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YUKI KONDO WRITER

近藤雄生・こんどうゆうき ライター
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『中国でお尻を手術。 遊牧夫婦、アジアを行く』 5 中国国境の町へ

September 14, 2026

<4 人生最大のコンプレックス、吃音>

5 中国国境の町へ

 バスの中でいろいろと考えているうちに、吃音が意識の中で存在感を増してきてしまった。まったくこういうことばかりなのだ。考えれば考えるほど負のスパイラルに陥ってますます解決は遠のいていく。モトコに話して、

 「まあ、気にしんときやー」

 と涼しい顔で言ってもらって、そうだよな、と無理やり自分に言い聞かせるしかない。そんなときに場所が移動するというのはいい気分転換になる。ぼくらは再び、タイの最北部のメーサイに着こうとしていた。

 バスがメーサイの町から少し離れたバスステーションに着く。降りると目の前には複数のソンテウ(乗り合いタクシー)が客に声をかけながら待っている。その中で、間もなく出発しそうな、人がギュウギュウに乗ったものに、「すみません! 乗せてください」と乗り込んで、町の中心部である国境付近までまた戻った。そして前に泊まったのと同じ「バンブー・ゲストハウス」にチェックインした。

 そうしてとにかく旅は進み、再びビルマとの国境まで来た。ぼくらはこれからビルマに入国する。しかも今度はビザ更新のためではなく、本格的にビルマに入るのだ。

 当初ぼくらはビルマを北上して、ビルマから中国雲南省へと国境を越えようと思っていた。だが、このときはすでにその計画はあきらめていた。

 というのも、ちょうどこの三週間ほど前から、不穏なニュースが入ってきだしたからだ。ビルマの軍事政権内で民主化に積極的なキンニュン首相が拘束・更迭され、首相に近い複数の幹部が逮捕されたらしいというのだ。首相逮捕か、クーデターか、など、情報が錯綜していたが、いずれにしても、民主化を望まない強硬派による政変が起きたようだった。

 しかも気になったのは、この政変らしき動きのニュースの中に、ぼくらが中国へ抜けようとしていた国境の町ムセの名前が出てくることだった。今回の出来事に関連して、ムセで銃撃戦があったとか、そんな情報も目にした。これはまずいな、と思ったのだ。

 もともと、その国境から中国へ陸路で抜けたという話は聞いたことがなく(逆に中国からビルマへ抜けた人はいたようだった)、ネットで調べても、そこは通過できないらしいという声ばかりだった。だが、バンコクでビザを取得するときビルマ大使館で聞いてみると、

 「行ってみないとわからないけれど、ビザがあれば越えられるんじゃないか」

 と、まるで他国のことのような心もとない返事ながらも、越えられそうなことをにおわされたので、じゃあ、とりあえず行ってみようかと考えていた。

 しかし、その町で政変に関連した出来事があったとすれば、しばらく国境が閉鎖される可能性は十分に考えられる。もちろん、それでもかまわず行ってみることもできたのだが、ビルマ国内では外国人には自由な移動が許可されておらず、移動がかなりやっかいなのだ。途中で一部、空路も使わなければならない行程を考えると、メーサイのタイ・ビルマ国境から、ムセの中国・ビルマ国境までは行くのがかなり大変そうで、国境まで行った挙句中国へ抜けられず引き返すことになったら相当面倒な移動になることが予想された。その可能性を考えたとき、無理してその国境を通過しなければならない理由はなかったので、やめることにしたのだ。

 それでも、ビルマへは予定通りに入国した。

 国境となるのは茶色く濁った幅数十メートルほどの小さな川で、その両岸には河にはみ出しそうなほどギリギリまで、白壁の家や木々が並ぶ。その上に架かる橋を渡り、"UNION OF  MYANMAR″と書かれた青いゲートをくぐって、タイのメーサイからビルマのタチレクへ。そこから陸路のみで行ける範囲は限られているが、とりあえず北へ、ビルマ内部へと入っていこうと思っていた。

タイ・ビルマ(ミャンマー)の国境を成す川

 イミグレーションオフィス(入国管理局)で、どこまで行く予定なのかを聞かれたので、「チャイントンまで行きたい」と、ここからさらに北に行った町の名を告げると、すぐに政府の旅行会社Myanmar Tours & Travel(MTT)に連れて行かれた。

 中に入ってみると、ビルマの観光ポスターらしきものがわずかに貼ってある以外、派出所のように殺風景な場所だったが、そこには職員の他に一人の同年代の西洋人の男がいた。

「ヘーイ! おれはTJ(そのままティー・ジェー)っていうんだ。アメリカ人だよ。おれらビルマにいるんだぜ、すげえな! おれの旅はっていうとさ……」

 赤の柄入りバンダナに細ぶちのメガネをかけ、うっすらとヒゲを生やした陽気で感じのよい男だった。しかし若干オレオレなキャラがいかにもアメリカ人らしい。また見ていると、どことなく加藤茶に似ている。カッコよく振舞おうとするが、何かが足りずいまいち雰囲気が出ない、そんな男だ。

 彼もチャイントンへ行くというので(といっても、それ以外の選択肢はほとんどない)、一緒に行くことになった。

 「チャイントンまでか。一人四〇〇バーツ(一〇〇〇円強)でいいぞ」

 MTTで値段を聞くと、肌の浅黒い細身の職員にそう言われた(ここではまだタイバーツが使える)。政府の旅行会社ということでこのMTT自体に怪しげなにおいを感じていたので、「高いな、他もちょっと当たってみるよ」と、揺さぶりをかけつつ、本当に外に出て車かバスかを探して回る。でもどうもそれ以上に安いのは見つからない。そうして、まあ、そんなもんなのかもしれないな、と納得し、MTTのセダンの車に乗っていくことになった。

 四時間ほど北に走って、チャイントンへ。ビルマに入ったとはいえ、道中の雰囲気はタイの田舎とそれほど変わらない。大きな違いは、右側通行、右ハンドルという奇妙な車事情だけだったかもしれない。すなわちドライバーがみな、道の端に近い側に座って運転するという妙なことになっているのだ。そのときはどうしてそんなことになっているのかはわからなかったけれど、その後聞いたところによれば、ビルマも以前は、宗主国のイギリスと同じく車両は左側通行だったものの、ときの独裁者ネウィンが、ひいきにしている占い師の言葉に従って突然右側通行に変えたのだという。だから、左側通行用の右ハンドル車が多いまま、右側通行の国となったようなのだ。

 ちなみに、右ハンドルのため日本の中古車も多く使われているのだろう、あるバスを見ると、それは日本の幼稚園の送迎バスそのままだった。クリーム色の車体には側面にはリスやウサギやチューリップのほんわかしたイラストが描かれ、正面には「久喜幼稚園」という文字が大きく書かれていた。そういえば東ティモールにもヤマト宅急便のトラックが走っていたのを思い出した。

 このあたりは、ビルマの中でも東の僻地として国の中心部分から隔絶されてきた地域だ。北は中国、東はラオス、南はタイに囲まれて、西側に広がるビルマの中央部からも距離がある。アヘンの取引も盛んで、政府としても手に負えない勢力が跋扈してきた土地だった。

