来週月曜日6月9日、夜19時~
名古屋市のNAgoyaBOOKCENTER(特設会場・喫茶リバー)にてトークイベントをやらせていただきます。
<本嫌いだった私がなぜ、本を書く道を選んだか 〜旅、科学、吃音に導かれて〜>
ライター・文筆業を20年以上やってきて、今さらながら、自分はこの仕事に向いているのだろうかと思うことが多い最近です。元々自分は、文章を読んだり書いたりとは最も縁遠い人間でした。
幼少期から大学入学までに読んだ本は通算10冊ほどしかありません汗。高校入試直前の模試の国語は衝撃の625人中598位、偏差値34(忘れられず)。感想文の宿題は、一度読んだ『こころ』で何度も書き、高校時代、『火垂るの墓』の感想文は読まずにアニメだけを見て書いてしまったことも。大学の合格を知った時に最初に思ったことの一つが、これでもう国語の勉強をしなくていい、ということでした。
そんな10代を過ごしながらも、いろいろな経緯から、文章を書いて生きていきたいと思うようになり、その道を選択して現在に至ります。いまでも、やはり自分は書くことが得意ではないなと思うことが多くあり、その一方で「このことを書きたい」という思いも引き続きあり、しかしうまく書けなくて、という日々で四苦八苦してます。
イベントの中では、そんなお話しとともに、各時代に自分が特に影響を受けた本の一部を紹介します。それらの本の写真を、NAgoyaBOOKCENTERの店長藤坂康司さんが撮ってくださいました(下写真)。
初めて最後まで読めた本(中学1年のとき?)、初めて「本って面白いかも!」と思わせてくれた本(大学1)、初めて「自分も書き手になりたい!」と思わせてくれた本(大学4?)、「いつか自分もこんな本が書きたい」といまも思ってる本、などなどです。これらの本も、当日お店にご用意いただいているようです。
名古屋近郊で、ご興味ある方がいらっしゃいましたら、ぜひご検討いただければ幸いです。
(チラシの写真は、吉田亮人さんに撮影してもらったものです)
「郷司さん、今度こそはいいクジラの写真が撮れますように!」
昨日一昨日と放送大学の面接授業「旅することと生きること」を行うにあたって、久々に拙著『まだ見ぬあの地へ』を読み返しました。書いたことをすっかり忘れていた内容もあって、のめりこんで読んでしまいましたが、広く読んでもらえたらなと思う文章も多く、機会を見つけてアップしていけたらとも思っています。
その中で、まずこれをと思ったのが、インドネシアの捕鯨村ラマレラで出会った写真家・郷司正巳さんについて書いた一篇「いつかまたラマレラで」です。郷司さんは、旅の中で出会ったの人の中でも特に、「将来自分も、このような人になれたら」と思った方です。当時自分は27歳で、郷司さんは50歳でした。ラマレラで4、5日くらい一緒に過ごし、またいつかどこかでお会いしたいと思っていたのですが、永遠に叶わなくなってしまいました。自分は間もなく、当時の郷司さんの年齢になろうとしています。果たして自分は郷司さんのような人間になれているだろうか。そう考えながら、読み返しました。以下、その文章です。
いつかまたラマレラで
先日、パソコンに保存されている旅の写真を、通して見返す機会がありました。
二〇〇三年のオーストラリアから順に、膨大な枚数を一枚一枚見ていくと、時に当時の自分の悩みや考えが思い出され、また時に、オーストラリアの強い日差しや、肌に張りつく東南アジアの空気感が蘇りました。そして、東ティモールやインドネシアにいたころの、さあ、これから東南アジアを北上するんだ、という気持ちの高ぶりを久々に追体験していたとき、一枚の写真に写る一人の男性の姿を見て、ふと手が止まりました。
それはインドネシア東部、レンバタ島のラマレラという小さな村の宿の中で撮ったものでした。
男性は、日に焼けた肌を白いTシャツから覗かせて、楽しそうに笑っています。笑い声まで聞こえてきそうなそのにこやかな表情に猛烈な懐かしさを覚えながらぼくは改めて思いました。もう二度と、彼に会うことはできないのだ、と。
バリ島から東に向かって飛行機、バス、船、乗り合いトラックを乗り継いで足掛け三日はかかる位置にあるラマレラは、四〇〇年前とほとんど変わらない方法で行われている伝統捕鯨によって知られています。当時、レンバタ島の港から、島の反対側にあるラマレラまでは道もなく、船で島に着いてからは、トラックの荷台に乗って四時間ほど山道を行かなければたどり着けませんでした。電気も通ってない、現代文明とは無縁に見える村でしたが、クジラを捕まえる瞬間を見ようとやってくるぼくらのような外国人旅行者がポツポツといて、そんな旅行者を泊める民家が当時四軒ほどありました。
ぼくらはそのうち、村を貫くメインストリート(といっても、むき出しの石の上を土などで固めただけの細い道なのですが)沿いにある一軒の家に泊まっていました。
白い塗り壁のその家は、入口のテラスに竹でできたベンチがあり、中に三、四つの部屋があります。こぎれいで心地よく、発電機や、おそらく村では数少ないテレビもあったため、夜、村の大部分が暗闇に包まれても、近所でこの家だけは灯りがあり、いつも、複数の村人が奥の部屋に集まってじっとテレビを見ているような場所でした。
ラマレラ滞在中、ぼくたち以外の外国人は村に数人しかいませんでしたが、たまたまその一人が日本人の男性で、しかもぼくたちと同じ家に泊まっていました。その人こそが、ぼくが写真の中に姿を見つけて手を止めた人物、郷司正巳(ごうじまさみ)さんでした。
当時ちょうど五〇歳だった郷司さんは、写真家で、捕鯨をする人々の姿を撮影するために、ラマレラを訪れていました。以前ベトナムでも海の民の写真を撮っていて、クジラを捕るラマレラの人々にもまた、長い間興味を惹かれつづけていたようでした。
郷司さんは、温厚で笑顔が優しいとても魅力的な人物で、ラマレラについて思い出すと、いつも彼の顔が浮かびます。だから、二〇一〇年に『遊牧夫婦』を書いていたとき、ラマレラの場面ではぜひ、郷司さんのことも書きたいと思い、久々に彼に連絡を取ってみることにしたのでした。
郷司さんとは、二〇〇四年にラマレラで知り合って以来、半年ほどはちょくちょくメールのやり取りをしていたものの、ぼくたちが中国に住みだした二〇〇五年ころには次第にその頻度も減りました。
それでも彼は、ぼくにとってもモトコにとっても、五年間の旅で出会った中で最も素敵な人の一人だったので、いずれ再会を果たしたいと思っていました。しかしながら、気づくと最後に連絡を取ってから五年もの歳月が経ってしまっていたのでした。
久しぶりにメールを送る前にちょっとでも近況を知れたらと、ぼくは彼の名前を検索しました。あれからまたラマレラに戻ったのだろうか。もしかしたら写真集ができあがっているのではないか。いろいろな想像を膨らませながら検索しました。すると、しかしネット上で見つかったのは、郷司さんの知人らしき人のブログに書かれていた、全く予想もしていなかった言葉でした。郷司さんはその前年、二〇〇九年一一月に、亡くなられたというのです。
享年五六。まだあまりに若く、ラマレラでお会いしたときもとても元気そうだったのですぐには信じられませんでした。しかしブログには、その数年前に郷司さんが大変な手術をされ、闘病されていたことも書かれていました。その文面を読み、掲載されていた郷司さんのさわやかな笑顔を見ながら、ぼくは、ラマレラで過ごした彼との日々を鮮明に思い出したのでした。
二〇〇四年の七月のことでした。
郷司さんは、ラマレラで毎日、日本語堪能なインドネシア人ガイドのマデさんとともに撮影に出かけていました。そして夕方、宿に戻ってくると、入り口のテラスに腰掛けて外を眺め、海風に吹かれながら、その日の出来事を丁寧にノートに綴りました。「今日もクジラは出なかったね。明日は出るかなあ……」。そう言って、穏やかに笑いながら。
マデさんはまん丸な顔でいつもけらけらと笑っている、ちょっとおっちょこちょいな二〇代前半くらいの男性で、いつも郷司さんと一緒にいました。マデさんが郷司さんを助け、郷司さんがマデさんをからかいながら楽しそうにしている姿はまるで親子のようでもありました。
