• TOP
  • About
  • NEWS
  • BOOKS
  • ARTICLES
  • Blog
  • Events
  • PHOTOS
Menu

YUKI KONDO WRITER

近藤雄生・こんどうゆうき ライター
  • TOP
  • About
  • NEWS
  • BOOKS
  • ARTICLES
  • Blog
  • Events
  • PHOTOS

『中国でお尻を手術。 遊牧夫婦、アジアを行く』 4 人生最大のコンプレックス、吃音

August 16, 2026

<3 日本人旅行者の死から見えた“日本”>

4 人生最大のコンプレックス、吃音

 香田さんの死を知ってから八日後に、ぼくらはやっとチェンマイを出発した。

 結果的に今回のチェンマイ滞在は、原稿書きのために毎日ネット屋とカフェと宿を行ったり来たりするだけだったものの二週間半にもおよんでしまった。

 チェンマイにいる間に十一月になり、年の瀬が近づいていることを感じ始めた。オーストラリアから徐々に北上を続けてきてすでに八カ月。中国は、随分と近づいていた。

 陸続きで移動し続けると、人の姿かたちが徐々に変わっていくのがわかる。肌の色が濃くて彫りも深かった東ティモールやインドネシアに比べると、タイ北部で会う人はかなり日本人や中国人に近いのっぺりした顔つきに見える。グラデーションをなすように人の姿が変わっていく。バスなどを使って移動してきた道のりを思い出すと、これだけの変化を感じるためにどれだけの距離を、どれだけの時間をかけて、どれだけ汗をかいて移動してきたかを実感できる。それが陸路での移動の醍醐味のように思えた。

 年末までには中国に着きたい。中国に着いたらひとまずこの北上の旅も終わりとなる。そして中国での定住生活を始める前に年末年始に一度日本に帰って、年越しは家族と過ごそうと思っていた。

 旅がまた次の節目を迎えようとしている。オーストラリア・バンバリーでのボランティア生活が第一ステージであるなら、この八カ月の北上の日々は、第二ステージ。それも間もなく終わろうとしているのだ。

 チェンマイを出発する前日、微熱があり体調が悪かったが、朝起きたらよくなっていた。

 朝、ネット屋に行って校正用の原稿(ゲラ)を受信してから、荷物をまとめて出発した。午後一時のバスで、再びビルマと国境の町メーサイに向かった。

 

 二度目となるこのルートを通りながら、ぼくは、時間の経過の速さに焦っていた。まだ旅は始まったばかりだと思っていたのに、いつの間にか二〇〇四年も終わりが見えてきてしまった。日本を出てから一年半となり、もはや旅は始まったばかりといえる段階ではなくなっていた。

 その間に、ライターとして自立するという旅の目的はどれだけ達成されていたのか。実績が限りなくゼロに近かった日本出発時に比べれば少しは進展があったのは間違いない。しかし、書いたものが掲載されることを何度か続けるうちに、今度はいまのままではとても食っていけないという現実が見えるようになってくる。

 バスの窓から遠くに見える緑の山々を眺めながら、今年の自分の収入を計算してみる。連載の一回分が一万円で、あの二つのルポが四万円と五万円。日本を出る前に書いたルポが今年になって掲載されたのが一〇万円、そしてもう一つのあの原稿が……と数えていった。若干の「粉飾決算」をしても年収は五〇万にも満たないじゃないか……。何度数え直しても、結果は変わらない。オレ、大丈夫なんだろうか……。

 中国に着く。年末年始を日本で過ごす。するともう二〇〇五年だ。そのことを考えるたびに、ぼくは焦ったり、気持ちが沈んだりした。

 そして、だからこのころ、自分にとっての一番の悩みであり、コンプレックスであったことが表面化しやすくなっていた。それは冒頭にも少し書いた吃音、すなわちどもりである。

 

 ぼくは高校時代からずっと吃音に悩まされてきていた。

 吃音にも種類があり、ぼくの場合、難発性といって、状況によって言葉がまったく発せられなくなるというものだった。自分の名前など決まった言葉や、言わなければならないと思った言葉を言おうとすると喉のあたりが硬直する感覚に襲われ、そのまま何も言えなくなってしまうのだ。

 高校時代にその問題に自覚的になり、それ以降ずっと吃音が自分にとって一番大きな悩みであり続けた。しかしそれでも、ぼくは基本的にはよくしゃべる方だった。なんとか吃音を人に気づかれないように隠す方法があり、うまくごまかせば、周囲にはほとんど気づかれることなく、一見よどみなく話しているように見せかけることができたのだ。実際、「よく話す陽気なヤツ」と思われていたという意識があっただけに、そのイメージを守りたくて、あえてよく話すように見せかけていた面もあった。

 そんな自分にとって、吃音はどうしても人に知られたくない最大のコンプレックスだった。吃音を隠すために、いつでもすごい神経を使っていた。

 この言葉は言えなそうだ、と思ったら、別の言葉で言い換えることでなんとか切り抜けることができた。しかし言い換えの聞かない言葉を発しなければならないとき、一番困った。それはたとえば、名前だ。

 名前は? と聞かれたら、「近藤」としか言いようがない。そのことが極度に緊張を強いるせいか、言えなかった。だから、自己紹介をしなければならない場面は特にいやだったし、初対面の人と会うのも気が重かった。名前が言えないので電話もできない。いつしか電話の音を聞くだけで怖くなるという電話恐怖症のようなことにもなってしまった。

 また、たとえばマクドナルドで「てりやきマックバーガー」を買おうと決めると、「てりやき」の「て」がどうしても言えなくなる。自分の順番になると、とっさに「えーと、あのー」と悩んでるふりをした挙句、思わず「あ、チーズバーガーください」と、ぱっと言えそうになった言葉を言ってしまったりするのだ。そしてそのたびに、「おれは何をしてんだ……」と落ち込んだものだった。

 高校二年になってバスケ部で主将を務めていたときも、最大の悩みは、円陣を組んだときに掛け声をかけられるかどうかだった。主将としてのプレッシャーなどもあってこのころ吃音はもっともひどい時期を迎えていたが、円陣を組んだときの「イチ、ニ、サン!」「オー!」という掛け声の、主将担当部分の「イチ、ニ、サン!」を言えるかどうか練習中ずっとどきどきしていた。

 円陣を組んですぐに自分が掛け声をかけなければ、「おい、なにしてんだコンドー、早くしろよ」とみな思うだろう。そんな想像をすることで、ますます円陣を組むのが怖くなる。だからぼくは、副主将の柳町にだけは自分の吃音のことを伝えていた。

 「もしおれが円陣でどもりそうだったら、代わりに掛け声かけてくれないか? 足を叩いて知らせるから隣にいてほしい」

 もしものときは柳町に言ってもらえると思うと、気が楽になった。だから、彼が隣にいてくれれば、ほとんどのとき無事に掛け声をかけることができた。それでもどうしても言えないこともあり、ときどき、柳町の掛け声で練習が始まると、みなが不思議そうな顔をする。そのたびにぼくは、苦笑いをしながらさらに激しく落ち込んだものだった。

 吃音を人にばれないように先手を打たなければならない場面は周囲に満ちていた。そのために全エネルギーの半分ぐらいを使っていたかもしれず、いつも疲労困憊していたのだ。

 大学時代、一人で旅をしようと思ったもともとのきっかけも、吃音を克服するためだった。一人で旅をすれば、タフになって吃音なんて吹っ飛んでしまうだろう。そんなことを思い、ぼくは大学二年になる直前の春、オーストラリアに行ったのだ。そこでモトコに出会うことになるのだが、吃音はまったく改善されなかった。

 その後も、吃音を治すため、というのは自分にとってあらゆる行動の源となっていたが、何をしても吃音がなくなることはなかった。ぼくは吃音が自分の人生を大きく左右し出していることをだんだんと実感するようになっていく。

