『遊牧夫婦こぼれ話』第2回「上海の落とし穴2」(2014年7月「みんなのミシマガジン」掲載記事を再掲)

【『遊牧夫婦こぼれ話』は、ミシマ社のウェブマガジン「みんなのミシマガジン」にて、2014年6月~2017年7月まで毎月書かせてもらっていた連載です(全38回)。「遊牧夫婦」シリーズの中に収められなかったエピソードや出来事を振り返りつつ、しかしただ過去を振り返るだけでなく前を向いて、旅や生き方について、いまだからこそ感じられることを綴っていく、というコンセプトの連載でした。現状、ミシマガジンでは読むことができないので、ひとまず、連載時に面白がってもらえた回だけでもこちらに随時アップしていく予定です。再掲にあたって細部は少し調整しました。】

第2回 上海の落とし穴 その2 (その1はこちらです
2014.07.05更新

 「一緒だった男はどうした?」
そう聞くと、パパイヤ女はすぐ言った。
「あいつは金を持ってなかったから、すぐに帰らせたよ!」

  ・・・そういうことだったのか。男はとても感じがよくて、ぼくは正直、1ミリたりとも、1秒たりとも疑わなかった。1時間ほど楽しく話していたあの時間が、すべて自分をはめるための伏線だったのかと思うと、本当にショックで悔しくて、強い怒りが込み上げてきた。

  5年半の旅を含めても、こんなに完全に騙されたことは初めてだった。中国に慣れ切っていたということもあったけれど、あまりにも初歩的な騙され方に、自分が本当に情けなかった。
 ただ同時に、1000元でよかった、とも思っていた。高々17000円程度だし、はめられて盗られる額としては大したことはない。10倍ぐらいとられてもおかしくない状況だったので、その点はほっとした。
 そして若干気を取り直して、とりあえず強気に言った。

 「ふざけんな、そんな金払わねえーぞ!」 

 大使館に電話するぞとか、500元にまけてくれとか、手当たり次第にいろいろと言いながら、打開策を考えたが、パパイヤ女は気にする様子もまるでないし、自分も妙案は浮かばない。するとそのうちにパパイヤ女はこんなことを言いだした。

 「そんなに払いたくないなら、私と一発やれ。そしたら金は払わなくていい。お前はいい身体してるから」

  まさか上海で、この展開で、高校のバスケ部時代に若干鍛えただけの見せかけボディを褒められようとは。おお、これぞ旅! などと思っている余裕はなかったけれど、あまりに意外で、ありえない「妙案」に思わず吹いてしまいそうになった。 

 しかしさすがに自分も、パパイヤにボディを褒められ、お前とやりたいと言われて喜ぶほど間抜けではない。それは相手を諦めさせる定番の決め台詞だったのかもしれない。そしてその台詞が有用だとすれば少々パパイヤが哀れでもあるけれど、実際その辺りからぼくはもう諦め始めた。

 どうやっても1000元取られるのは避けられなそうな展開だった。ドアの外には格闘技でもやっていそうなごつい男が腕を組んで控えている。
 財布を出した。1500元はバッグの中に隠していて、財布の中には900元+細かいのしかなかったのが幸いした。

「なんだ、それしかないのか!」

 若干もめはしたものの、最後にはパパイヤも手を打った。
「じゃあ、900元でいい!さっさと、帰れ!」 

 情けなさと怒りをうちに秘めながら、ぼくは、ガードマン的筋肉男に見送られ、先ほど隣で上半身を肌けようとした若い女のツンとした顔を睨みながら、彼女の横を通って店を出た。ガードマンに、なぜか妙に丁寧に、「再見」と手を振って見送られたのが、ますます気持ちをいらだたせた。

  本当に情けなかった。すでに人通りが少なくなり、道端にごみが散乱するうす暗い通りを歩きながら、あまりの不甲斐なさに呆然とした。

  あの男・・・。チクショー、本当に頭に来る。まったく疑わなかった自分にもまた頭に来た。そうして、なんだかずぶ濡れになったような気持ちで、地下鉄に乗って、ぼくは宿へと戻っていった。やり場のない怒りをいったいどうすればいいんだろう、と思いながら――。

 男に声をかけられて、しばらくルンルン気分で歩いてしまった南京東路。

男に声をかけられて、しばらくルンルン気分で歩いてしまった南京東路。

  しかし、まだ話は終わらない。

  その翌日、ぼくは旧日本人街と言われる虹口(ホンコウ)地区を訪ね、四川北路という大通りをずっと南に歩いていった。そして夜になったころ、また前日と同じエリアにまでたどり着いた。上海のランドマークとも言えるテレビ塔が煌々と輝き、川を挟んで高層ビルと壮麗な西洋建築がずらりと並ぶ外灘から少し入ったあたりの南京東路。そう、あの男に会った辺りの場所である。

  そのころにはだいぶ気持ちも収まって、昨日のことは、自分の中でむしろ笑いのネタに変わりつつあった。しかし、観光客で溢れ、賑わいを極めている南京東路の辺りまで来たときに、ふと、昨日のことを思い出し、怒りが蘇ってきたのである。そして、思った。