ぼくもラマレラについてはあとで文章を書きたいと思っていたため、郷司さんの存在はとても心強いものでした。夕方、彼がテラスにいるときは、ときどきぼくも隣に座らせてもらい、その日の出来事を互いに共有し合いました。そして、時に郷司さんの持っていた資料を見せてもらったり、写真の撮り方を尋ねたり、また、マデさんにはインドネシア語を教えてもらったりするなど、二人にはずっとお世話になっていました。
一方、ぼくが自分たちのこれまでの旅や、今後の計画について話をすると、郷司さんはいつも、「うん、そうかー。へえ、すごいなあ」と熱心に聞いてくれました。自分よりも二〇歳以上年長で、ずっと多くの経験をされていながら、偉ぶったりすることは全くなく、とても真摯にぼくたちに向き合ってくれるのです。そんな彼の姿を見てぼくは、自分も五〇代になったら郷司さんのようにありたいと思うようにもなりました。
そのような人だったので、ぼくはつい、「写真家として生活していくのは大変ではないんですか?」 などと不躾なことも聞いてしまったりしたのですが、そういった問いにも郷司さんは、「そうだね」と言いながら丁寧に答えてくれました。家族のことなども話しながら、「楽じゃないけど、まあ、なんとかやってるよ」と、日焼けした黒い顔にしわをよせて苦笑いします。その表情を見ていると、たしかに楽ではないのかもしれないけれど、写真を撮ることが本当に好きなんだろうなと感じられ、彼の、写真と正面から向き合って生きる姿にぼくは強く惹かれていったのです。
ぼくは、自分が旅をしながらライターとしてひとり立ちしようとしているものの、悪戦苦闘していることを郷司さんに話しました。細々と仕事はしているけれど、これで将来生計を立てられるイメージはまだ全く見えてこない。本当に食べていけるようになるのだろうか。でも、がんばりたいと思っている、と。
そんな自分に郷司さんは「大丈夫だよ」などと言うことはありませんでした。ただ、優しく笑いながら、「二人の生き方は羨ましいよ」と言ってくれたように記憶しています。ぼくはそんな言葉に、がんばろうと励まされたり、また、ライターとしてどうなるかは別としても、郷司さんのように素敵に年をとっていきたいな、と思ったりしたのでした。
そうして、一日一日と滞在を重ねる中で、ある日、彼にとても不運なことが起りました。
その日は土曜日で、ラマレラでは「バーターマーケット」すなわち物々交換の市場が開かれる日でした。ここではクジラは、単に村人の食料となるだけではなく、その肉は貨幣としても使われていました。すなわち、男たちが海へクジラを捕りに行くのに対し、女たちはクジラ肉を担いで山に行き、クジラ肉を、山の民が育てたトウモロコシなどの農作物と交換するのです。
ぼくはその日、風邪をひいて体調が悪く、残念ながら市場を見に行くことはできなかったのですが、昼ごろ、宿でごろごろと休んでいると、朝から市場に行っていた郷司さんが戻ってきて、「いやあ、やっちゃったよ……」と、苦い顔をしてこう言いました。
「カメラ、落としちゃったんだ、海に……。市場からの帰り、山道は大変そうだったから、船で回って戻ってきたんだけど、船から下りたときに足滑らせちゃってね。カメラごとドボンだよ……」
ニコンのカメラが二台、そしてレンズもすべて水没してしまったというのです。
山道を歩いて帰るガイドのマデさんに預けようかと思ったものの、まあ大丈夫だろうと自分で持ってきてしまった。それが間違いだったよ、とすごく残念そうにしていました。写真家にとってこれ以上ないやりきれない展開に、ぼくはかける言葉が見つかりませんでした。
その後も郷司さんは、苛立ったりすることはなくにこやかなままでしたが、多大な労力と費用をかけてラマレラまで来ていたために、さすがにショックは隠しきれないようでした。「いやあ、本当にバカなことをしてしまったよ」と繰り返し、時折悔しそうな表情を見せました。そしてほどなく、こう言ったのでした。
「これでクジラが出たら悔しくてやりきれないから、もうぼくは帰るよ」
ある意味当然な決断かもしれないと思いつつも、彼がラマレラを去ってしまうことをぼくはとても寂しく思いました。
別れるとき郷司さんは、笑顔でぼくたちに言いました。
「来年、きっとまたラマレラに戻ってくるよ!」
郷司さんとマデさんがラマレラを出発した日、ぼくは早朝から船に乗り、漁に同行しました。クジラに出会うことはなかったものの、イルカの大群に遭遇し、まるで哺乳類同士の闘いといえる瞬間を経験することになりました。その圧倒的な興奮がさめやらないその翌日、ぼくらもラマレラを去りました。
帰り際にモトコは、郷司さんが来年戻ってきたときのためにと、宿のゲストブックの小さく空いたスペースに、短いメッセージを残しました。
「郷司さん、今度こそはいいクジラの写真が撮れますように!」
しかし、その後郷司さんがラマレラに戻ったのかどうかは、ついに知ることのないままとなってしまいました。
郷司さんについては、『遊牧夫婦』の本のベースとなったウェブ連載には書いたものの、結局本の中には収められず、ずっと心残りがありました。だから今回、久々に彼の写真を見て思い立ち、この原稿を書くことにしました。
彼の闘病期には、友人たちによって「郷司正巳さんを支援する会」が立ち上がり、彼を支えていたようでした。郷司さんの人柄を思い出すたびに、そういった仲間を持ちうる人であっただろうことがすんなりと理解できました。そしておそらく、郷司さん自身もまた、多くの人の支えになってきただろうことを想像しました。ぼく自身、郷司さんから、いまもずっと心に残る、優しさや寛容さを教わったのです。
旅の一番の醍醐味は、人との出会いだと思います。互いに全く異なる人生を歩んできたもの同士が、未知の土地で、偶然に人生を交錯させる。そしてその短いひとときが、何らかの形で互いの人生に影響を残し合う。郷司さんを思い出すたびに、まさに旅でのこうした出会いが、いまの自分の大きな部分を作り上げていることを、ぼくは実感するのです。
(2014.11)
「偶然」に身をゆだねる
「旅と生き方」に関する講義を、かれこれ13,4年、大学でやっています。
毎回テーマがあり、それに沿って映画やドキュメンタリー映像などを数十分見てもらい、それに自分の経験などを重ねて話すことで授業を構成しています。
(授業の概要についてはこちらに詳しく書いてます)
学生から<死とかが関わる話が多くて、毎回テーマが重い、、>という声があったこともあり(笑)、先週、少し趣向を変えて、「旅と出会い」というテーマにして、自分の過去の話(28年前(!)の妻との出会いの話)をして、「ビフォアサンライズ」の最初の30分くらいを見てもらいました。「偶然」がいかに人生において大きな意味を持つか、ということを伝えたく(自分たちの話を、ビフォアサンライズのジェシーとセリーヌに重ねるのは恐縮すぎるのではありますが笑)
150人前後くらいの受講者に、毎回感想を書いてもらっているのですが(その中の3,4つくらいを次回に共有)、「ビフォアサンライズ」について、<たまたま電車で出会って一緒に降りて旅をするとか、そんなことあるのかと驚いた>などといった感想がとても多くて新鮮でした。
学生たちの反応を見て、「偶然」が人生の中で果たす役割がかつてに比べてぐっと小さくなっているのだろうなあと実感。店を選ぶのでも、電車に乗るのでも、あらゆることを事前に予測したうえで行動するのが当然となっているいまの時代には、なるほど、それはそうだよなあとも思います。
だからこそ「ビフォアサンライズ」や僕の過去の話を、思っていた以上にみなが驚き、楽しみ、偶然の持つ意味を考えてくれたように思いました。学生たちにこのテーマの話をしてよかったです。
予測することができない人生の余白部分、そしてそこに入り込む偶然に身をゆだねることによって、人生は豊かに広がっていくのだろうなと改めて感じました。
ちなみに、授業をするにあたって「ビフォアサンライズ」と「ビフォアサンセット」を久々に見直して、このシリーズのすばらしさに再度打たれました。本当に名作。見てない方はぜひ!
