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YUKI KONDO WRITER

近藤雄生・こんどうゆうき ライター
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『中国でお尻を手術。 遊牧夫婦、アジアを行く』 6 蛆虫とともにうんちが動く?

September 29, 2026

<5 中国国境の町へ>

6 蛆虫とともにうんちが動く?

 二〇〇四年十一月十六日。

 ビルマからタイに戻った三日目の朝九時、国境の町メーサイからソンテウ(乗り合いタクシー)に乗って南東に走り、チェンセンへ向かった。チェンセンはメコン川のほとりにある町だ。対岸はラオスとなる。

 ソンテウを降りて川の方を眺めると、対岸は濃緑色の木々で覆われていて、川幅は二〇〇メートルくらいはあるように見えた。その茶色く濁った大量の水の上に、「盛達快運」という漢字が掲げられた貨物船が停泊している。船と河岸との間に三本ほど細く頼りない木の板が渡され、数十人の男たちが肩に段ボール箱を三、四個ずつ乗せて、エッサエッサとその板の上を渡り、荷を船に積み込んでいた。この船もおそらくそうだが、その下に広がる水もまた、はるか中国から延々と流れてきているにちがいなかった。

 すべてが中国につながっている。そんなふうに思えてくる。

 その中国の足音に引きつけられるように、ぼくらもチェンセンからチェンコンへとソンテウを乗り継ぎ、翌日、タイ・ラオス国境を成すメコン川を越えてラオスへ入った。

 国境のラオス側の町フエサイで泊まってから、今度はメコン川を走る小さな船に二日間乗って、一大観光地であるルアンプラバンへ。そしてしばらく滞在したのち、バスに乗って北のウドムサイに向かうと、もう中国まであとわずかとなった。

 ウドムサイには、中国が国境を越えて染み出していた。店に入ると何やら中国語でペラペラペラー、と話しかけられる。知っていたわずかな単語を駆使して「中国語は話せません」と笑ってみると、「ああ、中国人じゃないのかい。でも中国語話すんだね!」とさらに中国語で話しかけられるといった具合だった。

 食べるのも毎食のように中華料理。麻婆豆腐、青椒肉絲、小籠包(ショウロンポウ)、あんまん、お粥……。味には当たり外れがあったものの(麻婆豆腐と青椒肉絲はどこにでもあり、どこでもそれなりにおいしかった)、それらを食べるたびに、「お粥は、【稀飯】……シーファンか。あんまんは【豆沙包】……ドウシャーバオ、かな?」と、それぞれの料理の中国語を頭に入れていくように心がけた。

 まだ入国はしていなかったが、気持ちはもう中国だったのだ。

 モトコも、中国に着くのがすごい楽しみだと言っていた。移動続きの日々に疲れきっていた彼女は、まだ見ぬ土地での定住生活の始まりがとても待ち遠しいようだった。

 ただ同時にモトコは、ある不安が徐々に大きくなっていくのを隠さなかった。

 「ああ、これからあのトイレか……」

 強烈にちがいない中国のトイレに、彼女はビビっていたのだ。ビルマのモンラーでついに実物が現れて以来、モトコはかなり深刻に憂鬱になっていた。

 モトコが中国のトイレに初めて恐れを抱き始めたのは、しかしじつは、モンラーで実物を見るかなり前のことだった。

 バンバリーでイルカボランティアをしていたとき、以前中国に住んでいた南アフリカ人ボランティアのジャッキーが、青く輝く海を見ながら、モトコに中国のトイレについて話してくれたことがあった。そのときのジャッキーの描写が頭を離れないというのだ。

 「こんなトイレがあったの。入ると、大きな穴の上に、ただ足を置く貧弱な木の板が二本渡されているだけ。その板の上に足を乗せて用を足すのだけれど、板の下の穴の中は、もちろんうんちでいっぱいなのね。驚いたのは、なんだかそのうんち全体が動いているように見えることなの……。えっ? と思ってよく見ると、うんちの中に大量の蛆虫がうごめいているのがそう見えたの。まるでうんちと蛆虫が一緒になってモソモソと動いているようだったのよ! 本当に気持ち悪かった。板が折れて落ちたらどうしようって思いながら、恐る恐る済ませたのよ……」

 その話を聞いてモトコは、震え上がってしまったのだ。それ以来、中国のトイレといえば「蛆虫とともにうんちが動く」というイメージが染みついてしまっていたのだ。

 もともとモトコは大のキレイ好き。日本にいたころから普通以上に掃除や片付けに余念がないタイプだった。それでも旅に出てからは、案外なんでもいけてしまうことがわかってきて、南京虫やゴキブリがいる部屋でも、十年ぐらい掃除してなさそうなトイレでも、他に選択肢がなければああだこうだで乗り切っていた。

 それでも、中国のトイレだけは耐えられない、と恐れていた。モンラーで見たのは、さすがに蛆虫トイレほどではなかったけれど、汚さは別格だった。しかもドアなし。これから毎回、あんなトイレばかりだとしたら……。

 「まあ、仕方ないよな。たぶん、慣れるって」

 ぼくはそう言ってモトコの気を紛らわせたが、そう言いながら、自分自身も若干気になっていた。ドアなしトイレに慣れる日なんてホントに来るのだろうか? 

 ただもう、そんなこと考えても仕方がない。もう中国は目の前なのだ!

 

 ウドムサイに二泊した翌朝――。

 八時半に乗り合いバスで国境に向かって出発した。バスの中には、ぼくとモトコに加え、カナダ人カップルとオーストラリア人カップルもいた。

 ラオス側のイミグレーションオフィスの前で降ろされたのが十一時半。赤土による汚れでうっすらと赤みがかかった小さな建物で出国審査を済ませ、再び軽トラックの荷台に乗り込んだ。

ラオス側の国境。写真の奥側がラオス

 ここから先はノーマンズランド(緩衝地帯)で、ここを抜けると、中国側の国境に着くのだ。

 ノーマンズランドではすでに大きな漢字表記ばかりが目につく。まだ正式に中国に入国したわけではないのに、もう完全に中国に入ったかのような雰囲気だった。道路もこのあたりからきれいに舗装され、中国へと続いていく。そして五分ぐらいでついに中国の入国審査場が見えてきた。いよいよ中国に入るのだ。

 だが、そこでちょっとした問題が起こった。トラックを降り、運転手に料金を払おうとしたときのこと。運転手はラオスの通貨「キップ」か、中国の「人民元」、または「米ドル」で払うように言ってきたが、ぼくらも、同乗した西洋人たちも、誰も細かいお金を持っていないことに気づいたのだ。

 ラオスキップはみなすでにイミグレーションオフィスのそばで人民元に換えてしまっていたし、また、人民元、米ドルはともに高額紙幣しか持っていなかった。逆に人民元や米ドルでのお釣りを持っていない運転手は、