 タイからの道が整備されたことによって人の出入りが多くなり開けていったものの、なお袋小路的な場所であることは変わりなかった。外国人は、ここからビルマの中央部へ陸路で抜けることは許されていないし、このちょっと北にある中国国境も越えることはできないとのことだった(これはもともと越えようと思っていた国境とは別)。

 そんな場所なのに、チャイントンで泊まることになった安宿は、予想外にきれいで驚かされた。まだ新しいタイルが敷き詰められた室内は輝いていて、掃除も行き届いているではないか! シーツもきれいでパリッとしていることに逆にびっくりしてしまった。値段は米ドルで一人五ドルだった(通貨が不安定で、米ドルが幅を利かせている)。

 屋上に上がると街一帯が見渡せた。ヤシの木が視界の果てまで緑色に染め、その隙間を埋めるように、白い壁の家が点在していた。

 道路には砂煙が上り、多くのバイクがぶるぶるぶると音を立てて走り抜ける。通りかかったトラックの荷台には赤いローブを着た少年の坊さんたちが大勢立ったまま乗っている。仏教国らしい風景だった。

 しかし同じ仏教国とはいえ、タイと僧侶の雰囲気が異なるのが印象的だった。タイでは少年たちでも僧侶はストイックの感じだったのに、ビルマの小さな僧たちはかわいらしいガキンチョたちが、ただローブをまとっているだけといった様子だった。彼らは陽気に遊び、笑顔を見せ、ときにぼくらに「金をくれ」とせがんできた。

 チャイントンに着いた翌日は、自転車を借りて屋外の大きなマーケットまで走った。ブタが、頭、足、内臓、血液、といったように分解されて並べられているそばで、たまご豆腐と麺を和えた軽食を食べた(これがウマイ)。また、黒いご飯や高菜の漬物のようなものがたびたび目についた。アジアのマーケットはどこも一見同じように見えるものの、やはり少しずつ違いがあり、その違いが面白いんだよなとぼくは思った。

卵豆腐に麺を混ぜたもの。これで25円くらい

 さてその日、昼飯を外で食べていると、二人の西洋人に出会った。旅行者はとても少なかったため、それふうな人と出会うと、思わず目が合い挨拶を交わし、話し出すようになる。

 「おお、あんたらは旅行者かい? まあ、座りなよ」

 大きなヒゲと、村山元首相のような確固たる眉毛を蓄えたマッドサイエンティスト風なおじさんが、そう話しかけてくる。五十代とも六十代とも見える彼はイギリス人でトムといった。一緒にいるクールそうな女性は、イタリア人のエヴァ。彼女は三十歳ぐらいだろうか。

 うながされて同席すると陽気なトムの軽快トークで話は一気に盛り上がっていく。そのうちに、彼ら二人がジャーナリストだということがわかった。そして彼らもぼくが旅をしながら文章を書いていることに興味を持ったようだった。

 「何の雑誌に書いているんだ? 君らもビルマについて書いているのか?」

 トムはブリティッシュイングリッシュで次々に聞いてくる。「シューカンなんとか」と日本の雑誌名を言っても「おお、知ってるよ!」となるわけがないので適当に流し、また、ビルマに書くために来ているというわけではない、とも言った。ついでに自分たちの旅の話を少しすると、彼も饒舌に語り出す。

 「おれは『エコノミスト(The Economist)』にも書いてるんだ。今回も、これから取材して記事を書くつもりなんだ」

 と、若干鼻の穴を大きくした。『エコノミスト』といえば、イギリスを代表するニュース週刊誌ではないか。彼の適当そうな雰囲気とはどうも結びつかないが、年齢的にもそれなりのベテランなのかもしれない。一方エヴァは、多くは語らないものの、話してみるとわりと気さくで、インドネシア語も操るなかなかのやり手風だった。

 「明日、モンラーまで行くんだけど、よかったら一緒にどうだ?」

 トムが言った。モンラーとは、チャイントンのさらに北の、中国との国境をなす町だ。

 「あのあたりはワという民族が自治権を持つ特別区だ。面白い話がたくさんあるはずだよ。そこに行って、おれは記事を書きたいんだ」

 ワ族については、ぼくも本で少し読んでいた。ワイルドで屈強な民族で、好戦的で敵の首を狩る。そしてアヘンの栽培や密売にどっぷり関わっているらしい。すなわち、先に書いた、政府の手に負えない勢力の主要メンバーがこのワ族なのだ。実際彼らは、ビルマ政府との戦いの末に、ビルマ国内に、自治権を持つ地域を手に入れているのだ。

 もちろん、一緒に行くことにした。宿に帰ってTJも誘うと、彼も当然のようにのってきた。

 「お、すげえな、それは! おれも一緒に行かせてくれよ!」

 翌朝。八時半に宿を出る。しかしすぐに出発はできない。チャイントンの外に行くためには、現地人のドライバーを雇い、そのドライバーとともに町のイミグレーションオフィスまで行って許可証をもらわないといけないのだ。自由に移動することは許されず、町ごとに許可証が必要なようだった。TJは、ビザの関係だったか、アメリカ人だったかのため、国境にパスポートを預けていたので手続きが煩雑だったが、なんとかみな許可証が手に入り、すし詰め状態になった白いワゴン車でチャイントンを出発した。

 車内は、陽気に盛り上がる。トムがビルマに関するウンチクを調子よく披露し、そこにエヴァが冷静な注釈をつける。さらにTJが妙な独自見解を述べるも「何言ってんだ、お前は。わかってないな」とトムにすぐに却下される。トムはその合間をぬってくだらないジョークを飛ばし、それをぼくとモトコがさわやかさを装った笑顔で聞きつつ、ギャグのつまらなさに疲労感を蓄積させる。現地出身らしいドライバーはただひたすら運転する。そんな道中だった。

 緩やかな山の間をすり抜けるように走る道路の両脇には、緑の木々や草が繁茂し、上には日本まで続くはずの青い空がどこまでも見えている。時折ウシや人間が姿を見せ、その横をぬって車は北上していった。

 ぼくは東ティモールを思い出していた。数少ない旅行者同士が親しくなり、短期間でも家族のような気分にすらなれる雰囲気のせいだろう。ディリの宿主のヘンリーはどうしてるかな、宿で働いていたティモール人のエモンはいまも働いているかな、スウェーデンにいるはずのヨハンは論文を書いているかな……、と急に彼らのことが懐かしく頭に浮かんだ。

 その東ティモールの日々から半年がたって、今日、間もなく中国の大地が見えるところに行くのである。ついにここまで来たんだ。気持ちが高ぶった。

 二時間ほど走るとワ族が支配する特別区に入る。地区の入り口には検問があり、荷物検査がある。そして越境料金を払わされる。料金は一人「三六元」だという。そう、ここはビルマ国内であるにもかかわらず通貨は中国の人民元なのだ(人民元はチャイントンで手に入れていた)。料金を払うと渡される領収書のような紙には、ビルマの文字とともに漢字表記があり、また、特別区に入ってすぐの小さな小屋には、漢字で「公厠」と書いてある。トイレだということがすぐわかる。

