今年は最近では初めて、一枚も年賀状を書かずに新年を迎え、そのまま今に至ります…。ついに気持ちが切れてしまい、年賀状は終わりになりそうです。いただいた皆様、ありがとうございます。いずれにしてもなんらかの形でお返事しようと思っています。
今年で45歳(!)になるのですが、ここ数年、一年が早すぎて、残りの人生で自分は何ができるのか、あと何冊、本を書くことができるのだろうか、ということばかり考えているような気がします。
40代に入ってからはいよいよ、経験のために何でもやる、という時期を過ぎ、自分が本当にやるべきこと、やりたいことに時間を使わないときっと後で後悔するだろう、という気持ちが強まっています。それゆえに特に今年は、その気持ちを大切に本当に自分がやりたいと思う仕事にできる限りの時間を使いたいと思っています。もちろん、生活のことを十分に考えることは前提として(5年ほど前に一時経済的に生活が崩れかける経験をして、そのバランス感覚はだいぶ身につきました)。
次に書こうと考えているのは、人間がいかに原子を発見していったかを巡る物理学の歴史ノンフィクションです。いまはこれが自分の最大のテーマです。調べるほどに壮大で、ギリシャ哲学を紐解きながらときどき途方に暮れつつも、なんとか今年はこれをぐぐっと進めたいです。
一方、昨年8月に、たまたま古いアコースティックギターを譲り受け、弾き始めました。すると想像以上に楽しくて、ものすごくはまり、すぐ飽きるかなと思いつつも、5か月たったいまも毎日1時間以上は練習しています。今年7月の誕生日まで、今の気持ちを保てたら、いいギターを購入しようと思っています。そんな気持ちで年始に楽器屋さんに行って、ちょっといいギターを弾かせてもらったら、音も感触も全く違って感動し、ギターがほしくたまらなくなってます(7月まで待てないかも)。そして、そのように仕事以外にすごく楽しいと思える趣味が見つかったことが自分的にとても嬉しく、今年は、そういう意味でも、やりたいことをして過ごす時間も大切にしたいと思っています。
いまは、「Tears in Heaven」と「香水」がそれなりにできるようになって(ってもちろん初心者的所感ですが^^;)、これからジャック・ジョンソンの「Better Together」をはじめようというところです。あと1年ぐらいしたら、ちょっと人前で弾けるようになっていたいな、というのがささやかな目標です。
しかし、何歳になっても新たに何かを始めるのは本当に楽しいし、日々を豊かにしてくれるなって改めて感じています。未知の荒野に道ができていく感覚がやはり好きです。
では、本年もどうぞよろしくお願いいたします。
八木順一朗監督『実りゆく』、10月9日より新宿武蔵野館ほか全国公開
前回紹介しましたが、先月、八木順一朗監督『実りゆく』を渋谷での試写会で観る機会をいただきました。
家族や夢をテーマにした、吃音のある青年が主人公の青春映画。想像以上に素晴らしい作品でした…!泣けて笑えて心に染みました。
監督は、この映画を作るにあたって、拙著に登場する吃音のある子のお母さんに会いに行き、そのお母さんの気持ちを念頭に映画を作ったとのことでした。
主人公とお母さんの関係が重要な役割を果たすこの映画で、ぼくは何度も、そのお母さんと息子さんのことを思い出して、たびたびこみ上げてしまいました。
吃音のある人にも、ない人にも広く観てもらいたいです。10月9日より、全国公開です。
また観たいです!
