東畑開人『カウンセリングとは何か』から思い出した30年前のカウンセリングの日々のこと

東畑開人さんの新刊『カウンセリングとは何か』(講談社現代新書)を読みました。読み進めるほどに自分自身も東畑さんのカウンセリングを受けてるような気になってくる本でした。後半は心揺さぶられる展開で。

東畑さんの本は、名著ばかり。これまで『居るのはつらいよ』『心はどこへ消えた?』『野の医者は笑う』も読みましたが、いずれもすごく面白いです。

僕は30年前の浪人時代、吃音や他の精神的な不安定さが高まって一年近くにわたってカウンセリングに通った経験があるのですが、この本を読んで当時の記憶がとても鮮明に蘇りました。

僕は当時、話しても特に何か有用なことを言ってくれるわけでもないカウンセラーに対して、途中からなんのために通ってるのかわからなくなって「中断」(=問題の解決などに至らないまま途中で終わりとなること。本書に出てくる用語です)の形でカウンセリングを終えました。最後の方は、毎回気まずく、ただ終える理由を探してた感じで、「センター試験の準備で忙しくなるから」とかなんとか言って最後の回を終えた時には、重荷が下りたような気持ちになりました。

でもこの本を読んで、もしかしたらあの先生も、考えがあっての「何もしない」だったのであり、あの時期を乗り越えていたらその先に新たな展開があったのかもしれない、と初めて思いました。何か別の風景が見えていたのかもしれない、と。

その女性のカウンセラーに対して「ただ何もしなかった人」という印象はいまだに拭えないのですが、本書を読んで、彼女の気持ちを様々に想像することになり、あのカウンセリングの日々は今も自分に何かを残しているのかもしれないな、と改めて思いました。

講談社現代新書は最近面白い本がとても多い印象。最近読んだのでは『新しい階級社会』(橋本健二著)、『となりの陰謀論』(烏谷昌幸著)も面白かったです(ともに2025年刊行)。『私とは何か――「個人」から「分人」へ』(平野啓一郎著)は、だいぶ前の有名な本ですが、これも最近読んで面白く、おすすめです。

7年以上にわたった「月刊すこーれ」連載「子どもの"なぜ"へのある父親の私信」が終了

2018年から7年以上にわたって「月刊すこーれ」(スコーレ家庭教育振興協会刊)で続けさせてもらった連載「子どもの"なぜ"へのある父親の私信」が、2025年12月号でついに終了することになりました。

元『ミセス』編集長の岡崎成美さん(「月刊すこーれ」編集長、今年『戦下の歌舞伎巡業記』を出版されました!)にお声がけいただいて始めることになったこの連載では、毎月2つの「子どもからの問い」にそれぞれ700~800文字程度で自分なりに回答するというものでした。幼かった娘たち(現在高1と小6)にはいつも、何か疑問があったら言ってもらい、それをヒントに毎月、2つの問いを考えていきました(うまく文章化できるものが見つからず、結果として完全に自分で考えた問いも少なからずありましたが……)。

娘たちの問いを聞いて、「あ、そんなこと考えたこともなかった!」と思うことも多々あって、回答を考える中で自分自身の見方も様々に広がった気がします。また、子どもたちにとっても、身の回りのことについていろいろと考える機会になっていたようです。そしてまた、この連載の一部をまとめて、2023年に『10代のうちに考えておきたい「なぜ?」「どうして?」』(岩波ジュニアスタートブックス、岩波書店)という本を出版することができたのも、とても嬉しいことでした。この本の内容は、最近もちょくちょく小中学生の教材や模試の問題などとして使っていただいています。

SNSしかり、生成AIしかり、今の子どもたちは、外から与えられる情報をただ受け止めることだけで疲弊してしまう時代に生きています。そうした中で僕自身、自分で考えることの大切さ、外から入ってくる情報を前に一歩立ち止まって考えてみることの大切さ、自分で考えたことに基づいて自分なりに行動してみることの大切さ、自分が正しいと思っていることも常に疑う気持ちを持つことの大切さ、自分とは違う立場の人が何を考え、どのように生きているかを想像することの大切さ、などを日々痛感しています。

そんな思いを抱きながら、連載を書き、上の本を書きました。
7年にもわたって連載させていただけたこと、ありがたかったです。
岡崎さん、月刊すこーれのスタッフや読者の皆様、どうもありがとうございました。