検問所を抜けてワ族が支配する特別区へ

 ウシが道路を横切るのどかな風景は、特別区に入ってもまったく変わらない。見かける人の様子にも変わりはなく、ゴツい軍人に理不尽に囲まれたりすることもない。

 ただ、漢字表記が目に入ると、急に意思の疎通ができそうな気がしてくる。そしてモンラーの町に着くと、完全に漢字中心の世界となった。まるで中国に着いたかのようだった。

 食堂に入って麻婆豆腐と青椒肉絲を食べたあと、国境へ。中国へとまっすぐに延びる道路には大勢の中国人観光客の姿があった。青空の下、両国の境目をなす場所で多くの中国人が写真を撮り、賑やかに話している。

 国境にあったトイレにもやはり手書きの赤ペンキで「公厠」とあった。入ってみると、年季の入った汚いアジア式スクワット便器(和式の、前方のカバーがないタイプ)がむき出しのまま並んでいた。互いにコンクリートの低い壁で仕切られてはいるものの扉はなく、全貌が見える。便器の横のカゴには使い終わったトイレットペーパーが山積みになり、その隣のバケツには水と手桶が入っている。無機質なコンクリートの壁と床はハードに黒ずみ、突き刺すような刺激的なニオイが充満していた。初めて見たドアなしトイレだった。

 その汚いトイレを眺め、こいつはなかなかすげえなと仰天し、中国がいよいよもうそこにあることを実感した。

 モトコも若干青ざめながら、女性トイレの見学を終えて出てきた。

 「これ、ありえへんな……。中国はずっとこんななんかな」

 と深刻そうな笑いを浮かべた。

 一方そばではTJが、パスポートを持っていないのに国境越えに意欲を見せた。パスポートを持っていたって外国人には越えられない国境だ、それは無理じゃないか、とぼくが言うと、彼は真剣な眼差しで答えた。

 「おれ、アメリカの運転免許証を持ってるんだ。これで国境越えられるかもしれないよ」

 彼はどこまでも自分の国の強さを信じて疑わない人なのだった。

 その後、モンラーが誇る大きなカジノに行った。緑の庭に囲まれた大きな敷地の奥にあるガラス張りの建物がそれだった。金持ちの中国人観光客を目当てとして、中国など外国の資本によってできた施設だとのことで、トムはこここそが取材すべき場所だと目星をつけたようだった。建物は白、ピンク、青でカラフルに仕上げられ、大きなガラスには周囲の景色が映りこむ。全体的にチープな感じは否めなかったが、周囲の町並みから見れば異質な存在で、確かに何やらいろいろ政治的な思惑などが絡んでいそうな雰囲気ではある。

 「中に入ってみようぜ」

 トムの声に従って、秘密のアジトに潜入でもするかのようにみなで中に進んだ。敷地の奥に入っていくと、昼間だったせいか、ガランとして誰も人がいない。なぜか建物の外に檻があり、その中では一頭のトラがもぞもぞと動いていた。そのトラを眺めていた中国人らしき人物が、どういうわけだか突然「オラッ!」とトラに向かって檻の外から蹴りをお見舞いしていた……。

 だが、そんな不可思議さにもかかわらず、建物の中に入ると、ここがビルマ東部と中国南西部の国境の小さな町であることを忘れさせる都会的なカジノ空間が広がっていた。

 その空間は、トムにとっては何やらすごいものだったらしい。

 トムは内部の写真を撮ると、スクープ映像を手にしたように浮かれ騒いだ。そして、併設された豪華なホテルの価格表を手に入れると、極秘情報を入手したかのように「やったぞ、やったぞ!」と喜んだ。トムのはしゃぎようを見てモトコは、「いいおっさんがまったく……」と失笑する。一方ぼくは、とてもそれほど重大な事実をつかんだとは思えなくて、このおっさん、ホントにベテランジャーナリストなのだろうかという疑いばかりが強まってしまった。ぼくの目が節穴で、この場所の重要性に気づけなかった可能性もゼロではないが、それでも明らかにトムははしゃぎすぎだった。

TJとトム(後)。TJの表情が残念で申し訳ないけれど、22年前ということで…。

  たった数時間程度のそんな浮かれたモンラー滞在ではもちろん、ビルマのこの地域への五日間の滞在でも、ぼくがこの国についてわかったことは、決して多くはない。

 ただこの地域が、北の中国と南のタイによって押しつぶされてしまいそうだという感覚を得ることはできた。まるで平板のパレットの上で、赤色と青色に挟まれて置かれた小さな白色の絵の具のように、染み出してくる両国によって、特に北の大国・中国によって、その存在が消されてしまいそうな気すらしたのだ。その象徴の一つが、モンラーであり、あのカジノだといえるのかもしれない。

 モンラーからの帰り、特別区の境界のチェックポイントがある小屋に入ると、中の壁には毛沢東のカレンダーが貼られていた。真っ赤な背景の中で、笑顔の毛沢東が拍手するポーズをとっていた。

 毛沢東のその不敵な笑みを見ながら、国境そばの丘の上にあるお寺から見た風景を思い出した。水色の空の中に、ボリュームのあるもくもくっとした雲が真っ白く輝き、そのすぐ下には、緑の山が緩やかに続いていた。その風景こそが、初めて目にした中国の大地だった。あそこは中国の雲南省。そしてそのどこまでもどこまでもどこまでも先まで、中国であるにちがいなかった。自分たちは、これからあの地に住むことになるのだ。

 ぼくは、数ヵ月後には始まるだろう中国での生活を想像しながら、旅がいよいよ、次のステージに向かっていることを感じていた。

国境から見た中国側の風景。初めて見た中国の大地。

In 『中国でお尻を手術。』, 『遊牧夫婦』続編公開

「楽単ランキング」1位に

August 20, 2026

ふと、「みんなのキャンパス」という授業評価ランキングのサイトで大谷大学を見たら、「旅と生き方」をテーマにした自分の授業が、楽単ランキングの堂々1位を獲得してしまっていた笑。どう評価すればいいんだろう。

ちょっとだけ見える「先生の体験談とビデオを見て聞いて〜」というコメントからも確かに楽単感はあるけれど…。

しかし一方、試験の答案を読んでいたら、楽だからと選ばれるのも悪くないかもと思った。というのも、一切旅に興味はなく、遠出もほとんどしたことない、ただ楽そうだから受講したという学生が、授業の途中でとても旅がしたくなって、夏に2週間の旅をすることに決めた、と書いていた。別の学生も、旅なんて自分に関係ないと思っていたが、夏にバイクで日本一周することにした、と。授業をしてよかったと思った。

入り口は「楽そうだから」でも案外良いのかもしれない。

In 大学, 雑感等

『中国でお尻を手術。 遊牧夫婦、アジアを行く』 4 人生最大のコンプレックス、吃音

August 16, 2026

<3 日本人旅行者の死から見えた“日本”>

4 人生最大のコンプレックス、吃音

 香田さんの死を知ってから八日後に、ぼくらはやっとチェンマイを出発した。

 結果的に今回のチェンマイ滞在は、原稿書きのために毎日ネット屋とカフェと宿を行ったり来たりするだけだったものの二週間半にもおよんでしまった。

 チェンマイにいる間に十一月になり、年の瀬が近づいていることを感じ始めた。オーストラリアから徐々に北上を続けてきてすでに八カ月。中国は、随分と近づいていた。

 陸続きで移動し続けると、人の姿かたちが徐々に変わっていくのがわかる。肌の色が濃くて彫りも深かった東ティモールやインドネシアに比べると、タイ北部で会う人はかなり日本人や中国人に近いのっぺりした顔つきに見える。グラデーションをなすように人の姿が変わっていく。バスなどを使って移動してきた道のりを思い出すと、これだけの変化を感じるためにどれだけの距離を、どれだけの時間をかけて、どれだけ汗をかいて移動してきたかを実感できる。それが陸路での移動の醍醐味のように思えた。

