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YUKI KONDO WRITER

近藤雄生・こんどうゆうき ライター
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『中国でお尻を手術。 遊牧夫婦、アジアを行く』 3 日本人旅行者の死から見えた“日本”

July 17, 2026

<2 元旅人の西洋人僧侶、プラ・ノア>

3 日本人旅行者の死から見えた“日本” 

 タイは四つの国と国境を接している。南はマレーシア、南東はカンボジア、北東はラオス。北西から西にかけてはビルマ(ミャンマー、当時の自分たちの呼称に合わせて以下ビルマに統一する)だ。

 ワット・プラタート・ドイ・ステープでの瞑想の日々が終わり、チェンマイで数日飲み食いに励むと、さらに北西に移動した。そして、タイのほぼ北端のメーサイから、メーサロン、メーホーンソン、メーソットという具合に、ビルマとの国境そばを北から反時計回りに動いていった。

 この国境近傍は、実に興味の尽きない一帯だった。

 チェンマイからまず、国境の町メーサイを訪れ(ここからビルマに入国できる。ぼくらはこのとき、タイの滞在資格を延ばすため、半日だけビルマに入った。一度国境を越えると、さらに一ヵ月ビザなしでタイにいられるようになる)、それからぼくらはメーサロンという中国人の村に向かった。なぜこんなタイの山奥に中国人の村があるのかといえば、これは「残党村」なのだ。すなわち、毛沢東率いる共産党軍との戦いに敗れた国民党の軍隊の一部が逃げ延びて作り上げた村なのである。

中国人の村メーサロン。尾根に沿って線上に村が続く。

 中国では第二次大戦の前後をまたいで国民党と共産党の内戦、いわゆる「国共内戦」が続いていた。その戦いは、一九四九年、共産党が勝利し、毛沢東をトップに据えた中華人民共和国が建国されることで終結する。

 蒋介石率いる国民党の国民革命軍の大部分は、共産党に敗北したあと台湾へ逃れたが、中国南西部の雲南省にいたその一部は、より近くの東南アジアへと逃げ延びた。徒歩や馬で南下し、まずビルマへ渡り、それからタイ北部までやってきた。そうしてたどり着いたのがここ、メーサロンなのだ。

 彼らはこの地で訓練を続けながら、いつか再び中国へ攻め入り、国民党による「中華民国」を復活させる日を夢見ていた。その間の生活の糧は、アヘンの栽培によって得た。この地域は、「ゴールデントライアングル」と呼ばれる世界の一大麻薬地帯なのである。また、この地にとどまるために、当時タイで勢力を強めていたタイ共産党の軍とも戦うことを余儀なくされた。

 そのように生き延びる方法を模索しながらなんとかこの地を拠点として、台湾からの指令を待った。しかしその指令が来ることはついになかった。

国民党軍の退役軍人クラブ(?)「栄民之家」。蒋介石、孫文の写真やその他旗などが方々に。中にいたのは、負傷した兵士やらその家族だとか。筆談でかろうじて会話。

 何十年もたつうちに、いつしか人々はこの地に根を張り出した。ここタイで国籍を取得してタイ人として暮らすために、武装解除に応じ、麻薬取引からも手を引いた。そしてメーサロンは、お茶を主な産業とした平和な中国人村となっていったのだ。

 村は、緑溢れる山奥の一本の尾根上に細長く延びていた。その尾根の上をなぞるメインストリートの左右には、漢字表記の看板とお茶屋さんが並んでいる。歩くと、東アジア系の顔立ちの人の姿が多数見え、中国語らしき言葉がほうぼうで聞こえてくる。

 「ニイハオ!」

 と挨拶すると、見た目的にもきっと同じ中国人だと思われたのだろう。お茶屋の店員のおばちゃんや女の子が、次々に中国語で話しかけてくる。だが、彼らが何を言っているのかほとんどわからない。ただ笑ってごまかし、「日本人です」と、正しい発音がわからないまま「リーベンレン」と繰り返した(日本人の意味。ただし、「リ」も「レ」もカタカナ表記と実際の発音はかなり異なる)。

 餃子屋があり、水餃子と焼き餃子を食べた。朝のマーケットであんまんとおこわを買った。どれもおいしかった。中国がそのまま、移転してきたような場所で、この地にいると、中国が本当に近いことが感じられた。

 中国人村メーサロンのあとは、南北に延びるビルマとの国境線に沿う形で南下していった。ここでぼくたちは、残留日本兵と呼ばれる人たちの存在を知った。それは、戦争が終わったあと、なんらかの理由で日本に帰らず現地にとどまることを決めた元兵士たちだ。みなそれぞれ終戦後に収容所を脱出するなどしてこの地に住み出したのだ。

 メーホーンソンでは、いまは亡き残留日本兵の家族に出会った。ちょっとした情報から彼らの存在を知り、探してみるとすぐに会えた。その家族が、元日本兵の本名すら知らないまま、長年一緒に過ごしてきたことを聞いて驚いた。彼の妻も、息子も、孫も、彼のことを「ラペ」というこの地でつけられた名前のみで知り、彼が過去に何をしていたか、戦争中はどうしていたかなどはまったく知らないようだったのだ。

 だがそれは逆にいえば、その元日本兵がきっとこの地で、それまでとはまったく違った新たな人生を送っていたということなのかもしれない。ぼくらはこの人物を元日本兵としてばかり見てしまうけれど、彼には、夫として、父として、祖父として、そして村の一人の男としての、長い人生がその後にあったのだ。そんな当たり前のことに改めて気づかされた。

亡き日本兵「ラぺ」さんの妻と孫

 その後さらに南に下ってメーソットに行くと、別の二人の元日本兵に会うことができた。二人ともすでに八十代半ばで、ともにとても穏やかな表情が印象に残った。そのうちの一人、中野弥一郎さんは、こう言った。

 「十五年前に、戦友の説得で一度だけ日本に帰ったことがあるんです。五十年ぶりの故郷新潟は、道路もライトもすべて変わっていて昔の面影はありませんでした。五人いた兄弟もすでに姉と弟と自分の三人だけになっていましてね。墓参りなどをして回って、二十日間だけでタイに戻ってきたんです。日本へ帰って暮らしていればよかったという気持ちもありましたよ。でも、いまはもう考えません。自分で決めて残ったのだから、最後まで残ります」

 出征前に母親からもらったお守りを、彼はまだ大切に持っていた。それが唯一、自分の身体とともに戦場から生き延びてきたものだという。半世紀分の色が染み込んだその小さな紙片には、中野さんの日本への思いのすべてが詰め込まれているような気がした。

中野弥一郎さん

 そしてさらにメーソットでは、ビルマの内戦からタイに逃れてきた難民の若者たちとも多くの時間を一緒に過ごすことができた。先の見えないなか必死に勉強し、自らの道を切り開こうとする彼らの姿に、自分ももっとがんばらないと、と思わされた。

 国境という境界線が人為的なものだからこそ、その周りにはさまざまなひずみが凝縮される。そのひずみの中に、中国も、日本も、姿を現した。国境の面白さはまさにそのひずみの強さにあるのだろうとぼくは感じた。

 毎日を夢中で過ごし、気が付くとこの国境付近で一ヵ月ほどがたっていた。

ソンテウ(乗合バス・タクシー)で移動中に

*

 国境地帯から久々にチェンマイに戻ると、少しのんびりしながら原稿を書くという時間を過ごした。このときは主に、メーソットで取材したビルマの難民の話を書いていた。

 原稿書きはいつも、ネットカフェに通って資料を調べながら進めていく。このころになると、ネットを使って国連機関やNGOの資料、新聞記事を読むことにもだいぶ慣れてきた。英語は、話せることはもちろん重要だが、それと同じくらい、大量の資料をちゃんと読めるかどうかが重要であることも実感するようになっていた。ネット上において出所がはっきりしていて信頼しうる資料が、英語だと、日本語に比べて比較にならないほどたくさん見つけられるからだ。それを読もうという気力を持てるかどうか、そして実際に読めるかどうかが、記事を書けるかどうかの分かれ道にもなった。

 一方、原稿の作成は、編集者とのやり取りがメールだけで行われるため、どうしてもスムーズに行かず時間がかかってしまう。このときは、締め切りが近かったこともあり、ある原稿が完全に仕上がるまでチェンマイを動くことができなかった。小さな町に移動してしまってから、「やばい、ネットができない!」という展開になるとまずいからだ。