 「じゃあ、釣りはラオスキップで払うから、その米ドルをくれよ」

 と言う。しかしこれからラオスを出る身としてはそれはありえない。ラオスキップは中国に入ってしまえばただの紙切れ同然となるにちがいなかったからだ。

 国境ではいつもこのような場面で、通貨の力の違いを実感する。国境付近の町では大抵、国力の強い方の通貨は、国境を越えて通貨として機能している。だが、弱い方の通貨は、一度国境を越えるとまったく用をなさない。弱小通貨は、隣国の銀行に行っても決してその国の通貨とは換えてもらえないのだ。

 タイとビルマ、ラオスとタイ、ラオスと中国、ビルマと中国。ビルマチャットとラオスキップは、国境付近だと国内ですら好まれていないようだった。その一方、中国の人民元とタイバーツは、ともに国境を越えても使われていた。

 先にビルマで訪れた中国国境の町モンラーでは、通貨は人民元のみ、言葉も中国語だった。中国という国の強大さは、中国に入らずとも、その周辺にいるだけで感じることができた。国力が、国境線の中に収まりきらず溢れ出ているのだ。だから、これから中国に入ろうというぼくらにとってもまた、ラオスキップは紙切れでしかなかったのだ。

 「わかった、じゃあ、ちょっと待ってくれ。この一〇〇元札をくずしてくるよ」

 ぼくはそう言って、毛沢東が描かれた赤い一〇〇元札を手に、入国審査の場所まで走った。審査を待つ中国人の何人かに英語で話しかけ、一〇〇元をくずしてくれる人を探した。だが、英語はほとんど通じず、また細かい人民元を持っていそうな人も見つからなかった。ただ国境の向こうには、物売りの中国人が複数いたので、彼らなら持っているにちがいない、と思った。

 そしてぼくは、まず無理だろうと思いながらも、国境警備の男に身振り手振りで聞いてみた。

 「この一〇〇元札を細かい人民元に替えないといけないから、国境を越えさせてくれないか」

 するとその警備員は、すぐにぼくの言っていることをわかってくれたようだった。「よし、わかった」という顔をして、何も審査していない自分をあっさりと中国側に入れてくれたのだ。

 それが初めて足を踏み入れた中国だった。国境を越えると、くたびれたシャツとパンツ姿の男たちが何人も寄ってきて、何やら話しかけてくる。言葉はわからないが、とにかく「おれの車に乗れ!」といっているようだった。早口でまくし立てる彼らの大きな声にいかにも中国らしさを感じながら、いや、自分はいまはただ、両替してほしいだけなんだと身体で伝える。すると、「おれも持ってるぞ、おれも持ってるぞ」と大勢が両替任務を果たそうとする。そのうちの一人に両替してもらい、「謝謝!」と言うと、ぼくは警備員にも礼を言って再びノーマンズランドへと走っていった。中国人の警備員は、走り去るぼくをにこやかに見送った。

国境を越えた中国側

 初めての中国を体感して少し興奮しながらモトコたちのところに戻ると、モトコは若干真剣な顔をして、中国に行ったことがあるという西洋人から中国のトイレ情報を集めていた。「イッツ・ファッキン・テラボー!」などという情緒的な情報にもビビらされ、モトコはおののいていた。「やっぱりめっちゃすごいらしいなあ……」。しかしいくら情報を集めてみても、もうこれから出てくるトイレで用を足すしかないのである。

 ぼくは待っていた運転手にお金を払った。そして荷物を持って入国審査の列に並んだ。パスポートにスタンプをもらうと、今度こそ堂々と入国できた。ぼくらはいま本当に中国に入ったのだ。

 

 両替を頼んだ物売りの男たちは、「お、今度こそおれの車に乗っていけよ!」と寄ってくるが、その中から、すぐにでも出発しそうな車を選んで乗り込んだ。

 きれいに舗装された道の脇には、いかにも安普請で玩具のような建物がずらりと並んでいた。これが中国らしさなのだろうかと、ふと思う。そこからまた一時間ほどだろうか、山の隙間を猛スピードで北上していくとモンラーという町に着いた(「勐腊」と書く。もちろん、ビルマのモンラーとは別の町)。

 そしてモンラーで中国最初の夜を過ごした翌日の昼ごろ、昆明行きの寝台バスに乗り込んだ。

 「うわっ、なんでこんなにきれいなんだ?」

 予想に反して内部が新品のようにこぎれいで、ぼくもモトコも口をそろえて驚いた。床はカーペットで、バスの入り口で靴を脱いで上がるようになっている。カーペットにも汚れは少なく、なんだか不思議なぐらいだった。車内には小さな二段ベッドがずらりと並び、それぞれに枕と布団も置いてあるので、ここにみな横になった状態で乗るのだろうと予測がついた。

 それらのベッドがすべて、東南アジア的な雰囲気の肌の黒い人たちで満たされると、バスはゆっくりと街なかから山の中へ向かって出発した。

 「寝ながら行くの、楽でいいな」

 まさに怠慢な自分にはうってつけの乗車スタイルが最初は心地よかった。しかししばらくすると搬送される病人になったような変な気分になってくる。道もカーブが多く、しかも運転が荒いので、途中で酔ってもきた。

 なんだか落ち着かなくて寝たり起きたりを繰り返しているうちに、バスは何時間も走り続け、やがて止まった。運転手が叫ぶ。

 「厠所!厠所! (ツースオ! ツースオ!)」

 お、聞き取れたぞ、トイレだ。と思い、次にいつトイレに降りられるかわからないので、急いでベッドから飛び降りて、靴をはいて外に出る。すでに暗くなりかけているなか、ほかの人たちについていくと、薄汚れたコンクリート壁の中にトイレがあった。モトコも「うわ、すごそうやなあ……」と渋々トイレに向かっていった。

 中国初日だった昨日は宿の部屋のトイレにしか行かなかったけれど、これはいよいよ本場の中国トイレにちがいない。どんだけひどいんだろうと近づくと、半屋外のそのトイレは、まだ中に入る前から強烈な臭いでその存在感をアピールしていた。中に入ると、下半身モロ出し状態の男たちが座って用を足していた。

 ちょろちょろと汚水が流れる地面の上に、円状に複数の穴が掘ってある。円の半径方向には仕切りはあったが、円の外側からは、いままさに排便中という男たちの姿が余すところなく望めてしまう。みなタバコをふかしながら、余裕シャクシャクで力んでいた。

 思えば、他人が大便をする姿をまじまじと見るのは、初めてではないだろうか。その風景に衝撃を受け、また壁にこびりついて黄白色の塊となった尿の凄まじいアンモニア臭に息を止めていると、ブリブリブリ! と目の前のオッサンが豪快な音を立てて排便する。そして、ふぅー、と一息。