『IN/SECTS vol.18』の不登校特集(「THE・不登校」)に寄稿しました。
現在小6次女の不登校状態が始まってからかれこれ7年(保育園時代から)。
基本的には自分も妻も、無理に学校に行かなくても、と思う方でしたが、しかし、これだけ長くこの状況下の娘を見るうちに、決してそう簡単には割り切れなくなってきました。日中、家にずっと1人でいて、ほとんど誰ともコミュニケーションを取らず、身体もほとんど動かさずにこの発育期を過ごしている姿を見ていると、やはりなかなか心配ではあります。
いまは週に1,2回、本人が今日は行ってみようかな、という気分の時だけ(あとは家でオンラインで参加したりしなかったり)、僕か妻かが娘と一緒に学校に行き、教室の外に椅子を並べて2人で座り、廊下から1時間くらいだけ授業を聞いて、また一緒に帰ってくるという日々です。
この7年間、本当にいろんな状況を経て、いまはそんな状態にあります。自分自身も、おそらく娘も、様々な気持ちの変化を経てきました。
『IN/SECTS vol.18』の不登校特集にて、機会をいただき執筆しました。正解も出口も見えない現状について自分がいま思うことを、本人の許可を得て、書きました。そしていまの自分の娘への向き合い方につながってる、自分自身の小学校時代の忘れられない思い出を。
特集「THE・不登校」、多様な執筆者が、いろんな切り口から不登校について書いていて、とても充実した特集になっています。ご興味ある方はぜひ。
『IN/SECTS vol.18』の詳細・目次はこちらから
https://insec2.com/in-sects-vol-18
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昨日(今日はオンライン参加)も1時間目の途中から娘と一緒に学校に行き、教室の扉の前に椅子を並べて国語の授業を廊下から聴講。いつもならその時間だけで帰るのだけれど、昨日は少し気分が乗ったのか、次の算数も廊下から参加。
そして3時間目の総合の時間はみなで畑づくりをするとのことで、友達らが「一緒にやらない?」、って声をかけてくれて、その時間も参加することに。結局その時間も、遠くから2人で眺めている感じだったけれど、僕の仕事の関係で帰らざるを得なくなった11時くらいまで滞在し、下校。これだけ長くいたのは1年以上ぶりくらいかも…。
先生もクラスメートもいつも本当に温かく、程よい距離感で娘に接してくれて、そのことはとてもありがたく、娘も自分たちも、いつもみなに助けられているなあと感じます。
NHKラジオ第2で、NHKカルチャーでの講座を放送。3月16日夜です。
1月に青山で行ったNHKカルチャー講座の内容が、1時間ほどに編集されて、明日16日の夜20時から、ラジオNHK第2で放送されます。
https://www.nhk.jp/p/rs/GPV3P86GMP/episode/re/ZN57QQ1XL2/
講座の費用がまあまあしたので、誰も来なかったらどうしよう…と不安な気持ちで臨んだ講座でしたが、思って以上の方に来ていただきみなさんに熱心に聴いていただけたおかげで、自分なりに充実したお話ができました。
トランプ就任前だったので、それと関連する辺りがラジオではどう編集されているかわかりませんが、演題は以下です。
旅することと生きること
ーー寛容さが失われそうな時代にーー
よろしければ。
来週再放送、オンライン配信もある感じです。
朝日新聞の言論サイト「Re:Ron」に寄稿 <「1%のリスク」と「99%のいい出会い」 旅で考えた警戒心と分断>
朝日新聞の言論サイト「Re:Ron」に寄稿しました。
「1%のリスク」と「99%のいい出会い」 旅で考えた警戒心と分断
分断が進み、信頼し合うことが難しくなりつつある今だからこそ、信頼し合うことの大切さと可能性について改めて考えたいと思い、書きました。<信頼こそが人を幸福にする>という事実は、心に留めておきたいと最近切に思います。
荻田泰永さん『君はなぜ北極を歩かないのか』読了 「旅とは、憧れだ」
冒険家の荻田泰永さんが書いた『君はなぜ北極を歩かないのか』(産業編集センター)読了。 12人のバックグラウンドの異なる若者(+写真家)を引き連れて、北極圏600キロを踏破する物語。荻田さんと若者たちが、それぞれに葛藤し、真剣にぶつかり合い助け合いながら極限の環境を歩く様子に、とても心を打たれ、気持ちを揺さぶられた。
最近、ある大学の先生が、高校生への講演の中で、「自己紹介をするときは、自分がどう相手に役に立つ存在かを伝えなければいけない。そうでなければ相手に興味を持ってもらえない」と話していた。それを聞いてものすごい違和感を持ったのだけれど、荻田さんが本書に書いている言葉の中に、まさにその逆とも言えることがあった。役に立つかや意味があるか、ではなく、「やりたい」という個人の衝動とその結果の行為自体に価値がある、社会はそれを尊重する場であるべきだ、といったことが、とても説得力のある形で書かれていて、本当にそうだなあと思った。なぜ冒険をするのか、なぜ北極へ行くのか。最後まで読んですごく腑に落ちた。
そういったことを、この極限環境の中で若者たちに全身で伝える荻田さん、それに食らいついて600キロを歩き抜いた若者たち、そして撮影しながら両者を結びつける重要な役割を果たす写真家の柏倉陽介さん、全員に圧倒された。参加者の中の4人が本書の最後に寄せている振り返りの文章もそれぞれよかった。荻田さんのあとがきにあった言葉「旅とは、憧れだ」がずっと心の中を漂っている。
興味もたれた方は是非読んでみてください。
いま、不登校についてのエッセイを書いていて
ある雑誌が不登校の特集を組むとのことで、執筆を依頼され、長らく学校にあまりいかない次女について書いている。娘のことを書くのは久しぶりで、どう書こうか考えながら、昨夜から、以前(2013年春から約7年間)娘たちについて書いていた連載の記事を読み直している。思い出してちょっと泣けてしまったり、いまの娘の姿とつながりふと心があったまったり。自分の娘のことだからなのは間違いないけど、興味持ってもらえる人もいるかもと思って、ひとまず最終回だけ貼っておきます。連載していたウェブ媒体がなくなってしまい、いまはどこにも公開されていないので、それももったいないかなと。よろしければ読んでいただけたら嬉しいです。
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積水ハウスオウンドメディア「スムフムラボ」掲載の連載記事
《劇的進行中~”夫婦の家”から”家族の家”へ》
最終回 「書くこと」は「子どもと一緒に生きること」(2020年秋ごろ掲載)
この欄で3ヵ月に一度、成長する娘たちの姿と、父親としての自分自身について書き始めたのは、いまから7年前のことである。
それはちょうど、今年7歳になった次女が、生まれたばかりのころだった。この連載は、その当時から現在に至るまで、2人の娘がどう成長したかを季節ごとに振り返るきっかけをつくってくれる大切な仕事であり続けたが、それが、今回で最終回となることを告げられた。
読者の方から嬉しい感想をもらうことも時折あったし、振り返ると家族についての貴重な記録(あくまでも父親としての自分の視点からのものではあるが)にもなっていた。そして勝手にいつまでも続いていくような気持ちでもいたので、唐突に終わりがやってきたことを知り、驚き、残念に思った。ただその一方で、少しほっとした気持ちが沸いてきたのも確かだった。もしかすると、ちょうどいいころ合いなのかもしれないな、とも思ったのだ。
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長女は昨年10歳になった。今年で小学5年である。当然のことながらだんだんと自立した一人の人間らしさが増している。ほっとした、というのは、最近その長女について、自分がどこまで自由に書いていいのかという点で、だんだんと複雑な気持ちを持つようになっていたからだ。
以前にも少し触れたが、長女は、あまり自分のことを人にさらけ出したくないタイプに見える。人前に出て目立ったりすることを好まないし、自分が考えていることを人に知られたくないと思っていそうな節もある。そうであるとすれば、やはり娘のその気持ちは、尊重しなければと思っている。
ある程度の年齢までは、親の判断で子どもについて書いたり報告したりすることは、基本的には許されるだろう。それがいくつぐらいまでなのかは、はっきりとはわからないが、長女の様子を見る限り、小学校高学年ぐらいからは、その範疇を超えるのかもしれないなと感じている。
