7 二十八歳、旅と人生を考える
……目を覚ますと、すでに外は明るくなりかけていた。バスは相変わらず、ガタガタ、ゴーゴーと音を立てながら突っ走っていた。そろそろかなと思い、下段を覗き込み、「もうすぐ着くんじゃない?」と小声でモトコに話しかけた。モトコはまだ眠そうにしていた。
そうしているうちに、車内が慌しくなってくる。朝の冷たそうな空の下には、いくつもの大きな建物が見え始め、走っている車の数も急激に増えてきた。いよいよ昆明にちがいなかった。
朝七時半ごろ、たくさんのバスが集まる広場にぼくらのバスも入っていった。「プー、プーッ!」とクラクションの高い音がいくつも聞こえ、バスとバスの間には大勢の中国人が歩き回っていた。
着いたのだ。
眠気と窮屈さによる疲れを体に感じながら、外に降りると朝の寒さに驚かされた。「ヤバイ、寒すぎる!」と身震いしながら、すぐにバックパックを背負い、少し暖かそうなバスの待合室へと入っていった。そしてそのときぼくは気がついた。
「あ、今日からもう十二月なんだな」
もうすっかり冬なのだ。
そう考えると、必ずしもそれほど寒いわけではないようにも思えてくる。
冬空の下を突き抜ける大きな通りには車が渋滞し、「ブー! ブーブーブー!」とクラクションが激しく鳴り響く。信号が変わると、無数の自転車がシャーシャーシャーッと一斉に道路を駆け抜けていく。人の吐き出す白い息がモクモクと上がり、朝食らしきものを売る屋台からも豊かな湯気が上がっていた。客引きや商売人の熱気と声が、寒さを吹き飛ばす勢いで響き渡る。
モトコは、ついに到着したこの町を眺め、
「昆明、すごい大都会やなあ……。もっと田舎かと思ってたのに」
と、その大都会ぶりに若干残念そうな顔をした。
ぼくは、思っていたより都会であることは逆にうれしいぐらいだったが、このときは、その大都会の大通りを走る自転車の数にただただ圧倒されていた。中国は、想像していた通りに中国なのだった。
それは昆明の町にとってはいつもと変わらぬ十二月の朝にすぎなかったはずだ。しかし、ぼくたちにとっては、新たな日々の始まりを告げる全く新鮮な朝だった。
*
昆明に二泊した間に、ぼくらはこれからここに住むことをほぼ決定した。すでにそのつもりではあったものの、やはり実際に来てみて初めて、「よし、ここに住もう」という気になれたのだ。
もともとは雲南省の北隣の四川省の省都・成都(チャンドゥー・せいと)に住もうと思っていたのを昆明にしたのは、東ティモールで仲良くなったスウェーデン人ヨハンの言葉によっていた。
「成都に住むなら、昆明の方が絶対いいよ。昆明は気候がいいしね。成都はいつも天気がよくないけど、昆明はずっと春みたいなんだ」
ヨハンはその何年か前に昆明に住んでいたことがあったのだ。雲南省の省都である昆明は、標高約一九〇〇メートルという高地にある。だから涼しく、夏は暑くなく冬も寒くない。天気もいつもいい、という。一方、成都は基本的に雨が多くていつも天気が冴えないらしい。本当にそうだとすれば、確かに昆明の方が成都より魅力的に思えてくる。
さらにもう一点ヨハンの教えてくれた大事な点があった。正しくいうと、モトコにとって大事なこと。つまりゴキブリ事情である。
「ゴキブリ? 昆明にはいないよ、そんなの。見たことないよ。標高が高くて涼しいからね」
「ほんとに? じゃあ、昆明にしようよ!」
モトコはうれしそうにそう答えた。そうして昆明が第一候補に躍り出たというわけだった。ただ、ゴキブリがいないというのは、まったくの誤解であることが住み出してから判明した。夜道を歩いているとき、排水溝の近くを集団で闊歩するゴキブリの大群を何度も見ることになったのだ。そのたびにモトコは、「あわわわ……」と恐れおののいた。
いずれにしても、ぼくらは昆明に住むことを決めた。そして、住み出す前の一時帰国に向けてとりあえずいったん昆明をあとにした。
二十四時間以上列車に乗って中国南東部の広州へ。そして香港へ移動し、一週間ほど滞在したあとに上海経由で成田へと飛んだ。
オーストラリアから中国まで、移動は十カ月弱に及んだ。激しい疲労感を少しばかり日本の空気を吸い込むことで回復させたかった。おそらくこういう機会をつくった方がきっと旅は長続きすることをぼくもモトコも感じていた。ぼくには、一時帰国するにあたってのなんとも言えない不安感みたいなものもあったけれど、家族や友だちと再会できることはすごくうれしいことだった。
久々に会った友だちの近況を聞くと、みなそれぞれに進展があった。仕事が忙しくなってきた。子どもが生まれた。仕事が変わった。大学を受けなおす。これから海外に行く……。友人の多くが三十歳の手前で、それぞれ、社会人としての経験も積んで、動きが活発な時期だった。
そんな報告のなかに、友人の死の知らせがあった。週刊誌の記者をしていた高校時代の友人が、少し前に自ら命を絶ったというのだった。
彼と最後に連絡を取ってからすでに数年がたっていたが、まさかそんなことになっていようとは想像すらできなかった。楽しく陽気だった姿しか思い浮かばない。あいつがなんで……。
