。

 三十代が完全に視界に入り出したこのころ、いろんな形で、各自の人生がそれぞれの方向に向かって動き出していた。日本社会のシステムを考えると、そう簡単に後戻りできない時期にさしかかっている。それぞれが、自分が選んだ道と真正面から向き合って、これからどうやって生きていくかを真剣に考えなければならない時期に来ていることを、ぼくは友人たちと話しながら実感した。

 そういう流れをほとんど断ち切った状態で、ふらふらと旅を続ける自分たちの生活に不安がないことはもちろんなかった。むしろ不安はいくらでも浮かんでくる。このままでライターとして食っていくことはできるのか。あと何年かした後に日本に戻ってくるとすると、そのとき自分たちは日本で生活していくことができるのか……。

 これからぼくらは中国の雲南省で暮らし始めようとしている。住む場所も決まってなく、何をするかも明確ではない。ライターなどによる収入のメドがたっているわけでももちろんない。そんな状態で、とりあえずその町に行ってから何かを見つけようという自分たちの選択に、ふと弱気になりそうな瞬間もあった。

 しかしその一方、そう思いながらも、中国で暮らそうという気持ちが揺らぐことはなかった。不安材料が無限に頭をもたげながらも、未知の生活が楽しみで仕方なかった。

 それはぼくにとってはもしかすると、二人だったからかもしれない。ときに淡々と、ときに熱く旅を楽しんでいるように見えるモトコの存在は、ぼくにとってとても心強かった。また、日本を出た方が自分にとっては楽にちがいない、という気持ちもあった。そんないくつかの要素が、自分の意識を中国へと向かわせた。

 プラスマイナス両方の気持ちを持ち合わせながら、二〇〇五年の新年を日本で迎えたあと、ぼくらは再び中国へと旅立った。

 関西から沖縄へ飛び、本島と宮古島で友だちに会ってから、台湾へ船で渡った。台湾でさらに別の友人に会ったのちに、香港経由で雲南省昆明へ。

 

 沖縄から台湾、そして昆明にかけてはモトコとケンカばかりしていた。理由らしい理由はいつもほとんどなく、なんとなく不穏な空気が流れ始め、いつしか口をきかなくなる。

 日本に戻ってみて、もう遊んでばかりいられないという気持ちになり、ぼくはどこにいても、何か書かないと、と焦っていた。沖縄では、歩いて感じたことを書いて地元の新聞に投稿し、台湾では隔月連載の次の回をどうするかをずっと考えていた。ケンカが多かったのは、自分のそんな焦りの気持ちをモトコへぶつけてしまったということもあるいはあったのかもしれない。

 おそらくモトコも、日本に帰って家族や友だちの状況を知ることで、きっと何かしら心の揺れがあったのだと思う。

 期待や不安でモヤモヤした気持ちを、ぼくもモトコもそれぞれ抱え、それをぶつけ合いながら、台湾を発ち、香港経由で昆明へと飛んだ。今度こそ、生活を始めるために昆明の地を踏んだ。

 そうして、昆明に戻ってきたその日のこと――。

 ぼくらのケンカは収まるところを知らず、その夜、宿の近くの食堂で晩飯を食べているとき、二人の間で大きな論争が巻き起こり、一気に険悪ムードが頂点に達した。論争の内容は定かではないけれど、とにかくそのあと口をきく雰囲気ではなくなり、ぼくは一人で宿のそばのカフェに行き、モトコは宿へと戻った。

 「フレンチ・カフェ」という外国人が多いらしいカフェに入ると、方々から英語と中国語が聞こえてくる。見ると西洋人が流暢な中国語を話している。昆明にこんなにも外国人がいるものなのかと少し驚きながら、二階に上がり、薄汚れたソファの席で一人コーヒーを飲んだ。そのときふと、もしかしてと思い、ノートパソコンを開いて台湾で買ったばかりの無線LANカードを挿入してみた。するとなんとそこで無線でネットができてしまうではないか。当時ぼくはまだ無線LANなど使ったことがほとんどなくて、カフェでネットできることなんて想像もしていなかった。

 「不思議な世の中になったもんだなあ……」

 そう感じる一方、モトコが言ったように、昆明は想像以上の大都会なのかもしれないと思った。

 とりあえず家が見つかるまで滞在できる宿も決まったし、このカフェに来れば自分のノートパソコンでネットができることもわかった。

 昆明生活、どんなことになるのかわからないけれど、なんだか楽しそうな予感はする。そんな気持ちと中国到着を知らせるブログ記事をカフェで書いて、よし、まずはモトコと仲直りしようと思いつつ宿に戻った。

 帰るとモトコはすでに寝ていた。お互い環境の変化に疲れているにちがいない。明日から生活基盤作りをしないとなと思い、ぼくもベッドにもぐりこんだ。

 ※Uさん……著者が強く影響を受けた高校・大学の先輩かつ友人。二〇〇三年死去。(『遊牧夫婦』参照)

『中国でお尻を手術。 遊牧夫婦、アジアを行く』 6 蛆虫とともにうんちが動く?

September 29, 2026

<5 中国国境の町へ>

6 蛆虫とともにうんちが動く?