そんな思いから、父親として自分が勝手に書いていい娘たちの物語はそろそろ終盤に近づいているのかもしれないと最近思うようになっていた。この連載を始めたころの気持ちを思い出せば、そのような時期がもう訪れてしまったことに驚かされ、寂しくもあるけれど、でもそれゆえに、この連載を終えなければならないと聞いたとき、それはそれでよかったのかもしれないと感じたのだ。そして自分にとってはこの連載の終了が、これから娘たちが自分自身で歩いていく様子を遠くから見守るための、一つの節目になるのかもしれないな、と思っている。
7年間、子どもたちの幼少の時代をこのようなコラムに書き残せたのは、とても幸運なことだった。自分自身、娘たちの気持ちを想像しながら書き進めていく中で、少なからぬ発見があったし気づくことがあった。またいろんな方に読んでもらい、さまざまな感想をもらえたことも、自分の子どもとの向き合い方に影響した。つまりぼくは、3カ月ごとに子どもとの日々を振り返って文章化することで反省したり考えたりする機会を得ながら、子どもたちと生きてきたような気がするのだ。その日々を、読者の皆さんや関係者の方々に見守っていただけたことを、とてもありがたく思っている。そして今回、その最後の機会として、以下に娘たちの近況をお伝えして、連載を終えたい。
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小5の長女、そよは、背もだいぶ高くなり、妻と服を共有したりするようになっている。内面はまだまだ幼いけれど、容易に言うことをきかなくなっている様は、反抗期の到来が近いのを感じさせる。その姿に、ああ、これから大変な時期が来るのかな、と思うとともに、着実に成長しているんだなとも実感する。そんな彼女の姿を見て、なぜか時折、大人になった娘に助けられたり励まされたりする老いた自分を想像したりもしてしまうが、いや、その前に思春期の娘と対峙する、おそらく自分にとってはハードな時期がやってくる。まずはその時期を、ちょっと覚悟しながらも楽しみに待ちたいと思っている。
一方、次女のさらは、今春、小学校に入学した。この連載にも度々書いてきた通り、彼女は保育園に行けない時期が長くあった。その上、コロナ禍によって入学直後に長い休みに入ったということもあり、スムーズに小学校生活を始められるのかが心配だった。そしてその懸念通り、6月の学校再開直後の日々は、なかなか困難なものとなった。
行きたがらない日が続き、玄関で泣くのをなんとか学校まで連れていっても、校門の前で「中には入らへん!」と激しく抵抗したりする。ある日は、門の辺りまで迎えに来てくれた先生が「あとは任せてください」と、少し力を入れて彼女をぼくから引き離そうとすると、「むりやりはしない、っていうたやろ!」と、ものすごい力でぼくの体を叩きながら、必死な形相で泣き叫んだ。そんな娘に、無理やり先生に引き渡したり突然いなくなったりはしないという保育園時代からの約束は絶対に破らないからと改めて告げて、ぼくは彼女を教室まで連れていき、廊下から見守ったり、教室の端っこに座らせてもらって眺めたりした。
その日、さらは休み時間ごとにぽろぽろと涙をこぼしていた。また他の日には、半日ずっとそばにいないといけなかったこともあって、これからどうなるのだろう、とそのころは思った。しかし彼女は、何日か一進一退を繰り返すうちに、慣れていったようだった。学校が始まって3週間ほど経ったころには、すっと行ってくれるようになったのだ。短い夏休みを経て、8月後半から2学期が始まると、しばらくはまた、週に一回くらいのペースで教室までついていかないといけなかったが、それもまた落ち着いた。その後も毎日のように、学校に行きたくないとは言うものの、なんとかかんとか通っている。そしてすでに10月に入った。
このままスムーズに通い続けてくれたらいいな、と思う。でも、また行きたくないという時期が来るのも想像できるし、いずれそのような時期がやってきて本格的に行かないということになれば、その時はまた、さらの気持ちに向き合おうと思っている。いやむしろ、いまは平穏に過ごしているそよの方に、今後大変な時期がやってくるのかもしれない。ただいずれにしても、そんな時にはきっとまた、この連載に書いた文章を読み直し、どうするべきかを過去の自分に問うことになるような気がしている。
そして願わくばこの一連の文章が、自分自身にとってのみならず、誰かにとっても、何かのきっかけでふとしたときに読み返したいと思うものになっていれば嬉しく思う(各コラムは、今後もアーカイブとしてこのサイト上に残してもらえるそうなので…!<→数年前にサイトが閉鎖に:2025年1月追記>)。
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連載の初回に書いた、長女が生まれた日は、さすがに昨日のことのようではない。しかし、10年も前とも思えない。月並みだが、本当に子どもの成長は早く、一緒にいられる期間も決してもうそんなに長くはないと感じている。それは親としては寂しいことでもあるけれど、でもいずれ、娘たちが自分たちの保護下を離れて自らの道を歩き出す日が来たときには、2人がそれぞれ、安心して前に向かっていけるように、力強く背中を押してあげられる存在でありたいと思う。彼らがどんな道をたどるのかは、いまは全くわからない。そしてその、先が全く未知であるということの素晴らしさを、40代も半ばに入ったいま、心より感じている。
いつか娘たちがここに書いた文章を読むことがあるとしたら、彼女たちはいったい何を思うだろう。幼いころのことであるゆえに、彼女たちの記憶にもなく、「ああ、そういうことがあったのか」という感想だけで終わるのかもしれないが、もしかしたら彼女たちは、この一連の文章の中に、自分たち自身以上に、父親であるぼくの姿を見るような気もする。お父さんは自分に対してこんなことを感じていたのか、そうかあの時、こんなことを思いながら自分と接していたのか……、と。父親としてのささやかなエゴを書き記しておくとすれば、そのとき、「ああ、お父さんは、お父さんなりにいろいろ考えてくれてたんやな」などと、思ってもらえたら嬉しいな。
また最後にもう一点付け加えておきたいが、本連載では、妻については必要以上に書かないようにした。彼女もまた、あまり書かれることを望まないからだ。それゆえに、子育てに関してなんだか自分ばかりが色々やっているように読めてしまった部分もあるかもしれないが、当然のことながらそんなことは全くない。娘たちはいつも母親にべったりだし、この一連の文章で書いた風景の隣には、常に妻の姿があるということを念のために記しておきたい。妻がいつも娘たちを気にかけ、彼女たちにさまざまな指針を示してくれることをありがたく思う。
連載を読んでくださった皆様に、心より感謝申し上げます。長い間、ありがとうございました。それぞれの方にとって、わずかにでも記憶に残る言葉が書けたことを願いつつ。
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1月10日金曜日(19:00~20:30)にNHKカルチャーで。「人間を考える」【近藤雄生】<スズケン市民講座> ~旅に学ぶ~
今年も残りわずかな段階で、年始の告知を失礼します。
1月10日金曜(19:00~20:30)に、NHKカルチャー の講座でお話しさせていただくことになりました。~旅に学ぶ~というシリーズの中の1回として登壇します。
「人間を考える」【近藤雄生】<スズケン市民講座>
~旅に学ぶ~
https://www.nhk-cul.co.jp/programs/program_1298747.html
テーマが大きすぎて恐縮してしまいますが、聞いてよかったと思っていただける内容にできるように力を尽くします。
受講料は講座通じて共通の価格なようですが、自分などの講座にこの価格はチャレンジングかと…。誰もいない教室で一人で話している図がすでに思い浮かんでしまってます汗。ご興味ある方がいらっしゃったら、ぜひ来ていただければものすごく嬉しいです。
一方、学生さんは無料とのことですので、躊躇なくぜひ!笑
「旅と生き方」をテーマに長年大学の講義で話していることのエッセンスを凝縮してお伝えできたらと思っています。
申し込みは、上のリンクよりしていただけるようです。
どうぞよろしくお願いします!