 年末までには中国に着きたい。中国に着いたらひとまずこの北上の旅も終わりとなる。そして中国での定住生活を始める前に年末年始に一度日本に帰って、年越しは家族と過ごそうと思っていた。

 旅がまた次の節目を迎えようとしている。オーストラリア・バンバリーでのボランティア生活が第一ステージであるなら、この八カ月の北上の日々は、第二ステージ。それも間もなく終わろうとしているのだ。

 チェンマイを出発する前日、微熱があり体調が悪かったが、朝起きたらよくなっていた。

 朝、ネット屋に行って校正用の原稿(ゲラ)を受信してから、荷物をまとめて出発した。午後一時のバスで、再びビルマと国境の町メーサイに向かった。

 

 二度目となるこのルートを通りながら、ぼくは、時間の経過の速さに焦っていた。まだ旅は始まったばかりだと思っていたのに、いつの間にか二〇〇四年も終わりが見えてきてしまった。日本を出てから一年半となり、もはや旅は始まったばかりといえる段階ではなくなっていた。

 その間に、ライターとして自立するという旅の目的はどれだけ達成されていたのか。実績が限りなくゼロに近かった日本出発時に比べれば少しは進展があったのは間違いない。しかし、書いたものが掲載されることを何度か続けるうちに、今度はいまのままではとても食っていけないという現実が見えるようになってくる。

 バスの窓から遠くに見える緑の山々を眺めながら、今年の自分の収入を計算してみる。連載の一回分が一万円で、あの二つのルポが四万円と五万円。日本を出る前に書いたルポが今年になって掲載されたのが一〇万円、そしてもう一つのあの原稿が……と数えていった。若干の「粉飾決算」をしても年収は五〇万にも満たないじゃないか……。何度数え直しても、結果は変わらない。オレ、大丈夫なんだろうか……。

 中国に着く。年末年始を日本で過ごす。するともう二〇〇五年だ。そのことを考えるたびに、ぼくは焦ったり、気持ちが沈んだりした。

 そして、だからこのころ、自分にとっての一番の悩みであり、コンプレックスであったことが表面化しやすくなっていた。それは冒頭にも少し書いた吃音、すなわちどもりである。

 

 ぼくは高校時代からずっと吃音に悩まされてきていた。

 吃音にも種類があり、ぼくの場合、難発性といって、状況によって言葉がまったく発せられなくなるというものだった。自分の名前など決まった言葉や、言わなければならないと思った言葉を言おうとすると喉のあたりが硬直する感覚に襲われ、そのまま何も言えなくなってしまうのだ。

 高校時代にその問題に自覚的になり、それ以降ずっと吃音が自分にとって一番大きな悩みであり続けた。しかしそれでも、ぼくは基本的にはよくしゃべる方だった。なんとか吃音を人に気づかれないように隠す方法があり、うまくごまかせば、周囲にはほとんど気づかれることなく、一見よどみなく話しているように見せかけることができたのだ。実際、「よく話す陽気なヤツ」と思われていたという意識があっただけに、そのイメージを守りたくて、あえてよく話すように見せかけていた面もあった。

 そんな自分にとって、吃音はどうしても人に知られたくない最大のコンプレックスだった。吃音を隠すために、いつでもすごい神経を使っていた。

 この言葉は言えなそうだ、と思ったら、別の言葉で言い換えることでなんとか切り抜けることができた。しかし言い換えの聞かない言葉を発しなければならないとき、一番困った。それはたとえば、名前だ。

 名前は? と聞かれたら、「近藤」としか言いようがない。そのことが極度に緊張を強いるせいか、言えなかった。だから、自己紹介をしなければならない場面は特にいやだったし、初対面の人と会うのも気が重かった。名前が言えないので電話もできない。いつしか電話の音を聞くだけで怖くなるという電話恐怖症のようなことにもなってしまった。

 また、たとえばマクドナルドで「てりやきマックバーガー」を買おうと決めると、「てりやき」の「て」がどうしても言えなくなる。自分の順番になると、とっさに「えーと、あのー」と悩んでるふりをした挙句、思わず「あ、チーズバーガーください」と、ぱっと言えそうになった言葉を言ってしまったりするのだ。そしてそのたびに、「おれは何をしてんだ……」と落ち込んだものだった。

 高校二年になってバスケ部で主将を務めていたときも、最大の悩みは、円陣を組んだときに掛け声をかけられるかどうかだった。主将としてのプレッシャーなどもあってこのころ吃音はもっともひどい時期を迎えていたが、円陣を組んだときの「イチ、ニ、サン!」「オー!」という掛け声の、主将担当部分の「イチ、ニ、サン!」を言えるかどうか練習中ずっとどきどきしていた。

 円陣を組んですぐに自分が掛け声をかけなければ、「おい、なにしてんだコンドー、早くしろよ」とみな思うだろう。そんな想像をすることで、ますます円陣を組むのが怖くなる。だからぼくは、副主将の柳町にだけは自分の吃音のことを伝えていた。

 「もしおれが円陣でどもりそうだったら、代わりに掛け声かけてくれないか? 足を叩いて知らせるから隣にいてほしい」

 もしものときは柳町に言ってもらえると思うと、気が楽になった。だから、彼が隣にいてくれれば、ほとんどのとき無事に掛け声をかけることができた。それでもどうしても言えないこともあり、ときどき、柳町の掛け声で練習が始まると、みなが不思議そうな顔をする。そのたびにぼくは、苦笑いをしながらさらに激しく落ち込んだものだった。

 吃音を人にばれないように先手を打たなければならない場面は周囲に満ちていた。そのために全エネルギーの半分ぐらいを使っていたかもしれず、いつも疲労困憊していたのだ。

 大学時代、一人で旅をしようと思ったもともとのきっかけも、吃音を克服するためだった。一人で旅をすれば、タフになって吃音なんて吹っ飛んでしまうだろう。そんなことを思い、ぼくは大学二年になる直前の春、オーストラリアに行ったのだ。そこでモトコに出会うことになるのだが、吃音はまったく改善されなかった。

 その後も、吃音を治すため、というのは自分にとってあらゆる行動の源となっていたが、何をしても吃音がなくなることはなかった。ぼくは吃音が自分の人生を大きく左右し出していることをだんだんと実感するようになっていく。

 就職したとしてもこんな状態じゃ仕事に集中できるはずがない。電話ができないんです、なんてことを理解してもらえるはずがない。だから、なんとか組織に所属することなく、自分が持っているスキルでできることを探さないといけない。もはや治すことより、受け入れてなんとか生きていく方法を見出すしかない。そう考えるようになっていった。