 二〇〇四年十一月十六日。

 ビルマからタイに戻った三日目の朝九時、国境の町メーサイからソンテウ(乗り合いタクシー)に乗って南東に走り、チェンセンへ向かった。チェンセンはメコン川のほとりにある町だ。対岸はラオスとなる。

 ソンテウを降りて川の方を眺めると、対岸は濃緑色の木々で覆われていて、川幅は二〇〇メートルくらいはあるように見えた。その茶色く濁った大量の水の上に、「盛達快運」という漢字が掲げられた貨物船が停泊している。船と河岸との間に三本ほど細く頼りない木の板が渡され、数十人の男たちが肩に段ボール箱を三、四個ずつ乗せて、エッサエッサとその板の上を渡り、荷を船に積み込んでいた。この船もおそらくそうだが、その下に広がる水もまた、はるか中国から延々と流れてきているにちがいなかった。

 すべてが中国につながっている。そんなふうに思えてくる。

 その中国の足音に引きつけられるように、ぼくらもチェンセンからチェンコンへとソンテウを乗り継ぎ、翌日、タイ・ラオス国境を成すメコン川を越えてラオスへ入った。

 国境のラオス側の町フエサイで泊まってから、今度はメコン川を走る小さな船に二日間乗って、一大観光地であるルアンプラバンへ。そしてしばらく滞在したのち、バスに乗って北のウドムサイに向かうと、もう中国まであとわずかとなった。

 ウドムサイには、中国が国境を越えて染み出していた。店に入ると何やら中国語でペラペラペラー、と話しかけられる。知っていたわずかな単語を駆使して「中国語は話せません」と笑ってみると、「ああ、中国人じゃないのかい。でも中国語話すんだね!」とさらに中国語で話しかけられるといった具合だった。

 食べるのも毎食のように中華料理。麻婆豆腐、青椒肉絲、小籠包(ショウロンポウ)、あんまん、お粥……。味には当たり外れがあったものの(麻婆豆腐と青椒肉絲はどこにでもあり、どこでもそれなりにおいしかった)、それらを食べるたびに、「お粥は、【稀飯】……シーファンか。あんまんは【豆沙包】……ドウシャーバオ、かな?」と、それぞれの料理の中国語を頭に入れていくように心がけた。

 まだ入国はしていなかったが、気持ちはもう中国だったのだ。

 モトコも、中国に着くのがすごい楽しみだと言っていた。移動続きの日々に疲れきっていた彼女は、まだ見ぬ土地での定住生活の始まりがとても待ち遠しいようだった。

 ただ同時にモトコは、ある不安が徐々に大きくなっていくのを隠さなかった。

 「ああ、これからあのトイレか……」

 強烈にちがいない中国のトイレに、彼女はビビっていたのだ。ビルマのモンラーでついに実物が現れて以来、モトコはかなり深刻に憂鬱になっていた。

 モトコが中国のトイレに初めて恐れを抱き始めたのは、しかしじつは、モンラーで実物を見るかなり前のことだった。

 バンバリーでイルカボランティアをしていたとき、以前中国に住んでいた南アフリカ人ボランティアのジャッキーが、青く輝く海を見ながら、モトコに中国のトイレについて話してくれたことがあった。そのときのジャッキーの描写が頭を離れないというのだ。

 「こんなトイレがあったの。入ると、大きな穴の上に、ただ足を置く貧弱な木の板が二本渡されているだけ。その板の上に足を乗せて用を足すのだけれど、板の下の穴の中は、もちろんうんちでいっぱいなのね。驚いたのは、なんだかそのうんち全体が動いているように見えることなの……。えっ? と思ってよく見ると、うんちの中に大量の蛆虫がうごめいているのがそう見えたの。まるでうんちと蛆虫が一緒になってモソモソと動いているようだったのよ! 本当に気持ち悪かった。板が折れて落ちたらどうしようって思いながら、恐る恐る済ませたのよ……」

 その話を聞いてモトコは、震え上がってしまったのだ。それ以来、中国のトイレといえば「蛆虫とともにうんちが動く」というイメージが染みついてしまっていたのだ。

 もともとモトコは大のキレイ好き。日本にいたころから普通以上に掃除や片付けに余念がないタイプだった。それでも旅に出てからは、案外なんでもいけてしまうことがわかってきて、南京虫やゴキブリがいる部屋でも、十年ぐらい掃除してなさそうなトイレでも、他に選択肢がなければああだこうだで乗り切っていた。

 それでも、中国のトイレだけは耐えられない、と恐れていた。モンラーで見たのは、さすがに蛆虫トイレほどではなかったけれど、汚さは別格だった。しかもドアなし。これから毎回、あんなトイレばかりだとしたら……。

 「まあ、仕方ないよな。たぶん、慣れるって」

 ぼくはそう言ってモトコの気を紛らわせたが、そう言いながら、自分自身も若干気になっていた。ドアなしトイレに慣れる日なんてホントに来るのだろうか? 

 ただもう、そんなこと考えても仕方がない。もう中国は目の前なのだ!