自分がどんな本を読んできたかについて、京都新聞で記事にしてもらいました
今朝(12月17日)の京都新聞に、これまで読んできた本について、広瀬一隆記者に取材してもらった記事が掲載されました。若い頃、本を読まずに来てしまったけど、大学以降に読み出して、以来出会ってきた本に改めて自分が動かされてきたなあと感じます。
記事の中で触れている本は、登場順に、立花隆『宇宙からの帰還』『脳死』『田中角栄研究全記録』、遠藤周作『深い河』、沢木耕太郎『深夜特急』『敗れざる者たち』、サイモン・シン『フェルマーの最終定理』、角幡唯介『空白の五マイル』。登場する作家は、上記以外には旅中に読む機会がちょくちょくあった作家として、清水一行、村上春樹、ポール・オースター。
立花隆さんは当時大学にいらしたこともあって身近で影響を受けたし、沢木耕太郎さんは記事にもある通り、旅に出る直前に電話をくださって、それが旅中に挫けそうになってもなんとか書き続けてこられた要因の一つでもあり、深い感謝。
また、旅中に安宿に置いてある本は傾向があって、当時(2000年代半ば頃)よくあって結構読んだのが、清水一行、渡辺淳一、村上春樹作品とかだった記憶。清水一行の経済小説はよくあって、当時けっこう読んだ。渡辺淳一も。ちなみにポール・オースターは、日本語の本に出会う機会も少なくなってたヨーロッパ滞在時に原著の『ティンブクトゥ』を確かポーランド古本屋で買って読んだ。当時は英語の本でも、読めるというだけでありがたかった。スマホなかったもんなあと当時の気持ちを思い出します。
村上作品は読んだ土地となんとなく記憶が結びついていて、『ノルウェーの森』は暑かったインドネシア・バリのカフェで、『ダンス・ダンス・ダンス』はマイナス10度くらいの真冬のキルギス・ビシュケクの宿でストーブの前で、訳書の『心臓を貫かれて』はユーラシア横断初期の北京近くの町の宿で、それぞれ読んだ記憶が蘇る。
本と人生の記憶は繋がっているなあと再確認させられました。ちなみに『吃音』を書いてからは重松清さんの作品にも強く影響を受けるように。その重松さんの作品は、一年暮らした中国・雲南省昆明で『流星ワゴン』を読んで心打たれたのを思い出します。
広瀬さん、ありがとうございました!
記事に掲載してもらった本棚の写真も追加しました。
ちょっと気になってふらっと隣のおばあちゃんを訪ねたら
親しくしている隣のおばあちゃんの姿を最近見ないので気になって、今朝、東京土産を持って訪ねたところ、とても元気にしていたうえに、驚きの話が。1944年にフィリピンのレイテ島で戦死した、おばあちゃんの従兄弟である元プロ野球選手の天川清三郎さんが亡くなった時に持っていた日章旗が返ってきたとのことでした。そして、ちょうどその返還式がその前日にあって、新聞に記事が出たところだったんです、と。
平安中から入団し1年半でレイテ島へ 戦死した南海元選手の日章旗、遺族に返還
(リンクは産経新聞(↓はこの記事のキャプチャ画像)。おばあちゃんが見せてくれたのは京都新聞だったけれど、見られないので産経の記事を)
この日章旗を持っていたのは、天川さんを撃ったアメリカ兵の孫。
レイテの村で天川さんとばったり出会ったそのアメリカ兵は、天川さんと同年代。互いに戦うような状況でなかった中、出会って互いに少し間を置いてから「しかし敵だ」と思い、彼を撃ったと。そしておそらく複雑な思いで、天川さんの所持品の中の日章旗を取り出して、いつか遺族に返そうとずっと持っていたようでした。そしてそれから80年が経ち、そのアメリカ兵の孫が、日章旗の遺族を探し続けていて、今年になっておばあちゃんがその報道を知って、返還されることになりました。
たまたまぼくがおばあちゃんを訪ねた日の前日(12月5日)がその返還式で、日章旗と米兵の孫から手紙を見せてもらいました。手紙には、その米兵もまた、野球をやっていて、大リーグの入団テストを受けたりしていたことも書いてあった。いまであれば、大リーグの舞台で勝負していたかもしれない二人が、たまたまレイテの村で出会って、互いに全く知らないながら、敵だからということで殺し合わなければならなかったことの不条理さは、戦争の悲惨さや愚かさをよくよく感じさせてくれます。
殺してしまった天川さんへの複雑な思いをおそらくずっと抱えて日章旗を大切に保管し続けていた米兵と、遺族を探し続けたその家族の思い、そして、「92歳になってこんなことがあるなんて、本当に生きててよかった」と満面の笑みを見せたおばあちゃんの姿に、本当に胸がいっぱいになる朝でした。
シャワーの修理を頼んだら、やってきた業者がやばかった
10日ほど前の夜、浴室のシャワーが急に全く出なくなった。自力で直すのは無理そうだったので、夜中、ネットで見つけた24時間対応の業者に連絡した。すると翌日電話が来て、夕方、提携先だという大阪の会社から3人の男性がやってきた。
早速見てくれたところ、「本体交換が必要です。製品10万、工賃2万、税込で132000円になりますが、製品を発注していいですか」とのこと。そんなにするのかと思いつつも、他に選択肢はなさそうだったので、仕方なく発注をお願いした。しかし彼らが帰ったあと、「もっと安い業者があるんじゃない?」と妻。改めて調べてみると、同じメーカーの製品は、高くでも5万くらい。10万もする製品など見当たらない。
そこで、家の建築業者と繋がりのある他社に尋ねると、本体交換+工賃で4万円台でできるという。10万円することはないだろうとのこと。これは怪しいなと思い、家に来た業者の男性にすぐ電話して、半額以下で見つかったのでキャンセルしたい旨を伝えた。すると男性は言った。「火災保険入ってますか?入ってたら、転んでぶつかって壊れたことにすれば保険おりますんで」。いきなり詐欺の誘いとなり、だいぶやばい業者だったかもしれないと気が付いた。結局、新たに頼んだ修理屋さんに来てもらったら、本体交換の必要はなく、部品交換だけですみ、工賃込みで14000円ほどですっきり直った。
ネットで見つけた「最短5分で対応」「出張費・お見積 0円」を売りにしている”水道修理屋”に連絡してやってきた業者です(サイトは、水道修理で調べるとたぶんすぐに出てきます)。来たのは爽やかな人たちで、僕もうっかり騙されるところでした。その日も大阪から、滋賀、宇治を回ってうちに来たと言っていたので、なかなか繁盛してそうで、騙されている件数もきっと多いはず。どうぞご注意を!