 就職したとしてもこんな状態じゃ仕事に集中できるはずがない。電話ができないんです、なんてことを理解してもらえるはずがない。だから、なんとか組織に所属することなく、自分が持っているスキルでできることを探さないといけない。もはや治すことより、受け入れてなんとか生きていく方法を見出すしかない。そう考えるようになっていった。

 そしてそんなことを思っていたころに、インドに行って旅の魅力を知り、また、沢木耕太郎さんの文章に触れることなどによって、旅をしながらフリーでライターをやっていくという生き方を考えるようになったのだ。

 もちろん、ライターをやっていくには電話が商売道具になるだろうことは容易に想像がつく。そう考えると気が重くなったけれど、それでも、組織に所属して周囲に吃音を隠しながら仕事をしていくよりははるかに気楽に思えた。その方がきっと自分には生きやすいと思った。

 ぼくは日本社会から逃げているという自覚があった。でも、稼いで食っていくことはしなくてはならないし、逃げるならちゃんと自分で稼ぐ方法は見つけて逃げなければいけないとは思っていた。

 逃げるなら本気で、真剣に逃げよう、と。

 そうして、大学院を修了してほとんど経験のないまま、自称ライターとしての日々が始まると、とにかく早いうちに何か一つでも自分でテーマを決めてルポルタージュを書き上げないといけないと思った。とはいえ、何の経験もない自分に何が書けるのだろうか。そう途方に暮れかけたとき、最初に思い浮かんだテーマは、やはり吃音だった。

 吃音で悩む人はどの集団にも平均して一パーセントの割合でいるという。つまり一〇〇人に一人だ。有名人にも多く、調べていくと、マリリン・モンローやブルース・ウィリスなど、とても意外な人物の名前まで出てくることに驚かされた。

 また一方で、当時、「どもり・赤面、治します」のようなコピーで吃音者たちをターゲットにする吃音矯正所というものもよく見かけた。しかし自分が知る限り、こうすれば吃音が治るという方法はないはずだった。だからぼくは、矯正所という存在に少なからぬ胡散臭さを感じていた。吃音矯正所がもし、藁をもすがる思いの吃音者たちの弱みにつけこむビジネスだとしたら――、そう考えると、自分の問題としても怒りがこみ上げてくる。だが吃音のことが一般のメディアで話題になることはほとんどない。少なくともぼくはほとんど聞いたことがなかった。だからきっとこの問題なら、自分独自のものが書けるような気がしたのだ。

 そうして、しどろもどろになりながら電話をかけ、ネットを使い、多数の吃音者に会っていった。吃音矯正所にも連絡を取って話を聞きに行った。

 吃音者に会ってみると、症状の重い人の中には、社会生活が成り立ちがたいような人もいた。ある一人は「自分は障害者として認定してもらいたい。そして支援を受けたい」とも言った。

 一方、いくつか異なる矯正所を取材していくうちに、矯正所というのは、自ら吃音を克服したという人が独自の理論や矯正方法を掲げている場合が多いことがわかってくる。だから、それぞれに矯正方法は異なるし、どれも、科学的根拠はないと確信できるようなものばかりだった。それでもそこにわずかな可能性を見出した吃音者が通い、その結果「やはりこの方法もだめだった」と落胆し、金だけを失うということが繰り返されているのだった。

 ところが、吃音矯正所と吃音者という、結果として「騙す側」と「騙される側」とも見える両者の関係は、必ずしもそのように単純ではないようだった。そのことにぼくは、ある吃音者からの連絡によって気づかされた。

――私にとってクリニック(=矯正所)は神様みたいな存在だったんです。

――自分で選んで受けていまも続けようとしてるわけです。そのやる気を失わせる気持ちにさせるものならば正直見たくも聞きたくもありません。

 それは、東京にあるとりわけ悪名高くきな臭い矯正所に通っていた関西の女性からのメールに書かれていた言葉だ。ぼくがネット上で、この矯正所に対しての意見を求めていたときの返信として届いたものだった。彼女は半年間、関西から東京までこの矯正所を信じて通い続けていた。

 問題は事実なんかじゃない。信じたいという気持ちを壊すようなことはやめてくれませんか――。メールの文面にはそんな思いが滲み出ていた。

 その後、電話で話したとき、彼女はぼくにこう言った。

 「(その矯正所には)いろいろと問題があるのかもしれません。実際、吃音がよくなった気がしているわけでもありません。でも……、知らない人と電話で話すなんていうことは……これまで考えられなかった自分が、……いまこうしてお話しできているということ自体が大きな進歩なんです……」

 彼女にとって、矯正方法の良し悪しや事実関係は、もはや問題ではないのかもしれなかった。ただ、どもりは治るんだと信じさせてほしい、そう信じて行動することで、何かが変わるはずなんだ――そう思う気持ちが伝わってきた。

 取材を続けていくと、この女性の気持ちは、その悪名高い矯正所の代表者自身にも通じることはなのではないかと思えてきた。代表の男性は幼いころから重度の吃音に苦しめられ、その末に克服し、矯正所を開いたというが、彼自身もまだ吃音から逃れることはできていないのではないか、そして、自らの吃音が治るんだということを信じたくて、吃音は治ると言い続け、その理論を作り上げたのではないか、そんな推測が立ってきたのだ。

 吃音という問題でいかに多くの人が悩んでいるか、その悩みがどれだけ多様かを、ぼくは取材をしながら感じることができた。ここには、吃音ということを越えて、何か問題を抱えながら生きるすべての人に通じるテーマが横たわっているような気がした。

 吃音者を通じて、そんな思いをぼくは描きたいと思い、原稿を書いていった。

 取材を進めるうちに、ぼく自身もまた、同じことを考えていることに気づいていった。旅をすることも、このルポを書くことも、それをきっかけに吃音から解放されるのではないか、という思いが常にどこかにあったからなのだ。このときも、取材をするほどに、吃音はやはり治らないとますます確信せざるをえなくなっていったが、いや、でも、これを書くことで、何かよい変化が起こるのではないか……、とかすかな期待を抱いていたことも確かだった。

 知り合いのジャーナリストの方に見てもらったりしながら、なんとか原稿用紙五〇枚程度のルポルタージュらしきものを書き上げることができたのは取材を始めてから半年以上がたってからのことだった。

 そしてある雑誌のルポルタージュの賞に応募した。少しだけ期待しながら結果を待ったが、結果は落選だった。ぼくは大きく落胆した。このときすでに旅に出るのが三ヵ月後に迫っていて、旅立つ前の最後のチャンスと思っていたからだ。しかし救いは、講評の中で編集長がぼくのルポについて励みとなるコメントを寄せてくれていたことだった。

 もう一押ししてみよう。そう思い、思い切ってその雑誌の編集者に連絡をとった。すると、社内での評判も悪くなかったことを教えてくれ、結局長さを半分ほどに縮め、少し追加で取材をすることでなんとか掲載してもらえることが決まったのだ。

 ゲラの修正までを終えた状態で日本を発つことができ、出発してから一ヵ月後に掲載となった。オーストラリアで生活を始めたとき、それだけが唯一、自分をライターだと名乗れる拠り所だった。一方で、これを書くことで吃音を克服できるのではないかという淡い期待は、あっさりと裏切られた。

週刊金曜日「なんとか治したい 吃音矯正所にすがる人々」 第469号(2003年7月25日)

 旅立ってからも、吃音は自分の心の中でいつも大きな比重を占めていた。英語で話すときはどもりがさらに障害となった。というのも日本語なら言葉の言い換えで済むはずのところも、英語では自在に言い回しを変えることができなかったため、どもりそうになるとそのまま話すのをやめるしかなかったからだ。その一方、英語なら、口ごもっていても「英語の単語が出てこないだけなんだろうな」と思ってもらえる気がしたため、かえって気が楽で話しやすいというときもあった。

 しかし、もっともつらかったのは、結局のところいくら英語を勉強しても吃音がなくならない限り流暢に話せることはないんだろうな、と感じてしまうことだった。英語は比較的よく勉強していただけに、それを考えると悔しくてならなかった。

