『遊牧夫婦こぼれ話』第2回「上海の落とし穴2」(2014年7月「みんなのミシマガジン」掲載記事を再掲)

【『遊牧夫婦こぼれ話』は、ミシマ社のウェブマガジン「みんなのミシマガジン」にて、2014年6月~2017年7月まで毎月書かせてもらっていた連載です(全38回)。「遊牧夫婦」シリーズの中に収められなかったエピソードや出来事を振り返りつつ、しかしただ過去を振り返るだけでなく前を向いて、旅や生き方について、いまだからこそ感じられることを綴っていく、というコンセプトの連載でした。現状、ミシマガジンでは読むことができないので、ひとまず、連載時に面白がってもらえた回だけでもこちらに随時アップしていく予定です。再掲にあたって細部は少し調整しました。】

第2回 上海の落とし穴 その2 (その1はこちらです
2014.07.05更新

 「一緒だった男はどうした?」
そう聞くと、パパイヤ女はすぐ言った。
「あいつは金を持ってなかったから、すぐに帰らせたよ!」

  ・・・そういうことだったのか。男はとても感じがよくて、ぼくは正直、1ミリたりとも、1秒たりとも疑わなかった。1時間ほど楽しく話していたあの時間が、すべて自分をはめるための伏線だったのかと思うと、本当にショックで悔しくて、強い怒りが込み上げてきた。

  5年半の旅を含めても、こんなに完全に騙されたことは初めてだった。中国に慣れ切っていたということもあったけれど、あまりにも初歩的な騙され方に、自分が本当に情けなかった。
 ただ同時に、1000元でよかった、とも思っていた。高々17000円程度だし、はめられて盗られる額としては大したことはない。10倍ぐらいとられてもおかしくない状況だったので、その点はほっとした。
 そして若干気を取り直して、とりあえず強気に言った。

 「ふざけんな、そんな金払わねえーぞ!」 

 大使館に電話するぞとか、500元にまけてくれとか、手当たり次第にいろいろと言いながら、打開策を考えたが、パパイヤ女は気にする様子もまるでないし、自分も妙案は浮かばない。するとそのうちにパパイヤ女はこんなことを言いだした。

 「そんなに払いたくないなら、私と一発やれ。そしたら金は払わなくていい。お前はいい身体してるから」

  まさか上海で、この展開で、高校のバスケ部時代に若干鍛えただけの見せかけボディを褒められようとは。おお、これぞ旅! などと思っている余裕はなかったけれど、あまりに意外で、ありえない「妙案」に思わず吹いてしまいそうになった。 

 しかしさすがに自分も、パパイヤにボディを褒められ、お前とやりたいと言われて喜ぶほど間抜けではない。それは相手を諦めさせる定番の決め台詞だったのかもしれない。そしてその台詞が有用だとすれば少々パパイヤが哀れでもあるけれど、実際その辺りからぼくはもう諦め始めた。

 どうやっても1000元取られるのは避けられなそうな展開だった。ドアの外には格闘技でもやっていそうなごつい男が腕を組んで控えている。
 財布を出した。1500元はバッグの中に隠していて、財布の中には900元+細かいのしかなかったのが幸いした。

「なんだ、それしかないのか!」

 若干もめはしたものの、最後にはパパイヤも手を打った。
「じゃあ、900元でいい!さっさと、帰れ!」 

 情けなさと怒りをうちに秘めながら、ぼくは、ガードマン的筋肉男に見送られ、先ほど隣で上半身を肌けようとした若い女のツンとした顔を睨みながら、彼女の横を通って店を出た。ガードマンに、なぜか妙に丁寧に、「再見」と手を振って見送られたのが、ますます気持ちをいらだたせた。

  本当に情けなかった。すでに人通りが少なくなり、道端にごみが散乱するうす暗い通りを歩きながら、あまりの不甲斐なさに呆然とした。

  あの男・・・。チクショー、本当に頭に来る。まったく疑わなかった自分にもまた頭に来た。そうして、なんだかずぶ濡れになったような気持ちで、地下鉄に乗って、ぼくは宿へと戻っていった。やり場のない怒りをいったいどうすればいいんだろう、と思いながら――。