20年の節目の年に
『遊牧夫婦』の旅で最初に住んだのは、オーストラリア西部の小さな町バンバリーでした。半年暮したこの町では、イルカに関するボランティアをしながらゲストハウス(Wander Inn Backpackers)で働かせてもらっていたのですが、その時のゲストハウスのマネージャーで、僕らの"上司”だったマークが来日し、京都へ僕らに会いに来てくれました。
ゲストハウスで働いていたのは2003~04年。04年3月に僕らが、900ドル(当時約7万円)で買った中古のバンに乗ってバンバリーを出発した時以来、20年ぶりの再会でした。
当時ちょうどぼくらと同時期に、宿に住みだして一緒にボランティアをしていたけいすけくんも名古屋から参加。4人で京都で合流し、マークとぎゅっとハグした瞬間、思わずこみ上げてしまいました。
その後マークとは2日間一緒に過ごし、あっという間に別れる時が。20年前の別れ際(↓画像の文章参照)、思わず涙してしまった僕を慰めてくれたマークは、今回の別れ際は、声を詰まらせて笑いながら「泣かないぞ!」と言って、涙を見せないように遠ざかり、遠くから手を振ってくれました。
緑のバンと若い3人の写真は、2003年、バンバリーでの別れの時。長女も写っているのが一昨日の別れの時。
いまも夢だったような2日間。来てくれたマークに感謝。
20年前のマークとの別れの場面(『遊牧夫婦 はじまりの日々』(角川文庫))
9月23日(祝) 名古屋市の守山図書館で吃音をテーマとして講演します
9月23日に、名古屋市の守山図書館で吃音をテーマとして講演させていただきます。演題は
「吃音とは何か "伝えられないもどかしさ"の中を生きる100万人の苦悩」
『吃音 伝えられないもどかしさ』を出版した5年前は、自分の中で吃音に関する悩みはほとんどなくなったと思っていました。しかし、それからの5年の間で、吃音の症状に関しても浮き沈みがありました。また、症状とは別に、自分自身の性格や生き方、書き手としてのあり方に、ずっと影響し続けていることを感じさせられています。つくづく一筋縄にはいかないなあと感じます。
ご興味のある方、よろしければお気軽にご参加ください。人数も多くなく、交流の時間もあり、アットホームな場になりそうだなあと想像しています。
以下のURLよりお申込みいただけます。今日9月3日から受付開始になりました。どうぞよろしくお願いいたします。
https://eventwebreserve.tackport.co.jp/eventUsr_ngy/main/view/4889
6月に朝日新聞Re:Ronに寄稿した文章もよろしければぜひ。
マリリン・モンロー、エド・シーランも当事者 吃音の苦しみと理解
生産性という言葉に蝕まれているの感じながら思い出した、生産性を求めていた自分
朝日新聞Re:Ronに掲載された「微うつ」歴50年の異変…ヨシタケシンスケさんと「助けてボタン」を読んで、「生産性」ということについて考えました。
ここ数年、自分自身、生産性の魔にがんじがらめになっている感じがします。生活していくためにそうならざるを得ない部分もあるものの、じつは自分で自分を必要以上に焦らせているような気も。ヨシタケさんの言葉にはとても共感しました。
一方、自分は、「もっと生産性の高い生活をしたい」と思っていた時期がありました。長い旅から帰国したすぐあとのことです。そんなころにあった忘れられない出来事について書いたエッセイを『まだ見ぬあの地へ』に載せています。「旅の生産性」というタイトルの文章です。思い出したのでこちらに転載します。「旅が非生産的」だとすれば、それを5年間も続けられていたことはいかに豊かなことかと思います。「旅は非生産的だ」という言葉がいまは、まるっきり別な意味に聞こえます。ここに書いた友人とは、それ以降連絡を取ってないのですが、機会があったら、このことを直接話したいなあ…。
(以下、『まだ見ぬあの地へ 旅すること、書くこと、生きること』(産業編集センター)より)
旅の生産性
「『旅は非生産的だ』って近藤さんは言っていましたが、どういうことなのでしょうか」
『遊牧夫婦』の旅を終えて日本に帰ってきた直後、二〇〇八年の暮れに、ぼくは一人の友人からそんな内容が書かれたメールをもらいました。
友人というのは、その前年の二〇〇七年に中央アジア・キルギスの首都ビシュケクで知り合った二〇代の女性です。ぼくらが中央アジアを東から西へと移動しているときのことで、彼女は確か一週間ぐらいの日程でキルギスを訪れていて、宿だったかで一緒になったのでした。
それから一年ほどが経ち、ぼくらが五年間の旅を終えて帰国して少ししたころ、彼女を含めキルギスで一緒だった数人と、東京で再会する機会がありました。そのときぼくは、自分たちが日本に帰ってきた理由について彼女にこんなことを言ったのです。
「五年間、ずっと旅の中にいたら、ふと、『おれ、何やってるんだろう』って思うときが出てきたんだよね。ただ移動を繰り返してるだけの日々に嫌気がさしてきたというか。旅って、なんていうか、非生産的だし、だからもっと、仕事をしたりして生産的な生活がしたい、って思うようになった。それも日本に帰ろうって思った大きな理由の一つだったんだ」
その場では彼女は特に何も言わなかったものの、ぼくのその言葉が引っかかっていたようでした。そのすぐあとに、冒頭のメールが彼女から届いたのでした。
そのころぼくは、日本に帰ってまだ数カ月しか経っていなく、ライターとしてやっていくかどうかもはっきり決めていない時期でした。京都に住むことは決まったものの、いきなりフリーのライターとして食べていける自信など全くなく、とりあえず理系の仕事に就いて、会社などで働きながら細々と書いていくしかないかなと思い、派遣の登録に行ったりする日々を送っていました。しかし、就職経験が一切なく、五年間海外をふらふらしていた三〇代の自分にとって、就職先を見つけるのは想像以上に困難であるのがだんだんとわかってきました。こちらが興味を持った会社は、どこも会ってもくれませんでした。最初はタイミングが合わないだけかと思ったのですが、何らかの理由をつけられて「会えない」と告げられるケースが続くうちに、そうか、これは拒絶されているのだ、と気がつきました。そして思ったのです。これはもう、覚悟を決めてフリーライターでいくしかないな、と……。
ただ、いずれにしても、何をやっていくにしても、ちゃんと仕事をして、日本で普通に生活できるようにならなければ、という思いが強くありました。そして、旅に対しては、倦んでいたとも言える気持ちを抱いていました。それが言い過ぎでも、旅することに疲れ切り、とにかく、じっくりと腰を据えた生活がしたかった。
その気持ちの中には、自分は三二歳にもなりながら、社会に対してほとんど何も生み出すことができていない、積極的にかかわることもできていない、という焦りのようなものがありました。まずは日本でしっかりと稼いで食べていくということを最低限実現しなければいけない。そのためには自分が何かを生み出さなければいけない。しかし自分にとっては、それが決して容易ではなさそうなことをこのころ実感するようになっていたのです。
そう思うのと表裏一体な気持ちとして、良くも悪くも雑誌の原稿料などのわずかな収入で細々と食いつないでこられてしまった旅中の自分が、やたらと非生産的であったように感じるようになりました。そしてそのことをネガティブに捉えるようになっていました。「旅は非生産的だ」と負の意味合いで言ったのは、当時の自分のそのような状況と内面の表れでした。
そんな時期から、三年以上が経ちました。
いまは一応、文章を書いて最低限食べていけるようにはなっています。生産的でありたいという思いも、それなりに満たされるようになりました。でもその一方、毎日、仕事や子育てに追われ、旅らしい旅など全くできなくなっている中で、過去の旅を思い出しながら紀行文を書いていると、旅をしたい、と思う気持ちが再び強烈に湧き上がってくるのを感じます。
正直なところぼくはこれまで、紀行文の面白さ、魅力というものを、さほど感じたことがありませんでした。それゆえに、もともとは紀行文を書くつもりはなかったのですが、いろいろな経緯から『遊牧夫婦』などを書くことになり、いまもずっと書き続けています。さらに昨年からは大学で紀行文についての講義を担当するようにもなりました。
そうした中、ようやくいま、紀行文は面白いと確信をもって人に伝えられるようになっています。一言でまとめることは困難ですが、それはおそらく、旅というものが人間にとっていかに普遍的で必然的な行為であるのかを、自分自身の旅を振り返りながら文章化することを通じて、実感できるようになったということなのだろうと思います。