  あいつ、今日もここにいるんじゃないか?もしかしたら、ばったり出くわすんじゃないか――?くそ、このままでは終わらせねーぞ。

  いつになく強気な気持ちで、ぼくは、男に声をかけられた辺りをゆっくりと周囲を見回しながら歩き始めた。南京東路を西に歩き、河南中路という南北の広い通りとの交差点までやってきた。凄まじい人ごみとクラクションの音、そして、アディダスやGAPといった大企業の巨大な広告と複数のネオンがまばゆいばかりに輝いている。

  チクショー、あの野郎、待ってたらこの辺を通りがかるんじゃねえか? 見つけたら絶対許さねーぞ。

 我ながら久々にアグレッシブな気持ちが次々に湧き上がる。ますます気持ちを盛り上げながら、交差点の南東の角に立ち、ぼくは無数の西洋人観光客の間にじっと視線を送り続けた。そしてそれから5分も経ってないころのこと――。

  自分が立っていた同じ角で、信号を待つ観光客の奥の方、10メートルも離れていないところに、見覚えのある男の顔が、タンクトップ姿の欧米人の中に紛れて一瞬現れたのである。まさかこんなすぐに、と思ったが、背が低く、磯野カツオのような坊主頭をしたその姿は、たしかにあの男のように見えた。

  ぼくが身体を動かすと、ほぼ同時に、男もこちらに気が付いたようだった。観光客と角の建物の間ですぐに身を低くして、左手で顔を覆い隠すようにして、少し足早にその場から立ち去ろうとした。その動作で確信した。間違いない。あの野郎だ、と。

 ぼくは何も言わずに、大股で観光客の間をぬって一気に距離を縮めていった。すると男も走り出す。

  おい、待てよ――!

  そういって、ぼくも駆けだした。思っていた以上に距離は近く、すぐ追いついた。ぼくは男の腕をぐいっとつかんだ。すると男は、「はなせ!」というように腕を大きく振り上げる。しかしそんな力で振り切られるほどぼくの決意は甘くない。力を入れて観念させた。

 すると男はあきらめて、足を止め、強張った顔をこっちに向けた。

 「おい、この野郎、だましやがって・・・お前、ふざけてんじゃねーぞ!」

 渾身のヤンキー顔を作って、一気に凄んだ。すると男はとっさに言った。

 「ぼくも、だまされたんだ」

  ・・・なんだとこの野郎。この期に及んでまだ言い訳しようとは、全くしけた輩である。その言葉にさらに頭に来て、ぼくはたたみかけるようにいった。 

「おい、ふざけたこと言ってんなよ!じゃあ、なんで逃げんだよ!」

  男はだまった。そして少し恐れおののくような顔をして、ただぼくのことをじっと見つめた。別に彼を改心させようというような高尚な思いは持っていない。けれども、悪かった、とは思わせたかった。彼にもきっとあるはずの良心に訴えかけたいと思っていた。だからぼくは、悔しいけれど本心を言った。 

「ほんとに信じたんだよ。話してて楽しかったし。ショックだったよ、あれが全部、騙すためのウソだったなんて・・・」

  おれはなんてあまちゃんなんだと思いつつ、男を睨みつけながらそう言ってみた。すると男は困惑したように、ただ、そのままの顔で「ああ・・・」とだけ言った。
 何を期待していたわけではないけれど、そんなやりとりを何度かしているうちに、やはりむしょうにむかついてきた。 とにかくこの男に後悔させてやりたかった。自分が物書きをしていることは話していたので、渾身のハッタリをかましてこう言った。 

「お前のこと、全部調べて雑誌とか新聞に書くからな。もう調べ始めてんだよ。ふざけたことしやがって、絶対後悔させてやるよ」

  男は強張った顔のまま、ぼくの目を見つめ続ける。なんとか言えよ、と思った。しかし何も言ってこないので、それ以上言うことがなくなってしまった。調べているわけではないし、具体的に言えることがあるはずがない。なんだか分が悪くなり、仕方なく話を変えた。 

「お、おい、とにかくお前、金返せよ。もってんだろ」 

 すると男は口を開いた。

「いくら払ったの?」

 悔しい気持ちを思い出しながらぼくはいった。

「1000元だよ」

 そして続ける。

「おい、お前そのくらいもってんだろ、返せよ!」

 そう言いながら男を睨みつけていると、いつの間にか自分が、小男をつかまえて脅すカツアゲ野郎になったような気分になる。いや、ちがうんだ、これは正当な要求なんだ、被害者はおれなんだ・・・、と言い聞かせながら、慣れない台詞を繰り返した。

「おい、金出せよ!」

  男は言う。

「いまは持ってない。金は店にあるよ。店に行こう」

  このアウェイな異国の道端で無理やり金を出させるわけにもいかない。それにこの男が大した金を持ってないのは本当だろう。しかも強引に金を奪ったりしようものなら、いよいよ強盗ふうになってしまう。

 しかし、店に行っても金が戻ってくるわけがない。そして第一、さすがに店に戻るのはまずいと思った。ただ、とりあえず歩きながらいい作戦を考えるしかなかった。

 「よし、じゃあ、店に連れていけよ」

「うん、わかった」

 そうして二人、人ごみをかき分けて、誰もいない北側の暗がりに向かって足早に歩き出したのである。

(その3に続く)