男に声をかけられて、しばらくルンルン気分で歩いてしまった南京東路。

男に声をかけられて、しばらくルンルン気分で歩いてしまった南京東路。

  しかし、まだ話は終わらない。

  その翌日、ぼくは旧日本人街と言われる虹口(ホンコウ)地区を訪ね、四川北路という大通りをずっと南に歩いていった。そして夜になったころ、また前日と同じエリアにまでたどり着いた。上海のランドマークとも言えるテレビ塔が煌々と輝き、川を挟んで高層ビルと壮麗な西洋建築がずらりと並ぶ外灘から少し入ったあたりの南京東路。そう、あの男に会った辺りの場所である。

  そのころにはだいぶ気持ちも収まって、昨日のことは、自分の中でむしろ笑いのネタに変わりつつあった。しかし、観光客で溢れ、賑わいを極めている南京東路の辺りまで来たときに、ふと、昨日のことを思い出し、怒りが蘇ってきたのである。そして、思った。

  あいつ、今日もここにいるんじゃないか?もしかしたら、ばったり出くわすんじゃないか――?くそ、このままでは終わらせねーぞ。

  いつになく強気な気持ちで、ぼくは、男に声をかけられた辺りをゆっくりと周囲を見回しながら歩き始めた。南京東路を西に歩き、河南中路という南北の広い通りとの交差点までやってきた。凄まじい人ごみとクラクションの音、そして、アディダスやGAPといった大企業の巨大な広告と複数のネオンがまばゆいばかりに輝いている。

  チクショー、あの野郎、待ってたらこの辺を通りがかるんじゃねえか? 見つけたら絶対許さねーぞ。

 我ながら久々にアグレッシブな気持ちが次々に湧き上がる。ますます気持ちを盛り上げながら、交差点の南東の角に立ち、ぼくは無数の西洋人観光客の間にじっと視線を送り続けた。そしてそれから5分も経ってないころのこと――。

  自分が立っていた同じ角で、信号を待つ観光客の奥の方、10メートルも離れていないところに、見覚えのある男の顔が、タンクトップ姿の欧米人の中に紛れて一瞬現れたのである。まさかこんなすぐに、と思ったが、背が低く、磯野カツオのような坊主頭をしたその姿は、たしかにあの男のように見えた。

  ぼくが身体を動かすと、ほぼ同時に、男もこちらに気が付いたようだった。観光客と角の建物の間ですぐに身を低くして、左手で顔を覆い隠すようにして、少し足早にその場から立ち去ろうとした。その動作で確信した。間違いない。あの野郎だ、と。

 ぼくは何も言わずに、大股で観光客の間をぬって一気に距離を縮めていった。すると男も走り出す。

  おい、待てよ――!

  そういって、ぼくも駆けだした。思っていた以上に距離は近く、すぐ追いついた。ぼくは男の腕をぐいっとつかんだ。すると男は、「はなせ!」というように腕を大きく振り上げる。しかしそんな力で振り切られるほどぼくの決意は甘くない。力を入れて観念させた。

 すると男はあきらめて、足を止め、強張った顔をこっちに向けた。

 「おい、この野郎、だましやがって・・・お前、ふざけてんじゃねーぞ!」

 渾身のヤンキー顔を作って、一気に凄んだ。すると男はとっさに言った。

 「ぼくも、だまされたんだ」

  ・・・なんだとこの野郎。この期に及んでまだ言い訳しようとは、全くしけた輩である。その言葉にさらに頭に来て、ぼくはたたみかけるようにいった。 

「おい、ふざけたこと言ってんなよ!じゃあ、なんで逃げんだよ!」

  男はだまった。そして少し恐れおののくような顔をして、ただぼくのことをじっと見つめた。別に彼を改心させようというような高尚な思いは持っていない。けれども、悪かった、とは思わせたかった。彼にもきっとあるはずの良心に訴えかけたいと思っていた。だからぼくは、悔しいけれど本心を言った。 

「ほんとに信じたんだよ。話してて楽しかったし。ショックだったよ、あれが全部、騙すためのウソだったなんて・・・」

  おれはなんてあまちゃんなんだと思いつつ、男を睨みつけながらそう言ってみた。すると男は困惑したように、ただ、そのままの顔で「ああ・・・」とだけ言った。
 何を期待していたわけではないけれど、そんなやりとりを何度かしているうちに、やはりむしょうにむかついてきた。 とにかくこの男に後悔させてやりたかった。自分が物書きをしていることは話していたので、渾身のハッタリをかましてこう言った。 