 そしてそんなことを思っていたころに、インドに行って旅の魅力を知り、また、沢木耕太郎さんの文章に触れることなどによって、旅をしながらフリーでライターをやっていくという生き方を考えるようになったのだ。

 もちろん、ライターをやっていくには電話が商売道具になるだろうことは容易に想像がつく。そう考えると気が重くなったけれど、それでも、組織に所属して周囲に吃音を隠しながら仕事をしていくよりははるかに気楽に思えた。その方がきっと自分には生きやすいと思った。

 ぼくは日本社会から逃げているという自覚があった。でも、稼いで食っていくことはしなくてはならないし、逃げるならちゃんと自分で稼ぐ方法は見つけて逃げなければいけないとは思っていた。

 逃げるなら本気で、真剣に逃げよう、と。

 そうして、大学院を修了してほとんど経験のないまま、自称ライターとしての日々が始まると、とにかく早いうちに何か一つでも自分でテーマを決めてルポルタージュを書き上げないといけないと思った。とはいえ、何の経験もない自分に何が書けるのだろうか。そう途方に暮れかけたとき、最初に思い浮かんだテーマは、やはり吃音だった。

 吃音で悩む人はどの集団にも平均して一パーセントの割合でいるという。つまり一〇〇人に一人だ。有名人にも多く、調べていくと、マリリン・モンローやブルース・ウィリスなど、とても意外な人物の名前まで出てくることに驚かされた。

 また一方で、当時、「どもり・赤面、治します」のようなコピーで吃音者たちをターゲットにする吃音矯正所というものもよく見かけた。しかし自分が知る限り、こうすれば吃音が治るという方法はないはずだった。だからぼくは、矯正所という存在に少なからぬ胡散臭さを感じていた。吃音矯正所がもし、藁をもすがる思いの吃音者たちの弱みにつけこむビジネスだとしたら――、そう考えると、自分の問題としても怒りがこみ上げてくる。だが吃音のことが一般のメディアで話題になることはほとんどない。少なくともぼくはほとんど聞いたことがなかった。だからきっとこの問題なら、自分独自のものが書けるような気がしたのだ。

 そうして、しどろもどろになりながら電話をかけ、ネットを使い、多数の吃音者に会っていった。吃音矯正所にも連絡を取って話を聞きに行った。

 吃音者に会ってみると、症状の重い人の中には、社会生活が成り立ちがたいような人もいた。ある一人は「自分は障害者として認定してもらいたい。そして支援を受けたい」とも言った。

 一方、いくつか異なる矯正所を取材していくうちに、矯正所というのは、自ら吃音を克服したという人が独自の理論や矯正方法を掲げている場合が多いことがわかってくる。だから、それぞれに矯正方法は異なるし、どれも、科学的根拠はないと確信できるようなものばかりだった。それでもそこにわずかな可能性を見出した吃音者が通い、その結果「やはりこの方法もだめだった」と落胆し、金だけを失うということが繰り返されているのだった。

 ところが、吃音矯正所と吃音者という、結果として「騙す側」と「騙される側」とも見える両者の関係は、必ずしもそのように単純ではないようだった。そのことにぼくは、ある吃音者からの連絡によって気づかされた。

――私にとってクリニック(=矯正所)は神様みたいな存在だったんです。

――自分で選んで受けていまも続けようとしてるわけです。そのやる気を失わせる気持ちにさせるものならば正直見たくも聞きたくもありません。

 それは、東京にあるとりわけ悪名高くきな臭い矯正所に通っていた関西の女性からのメールに書かれていた言葉だ。ぼくがネット上で、この矯正所に対しての意見を求めていたときの返信として届いたものだった。彼女は半年間、関西から東京までこの矯正所を信じて通い続けていた。

 問題は事実なんかじゃない。信じたいという気持ちを壊すようなことはやめてくれませんか――。メールの文面にはそんな思いが滲み出ていた。

 その後、電話で話したとき、彼女はぼくにこう言った。

 「(その矯正所には)いろいろと問題があるのかもしれません。実際、吃音がよくなった気がしているわけでもありません。でも……、知らない人と電話で話すなんていうことは……これまで考えられなかった自分が、……いまこうしてお話しできているということ自体が大きな進歩なんです……」

 彼女にとって、矯正方法の良し悪しや事実関係は、もはや問題ではないのかもしれなかった。ただ、どもりは治るんだと信じさせてほしい、そう信じて行動することで、何かが変わるはずなんだ――そう思う気持ちが伝わってきた。

 取材を続けていくと、この女性の気持ちは、その悪名高い矯正所の代表者自身にも通じることはなのではないかと思えてきた。代表の男性は幼いころから重度の吃音に苦しめられ、その末に克服し、矯正所を開いたというが、彼自身もまだ吃音から逃れることはできていないのではないか、そして、自らの吃音が治るんだということを信じたくて、吃音は治ると言い続け、その理論を作り上げたのではないか、そんな推測が立ってきたのだ。

 吃音という問題でいかに多くの人が悩んでいるか、その悩みがどれだけ多様かを、ぼくは取材をしながら感じることができた。ここには、吃音ということを越えて、何か問題を抱えながら生きるすべての人に通じるテーマが横たわっているような気がした。

 吃音者を通じて、そんな思いをぼくは描きたいと思い、原稿を書いていった。

 取材を進めるうちに、ぼく自身もまた、同じことを考えていることに気づいていった。旅をすることも、このルポを書くことも、それをきっかけに吃音から解放されるのではないか、という思いが常にどこかにあったからなのだ。このときも、取材をするほどに、吃音はやはり治らないとますます確信せざるをえなくなっていったが、いや、でも、これを書くことで、何かよい変化が起こるのではないか……、とかすかな期待を抱いていたことも確かだった。

 知り合いのジャーナリストの方に見てもらったりしながら、なんとか原稿用紙五〇枚程度のルポルタージュらしきものを書き上げることができたのは取材を始めてから半年以上がたってからのことだった。

 そしてある雑誌のルポルタージュの賞に応募した。少しだけ期待しながら結果を待ったが、結果は落選だった。ぼくは大きく落胆した。このときすでに旅に出るのが三ヵ月後に迫っていて、旅立つ前の最後のチャンスと思っていたからだ。しかし救いは、講評の中で編集長がぼくのルポについて励みとなるコメントを寄せてくれていたことだった。

 もう一押ししてみよう。そう思い、思い切ってその雑誌の編集者に連絡をとった。すると、社内での評判も悪くなかったことを教えてくれ、結局長さを半分ほどに縮め、少し追加で取材をすることでなんとか掲載してもらえることが決まったのだ。

 ゲラの修正までを終えた状態で日本を発つことができ、出発してから一ヵ月後に掲載となった。オーストラリアで生活を始めたとき、それだけが唯一、自分をライターだと名乗れる拠り所だった。一方で、これを書くことで吃音を克服できるのではないかという淡い期待は、あっさりと裏切られた。

週刊金曜日「なんとか治したい 吃音矯正所にすがる人々」 第469号(2003年7月25日)