 

 ウドムサイに二泊した翌朝――。

 八時半に乗り合いバスで国境に向かって出発した。バスの中には、ぼくとモトコに加え、カナダ人カップルとオーストラリア人カップルもいた。

 ラオス側のイミグレーションオフィスの前で降ろされたのが十一時半。赤土による汚れでうっすらと赤みがかかった小さな建物で出国審査を済ませ、再び軽トラックの荷台に乗り込んだ。

ラオス側の国境。写真の奥側がラオス

 ここから先はノーマンズランド(緩衝地帯)で、ここを抜けると、中国側の国境に着くのだ。

 ノーマンズランドではすでに大きな漢字表記ばかりが目につく。まだ正式に中国に入国したわけではないのに、もう完全に中国に入ったかのような雰囲気だった。道路もこのあたりからきれいに舗装され、中国へと続いていく。そして五分ぐらいでついに中国の入国審査場が見えてきた。いよいよ中国に入るのだ。

 だが、そこでちょっとした問題が起こった。トラックを降り、運転手に料金を払おうとしたときのこと。運転手はラオスの通貨「キップ」か、中国の「人民元」、または「米ドル」で払うように言ってきたが、ぼくらも、同乗した西洋人たちも、誰も細かいお金を持っていないことに気づいたのだ。

 ラオスキップはみなすでにイミグレーションオフィスのそばで人民元に換えてしまっていたし、また、人民元、米ドルはともに高額紙幣しか持っていなかった。逆に人民元や米ドルでのお釣りを持っていない運転手は、

 「じゃあ、釣りはラオスキップで払うから、その米ドルをくれよ」

 と言う。しかしこれからラオスを出る身としてはそれはありえない。ラオスキップは中国に入ってしまえばただの紙切れ同然となるにちがいなかったからだ。

 国境ではいつもこのような場面で、通貨の力の違いを実感する。国境付近の町では大抵、国力の強い方の通貨は、国境を越えて通貨として機能している。だが、弱い方の通貨は、一度国境を越えるとまったく用をなさない。弱小通貨は、隣国の銀行に行っても決してその国の通貨とは換えてもらえないのだ。

 タイとビルマ、ラオスとタイ、ラオスと中国、ビルマと中国。ビルマチャットとラオスキップは、国境付近だと国内ですら好まれていないようだった。その一方、中国の人民元とタイバーツは、ともに国境を越えても使われていた。

 先にビルマで訪れた中国国境の町モンラーでは、通貨は人民元のみ、言葉も中国語だった。中国という国の強大さは、中国に入らずとも、その周辺にいるだけで感じることができた。国力が、国境線の中に収まりきらず溢れ出ているのだ。だから、これから中国に入ろうというぼくらにとってもまた、ラオスキップは紙切れでしかなかったのだ。

 「わかった、じゃあ、ちょっと待ってくれ。この一〇〇元札をくずしてくるよ」

 ぼくはそう言って、毛沢東が描かれた赤い一〇〇元札を手に、入国審査の場所まで走った。審査を待つ中国人の何人かに英語で話しかけ、一〇〇元をくずしてくれる人を探した。だが、英語はほとんど通じず、また細かい人民元を持っていそうな人も見つからなかった。ただ国境の向こうには、物売りの中国人が複数いたので、彼らなら持っているにちがいない、と思った。

 そしてぼくは、まず無理だろうと思いながらも、国境警備の男に身振り手振りで聞いてみた。

 「この一〇〇元札を細かい人民元に替えないといけないから、国境を越えさせてくれないか」

 するとその警備員は、すぐにぼくの言っていることをわかってくれたようだった。「よし、わかった」という顔をして、何も審査していない自分をあっさりと中国側に入れてくれたのだ。

 それが初めて足を踏み入れた中国だった。国境を越えると、くたびれたシャツとパンツ姿の男たちが何人も寄ってきて、何やら話しかけてくる。言葉はわからないが、とにかく「おれの車に乗れ!」といっているようだった。早口でまくし立てる彼らの大きな声にいかにも中国らしさを感じながら、いや、自分はいまはただ、両替してほしいだけなんだと身体で伝える。すると、「おれも持ってるぞ、おれも持ってるぞ」と大勢が両替任務を果たそうとする。そのうちの一人に両替してもらい、「謝謝!」と言うと、ぼくは警備員にも礼を言って再びノーマンズランドへと走っていった。中国人の警備員は、走り去るぼくをにこやかに見送った。

国境を越えた中国側

 初めての中国を体感して少し興奮しながらモトコたちのところに戻ると、モトコは若干真剣な顔をして、中国に行ったことがあるという西洋人から中国のトイレ情報を集めていた。「イッツ・ファッキン・テラボー!」などという情緒的な情報にもビビらされ、モトコはおののいていた。「やっぱりめっちゃすごいらしいなあ……」。しかしいくら情報を集めてみても、もうこれから出てくるトイレで用を足すしかないのである。

 ぼくは待っていた運転手にお金を払った。そして荷物を持って入国審査の列に並んだ。パスポートにスタンプをもらうと、今度こそ堂々と入国できた。ぼくらはいま本当に中国に入ったのだ。

 

 両替を頼んだ物売りの男たちは、「お、今度こそおれの車に乗っていけよ!」と寄ってくるが、その中から、すぐにでも出発しそうな車を選んで乗り込んだ。

 きれいに舗装された道の脇には、いかにも安普請で玩具のような建物がずらりと並んでいた。これが中国らしさなのだろうかと、ふと思う。そこからまた一時間ほどだろうか、山の隙間を猛スピードで北上していくとモンラーという町に着いた(「勐腊」と書く。もちろん、ビルマのモンラーとは別の町)。