「お前のこと、全部調べて雑誌とか新聞に書くからな。もう調べ始めてんだよ。ふざけたことしやがって、絶対後悔させてやるよ」

  男は強張った顔のまま、ぼくの目を見つめ続ける。なんとか言えよ、と思った。しかし何も言ってこないので、それ以上言うことがなくなってしまった。調べているわけではないし、具体的に言えることがあるはずがない。なんだか分が悪くなり、仕方なく話を変えた。 

「お、おい、とにかくお前、金返せよ。もってんだろ」 

 すると男は口を開いた。

「いくら払ったの?」

 悔しい気持ちを思い出しながらぼくはいった。

「1000元だよ」

 そして続ける。

「おい、お前そのくらいもってんだろ、返せよ!」

 そう言いながら男を睨みつけていると、いつの間にか自分が、小男をつかまえて脅すカツアゲ野郎になったような気分になる。いや、ちがうんだ、これは正当な要求なんだ、被害者はおれなんだ・・・、と言い聞かせながら、慣れない台詞を繰り返した。

「おい、金出せよ!」

  男は言う。

「いまは持ってない。金は店にあるよ。店に行こう」

  このアウェイな異国の道端で無理やり金を出させるわけにもいかない。それにこの男が大した金を持ってないのは本当だろう。しかも強引に金を奪ったりしようものなら、いよいよ強盗ふうになってしまう。

 しかし、店に行っても金が戻ってくるわけがない。そして第一、さすがに店に戻るのはまずいと思った。ただ、とりあえず歩きながらいい作戦を考えるしかなかった。

 「よし、じゃあ、店に連れていけよ」

「うん、わかった」

 そうして二人、人ごみをかき分けて、誰もいない北側の暗がりに向かって足早に歩き出したのである。

その3に続く)

『遊牧夫婦こぼれ話』第2回「上海の落とし穴1」(2014年7月「みんなのミシマガジン」掲載記事を再掲)

【『遊牧夫婦こぼれ話』は、ミシマ社のウェブマガジン「みんなのミシマガジン」にて、2014年6月~2017年7月まで毎月書かせてもらっていた連載です(全38回)。「遊牧夫婦」シリーズの中に収められなかったエピソードや出来事を振り返りつつ、しかしただ過去を振り返るだけでなく前を向いて、旅や生き方について、いまだからこそ感じられることを綴っていく、というコンセプトの連載でした。現状、ミシマガジンでは読むことができないので、ひとまず、面白がってもらえた回だけでもこちらに随時アップしていく予定です。再掲にあたって細部は少し調整しました。】

第2回 上海の落とし穴 その1

2014.07.04更新

  6月、上海に行きました。4月にソウルに行ったのと同じく紀行文の連載のためです。
 行き先はドイツかニューヨークになりそうだということだったのに、直前になって急に、「上海に決まりました」との連絡が。すっかり気分は西洋だったので、気持ちを切り替えるのがちょっと大変だったものの、上海といえば、2006~07年にかけて1年半ほど住んだ土地です。気持ちを切り替えてしまえば、7,8年ぶりの再訪がとても楽しみになりました。 

 2008年の北京オリンピック、2010年の上海万博を経て、中国はガラリと変わったというようなことは聞いていました。いったいどうなっているんだろう、とわくわくしながら上海の町に降り立ちました。
 しかし、着いた瞬間の感想としては、みながスマホを持っていることぐらい以外、ほとんど記憶通りの風景でした。
 ああ、懐かしい――。

  上海は、自分のライター人生にとって1つの転機となった場所です。というのは、ここに住んでいるときに初めて、貯金を食いつぶすことなくライターとしての収入で生活ができるようになったからです。ちょうど30歳になったころのことでした。
  そういう意味でも、いろんな思い出のある、極めて親しみのある町です。そこに1週間滞在して紀行文を書くのが今回のミッション。
 こんなに楽しい仕事はめったにない! そう思って、ぼくは気楽に、本当に気楽な気持ちで上海の町を歩き続けたのでした。 

 しかし、そこに落とし穴が待っていました。
 まんまとやられてしまったのです――。
 5年半の旅においても、こんなに間抜けななことはありませんでした。

  自分の馬鹿っぷりをしっかりと記録するため、
 この悔しさを忘れないため、
 さらにみなさんに注意を促すために、
 そしてなんといっても、こんな話をネタにしない手はないので、
 その顛末の一部始終を書きました。