 「これはやべえなあ……」

 ぼくはその光景に圧倒された。そしてとりあえず小便だけして、逃げるように立ち去った。

 モトコはトイレから戻ってくると、青ざめ、吐き気をもよおしていた。

 「ありえへん、ほんまにありえへん……。これからずっとこんなんだったらどうしよう……」

 明らかにぼく以上のショックを受けていた。何しろこのトイレが、その後ずっと夢にまで出てきたというのだ。とにかくもうこれは、覚悟を決めないとやっていけなさそうだった。

 しかしその後、今度は「吃飯! 吃飯!(チーファン!)」という掛け声のもとで半屋外の清掃不良な食堂に止まり、寒く暗いなか、黄色い電灯の下で炒飯を食べると、そのおいしさに感激した。さすがだなあ、やはり中国はどこでもこんなにパラパラしたいい具合の炒飯を出すのかなあ、とうれしくなった。

 みなハフハフカチャカチャと音を立てながらかき込むように食事を終えると、すぐにバスに乗り込んでいく。そして、とてもみなが乗り込んだのを確認したとは思えない状態で、「さあ、出るぞっ!」という声が何度か聞こえると、一気にトップスピードとなってバスは暗闇の中を進んでいった。

 

 中国での生活――。いったいどんな日々になるのだろう。いろいろと想像を膨らませ、バスの二段ベッドの上段で体を丸めながら、ぼくは眠ろうとした。すでに夜は更け、いまどんな場所を走っているのかもわからない。でも目を覚ましたら、ぼくらはもう昆明にいるはずなのだ。

 目的の場所に着く、という感慨深さはもちろんあった。同時にそれと同じくらい、着いてしまう、旅が次のステージに入ってしまう、ということへの寂しさや不安感があった。

 真下の段にいるモトコとは、ほとんど何も話さなかった。何を考えているのだろうな、と思い、たまに下段を眺めると、前後の中国人に挟まれて、彼女も身体を小さく丸めながら眠りにつこうとしているようだった。

In 『中国でお尻を手術。』, 『遊牧夫婦』続編公開

『中国でお尻を手術。 遊牧夫婦、アジアを行く』 5 中国国境の町へ

September 14, 2026

<4 人生最大のコンプレックス、吃音>

5 中国国境の町へ

 バスの中でいろいろと考えているうちに、吃音が意識の中で存在感を増してきてしまった。まったくこういうことばかりなのだ。考えれば考えるほど負のスパイラルに陥ってますます解決は遠のいていく。モトコに話して、

 「まあ、気にしんときやー」

 と涼しい顔で言ってもらって、そうだよな、と無理やり自分に言い聞かせるしかない。そんなときに場所が移動するというのはいい気分転換になる。ぼくらは再び、タイの最北部のメーサイに着こうとしていた。

 バスがメーサイの町から少し離れたバスステーションに着く。降りると目の前には複数のソンテウ(乗り合いタクシー)が客に声をかけながら待っている。その中で、間もなく出発しそうな、人がギュウギュウに乗ったものに、「すみません! 乗せてください」と乗り込んで、町の中心部である国境付近までまた戻った。そして前に泊まったのと同じ「バンブー・ゲストハウス」にチェックインした。

 そうしてとにかく旅は進み、再びビルマとの国境まで来た。ぼくらはこれからビルマに入国する。しかも今度はビザ更新のためではなく、本格的にビルマに入るのだ。

 当初ぼくらはビルマを北上して、ビルマから中国雲南省へと国境を越えようと思っていた。だが、このときはすでにその計画はあきらめていた。

 というのも、ちょうどこの三週間ほど前から、不穏なニュースが入ってきだしたからだ。ビルマの軍事政権内で民主化に積極的なキンニュン首相が拘束・更迭され、首相に近い複数の幹部が逮捕されたらしいというのだ。首相逮捕か、クーデターか、など、情報が錯綜していたが、いずれにしても、民主化を望まない強硬派による政変が起きたようだった。

 しかも気になったのは、この政変らしき動きのニュースの中に、ぼくらが中国へ抜けようとしていた国境の町ムセの名前が出てくることだった。今回の出来事に関連して、ムセで銃撃戦があったとか、そんな情報も目にした。これはまずいな、と思ったのだ。

 もともと、その国境から中国へ陸路で抜けたという話は聞いたことがなく(逆に中国からビルマへ抜けた人はいたようだった)、ネットで調べても、そこは通過できないらしいという声ばかりだった。だが、バンコクでビザを取得するときビルマ大使館で聞いてみると、

 「行ってみないとわからないけれど、ビザがあれば越えられるんじゃないか」

 と、まるで他国のことのような心もとない返事ながらも、越えられそうなことをにおわされたので、じゃあ、とりあえず行ってみようかと考えていた。

 しかし、その町で政変に関連した出来事があったとすれば、しばらく国境が閉鎖される可能性は十分に考えられる。もちろん、それでもかまわず行ってみることもできたのだが、ビルマ国内では外国人には自由な移動が許可されておらず、移動がかなりやっかいなのだ。途中で一部、空路も使わなければならない行程を考えると、メーサイのタイ・ビルマ国境から、ムセの中国・ビルマ国境までは行くのがかなり大変そうで、国境まで行った挙句中国へ抜けられず引き返すことになったら相当面倒な移動になることが予想された。その可能性を考えたとき、無理してその国境を通過しなければならない理由はなかったので、やめることにしたのだ。

 それでも、ビルマへは予定通りに入国した。

 国境となるのは茶色く濁った幅数十メートルほどの小さな川で、その両岸には河にはみ出しそうなほどギリギリまで、白壁の家や木々が並ぶ。その上に架かる橋を渡り、"UNION OF  MYANMAR″と書かれた青いゲートをくぐって、タイのメーサイからビルマのタチレクへ。そこから陸路のみで行ける範囲は限られているが、とりあえず北へ、ビルマ内部へと入っていこうと思っていた。

タイ・ビルマ(ミャンマー)の国境を成す川

 イミグレーションオフィス(入国管理局)で、どこまで行く予定なのかを聞かれたので、「チャイントンまで行きたい」と、ここからさらに北に行った町の名を告げると、すぐに政府の旅行会社Myanmar Tours & Travel(MTT)に連れて行かれた。

 中に入ってみると、ビルマの観光ポスターらしきものがわずかに貼ってある以外、派出所のように殺風景な場所だったが、そこには職員の他に一人の同年代の西洋人の男がいた。

「ヘーイ! おれはTJ(そのままティー・ジェー)っていうんだ。アメリカ人だよ。おれらビルマにいるんだぜ、すげえな! おれの旅はっていうとさ……」

 赤の柄入りバンダナに細ぶちのメガネをかけ、うっすらとヒゲを生やした陽気で感じのよい男だった。しかし若干オレオレなキャラがいかにもアメリカ人らしい。また見ていると、どことなく加藤茶に似ている。カッコよく振舞おうとするが、何かが足りずいまいち雰囲気が出ない、そんな男だ。