 取材し、原稿を書くという経験が増えるにしたがって、だんだんとモトコが重要な役割を果たすようになっていった。

 ぼくが取材したいと思うことには彼女も大抵興味を持ち、多くの場合、取材に一緒について来てくれた。話を聞くときにメモを取ってくれたり、またぼくとは違ったモトコならではの質問をしてくれたりもした。また、女性に話を聞くときなどはよく、モトコと一緒でよかったなと思った。一人だったらおそらく「なによこのヒゲのデカイ男は?」と警戒されていただろう場面も、女性のモトコがいることですんなりと進むからだ。

 原稿を書いたときにも、いつも最初にモトコに読んでもらった。もっとも彼女以外に書いたものを見てくれる人はいなかったのだけれど、彼女は率直に意見を言ってくれるので、自分にとっては貴重な編集者的存在でもあった。

 「全然面白くないで。ちょっと書き直した方がええんちゃう?」

 などと彼女は平気で言ってくるのだ。まずはモトコに面白いと言ってもらえることが原稿を書く上での最初のハードルだった。

 とはいえモトコは、ぼくが取材を終えて、どこかの街でひたすら原稿に取り組む日々になると、いつも不満そうではあった。旅自体の行き先については、どちらかと言えば彼女の方が積極的に調べ考えていたので、行きたいところが複数あっても、ぼくの原稿完成を待たないといけなかったからだ。

 「早く仕上げやー。明後日には出られる? そしたらこの村に行こうさ」

 モトコは都会でダラダラというのは決してそんなに好きではないのだった。

 しかしこのときのチェンマイでは、モトコは新たな楽しみを見つけていた。ちょっと裏道に入った、涼しく閑静な通りに、カフェを兼ねた小さなアートスクールを発見し、そこにあった短期滞在者向けの数日間の写真のコースに通うことにしたのだ。

 ぼくもモトコも写真を撮るのは好きで、できれば本格的に習ってみたいとも思っていたので、彼女にとってチェンマイでそういう機会があるのは思いがけずうれしいことだった。

 ゆっくりと時間が流れるチェンマイの町をモトコは写真に収め、それを自分で現像、プリントした。その間ぼくはスクールの下のカフェで原稿を書いたり、近くのネット屋に原稿を送信しに行ったりした。そうして、チェンマイでの穏やかな毎日は過ぎていった。

 

 そんなある日のことだった。驚愕のニュースをネットで知った。一人の日本人旅行者がイラクで人質になった、というのだった。

 それを知ってすぐに、NHKが見られる食堂に行ってテレビのニュースを確認すると、香田証生さんという若者が黒い服を着たイスラム過激派の男たちに囲まれて座っている映像が映し出された。自分たちと同じ年くらいで、同じような旅をしていそうな彼が、カメラに向かって恐怖を押し殺すような様子でこう言った。

 「すみませんでした。また日本に戻りたいです」

 いままさに彼が、テレビに映し出されているこの状況にいると思うと、言葉を失った。どんな気持ちでカメラの前に座っているのか。想像を絶する彼の窮地に、ただただぼくは呆然とした。

 それから毎日、朝はネット屋で仕事を進めながら事件の展開を追った。昼にはNHKを見るためにいつも同じ食堂に通った。ちょうど新潟県中越地震の被災者の救出作業が進んでいたときで、それとともに香田さんのことが連日報道されていた。

 しかしテレビでもネットでも、どうも日本社会は香田さんにひどく冷淡に見えた。「まったくバカで迷惑な若者だ」という声ばかりが目についたのだ。救出をリードすべき町村外相(当時)が、「危険なことが十二分にわかっていながら、なぜ旅行したのか、誠に理解に苦しむ」と真っ先に批判を公言したというのも、あまりにも冷たく響き、憤りすら感じた。

 ニュースを知ってから三日後には遺体発見かと報じられた。その後、違ったことがわかりほっとしたが、その翌日には、今度は本当に香田さんの死が確認されたことを知った。最悪の形で事件は終結することになってしまった。

 その結末が現実になったとき、それが自分にとって思っていた以上に衝撃的な出来事であったことをぼくは実感した。香田さんが哀れでならなかった。何を思い、最後の数日を過ごしていたのか。どんな思いで最期を迎えたのか……。長期で旅をしてきた自分たちにとって決して他人事ではなかったのだ。

 確かに当時、旅行者としてイラクに行くことは無謀だと言われても仕方ないとは思ったが、その一方で、彼の気持ちは、自分も含め多くの個人旅行者たちにとってまったく理解できないものではないようにも思えた。

 一般に、危険だ危険だといわれているところも、実際にはもちろん普通に人が日々の営みを持っている。危険だらけの場所なんてないんだという印象は、実際に旅をしてみると感じることが多々あった。たとえば、東ティモールがそうだった。オーストラリアのダーウィンで、旅行代理店の人などに「何しに行くんだ?」と何度も言われ続け、国連軍が去ったあとには何かが起こるかもしれないという予想や噂をネットで何度も目にしたのに、実際に着いてみると、少なくとも、自分たちが見た限りにおいては平和そのものだったのだ。

 ニュースは基本的に平和な様子は伝えない。どんなひどい戦いがあった、どれだけの人が死んだ、そういうことばかりがニュースになる。しかし実際には、どんな大きな問題で苦しんでいる国にも町にも、やはり生きている人がいて、なんの変哲もない普通の生活がある。決して、ひっきりなしに戦いが続いていたりするわけではないのだ。

 香田さんは、イラクの前にイスラエルにいたということだったが、イスラエルで彼もそんなことを感じていたのかもしれない。オーストラリアのバンバリーでイスラエル人の旅行者に会ったとき、その旅行者がこう言っていたのを思い出す。

 「イスラエルはテロのことばかりがニュースになっていて、どこ行っても爆発ばかり起きているように思っているかもしれないけど、そんなことはない。危ないといわれている特定の場所に行かなければ普段は全く平和なところなんだ」

 もしかしたら香田さんもイスラエルで実際にそう感じて、「イラクがいくら危ないっていっても、実際はそれほどではないんじゃないか」と思ったのではないだろうか(当時のイラクの場合、外国人であることで人質の標的になりうるため、単純に現地が平穏かどうかの問題だけではなかったが)。

 そしてまた、危険を回避しようとしすぎると、旅の醍醐味は損なわれていく。人に対して警戒しすぎると、貴重な出会いを失ってしまう。

 危険かどうかの境界は極めてあいまいだ。また運にも左右される。旅を続ければ続けるほど、その境界がなんとなく感覚として見えてくるようになる。理屈ではなく、なんとなくこれ以上行ってしまってはまずいかもしれない、という一線の存在が感じられるようになる。そうして自然と危険の回避方法が身についていく。

 ただし同時に、危険への感度が鈍くなってもいくものだ。一般に危険といわれている場所でも、実際にはほとんどの場合は大丈夫だということを体験として知るようになるからだ。だが、何か起きるときには、やはり起きてしまうのだ。

 自分にもこのころそんな感覚が芽生え出していたため、ぼくは香田さんの決断が、まったく信じられないというふうには正直思えなかった。

 遺体が香田さんのものだとわかったあと、ネットで見た報道によれば、香田さんの両親は、次のようなメッセージを発表したという。

 「支えていただいた多くの方々に、大変なご心労をおかけしましたことを心からおわび申し上げますとともに、お礼と感謝の気持ちでいっぱいです。このようにはなりましたが、イラクの人たちに一日も早く平和が訪れますようお祈りいたしております」

 ぼくにはこれがどうしても、異国で息子を殺された親の言葉としては読めなかった。いや確かに香田さんの両親は、そう発表したのだろう。しかし、本当に言いたいことは他にあったように思えてならない。

 この年の四月に三人の日本人がイラクで人質になったとき、ぼくらはちょうどバンによるオーストラリア大陸縦断の旅が終わろうとしていたときで、最終目的地、ダーウィンのそばにいた。同時期にバンでの北上を続けていたオランダ人のレミーとクリステルにその話をして、日本では人質に対してバッシングが起こっているらしいということを話すと、ジャーナリストであるレミーは心底、驚き、怒っていた。ぼくが、日本では戦場に行くのは大抵がフリーのジャーナリストで、大手メディアは社員を危険な場所には派遣しないのが普通なんだよと一般的な状況を伝えると、彼はこう言った。