 取材の電話をかけなければならないときなどは、前日から憂鬱になった。実際に電話をかけるときは、とにかく気持ちをハイに持っていかなければならず、そのため、よく隣でモトコに歌を歌ってもらったりした。

 受話器を耳にあて、呼び鈴を聞きながら、なぜかいつも頭のなかで、サッカー日本代表が登場するキリンのCMソングとして知られる"PASSION"を響かせたりしていた。とにかく「うおおー、電話かけるぜ!」といった最大限に盛り上がった気持ちで、相手が受話器を取る瞬間を迎えないとならないという涙ぐましい状況だったのだ。が、電話一本かけることがそこまで一大事になりつつも、実際に相手が電話に出ると毎回ほとんど何も問題なく会話することができるということも経験上わかっているのだった。

 調子がいいときには何日かすっかり影を潜めることもあり、そのときにはとてもうれしくなった。でも油断していると、何かをきっかけにまたひどくなる。旅をしながらもその繰り返しだった。すなわち、どもり具合は、ぼくにとってそのときの自分の精神状態を知る上でのバロメーターのようなものでもあったのだ。

 

 その吃音が、東南アジアも終わりに近づいてきたこのころ、再びとても気になるようになってきていた。カフェでトイレの場所を聞こうと思って店員に話しかけたものの、その先が言えなくなってしまい、「いや、あの、なんでもありません」などということがあると一気に落ち込み、さらに吃音がひどくなった。

 それは明らかに、東南アジア北上という第二ステージが終わり、旅が次の段階に進んでしまうことへの焦りであり、一時帰国するということで日本が見えてきたからであった。ぼくにはいつも、旅が終わりに近づいていくことへの少なからぬ不安があった。そしてその不安は、言葉が話せないふりができない日本に帰ったらさらにどもるんじゃないかという心配ともつながっていたのだ。

 

In 『中国でお尻を手術。』, 『遊牧夫婦』続編公開

『中国でお尻を手術。 遊牧夫婦、アジアを行く』 3 日本人旅行者の死から見えた“日本”

July 17, 2026

<2 元旅人の西洋人僧侶、プラ・ノア>

3 日本人旅行者の死から見えた“日本” 

 タイは四つの国と国境を接している。南はマレーシア、南東はカンボジア、北東はラオス。北西から西にかけてはビルマ(ミャンマー、当時の自分たちの呼称に合わせて以下ビルマに統一する)だ。

 ワット・プラタート・ドイ・ステープでの瞑想の日々が終わり、チェンマイで数日飲み食いに励むと、さらに北西に移動した。そして、タイのほぼ北端のメーサイから、メーサロン、メーホーンソン、メーソットという具合に、ビルマとの国境そばを北から反時計回りに動いていった。

 この国境近傍は、実に興味の尽きない一帯だった。

 チェンマイからまず、国境の町メーサイを訪れ(ここからビルマに入国できる。ぼくらはこのとき、タイの滞在資格を延ばすため、半日だけビルマに入った。一度国境を越えると、さらに一ヵ月ビザなしでタイにいられるようになる)、それからぼくらはメーサロンという中国人の村に向かった。なぜこんなタイの山奥に中国人の村があるのかといえば、これは「残党村」なのだ。すなわち、毛沢東率いる共産党軍との戦いに敗れた国民党の軍隊の一部が逃げ延びて作り上げた村なのである。

中国人の村メーサロン。尾根に沿って線上に村が続く。

 中国では第二次大戦の前後をまたいで国民党と共産党の内戦、いわゆる「国共内戦」が続いていた。その戦いは、一九四九年、共産党が勝利し、毛沢東をトップに据えた中華人民共和国が建国されることで終結する。

 蒋介石率いる国民党の国民革命軍の大部分は、共産党に敗北したあと台湾へ逃れたが、中国南西部の雲南省にいたその一部は、より近くの東南アジアへと逃げ延びた。徒歩や馬で南下し、まずビルマへ渡り、それからタイ北部までやってきた。そうしてたどり着いたのがここ、メーサロンなのだ。

 彼らはこの地で訓練を続けながら、いつか再び中国へ攻め入り、国民党による「中華民国」を復活させる日を夢見ていた。その間の生活の糧は、アヘンの栽培によって得た。この地域は、「ゴールデントライアングル」と呼ばれる世界の一大麻薬地帯なのである。また、この地にとどまるために、当時タイで勢力を強めていたタイ共産党の軍とも戦うことを余儀なくされた。

 そのように生き延びる方法を模索しながらなんとかこの地を拠点として、台湾からの指令を待った。しかしその指令が来ることはついになかった。

国民党軍の退役軍人クラブ(?)「栄民之家」。蒋介石、孫文の写真やその他旗などが方々に。中にいたのは、負傷した兵士やらその家族だとか。筆談でかろうじて会話。

 何十年もたつうちに、いつしか人々はこの地に根を張り出した。ここタイで国籍を取得してタイ人として暮らすために、武装解除に応じ、麻薬取引からも手を引いた。そしてメーサロンは、お茶を主な産業とした平和な中国人村となっていったのだ。

 村は、緑溢れる山奥の一本の尾根上に細長く延びていた。その尾根の上をなぞるメインストリートの左右には、漢字表記の看板とお茶屋さんが並んでいる。歩くと、東アジア系の顔立ちの人の姿が多数見え、中国語らしき言葉がほうぼうで聞こえてくる。

 「ニイハオ!」

 と挨拶すると、見た目的にもきっと同じ中国人だと思われたのだろう。お茶屋の店員のおばちゃんや女の子が、次々に中国語で話しかけてくる。だが、彼らが何を言っているのかほとんどわからない。ただ笑ってごまかし、「日本人です」と、正しい発音がわからないまま「リーベンレン」と繰り返した(日本人の意味。ただし、「リ」も「レ」もカタカナ表記と実際の発音はかなり異なる)。

 餃子屋があり、水餃子と焼き餃子を食べた。朝のマーケットであんまんとおこわを買った。どれもおいしかった。中国がそのまま、移転してきたような場所で、この地にいると、中国が本当に近いことが感じられた。

 中国人村メーサロンのあとは、南北に延びるビルマとの国境線に沿う形で南下していった。ここでぼくたちは、残留日本兵と呼ばれる人たちの存在を知った。それは、戦争が終わったあと、なんらかの理由で日本に帰らず現地にとどまることを決めた元兵士たちだ。みなそれぞれ終戦後に収容所を脱出するなどしてこの地に住み出したのだ。

 メーホーンソンでは、いまは亡き残留日本兵の家族に出会った。ちょっとした情報から彼らの存在を知り、探してみるとすぐに会えた。その家族が、元日本兵の本名すら知らないまま、長年一緒に過ごしてきたことを聞いて驚いた。彼の妻も、息子も、孫も、彼のことを「ラペ」というこの地でつけられた名前のみで知り、彼が過去に何をしていたか、戦争中はどうしていたかなどはまったく知らないようだったのだ。

 だがそれは逆にいえば、その元日本兵がきっとこの地で、それまでとはまったく違った新たな人生を送っていたということなのかもしれない。ぼくらはこの人物を元日本兵としてばかり見てしまうけれど、彼には、夫として、父として、祖父として、そして村の一人の男としての、長い人生がその後にあったのだ。そんな当たり前のことに改めて気づかされた。

亡き日本兵「ラぺ」さんの妻と孫

 その後さらに南に下ってメーソットに行くと、別の二人の元日本兵に会うことができた。二人ともすでに八十代半ばで、ともにとても穏やかな表情が印象に残った。そのうちの一人、中野弥一郎さんは、こう言った。

 「十五年前に、戦友の説得で一度だけ日本に帰ったことがあるんです。五十年ぶりの故郷新潟は、道路もライトもすべて変わっていて昔の面影はありませんでした。五人いた兄弟もすでに姉と弟と自分の三人だけになっていましてね。墓参りなどをして回って、二十日間だけでタイに戻ってきたんです。日本へ帰って暮らしていればよかったという気持ちもありましたよ。でも、いまはもう考えません。自分で決めて残ったのだから、最後まで残ります」

