広島・江田島の、祖父たちが暮らした場所へ

週末に家族で広島に小旅行へ。ならばこの機会にと、広島市のすぐ南の江田島にも行きました。祖父が戦前から終戦時まで、広島・江田島の海軍兵学校の教官をしていました。そのため以前から江田島はなんとなく身近で、いつか機会があればと思っていたのでした。

当時、祖父母とともに一緒に江田島に住んでいた伯父(3年前に他界)が祖父のことを文章に残していたので、これを機に読んだところ、江田島のどこに住んでいたかが詳細に書かれていて、住所はなかったものの、地図から見つけることができました。それは、海軍兵学校の官舎で、しかも調べるとその一帯は、当時兵学校の人たちが住んでいた家の数々がそのまま残っているらしい。島についてまず海軍兵学校の見学ツアーに参加したあと(毎日数回、詳細なツアーをやっていて、誰でも参加できます)、官舎のあった一帯に行ってみました。まさに当時が思い出せる風景が広がっていました。

終戦当時、ここに祖父母とともに住んでいたのは、小学生だった伯父と伯母、5歳の伯父(僕の母は祖母のお腹の中)。伯父伯母の中で唯一いまも存命の、当時5歳だった伯父に、上の写真を見せると、記憶はいろいろと残っているようで、原爆投下の日の記憶を教えてくれました。家の前の坂を下りた橋の下の川で姉たちが洗濯する姿を、石鹸の泡が珍しくて眺めていた。その時にピカドンが襲い、泣きながら家に帰ったのを覚えている、と。またある日は、米グラマンの戦闘機が撃墜され、死亡して運ばれてきた米兵が腰にカメラをつけていたのがとても印象に残っていると。

また、亡き伯父の文章には、写真の奥に見える海、小用港に停泊していた戦艦榛名が爆撃されたころの様子も。戦艦の上に大きな黒いネットのようなものがかけられ、その上に大量の木などが被せられてカモフラージュされていたけれど、小学生の目にもそこに戦艦があるのがバレバレだったと。

自分にとっては歴史の中の出来事だったことが、実際にこの地を訪れ、伯父の言葉を聞き、亡き伯父の文章を読んだことで、血の通う、自分につながる出来事に。

記録を残してくれた伯父に感謝です。

自分の記録まで。

海軍兵学校の祖父が教えていた建物はいまもそのまま。