旅の持つ普遍的な魅力を感じられるようになるにつれて、自分が三年半前に言った、「旅は非生産的だ」という言葉をふと思い出すようになりました。友人がぼくに対して、「なぜそんなことを思うのか」と、おそらく多少の反感も抱きながら問うてきた気持ちがいまはよくわかる気がします。
そしていまはこう思います。旅は、何か具体的なものを生産する行為ではないかもしれない。でも、だからこそ、形では表せない無限の世界をその人の中に生み出すのだろう、と。
(2012・5)
今年も「旅と生き方」に関する講義を終えて(レポートを読んで思ったこと等)。
毎年前期に大谷大学で行っている、旅と生きることをテーマにした講義(人間学)も、今年でたぶん13年目くらいになりました。今年もようやく、レポートの採点、成績入力までを終了しました。
この講義は、旅が人生にどう影響するかということを、自分の長旅の経験や、様々な映像作品、世界情勢、歴史、文化などから語っていく内容で、毎年100人~200人くらいが受けてくれます。(講義の基本的な内容はこちらに書いています)
講義を受けて、少なからず影響を受けてくれる学生が毎年何人かはいるように感じます。ある年は、講義が終わったあとに休学してユーラシア横断の旅に出てくれた学生もいたし、行くかどうしようか迷っていた留学を、行くことに決めたと伝えてくれた学生もいました。またその他に、進路の相談や留学の相談をしに来てくれた複数の学生も含め、彼らの姿を見て、旅について考えることは、学生たちにとって大きな意味があるように感じています。
そのような中、今年度の講義のレポートを読み終えて、今年はとりわけ、いろんなことを感じてくれた学生が多かったかもしれないように思いました。
ある学生は、全然大学に行けてなかった中、たまたまこの講義をとって聴いていくうちに、いろんな生き方があっていいんだと思うようになり、背中を押され、そのうちに他の授業にも出られるようになったと書いていました。
またある学生は、姉が高校卒業後に海外の大学に進学し、そのままその国で就職して現在に至るとのことでした。その学生は、姉がどうしてそんな選択をしたのかがわからず、かつ、遠くに行ってしまったことがショックだったこともあり、姉の出国以来、かれこれ5年ほどほとんど連絡しないままだったとのこと。しかし、この講義を受けて彼女は、姉がどうして海外に行くという選択をしたのかがわかったような気がした。そして、姉にちゃんと連絡をしてみることに決めましたと書いてくれていました。
また、最近難病であることがわかったという学生は、これからどうやって生きていこうか途方に暮れる気持ちだったけれど、世界にはいろんな生き方をしている人し、いろんな生き方をしていいんだということを講義を通じて感じ、自分も自分の道を生きていけるような気がするようになった、と記してくれていました。
他にも多くの学生が、内面の深いところの変化について書いてくれました。僕の講義がまだ途中の段階で旅に出かけたくなってバイクの旅に出たという学生もいたし、夏休みに旅に出ることにしましたと書いている学生も複数いました。そして旅というテーマを通じて自分自身のこれからの生き方を真摯に考えていることが伝わってくるレポートがいくつもありました。
そんなみんなのレポートを読んで、僕自身がとても励まされました。この講義を12,3年やりながらも、なぜかいまも毎回毎回、緊張してしまうのだけれど(それは自分の性格ゆえ)、そんな緊張感を抱えつつも講義をやってきてよかったなと思いました。
一方、こんな講義をしながらも、じつは自分がいま全然旅をしていません。2020年の初頭にタイに行った直後にコロナ禍が始まったこともあり、以来海外が遠くなり、精神面や生活面でも思うようにいかないことが多くあり、気づいたらパスポートも切れてしまっていました。
そのように旅がすっかりと遠のいてしまった自分ですが、みんなのレポートを読んで、皆が旅の可能性を強く感じてくれたのを知って、自分自身もまた、短くてもいいから近いうちに旅がしたいと、いまとても強く思っています。
皆が講義に興味を持ってくれたことで、逆に自分自身がいま、旅の可能性を改めて強く感じています。
講義を聴いてくれた皆さんのこれからの人生を、陰ながら応援しています。「偶然性」と「有限性」を心に留め、そして「脱システム」を――。
デイリー新潮に記事掲載 <吃音をコントロールして流暢に話せるようになったはずの男性が、なぜあえて「どもる」話し方に戻したのか>
拙著『吃音 伝えられないもどかしさ』で全てをさらけ出してくれたTさんの現状について、記事を書きました。(7月5日、デイリー新潮掲載)
Tさんは現在、決して楽ではない状況にいます。その困難を、率直に語ってくれました。記事の中にも書きましたが、僕は彼に対して、取材を通して尊敬の念をも抱くようになりました。なぜその彼に、このような大変なことが起きるのだろうと、思わざるを得ません。広く届いてほしいです。
吃音についての論考を、朝日新聞「Re:Ron」に寄稿しました
朝日新聞Re:Ronに初めて寄稿しました。再び自分の吃音が気にかかるようになっている今、思うことを。
マリリン・モンロー、エド・シーランも当事者 吃音の苦しみと理解
(有料記事ですが、8割程は無料で読めます)
吃音については、認知が広がり、社会の見方も変わり、取り巻く環境は近年大きく変わってきました。それは本当に良いことだと思うけれど、しかし、当事者の核にある困難はあまり変わっていないのでは、ともよく思います。それはおそらく、あらゆる生きづらさについて言えることなのでは。
そしていま、刑務所にいる知人の思いを届けたく、書きました。
こういうことを子どものころに教わりたかった――『君の物語が君らしく──自分をつくるライティング入門』 (岩波ジュニアスタートブックス)
僕はもともと、文章を読んだり書いたりすることに全く興味が持てなかった。子どものころ、本は嫌いで一切読まずで、たぶん、大学に入学するまでの18年ほどの間に積極的に読んだ本らしい本は、10冊あるかないかだと思う。記憶にあるところで、祖母で勧められて中学時代に読んだ『君たちはどう生きるか』、その流れで少し興味を持って読んだ山本有三の『路傍の石』『心に太陽を持て』など。あとは、読書感想文のために『こころ』を、中学、高校で読んだのと、中高時代に強く影響を受けた尾崎豊の小説は1,2つ読んだように思う。が、それくらい。また中学時代、塾では国語の成績だけ極端に悪かった。受験直前の模試で、国語が625人中598番で偏差値34。この数字はインパクトが強くて30年以上たったいまも覚えている。国語は完全に捨てて、残りの4教科で勝負しようと覚悟を決めたのもよく覚えている。
いずれにしても、そんな具合で本当に本や国語的なものとは縁が遠い幼少期で、その一方数学や物理がとても好きだったため、将来は物理学者などになりたいと思っていた。大学で合格した時にはまず「これでも国語の勉強をしなくていい、本を読まなくてもいいんだ」と思ったほどだ。
しかしそれが、大学時代のあれこれを経て、ノンフィクションを書きたいと思うようになり、そのまま、20年以上文筆業を生業としているのだから人生はわからないなと思う。
そしていま、なぜあんなに文章を読んだり書いたりするのが嫌だったのかと思ったりもするのだけれど、『君の物語が君らしく──自分をつくるライティング入門』 (岩波ジュニアスタートブックス)を読んで、少し当時の自分の気持ちが見えたような気もした。
この本は、書くことが持つ喜びや豊かさについて、平易で優しい言葉で書かれている。当時の自分のような、読み書きが好きだったり得意だったりしない子どもに寄り添い、語りかけてくるような本である。著者の澤田さんは現役の国語の教員である。きっとそういう子どもたちの姿を間近で見てきて、彼らの気持ち、彼らにどうやったら書くことの楽しさが伝わるのだろうとずっと考えてきたのだろうなと思った。
自分には、文章を書くことが楽しい、という感覚なんて当時一切わからなかったし、楽しいものなのかもしれない、と考えたことすらなかったと思う。読書感想文もひたすら苦痛でしかなかった。それはまさにこの本にあるように、先生が求める正解のようなものを書かないといけないと思っていたからなのだろう。