 そしてモンラーで中国最初の夜を過ごした翌日の昼ごろ、昆明行きの寝台バスに乗り込んだ。

 「うわっ、なんでこんなにきれいなんだ?」

 予想に反して内部が新品のようにこぎれいで、ぼくもモトコも口をそろえて驚いた。床はカーペットで、バスの入り口で靴を脱いで上がるようになっている。カーペットにも汚れは少なく、なんだか不思議なぐらいだった。車内には小さな二段ベッドがずらりと並び、それぞれに枕と布団も置いてあるので、ここにみな横になった状態で乗るのだろうと予測がついた。

 それらのベッドがすべて、東南アジア的な雰囲気の肌の黒い人たちで満たされると、バスはゆっくりと街なかから山の中へ向かって出発した。

 「寝ながら行くの、楽でいいな」

 まさに怠慢な自分にはうってつけの乗車スタイルが最初は心地よかった。しかししばらくすると搬送される病人になったような変な気分になってくる。道もカーブが多く、しかも運転が荒いので、途中で酔ってもきた。

 なんだか落ち着かなくて寝たり起きたりを繰り返しているうちに、バスは何時間も走り続け、やがて止まった。運転手が叫ぶ。

 「厠所!厠所! (ツースオ! ツースオ!)」

 お、聞き取れたぞ、トイレだ。と思い、次にいつトイレに降りられるかわからないので、急いでベッドから飛び降りて、靴をはいて外に出る。すでに暗くなりかけているなか、ほかの人たちについていくと、薄汚れたコンクリート壁の中にトイレがあった。モトコも「うわ、すごそうやなあ……」と渋々トイレに向かっていった。

 中国初日だった昨日は宿の部屋のトイレにしか行かなかったけれど、これはいよいよ本場の中国トイレにちがいない。どんだけひどいんだろうと近づくと、半屋外のそのトイレは、まだ中に入る前から強烈な臭いでその存在感をアピールしていた。中に入ると、下半身モロ出し状態の男たちが座って用を足していた。

 ちょろちょろと汚水が流れる地面の上に、円状に複数の穴が掘ってある。円の半径方向には仕切りはあったが、円の外側からは、いままさに排便中という男たちの姿が余すところなく望めてしまう。みなタバコをふかしながら、余裕シャクシャクで力んでいた。

 思えば、他人が大便をする姿をまじまじと見るのは、初めてではないだろうか。その風景に衝撃を受け、また壁にこびりついて黄白色の塊となった尿の凄まじいアンモニア臭に息を止めていると、ブリブリブリ! と目の前のオッサンが豪快な音を立てて排便する。そして、ふぅー、と一息。

 「これはやべえなあ……」

 ぼくはその光景に圧倒された。そしてとりあえず小便だけして、逃げるように立ち去った。

 モトコはトイレから戻ってくると、青ざめ、吐き気をもよおしていた。

 「ありえへん、ほんまにありえへん……。これからずっとこんなんだったらどうしよう……」

 明らかにぼく以上のショックを受けていた。何しろこのトイレが、その後ずっと夢にまで出てきたというのだ。とにかくもうこれは、覚悟を決めないとやっていけなさそうだった。

 しかしその後、今度は「吃飯! 吃飯!(チーファン!)」という掛け声のもとで半屋外の清掃不良な食堂に止まり、寒く暗いなか、黄色い電灯の下で炒飯を食べると、そのおいしさに感激した。さすがだなあ、やはり中国はどこでもこんなにパラパラしたいい具合の炒飯を出すのかなあ、とうれしくなった。

 みなハフハフカチャカチャと音を立てながらかき込むように食事を終えると、すぐにバスに乗り込んでいく。そして、とてもみなが乗り込んだのを確認したとは思えない状態で、「さあ、出るぞっ!」という声が何度か聞こえると、一気にトップスピードとなってバスは暗闇の中を進んでいった。

 

 中国での生活――。いったいどんな日々になるのだろう。いろいろと想像を膨らませ、バスの二段ベッドの上段で体を丸めながら、ぼくは眠ろうとした。すでに夜は更け、いまどんな場所を走っているのかもわからない。でも目を覚ましたら、ぼくらはもう昆明にいるはずなのだ。

 目的の場所に着く、という感慨深さはもちろんあった。同時にそれと同じくらい、着いてしまう、旅が次のステージに入ってしまう、ということへの寂しさや不安感があった。

 真下の段にいるモトコとは、ほとんど何も話さなかった。何を考えているのだろうな、と思い、たまに下段を眺めると、前後の中国人に挟まれて、彼女も身体を小さく丸めながら眠りにつこうとしているようだった。

<7 二十八歳、旅と人生を考える>

In 『中国でお尻を手術。』, 『遊牧夫婦』続編公開

『中国でお尻を手術。 遊牧夫婦、アジアを行く』 5 中国国境の町へ

September 14, 2026

<4 人生最大のコンプレックス、吃音>

5 中国国境の町へ

 バスの中でいろいろと考えているうちに、吃音が意識の中で存在感を増してきてしまった。まったくこういうことばかりなのだ。考えれば考えるほど負のスパイラルに陥ってますます解決は遠のいていく。モトコに話して、