 彼もチャイントンへ行くというので(といっても、それ以外の選択肢はほとんどない)、一緒に行くことになった。

 「チャイントンまでか。一人四〇〇バーツ(一〇〇〇円強)でいいぞ」

 MTTで値段を聞くと、肌の浅黒い細身の職員にそう言われた(ここではまだタイバーツが使える)。政府の旅行会社ということでこのMTT自体に怪しげなにおいを感じていたので、「高いな、他もちょっと当たってみるよ」と、揺さぶりをかけつつ、本当に外に出て車かバスかを探して回る。でもどうもそれ以上に安いのは見つからない。そうして、まあ、そんなもんなのかもしれないな、と納得し、MTTのセダンの車に乗っていくことになった。

 四時間ほど北に走って、チャイントンへ。ビルマに入ったとはいえ、道中の雰囲気はタイの田舎とそれほど変わらない。大きな違いは、右側通行、右ハンドルという奇妙な車事情だけだったかもしれない。すなわちドライバーがみな、道の端に近い側に座って運転するという妙なことになっているのだ。そのときはどうしてそんなことになっているのかはわからなかったけれど、その後聞いたところによれば、ビルマも以前は、宗主国のイギリスと同じく車両は左側通行だったものの、ときの独裁者ネウィンが、ひいきにしている占い師の言葉に従って突然右側通行に変えたのだという。だから、左側通行用の右ハンドル車が多いまま、右側通行の国となったようなのだ。

 ちなみに、右ハンドルのため日本の中古車も多く使われているのだろう、あるバスを見ると、それは日本の幼稚園の送迎バスそのままだった。クリーム色の車体には側面にはリスやウサギやチューリップのほんわかしたイラストが描かれ、正面には「久喜幼稚園」という文字が大きく書かれていた。そういえば東ティモールにもヤマト宅急便のトラックが走っていたのを思い出した。

 このあたりは、ビルマの中でも東の僻地として国の中心部分から隔絶されてきた地域だ。北は中国、東はラオス、南はタイに囲まれて、西側に広がるビルマの中央部からも距離がある。アヘンの取引も盛んで、政府としても手に負えない勢力が跋扈してきた土地だった。

 タイからの道が整備されたことによって人の出入りが多くなり開けていったものの、なお袋小路的な場所であることは変わりなかった。外国人は、ここからビルマの中央部へ陸路で抜けることは許されていないし、このちょっと北にある中国国境も越えることはできないとのことだった(これはもともと越えようと思っていた国境とは別)。

 そんな場所なのに、チャイントンで泊まることになった安宿は、予想外にきれいで驚かされた。まだ新しいタイルが敷き詰められた室内は輝いていて、掃除も行き届いているではないか! シーツもきれいでパリッとしていることに逆にびっくりしてしまった。値段は米ドルで一人五ドルだった(通貨が不安定で、米ドルが幅を利かせている)。

 屋上に上がると街一帯が見渡せた。ヤシの木が視界の果てまで緑色に染め、その隙間を埋めるように、白い壁の家が点在していた。

 道路には砂煙が上り、多くのバイクがぶるぶるぶると音を立てて走り抜ける。通りかかったトラックの荷台には赤いローブを着た少年の坊さんたちが大勢立ったまま乗っている。仏教国らしい風景だった。

 しかし同じ仏教国とはいえ、タイと僧侶の雰囲気が異なるのが印象的だった。タイでは少年たちでも僧侶はストイックの感じだったのに、ビルマの小さな僧たちはかわいらしいガキンチョたちが、ただローブをまとっているだけといった様子だった。彼らは陽気に遊び、笑顔を見せ、ときにぼくらに「金をくれ」とせがんできた。

 チャイントンに着いた翌日は、自転車を借りて屋外の大きなマーケットまで走った。ブタが、頭、足、内臓、血液、といったように分解されて並べられているそばで、たまご豆腐と麺を和えた軽食を食べた(これがウマイ)。また、黒いご飯や高菜の漬物のようなものがたびたび目についた。アジアのマーケットはどこも一見同じように見えるものの、やはり少しずつ違いがあり、その違いが面白いんだよなとぼくは思った。

卵豆腐に麺を混ぜたもの。これで25円くらい

 さてその日、昼飯を外で食べていると、二人の西洋人に出会った。旅行者はとても少なかったため、それふうな人と出会うと、思わず目が合い挨拶を交わし、話し出すようになる。

 「おお、あんたらは旅行者かい? まあ、座りなよ」

 大きなヒゲと、村山元首相のような確固たる眉毛を蓄えたマッドサイエンティスト風なおじさんが、そう話しかけてくる。五十代とも六十代とも見える彼はイギリス人でトムといった。一緒にいるクールそうな女性は、イタリア人のエヴァ。彼女は三十歳ぐらいだろうか。

 うながされて同席すると陽気なトムの軽快トークで話は一気に盛り上がっていく。そのうちに、彼ら二人がジャーナリストだということがわかった。そして彼らもぼくが旅をしながら文章を書いていることに興味を持ったようだった。

 「何の雑誌に書いているんだ? 君らもビルマについて書いているのか?」

 トムはブリティッシュイングリッシュで次々に聞いてくる。「シューカンなんとか」と日本の雑誌名を言っても「おお、知ってるよ!」となるわけがないので適当に流し、また、ビルマに書くために来ているというわけではない、とも言った。ついでに自分たちの旅の話を少しすると、彼も饒舌に語り出す。

 「おれは『エコノミスト(The Economist)』にも書いてるんだ。今回も、これから取材して記事を書くつもりなんだ」

 と、若干鼻の穴を大きくした。『エコノミスト』といえば、イギリスを代表するニュース週刊誌ではないか。彼の適当そうな雰囲気とはどうも結びつかないが、年齢的にもそれなりのベテランなのかもしれない。一方エヴァは、多くは語らないものの、話してみるとわりと気さくで、インドネシア語も操るなかなかのやり手風だった。

 「明日、モンラーまで行くんだけど、よかったら一緒にどうだ?」

 トムが言った。モンラーとは、チャイントンのさらに北の、中国との国境をなす町だ。

 「あのあたりはワという民族が自治権を持つ特別区だ。面白い話がたくさんあるはずだよ。そこに行って、おれは記事を書きたいんだ」

 ワ族については、ぼくも本で少し読んでいた。ワイルドで屈強な民族で、好戦的で敵の首を狩る。そしてアヘンの栽培や密売にどっぷり関わっているらしい。すなわち、先に書いた、政府の手に負えない勢力の主要メンバーがこのワ族なのだ。実際彼らは、ビルマ政府との戦いの末に、ビルマ国内に、自治権を持つ地域を手に入れているのだ。