 「危険な戦場こそ、十分な訓練を受けた専門のジャーナリストがメディアの強力なバックアップのもとで、高い報酬をもらって派遣されるべきじゃないか。フリーの人たちが自らのリスクで戦場に行って、何かあったら大手メディアは一切責任を取らないなんてまったく考えられない。テレビで戦場の様子が見られるのは、そこに誰かが命を懸けて行っているからなんだ。その人がちゃんと守られてなくていったいどうやって報道が成立するんだよ」

 まったくその通りだと思った。一時期メディアに氾濫した「自己責任」という言葉は、無責任な日本社会を象徴する言葉のようにぼくには聞こえた。海外にも同じように響いていたのだろうと思う。

 旅行者としてイラクに行った香田さんの場合は、確かにジャーナリストなどの場合とは状況が違うが、それでも両親が、まず「おわび」や「感謝」を表明しなければならなかったのは、四月に人質となった先の三人が受けたバッシングと決して無関係ではなかったはずだ。

 もちろん、自分の選択でイラクへ入り人質となってしまったことは、誰のせいにすることもできない。おそらく香田さん自身もそれはわかっていただろうと思う。彼が「すみません」と謝りはしたものの、「助けて」とは言わなかったのには、そんな気持ちが見え隠れする。

 彼は確かに判断を誤った。そして彼自身もおそらくそれを自覚していた。

 しかしそれでも、絶体絶命の状態に陥ってしまった若い同胞に対して、日本人はもっと同情してもいいのではないかと思った。間違いを犯してしまった若者にどうしてもっと寛容になれないのかと思った。

 まず助けるための声を上げ、叱るなら帰ってきてから叱ればいいのではないか。「税金を使って助けるなんて」という声を聞くたびに、あまりの狭量さに信じられない思いがした。誰でも生きていれば誤りを犯すし、みな人に迷惑をかけながら生きているのだから……。

 事件はぼくの胸のなかにどっしりと沈み込んだ。いつまでも消えることのなさそうなドロリとしたその感触は、いまも、チェンマイのネットカフェでニュースを追っていたときの気持ちを鮮明に思い出させる。 

チェンマイ

In 『中国でお尻を手術。』, 『遊牧夫婦』続編公開

『中国でお尻を手術。 遊牧夫婦、アジアを行く』 2 元旅人の西洋人僧侶、プラ・ノア

July 11, 2026

<1 一日十八時間のメディテーション>

2 元旅人の西洋人僧侶、プラ・ノア

「タイ仏教では、守るべき戒律が複数あるんです」

チェンマイの他の寺院で会った坊さんがそう教えてくれた。その戒律は、一般人と僧侶で異なる。一般人が守るべきものは次の五条なのだという。

一 生き物は殺してはならない

二 盗んではいけない

三 一つの愛を貫くこと

四 嘘をつかない、汚い言葉を口にしない

五 酒を飲まない

 これはどれも、意識的にやっていけば、どうしても実現できないということではないかもしれない。

 二十歳未満の少年僧はこれが一〇条になる。そのうちの五つは、右の五つ。ただし、三つ目だけは「一つの愛を貫くこと」ではなく「女性に触れてはならない」と、格段に厳しくなる。そしてその上に次の五つが加わって一〇条となるのだという。

六 午後に食事をしない

七 歌や踊りをたしなんではならない

八 香水をつけてはならない

九 金銀を身に着けてはならない

十 高い贅沢なベッドに寝てはならない

 二十歳を超えた僧侶たちには、さらにいろいろと加わり、戒律はなんと全部で二二七条にもなるという。

 この生活を数日疑似体験しただけでも、タイで僧侶として生きることの厳しさが垣間見えた。日本でお坊さんになるのとはまったく違う次元の覚悟が必要なように思えた。しかし、だからこそ、タイの社会は僧侶を大切にする。一般の人も僧侶によく喜捨する。また、僧侶は公共の交通機関には無料で乗れるという。社会が彼らに敬意を払い、僧侶が教えを守りながらも生活を続けられるような環境が作られているのだ。

 ちなみに、一般人も守らなければならない先の五条にもある「生きものは殺してはならない」という戒律は、肉を食べてもいいこととはどう両立するのかとプラ・ノアに聞いてみると、

「自分で殺さなければいいんだよ。だから市場に売っている肉だったら食べてもいいんだ」

 とのこと。若干、腑に落ちないものを感じたが、その辺がタイっぽいファジーさなのかもしれないと解釈した。

 そんなことをいろいろと考えながらぼくは、自分たちを指導してくれるプラ・ノアが、どうしてこのような生活をしにはるばるカナダからタイへやってきたのかが、ますます気になってきた。

 そして四日目も同じように、起きて座って歩いて食べて読んで寝る、という字面だけ見るとぐうたら男のだらけた休日のような、でもハードな一日をなんとか乗り切ると、いよいよぼくらが決めた最終日がやってきた。

 その昼、プラ・ノアに会って、今日で修行を終えます、と告げた。すると彼は、いつも通りの大きなイスに胡坐をかいて、斜め下方にいるぼくらに目線を向けながら、残念そうな顔をした。

「もう少しがんばってみないか。きっともうすぐ何か変化があるはずだから」

 そう熱心にぼくらに訴えた。その上、こうも聞いてくる。

「光が見えることはなかったか?」

 まさかと思いつつも、改めて考えてみると、もしかしたらこれのことかな、という瞬間がないこともなかった。光が見えたかどうかはわからないものの、座ってメディテーションを続けていたときに、何かふと、違った感覚になったような気がしたことはあった――そう話すと、プラ・ノアは、「それだよ、それ」という顔をしてさらに言った。

「もう少しだよ。もう何日かやれば、それがもっとはっきりとしたものになるはずだ」

 半信半疑ではあったが、そういわれて少し心躍るものがあった。

 しかし、このときにはすでにぼくの集中力は切れていた。たとえ何か変化の兆しがあったとしても、自分にはそれを確かめるだけの忍耐力はもう残ってはいなかった。モトコにしても、頭の中はこれから町に戻っての食事のことでいっぱいだったはずだ。あとから聞いたところでは、なぜか、「ああ、エビフライが食べたい……」とやたらと思うようになっていたらしい。

 そんな気持ちを、プラ・ノアに正直に告げた。すると彼は、それならわかった、と理解してくれた。ぼくは、自分の目的を果たすべく彼に尋ねた。

「できればあなたの話を聞かせてくれないか」

 と。ぼくは彼のことを、唯一連載していた短編の人物ルポに書きたいと思っていたのだ。プラ・ノアは快諾してくれた。彼に毎日指導を仰いでいたのと同じ部屋で、でも今度は同じテーブルに向かって同じ高さのイスに座って、ぼくは彼の話を聞いていった。

*

 この四、五日の間、プラ・ノアの生活を疑似体験し、毎日彼と面談しているうちに、彼はぐっと自分にとって身近な存在になりつつあった。

 彼の透き通った小さな声には、いつも熱がこもっている。なんとか少しでもブッダの教えを、瞑想の力を理解してほしい、そして苦しみから解き放たれてほしい。そんな気持ちが感じられ、メディテーションをしながら、ぼくの頭の中にはいつも彼の声が響いていた。仏教の世界を垣間見に来る旅人たちを、彼は真剣に指導していた。

 プラ・ノアは、いまは黄色のローブを着て、頭を剃り、僧侶として生きている。しかし彼自身がぼくたちと同じ立場であったのはそう遠い昔のことではなかったのだ。

「ぼく自身、五年前は、一人の旅人だったんだ」

 それがいま、僧侶として旅人に接する立場になった。

「昨晩は一睡もせずにメディテーションをしていた。三日前もそうだったよ。夜寝ない人というのは、次のどれかに限られる――女のことを考える男、男を狙う女、金や宝物のことを考える人、盗人。あとは、涅槃を目指す僧侶だ」

 そう話すプラ・ノアは、一人の確固たる僧侶であると同時に、一人の同世代の西洋人でもあった。同じく旅をしながらも、自分とはまったく異なる道を選んだ彼の言葉に、ぼくは引き込まれていった。