 旅立ってからも、吃音は自分の心の中でいつも大きな比重を占めていた。英語で話すときはどもりがさらに障害となった。というのも日本語なら言葉の言い換えで済むはずのところも、英語では自在に言い回しを変えることができなかったため、どもりそうになるとそのまま話すのをやめるしかなかったからだ。その一方、英語なら、口ごもっていても「英語の単語が出てこないだけなんだろうな」と思ってもらえる気がしたため、かえって気が楽で話しやすいというときもあった。

 しかし、もっともつらかったのは、結局のところいくら英語を勉強しても吃音がなくならない限り流暢に話せることはないんだろうな、と感じてしまうことだった。英語は比較的よく勉強していただけに、それを考えると悔しくてならなかった。

 取材の電話をかけなければならないときなどは、前日から憂鬱になった。実際に電話をかけるときは、とにかく気持ちをハイに持っていかなければならず、そのため、よく隣でモトコに歌を歌ってもらったりした。

 受話器を耳にあて、呼び鈴を聞きながら、なぜかいつも頭のなかで、サッカー日本代表が登場するキリンのCMソングとして知られる"PASSION"を響かせたりしていた。とにかく「うおおー、電話かけるぜ!」といった最大限に盛り上がった気持ちで、相手が受話器を取る瞬間を迎えないとならないという涙ぐましい状況だったのだ。が、電話一本かけることがそこまで一大事になりつつも、実際に相手が電話に出ると毎回ほとんど何も問題なく会話することができるということも経験上わかっているのだった。

 調子がいいときには何日かすっかり影を潜めることもあり、そのときにはとてもうれしくなった。でも油断していると、何かをきっかけにまたひどくなる。旅をしながらもその繰り返しだった。すなわち、どもり具合は、ぼくにとってそのときの自分の精神状態を知る上でのバロメーターのようなものでもあったのだ。

 

 その吃音が、東南アジアも終わりに近づいてきたこのころ、再びとても気になるようになってきていた。カフェでトイレの場所を聞こうと思って店員に話しかけたものの、その先が言えなくなってしまい、「いや、あの、なんでもありません」などということがあると一気に落ち込み、さらに吃音がひどくなった。

 それは明らかに、東南アジア北上という第二ステージが終わり、旅が次の段階に進んでしまうことへの焦りであり、一時帰国するということで日本が見えてきたからであった。ぼくにはいつも、旅が終わりに近づいていくことへの少なからぬ不安があった。そしてその不安は、言葉が話せないふりができない日本に帰ったらさらにどもるんじゃないかという心配ともつながっていたのだ。

<5 中国国境の町へ>

In 『中国でお尻を手術。』, 『遊牧夫婦』続編公開

『中国でお尻を手術。 遊牧夫婦、アジアを行く』 3 日本人旅行者の死から見えた“日本”

July 17, 2026

<2 元旅人の西洋人僧侶、プラ・ノア>

3 日本人旅行者の死から見えた“日本” 

 タイは四つの国と国境を接している。南はマレーシア、南東はカンボジア、北東はラオス。北西から西にかけてはビルマ(ミャンマー、当時の自分たちの呼称に合わせて以下ビルマに統一する)だ。

 ワット・プラタート・ドイ・ステープでの瞑想の日々が終わり、チェンマイで数日飲み食いに励むと、さらに北西に移動した。そして、タイのほぼ北端のメーサイから、メーサロン、メーホーンソン、メーソットという具合に、ビルマとの国境そばを北から反時計回りに動いていった。

 この国境近傍は、実に興味の尽きない一帯だった。

 チェンマイからまず、国境の町メーサイを訪れ(ここからビルマに入国できる。ぼくらはこのとき、タイの滞在資格を延ばすため、半日だけビルマに入った。一度国境を越えると、さらに一ヵ月ビザなしでタイにいられるようになる)、それからぼくらはメーサロンという中国人の村に向かった。なぜこんなタイの山奥に中国人の村があるのかといえば、これは「残党村」なのだ。すなわち、毛沢東率いる共産党軍との戦いに敗れた国民党の軍隊の一部が逃げ延びて作り上げた村なのである。

中国人の村メーサロン。尾根に沿って線上に村が続く。

 中国では第二次大戦の前後をまたいで国民党と共産党の内戦、いわゆる「国共内戦」が続いていた。その戦いは、一九四九年、共産党が勝利し、毛沢東をトップに据えた中華人民共和国が建国されることで終結する。

 蒋介石率いる国民党の国民革命軍の大部分は、共産党に敗北したあと台湾へ逃れたが、中国南西部の雲南省にいたその一部は、より近くの東南アジアへと逃げ延びた。徒歩や馬で南下し、まずビルマへ渡り、それからタイ北部までやってきた。そうしてたどり着いたのがここ、メーサロンなのだ。

 彼らはこの地で訓練を続けながら、いつか再び中国へ攻め入り、国民党による「中華民国」を復活させる日を夢見ていた。その間の生活の糧は、アヘンの栽培によって得た。この地域は、「ゴールデントライアングル」と呼ばれる世界の一大麻薬地帯なのである。また、この地にとどまるために、当時タイで勢力を強めていたタイ共産党の軍とも戦うことを余儀なくされた。

 そのように生き延びる方法を模索しながらなんとかこの地を拠点として、台湾からの指令を待った。しかしその指令が来ることはついになかった。

国民党軍の退役軍人クラブ(?)「栄民之家」。蒋介石、孫文の写真やその他旗などが方々に。中にいたのは、負傷した兵士やらその家族だとか。筆談でかろうじて会話。

 何十年もたつうちに、いつしか人々はこの地に根を張り出した。ここタイで国籍を取得してタイ人として暮らすために、武装解除に応じ、麻薬取引からも手を引いた。そしてメーサロンは、お茶を主な産業とした平和な中国人村となっていったのだ。

 村は、緑溢れる山奥の一本の尾根上に細長く延びていた。その尾根の上をなぞるメインストリートの左右には、漢字表記の看板とお茶屋さんが並んでいる。歩くと、東アジア系の顔立ちの人の姿が多数見え、中国語らしき言葉がほうぼうで聞こえてくる。

 「ニイハオ!」

 と挨拶すると、見た目的にもきっと同じ中国人だと思われたのだろう。お茶屋の店員のおばちゃんや女の子が、次々に中国語で話しかけてくる。だが、彼らが何を言っているのかほとんどわからない。ただ笑ってごまかし、「日本人です」と、正しい発音がわからないまま「リーベンレン」と繰り返した(日本人の意味。ただし、「リ」も「レ」もカタカナ表記と実際の発音はかなり異なる)。

 餃子屋があり、水餃子と焼き餃子を食べた。朝のマーケットであんまんとおこわを買った。どれもおいしかった。中国がそのまま、移転してきたような場所で、この地にいると、中国が本当に近いことが感じられた。

 中国人村メーサロンのあとは、南北に延びるビルマとの国境線に沿う形で南下していった。ここでぼくたちは、残留日本兵と呼ばれる人たちの存在を知った。それは、戦争が終わったあと、なんらかの理由で日本に帰らず現地にとどまることを決めた元兵士たちだ。みなそれぞれ終戦後に収容所を脱出するなどしてこの地に住み出したのだ。