 もちろん、一緒に行くことにした。宿に帰ってTJも誘うと、彼も当然のようにのってきた。

 「お、すげえな、それは! おれも一緒に行かせてくれよ!」

 翌朝。八時半に宿を出る。しかしすぐに出発はできない。チャイントンの外に行くためには、現地人のドライバーを雇い、そのドライバーとともに町のイミグレーションオフィスまで行って許可証をもらわないといけないのだ。自由に移動することは許されず、町ごとに許可証が必要なようだった。TJは、ビザの関係だったか、アメリカ人だったかのため、国境にパスポートを預けていたので手続きが煩雑だったが、なんとかみな許可証が手に入り、すし詰め状態になった白いワゴン車でチャイントンを出発した。

 車内は、陽気に盛り上がる。トムがビルマに関するウンチクを調子よく披露し、そこにエヴァが冷静な注釈をつける。さらにTJが妙な独自見解を述べるも「何言ってんだ、お前は。わかってないな」とトムにすぐに却下される。トムはその合間をぬってくだらないジョークを飛ばし、それをぼくとモトコがさわやかさを装った笑顔で聞きつつ、ギャグのつまらなさに疲労感を蓄積させる。現地出身らしいドライバーはただひたすら運転する。そんな道中だった。

 緩やかな山の間をすり抜けるように走る道路の両脇には、緑の木々や草が繁茂し、上には日本まで続くはずの青い空がどこまでも見えている。時折ウシや人間が姿を見せ、その横をぬって車は北上していった。

 ぼくは東ティモールを思い出していた。数少ない旅行者同士が親しくなり、短期間でも家族のような気分にすらなれる雰囲気のせいだろう。ディリの宿主のヘンリーはどうしてるかな、宿で働いていたティモール人のエモンはいまも働いているかな、スウェーデンにいるはずのヨハンは論文を書いているかな……、と急に彼らのことが懐かしく頭に浮かんだ。

 その東ティモールの日々から半年がたって、今日、間もなく中国の大地が見えるところに行くのである。ついにここまで来たんだ。気持ちが高ぶった。

 二時間ほど走るとワ族が支配する特別区に入る。地区の入り口には検問があり、荷物検査がある。そして越境料金を払わされる。料金は一人「三六元」だという。そう、ここはビルマ国内であるにもかかわらず通貨は中国の人民元なのだ(人民元はチャイントンで手に入れていた)。料金を払うと渡される領収書のような紙には、ビルマの文字とともに漢字表記があり、また、特別区に入ってすぐの小さな小屋には、漢字で「公厠」と書いてある。トイレだということがすぐわかる。

検問所を抜けてワ族が支配する特別区へ

 ウシが道路を横切るのどかな風景は、特別区に入ってもまったく変わらない。見かける人の様子にも変わりはなく、ゴツい軍人に理不尽に囲まれたりすることもない。

 ただ、漢字表記が目に入ると、急に意思の疎通ができそうな気がしてくる。そしてモンラーの町に着くと、完全に漢字中心の世界となった。まるで中国に着いたかのようだった。

 食堂に入って麻婆豆腐と青椒肉絲を食べたあと、国境へ。中国へとまっすぐに延びる道路には大勢の中国人観光客の姿があった。青空の下、両国の境目をなす場所で多くの中国人が写真を撮り、賑やかに話している。

 国境にあったトイレにもやはり手書きの赤ペンキで「公厠」とあった。入ってみると、年季の入った汚いアジア式スクワット便器(和式の、前方のカバーがないタイプ)がむき出しのまま並んでいた。互いにコンクリートの低い壁で仕切られてはいるものの扉はなく、全貌が見える。便器の横のカゴには使い終わったトイレットペーパーが山積みになり、その隣のバケツには水と手桶が入っている。無機質なコンクリートの壁と床はハードに黒ずみ、突き刺すような刺激的なニオイが充満していた。初めて見たドアなしトイレだった。

 その汚いトイレを眺め、こいつはなかなかすげえなと仰天し、中国がいよいよもうそこにあることを実感した。

 モトコも若干青ざめながら、女性トイレの見学を終えて出てきた。

 「これ、ありえへんな……。中国はずっとこんななんかな」

 と深刻そうな笑いを浮かべた。

 一方そばではTJが、パスポートを持っていないのに国境越えに意欲を見せた。パスポートを持っていたって外国人には越えられない国境だ、それは無理じゃないか、とぼくが言うと、彼は真剣な眼差しで答えた。

 「おれ、アメリカの運転免許証を持ってるんだ。これで国境越えられるかもしれないよ」

 彼はどこまでも自分の国の強さを信じて疑わない人なのだった。

 その後、モンラーが誇る大きなカジノに行った。緑の庭に囲まれた大きな敷地の奥にあるガラス張りの建物がそれだった。金持ちの中国人観光客を目当てとして、中国など外国の資本によってできた施設だとのことで、トムはこここそが取材すべき場所だと目星をつけたようだった。建物は白、ピンク、青でカラフルに仕上げられ、大きなガラスには周囲の景色が映りこむ。全体的にチープな感じは否めなかったが、周囲の町並みから見れば異質な存在で、確かに何やらいろいろ政治的な思惑などが絡んでいそうな雰囲気ではある。

 「中に入ってみようぜ」

 トムの声に従って、秘密のアジトに潜入でもするかのようにみなで中に進んだ。敷地の奥に入っていくと、昼間だったせいか、ガランとして誰も人がいない。なぜか建物の外に檻があり、その中では一頭のトラがもぞもぞと動いていた。そのトラを眺めていた中国人らしき人物が、どういうわけだか突然「オラッ!」とトラに向かって檻の外から蹴りをお見舞いしていた……。

 だが、そんな不可思議さにもかかわらず、建物の中に入ると、ここがビルマ東部と中国南西部の国境の小さな町であることを忘れさせる都会的なカジノ空間が広がっていた。

 その空間は、トムにとっては何やらすごいものだったらしい。

 トムは内部の写真を撮ると、スクープ映像を手にしたように浮かれ騒いだ。そして、併設された豪華なホテルの価格表を手に入れると、極秘情報を入手したかのように「やったぞ、やったぞ!」と喜んだ。トムのはしゃぎようを見てモトコは、「いいおっさんがまったく……」と失笑する。一方ぼくは、とてもそれほど重大な事実をつかんだとは思えなくて、このおっさん、ホントにベテランジャーナリストなのだろうかという疑いばかりが強まってしまった。ぼくの目が節穴で、この場所の重要性に気づけなかった可能性もゼロではないが、それでも明らかにトムははしゃぎすぎだった。