 幼いころから、「神」を意識していた、と彼は言った。五歳ごろに見た「悪夢」がいまでも忘れられない。

「兄が父親を殺すんだ。いまでも兄が刺す場面がちゃんと思い浮かぶ。その夢から覚めたとき、結局はみんな死ななきゃならない、ということに突然気がついたんだ」

 学校へ行くのは、仕事をするのは、なんのためか。結局はすべて死ぬためなんじゃないのか。そう思ったとき、どうにかしてそんな流れの中から飛び出したくなった。

 学校をやめ、酒や薬物におぼれて過ごした。その日々は楽しくもあったが、ひどくけだるく、いつもどこかで別なものを求めていた。

「十六歳のとき、道教についての本と出合ったんだ。数ページで心を動かされたよ」

 そうして中国へ憧れを持つようになり、宗教の世界に目を向けるようになった。

 しかし、いよいよ中国へ足を踏み入れるという直前にタイを旅したことがその後の人生を変えることになった。二カ月間何もせずに、ただ酒を飲んでダラダラするだけの日々をタイで過ごし、ようやく中国に行こうと飛行機のチケットまで買ったのだが、その前に立ち寄った寺院で体験した一カ月間のメディテーション修行によって、彼の生き方は決まった。彼は強烈に、タイ仏教の世界に惹かれていったのだ。

 幸せを感じながら二年間の修行に励んだ。そして迷うことなく彼はタイで僧侶として生きる道を選んだのだ。

「初めてこのローブを着ようとしたとき、ローブが私の体に飛びついてきたんだ。まさにこれは自分の天職なんだと思ったよ」

 それから三年がたった。プラ・ノアはこのとき二十五歳になっていた。

 彼は「プラ(=僧)」を「完璧な職業」だと表現した。誰も傷つけず、誰とも争う必要がない職業は、これ以外にないはずだと彼は信じている。

 ぼくが、いまの生活の最大の喜びは何か、と聞くと、プラ・ノアはこう言った。

 自由だ――と。

「僧侶になってぼくは、すべてから自由になり、何も心配することがなくなったんだ」

まったくためらうことなく彼はそう言ったのだ。

 一点の迷いもないようにそう言う彼に、ぼくは驚いた。守るべき二二七もの厳しい戒律があり、その生活が自由であるようにはまったく見えなかったからだ。ただ、数日とはいえ彼と毎日接してきた様子を思い出し、この人は本当にいま心から自由であると感じているのかもしれないと思うと、ぼくは激しく羨望をおぼえた。

 自分はいま、すべてを自分たちの好きに決められる圧倒的な自由さの中にいながらも、決して心から自由であるとは感じることができないでいた。何にも縛られないような生活をしていても、決してそこまで自由であるような気はしなかった。

 ぼくは自由を求めながらも、自分で自分を縛りつけて、自由を失っているのかもしれなかった。あれをしなきゃいけない、こうでなくちゃいけない、と。その一方プラ・ノアは、あんなに厳しい生活をしながらもすべてから自由になったと感じている。だとすれば、結局自由であるかどうかは、自分がどのような行動をとって暮らしているかとは関係がないのではないか。

 そしてさらに思った。本当に自由になるということはきっと、すべての欲から解放されることなのだ、と。プラ・ノアと話しているうちに、そのことがすっと理解できたような気がした。

 だが、すべての欲と無縁になることなんて、本当にできるものなのだろうか。ぼくにはそれがわからない。

 プラ・ノア自身にも、その答えはわかっていないのかもしれない。その答えが得られていないからこそ、ときに夜を徹して瞑想に励み「涅槃」を目指すのではないのか。

「この生き方こそが自分らしいんだろうな。だからローブを脱ぐことは決してないと思う」

 そう言ったときのプラ・ノアは、一人の僧侶というより、僧侶という生き方を選んだ一人の西洋人の若者だった。

 話を聞き終えたあと、荷物を持って、気持ちばかりのお布施を寺に置いて、プラ・ノアに別れを告げた。

「できればメディテーションをこのまま続けてくれよな。これからも元気で」

 彼はそう言って、一人の若者の笑顔でぼくらを見送り、僧侶らしい静かな後ろ姿で寺の中へと戻っていった。

 その姿を見ながらぼくは気がついた。自分もまた、中国に向かう途中にタイでメディテーションをしているという点では、彼と同じであることに。

 しかし、ぼくらはこれから中国に行く。もうしばらく北上の旅を続けながら、おそらく数ヵ月後には中国に着く。

 すべては結局死ぬためにある――。プラ・ノアのその言葉は、自分もときどき感じることがあるものだった。とすればぼくは、少しでも納得して死んでいくために、いまこうして旅をしているといえるのかもしれない。

 彼はタイにとどまり、旅人から僧侶となって、「自由」を手に入れた。自分には、プラ・ノアがたどり着かなかった中国に行って、いったい何を手に入れるのだろうか。

 ぼくの中で中国が、少しずつ具体的な姿をともなって意識の中に上り始めていた。

<3 日本人旅行者の死から見えた“日本”>

In 『中国でお尻を手術。』, 『遊牧夫婦』続編公開

『中国でお尻を手術。 遊牧夫婦、アジアを行く』 1 一日十八時間のメディテーション

July 5, 2026

<0 プロローグ>

Ⅰ 中国直前(タイ、ビルマ)


1 一日十八時間のメディテーション

 二〇〇四年九月――。

 ぼくとモトコは、数日間ほとんど口をきかずに過ごしていた。口をきかないだけではない。食事も別、寝泊りする部屋も別だった。二人旅のストレスがいよいよ爆発して、ついに別々に旅を始めた……というわけではない。このときぼくらは、タイ北部、チェンマイの街なかから少し離れた山の中の寺、ワット・プラタート・ドイ・ステープでメディテーション(瞑想)の修行をしていたのだ。

ワット・プラタート・ドイ・ステープの境内

 一切他人とコミュニケーションを取ってはならない。もちろん夫婦でも会話はだめで、一人ずつに個室が与えられた。読書や書き物などを含めて娯楽的なことはすべて禁止。その上さらに、昼の十二時以降は一切食べ物を食べてはいけない。それらを守って、ただひたすら朝から晩までメディテーションに集中しなければならない。そんな日々を、数日ではあるものの送っていた。

 朝は四時に銅鑼が鳴り、その直後から道場に行ってメディテーションを始める。朝食は七時で、道場でもらえるささやかな食事を部屋に持ち帰って一人静かにそれを食べる。

 食べ終えたらまた道場に戻ってひたすらメディテーション。十一時になると昼飯をもらってまた部屋に戻り、食べる。午後も同様で、途中、僧侶から指導を受ける時間以外は、夜十時ごろに寝るまでひたすらメディテーション三昧となる。

 それが一日のサイクルだ。昼十二時以降は飲食禁止なので、もちろん晩飯はない。午後は、飲み物以外は一切だめ。朝飯、昼飯を済ませたら、あとは翌朝の朝食まで、何も食べられないのだ。

 これを二十一日間続けるのがフルコース。その期間の長さには驚愕するが、途中でやめるのは自由、ただ、最低三日以上はやってくれ、というのが一応の決まりだった。

 メディテーションは、座るのと、立って歩き回るのがあり、その両方を交互に繰り返しやっていく。

 座る方は、足を組んで腰を下ろし、じっと自分の呼吸だけに注目する。何も考えないのではない。そうではなく、ひたすら自分の身体の動きの細部に神経を集中させろ、と教えられた。足が痛くなったら、「痛い」という事実に神経を集中させる。そうやってひとつのことのみに意識を集中させることによって、他の雑念を追い払うのだ。この方法はかなり合理的で、実際に効果があった。だが、それでももちろん雑念は生まれてくる。それに対して僧侶はこう教えてくれる。

「雑念の存在をちゃんと認識するんだ。すると逆にそれを追い払えることがある」

 歩くメディテーションもまた同じ。一歩一歩の足の動き、手の動き、呼吸の音を意識する。自分の身体がいまどう動いているかだけに、全部の神経を集中させるのだ……。

 ぼくがあてがわれた部屋は、寺の敷地の端っこの木に囲まれた寂しげな場所にあった。四畳半ほどの小さなもので、板敷きの床に古い赤カーペットが敷かれ、その上に木箱のような硬くて渋いベッドが一つあるのみだった。面白みのあるものは何もない。また、女性の部屋は遠く離れた場所にあり、ぼくはモトコがどこにいるのかすらも知らなかった。

