東えりかさんの『見えない死神』を読んで。愛にあふれる魂の一冊。

東えりかさんの『見えない死神』を読みました。それまで全く元気だった夫・保雄さんが突然の腹痛で倒れ、しかし長く原因がわからないまま衰弱され、3か月ほどが経ってから「原発不明がん」と診断されて亡くなられてしまったという出来事について書かれたノンフィクションです。著者の東さんにとってこれ以上なく辛く困難な出来事ながら、しかしその深い悲しみと苦しみを原動力に保雄さんの最期を描き切った、本当に心を打つ一冊でした。突然死の淵に立たされることになってしまった保雄さんへの愛情が一文一文から感じられて、辛く悲しい内容ながら、保雄さんへのこれ以上ない鎮魂の書であり、愛に溢れる本であると感じました。

そして東さんは、保雄さんの死後からまだ遠くない時期に、保雄さんの命を奪った原発不明がんとは何かをできる限りよく理解すべく、医療者への取材を重ねます。それが後半の内容になるのですが、この稀有な病気が少しでも広く知られ、いま苦しんでいる人や未来の患者・家族に有用な情報を提供できるよう、そしておそらく保雄さんの死をよりよく受け止められるよう、深い悲しみの中にある時期に取材・執筆を進めていった東さんの姿勢に深く感服しました。

その中で東さんは、当初不信感を抱いた医師への取材も行っています。他の医師からの見解も書かれていて、その医師への客観的な評価が記されています。そうした点も含めて、医療者へのリスペクトもとても感じられる内容で、本当に貴重な、魂のこもった記録だと感じました。読み終わって改めて、言葉の力、書くことの力を感じさせられ、東さんの保雄さんへの愛の深さに打たれました。ぜひ広く読まれてほしい一冊です。

書けるようになるために、『檀』を読む

先月、沢木耕太郎『檀』を読みました。通して読んだのはすでに4度目か5度目かもしれません。断片的にであれば、または好きな章とかだけであれば、ここ20年以上の間に何十回と読んでいる気がします。記録を見たら、去年もちょうど同じ春のこの時期に僕は『檀』を読んでいました。なぜこの同じ時期だったのか、また、その時はなぜ読もうと思ったのかは全く覚えていないのですが、今回は明らかに、文章が書けなくなっていることが原因でした。『檀』を読んで、再び書けるようになりたいなと思って読んだのでした。

書けなくなっている、といっても、僕は今も収入の9割くらいは文章を書くことで得ているので、毎日だいぶ書いています。特にこの2月、3月は、これまでにないくらい仕事が重なり、ひたすら書くことに追われていました。ただ、そうして書いている文章は、いまはほとんどが企業や大学に依頼されての仕事です。研究者などにインタビューして、研究やその周辺のこと、あるいはその企業の取り組みなどについて書くことがほとんどです。

で、そうした文章については、これまで以上に効率的に、そして技術的にも先方の期待を裏切らないものを書けるようになっている実感はあります。しかしその一方で、そのような文章を書けば書くほど、自分にとってよりクリエイティブと言えるような、枠組みの決まっていない表現としての文章が書けなくなってくるような気がする時があります。

ちなみにいま書いているこの文章も、思いつくままに書いているという意味では、最近書けない類の文章です。でもさっき『「書くこと」の哲学』(佐々木敦)という本を大学で買って、少し読んだら久々に書けそうな気持ちになったのでいま一気に書いています。まだ30ページくらいしか読んでませんが、この本、帯に【読み終えると、なぜか「書ける自分」に変わっている!】とありますが、本当かもしれません。

話を戻して、そのように「ああ、依頼仕事以外の自由な文章が書けないなあ」と思う時、何かを読むと急に書きたいと思って筆が進むようになることがあるのですが、僕にとってそういう時に手に取りたくなる本の代表的な一冊が『檀』なのです。