 「まあ、気にしんときやー」

 と涼しい顔で言ってもらって、そうだよな、と無理やり自分に言い聞かせるしかない。そんなときに場所が移動するというのはいい気分転換になる。ぼくらは再び、タイの最北部のメーサイに着こうとしていた。

 バスがメーサイの町から少し離れたバスステーションに着く。降りると目の前には複数のソンテウ(乗り合いタクシー)が客に声をかけながら待っている。その中で、間もなく出発しそうな、人がギュウギュウに乗ったものに、「すみません! 乗せてください」と乗り込んで、町の中心部である国境付近までまた戻った。そして前に泊まったのと同じ「バンブー・ゲストハウス」にチェックインした。

 そうしてとにかく旅は進み、再びビルマとの国境まで来た。ぼくらはこれからビルマに入国する。しかも今度はビザ更新のためではなく、本格的にビルマに入るのだ。

 当初ぼくらはビルマを北上して、ビルマから中国雲南省へと国境を越えようと思っていた。だが、このときはすでにその計画はあきらめていた。

 というのも、ちょうどこの三週間ほど前から、不穏なニュースが入ってきだしたからだ。ビルマの軍事政権内で民主化に積極的なキンニュン首相が拘束・更迭され、首相に近い複数の幹部が逮捕されたらしいというのだ。首相逮捕か、クーデターか、など、情報が錯綜していたが、いずれにしても、民主化を望まない強硬派による政変が起きたようだった。

 しかも気になったのは、この政変らしき動きのニュースの中に、ぼくらが中国へ抜けようとしていた国境の町ムセの名前が出てくることだった。今回の出来事に関連して、ムセで銃撃戦があったとか、そんな情報も目にした。これはまずいな、と思ったのだ。

 もともと、その国境から中国へ陸路で抜けたという話は聞いたことがなく(逆に中国からビルマへ抜けた人はいたようだった)、ネットで調べても、そこは通過できないらしいという声ばかりだった。だが、バンコクでビザを取得するときビルマ大使館で聞いてみると、

 「行ってみないとわからないけれど、ビザがあれば越えられるんじゃないか」

 と、まるで他国のことのような心もとない返事ながらも、越えられそうなことをにおわされたので、じゃあ、とりあえず行ってみようかと考えていた。

 しかし、その町で政変に関連した出来事があったとすれば、しばらく国境が閉鎖される可能性は十分に考えられる。もちろん、それでもかまわず行ってみることもできたのだが、ビルマ国内では外国人には自由な移動が許可されておらず、移動がかなりやっかいなのだ。途中で一部、空路も使わなければならない行程を考えると、メーサイのタイ・ビルマ国境から、ムセの中国・ビルマ国境までは行くのがかなり大変そうで、国境まで行った挙句中国へ抜けられず引き返すことになったら相当面倒な移動になることが予想された。その可能性を考えたとき、無理してその国境を通過しなければならない理由はなかったので、やめることにしたのだ。

 それでも、ビルマへは予定通りに入国した。

 国境となるのは茶色く濁った幅数十メートルほどの小さな川で、その両岸には河にはみ出しそうなほどギリギリまで、白壁の家や木々が並ぶ。その上に架かる橋を渡り、"UNION OF  MYANMAR″と書かれた青いゲートをくぐって、タイのメーサイからビルマのタチレクへ。そこから陸路のみで行ける範囲は限られているが、とりあえず北へ、ビルマ内部へと入っていこうと思っていた。

タイ・ビルマ(ミャンマー)の国境を成す川

 イミグレーションオフィス(入国管理局)で、どこまで行く予定なのかを聞かれたので、「チャイントンまで行きたい」と、ここからさらに北に行った町の名を告げると、すぐに政府の旅行会社Myanmar Tours & Travel(MTT)に連れて行かれた。

 中に入ってみると、ビルマの観光ポスターらしきものがわずかに貼ってある以外、派出所のように殺風景な場所だったが、そこには職員の他に一人の同年代の西洋人の男がいた。

「ヘーイ! おれはTJ(そのままティー・ジェー)っていうんだ。アメリカ人だよ。おれらビルマにいるんだぜ、すげえな! おれの旅はっていうとさ……」

 赤の柄入りバンダナに細ぶちのメガネをかけ、うっすらとヒゲを生やした陽気で感じのよい男だった。しかし若干オレオレなキャラがいかにもアメリカ人らしい。また見ていると、どことなく加藤茶に似ている。カッコよく振舞おうとするが、何かが足りずいまいち雰囲気が出ない、そんな男だ。

 彼もチャイントンへ行くというので(といっても、それ以外の選択肢はほとんどない)、一緒に行くことになった。

 「チャイントンまでか。一人四〇〇バーツ(一〇〇〇円強)でいいぞ」

 MTTで値段を聞くと、肌の浅黒い細身の職員にそう言われた(ここではまだタイバーツが使える)。政府の旅行会社ということでこのMTT自体に怪しげなにおいを感じていたので、「高いな、他もちょっと当たってみるよ」と、揺さぶりをかけつつ、本当に外に出て車かバスかを探して回る。でもどうもそれ以上に安いのは見つからない。そうして、まあ、そんなもんなのかもしれないな、と納得し、MTTのセダンの車に乗っていくことになった。