 メーホーンソンでは、いまは亡き残留日本兵の家族に出会った。ちょっとした情報から彼らの存在を知り、探してみるとすぐに会えた。その家族が、元日本兵の本名すら知らないまま、長年一緒に過ごしてきたことを聞いて驚いた。彼の妻も、息子も、孫も、彼のことを「ラペ」というこの地でつけられた名前のみで知り、彼が過去に何をしていたか、戦争中はどうしていたかなどはまったく知らないようだったのだ。

 だがそれは逆にいえば、その元日本兵がきっとこの地で、それまでとはまったく違った新たな人生を送っていたということなのかもしれない。ぼくらはこの人物を元日本兵としてばかり見てしまうけれど、彼には、夫として、父として、祖父として、そして村の一人の男としての、長い人生がその後にあったのだ。そんな当たり前のことに改めて気づかされた。

亡き日本兵「ラぺ」さんの妻と孫

 その後さらに南に下ってメーソットに行くと、別の二人の元日本兵に会うことができた。二人ともすでに八十代半ばで、ともにとても穏やかな表情が印象に残った。そのうちの一人、中野弥一郎さんは、こう言った。

 「十五年前に、戦友の説得で一度だけ日本に帰ったことがあるんです。五十年ぶりの故郷新潟は、道路もライトもすべて変わっていて昔の面影はありませんでした。五人いた兄弟もすでに姉と弟と自分の三人だけになっていましてね。墓参りなどをして回って、二十日間だけでタイに戻ってきたんです。日本へ帰って暮らしていればよかったという気持ちもありましたよ。でも、いまはもう考えません。自分で決めて残ったのだから、最後まで残ります」

 出征前に母親からもらったお守りを、彼はまだ大切に持っていた。それが唯一、自分の身体とともに戦場から生き延びてきたものだという。半世紀分の色が染み込んだその小さな紙片には、中野さんの日本への思いのすべてが詰め込まれているような気がした。

中野弥一郎さん

 そしてさらにメーソットでは、ビルマの内戦からタイに逃れてきた難民の若者たちとも多くの時間を一緒に過ごすことができた。先の見えないなか必死に勉強し、自らの道を切り開こうとする彼らの姿に、自分ももっとがんばらないと、と思わされた。

 国境という境界線が人為的なものだからこそ、その周りにはさまざまなひずみが凝縮される。そのひずみの中に、中国も、日本も、姿を現した。国境の面白さはまさにそのひずみの強さにあるのだろうとぼくは感じた。

 毎日を夢中で過ごし、気が付くとこの国境付近で一ヵ月ほどがたっていた。

ソンテウ(乗合バス・タクシー)で移動中に

*

 国境地帯から久々にチェンマイに戻ると、少しのんびりしながら原稿を書くという時間を過ごした。このときは主に、メーソットで取材したビルマの難民の話を書いていた。

 原稿書きはいつも、ネットカフェに通って資料を調べながら進めていく。このころになると、ネットを使って国連機関やNGOの資料、新聞記事を読むことにもだいぶ慣れてきた。英語は、話せることはもちろん重要だが、それと同じくらい、大量の資料をちゃんと読めるかどうかが重要であることも実感するようになっていた。ネット上において出所がはっきりしていて信頼しうる資料が、英語だと、日本語に比べて比較にならないほどたくさん見つけられるからだ。それを読もうという気力を持てるかどうか、そして実際に読めるかどうかが、記事を書けるかどうかの分かれ道にもなった。

 一方、原稿の作成は、編集者とのやり取りがメールだけで行われるため、どうしてもスムーズに行かず時間がかかってしまう。このときは、締め切りが近かったこともあり、ある原稿が完全に仕上がるまでチェンマイを動くことができなかった。小さな町に移動してしまってから、「やばい、ネットができない!」という展開になるとまずいからだ。

 取材し、原稿を書くという経験が増えるにしたがって、だんだんとモトコが重要な役割を果たすようになっていった。

 ぼくが取材したいと思うことには彼女も大抵興味を持ち、多くの場合、取材に一緒について来てくれた。話を聞くときにメモを取ってくれたり、またぼくとは違ったモトコならではの質問をしてくれたりもした。また、女性に話を聞くときなどはよく、モトコと一緒でよかったなと思った。一人だったらおそらく「なによこのヒゲのデカイ男は?」と警戒されていただろう場面も、女性のモトコがいることですんなりと進むからだ。

 原稿を書いたときにも、いつも最初にモトコに読んでもらった。もっとも彼女以外に書いたものを見てくれる人はいなかったのだけれど、彼女は率直に意見を言ってくれるので、自分にとっては貴重な編集者的存在でもあった。

 「全然面白くないで。ちょっと書き直した方がええんちゃう?」

 などと彼女は平気で言ってくるのだ。まずはモトコに面白いと言ってもらえることが原稿を書く上での最初のハードルだった。

 とはいえモトコは、ぼくが取材を終えて、どこかの街でひたすら原稿に取り組む日々になると、いつも不満そうではあった。旅自体の行き先については、どちらかと言えば彼女の方が積極的に調べ考えていたので、行きたいところが複数あっても、ぼくの原稿完成を待たないといけなかったからだ。

 「早く仕上げやー。明後日には出られる? そしたらこの村に行こうさ」

 モトコは都会でダラダラというのは決してそんなに好きではないのだった。

 しかしこのときのチェンマイでは、モトコは新たな楽しみを見つけていた。ちょっと裏道に入った、涼しく閑静な通りに、カフェを兼ねた小さなアートスクールを発見し、そこにあった短期滞在者向けの数日間の写真のコースに通うことにしたのだ。

 ぼくもモトコも写真を撮るのは好きで、できれば本格的に習ってみたいとも思っていたので、彼女にとってチェンマイでそういう機会があるのは思いがけずうれしいことだった。

 ゆっくりと時間が流れるチェンマイの町をモトコは写真に収め、それを自分で現像、プリントした。その間ぼくはスクールの下のカフェで原稿を書いたり、近くのネット屋に原稿を送信しに行ったりした。そうして、チェンマイでの穏やかな毎日は過ぎていった。

 

 そんなある日のことだった。驚愕のニュースをネットで知った。一人の日本人旅行者がイラクで人質になった、というのだった。

 それを知ってすぐに、NHKが見られる食堂に行ってテレビのニュースを確認すると、香田証生さんという若者が黒い服を着たイスラム過激派の男たちに囲まれて座っている映像が映し出された。自分たちと同じ年くらいで、同じような旅をしていそうな彼が、カメラに向かって恐怖を押し殺すような様子でこう言った。

 「すみませんでした。また日本に戻りたいです」

 いままさに彼が、テレビに映し出されているこの状況にいると思うと、言葉を失った。どんな気持ちでカメラの前に座っているのか。想像を絶する彼の窮地に、ただただぼくは呆然とした。

 それから毎日、朝はネット屋で仕事を進めながら事件の展開を追った。昼にはNHKを見るためにいつも同じ食堂に通った。ちょうど新潟県中越地震の被災者の救出作業が進んでいたときで、それとともに香田さんのことが連日報道されていた。