この本は、作家、檀一雄の妻である檀ヨソ子さんの独白のような形式で書かれた作品です。むろん書いたのは沢木耕太郎さんですが、沢木さんがヨソ子さんに週に一度、一年間ほどにもわたって繰り返し話を聞いて、あたかもヨソ子さん本人の手記のような形で書かれています。

檀一雄は、自身の愛人との日々を書いた『火宅の人』が代表作とされる作家です。その作品は当然のことながら妻にとっては心地よい作品ではないはずで、それが夫の代表作であるということは嬉しいことではないだろうと想像できます。しかしヨソ子さんは、『火宅の人』が長年にわたって書かれ続けるのを、しかもその一部の文章は、愛人との生活がリアルタイムに進行中で雑誌に掲載されていくという日々の中を、妻として生きていました。その時、ヨソ子さんは何を思い、どのように生きていたのか。その日々を沢木耕太郎が、檀一雄が死んで20年近い月日が経った後にヨソ子さんから直接聞いて書いたのがこの本です。

内容としては、とりわけ派手さはないというか、その当時の出来事がヨソ子さんの内面とともに淡々と描かれているような作品なのですが、僕はこの本が、「好きな本ベスト3」くらいに入るかもしれないほど好きです。理不尽でわがまま極まりない夫・檀一雄の身勝手さに苦しみながらもなんとか折り合いをつけて生きていくヨソ子さんの姿に心打たれる、みたいに書くと、そういう日本の家父長制的な空気を美化し肯定するように聞こえるかもしれませんが、全くそうではありません。むしろそういう、男が好き勝手やって女性が従うみたいな構図には僕はかなり嫌悪感があり、それ自体は「檀一雄、ひどすぎる、ありえないな」と読むたびに思います。しかしそれはそれとしても、自分自身がだんだんと年齢を重ね、いろいろ思うようにいかないまま人生が終盤に向かって進んでいることを実感するようになるほどに、そういう時代を生きるヨソ子さんが、内面に怒りや葛藤、苦しみを抱えながらも、それでも夫・檀一雄を受け入れ、思いを寄せ、最後までそばにいる姿になんとも心を揺さぶられるのです。

愛人との日々が終わり、ヨソ子さんとの関係も落ち着いてきた檀一雄が、旅先で体調を崩していると聞いて心配して、ポルトガルにまで一人訪れるシーンは、読むたびにぐっとくるものがあります。そして、そのヨソ子さんの様子そのものと同時に、そのシーンを目の前に思い浮かべさせてくれる文章の力に引き込まれ、その辺りを読むといつも、ああ、自分もこういうものが書きたいなと思わされます。

今回『檀』を読み返して、まだ書くべき文章は書けずにいます。でもなんとなく、今のこの時間は、何か大切なものを自分の中に培ってくれているようにも感じます。

とりあえず、いまこのブログの文章を一気に書くことができたことで、ちょっと嬉しい気持ちになっています。

門川未來さんのこと

最近、なかなかブログが書けないのですが、昨日のことは、自分の記憶にとどめたく、また少しでも読んでくれる人がいたらと思い、久々に書きたいという気持ちになりました。

昨日、大阪の住吉大社の近くに行き、ある方の葬儀に参列しました。門川未來(かどかわ みく)さんという方で、まだ22歳の若さでした。「ボーリングオピッツ症候群」というとても希少で重い先天性の障害があり、話したり、自力で動いたりなどが困難という大変な状態の中を生きてきた方でした。

重い障害を抱えながらも、彼は、小・中・高はすべて通常学級に通い、他の子たちと同じ教室で一緒に成長してきました。そしてその後は、放送大学の学生となって学び続けていたのですが、昨年、僕のスクーリング授業「旅することとと生きること」を受けてくれたのをきっかけに、僕は未來さんを知ることになりました。