minoriyuku-movie.jp
『ペスト』と『コロナの時代の僕ら』
やはりのブックカバーチャレンジの流れでFBに書いた本の感想をこちらにも。
取り上げるのは、最近読んだ、いま話題の2冊です。
『ペスト』(カミュ)
『コロナの時代の僕ら』(パオロ・ジョルダーノ)
『ペスト』は、80年ほど前に書かれたカミュの代表作の一つで、ペストが流行って封鎖された町で生きる人々の様子を描いた、現代に通じる作品です。
が、正直、読むのに相当時間がかかってしまい、途中しんどかったです。。しかし読了後に「100分de名著」を見たら、そんな熱い人間関係と物語が展開していたのか!とびっくり(笑)。全然理解できていませんでした。文章が、なんだか読みづらくて、細部が頭に入ってこず。世界的名著と言われる作品なので、自分の読解力のせいなのかとも思いつつ、いや、翻訳が悪いのか、そもそもこういう文体なのか、とか悩む始末…。
ただ、封鎖されたアルジェリアの町で生きる人たちの様子が、現在の状況と驚くほど似てる部分があったりして、いまも昔も、人間の本質が変わらないのを感じ、読みながら不思議な気分になりました。
『コロナの時代の僕ら』は、若きイタリア人作家によるエッセイ集で、おそらく初めての世界的なコロナ文学的作品。本文を成す27篇の短いエッセイは、著者のちょっとした気づきを書き留めたといった感じの印象だったけれど、あとがきは、評判通り、とても美しく心に残るものでした。コロナ騒動が始まったあの時期に、自分が何を思いどう行動したかを、きっと読者一人ひとりに思い返させてくれるとともに、これからどう生きるべきかを考えさせてくれる文章だと思います。
『ペスト』では、主人公にとっての大切な人が、病気で、封鎖された町の外にいて、主人公と会うことができず連絡も取れないまま亡くなってしまうのですが、主人公はそのことを8日後(?)に知るという場面があります。
一方、『コロナの時代の僕ら』では、僕が読み終えたあとにそのことをツイートしたことをきっかけに、この本の訳者でイタリア在住の飯田亮介さんと、その10分後ぐらいにはやり取りをしていました。飯田さんの日本語訳が美しかったことに加え、彼がかつて中国の昆明に留学していたのを経歴を見て知り、奇遇だったので、つい連絡を取りたくなり…。
主人公が大切な人の死を知るのに8日間かかった『ペスト』の時代と、読後10分で異国にいる訳者とやり取りできる『コロナの時代の僕ら』の時代。そんな、人と人との距離感の違いが、各作品に描かれた時代に通じ、そしてそれぞれの時代の感染の広がり方にも通じるのだなあと、しみじみ感じたのでした。
興味あるかたは是非~。
週刊文春「森友自殺財務省職員 遺書全文公開」を読んで
今日の週刊文春の記事「森友自殺財務省職員遺書全文公開」(相澤冬樹さん筆)
を読み、こんな人たちが財務官僚として社会の中枢にいるのかと思うと本当に腹立たしくなった。
自分自身、おそらくそういう人たちと同様に、受験勉強にエネルギーを使い、結果としていまの学歴社会でうまく立ち振る舞ってきたという自覚がある。でも、傲慢に聞こえかねないことを覚悟で言えば、そういう点において恵まれた環境で生きてきた自分自身について、居心地の悪さというか、後ろめたさみたいなものがあり、同時に、自分がそういう境遇を利用して生きていることについて自覚的でなければいけないと思っている。
うまく言えないけれど、おそらく多かれ少なかれ彼らと近い環境にいた時期がある身として、いったいどうして、そんな生き方をして平気でいられるんだ、という気持ちがある。勉強して、エリート街道みたいな人生を進んで権力を得て、その挙句にその立場を利用して改ざんや隠ぺいをして、自分より立場の上の人にだけはこびへつらって、責任は自分の部下に押し付けて。なぜ恥ずかしくないのだろう。なぜ平然とその立場にい続けられるのか。
こういうことを書くこと自体に、自分の傲慢さのようなものがあるのかもしれず、その点も含めて色々自覚的でなければと思うのだけれど、赤木さんが遺書に書いている財務官僚の面々などに、自分もある種近しい立場的なものを感じるだけに、無性に腹立たしく、悔しく、彼らに、本当によく自分の人生を省みてほしいと思う。
余計な内面を変な形で書いてしまったかもしれずですが、でも、記事を読んで本当に怒りが沸きました。この記事の訴え、亡き赤木さんの声が無視されるような社会には生きていたくないな、と心底思う。