 出征前に母親からもらったお守りを、彼はまだ大切に持っていた。それが唯一、自分の身体とともに戦場から生き延びてきたものだという。半世紀分の色が染み込んだその小さな紙片には、中野さんの日本への思いのすべてが詰め込まれているような気がした。

中野弥一郎さん

 そしてさらにメーソットでは、ビルマの内戦からタイに逃れてきた難民の若者たちとも多くの時間を一緒に過ごすことができた。先の見えないなか必死に勉強し、自らの道を切り開こうとする彼らの姿に、自分ももっとがんばらないと、と思わされた。

 国境という境界線が人為的なものだからこそ、その周りにはさまざまなひずみが凝縮される。そのひずみの中に、中国も、日本も、姿を現した。国境の面白さはまさにそのひずみの強さにあるのだろうとぼくは感じた。

 毎日を夢中で過ごし、気が付くとこの国境付近で一ヵ月ほどがたっていた。

ソンテウ(乗合バス・タクシー)で移動中に

*

 国境地帯から久々にチェンマイに戻ると、少しのんびりしながら原稿を書くという時間を過ごした。このときは主に、メーソットで取材したビルマの難民の話を書いていた。

 原稿書きはいつも、ネットカフェに通って資料を調べながら進めていく。このころになると、ネットを使って国連機関やNGOの資料、新聞記事を読むことにもだいぶ慣れてきた。英語は、話せることはもちろん重要だが、それと同じくらい、大量の資料をちゃんと読めるかどうかが重要であることも実感するようになっていた。ネット上において出所がはっきりしていて信頼しうる資料が、英語だと、日本語に比べて比較にならないほどたくさん見つけられるからだ。それを読もうという気力を持てるかどうか、そして実際に読めるかどうかが、記事を書けるかどうかの分かれ道にもなった。

 一方、原稿の作成は、編集者とのやり取りがメールだけで行われるため、どうしてもスムーズに行かず時間がかかってしまう。このときは、締め切りが近かったこともあり、ある原稿が完全に仕上がるまでチェンマイを動くことができなかった。小さな町に移動してしまってから、「やばい、ネットができない!」という展開になるとまずいからだ。

 取材し、原稿を書くという経験が増えるにしたがって、だんだんとモトコが重要な役割を果たすようになっていった。

 ぼくが取材したいと思うことには彼女も大抵興味を持ち、多くの場合、取材に一緒について来てくれた。話を聞くときにメモを取ってくれたり、またぼくとは違ったモトコならではの質問をしてくれたりもした。また、女性に話を聞くときなどはよく、モトコと一緒でよかったなと思った。一人だったらおそらく「なによこのヒゲのデカイ男は?」と警戒されていただろう場面も、女性のモトコがいることですんなりと進むからだ。

 原稿を書いたときにも、いつも最初にモトコに読んでもらった。もっとも彼女以外に書いたものを見てくれる人はいなかったのだけれど、彼女は率直に意見を言ってくれるので、自分にとっては貴重な編集者的存在でもあった。

 「全然面白くないで。ちょっと書き直した方がええんちゃう?」

 などと彼女は平気で言ってくるのだ。まずはモトコに面白いと言ってもらえることが原稿を書く上での最初のハードルだった。

 とはいえモトコは、ぼくが取材を終えて、どこかの街でひたすら原稿に取り組む日々になると、いつも不満そうではあった。旅自体の行き先については、どちらかと言えば彼女の方が積極的に調べ考えていたので、行きたいところが複数あっても、ぼくの原稿完成を待たないといけなかったからだ。

 「早く仕上げやー。明後日には出られる? そしたらこの村に行こうさ」

 モトコは都会でダラダラというのは決してそんなに好きではないのだった。

 しかしこのときのチェンマイでは、モトコは新たな楽しみを見つけていた。ちょっと裏道に入った、涼しく閑静な通りに、カフェを兼ねた小さなアートスクールを発見し、そこにあった短期滞在者向けの数日間の写真のコースに通うことにしたのだ。

 ぼくもモトコも写真を撮るのは好きで、できれば本格的に習ってみたいとも思っていたので、彼女にとってチェンマイでそういう機会があるのは思いがけずうれしいことだった。

 ゆっくりと時間が流れるチェンマイの町をモトコは写真に収め、それを自分で現像、プリントした。その間ぼくはスクールの下のカフェで原稿を書いたり、近くのネット屋に原稿を送信しに行ったりした。そうして、チェンマイでの穏やかな毎日は過ぎていった。

 

 そんなある日のことだった。驚愕のニュースをネットで知った。一人の日本人旅行者がイラクで人質になった、というのだった。

 それを知ってすぐに、NHKが見られる食堂に行ってテレビのニュースを確認すると、香田証生さんという若者が黒い服を着たイスラム過激派の男たちに囲まれて座っている映像が映し出された。自分たちと同じ年くらいで、同じような旅をしていそうな彼が、カメラに向かって恐怖を押し殺すような様子でこう言った。

 「すみませんでした。また日本に戻りたいです」

 いままさに彼が、テレビに映し出されているこの状況にいると思うと、言葉を失った。どんな気持ちでカメラの前に座っているのか。想像を絶する彼の窮地に、ただただぼくは呆然とした。

 それから毎日、朝はネット屋で仕事を進めながら事件の展開を追った。昼にはNHKを見るためにいつも同じ食堂に通った。ちょうど新潟県中越地震の被災者の救出作業が進んでいたときで、それとともに香田さんのことが連日報道されていた。

 しかしテレビでもネットでも、どうも日本社会は香田さんにひどく冷淡に見えた。「まったくバカで迷惑な若者だ」という声ばかりが目についたのだ。救出をリードすべき町村外相(当時)が、「危険なことが十二分にわかっていながら、なぜ旅行したのか、誠に理解に苦しむ」と真っ先に批判を公言したというのも、あまりにも冷たく響き、憤りすら感じた。

 ニュースを知ってから三日後には遺体発見かと報じられた。その後、違ったことがわかりほっとしたが、その翌日には、今度は本当に香田さんの死が確認されたことを知った。最悪の形で事件は終結することになってしまった。

 その結末が現実になったとき、それが自分にとって思っていた以上に衝撃的な出来事であったことをぼくは実感した。香田さんが哀れでならなかった。何を思い、最後の数日を過ごしていたのか。どんな思いで最期を迎えたのか……。長期で旅をしてきた自分たちにとって決して他人事ではなかったのだ。

 確かに当時、旅行者としてイラクに行くことは無謀だと言われても仕方ないとは思ったが、その一方で、彼の気持ちは、自分も含め多くの個人旅行者たちにとってまったく理解できないものではないようにも思えた。

 一般に、危険だ危険だといわれているところも、実際にはもちろん普通に人が日々の営みを持っている。危険だらけの場所なんてないんだという印象は、実際に旅をしてみると感じることが多々あった。たとえば、東ティモールがそうだった。オーストラリアのダーウィンで、旅行代理店の人などに「何しに行くんだ?」と何度も言われ続け、国連軍が去ったあとには何かが起こるかもしれないという予想や噂をネットで何度も目にしたのに、実際に着いてみると、少なくとも、自分たちが見た限りにおいては平和そのものだったのだ。

 ニュースは基本的に平和な様子は伝えない。どんなひどい戦いがあった、どれだけの人が死んだ、そういうことばかりがニュースになる。しかし実際には、どんな大きな問題で苦しんでいる国にも町にも、やはり生きている人がいて、なんの変哲もない普通の生活がある。決して、ひっきりなしに戦いが続いていたりするわけではないのだ。

 香田さんは、イラクの前にイスラエルにいたということだったが、イスラエルで彼もそんなことを感じていたのかもしれない。オーストラリアのバンバリーでイスラエル人の旅行者に会ったとき、その旅行者がこう言っていたのを思い出す。