どう受け止めていいのかわからなかった。言葉がなかった。しかし、自分が吃音のことを隠し続けてきたのと同様に、彼にも、周囲には見せない大きな苦悩があったのかもしれない、と思った。
友人の死によって、ぼくは時間の経過を強く感じた。旅を始めてからまだ一年半がたったにすぎない。しかしその間に、彼はこの世からいなくなった。ぼくに旅に出るきっかけを与えてくれた先輩でもあり同輩でもあったUさん(※)に続いて、あまりにも頻繁すぎる死の知らせだった。
三十代が完全に視界に入り出したこのころ、いろんな形で、各自の人生がそれぞれの方向に向かって動き出していた。日本社会のシステムを考えると、そう簡単に後戻りできない時期にさしかかっている。それぞれが、自分が選んだ道と真正面から向き合って、これからどうやって生きていくかを真剣に考えなければならない時期に来ていることを、ぼくは友人たちと話しながら実感した。
そういう流れをほとんど断ち切った状態で、ふらふらと旅を続ける自分たちの生活に不安がないことはもちろんなかった。むしろ不安はいくらでも浮かんでくる。このままでライターとして食っていくことはできるのか。あと何年かした後に日本に戻ってくるとすると、そのとき自分たちは日本で生活していくことができるのか……。
これからぼくらは中国の雲南省で暮らし始めようとしている。住む場所も決まってなく、何をするかも明確ではない。ライターなどによる収入のメドがたっているわけでももちろんない。そんな状態で、とりあえずその町に行ってから何かを見つけようという自分たちの選択に、ふと弱気になりそうな瞬間もあった。
しかしその一方、そう思いながらも、中国で暮らそうという気持ちが揺らぐことはなかった。不安材料が無限に頭をもたげながらも、未知の生活が楽しみで仕方なかった。
それはぼくにとってはもしかすると、二人だったからかもしれない。ときに淡々と、ときに熱く旅を楽しんでいるように見えるモトコの存在は、ぼくにとってとても心強かった。また、日本を出た方が自分にとっては楽にちがいない、という気持ちもあった。そんないくつかの要素が、自分の意識を中国へと向かわせた。
プラスマイナス両方の気持ちを持ち合わせながら、二〇〇五年の新年を日本で迎えたあと、ぼくらは再び中国へと旅立った。
関西から沖縄へ飛び、本島と宮古島で友だちに会ってから、台湾へ船で渡った。台湾でさらに別の友人に会ったのちに、香港経由で雲南省昆明へ。
沖縄から台湾、そして昆明にかけてはモトコとケンカばかりしていた。理由らしい理由はいつもほとんどなく、なんとなく不穏な空気が流れ始め、いつしか口をきかなくなる。
日本に戻ってみて、もう遊んでばかりいられないという気持ちになり、ぼくはどこにいても、何か書かないと、と焦っていた。沖縄では、歩いて感じたことを書いて地元の新聞に投稿し、台湾では隔月連載の次の回をどうするかをずっと考えていた。ケンカが多かったのは、自分のそんな焦りの気持ちをモトコへぶつけてしまったということもあるいはあったのかもしれない。
おそらくモトコも、日本に帰って家族や友だちの状況を知ることで、きっと何かしら心の揺れがあったのだと思う。
期待や不安でモヤモヤした気持ちを、ぼくもモトコもそれぞれ抱え、それをぶつけ合いながら、台湾を発ち、香港経由で昆明へと飛んだ。今度こそ、生活を始めるために昆明の地を踏んだ。
そうして、昆明に戻ってきたその日のこと――。
ぼくらのケンカは収まるところを知らず、その夜、宿の近くの食堂で晩飯を食べているとき、二人の間で大きな論争が巻き起こり、一気に険悪ムードが頂点に達した。論争の内容は定かではないけれど、とにかくそのあと口をきく雰囲気ではなくなり、ぼくは一人で宿のそばのカフェに行き、モトコは宿へと戻った。
「フレンチ・カフェ」という外国人が多いらしいカフェに入ると、方々から英語と中国語が聞こえてくる。見ると西洋人が流暢な中国語を話している。昆明にこんなにも外国人がいるものなのかと少し驚きながら、二階に上がり、薄汚れたソファの席で一人コーヒーを飲んだ。そのときふと、もしかしてと思い、ノートパソコンを開いて台湾で買ったばかりの無線LANカードを挿入してみた。するとなんとそこで無線でネットができてしまうではないか。当時ぼくはまだ無線LANなど使ったことがほとんどなくて、カフェでネットできることなんて想像もしていなかった。
「不思議な世の中になったもんだなあ……」
そう感じる一方、モトコが言ったように、昆明は想像以上の大都会なのかもしれないと思った。
とりあえず家が見つかるまで滞在できる宿も決まったし、このカフェに来れば自分のノートパソコンでネットができることもわかった。
昆明生活、どんなことになるのかわからないけれど、なんだか楽しそうな予感はする。そんな気持ちと中国到着を知らせるブログ記事をカフェで書いて、よし、まずはモトコと仲直りしようと思いつつ宿に戻った。
帰るとモトコはすでに寝ていた。お互い環境の変化に疲れているにちがいない。明日から生活基盤作りをしないとなと思い、ぼくもベッドにもぐりこんだ。
※Uさん……著者が強く影響を受けた高校・大学の先輩かつ友人。二〇〇三年死去。(『遊牧夫婦』参照)