 しかしテレビでもネットでも、どうも日本社会は香田さんにひどく冷淡に見えた。「まったくバカで迷惑な若者だ」という声ばかりが目についたのだ。救出をリードすべき町村外相(当時)が、「危険なことが十二分にわかっていながら、なぜ旅行したのか、誠に理解に苦しむ」と真っ先に批判を公言したというのも、あまりにも冷たく響き、憤りすら感じた。

 ニュースを知ってから三日後には遺体発見かと報じられた。その後、違ったことがわかりほっとしたが、その翌日には、今度は本当に香田さんの死が確認されたことを知った。最悪の形で事件は終結することになってしまった。

 その結末が現実になったとき、それが自分にとって思っていた以上に衝撃的な出来事であったことをぼくは実感した。香田さんが哀れでならなかった。何を思い、最後の数日を過ごしていたのか。どんな思いで最期を迎えたのか……。長期で旅をしてきた自分たちにとって決して他人事ではなかったのだ。

 確かに当時、旅行者としてイラクに行くことは無謀だと言われても仕方ないとは思ったが、その一方で、彼の気持ちは、自分も含め多くの個人旅行者たちにとってまったく理解できないものではないようにも思えた。

 一般に、危険だ危険だといわれているところも、実際にはもちろん普通に人が日々の営みを持っている。危険だらけの場所なんてないんだという印象は、実際に旅をしてみると感じることが多々あった。たとえば、東ティモールがそうだった。オーストラリアのダーウィンで、旅行代理店の人などに「何しに行くんだ?」と何度も言われ続け、国連軍が去ったあとには何かが起こるかもしれないという予想や噂をネットで何度も目にしたのに、実際に着いてみると、少なくとも、自分たちが見た限りにおいては平和そのものだったのだ。

 ニュースは基本的に平和な様子は伝えない。どんなひどい戦いがあった、どれだけの人が死んだ、そういうことばかりがニュースになる。しかし実際には、どんな大きな問題で苦しんでいる国にも町にも、やはり生きている人がいて、なんの変哲もない普通の生活がある。決して、ひっきりなしに戦いが続いていたりするわけではないのだ。

 香田さんは、イラクの前にイスラエルにいたということだったが、イスラエルで彼もそんなことを感じていたのかもしれない。オーストラリアのバンバリーでイスラエル人の旅行者に会ったとき、その旅行者がこう言っていたのを思い出す。

 「イスラエルはテロのことばかりがニュースになっていて、どこ行っても爆発ばかり起きているように思っているかもしれないけど、そんなことはない。危ないといわれている特定の場所に行かなければ普段は全く平和なところなんだ」

 もしかしたら香田さんもイスラエルで実際にそう感じて、「イラクがいくら危ないっていっても、実際はそれほどではないんじゃないか」と思ったのではないだろうか(当時のイラクの場合、外国人であることで人質の標的になりうるため、単純に現地が平穏かどうかの問題だけではなかったが)。

 そしてまた、危険を回避しようとしすぎると、旅の醍醐味は損なわれていく。人に対して警戒しすぎると、貴重な出会いを失ってしまう。

 危険かどうかの境界は極めてあいまいだ。また運にも左右される。旅を続ければ続けるほど、その境界がなんとなく感覚として見えてくるようになる。理屈ではなく、なんとなくこれ以上行ってしまってはまずいかもしれない、という一線の存在が感じられるようになる。そうして自然と危険の回避方法が身についていく。

 ただし同時に、危険への感度が鈍くなってもいくものだ。一般に危険といわれている場所でも、実際にはほとんどの場合は大丈夫だということを体験として知るようになるからだ。だが、何か起きるときには、やはり起きてしまうのだ。

 自分にもこのころそんな感覚が芽生え出していたため、ぼくは香田さんの決断が、まったく信じられないというふうには正直思えなかった。

 遺体が香田さんのものだとわかったあと、ネットで見た報道によれば、香田さんの両親は、次のようなメッセージを発表したという。

 「支えていただいた多くの方々に、大変なご心労をおかけしましたことを心からおわび申し上げますとともに、お礼と感謝の気持ちでいっぱいです。このようにはなりましたが、イラクの人たちに一日も早く平和が訪れますようお祈りいたしております」

 ぼくにはこれがどうしても、異国で息子を殺された親の言葉としては読めなかった。いや確かに香田さんの両親は、そう発表したのだろう。しかし、本当に言いたいことは他にあったように思えてならない。

 この年の四月に三人の日本人がイラクで人質になったとき、ぼくらはちょうどバンによるオーストラリア大陸縦断の旅が終わろうとしていたときで、最終目的地、ダーウィンのそばにいた。同時期にバンでの北上を続けていたオランダ人のレミーとクリステルにその話をして、日本では人質に対してバッシングが起こっているらしいということを話すと、ジャーナリストであるレミーは心底、驚き、怒っていた。ぼくが、日本では戦場に行くのは大抵がフリーのジャーナリストで、大手メディアは社員を危険な場所には派遣しないのが普通なんだよと一般的な状況を伝えると、彼はこう言った。

 「危険な戦場こそ、十分な訓練を受けた専門のジャーナリストがメディアの強力なバックアップのもとで、高い報酬をもらって派遣されるべきじゃないか。フリーの人たちが自らのリスクで戦場に行って、何かあったら大手メディアは一切責任を取らないなんてまったく考えられない。テレビで戦場の様子が見られるのは、そこに誰かが命を懸けて行っているからなんだ。その人がちゃんと守られてなくていったいどうやって報道が成立するんだよ」

 まったくその通りだと思った。一時期メディアに氾濫した「自己責任」という言葉は、無責任な日本社会を象徴する言葉のようにぼくには聞こえた。海外にも同じように響いていたのだろうと思う。

 旅行者としてイラクに行った香田さんの場合は、確かにジャーナリストなどの場合とは状況が違うが、それでも両親が、まず「おわび」や「感謝」を表明しなければならなかったのは、四月に人質となった先の三人が受けたバッシングと決して無関係ではなかったはずだ。

 もちろん、自分の選択でイラクへ入り人質となってしまったことは、誰のせいにすることもできない。おそらく香田さん自身もそれはわかっていただろうと思う。彼が「すみません」と謝りはしたものの、「助けて」とは言わなかったのには、そんな気持ちが見え隠れする。

 彼は確かに判断を誤った。そして彼自身もおそらくそれを自覚していた。

 しかしそれでも、絶体絶命の状態に陥ってしまった若い同胞に対して、日本人はもっと同情してもいいのではないかと思った。間違いを犯してしまった若者にどうしてもっと寛容になれないのかと思った。

 まず助けるための声を上げ、叱るなら帰ってきてから叱ればいいのではないか。「税金を使って助けるなんて」という声を聞くたびに、あまりの狭量さに信じられない思いがした。誰でも生きていれば誤りを犯すし、みな人に迷惑をかけながら生きているのだから……。

 事件はぼくの胸のなかにどっしりと沈み込んだ。いつまでも消えることのなさそうなドロリとしたその感触は、いまも、チェンマイのネットカフェでニュースを追っていたときの気持ちを鮮明に思い出させる。 

チェンマイ

<4 人生最大のコンプレックス、吃音>

In 『中国でお尻を手術。』, 『遊牧夫婦』続編公開
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