 朝はできるだけ銅鑼に合わせて四時すぎには起き、すぐに部屋を出て道場へ向かった。チェンマイの街なかはこの時期、日中になると強烈に蒸し暑くなったが、ちょっと山の上に上がっただけでこの寺はとても涼しかった。まだ薄暗い早朝は、肌寒いほどだった。

 そんな中、上下とも真っ白なTシャツと麻のパンツをはいて、ビーチサンダルをペタペタいわせながら境内を歩いた。格子柄の石のタイルが敷き詰められたその境内には、金色の細かな装飾が施された赤い屋根と白い壁の寺院の建物が広がっている。建物の脇に並ぶ小さな鐘の列の横を通り抜けていくと、子どもたちが経をあげる声が聞こえてくる。全身に染み込むような澄んだ声で、キリリと引き締まった空気とともにその声を吸い込むと、少しずつ目が覚めてくる。

 自分の部屋から道場までのわずかな距離を歩くこの時間は、外を思いっきり自由に歩くことができる貴重な時間だった。そしてときにちょっと寄り道をして、境内の端っこから寺の外を眺め下した。山の下にはチェンマイの町が一望できる。周りを山に囲まれた様子は、モトコの故郷・京都を思い出させた。古都であり、三〇〇ともいう多数の寺院が存在するのもまさに京都のようだった。

 早朝のこの時間、きっとまだ町の機能の大部分は動き出していないだろう。でもそこに自分の知らない無数の人生があり、いま動き出そうとしていることを思うと、なんだか不思議な気持ちになった。

 旅を始めてこのとき一年と三ヶ月ほどになっていた。その間にいくつの町を通過してきたことになるのだろう。新たな町へと進むごとに、ここにまた、同じ時代を生きながらもおそらく一度も会うことがないだろう人生がいくつもあることにぼくは圧倒されていた。わずかな時間だけでもその中に入り込み、誰かと一言、二言、言葉を交わすことで互いの人生が重なりを持つ。そうして自分が悩み喜び笑い泣いているのと同じように、自分の知らない無数の場所で、いくつもの人生がいま同時に進んでいることを実感することこそが、自分にとって旅の面白さの一つでもあった。加えて、自分が明日どこで何をしているのかがわからない、どんな人と一瞬を共有するのかもわからないという中に生きていることが、ぼくにとっては大きな喜びとなっていた。

 タイ北部の、先週までは縁もゆかりもなかった山の中の寺院で、ちょっとしたきっかけから修行体験をすることになり、早朝四時すぎに寺の境内からチェンマイの町を眺めている。そのこと自体が、ぼくにとっては旅の醍醐味ともいえたのだ。

 しかし一方、一時的ではなく、ずっと、終わることなくこの寺で暮らし修行に励む僧侶たちは、いったいこの風景をどんな気持ちで眺めるのだろう。ふとそんなことも思いながらその場所を離れ、ぼくは道場へと足を向けた。

 道場は、何十畳かはあるだろう広さで、グレーの薄いカーペットが敷かれ、白い壁には、青い布がカーテンのように全体にかかっていた。物といえば正面の棚に小さなブッダの像があるぐらいだ。朝、道場に着くといつもすでに誰かいた。それがモトコであることもあった。しかし誰一人、声はまったく発しない。歩くメディテーションをする人によってわずかにきしむ床の音以外、全くの静寂に包まれていた。

 その時間からひたすら座り、歩くのだ。

 食事は小さいビニール袋に詰め込まれた食べ物を部屋に持ち帰って一人寂しく食べる。大抵、ご飯と炒め物。それらは案外おいしかった。炒め物には肉も入っていてちょっと意外に思ったが、仏教では必ずしも肉を食べてはいけないということはない、とのことだった。

 午後は毎日、僧侶との面談がある。僧侶を前に、フローリングの床に正座をして指導を受ける。ぼくらを指導してくれた僧侶はプラ・ノアといい、いつも丁寧に一人ひとりの状況を尋ねた。そして、

「じゃあ、次のステップに進もう。これからは十分おきに座る・歩くを繰り返すように」

 などと指示を与えてくれるのだ。台座のしっかりした木製のイスの上で胡坐をかいた僧侶が、こうして経験の少ない修行者を指導するのは、タイのメディテーションの一般的な形なのかもしれない。ただおそらくその一般的な形と違ったのは、ぼくらが日本人であることに加え、指導する僧侶がカナダ人であることだった。

 だがこれは偶然ではない。というのは、もともとぼくがワット・プラタート・ドイ・ステープでメディテーションの体験をしたいと思ったのは、このカナダ人僧侶に話を聞こうと思っていたためだからだ。

 僧侶は右の肩から腕にかけてを露出させるようにして黄色い袈裟(ローブ)を身に着けている。そこから見える彼の肌は、完全に白人のものだった。

 細い身体と剃り上げた頭、そしてメガネをかけた彼は、神経質そうな雰囲気と西洋人的快活さを兼ね備えていた。ときどき見せる陽気な笑顔は、宿で会う同年代の白人旅行者そのものに見えたが、彼はとても禁欲的な日々の中に生きていた。たとえばプラ・ノアは、モトコに何かを手渡すときはいつも、ポンと軽くモトコの前に投げて渡した。女性とは同じものに触れ合ってはいけないという教えがあり、それを忠実に守っているのだった。

 彼はどうしてタイで仏僧になろうとしたのか。話すたびにぼくはそんなことを彼に聞きたいと思っていた。だが修行中、ぼくとプラ・ノアの関係は完全に師と弟子で、こちらから余計なことを話しかけることはできなかった。ぼくは師の問いに答え、指導を仰ぐのみである。彼の指示を聞き、ちょっとは自分にも変化があるのかなと確認しながら、また夜までひたすらメディテーションを続けるのだ。

 しかし、この生活――。思っていた以上にきつかった。ぼくもモトコも、早くも三日で音を上げ始めてしまった。

 三日目、いよいよ今後のことについて話さなければと、隙を見てモトコと道場の裏で待ち合わせ、短い「密会」を決行した。まるで中学時代の体育館裏のような懐かしさだ。誰にも見られていないことを確かめて、久々にモトコと「再会」し、会話する。

「どうするよ? きつくないか、これ?」

 と聞くと、飄々と修行に励んでいるように見えたモトコは、じつはぼく以上にきつかったらしい。

「もう、あかんわ。爆発しそうやわ!」

 意外にもすでに限界という感じだった。さらにモトコは衝撃の告白をした。

「私、もう部屋ではポテトチップスとか食べてるで」

 ぼくは、午後に何も食べないということだけは、きつくともできる限り守ろうとしていたが、モトコはしっかり部屋で腹を膨らませていたのである。

 ただぼくにとっては、食事の制限以上に、部屋で何も読んでも書いてもいけないというのがまったく無理だった。禁止されるとむしろ精が出てしまうのか、ぼくは日ごろより読書のスピードが上がり、持っていた『点と線』の文庫本をメディテーションの合間に半日で読み終え(もともと読むのがかなり遅いので一冊を半日で読み終えることなどほとんどない)、次の本、三島由紀夫の『永すぎた春』へと進んでいった。どれも安宿などで見つけ、交換してきたものだ。

 自分たちがそんなだったので、道場で涼しい顔して毎日修行に励む他の人々も、もしかしたら、部屋では別人に変貌しているのかもしれない、と想像した。

「もう帰りたいな」と二人の意見は一致した。にもかかわらず、何がぼくらを思いとどまらせたのか、秘密の会合では、「とにかくあと二泊がんばろう」ということになった。そうして一人ずつその場を離れ、互いに再びメディテーションへと戻っていった。

 一方、その日の夜、ぼくの部屋の隣の空間には、新たにイギリス人の男性が入ってきた。ちょっと挨拶を交わして話してみると、

「やっぱり、タイに来たらメディテーションがやりたくてね。いまからワクワクしてるよ」

 などと、これから始まる修行への熱い思いを語った。「おれはやっちゃうよ、きつくたって当然さ」といった自信ありげな様子だった。結局そのとき以外彼と話すことはなかったが、しかし彼は一日でこの修行がそんなに容易ではないことに気づいたらしかった。翌日、彼の部屋からは、