 「イスラエルはテロのことばかりがニュースになっていて、どこ行っても爆発ばかり起きているように思っているかもしれないけど、そんなことはない。危ないといわれている特定の場所に行かなければ普段は全く平和なところなんだ」

 もしかしたら香田さんもイスラエルで実際にそう感じて、「イラクがいくら危ないっていっても、実際はそれほどではないんじゃないか」と思ったのではないだろうか(当時のイラクの場合、外国人であることで人質の標的になりうるため、単純に現地が平穏かどうかの問題だけではなかったが)。

 そしてまた、危険を回避しようとしすぎると、旅の醍醐味は損なわれていく。人に対して警戒しすぎると、貴重な出会いを失ってしまう。

 危険かどうかの境界は極めてあいまいだ。また運にも左右される。旅を続ければ続けるほど、その境界がなんとなく感覚として見えてくるようになる。理屈ではなく、なんとなくこれ以上行ってしまってはまずいかもしれない、という一線の存在が感じられるようになる。そうして自然と危険の回避方法が身についていく。

 ただし同時に、危険への感度が鈍くなってもいくものだ。一般に危険といわれている場所でも、実際にはほとんどの場合は大丈夫だということを体験として知るようになるからだ。だが、何か起きるときには、やはり起きてしまうのだ。

 自分にもこのころそんな感覚が芽生え出していたため、ぼくは香田さんの決断が、まったく信じられないというふうには正直思えなかった。

 遺体が香田さんのものだとわかったあと、ネットで見た報道によれば、香田さんの両親は、次のようなメッセージを発表したという。

 「支えていただいた多くの方々に、大変なご心労をおかけしましたことを心からおわび申し上げますとともに、お礼と感謝の気持ちでいっぱいです。このようにはなりましたが、イラクの人たちに一日も早く平和が訪れますようお祈りいたしております」

 ぼくにはこれがどうしても、異国で息子を殺された親の言葉としては読めなかった。いや確かに香田さんの両親は、そう発表したのだろう。しかし、本当に言いたいことは他にあったように思えてならない。

 この年の四月に三人の日本人がイラクで人質になったとき、ぼくらはちょうどバンによるオーストラリア大陸縦断の旅が終わろうとしていたときで、最終目的地、ダーウィンのそばにいた。同時期にバンでの北上を続けていたオランダ人のレミーとクリステルにその話をして、日本では人質に対してバッシングが起こっているらしいということを話すと、ジャーナリストであるレミーは心底、驚き、怒っていた。ぼくが、日本では戦場に行くのは大抵がフリーのジャーナリストで、大手メディアは社員を危険な場所には派遣しないのが普通なんだよと一般的な状況を伝えると、彼はこう言った。

 「危険な戦場こそ、十分な訓練を受けた専門のジャーナリストがメディアの強力なバックアップのもとで、高い報酬をもらって派遣されるべきじゃないか。フリーの人たちが自らのリスクで戦場に行って、何かあったら大手メディアは一切責任を取らないなんてまったく考えられない。テレビで戦場の様子が見られるのは、そこに誰かが命を懸けて行っているからなんだ。その人がちゃんと守られてなくていったいどうやって報道が成立するんだよ」

 まったくその通りだと思った。一時期メディアに氾濫した「自己責任」という言葉は、無責任な日本社会を象徴する言葉のようにぼくには聞こえた。海外にも同じように響いていたのだろうと思う。

 旅行者としてイラクに行った香田さんの場合は、確かにジャーナリストなどの場合とは状況が違うが、それでも両親が、まず「おわび」や「感謝」を表明しなければならなかったのは、四月に人質となった先の三人が受けたバッシングと決して無関係ではなかったはずだ。

 もちろん、自分の選択でイラクへ入り人質となってしまったことは、誰のせいにすることもできない。おそらく香田さん自身もそれはわかっていただろうと思う。彼が「すみません」と謝りはしたものの、「助けて」とは言わなかったのには、そんな気持ちが見え隠れする。

 彼は確かに判断を誤った。そして彼自身もおそらくそれを自覚していた。

 しかしそれでも、絶体絶命の状態に陥ってしまった若い同胞に対して、日本人はもっと同情してもいいのではないかと思った。間違いを犯してしまった若者にどうしてもっと寛容になれないのかと思った。

 まず助けるための声を上げ、叱るなら帰ってきてから叱ればいいのではないか。「税金を使って助けるなんて」という声を聞くたびに、あまりの狭量さに信じられない思いがした。誰でも生きていれば誤りを犯すし、みな人に迷惑をかけながら生きているのだから……。

 事件はぼくの胸のなかにどっしりと沈み込んだ。いつまでも消えることのなさそうなドロリとしたその感触は、いまも、チェンマイのネットカフェでニュースを追っていたときの気持ちを鮮明に思い出させる。 

チェンマイ

<4 人生最大のコンプレックス、吃音>

In 『中国でお尻を手術。』, 『遊牧夫婦』続編公開

『中国でお尻を手術。 遊牧夫婦、アジアを行く』 2 元旅人の西洋人僧侶、プラ・ノア

July 11, 2026

<1 一日十八時間のメディテーション>

2 元旅人の西洋人僧侶、プラ・ノア

「タイ仏教では、守るべき戒律が複数あるんです」

チェンマイの他の寺院で会った坊さんがそう教えてくれた。その戒律は、一般人と僧侶で異なる。一般人が守るべきものは次の五条なのだという。

一 生き物は殺してはならない

二 盗んではいけない

三 一つの愛を貫くこと

四 嘘をつかない、汚い言葉を口にしない

五 酒を飲まない

 これはどれも、意識的にやっていけば、どうしても実現できないということではないかもしれない。

 二十歳未満の少年僧はこれが一〇条になる。そのうちの五つは、右の五つ。ただし、三つ目だけは「一つの愛を貫くこと」ではなく「女性に触れてはならない」と、格段に厳しくなる。そしてその上に次の五つが加わって一〇条となるのだという。

六 午後に食事をしない

七 歌や踊りをたしなんではならない

八 香水をつけてはならない

九 金銀を身に着けてはならない

十 高い贅沢なベッドに寝てはならない

 二十歳を超えた僧侶たちには、さらにいろいろと加わり、戒律はなんと全部で二二七条にもなるという。

 この生活を数日疑似体験しただけでも、タイで僧侶として生きることの厳しさが垣間見えた。日本でお坊さんになるのとはまったく違う次元の覚悟が必要なように思えた。しかし、だからこそ、タイの社会は僧侶を大切にする。一般の人も僧侶によく喜捨する。また、僧侶は公共の交通機関には無料で乗れるという。社会が彼らに敬意を払い、僧侶が教えを守りながらも生活を続けられるような環境が作られているのだ。

 ちなみに、一般人も守らなければならない先の五条にもある「生きものは殺してはならない」という戒律は、肉を食べてもいいこととはどう両立するのかとプラ・ノアに聞いてみると、

「自分で殺さなければいいんだよ。だから市場に売っている肉だったら食べてもいいんだ」

 とのこと。若干、腑に落ちないものを感じたが、その辺がタイっぽいファジーさなのかもしれないと解釈した。

 そんなことをいろいろと考えながらぼくは、自分たちを指導してくれるプラ・ノアが、どうしてこのような生活をしにはるばるカナダからタイへやってきたのかが、ますます気になってきた。

 そして四日目も同じように、起きて座って歩いて食べて読んで寝る、という字面だけ見るとぐうたら男のだらけた休日のような、でもハードな一日をなんとか乗り切ると、いよいよぼくらが決めた最終日がやってきた。

 その昼、プラ・ノアに会って、今日で修行を終えます、と告げた。すると彼は、いつも通りの大きなイスに胡坐をかいて、斜め下方にいるぼくらに目線を向けながら、残念そうな顔をした。