授業は90分×4コマ×2日間という長時間のもので、両日、朝から夕方までぶっ通しです。集中して聞いてもらうのは誰にとってもなかなか大変だと思うのですが、未來さんは、最初から最後まで、隣の教室でお父さんと一緒に、画面を通して受講してくれたのでした。

確か、始まる前、途中、授業終了後という具合で、何度か未來さんの教室をのぞきに行ってお話をしました。言葉での直接のやり取りはできなかったものの、表情やお父さんの言葉を通して、気持ちが伝わってきました。未來さんにとって、長時間の授業を受けることは、ものすごく大変なことなのではないかと僕は想像していましたが、振り返って思えば、彼にとって授業を受ける時間はかけがえのない大切なものだったようにも思いました。一生懸命聞いてくれて、レポートも仕上げてくれました。そして僭越ながら、僕の授業をとても楽しんでくれたようで、また、「未來はこれまでになく集中して聞いていました」とお父さんが言ってくださって、僕自身すごく励まされ、かつ、彼の学ぶことに対する姿勢にとても背中を押されたのでした。

その後SNSでもつながって、時々様子を見たり、お父さんともやり取りさせてもらっていました。また、お父さんがものすごく献身的に未來さんをサポートされている様子を知って、そこにも心を打たれるものがありました。自分も当時、次女の学校に毎日のように付き添う日々だったこともあって、状況は全く違ってはいるものの、ひそかに励まされたりもしていました。

その未來さんが、2月16日の早朝に突然亡くなられたと、その日の午後、お父さんからのご連絡で知りました。その時まで未來さんの障害について詳しくは知らずで、SNSを見ている限り、すぐに命に係わるような障害とは全く想像していなかったので、あまりにも突然のことにとても驚かされました。しかしその後にいろいろと読んで、彼の障害が、ボーリングオピッツ症候群という日本でも数人しかいない、とても希少で未知のものであることを知りました。僕が勝手に想像していた以上に、本当に大変なことだったのだと思います。

未來さんに会ったのは、授業の時の、合わせてもほんの10分か15分ほどでしかありません。そのため、19日に友人たちで集まってのお葬式を行うとのことを知ったとき、自分がうかがうのも場違いなような気もしました。それでも、授業の時の印象や、その後のお父さんとのやり取りなどから、やはり最後にひとめ会えたらと思い、参列させていただくことにしました。

こんな再会になってしまうとは思ってない中で、未來さん、お父さんと再会し、お母さんとも初めてお会いすることになりました。検死の結果、「自然死」だったとのことで、お父さんが「未來は人生を全うしたんです」とおっしゃって、本当にそうだなあと思いました。いろいろと不便や困難がありながらも、未來さんは本当に自身の人生を走り切り、生き抜いたんだなあと感じました。ジャケットを着て、色彩豊かなきれいなネクタイをしめ、目をつぶっている未來さんの姿からは、大きな仕事を終えた心地よい達成感のようなものがにじみ出ているようでもありました。

お葬式には、小中高時代の同級生がたくさん集まっていて、その多くが、前日の通夜から連日の参列とのことでした。皆が未來さんととてもいい関係を築いてきたことが伝わってくる温かい雰囲気で、かつ、お父さんお母さんがとても明るく楽しい方であることもあって、たくさんの涙の中には笑いもあふれていました。僕自身、未來さんのことを実際にはほとんど何も知らないといっていい状況なのですが、若い同級生たちと一緒に過ごさせてもらう中で、未來さんが陽気で人を惹きつけるキャラクターであったこと、そして学校ではすごく楽しい日々を過ごしていたのだろうことがよく想像できたのでした。

最後にお父さんお母さんが、それぞれお言葉を話されるのを聞いて、未來さんは素敵なご両親のもとで幸せに生きてこられたんだろうなということも改めて感じました。不便なこと、困難なこと、思い通りにいかないことは本当に数えきれないほどあったとは思うけれど、でも、その日々の中でお父さんお母さんとともに、未來さんにしかできないことをきっとたくさんやってきて、多くの人にかけがえのないものを届け続けてきたのだろうことがとてもよく伝わってきました。