『10代のうちに考えておきたい「なぜ?」「どうして?」』、これからも機会がありましたら、手に取っていただければ幸いです。

差別以外の何ものでもない

先日、近所の知人の店に、妻とともにランチに行った。
その際、カウンターで調理する知人に、飲食店の経営の大変さについて聞いたりする中、インバウンドのお客さんはどのくらいかと聞き、外国人客の話になった時、知人が言った。

「うちは中国人はお断りしてるよ」

全く想像していなかったその言葉に、僕は動揺するとともにすごく残念な気持ちになった。

「彼らはうるさくて常連の客が嫌がるから。これは差別ではないよ」

と知人。彼の人柄的に、たぶん実際、差別してる意識はないのだと思う。でも国籍や人種で一括りにしてお断りというのは、差別以外の何ものでもない。

とても親しいというわけではなく、そして感じのいい彼に対して、なんといっていいかわからなくて、「うーん、中国人にもいろんな人がいますよね。みなお断りというのは……」などとぼそぼそと言うことしかできなかった。

好感を持っている人からこういう言葉を聞くのはなかなか辛く、かつ、それに対して自分なりに納得のいく応答ができなかった自分自身に対しても嫌気がさした。

20年近く前、妻とユーラシア横断の旅中に、グルジア(ジョージア)の首都トビリシで、レストランに入ろうとした時のこと。普通に営業しているにもかかわらず「もう閉店の時間だ」と言われて入れてもらえなかったことがあった。翌日もう一度その店に行き、同じ対応をされたことで差別されていることに気が付いて、怒りが沸き、僕は、その数カ月前にキルギスで一カ月ほど学校に通って身に付けた片言のロシア語で、尋ねた。「僕たちがアジア人だから?」。すると店員は言った。「そうではない」。いや、そうだろう。

あの一つの経験が自分の心に残したものはとても大きい。

『吃音 伝えられないもどかしさ』プロローグ 

拙著『吃音 伝えられないもどかしさ』のプロローグを以下にアップしました。2019年に刊行した本をいまさらですが、興味を持ってもらえるきっかけになればと思い。プロローグだけでもよかったらぜひ読んでみてください。書籍内では人物は実名で書いていますが、ここではイニシャルにしました。(以下の文章は2021年に刊行した文庫版。2019年の単行本版から微修正あり)

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プロローグ

 

T(=書籍内は実名)は、物心がついたころから思うように話すことができなかった。

言葉を発しようとすると、なぜだかわからないが喉の辺りが硬直する。そのまま音を出そうとすると、「ご、ご、ごはん……」のようにどうしてもつっかえる。

幼稚園にも保育園にも通うことはなく祖母の家で育てられた彼にとって、小学校に入るまでは、スムーズに話せなくとも何も問題は起こらなかった。しかし、小学校に入学するとすぐに問題が露になる。皆の前で自己紹介をして、「ぼ、ぼ、ぼ、ぼ……」とどもって話すと、同級生みなが笑ったのだ。Tはそのとき初めて実感した。どもるのは恥ずかしいことなのだ、と。

しかし、話し方は変えられなかった。あらゆる場面で言いたいことが言葉にならず、会話ができない。同級生たちも、そんなTにどう接するべきかがわからなかったのだろう。みなとの距離は少しずつ広がっていった。

学校を休む回数も増え、高学年のころには不登校気味になっていく。格闘技が好きで地元の道場で習い出した柔道も、うまく話せないことが壁になった。練習の前後にみなで整列して挨拶をするが、その掛け声をかける当番にあたる日は、練習を休んだ。また、同級生が通っていたこともあり、不登校になると道場からも少しずつ足が遠のいた。

中学、高校と進むごとに症状は悪化し、高校に入るころには、ほとんど何も話せなくなった。毎朝出欠をとるときに、「はい」という返事がどうしてもできない。なんとか言葉を絞り出そうとしても声にはならず、息苦しさばかり増していく。「は、は、は……」。口元は硬直したまま、気持ちは焦り、ただ身体だけが意思に反してもがくように動く。その姿を不思議そうに見つめる周囲の視線に、強い羞恥心や劣等感がこみ上げる。クラスメートはそんなTに対して、時に、「Tはいませ~ん」などとからかうのだった。