TJとトム(後)。TJの表情が残念で申し訳ないけれど、22年前ということで…。

  たった数時間程度のそんな浮かれたモンラー滞在ではもちろん、ビルマのこの地域への五日間の滞在でも、ぼくがこの国についてわかったことは、決して多くはない。

 ただこの地域が、北の中国と南のタイによって押しつぶされてしまいそうだという感覚を得ることはできた。まるで平板のパレットの上で、赤色と青色に挟まれて置かれた小さな白色の絵の具のように、染み出してくる両国によって、特に北の大国・中国によって、その存在が消されてしまいそうな気すらしたのだ。その象徴の一つが、モンラーであり、あのカジノだといえるのかもしれない。

 モンラーからの帰り、特別区の境界のチェックポイントがある小屋に入ると、中の壁には毛沢東のカレンダーが貼られていた。真っ赤な背景の中で、笑顔の毛沢東が拍手するポーズをとっていた。

 毛沢東のその不敵な笑みを見ながら、国境そばの丘の上にあるお寺から見た風景を思い出した。水色の空の中に、ボリュームのあるもくもくっとした雲が真っ白く輝き、そのすぐ下には、緑の山が緩やかに続いていた。その風景こそが、初めて目にした中国の大地だった。あそこは中国の雲南省。そしてそのどこまでもどこまでもどこまでも先まで、中国であるにちがいなかった。自分たちは、これからあの地に住むことになるのだ。

 ぼくは、数ヵ月後には始まるだろう中国での生活を想像しながら、旅がいよいよ、次のステージに向かっていることを感じていた。

国境から見た中国側の風景。初めて見た中国の大地。

<6 蛆虫とともにうんちが動く?>

In 『中国でお尻を手術。』, 『遊牧夫婦』続編公開

「楽単ランキング」1位に

August 20, 2026

ふと、「みんなのキャンパス」という授業評価ランキングのサイトで大谷大学を見たら、「旅と生き方」をテーマにした自分の授業が、楽単ランキングの堂々1位を獲得してしまっていた笑。どう評価すればいいんだろう。

ちょっとだけ見える「先生の体験談とビデオを見て聞いて〜」というコメントからも確かに楽単感はあるけれど…。

しかし一方、試験の答案を読んでいたら、楽だからと選ばれるのも悪くないかもと思った。というのも、一切旅に興味はなく、遠出もほとんどしたことない、ただ楽そうだから受講したという学生が、授業の途中でとても旅がしたくなって、夏に2週間の旅をすることに決めた、と書いていた。別の学生も、旅なんて自分に関係ないと思っていたが、夏にバイクで日本一周することにした、と。授業をしてよかったと思った。

入り口は「楽そうだから」でも案外良いのかもしれない。

In 大学, 雑感等

『中国でお尻を手術。 遊牧夫婦、アジアを行く』 4 人生最大のコンプレックス、吃音

August 16, 2026

<3 日本人旅行者の死から見えた“日本”>

4 人生最大のコンプレックス、吃音

 香田さんの死を知ってから八日後に、ぼくらはやっとチェンマイを出発した。

 結果的に今回のチェンマイ滞在は、原稿書きのために毎日ネット屋とカフェと宿を行ったり来たりするだけだったものの二週間半にもおよんでしまった。

 チェンマイにいる間に十一月になり、年の瀬が近づいていることを感じ始めた。オーストラリアから徐々に北上を続けてきてすでに八カ月。中国は、随分と近づいていた。

 陸続きで移動し続けると、人の姿かたちが徐々に変わっていくのがわかる。肌の色が濃くて彫りも深かった東ティモールやインドネシアに比べると、タイ北部で会う人はかなり日本人や中国人に近いのっぺりした顔つきに見える。グラデーションをなすように人の姿が変わっていく。バスなどを使って移動してきた道のりを思い出すと、これだけの変化を感じるためにどれだけの距離を、どれだけの時間をかけて、どれだけ汗をかいて移動してきたかを実感できる。それが陸路での移動の醍醐味のように思えた。

 年末までには中国に着きたい。中国に着いたらひとまずこの北上の旅も終わりとなる。そして中国での定住生活を始める前に年末年始に一度日本に帰って、年越しは家族と過ごそうと思っていた。

 旅がまた次の節目を迎えようとしている。オーストラリア・バンバリーでのボランティア生活が第一ステージであるなら、この八カ月の北上の日々は、第二ステージ。それも間もなく終わろうとしているのだ。

 チェンマイを出発する前日、微熱があり体調が悪かったが、朝起きたらよくなっていた。

 朝、ネット屋に行って校正用の原稿(ゲラ)を受信してから、荷物をまとめて出発した。午後一時のバスで、再びビルマと国境の町メーサイに向かった。

 

 二度目となるこのルートを通りながら、ぼくは、時間の経過の速さに焦っていた。まだ旅は始まったばかりだと思っていたのに、いつの間にか二〇〇四年も終わりが見えてきてしまった。日本を出てから一年半となり、もはや旅は始まったばかりといえる段階ではなくなっていた。

 その間に、ライターとして自立するという旅の目的はどれだけ達成されていたのか。実績が限りなくゼロに近かった日本出発時に比べれば少しは進展があったのは間違いない。しかし、書いたものが掲載されることを何度か続けるうちに、今度はいまのままではとても食っていけないという現実が見えるようになってくる。

 バスの窓から遠くに見える緑の山々を眺めながら、今年の自分の収入を計算してみる。連載の一回分が一万円で、あの二つのルポが四万円と五万円。日本を出る前に書いたルポが今年になって掲載されたのが一〇万円、そしてもう一つのあの原稿が……と数えていった。若干の「粉飾決算」をしても年収は五〇万にも満たないじゃないか……。何度数え直しても、結果は変わらない。オレ、大丈夫なんだろうか……。

 中国に着く。年末年始を日本で過ごす。するともう二〇〇五年だ。そのことを考えるたびに、ぼくは焦ったり、気持ちが沈んだりした。

 そして、だからこのころ、自分にとっての一番の悩みであり、コンプレックスであったことが表面化しやすくなっていた。それは冒頭にも少し書いた吃音、すなわちどもりである。

 

 ぼくは高校時代からずっと吃音に悩まされてきていた。

 吃音にも種類があり、ぼくの場合、難発性といって、状況によって言葉がまったく発せられなくなるというものだった。自分の名前など決まった言葉や、言わなければならないと思った言葉を言おうとすると喉のあたりが硬直する感覚に襲われ、そのまま何も言えなくなってしまうのだ。