 四時間ほど北に走って、チャイントンへ。ビルマに入ったとはいえ、道中の雰囲気はタイの田舎とそれほど変わらない。大きな違いは、右側通行、右ハンドルという奇妙な車事情だけだったかもしれない。すなわちドライバーがみな、道の端に近い側に座って運転するという妙なことになっているのだ。そのときはどうしてそんなことになっているのかはわからなかったけれど、その後聞いたところによれば、ビルマも以前は、宗主国のイギリスと同じく車両は左側通行だったものの、ときの独裁者ネウィンが、ひいきにしている占い師の言葉に従って突然右側通行に変えたのだという。だから、左側通行用の右ハンドル車が多いまま、右側通行の国となったようなのだ。

 ちなみに、右ハンドルのため日本の中古車も多く使われているのだろう、あるバスを見ると、それは日本の幼稚園の送迎バスそのままだった。クリーム色の車体には側面にはリスやウサギやチューリップのほんわかしたイラストが描かれ、正面には「久喜幼稚園」という文字が大きく書かれていた。そういえば東ティモールにもヤマト宅急便のトラックが走っていたのを思い出した。

 このあたりは、ビルマの中でも東の僻地として国の中心部分から隔絶されてきた地域だ。北は中国、東はラオス、南はタイに囲まれて、西側に広がるビルマの中央部からも距離がある。アヘンの取引も盛んで、政府としても手に負えない勢力が跋扈してきた土地だった。

 タイからの道が整備されたことによって人の出入りが多くなり開けていったものの、なお袋小路的な場所であることは変わりなかった。外国人は、ここからビルマの中央部へ陸路で抜けることは許されていないし、このちょっと北にある中国国境も越えることはできないとのことだった(これはもともと越えようと思っていた国境とは別)。

 そんな場所なのに、チャイントンで泊まることになった安宿は、予想外にきれいで驚かされた。まだ新しいタイルが敷き詰められた室内は輝いていて、掃除も行き届いているではないか! シーツもきれいでパリッとしていることに逆にびっくりしてしまった。値段は米ドルで一人五ドルだった(通貨が不安定で、米ドルが幅を利かせている)。

 屋上に上がると街一帯が見渡せた。ヤシの木が視界の果てまで緑色に染め、その隙間を埋めるように、白い壁の家が点在していた。

 道路には砂煙が上り、多くのバイクがぶるぶるぶると音を立てて走り抜ける。通りかかったトラックの荷台には赤いローブを着た少年の坊さんたちが大勢立ったまま乗っている。仏教国らしい風景だった。

 しかし同じ仏教国とはいえ、タイと僧侶の雰囲気が異なるのが印象的だった。タイでは少年たちでも僧侶はストイックの感じだったのに、ビルマの小さな僧たちはかわいらしいガキンチョたちが、ただローブをまとっているだけといった様子だった。彼らは陽気に遊び、笑顔を見せ、ときにぼくらに「金をくれ」とせがんできた。

 チャイントンに着いた翌日は、自転車を借りて屋外の大きなマーケットまで走った。ブタが、頭、足、内臓、血液、といったように分解されて並べられているそばで、たまご豆腐と麺を和えた軽食を食べた(これがウマイ)。また、黒いご飯や高菜の漬物のようなものがたびたび目についた。アジアのマーケットはどこも一見同じように見えるものの、やはり少しずつ違いがあり、その違いが面白いんだよなとぼくは思った。

卵豆腐に麺を混ぜたもの。これで25円くらい

 さてその日、昼飯を外で食べていると、二人の西洋人に出会った。旅行者はとても少なかったため、それふうな人と出会うと、思わず目が合い挨拶を交わし、話し出すようになる。

 「おお、あんたらは旅行者かい? まあ、座りなよ」

 大きなヒゲと、村山元首相のような確固たる眉毛を蓄えたマッドサイエンティスト風なおじさんが、そう話しかけてくる。五十代とも六十代とも見える彼はイギリス人でトムといった。一緒にいるクールそうな女性は、イタリア人のエヴァ。彼女は三十歳ぐらいだろうか。

 うながされて同席すると陽気なトムの軽快トークで話は一気に盛り上がっていく。そのうちに、彼ら二人がジャーナリストだということがわかった。そして彼らもぼくが旅をしながら文章を書いていることに興味を持ったようだった。

 「何の雑誌に書いているんだ? 君らもビルマについて書いているのか?」

 トムはブリティッシュイングリッシュで次々に聞いてくる。「シューカンなんとか」と日本の雑誌名を言っても「おお、知ってるよ!」となるわけがないので適当に流し、また、ビルマに書くために来ているというわけではない、とも言った。ついでに自分たちの旅の話を少しすると、彼も饒舌に語り出す。