「ファーック、ファーック!」

 と、静かに、しかしやたらと気持ちがこもった悪態が聞こえてきたのだ。口ほどにもないやつだな、と思いつつ、やっぱり結構きついんだな、とぼくは納得した。そしてこんな生活を期限なく続けているプラ・ノアたちのすごさを改めて感じるのだった。

ワット・プラタート・ドイ・ステープから望むチェンマイの町

2 元旅人の西洋人僧侶、プラ・ノア

In 『中国でお尻を手術。』, 『遊牧夫婦』続編公開

『中国でお尻を手術。 遊牧夫婦、アジアを行く』 0 プロローグ

July 3, 2026

『遊牧夫婦』(2010年ミシマ社、2017年角川文庫)は単行本発売から16年にもなるものの、文庫版があるせいか、いまも読んでくださる方が少なからずいて、ありがたく思っています。しかし、その続きにあたる『中国でお尻を手術。 遊牧夫婦、アジアを行く』 (2011年ミシマ社)と『終わりなき旅の終わり さらば、遊牧夫婦』(2013年ミシマ社)は現状文庫化もされてなく、読んでもらえる機会は極めて限られてしまっています。そこで、興味持ってくださる方にはオンラインで読んでもらえたらと、続編の2巻をウェブ上で無料に読めるようにしようと考えています。版元にも了承を得ました。

全部まとめて電子書籍的にするつもりでしたが、いろいろと準備に手間どり、いつになるかわからないので、とりあえず、一章ずつでもブログにアップしていくことにしました。本にはない写真なども載せていくつもりです。そしていずれまとめて電子書籍のようにできたらとも思っています。

『遊牧夫婦』を読んでくださった方、もしよろしければ続編も読んでいただけたら嬉しいです! また、『遊牧夫婦』未読の方は、よろしければこれを機に『遊牧夫婦』も手に取っていただけたらありがたいです。ではまずは、『中国でお尻を手術。 遊牧夫婦、アジアを行く』 の地図、目次、そして<0 プロローグ>を。

0  プロローグ

「……起きや、起きや。おーい……」

 

 けだるさを身体に感じながらゆっくりと目を開けると、遠くには白い壁、その手前には複雑そうな医療機器、そして目の前には妻・モトコの顔があった。彼女はぼくの目を見ると、笑顔で言った。

「あ、起きた? 無事に終わったで……」

 ぼくは「ああ」と、モトコの言葉で起きたような顔をした。しかしじつは、その少し前にすでに目を覚ましていた。目を覚ますとすぐに、自分が病院のベッドで寝ていることを思い出したが、身体がだるかったこともあり目は閉じたままでいたのだ。

 そのときはまだ尻にカメラが入っていた。そしてカメラが尻の穴からスルッと抜け出る妙な感覚を感じながら、ああ、終わったんだ、と全身の力を抜いた。モトコの声を聞いたのはその直後のことだった。

「うわ、まぶしいな……」

 そう思いながら眼を開けると、彼女はちょっと興奮した様子で付け加えた。

「ポリープ、取れたで!」

 身体はだるいままで力は入らなかったが、モトコのその言葉を聞いて、「そうか、よかった……」と、ますます力が抜けていった。

 ぼくはこの日、人生初めての手術を受けた。大腸ポリープを内視鏡で切除するという簡単なものだったとはいえ、自分にとってはとても大きな出来事だった。

 手術後しばらくは、まだ麻酔でウトウトしながら、尻に穴の開いた内視鏡用の紙パンツをはいたまま、ベッドの上で横向きになって寝そべっていた。そばでは若い女性看護師数人が、「あ、目を覚ましたのね、好、好(ハオ、ハオ)」とぼくの方を覗き込んで笑っている。近くには担当の医者もいるので、ぼくは思わず聞いてみる――良性でしたか?

 すると丸顔で浅黒い肌の小柄な医者は、すぐに返事をしてくれた。

「対、対! 没問題(ドゥイ、ドゥイ! メイウェンティ)」

 うん、良性だ。大丈夫だよ、と。

 二〇〇五年十二月十三日。この町に住み出して一年近くが経とうというときのことだった。ぼくが初めての手術を受けたこの場所は、中国南西部、雲南省の昆明(クンミン、こんめい)だった。

手術後の入院時。隣のベッドが空いていたので、看護師さんが「奥さんも泊っていったら?」と言ってくれ、妻も泊まることに(笑)。その適当さがよかった。

 大腸の危険信号といえる血便を確認したのはその三ヵ月ほど前の九月、昆明のぼくたちの部屋のトイレでのことだった。

 それ以前にもちょっと怪しげな便はあったものの、唐辛子かな、といつも自分をごまかしながら過ごしていた。しかしこのときは便の半分ぐらいが赤く粘っこい塊で、「なんだこれ?!」と、思わず凝視してしまうほどだったのだ。

 いくら雲南料理が辛いとはいえ、さすがにこんなに唐辛子は食ってないな、と唐辛子説は一瞬で消え去り、もはや血であることを認めざるをえなかった。

 赤茶色い自分の便のグロテスクな姿が頭から離れず、「あれは、やばそうだなあ……どうしよう、どうしよう」とウジウジしているぼくに、モトコが一喝。

「明日、病院行ってきいや」

 その言葉に尻を叩かれるように、翌日ぼくは意を決して、行き慣れない地区までバスに乗り、昆明で一番先進的らしい「昆明市第一人民医院」へ行ったのだった。

 緊張しながら医者に会うと、「今日はどうしました?」と、中国語で会話が始まる。ここは昆明で唯一英語が通じる病院だという触れ込みだったので、ではここからは英語でお願いしようと思ったが、医者は明らかに中国語しか話せない。英語OK説は全くのでたらめだったのかもしれない。それならばと、ぼくも昆明に来て以来勉強してきた中国語をフル稼働させてみたが、全然ダメだ。やれ大腸だ、やれ肛門だ、やれ痔だ血便だ、となると完全にお手上げだった。

 よく自分の事情も説明できないまま、医者はいきなりぼくの尻に一〇センチぐらいの棒を差し込む態勢に入っている。びっくりして、ぼくは思わず尻の穴をすぼめながら「うわー!」と叫んでしまった。すると医者と看護師が声を合わせて、こう言うのだ。

「不痛、不痛!(ブトン、ブトン!)」

 痛くないよ、痛くないってば!

 全く情けない男ね、といった顔で看護師の女性に笑われる。観念して、極度にこわばった身体の緊張を解いて、棒を受け入れ、中を覗いてもらった。入れてもらうと何も嫌がるようなことではなかったことに気がつき、赤面しながら笑ってごまかした。そして、確かにおれは情けない男だなと恥じ入っていると、医者が言った。

「中に痔があるね。奥は見えないから、明日、大腸の内視鏡検査をしよう」

 いや、そう言ったはずだ。その場では聞き取れなかったのだが、紙に漢字で書いてもらうと、何やらそうらしいということがわかったのだ。

 内視鏡検査――、尻の穴から腸へカメラを入れるあの検査だろう。その言葉にぼくはすっかりビビッてしまった。ここからカメラを入れるって? それってみながいやがる痛いやつではないのだろうか? 