澤田さんは、自分のために書く喜び、楽しさを、いろんな角度から語ってくれている。なぜ書くことが喜びになるのか。<「書くことが得意/苦手」ってどういうことなのか>。<書くことを、自分の手に取り戻す>ためには、どんなことをすればよいのか。そんな問いを通じて、上手い下手とは全く別の、書くことの意味や価値を感じさせてくれる。こういうことを子どものころにしっかりと教わる機会があれば、書くことへの見方は全く変わっていたかもしれないなと思った。この本に出てくる「作家の時間」という澤田さんの授業を受けられている生徒さんたちがうらやましくなった。
僕はいまなお時々、自分が文筆業を仕事にしていることが不思議になることがある。また、幼少期に文章に接してこなかったことのツケや、書き手として致命的に欠けているものがあるのも感じている。でもその一方でいまは、この本に書かれているような、書くことが自分自身に与えてくれる喜びや意味は実感としてわかるようになってきている気がする。
澤田さんが本書の中で紹介しているスティーブン・キングの『書くことについて』については、自分もとても好きな本(この本について書いた拙文はこちら)。キングがこの本の終盤に書いている次の言葉は、澤田さんの本のメッセージと通じると思う。
<ものを書くのは、金を稼ぐためでも、有名になるためでも、もてるためでも、セックスの相手を見つけるためでも、友人をつくるためでもない。一言でいうなら、読む者の人生を豊かにし、同時に書く者の人生も豊かにするためだ。立ち上がり、力をつけ、乗り越えるためだ。幸せになるためだ>
書くことの楽しさを知ることは、生きていく上で、大きな力となり、支えになる。いまは実感としてそう言える。
ものを書くのは、幸せになるためだ――スティーブン・キングの『書くことについて』
今年度、書くことについて授業したりする機会が少し増えそうな予感がある。であればこれまでよりも確固たる意識で臨みたく、こないだ本多勝一の『日本語の作文技術』を20年以上ぶりに読み返した。やはり名著だなと感じ、その流れで、スティーブン・キングの『書くことについて』も読み返した。
『書くことについて』は、10年程前、作家の新元良一さんに薦められて読み、大きな刺激をもらって以来、文芸学科の学生などによく薦めている。一度読んだきりだったので詳細は忘れてしまいつつも、読んだ時の気持ちの高まりや、おれももっと書こう!と思った気持ちだけはずっと頭に残っていた。久々に読み返すとまさに、「そうだった、この興奮だった」と、最初に読んだ時の気持ちを思い出した。
キング本人の自叙伝的文章から始まり、書くことについての具体的な方法論へと移っていく。全体として物語性があり、引っ張る力がすごい(田村義進さんの訳の良さもあると思う)。1つのノンフィクション作品のような作風だが、読み進めるほどに、「書くことついて」というテーマがいろんな形で伝わってくる。
自叙伝的部分からは、超大御所の作家でもやはり最初は苦労したんだなということが伝わってくるし(クリーニングの仕事や高校教師をしながら、作品を投稿しては不採用通知が届く、という時代がしばらくあった)、方法論の部分も、文章の技術的な点(とにかく文章はシンプルにしろ、と)、どう書き進めるか、原稿の見直しの仕方、リサーチの方法、編集者へ手紙を書く上で大事な点など、自身の経験に基づいた方法や考えを率直に、具体的に書いている。
方法論の中で特に印象的な部分がある。<ストーリーは自然にできていくというのが私の基本的な考えだ>(p217)というあたりだ。<作家がしなければならないのは、ストーリーに成長の場を与え、それを文字にすることなのである><ストーリーは以前から存在する知られざる世界の遺物である。作家は手持ちの道具箱のなかの道具を使って、その遺物をできるかぎり完全な姿で掘りださなければならない>
ストーリーは、土の中に埋まった化石のようにすでにそこにあり、それを丁寧に、傷つけずに掘り起こすのが作家の仕事だと言うのである。
<最初に状況設定がある。そのあとにまだなんの個性も陰影も持たない人物が登場する。心のなかでこういった設定がすむと、叙述にとりかかる。結末を想定している場合もあるが、作中人物を自分の思いどおりに操ったことは一度もない。逆に、すべてを彼らにまかせている。予想どおりの結果になることもあるが、そうではない場合も少なくない。サスペンス作家にとって、これほど結構なことはないだろう。私は小説の作者であると同時に、第一読者でもある。私が結末を正確に予測できないとすれば、たとえ心のなかでは薄々わかっていたとしても、第一読者はページをめくりたくてうずうずしつづけるだろう。いずれにせよ、結末にこだわる必要がどこにあるのか。どうしてそんなに支配欲をむきだしにしなければならないのか。どんな話でも遅かれ早かれおさまるべきところへおさまるものなのだ>(p219)
この言葉は、小説に限らずさまざまな文章を書く上でのスタンスとして、すごくヒントになる気がした。
方法論について書かれたあと、再びキング自身の話に戻るのだが、そこには、1999年の大事故について書かれている。彼は散歩中にヴァンに轢かれ、生死の境をさまようほどの大けがを負ったのだ。それはこの本を書いている最中のことだった。病院での苦しい治療中に彼は考える。<こんなところで死ぬわけにはいかない。> <もっと書きたい。家に帰れば、『書くことについて』の書きかけの原稿が机の上に積まれている。死にたくない>(p346)……。
その章の最後は、大事故による困難を経たあとの彼の、書くことについての思いで結ばれているが、その言葉が深く響いた。
<ものを書くのは、金を稼ぐためでも、有名になるためでも、もてるためでも、セックスの相手を見つけるためでも、友人をつくるためでもない。一言でいうなら、読む者の人生を豊かにし、同時に書く者の人生も豊かにするためだ。立ち上がり、力をつけ、乗り越えるためだ。幸せになるためだ><あなたは書けるし、書くべきである。最初の一歩を踏みだす勇気があれば、書いていける。書くということは魔法であり、すべての創造的な芸術と同様、命の水である。その水に値札はついていない。飲み放題だ。/腹いっぱい飲めばいい>(p358-359)
文筆業をはじめて20年以上が経ち、いま、書くことは自分にとって、生きるための手段という側面が随分大きくなってしまった。だからこそか、この言葉はすごく響いた。強く背中を押してもらった。読者を幸せにし、自分も幸せになるために――。
あと一点、どこだったか見つけられなくなってしまったけれど、前半に書いてあったこと。投稿しては不採用の通知をもらうという日々でのことだったか、作家デビュー直前のころのことだったか。ある編集者がかけてくれた一言によって、救われた、といった話があった。
それを読んで思い出したのが、自分が旅に出る前に、「週刊金曜日」のルポルタージュ大賞に応募した時のことである。確か原稿を送ったのは2002年の年末で、2003年3月に発表があった。送ったのは、吃音矯正所について書いた原稿用紙50枚ほどのルポルタージュ。
受賞の連絡はないままに結果発表の号が発売する日となったので、「ああ、だめだったんだな……」とがっくりしながらその号を手に取った。結果発表のページを見ると、やはり受賞はしていなかった。ところが意外なことに、誌面に自分の名前が見えた。編集長が講評の中で、自分の応募作について触れてくれていたのである。確かこんな主旨の言葉だったと記憶している。
<近藤さんの吃音矯正所のルポもよかった。ただ、構成の面でもう少し工夫がほしかった。次回作に期待したい>
その言葉は、実績もなく先行きも見えないまま、ライターとしてやっていくために日本を離れる直前だった自分にとって、かすかな、しかし大きな希望となった。その言葉があったから、結果発表のすぐあとに思い切って「週刊金曜日」の編集部を訪ね、なんとか載せてもらえないかと相談に行けた。結果、分量を半分くらいにし、追加取材をすることで掲載してもらえることになった(その記事)。そうして初めて、自らテーマを決めて書いた記事が雑誌に載ることが決まり、一応はライターと名乗ってもいいだろうと思える状態で6月、日本を出発することができたのだった。
その時の編集長は岡田幹治さん。2008年に帰国した後、同編集部に挨拶に行ったときにはすでに編集長を退任されていたのでお会いすることはできなかったが、あの一言が自分の背中を大きく押してくれたことは間違いない。いまもとても感謝している。
その岡田幹治さんが、2021年7月に亡くなられていたことをいま知った。
確実に時間が経った。いまやるべきことはいまやらないと、と改めて思う。