葬儀に来ていた同級生の皆さんにとっても、未來さんと同じ教室で過ごした日々は、きっといろんな形で今に生きているのだろうと想像できました。同級生の中には、未來さんと出会ったことをきっかけに障害に関する教育の道に進むことを決め、大学では未來さんをテーマに論文を書き、これからその道に進んでいこうという方がいる、というのも聞きました。

最後にお母さんが、「通常学級でみんなと一緒に学校生活を送り、みなと同じ仲間として一緒に成長してこれたことが未來にとって本当に幸せなことだった」という旨のことをおっしゃっていて、そのことの意味をお葬式の時間を通じてとても強く感じました。

みなが未來さんを特別視していなく、何も変わらない同級生の一人と認識していることが伝わってきました。お父さんもその具体的なエピソードを面白おかしく、そして涙ながらに話されていて、同級生たちみながその懐かしく素敵な時間を思い出して、涙と笑いに場が包まれました。まさに未來さんがみなと同じ教室で一緒に過ごしてきたからのことであり、障害の有無で子どもたちを分けない教育のもたらす結果なのだなあと痛感しました。未來さんが同級生のみなさんとともに過ごしてきた日々を想像するとともに、インクルーシブ教育の持つ価値が、とても強く感じられる時間でした。そして何よりも、未來さんがみなに愛される人柄だったことがとてもよく伝わってきたのでした。

未來さんが周囲の人に与えてきたものはきっと本当に大きくて、それはこれからもずっと生き続けると思います。それは僕にとっても同じです。ほんの少しだけでも人生が交錯できたことを嬉しく、ありがたく思います。

未來さん、本当にお疲れさまでした。
次の世界で、また素敵な旅を!

東畑開人『カウンセリングとは何か』から思い出した30年前のカウンセリングの日々のこと

東畑開人さんの新刊『カウンセリングとは何か』(講談社現代新書)を読みました。読み進めるほどに自分自身も東畑さんのカウンセリングを受けてるような気になってくる本でした。後半は心揺さぶられる展開で。

東畑さんの本は、名著ばかり。これまで『居るのはつらいよ』『心はどこへ消えた?』『野の医者は笑う』も読みましたが、いずれもすごく面白いです。

僕は30年前の浪人時代、吃音や他の精神的な不安定さが高まって一年近くにわたってカウンセリングに通った経験があるのですが、この本を読んで当時の記憶がとても鮮明に蘇りました。

僕は当時、話しても特に何か有用なことを言ってくれるわけでもないカウンセラーに対して、途中からなんのために通ってるのかわからなくなって「中断」(=問題の解決などに至らないまま途中で終わりとなること。本書に出てくる用語です)の形でカウンセリングを終えました。最後の方は、毎回気まずく、ただ終える理由を探してた感じで、「センター試験の準備で忙しくなるから」とかなんとか言って最後の回を終えた時には、重荷が下りたような気持ちになりました。

でもこの本を読んで、もしかしたらあの先生も、考えがあっての「何もしない」だったのであり、あの時期を乗り越えていたらその先に新たな展開があったのかもしれない、と初めて思いました。何か別の風景が見えていたのかもしれない、と。

その女性のカウンセラーに対して「ただ何もしなかった人」という印象はいまだに拭えないのですが、本書を読んで、彼女の気持ちを様々に想像することになり、あのカウンセリングの日々は今も自分に何かを残しているのかもしれないな、と改めて思いました。

講談社現代新書は最近面白い本がとても多い印象。最近読んだのでは『新しい階級社会』(橋本健二著)、『となりの陰謀論』(烏谷昌幸著)も面白かったです(ともに2025年刊行)。『私とは何か――「個人」から「分人」へ』(平野啓一郎著)は、だいぶ前の有名な本ですが、これも最近読んで面白く、おすすめです。