 「おれは『エコノミスト(The Economist)』にも書いてるんだ。今回も、これから取材して記事を書くつもりなんだ」

 と、若干鼻の穴を大きくした。『エコノミスト』といえば、イギリスを代表するニュース週刊誌ではないか。彼の適当そうな雰囲気とはどうも結びつかないが、年齢的にもそれなりのベテランなのかもしれない。一方エヴァは、多くは語らないものの、話してみるとわりと気さくで、インドネシア語も操るなかなかのやり手風だった。

 「明日、モンラーまで行くんだけど、よかったら一緒にどうだ?」

 トムが言った。モンラーとは、チャイントンのさらに北の、中国との国境をなす町だ。

 「あのあたりはワという民族が自治権を持つ特別区だ。面白い話がたくさんあるはずだよ。そこに行って、おれは記事を書きたいんだ」

 ワ族については、ぼくも本で少し読んでいた。ワイルドで屈強な民族で、好戦的で敵の首を狩る。そしてアヘンの栽培や密売にどっぷり関わっているらしい。すなわち、先に書いた、政府の手に負えない勢力の主要メンバーがこのワ族なのだ。実際彼らは、ビルマ政府との戦いの末に、ビルマ国内に、自治権を持つ地域を手に入れているのだ。

 もちろん、一緒に行くことにした。宿に帰ってTJも誘うと、彼も当然のようにのってきた。

 「お、すげえな、それは! おれも一緒に行かせてくれよ!」

 翌朝。八時半に宿を出る。しかしすぐに出発はできない。チャイントンの外に行くためには、現地人のドライバーを雇い、そのドライバーとともに町のイミグレーションオフィスまで行って許可証をもらわないといけないのだ。自由に移動することは許されず、町ごとに許可証が必要なようだった。TJは、ビザの関係だったか、アメリカ人だったかのため、国境にパスポートを預けていたので手続きが煩雑だったが、なんとかみな許可証が手に入り、すし詰め状態になった白いワゴン車でチャイントンを出発した。

 車内は、陽気に盛り上がる。トムがビルマに関するウンチクを調子よく披露し、そこにエヴァが冷静な注釈をつける。さらにTJが妙な独自見解を述べるも「何言ってんだ、お前は。わかってないな」とトムにすぐに却下される。トムはその合間をぬってくだらないジョークを飛ばし、それをぼくとモトコがさわやかさを装った笑顔で聞きつつ、ギャグのつまらなさに疲労感を蓄積させる。現地出身らしいドライバーはただひたすら運転する。そんな道中だった。

 緩やかな山の間をすり抜けるように走る道路の両脇には、緑の木々や草が繁茂し、上には日本まで続くはずの青い空がどこまでも見えている。時折ウシや人間が姿を見せ、その横をぬって車は北上していった。

 ぼくは東ティモールを思い出していた。数少ない旅行者同士が親しくなり、短期間でも家族のような気分にすらなれる雰囲気のせいだろう。ディリの宿主のヘンリーはどうしてるかな、宿で働いていたティモール人のエモンはいまも働いているかな、スウェーデンにいるはずのヨハンは論文を書いているかな……、と急に彼らのことが懐かしく頭に浮かんだ。

 その東ティモールの日々から半年がたって、今日、間もなく中国の大地が見えるところに行くのである。ついにここまで来たんだ。気持ちが高ぶった。

 二時間ほど走るとワ族が支配する特別区に入る。地区の入り口には検問があり、荷物検査がある。そして越境料金を払わされる。料金は一人「三六元」だという。そう、ここはビルマ国内であるにもかかわらず通貨は中国の人民元なのだ(人民元はチャイントンで手に入れていた)。料金を払うと渡される領収書のような紙には、ビルマの文字とともに漢字表記があり、また、特別区に入ってすぐの小さな小屋には、漢字で「公厠」と書いてある。トイレだということがすぐわかる。

検問所を抜けてワ族が支配する特別区へ

 ウシが道路を横切るのどかな風景は、特別区に入ってもまったく変わらない。見かける人の様子にも変わりはなく、ゴツい軍人に理不尽に囲まれたりすることもない。

 ただ、漢字表記が目に入ると、急に意思の疎通ができそうな気がしてくる。そしてモンラーの町に着くと、完全に漢字中心の世界となった。まるで中国に着いたかのようだった。

 食堂に入って麻婆豆腐と青椒肉絲を食べたあと、国境へ。中国へとまっすぐに延びる道路には大勢の中国人観光客の姿があった。青空の下、両国の境目をなす場所で多くの中国人が写真を撮り、賑やかに話している。

 国境にあったトイレにもやはり手書きの赤ペンキで「公厠」とあった。入ってみると、年季の入った汚いアジア式スクワット便器(和式の、前方のカバーがないタイプ)がむき出しのまま並んでいた。互いにコンクリートの低い壁で仕切られてはいるものの扉はなく、全貌が見える。便器の横のカゴには使い終わったトイレットペーパーが山積みになり、その隣のバケツには水と手桶が入っている。無機質なコンクリートの壁と床はハードに黒ずみ、突き刺すような刺激的なニオイが充満していた。初めて見たドアなしトイレだった。