 高校時代にその問題に自覚的になり、それ以降ずっと吃音が自分にとって一番大きな悩みであり続けた。しかしそれでも、ぼくは基本的にはよくしゃべる方だった。なんとか吃音を人に気づかれないように隠す方法があり、うまくごまかせば、周囲にはほとんど気づかれることなく、一見よどみなく話しているように見せかけることができたのだ。実際、「よく話す陽気なヤツ」と思われていたという意識があっただけに、そのイメージを守りたくて、あえてよく話すように見せかけていた面もあった。

 そんな自分にとって、吃音はどうしても人に知られたくない最大のコンプレックスだった。吃音を隠すために、いつでもすごい神経を使っていた。

 この言葉は言えなそうだ、と思ったら、別の言葉で言い換えることでなんとか切り抜けることができた。しかし言い換えの聞かない言葉を発しなければならないとき、一番困った。それはたとえば、名前だ。

 名前は? と聞かれたら、「近藤」としか言いようがない。そのことが極度に緊張を強いるせいか、言えなかった。だから、自己紹介をしなければならない場面は特にいやだったし、初対面の人と会うのも気が重かった。名前が言えないので電話もできない。いつしか電話の音を聞くだけで怖くなるという電話恐怖症のようなことにもなってしまった。

 また、たとえばマクドナルドで「てりやきマックバーガー」を買おうと決めると、「てりやき」の「て」がどうしても言えなくなる。自分の順番になると、とっさに「えーと、あのー」と悩んでるふりをした挙句、思わず「あ、チーズバーガーください」と、ぱっと言えそうになった言葉を言ってしまったりするのだ。そしてそのたびに、「おれは何をしてんだ……」と落ち込んだものだった。

 高校二年になってバスケ部で主将を務めていたときも、最大の悩みは、円陣を組んだときに掛け声をかけられるかどうかだった。主将としてのプレッシャーなどもあってこのころ吃音はもっともひどい時期を迎えていたが、円陣を組んだときの「イチ、ニ、サン!」「オー!」という掛け声の、主将担当部分の「イチ、ニ、サン!」を言えるかどうか練習中ずっとどきどきしていた。

 円陣を組んですぐに自分が掛け声をかけなければ、「おい、なにしてんだコンドー、早くしろよ」とみな思うだろう。そんな想像をすることで、ますます円陣を組むのが怖くなる。だからぼくは、副主将の柳町にだけは自分の吃音のことを伝えていた。

 「もしおれが円陣でどもりそうだったら、代わりに掛け声かけてくれないか? 足を叩いて知らせるから隣にいてほしい」

 もしものときは柳町に言ってもらえると思うと、気が楽になった。だから、彼が隣にいてくれれば、ほとんどのとき無事に掛け声をかけることができた。それでもどうしても言えないこともあり、ときどき、柳町の掛け声で練習が始まると、みなが不思議そうな顔をする。そのたびにぼくは、苦笑いをしながらさらに激しく落ち込んだものだった。

 吃音を人にばれないように先手を打たなければならない場面は周囲に満ちていた。そのために全エネルギーの半分ぐらいを使っていたかもしれず、いつも疲労困憊していたのだ。

 大学時代、一人で旅をしようと思ったもともとのきっかけも、吃音を克服するためだった。一人で旅をすれば、タフになって吃音なんて吹っ飛んでしまうだろう。そんなことを思い、ぼくは大学二年になる直前の春、オーストラリアに行ったのだ。そこでモトコに出会うことになるのだが、吃音はまったく改善されなかった。

 その後も、吃音を治すため、というのは自分にとってあらゆる行動の源となっていたが、何をしても吃音がなくなることはなかった。ぼくは吃音が自分の人生を大きく左右し出していることをだんだんと実感するようになっていく。

 就職したとしてもこんな状態じゃ仕事に集中できるはずがない。電話ができないんです、なんてことを理解してもらえるはずがない。だから、なんとか組織に所属することなく、自分が持っているスキルでできることを探さないといけない。もはや治すことより、受け入れてなんとか生きていく方法を見出すしかない。そう考えるようになっていった。

 そしてそんなことを思っていたころに、インドに行って旅の魅力を知り、また、沢木耕太郎さんの文章に触れることなどによって、旅をしながらフリーでライターをやっていくという生き方を考えるようになったのだ。

 もちろん、ライターをやっていくには電話が商売道具になるだろうことは容易に想像がつく。そう考えると気が重くなったけれど、それでも、組織に所属して周囲に吃音を隠しながら仕事をしていくよりははるかに気楽に思えた。その方がきっと自分には生きやすいと思った。

 ぼくは日本社会から逃げているという自覚があった。でも、稼いで食っていくことはしなくてはならないし、逃げるならちゃんと自分で稼ぐ方法は見つけて逃げなければいけないとは思っていた。

 逃げるなら本気で、真剣に逃げよう、と。

 そうして、大学院を修了してほとんど経験のないまま、自称ライターとしての日々が始まると、とにかく早いうちに何か一つでも自分でテーマを決めてルポルタージュを書き上げないといけないと思った。とはいえ、何の経験もない自分に何が書けるのだろうか。そう途方に暮れかけたとき、最初に思い浮かんだテーマは、やはり吃音だった。

 吃音で悩む人はどの集団にも平均して一パーセントの割合でいるという。つまり一〇〇人に一人だ。有名人にも多く、調べていくと、マリリン・モンローやブルース・ウィリスなど、とても意外な人物の名前まで出てくることに驚かされた。

 また一方で、当時、「どもり・赤面、治します」のようなコピーで吃音者たちをターゲットにする吃音矯正所というものもよく見かけた。しかし自分が知る限り、こうすれば吃音が治るという方法はないはずだった。だからぼくは、矯正所という存在に少なからぬ胡散臭さを感じていた。吃音矯正所がもし、藁をもすがる思いの吃音者たちの弱みにつけこむビジネスだとしたら――、そう考えると、自分の問題としても怒りがこみ上げてくる。だが吃音のことが一般のメディアで話題になることはほとんどない。少なくともぼくはほとんど聞いたことがなかった。だからきっとこの問題なら、自分独自のものが書けるような気がしたのだ。

 そうして、しどろもどろになりながら電話をかけ、ネットを使い、多数の吃音者に会っていった。吃音矯正所にも連絡を取って話を聞きに行った。

 吃音者に会ってみると、症状の重い人の中には、社会生活が成り立ちがたいような人もいた。ある一人は「自分は障害者として認定してもらいたい。そして支援を受けたい」とも言った。

 一方、いくつか異なる矯正所を取材していくうちに、矯正所というのは、自ら吃音を克服したという人が独自の理論や矯正方法を掲げている場合が多いことがわかってくる。だから、それぞれに矯正方法は異なるし、どれも、科学的根拠はないと確信できるようなものばかりだった。それでもそこにわずかな可能性を見出した吃音者が通い、その結果「やはりこの方法もだめだった」と落胆し、金だけを失うということが繰り返されているのだった。