他のことを考える余裕が一切ないまま、毎日が過ぎていった。高校ではレスリング部に入り一年の時は地区の新人戦で優勝もしたが、言葉の問題によって内面が不安定で、やはり続けることができなくなった。

そして高校二年の夏、Tは耐え切れなくなり学校を辞めた。十七歳のときのことである。

 

だが、問題は学校を辞めても解決はしない。思うように他の人と会話ができないことは、彼を社会から遠ざけた。人に話しかけられても思うように答えられず、相手に不可解な顏をされる。言うべき言葉を発せられないためにとりたい行動を断念せざるを得なくなる。そうした経験を繰り返すうちに、社会はいつしか、身を置くだけで不安を引き起こす場になっていった。

病院で診てもらえば対処法が明らかになるというわけでもなかった。その上、問題を他人に理解してもらいにくいという現実が追い打ちをかける。どうすればいいかわからず家にいると、父親になじられた。いったいお前は何をやっているんだと。母親も何も言ってはくれなかった。

出口も光も見えないし、助けを求める先もわからない。これからの先の人生を生きていく意味があるとも思えなかった。そう感じる日々が続く中、Tはいつしか毎日、考えるようになる。

死に、たい、と。

ただ、実行に移すことは容易ではなかった。日々、家を出て近所を自転車でふらふらしたり、近くの神社の境内で一人時間をつぶしたりした。あるいは公園のベンチに座ってゲームをした。何も行動には移せないまま、ただそうしているうちに、一日、また一日と時間だけが過ぎていった。

 

しかし、何カ月かが経ったある秋の日のことだった。ふと気持ちが固まった。Tは一気に動き出した。

 両親と暮らしていたのは、名古屋市熱田区の公団である。三〇棟ほどが立ち並ぶ大きな敷地は、緑豊かな公園に隣接して南北に延びている。その北端に近い一四階建ての一棟の、五階にある一室に、Tたちは住んでいた。

その棟の八階に、通路から格子扉を挟んで建物の外側に突き出た平らな部分があるのを、Tは知っていた。以前にも何度かその前まで行ったことはあった。けれども、外に突き出たその部分を通路から隔てる格子扉を前に、いつもただ立ちつくした。

だがこの日、Tは、その先へと踏み込んだ。狭い階段を上がって八階に着いた後、さらにもう一階上がって九階に行くと、そこからは低い柵を越えれば外側に出られることに気がついた。そして実際に柵を越え、外側から柵を持って少しずつ身体を下していくと、八階の突き出た部分へと飛び降りることができたのだった。

地上に比べて少し強い風が吹きつける中、その平らな場所の端にTは立った。外の広い空間と彼を隔てるものはもう何もない。視線の先には、よく見慣れた郵便局の角ばった無機質な建物と市立体育館の赤い屋根、そして隣接する公園に生い茂る木々がある。しかしそれらの景色も、彼には日々の辛い記憶を蘇らせるだけだった。真下を覗くと、遥か下方に緑の芝生と数本の小ぶりの木が見える。

穿いていたのはいつもの破れたジーンズだった。空は白く曇っている。

いま視界に入っているものが、この世で見る最後の風景になりそうだった。しかしそんな意識を持つ間もなく、ただ彼は、自身の人生から抜け出すことだけを考えていた。

これで、全部、終わる、んだ。

 あと一歩、前に出れば、何もかもを、終わりに、できる。あの、息苦しさや、恥ずかしさも、もうなくなる――。

意識は徐々に鮮明でなくなった。吸い込まれるように一歩を踏み出し、中空に身を任せると、彼の身体は一気に地面に向かって落下した。

 

記憶はそこで途切れている。

すべては終わったはずだった。

 

しかしTは生き延びた。

 

私がTと知り合ったのは、それから十八年が経った後のことだった。

(プロローグ終わり)
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以降、書籍では、Tさんの人生を軸として、様々な当事者たちの物語が描かれます。ご興味持っていただけたら、本書を手に取っていただければ幸いです。吃音がいかに人の人生を大きく左右しうるものか、知っていただけると思います。現在、文庫版は品切れ重版未定となってしまったので、お求めの場合は、単行本をぜひ。

吃音「治療」の歴史について書いた第二章の冒頭も、こちらから読めます。