「もう少しがんばってみないか。きっともうすぐ何か変化があるはずだから」

 そう熱心にぼくらに訴えた。その上、こうも聞いてくる。

「光が見えることはなかったか?」

 まさかと思いつつも、改めて考えてみると、もしかしたらこれのことかな、という瞬間がないこともなかった。光が見えたかどうかはわからないものの、座ってメディテーションを続けていたときに、何かふと、違った感覚になったような気がしたことはあった――そう話すと、プラ・ノアは、「それだよ、それ」という顔をしてさらに言った。

「もう少しだよ。もう何日かやれば、それがもっとはっきりとしたものになるはずだ」

 半信半疑ではあったが、そういわれて少し心躍るものがあった。

 しかし、このときにはすでにぼくの集中力は切れていた。たとえ何か変化の兆しがあったとしても、自分にはそれを確かめるだけの忍耐力はもう残ってはいなかった。モトコにしても、頭の中はこれから町に戻っての食事のことでいっぱいだったはずだ。あとから聞いたところでは、なぜか、「ああ、エビフライが食べたい……」とやたらと思うようになっていたらしい。

 そんな気持ちを、プラ・ノアに正直に告げた。すると彼は、それならわかった、と理解してくれた。ぼくは、自分の目的を果たすべく彼に尋ねた。

「できればあなたの話を聞かせてくれないか」

 と。ぼくは彼のことを、唯一連載していた短編の人物ルポに書きたいと思っていたのだ。プラ・ノアは快諾してくれた。彼に毎日指導を仰いでいたのと同じ部屋で、でも今度は同じテーブルに向かって同じ高さのイスに座って、ぼくは彼の話を聞いていった。

*

 この四、五日の間、プラ・ノアの生活を疑似体験し、毎日彼と面談しているうちに、彼はぐっと自分にとって身近な存在になりつつあった。

 彼の透き通った小さな声には、いつも熱がこもっている。なんとか少しでもブッダの教えを、瞑想の力を理解してほしい、そして苦しみから解き放たれてほしい。そんな気持ちが感じられ、メディテーションをしながら、ぼくの頭の中にはいつも彼の声が響いていた。仏教の世界を垣間見に来る旅人たちを、彼は真剣に指導していた。

 プラ・ノアは、いまは黄色のローブを着て、頭を剃り、僧侶として生きている。しかし彼自身がぼくたちと同じ立場であったのはそう遠い昔のことではなかったのだ。

「ぼく自身、五年前は、一人の旅人だったんだ」

 それがいま、僧侶として旅人に接する立場になった。

「昨晩は一睡もせずにメディテーションをしていた。三日前もそうだったよ。夜寝ない人というのは、次のどれかに限られる――女のことを考える男、男を狙う女、金や宝物のことを考える人、盗人。あとは、涅槃を目指す僧侶だ」

 そう話すプラ・ノアは、一人の確固たる僧侶であると同時に、一人の同世代の西洋人でもあった。同じく旅をしながらも、自分とはまったく異なる道を選んだ彼の言葉に、ぼくは引き込まれていった。

 幼いころから、「神」を意識していた、と彼は言った。五歳ごろに見た「悪夢」がいまでも忘れられない。

「兄が父親を殺すんだ。いまでも兄が刺す場面がちゃんと思い浮かぶ。その夢から覚めたとき、結局はみんな死ななきゃならない、ということに突然気がついたんだ」

 学校へ行くのは、仕事をするのは、なんのためか。結局はすべて死ぬためなんじゃないのか。そう思ったとき、どうにかしてそんな流れの中から飛び出したくなった。

 学校をやめ、酒や薬物におぼれて過ごした。その日々は楽しくもあったが、ひどくけだるく、いつもどこかで別なものを求めていた。

「十六歳のとき、道教についての本と出合ったんだ。数ページで心を動かされたよ」

 そうして中国へ憧れを持つようになり、宗教の世界に目を向けるようになった。

 しかし、いよいよ中国へ足を踏み入れるという直前にタイを旅したことがその後の人生を変えることになった。二カ月間何もせずに、ただ酒を飲んでダラダラするだけの日々をタイで過ごし、ようやく中国に行こうと飛行機のチケットまで買ったのだが、その前に立ち寄った寺院で体験した一カ月間のメディテーション修行によって、彼の生き方は決まった。彼は強烈に、タイ仏教の世界に惹かれていったのだ。

 幸せを感じながら二年間の修行に励んだ。そして迷うことなく彼はタイで僧侶として生きる道を選んだのだ。

「初めてこのローブを着ようとしたとき、ローブが私の体に飛びついてきたんだ。まさにこれは自分の天職なんだと思ったよ」

 それから三年がたった。プラ・ノアはこのとき二十五歳になっていた。

 彼は「プラ(=僧)」を「完璧な職業」だと表現した。誰も傷つけず、誰とも争う必要がない職業は、これ以外にないはずだと彼は信じている。

 ぼくが、いまの生活の最大の喜びは何か、と聞くと、プラ・ノアはこう言った。

 自由だ――と。

「僧侶になってぼくは、すべてから自由になり、何も心配することがなくなったんだ」

まったくためらうことなく彼はそう言ったのだ。

 一点の迷いもないようにそう言う彼に、ぼくは驚いた。守るべき二二七もの厳しい戒律があり、その生活が自由であるようにはまったく見えなかったからだ。ただ、数日とはいえ彼と毎日接してきた様子を思い出し、この人は本当にいま心から自由であると感じているのかもしれないと思うと、ぼくは激しく羨望をおぼえた。

 自分はいま、すべてを自分たちの好きに決められる圧倒的な自由さの中にいながらも、決して心から自由であるとは感じることができないでいた。何にも縛られないような生活をしていても、決してそこまで自由であるような気はしなかった。

 ぼくは自由を求めながらも、自分で自分を縛りつけて、自由を失っているのかもしれなかった。あれをしなきゃいけない、こうでなくちゃいけない、と。その一方プラ・ノアは、あんなに厳しい生活をしながらもすべてから自由になったと感じている。だとすれば、結局自由であるかどうかは、自分がどのような行動をとって暮らしているかとは関係がないのではないか。

 そしてさらに思った。本当に自由になるということはきっと、すべての欲から解放されることなのだ、と。プラ・ノアと話しているうちに、そのことがすっと理解できたような気がした。

 だが、すべての欲と無縁になることなんて、本当にできるものなのだろうか。ぼくにはそれがわからない。

 プラ・ノア自身にも、その答えはわかっていないのかもしれない。その答えが得られていないからこそ、ときに夜を徹して瞑想に励み「涅槃」を目指すのではないのか。

「この生き方こそが自分らしいんだろうな。だからローブを脱ぐことは決してないと思う」

 そう言ったときのプラ・ノアは、一人の僧侶というより、僧侶という生き方を選んだ一人の西洋人の若者だった。

 話を聞き終えたあと、荷物を持って、気持ちばかりのお布施を寺に置いて、プラ・ノアに別れを告げた。

「できればメディテーションをこのまま続けてくれよな。これからも元気で」

 彼はそう言って、一人の若者の笑顔でぼくらを見送り、僧侶らしい静かな後ろ姿で寺の中へと戻っていった。

 その姿を見ながらぼくは気がついた。自分もまた、中国に向かう途中にタイでメディテーションをしているという点では、彼と同じであることに。

 しかし、ぼくらはこれから中国に行く。もうしばらく北上の旅を続けながら、おそらく数ヵ月後には中国に着く。

 すべては結局死ぬためにある――。プラ・ノアのその言葉は、自分もときどき感じることがあるものだった。とすればぼくは、少しでも納得して死んでいくために、いまこうして旅をしているといえるのかもしれない。

 彼はタイにとどまり、旅人から僧侶となって、「自由」を手に入れた。自分には、プラ・ノアがたどり着かなかった中国に行って、いったい何を手に入れるのだろうか。

 ぼくの中で中国が、少しずつ具体的な姿をともなって意識の中に上り始めていた。

<3 日本人旅行者の死から見えた“日本”>

In 『中国でお尻を手術。』, 『遊牧夫婦』続編公開

『中国でお尻を手術。 遊牧夫婦、アジアを行く』 1 一日十八時間のメディテーション

July 5, 2026

<0 プロローグ>

Ⅰ 中国直前(タイ、ビルマ)