 長文すぎて3回にわたって掲載という、連載2回目から変則的な形になってしまいますが、どうぞみなさまお付き合いください。

  *

  上海滞在2日目の夜――。
 テレビ塔や超高層ビル、西洋近代建築がまるで博物館のように川の両側にずらりと並ぶ外灘(ワイタン)から西に延びる南京東路を歩いていたときのことである。無数の観光客の中にいた旅行者風の男が突然地図を出しながら中国語で聞いてきた。
「ここからどう進めば○×に行けますか?」

外灘(ワイタン)から西に延びる南京東路。写真奥は東向き。ピンクと紫に光っているのが川の向こうにあるテレビ塔。この道を西向き(写真手前方向)に歩いてるとき、男に声をかけられた。

外灘(ワイタン)から西に延びる南京東路。写真奥は東向き。ピンクと紫に光っているのが川の向こうにあるテレビ塔。この道を西向き(写真手前方向)に歩いてるとき、男に声をかけられた。

  「すみません、わかりません。ぼくも上海の人間じゃなくて旅行者なんです」
 そう答えると、ああそうなんですか、と彼は言った。日本人だというと、彼も自分のことを話しだした。
「ぼくは天津から旅行で上海に来ています。日本の会社の工場で働いているので、日本語が少しわかります」
 なるほど、たしかに日本語が話せるようだった。白いシャツに薄茶色のパンツをはいた典型的な中国人ファッション。坊主頭で背は小さく、人の良さそうな顔が印象的だった。年齢は45歳だと言い、話しているうちに日本語はだんだんと流暢になる。途中から会話はすべて日本語になった。 
「ぼくは劉です」「近藤です」
 互いに自己紹介をし、何をしているのかなどを話しながら、賑やかな南京東路を西に向かって二人で歩いた。今回、いろんな中国人の話を聞きたいと思っていたこともあって、ちょうどいい人が声をかけてくれたと内心ぼくは喜んでいた。 

 そしてそのうち、彼はこんなことを言い出した。
「天津じゃ、家族といるからなかなか羽を伸ばせないでしょ。だからこうやって旅行に来たときに、女の子と遊ぶのが好きなんだよね。それが一番楽しいんだよね。近藤さんはどう? 日本では最後までやるといくらくらい?」
 ああ、普通にエロいおっさんなんだなと思い、笑って適当に答えておく。ホテルの人に安くてかわいい子が多い店を聞いてきたんだ、エヘエヘと笑うので「そうか、よかったね、楽しんでね」とぼくも笑った。

 その後15分ぐらい歩いていると、彼は「一緒にお茶屋さんにいかないか」と誘ってきた。話していて楽しかったし、時間もあったので、ぼくは一緒に行くことにした。
 鉄観音のお茶を試飲しながらまた二人で世間話。彼は、試飲させてもらった鉄観音を家族に買うといって50元(800円ほど)払い、ぼくは何も買わないで店を出た。
 「じゃ、ぼくはこれから女の子と遊びに行くけど、近藤さんはどうする?」
 男が言うので、じゃあ、ぼくはもう帰るよと言った。すると彼は名残惜しそうに誘ってくる。
「ビール一杯だけでもどう?一杯飲んで帰っても大丈夫だから。そのあとぼくは女の子と遊ぶから」

  このとき、会話では女の子と遊ぶ場所として「KTV」という言葉を使っている。ぼくの認識では、KTVとは、キャバクラや風俗店の意味がありつつも、普通のカラオケという意味でも使われているものと思っていた。上海に住んでいた当時、日本人の友達と何度かカラオケに行ったことがあったけれど、そのときも「KTVに行こう」と言っていたと記憶している。境界がよくわからずにいた。
 だからこのとき、男にKTVと言われても、ビールだけ飲んで話したりできる部屋があり、そこでまず飲んでから、彼だけ女の子と奥に行くのだろうぐらいに思っていた。

 ビール一杯だけ飲んで帰ろう。本当に何の疑問もなくそう思って、ぼくは男についていった。そして暗がりの中にあった、男が「ここだ、ここだ」という店に彼と二人で入っていった。