「内視鏡」というだけでも恐れおののいてしまうのに、中国語でのやり取りだったので詳細もわからない。カメラ入れるってことは深刻なのだろうか。やっぱり痛いのだろうか……。いろいろと怖い想像が膨らんでしまった。でも、もう覚悟を決めるしかなさそうだった。何よりも前日の血便がド迫力すぎたのだ。

 家に帰って、ネットを駆使して内視鏡検査について調べてみると、痛い・痛くないの両説が無数に開陳されている。それらを読みまくって、いったいどっちなんだ、とぐったり疲れて眠りについた翌朝のこと。

 八時から、リビングのソファに身を沈めつつ、もらった下剤を飲み始める。初めに飲んだ硫酸マグネシウムだったかが、この世のものとは思えない苦さだった。それでも、泣きそうになりながら二時間ほどかけて少しずつ飲んでいくと、確かに便は完全な透明になった。そして午後二時に病院へ。

 諸手続きを済ませ、古い中学校の校舎のような建物の中を歩いて「胃腸鏡室」と書かれた内視鏡検査室に行くと、検査室の前の廊下は、がやがやと人でごった返している。いったいどーすりゃいいんだろう、とその人だかりを眺めていると、どうもここにいるみなが検査の順番を待っているようだった。

 それぞれ自分の受けたい検査内容(胃か腸か。また、麻酔ありの「無痛」か、なしの「普通」か。「無痛」だと少し高い)を示すレシートのような紙切れを手に持っている(中国の病院は前払いなのだ)。もちろん列などはなく、ただ、前の人が終わって検査室のドアが開くと、一斉に「次はおれ!」「次は私よ!」と、押し合いながらそのレシートをわれ先にと医者に手渡そうとしているのだ。

 これじゃまるで麺屋の注文と同じじゃないか……。ぼくは激しく面食らった。

 そうしてレシートを差し出す中の一人を、医者が「よし、じゃ、次はアンタね。ハイ、中に入って」と指名すると、その五分後ぐらいに検査開始という驚くべきシステムなのだった。しかも、検査中にドアが開いていることもあり、中の様子が廊下まで見えていたりする。カルテも何もあったものではない様子に、さすがに不安になった。

 だが、この弱肉強食の世界で検査ベッドに滑り込むためには、なりふり構ってはいられない。ぼくも麺屋の要領で、「おれ! おれ!」と必死に手を伸ばし自分のレシートをピラピラさせて医者の顔に近づける。すると何度目かでついに、「あいよ!」と選ばれ、順番が回ってきた。

 恐る恐る検査室に入ると、中は案外近代的だった。だだっ広い部屋には、きれいな白いシーツの敷かれたベッドがあり、その横では賢そうな機器がピコピコと動いている。おっ、なんだ、中はいい感じじゃないか……、と少し気持ちが軽くなる。

 すぐに検査用の下着に着替えて、指示に従ってベッドに横になった。「ニイハオー」と比較的陽気な医者が姿を見せ、不愛想な看護師が手早く準備をする。ぼくは保険に入っていたため自動的に「無痛」となっていて、麻酔の針を手の甲に入れられた。

 液体が注入されるのを見ながら、どこまで起きていられるか試そうと思った。しかし、「まだまだ……」と思う間もなく、ぼくはすぐに心地よい眠りの中に落ちていった……。

 起きたときには、すべてが終わっていた。まったく苦痛はなく、検査は無事に済んだようだった。さっきまでの不安な気持ちはすべて消え去り、にわかに気持ちが上向いた。すごいじゃないか、中国! とぼくは一気に中国医療に信頼を寄せ、安心して「どうでしたか?」と医者に聞くと、「没問題(大丈夫)」と笑顔をくれた。その顔を見て、ぼくはますます気が楽になった。

 麻酔が抜けきらないのでしばらくベッドに寝ている間に、検査結果の写真を渡された。明るいピンク色の自分の大腸の写真が四、五カット、一枚の紙に収まっている。診断結果は「慢性結腸炎」。医者は、薬を飲めば直るよ、と言った。

「ああ、なんでもなさそうでよかった……」と脱力して、その写真を眺めていると……、あれ、大腸の壁面から何か突起物が出ているではないか。「没問題」なはずなのに、これは素人目にも何かである気がした。でも、書いてある中国語の説明がわからない。

 気になったので、意識がはっきりとしてさあ帰ろうとなったときに、「この突起物はなんですか」と看護師に写真を見せながら聞いてみた。すると彼女は言った。

「ああ、痔ですよ、痔」

 思いっきり腸の奥の方にあるのに、である。漢字で紙に書いてもらったので、そう言ったことに間違いはない。おかしいなと思いつつも、検査が終わったことで気持ちを楽にして家に帰ったが、その夜やはり不安になった。

 もしやと思い、以前にも相談をしていた胃腸内科・肛門外科の医者の親戚に、メールで検査結果の写真を送って意見を聞いてみると、すぐに返信が届いた。その中にこんな一文が書かれていた。

「これはポリープですね。将来的に大きくなり少ないながらもがん化の可能性がありそうなものなので、切除をすすめます」

 それを読んで、ぼくの身体は一瞬縮み上がるようにこわばった。

 がん化の可能性――。

 がんなんて自分にはまだまったく無縁で、どこか遠くで起きている話でしかなかったはずだ。まるで、なるべく距離を置こうと思っていた恐ろしい人物が、急に隣の席にどかっと座ってきたような気分だった。いったいどういうことなんだ、おれにがん化の可能性なんて……。完全に寝耳に水な、とんでもないことが自分の中で起こっているんだと意識した。覚悟を決めないといけないような気さえしてきてしまった。

 しかし、そんなふうにぼくが思ったのは、ただその「がん化」という言葉だけが原因ではなかった。自分自身が身を置いていた状況とも関係があったことは間違いない。というのも、そのときぼくには、自分の生活について、いくつもの不安が渦巻いていたからだ。

 旅の中を生き続けたいと、モトコとともに日本を発ってからすでに二年以上がたっていた。

 長期の旅をしたいという気持ちが一致して二人で旅に出ることを決めたのちに、無職のままで結婚し、その三ヵ月後に日本を出た。そうしてふらりふらりと日々を送り、いつしか昆明にたどり着き、二人で気ままに暮らしていた。

 ただぼくには旅をする上で大きな目的があった。旅をしながらライターとして経験を積み、ルポルタージュなどを書くことで旅の資金を稼ぎ、持続可能な旅を続けていくこと。そうしていずれ、ルポライターとして自立できるようになることだ。数年の旅が、旅であると同時に、ルポライターとして独り立ちするための充実した修行期間となることを目指していた。一方モトコは、日本での会社員生活を離れ、それまでは考えられなかった長く自由な旅の日々を過ごしたいと思っていた。

 旅に出る前、ぼくはライターとしての仕事の経験はほぼゼロに等しく、本当にそれでやっていけるのかどうか、まったくもって未知だった。だからモトコには、こんな約束、というか宣言をしていた。

「旅に出るのが三年ぐらいとして、その間はライターとしてやっていけるかがんばってみる。もしそれでメドが立たなければ、文筆業はあきらめて、日本に帰ったらちゃんと稼げる仕事をする。やるだけやってだめだったら、きっとあきらめもつくと思う」

 しかし日本を出て二年を過ぎていたこのとき、ライターとしての活動はうまくいっているとはいいがたかった。東南アジアを北上していたときは、それなりに各地で興味深い話題を見つけてルポルタージュを書いて雑誌に載せてもらうということができていたものの、昆明で暮らし始めて以来どうも全然うまくいかない。おそらくこの年は、年収二、三〇万円というぐらいの収入のなさだった。それでも物価の安い昆明に住んでいる分には全然生活はしていけるのだが、ライターとしてほとんどするべきことができていないことにぼくは日々焦っていた。

 このとき二十九歳。来年は三十歳になるのだ。

 モトコにもちょくちょく、「大丈夫なん?」と言われていた。ただ一方で、食えてるとはいえずとも、日本を出たときのほとんど何も実績がなかったときに比べれば、進展がないわけでもなかったから、もうまるでだめなのであきらめようという状態でもなかったのだ。そして何より、まだあきらめがつく、という気分ではまったくなかった。

 自分の性格的な問題や、長い間自分の足かせのようになり続けてきた吃音(どもり)の問題もあって、自分にはこの仕事は向いてないのかな、と思うときも多々あった。でも、切り替えて他のことができるほど割り切りはよくなかったし、まだなんとかなるという気持ちもあった。何もそんなに焦る必要はないんじゃないか、オレのペースでやっていこう、という気持ちが生まれるときもまたあった。

「がん化の可能性」が自分のテリトリーに入ってきたのは、そんなときだったのだ。

 その言葉を聞いて、突然時計が、カチッカチッと音を響かせながら時を刻み出したように感じた。人生が急に大きく先に進んでしまったように思えた。たかがポリープで情けない話なのだが、大げさにいえば、がん化の可能性が自分の問題となることによって、人生観が変わったというぐらいのインパクトがあったのだ。自分のもろさを痛切に感じ、ぼくは、右往左往しながら、今後のことを真剣に考えるようになった……。

 その後、病院でもらった薬によって血便はよくなったが、ポリープは取らなければとずっと気になっていた。そして一ヵ月ほどが過ぎた十月後半のある日、ぼくにダメ押しを食らわす驚くべきものが体内から出てきた。