1 一日十八時間のメディテーション

 二〇〇四年九月――。

 ぼくとモトコは、数日間ほとんど口をきかずに過ごしていた。口をきかないだけではない。食事も別、寝泊りする部屋も別だった。二人旅のストレスがいよいよ爆発して、ついに別々に旅を始めた……というわけではない。このときぼくらは、タイ北部、チェンマイの街なかから少し離れた山の中の寺、ワット・プラタート・ドイ・ステープでメディテーション(瞑想)の修行をしていたのだ。

ワット・プラタート・ドイ・ステープの境内

 一切他人とコミュニケーションを取ってはならない。もちろん夫婦でも会話はだめで、一人ずつに個室が与えられた。読書や書き物などを含めて娯楽的なことはすべて禁止。その上さらに、昼の十二時以降は一切食べ物を食べてはいけない。それらを守って、ただひたすら朝から晩までメディテーションに集中しなければならない。そんな日々を、数日ではあるものの送っていた。

 朝は四時に銅鑼が鳴り、その直後から道場に行ってメディテーションを始める。朝食は七時で、道場でもらえるささやかな食事を部屋に持ち帰って一人静かにそれを食べる。

 食べ終えたらまた道場に戻ってひたすらメディテーション。十一時になると昼飯をもらってまた部屋に戻り、食べる。午後も同様で、途中、僧侶から指導を受ける時間以外は、夜十時ごろに寝るまでひたすらメディテーション三昧となる。

 それが一日のサイクルだ。昼十二時以降は飲食禁止なので、もちろん晩飯はない。午後は、飲み物以外は一切だめ。朝飯、昼飯を済ませたら、あとは翌朝の朝食まで、何も食べられないのだ。

 これを二十一日間続けるのがフルコース。その期間の長さには驚愕するが、途中でやめるのは自由、ただ、最低三日以上はやってくれ、というのが一応の決まりだった。

 メディテーションは、座るのと、立って歩き回るのがあり、その両方を交互に繰り返しやっていく。

 座る方は、足を組んで腰を下ろし、じっと自分の呼吸だけに注目する。何も考えないのではない。そうではなく、ひたすら自分の身体の動きの細部に神経を集中させろ、と教えられた。足が痛くなったら、「痛い」という事実に神経を集中させる。そうやってひとつのことのみに意識を集中させることによって、他の雑念を追い払うのだ。この方法はかなり合理的で、実際に効果があった。だが、それでももちろん雑念は生まれてくる。それに対して僧侶はこう教えてくれる。

「雑念の存在をちゃんと認識するんだ。すると逆にそれを追い払えることがある」

 歩くメディテーションもまた同じ。一歩一歩の足の動き、手の動き、呼吸の音を意識する。自分の身体がいまどう動いているかだけに、全部の神経を集中させるのだ……。

 ぼくがあてがわれた部屋は、寺の敷地の端っこの木に囲まれた寂しげな場所にあった。四畳半ほどの小さなもので、板敷きの床に古い赤カーペットが敷かれ、その上に木箱のような硬くて渋いベッドが一つあるのみだった。面白みのあるものは何もない。また、女性の部屋は遠く離れた場所にあり、ぼくはモトコがどこにいるのかすらも知らなかった。

 朝はできるだけ銅鑼に合わせて四時すぎには起き、すぐに部屋を出て道場へ向かった。チェンマイの街なかはこの時期、日中になると強烈に蒸し暑くなったが、ちょっと山の上に上がっただけでこの寺はとても涼しかった。まだ薄暗い早朝は、肌寒いほどだった。

 そんな中、上下とも真っ白なTシャツと麻のパンツをはいて、ビーチサンダルをペタペタいわせながら境内を歩いた。格子柄の石のタイルが敷き詰められたその境内には、金色の細かな装飾が施された赤い屋根と白い壁の寺院の建物が広がっている。建物の脇に並ぶ小さな鐘の列の横を通り抜けていくと、子どもたちが経をあげる声が聞こえてくる。全身に染み込むような澄んだ声で、キリリと引き締まった空気とともにその声を吸い込むと、少しずつ目が覚めてくる。

 自分の部屋から道場までのわずかな距離を歩くこの時間は、外を思いっきり自由に歩くことができる貴重な時間だった。そしてときにちょっと寄り道をして、境内の端っこから寺の外を眺め下した。山の下にはチェンマイの町が一望できる。周りを山に囲まれた様子は、モトコの故郷・京都を思い出させた。古都であり、三〇〇ともいう多数の寺院が存在するのもまさに京都のようだった。

 早朝のこの時間、きっとまだ町の機能の大部分は動き出していないだろう。でもそこに自分の知らない無数の人生があり、いま動き出そうとしていることを思うと、なんだか不思議な気持ちになった。

 旅を始めてこのとき一年と三ヶ月ほどになっていた。その間にいくつの町を通過してきたことになるのだろう。新たな町へと進むごとに、ここにまた、同じ時代を生きながらもおそらく一度も会うことがないだろう人生がいくつもあることにぼくは圧倒されていた。わずかな時間だけでもその中に入り込み、誰かと一言、二言、言葉を交わすことで互いの人生が重なりを持つ。そうして自分が悩み喜び笑い泣いているのと同じように、自分の知らない無数の場所で、いくつもの人生がいま同時に進んでいることを実感することこそが、自分にとって旅の面白さの一つでもあった。加えて、自分が明日どこで何をしているのかがわからない、どんな人と一瞬を共有するのかもわからないという中に生きていることが、ぼくにとっては大きな喜びとなっていた。

 タイ北部の、先週までは縁もゆかりもなかった山の中の寺院で、ちょっとしたきっかけから修行体験をすることになり、早朝四時すぎに寺の境内からチェンマイの町を眺めている。そのこと自体が、ぼくにとっては旅の醍醐味ともいえたのだ。

 しかし一方、一時的ではなく、ずっと、終わることなくこの寺で暮らし修行に励む僧侶たちは、いったいこの風景をどんな気持ちで眺めるのだろう。ふとそんなことも思いながらその場所を離れ、ぼくは道場へと足を向けた。

 道場は、何十畳かはあるだろう広さで、グレーの薄いカーペットが敷かれ、白い壁には、青い布がカーテンのように全体にかかっていた。物といえば正面の棚に小さなブッダの像があるぐらいだ。朝、道場に着くといつもすでに誰かいた。それがモトコであることもあった。しかし誰一人、声はまったく発しない。歩くメディテーションをする人によってわずかにきしむ床の音以外、全くの静寂に包まれていた。

 その時間からひたすら座り、歩くのだ。

 食事は小さいビニール袋に詰め込まれた食べ物を部屋に持ち帰って一人寂しく食べる。大抵、ご飯と炒め物。それらは案外おいしかった。炒め物には肉も入っていてちょっと意外に思ったが、仏教では必ずしも肉を食べてはいけないということはない、とのことだった。

 午後は毎日、僧侶との面談がある。僧侶を前に、フローリングの床に正座をして指導を受ける。ぼくらを指導してくれた僧侶はプラ・ノアといい、いつも丁寧に一人ひとりの状況を尋ねた。そして、

「じゃあ、次のステップに進もう。これからは十分おきに座る・歩くを繰り返すように」

 などと指示を与えてくれるのだ。台座のしっかりした木製のイスの上で胡坐をかいた僧侶が、こうして経験の少ない修行者を指導するのは、タイのメディテーションの一般的な形なのかもしれない。ただおそらくその一般的な形と違ったのは、ぼくらが日本人であることに加え、指導する僧侶がカナダ人であることだった。