  カラオケのある大きな部屋に案内されると、数秒遅れてミニスカートの女性2人と普通の店員っぽい女性が入ってきた。おいおい、いきなりそういう展開か、とソファに腰を掛けつつ思っていると、ミニスカートの女性2人はそれぞれぼくと男の横に座り、店員女が説明を始めた。 

「30分150元、1時間300元、うちは明朗会計の店だから、安心して遊んで行ってくださいね」

  ビールを頼むとハイネケンの缶が2本出てきて、早速30分150元(約2500円)を払わざるを得ない展開になった。
「ああ、ビールだけとちがったのか......」
 と思ったが、仕方がない。

  一方、男は1時間だからと300元を支払った。そして男は、話す間もなく隣で女性に触り始め、2分もしないうちに、「じゃあ、ぼくは別の部屋に行くから」と女性の身体をまさぐりながら消えてしまった。

 随分話がちがうじゃないかとぼくは思った。でも、彼はやりたくてしょうがない感じだったので、まあ納得した。ただ、ぼくも女の子と二人になってしまい、彼女もなんだか積極的な雰囲気なので、そういう店なら、もうぼくは帰ることにした。

  女性は、髪が長く、顔立ちのはっきりとしたちょっとベトナム人っぽい子だった。仕事熱心なのか、積極的に誘ってくるので、「いや、ほんとにそういうのはなしで。ビールだけ飲んですぐに帰るから」というも、「ええ、なんで~。いいじゃない、誰も入ってこないから、あなたの好きにしていいのよ」と食い下がる。

 「いや、ほんとにそういうんじゃないから」
「いや、でも・・・」

 そんなやり取りが何度か続いた。彼女はなんとかぼくを説得しようと必死だった。最初に来た店員ふうの女性を連れてきて、「とりあえずblow jobだけでも」と言わせたり、私が気に入らないんだったら、ほかの女の子を選んでもらってもいいのよ、と別の3人を並ばせたり・・・。
 いくら、「そういうのはいいんだって」といってもわかってもらえず、ぼくはだんだんと面倒になった。そして帰ろうとすると、彼女は言った。
「わかった、わかった、話すだけでいいから」
 さっさと帰りたいと思ったものの、30分まであと10分ぐらいになっていたため、時間まで話してすぐ帰ろうと、とりあえず話し出した。
 しかし、ただ話すだけだったはずの彼女は、暗がりの中、気づくと自ら脱ごうとしている。その執拗さにいよいよ呆れ、ぼくはバックパックを持って勢いよく立ちあがった。中国語に英語を交え、「いいっていってんだろ!話すのがいやなら、もう帰るから!」といって、足早に外に出ようとした。

  が、そのときのことである――。
 部屋を出ようとしたのとほとんど同じタイミングで、外からゴツいおばちゃんが体を揺らしながら入ってきた。パパイヤ鈴木と大仁田厚を混ぜ合わせた感じの、タフそうで、見るからにめんどくさそうな中年女だった。「私は厄介です」と、顔に書いてあるようなそんな女だ。
 うわ、こいつはやばそうだ・・・と思っていると、パパイヤ女が言った。
「おい、おまえ!帰るなら、わかった。帰っていいから、その前に金を払っていけ!」「金?さっき150元払ったじゃないか!まだ30分もたってないぞ!あ、ビール代は払うよ、いくらだよ」
 というと、彼女は言う。

「さっきの150元は、あの女のチップだ。うちとは関係ないよ。ビール2本で70元、あとはこのVIPルームが400元、あの女の子のギャラが300元、それに○○が300元、全部で1070元。金を置いて出ていけ!」 

 その言葉を聞き、ぼくははっとした。そして、ドアの中央の窓越しに部屋の外を見ると、ドアの前にはゴツイ男がこっちをにらみながら立っている。

 このとき初めて気がついた。おれははめられていたんだと。愕然として、全身から力が抜けた。思わず前に倒れそうになる身体を、ぼくはひざに手を当てて必死に支えた。

 くそ、いったい、どうすりゃいいんだ……。

その2に続く)

3年前に書いた一つの記事から

3年前にある記事を書いたことがFBの過去の思い出機能みたいなのから上がってきました。この共同通信配信の記事は、短いけど書けて嬉しかったもので、つい懐かしくなってしまいました。(下の写真)

ここ数ヶ月、吃音ルポの連載を書籍にまとめるために再構成し直してて、ようやくかなり形になりつつあるのですが、まだいくつもの山があり、起きてる間はずっと頭を悩ましています。