 ところが、吃音矯正所と吃音者という、結果として「騙す側」と「騙される側」とも見える両者の関係は、必ずしもそのように単純ではないようだった。そのことにぼくは、ある吃音者からの連絡によって気づかされた。

――私にとってクリニック(=矯正所)は神様みたいな存在だったんです。

――自分で選んで受けていまも続けようとしてるわけです。そのやる気を失わせる気持ちにさせるものならば正直見たくも聞きたくもありません。

 それは、東京にあるとりわけ悪名高くきな臭い矯正所に通っていた関西の女性からのメールに書かれていた言葉だ。ぼくがネット上で、この矯正所に対しての意見を求めていたときの返信として届いたものだった。彼女は半年間、関西から東京までこの矯正所を信じて通い続けていた。

 問題は事実なんかじゃない。信じたいという気持ちを壊すようなことはやめてくれませんか――。メールの文面にはそんな思いが滲み出ていた。

 その後、電話で話したとき、彼女はぼくにこう言った。

 「(その矯正所には)いろいろと問題があるのかもしれません。実際、吃音がよくなった気がしているわけでもありません。でも……、知らない人と電話で話すなんていうことは……これまで考えられなかった自分が、……いまこうしてお話しできているということ自体が大きな進歩なんです……」

 彼女にとって、矯正方法の良し悪しや事実関係は、もはや問題ではないのかもしれなかった。ただ、どもりは治るんだと信じさせてほしい、そう信じて行動することで、何かが変わるはずなんだ――そう思う気持ちが伝わってきた。

 取材を続けていくと、この女性の気持ちは、その悪名高い矯正所の代表者自身にも通じることはなのではないかと思えてきた。代表の男性は幼いころから重度の吃音に苦しめられ、その末に克服し、矯正所を開いたというが、彼自身もまだ吃音から逃れることはできていないのではないか、そして、自らの吃音が治るんだということを信じたくて、吃音は治ると言い続け、その理論を作り上げたのではないか、そんな推測が立ってきたのだ。

 吃音という問題でいかに多くの人が悩んでいるか、その悩みがどれだけ多様かを、ぼくは取材をしながら感じることができた。ここには、吃音ということを越えて、何か問題を抱えながら生きるすべての人に通じるテーマが横たわっているような気がした。

 吃音者を通じて、そんな思いをぼくは描きたいと思い、原稿を書いていった。

 取材を進めるうちに、ぼく自身もまた、同じことを考えていることに気づいていった。旅をすることも、このルポを書くことも、それをきっかけに吃音から解放されるのではないか、という思いが常にどこかにあったからなのだ。このときも、取材をするほどに、吃音はやはり治らないとますます確信せざるをえなくなっていったが、いや、でも、これを書くことで、何かよい変化が起こるのではないか……、とかすかな期待を抱いていたことも確かだった。

 知り合いのジャーナリストの方に見てもらったりしながら、なんとか原稿用紙五〇枚程度のルポルタージュらしきものを書き上げることができたのは取材を始めてから半年以上がたってからのことだった。

 そしてある雑誌のルポルタージュの賞に応募した。少しだけ期待しながら結果を待ったが、結果は落選だった。ぼくは大きく落胆した。このときすでに旅に出るのが三ヵ月後に迫っていて、旅立つ前の最後のチャンスと思っていたからだ。しかし救いは、講評の中で編集長がぼくのルポについて励みとなるコメントを寄せてくれていたことだった。

 もう一押ししてみよう。そう思い、思い切ってその雑誌の編集者に連絡をとった。すると、社内での評判も悪くなかったことを教えてくれ、結局長さを半分ほどに縮め、少し追加で取材をすることでなんとか掲載してもらえることが決まったのだ。

 ゲラの修正までを終えた状態で日本を発つことができ、出発してから一ヵ月後に掲載となった。オーストラリアで生活を始めたとき、それだけが唯一、自分をライターだと名乗れる拠り所だった。一方で、これを書くことで吃音を克服できるのではないかという淡い期待は、あっさりと裏切られた。

週刊金曜日「なんとか治したい 吃音矯正所にすがる人々」 第469号(2003年7月25日)

 旅立ってからも、吃音は自分の心の中でいつも大きな比重を占めていた。英語で話すときはどもりがさらに障害となった。というのも日本語なら言葉の言い換えで済むはずのところも、英語では自在に言い回しを変えることができなかったため、どもりそうになるとそのまま話すのをやめるしかなかったからだ。その一方、英語なら、口ごもっていても「英語の単語が出てこないだけなんだろうな」と思ってもらえる気がしたため、かえって気が楽で話しやすいというときもあった。

 しかし、もっともつらかったのは、結局のところいくら英語を勉強しても吃音がなくならない限り流暢に話せることはないんだろうな、と感じてしまうことだった。英語は比較的よく勉強していただけに、それを考えると悔しくてならなかった。

 取材の電話をかけなければならないときなどは、前日から憂鬱になった。実際に電話をかけるときは、とにかく気持ちをハイに持っていかなければならず、そのため、よく隣でモトコに歌を歌ってもらったりした。

 受話器を耳にあて、呼び鈴を聞きながら、なぜかいつも頭のなかで、サッカー日本代表が登場するキリンのCMソングとして知られる"PASSION"を響かせたりしていた。とにかく「うおおー、電話かけるぜ!」といった最大限に盛り上がった気持ちで、相手が受話器を取る瞬間を迎えないとならないという涙ぐましい状況だったのだ。が、電話一本かけることがそこまで一大事になりつつも、実際に相手が電話に出ると毎回ほとんど何も問題なく会話することができるということも経験上わかっているのだった。

 調子がいいときには何日かすっかり影を潜めることもあり、そのときにはとてもうれしくなった。でも油断していると、何かをきっかけにまたひどくなる。旅をしながらもその繰り返しだった。すなわち、どもり具合は、ぼくにとってそのときの自分の精神状態を知る上でのバロメーターのようなものでもあったのだ。

 

 その吃音が、東南アジアも終わりに近づいてきたこのころ、再びとても気になるようになってきていた。カフェでトイレの場所を聞こうと思って店員に話しかけたものの、その先が言えなくなってしまい、「いや、あの、なんでもありません」などということがあると一気に落ち込み、さらに吃音がひどくなった。

 それは明らかに、東南アジア北上という第二ステージが終わり、旅が次の段階に進んでしまうことへの焦りであり、一時帰国するということで日本が見えてきたからであった。ぼくにはいつも、旅が終わりに近づいていくことへの少なからぬ不安があった。そしてその不安は、言葉が話せないふりができない日本に帰ったらさらにどもるんじゃないかという心配ともつながっていたのだ。

<5 中国国境の町へ>

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