 その汚いトイレを眺め、こいつはなかなかすげえなと仰天し、中国がいよいよもうそこにあることを実感した。

 モトコも若干青ざめながら、女性トイレの見学を終えて出てきた。

 「これ、ありえへんな……。中国はずっとこんななんかな」

 と深刻そうな笑いを浮かべた。

 一方そばではTJが、パスポートを持っていないのに国境越えに意欲を見せた。パスポートを持っていたって外国人には越えられない国境だ、それは無理じゃないか、とぼくが言うと、彼は真剣な眼差しで答えた。

 「おれ、アメリカの運転免許証を持ってるんだ。これで国境越えられるかもしれないよ」

 彼はどこまでも自分の国の強さを信じて疑わない人なのだった。

 その後、モンラーが誇る大きなカジノに行った。緑の庭に囲まれた大きな敷地の奥にあるガラス張りの建物がそれだった。金持ちの中国人観光客を目当てとして、中国など外国の資本によってできた施設だとのことで、トムはこここそが取材すべき場所だと目星をつけたようだった。建物は白、ピンク、青でカラフルに仕上げられ、大きなガラスには周囲の景色が映りこむ。全体的にチープな感じは否めなかったが、周囲の町並みから見れば異質な存在で、確かに何やらいろいろ政治的な思惑などが絡んでいそうな雰囲気ではある。

 「中に入ってみようぜ」

 トムの声に従って、秘密のアジトに潜入でもするかのようにみなで中に進んだ。敷地の奥に入っていくと、昼間だったせいか、ガランとして誰も人がいない。なぜか建物の外に檻があり、その中では一頭のトラがもぞもぞと動いていた。そのトラを眺めていた中国人らしき人物が、どういうわけだか突然「オラッ!」とトラに向かって檻の外から蹴りをお見舞いしていた……。

 だが、そんな不可思議さにもかかわらず、建物の中に入ると、ここがビルマ東部と中国南西部の国境の小さな町であることを忘れさせる都会的なカジノ空間が広がっていた。

 その空間は、トムにとっては何やらすごいものだったらしい。

 トムは内部の写真を撮ると、スクープ映像を手にしたように浮かれ騒いだ。そして、併設された豪華なホテルの価格表を手に入れると、極秘情報を入手したかのように「やったぞ、やったぞ!」と喜んだ。トムのはしゃぎようを見てモトコは、「いいおっさんがまったく……」と失笑する。一方ぼくは、とてもそれほど重大な事実をつかんだとは思えなくて、このおっさん、ホントにベテランジャーナリストなのだろうかという疑いばかりが強まってしまった。ぼくの目が節穴で、この場所の重要性に気づけなかった可能性もゼロではないが、それでも明らかにトムははしゃぎすぎだった。

TJとトム(後)。TJの表情が残念で申し訳ないけれど、22年前ということで…。

  たった数時間程度のそんな浮かれたモンラー滞在ではもちろん、ビルマのこの地域への五日間の滞在でも、ぼくがこの国についてわかったことは、決して多くはない。

 ただこの地域が、北の中国と南のタイによって押しつぶされてしまいそうだという感覚を得ることはできた。まるで平板のパレットの上で、赤色と青色に挟まれて置かれた小さな白色の絵の具のように、染み出してくる両国によって、特に北の大国・中国によって、その存在が消されてしまいそうな気すらしたのだ。その象徴の一つが、モンラーであり、あのカジノだといえるのかもしれない。

 モンラーからの帰り、特別区の境界のチェックポイントがある小屋に入ると、中の壁には毛沢東のカレンダーが貼られていた。真っ赤な背景の中で、笑顔の毛沢東が拍手するポーズをとっていた。

 毛沢東のその不敵な笑みを見ながら、国境そばの丘の上にあるお寺から見た風景を思い出した。水色の空の中に、ボリュームのあるもくもくっとした雲が真っ白く輝き、そのすぐ下には、緑の山が緩やかに続いていた。その風景こそが、初めて目にした中国の大地だった。あそこは中国の雲南省。そしてそのどこまでもどこまでもどこまでも先まで、中国であるにちがいなかった。自分たちは、これからあの地に住むことになるのだ。

 ぼくは、数ヵ月後には始まるだろう中国での生活を想像しながら、旅がいよいよ、次のステージに向かっていることを感じていた。

国境から見た中国側の風景。初めて見た中国の大地。

<6 蛆虫とともにうんちが動く?>

In 『中国でお尻を手術。』, 『遊牧夫婦』続編公開

「楽単ランキング」1位に

August 20, 2026

ふと、「みんなのキャンパス」という授業評価ランキングのサイトで大谷大学を見たら、「旅と生き方」をテーマにした自分の授業が、楽単ランキングの堂々1位を獲得してしまっていた笑。どう評価すればいいんだろう。

ちょっとだけ見える「先生の体験談とビデオを見て聞いて〜」というコメントからも確かに楽単感はあるけれど…。

しかし一方、試験の答案を読んでいたら、楽だからと選ばれるのも悪くないかもと思った。というのも、一切旅に興味はなく、遠出もほとんどしたことない、ただ楽そうだから受講したという学生が、授業の途中でとても旅がしたくなって、夏に2週間の旅をすることに決めた、と書いていた。別の学生も、旅なんて自分に関係ないと思っていたが、夏にバイクで日本一周することにした、と。授業をしてよかったと思った。

入り口は「楽そうだから」でも案外良いのかもしれない。

In 大学, 雑感等
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