このルポのそもそもの原型となるものを書いたのは15年前、日本を出る前年のことで、それを熱烈な手紙とともに沢木耕太郎さんにお送りしたところ、日本を出る直前に携帯に電話をいただきました。そこで沢木さんにお言葉をいただいたことが自分にとって、旅をしながら書き続ける大きな原動力になりました。

あれから15年。自分も沢木さんのように書きたいと思いつつやってきて、その壁の高さに圧倒されてきました。ようやくあの時に書き始めたルポが本になる、というところ。それだけに、悔いのない一冊に仕上げたい。

下の記事を久々に読み返して、そんなことを思った次第です。
 

fukushimaminpo20141108.JPG

2011年に書いた「私の京都新聞評」の記事を読み直して

ARTICLESのページに過去に書いた記事を順次アップしています。その中で、2011年に半年間、月に一度京都新聞で連載させてもらっていた「私の京都新聞評」の最終回を読み直したところ、最近もどこかで読んだような事柄が結構含まれているように感じました(って自分の書いたものですが)。6年経っても状況はそう変わらないのかなという気持ちに。参考までに以下全文を載せました。(ARTICLES内にもアップしました)。

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(2011年11月13日掲載、最終回全文)
この欄の連載も今回で最後となった。半年間、京都新聞をいつも以上に精読する中で、社説のバランス感覚や各連載の中にある温かみを感じてきた。今回は最後に、今後への願いを込めて、こうしてほしいと思うところを書きたい。

先月の「新聞週間」のころ、新聞のあり方を考える記事が多かったが、その中で気になったのは、インターネットの捉え方だ。10月18日付朝刊の「新聞週間に思う」のコラムの中で「ネットやケータイなどがもてはやされるにつれ、紙の新聞に暗雲が垂れ込み始めた」とあり、新聞と対立する存在とされていた。加えて10月24日付朝刊の社説「荒れるネットの裏側には」でもネットが暗に否定的に扱われているように読めたが、そこにある種の危うさを感じた。ネットに多くの問題があるのは言うまでもないが、それはいまや明らかに世界を動かす最大の装置であり社会の基本的なインフラだ。その絶大な存在感と役割を新聞関係者はもっと率直に受け止めるべきなのではないか。ネットへの深い理解があって初めて、紙の新聞にしかできないことが見えてくるように思う。

また、新聞が読まれるために何が必要なのか。自分は、信念と覚悟を感じる記事だと思う。いまの日本は、あらゆる場面で仔細なルールが決められすぎのように感じる。そのため私たちはただルールに沿って生きることに慣れ、自ら判断して行動する機会が減ってきてはいないか。それは責任感や信念の欠如につながっているように思う。その中にあって新聞は、率先して信念や覚悟を伴った主張をする存在であるべきだと私は思う。しかし果たしてそうあり得ているか。

たとえば10月19日付朝刊、平野復興相の「逃げなかったばか」発言についての記事。この発言をメディアは批判的に報道したが、前後の文脈を見れば平野氏の真意は分かるはずだ。しかしただ「ばか」と言ったからと一律に批判される状況を見て、メディア自身が信念を持って考えているのか疑問に思った。記事の中の「遺族からは反発も出そうだ」という言い方にもその一端が表れていると思う。これは新聞でよく見る表現だが、批判する主体を他にゆだねるところに、自らは責任を負わないで済まそうとする意志を感じてしまう。この点こそ、新聞に一番変わってほしいと思うところだ。

夕刊のコラム「灯」が好きだ。記者個人の思いが垣間見えるからだ。10月26日付「襲名披露」では、「京都丹波」という新たな呼称を巡って記者の地域への愛を感じた。11月7日付「怒りの臨界」では、洪水に襲われているタイと丹波をだぶらせて、丹波の背負ってきたであろう怒りを記者が代弁した。記者一人ひとりが持つそういった信念や怒りこそが新聞の命である気がするし、それがしっかりと紙面を埋めてほしいと願う。京都新聞の静かに輝く良識がより熱く感じられる紙面作りに期待したい。

偉そうなことを書き並べ誠に恐縮だが、この欄で書く意義、そして同じ書き手としての自戒も込めて、あえて率直に書かせていただいた。半年間、どうもありがとうございました。
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