 だがこれは偶然ではない。というのは、もともとぼくがワット・プラタート・ドイ・ステープでメディテーションの体験をしたいと思ったのは、このカナダ人僧侶に話を聞こうと思っていたためだからだ。

 僧侶は右の肩から腕にかけてを露出させるようにして黄色い袈裟(ローブ)を身に着けている。そこから見える彼の肌は、完全に白人のものだった。

 細い身体と剃り上げた頭、そしてメガネをかけた彼は、神経質そうな雰囲気と西洋人的快活さを兼ね備えていた。ときどき見せる陽気な笑顔は、宿で会う同年代の白人旅行者そのものに見えたが、彼はとても禁欲的な日々の中に生きていた。たとえばプラ・ノアは、モトコに何かを手渡すときはいつも、ポンと軽くモトコの前に投げて渡した。女性とは同じものに触れ合ってはいけないという教えがあり、それを忠実に守っているのだった。

 彼はどうしてタイで仏僧になろうとしたのか。話すたびにぼくはそんなことを彼に聞きたいと思っていた。だが修行中、ぼくとプラ・ノアの関係は完全に師と弟子で、こちらから余計なことを話しかけることはできなかった。ぼくは師の問いに答え、指導を仰ぐのみである。彼の指示を聞き、ちょっとは自分にも変化があるのかなと確認しながら、また夜までひたすらメディテーションを続けるのだ。

 しかし、この生活――。思っていた以上にきつかった。ぼくもモトコも、早くも三日で音を上げ始めてしまった。

 三日目、いよいよ今後のことについて話さなければと、隙を見てモトコと道場の裏で待ち合わせ、短い「密会」を決行した。まるで中学時代の体育館裏のような懐かしさだ。誰にも見られていないことを確かめて、久々にモトコと「再会」し、会話する。

「どうするよ? きつくないか、これ?」

 と聞くと、飄々と修行に励んでいるように見えたモトコは、じつはぼく以上にきつかったらしい。

「もう、あかんわ。爆発しそうやわ!」

 意外にもすでに限界という感じだった。さらにモトコは衝撃の告白をした。

「私、もう部屋ではポテトチップスとか食べてるで」

 ぼくは、午後に何も食べないということだけは、きつくともできる限り守ろうとしていたが、モトコはしっかり部屋で腹を膨らませていたのである。

 ただぼくにとっては、食事の制限以上に、部屋で何も読んでも書いてもいけないというのがまったく無理だった。禁止されるとむしろ精が出てしまうのか、ぼくは日ごろより読書のスピードが上がり、持っていた『点と線』の文庫本をメディテーションの合間に半日で読み終え(もともと読むのがかなり遅いので一冊を半日で読み終えることなどほとんどない)、次の本、三島由紀夫の『永すぎた春』へと進んでいった。どれも安宿などで見つけ、交換してきたものだ。

 自分たちがそんなだったので、道場で涼しい顔して毎日修行に励む他の人々も、もしかしたら、部屋では別人に変貌しているのかもしれない、と想像した。

「もう帰りたいな」と二人の意見は一致した。にもかかわらず、何がぼくらを思いとどまらせたのか、秘密の会合では、「とにかくあと二泊がんばろう」ということになった。そうして一人ずつその場を離れ、互いに再びメディテーションへと戻っていった。

 一方、その日の夜、ぼくの部屋の隣の空間には、新たにイギリス人の男性が入ってきた。ちょっと挨拶を交わして話してみると、

「やっぱり、タイに来たらメディテーションがやりたくてね。いまからワクワクしてるよ」

 などと、これから始まる修行への熱い思いを語った。「おれはやっちゃうよ、きつくたって当然さ」といった自信ありげな様子だった。結局そのとき以外彼と話すことはなかったが、しかし彼は一日でこの修行がそんなに容易ではないことに気づいたらしかった。翌日、彼の部屋からは、

「ファーック、ファーック!」

 と、静かに、しかしやたらと気持ちがこもった悪態が聞こえてきたのだ。口ほどにもないやつだな、と思いつつ、やっぱり結構きついんだな、とぼくは納得した。そしてこんな生活を期限なく続けているプラ・ノアたちのすごさを改めて感じるのだった。

ワット・プラタート・ドイ・ステープから望むチェンマイの町

2 元旅人の西洋人僧侶、プラ・ノア

In 『中国でお尻を手術。』, 『遊牧夫婦』続編公開
Older Posts →

Latest Posts

Featured
oshiri-175x250.jpg
August 16, 2026
『中国でお尻を手術。 遊牧夫婦、アジアを行く』 4 人生最大のコンプレックス、吃音
August 16, 2026
Read more →
August 16, 2026
oshiri-175x250.jpg
July 17, 2026
『中国でお尻を手術。 遊牧夫婦、アジアを行く』 3 日本人旅行者の死から見えた“日本”
July 17, 2026
Read more →
July 17, 2026
oshiri-175x250.jpg
July 11, 2026
『中国でお尻を手術。 遊牧夫婦、アジアを行く』 2 元旅人の西洋人僧侶、プラ・ノア
July 11, 2026
Read more →
July 11, 2026
oshiri-175x250.jpg
July 5, 2026
『中国でお尻を手術。 遊牧夫婦、アジアを行く』 1 一日十八時間のメディテーション
July 5, 2026
Read more →
July 5, 2026
oshiri-175x250.jpg
July 3, 2026
『中国でお尻を手術。 遊牧夫婦、アジアを行く』 0 プロローグ
July 3, 2026
Read more →
July 3, 2026
June 17, 2026
X で不登校が話題になっていたので。親切にしてくれた友だちが本当にありがたかった。
June 17, 2026
Read more →
June 17, 2026
  • 『中国でお尻を手術。』
  • 『遊牧夫婦』続編公開
  • すこーれ連載
  • イベント
  • ギター
  • メディア
  • 出版・掲載情報
  • 吃音
  • 執筆記事
  • 大学
  • 旅
  • 科学
  • 読書
  • 遊牧夫婦こぼれ話
  • 雑感等
  • August 2026 1
  • July 2026 4
  • June 2026 1
  • April 2026 2
  • February 2026 1
  • December 2025 2
  • October 2025 2
  • August 2025 1
  • July 2025 2
  • June 2025 4
  • May 2025 2
  • March 2025 1
  • February 2025 2
  • January 2025 1
  • December 2024 3
  • October 2024 2
  • September 2024 1
  • August 2024 2
  • July 2024 1
  • June 2024 2
  • April 2024 2
  • March 2024 4
  • February 2024 2
  • January 2024 2
  • December 2023 4
  • November 2023 4
  • October 2023 5
  • September 2023 1
  • August 2023 4
  • July 2023 6
  • June 2023 3
  • May 2023 2
  • April 2023 1
  • March 2023 2
  • February 2023 1
  • January 2023 2
  • December 2022 2
  • November 2022 1
  • October 2022 4
  • June 2022 2
  • May 2022 2
  • April 2022 1
  • February 2022 1
  • January 2022 1
  • December 2021 1
  • November 2021 1
  • October 2021 1
  • September 2021 2
  • August 2021 1
  • June 2021 2
  • May 2021 2
  • April 2021 3
  • March 2021 1
  • February 2021 1
  • January 2021 2
  • December 2020 2
  • November 2020 2
  • October 2020 3
  • August 2020 1
  • May 2020 2
  • April 2020 1
  • March 2020 3
  • February 2020 1
  • January 2020 3
  • December 2019 4
  • November 2019 1
  • October 2019 2
  • September 2019 2
  • August 2019 4
  • July 2019 1
  • June 2019 3
  • May 2019 1
  • April 2019 11
  • March 2019 2
  • February 2019 2
  • January 2019 1
  • December 2018 1
  • November 2018 3
  • October 2018 2
  • September 2018 1
  • August 2018 1
  • June 2018 1
  • April 2018 1
  • March 2018 1
  • January 2018 1
  • November 2017 3
  • October 2017 1
  • September 2017 1
  • August 2017 2
  • July 2017 2

Powered by Squarespace