 これまた部屋のトイレで、大便を終えて流そうと思ってふと便器を見ると、便の中に一〇センチほどの白いうどんのようなものが二本混じっていたのだ。一瞬なんだかわからなかったが、よく見るとそのうちの一本はヌルヌルと動いている。その姿を見て、ぼくは思わず身震いした。

「うわ、これ、回虫じゃねーか!」

 回虫の話は、昆明に来て以来ちょくちょく聞いていた。同年代の日本人の女友だちも山登りをしているときだったかに、屋外で便意をもよおして踏ん張ったら、なんと巨大なミミズのような回虫がひょっこりお尻の穴から飛び出てきたんだよと教えてくれた。その話を聞いたときは、「まったくありえないな、この人は……」と笑っていたのに、八ヵ月ほどの雲南生活によってついに自分の中にも回虫が巣食うようになっていたのだ。

 回虫はポリープとは直接関係ないだろうけど、不安を増大させるには十分すぎる役割を果たした。いったいおれの身体はどうなってるんだと、落ち着かなくなり、もうポリープもさっさと切除してしまいたくなったのだ。気が変わらないうちにと、十一月に入ってすぐに再度病院に行った。

 すると医者はこう言うのだ。

「いま内視鏡が壊れてるから二十日後ぐらいにもう一度来てくれ」

 覚悟を決めて行くと力の抜けるこの返答。さすがだ。が、壊れていると言われればどうし ようもないので、指示の通り、翌月に入ってからまた訪ねた。そして今度こそポリープ切除となったのだ。

 ポリープ切除は、「手術」というだけあって、前回の検査に比べるとさすがに多少気合が入っていた。検査室に行くと、すでにぼくのポリープ画像がモニターに映し出され、医者が見つめていた。それだけで安心してしまった。

 しかも今回は、簡単ながらも手術だということで、同意書のような書類にサインを求められる。「消化管出血、消化管に穴が開く、手術失敗、○×が起きても……」などとおどろおどろしいことが書かれた箇所があったが、医者がそこを指して 「ま、普通は大丈夫だよ」とあたかもたまには起こってそうな様子でぼくに言った。ぞっとしたが、選択肢はないのでサインをした。ぼくだけでなく、一緒についてきてくれたモトコもした。

「よし、いよいよだ」

 サインを終えてついに自分の番という段階になったが、ぼくは検査用の紙のパンツを、下に自分のリアルパンツをはいたままで着てしまい、看護師に、「あははは、下着は脱ぐのよ」と笑われた。あ、そうでしたか、ははは、と恥ずかしくなりつつ笑って、もう一度脱いではき直していると、もたもたしていたせいか他の人の検査が先に始まってしまい、またしばらく待たされた。

 そして今度こそ、ぼくの番となった。モトコが手術を見たいというと、「ああ、いいよ」とあっさり承諾される。なぜか今回は麻酔はしない予定だったようで、あわてて、「してください」と頼むと、前回同様、手の甲から麻酔を入れられ、あれよあれよという間に意識が遠のいた。こんな少量の液体で、人間ってなんてやわなんだ……と思いながら、ぼくの頭のスイッチはオフになった……。 

 手術が始まった。

 一部始終を見学したモトコによれば、担当の医者に加え、助手やら看護婦やら、なぜか外科の医者まで合計一〇人くらいで取り掛かった。看護師三、四人はそばに立ってモニターを見ながら、腕を組み合って何か耳打ちしたり、楽しそうに笑ったり。まるで学生の社会科見学ムードだったという。そのせいか、看護師による麻酔追加の作業もどうも危なげに見え、モトコは気が気ではなかった。一方、医者は腸に集中してカメラを挿入していく。だが、カメラは何度も腸の壁にぶつかり、おっとっとな展開に。

 しかしなんとか二十分くらいで医者がポリープをつかみ、焼き切った。すると看護師たちから掛け声がかかった。

「好!(ハオ!)」

 ポリープは切除された。手術は三十分ほどで無事終了した。そして、ぼくはモトコの声で目を開けて、ポリープが切除されたことを知ったのだった――。

 その夜は一晩入院することになった。夕食はなんと、町の食堂と同じ油ギトギトの豪快中華。青椒肉絲(チンジャオロース)と卵スープに、その他三皿の炒め物とボウルに入ったご飯が並べられた。見舞いに来てくれた友だち二人とモトコとともに、「激しく腸に悪そうだけど……」と驚きつつもがっつり食べて、眠りについた。

手術後の夕食。手術など一切関係なさそうな豪快メニュー。

 翌朝。

 起きたらいきなり悪寒がして、熱もありそうだった。それでもとにかく帰りたかったので「もう退院していいですか?」と聞きにいくと、「ちょっと待って」と言われ、待たされた。

 しばらくすると、多少英語を話す医者が来て、軽く問診。しかしどうも言っていることがよくわからないし通じない。おかしいぞと思っていたら、彼は「腸(intestine=インテスティン)」のことを、ずっと「インスティテュート(institute=研究機関、原理など)」と言っているではないか……。

 仕方ないのでそのまま流し、ぼくは、風邪っぽいことを訴えた。すると、しばらく考えてから、彼はこう言った。

「君はもう一日入院しなければならない」

 えっ? と思い、

「いや、お腹は痛くないし、腸もなんともないので、家に帰りたいのですが」

 と主張すると、いきなり彼は、

「うん、帰ってもいいよ」

 と、数秒で、耳を疑うようなコペルニクス的転回を見せた。「じゃあ、薬を持ってくるから待ってて」と、薬を四箱持ってきた。腸の薬は一箱のみで、三箱が風邪薬だった。

 家に帰ってから体調はみるみる悪化し、翌日、翌々日は三九度前後の熱が下がらずにうなされた。症状が完全な風邪なので、寒さ対策を怠ったせいだろうと自分に言い聞かせたが、こう絶妙のタイミングで熱が出るとついつい手術と関連づけてしまいたくなる。いやきっと、何かに感染したにちがいなかった。

 

 いずれにしても、こうしてぼくの身体からはなんとかポリープが取り除かれた。まったく中国の病院はワイルドすぎたが、とりあえず「がん化の可能性」はリセットされたはずだった。

 しかし、がんが身近になったことで、ぼくは自分の人生の持ち時間というものを急に意識することになった。ダラダラしていたら終わっちまうぞ、このままではダメなんじゃないか……。

 ポリープがなくなっても、ぼくを取り囲むあらゆる不安定さは相変わらずだった。年齢は、さばを読まなければまもなく三十歳。年収は、少しさばを読んでも三〇万円。ライター業はぱっとしないし、そろそろモトコも「もう、あきらめや」と言ってくるかもしれない。何か打開策がなければ、すべてがこのまま中途半端に終わってしまいそうな気がした。

中国雲南省 昆明 2005年

 日本を出て、もう二年半。

 最初の一年、オーストラリア、東ティモール、インドネシアにいたころは、ただただすべてが楽しかった。オーストラリアでイルカと暮らし、オンボロバンで豪州大陸を縦断した。東ティモールでは、誕生間もない国が自ら立ち上がっていこうとする熱気を吸い込み、さらにインドネシア南東部レンバタ島のラマレラでは、人間とイルカの海の上での真剣な戦いに心も身体も揺さぶられた。そのすべてを、毎日興奮しながら味わっていた。そして、シンガポール、マレーシア、ブルネイをへて、タイへ。次なる定住予定の地、中国を目指して、ぼくたちは東南アジアを北上していった。

 しかしそのうち気がつくと、旅が、ただの楽しい旅というだけではなくなり、自分たちにとってそれ以上の意味を持ち始める時期に入っていた。だんだんと近づいてくる中国という国が、ぼくらにとって、他の国とは比べられないほど巨大な存在感を持ち始めるようになっていった。

 中国を意識し始めたのはいつぐらいからだったろう。明確にどこから、というわけではないものの、東南アジアもだいぶ北に上がり、タイ北部に着いたころからであったように思う。それはタイが、この旅で訪れた初めての仏教国だったこととも関係があるのかもしれない。

 タイ北部のチェンマイでの思わぬ仏教体験以来、ぼくらの旅は、中国の向かって一気に動き出していった――。

<1 一日十八時間のメディテーション>

In 『遊牧夫婦』続編公開, 『中国でお尻を手術。』
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