大学の講義中に何度か怒ってしまったことについて

今年は大学の講義で学生を注意する回数が増えている。
あまり学生に怒ると、うるさいおじさんだなと思われそうだし、かつ授業の雰囲気も悪くなる。また自分自身、できるだけ怒りたくない、という気持ちも強いので、なかなか悩ましい。しかし今年は、スルーしてはまずいだろう、という感じのことがたびたびあった。


授業中、自分が近くを通っても、全く気付く様子もなくスマホでゲームをしていたり、映画を見ていたり、みたいな学生が今年は特に多い気がした。
それで一度全体に注意した。

授業中、聞いていたけど眠くなって寝てしまったり、途中で集中力が切れてちょっと他のことをしてしまう、ということは誰でもあるし、それは問題ない。というか、そういうときは、自分の授業内容に魅力がなかったのだと思うし、それはこっちが反省しないといけない部分も大きいと思っている。そう伝えた。

しかし、最初から全く聞く気なく突っ伏して寝ていたり、バッグを机に載せたままずっとスマホでゲームをしているとかはさすがに認められない。そういう学生が今年は特に多いように感じた。さらに、自分が真横を通っても全く動じずにゲームをやり続けていたりする。それはメンタルが強いとかそういうことではなく、さすがに問題だと思う。ゲームなどをするにしても、せめてこちらにばれないようにうまくやる、というか、うまくやろうとする意志くらいは見せることが必要なのではないかと話した。隠そうとしてくれたら、基本的には見て見ぬふりをするから、とも言った。

授業だから聞きなさい、ということではない。真剣に話している相手に対して、それが最低限のリスペクトなのではないかと思う。話している側を完全に無視するような態度は、人と人の関係性として決してよくない。自分がそれをスルーしたら、学生は、それでもいいんだと思ってしまうのではないだろうか。金払ってるのはこっちなんだから、授業を聴こうが聴くまいがこっちの自由だろう、と思っているのかもしれないとも感じた。

決してそうではないはずだ。

授業に出るか出ないかは、学生の自由だと思う。出なくて学ぶべきことが学べない、単位がもらえない。それは残念なことではあるし、出てほしいとは思うけれど、でもそれはその人の選択だと思う。しかしもし授業に来るからには、この時間と空間をともに共有するからには、最低限、授業する人間へのリスペクトは必要だと思う。そして授業をする自分自身も、授業を受ける側へのリスペクトを持っていないといけないということもいつも思っている。

昨日は、イヤホンをして、完全に別な方向を向いて机の下かイスの上で何か作業をしている学生がいたので出て行ってもらった。その前は、10分くらい化粧し続けてる学生がいて、その場では、一人さらす感じにしてしまうのもどうかという気持ちが湧いて、やめてくれることを期待して注意しないままになってしまったけれど、翌週、全体に向かってそのことについて自分が思うことを話した。

こちらを完全に無視するような態度は受け入れられないし、受け入れるべきではないと思うからだ。

いま、学校で怒るということのハードルがものすごく上がっている気がする。学生は何をしても怒られたことがなくて、もしかすると、授業中に教員を無視して全く別のことをすることについて全然悪いと思ってないのかもしれない、とも感じた。

7,8年前に、授業開始とともにいつも突っ伏して寝る子がいて、それを繰り返されたために、さすがに何度目かに我慢ならなくなって出て行ってもらったことがある。するとその翌週から彼は人が変わったように真剣に聞いてくれるようになった。ただあとから、彼は学費を工面するために夜中までいつもバイトをしていて、どうしても授業中に寝てしまうのだ、ということを他の教員から聞いて、そうだったのか、と複雑な気持ちになった。

それから3年後くらいか、彼が卒業するときになって、わざわざ僕のところに謝りに来てくれた。「あの時はすみませんでした。そのまま謝ることができてませんでしたが、卒業する前には一度ちゃんと謝らないといけないと思っていて」と。真摯な気持ちが伝わってきた。

あの時、言ってよかったんだなと思った。それからは、怒ったり、注意したりすることは、やはり必要な時にはするべきなんだと思うようになった。もちろん理不尽な怒り方は言語道断だし、怒るからには、もし向こうに言い分があるのであれば、こちらはそれを聞かなければいけない。そのことも昨日は最後に伝えた。

気持ちに素直に、進みたい進路を。旅と生き方の講義のレポートを読んで。

旅と生き方の講義のレポート、200人弱の分を読んでいます。多くの学生が次のように書いているのが印象的でした。

<なんとなく日々を過ごし、時期が来たらとりあえず就活する。それでいいのかなと若干疑問に思いつつも、大学時代とはそんなものだと考えていた。でもそうじゃなくていいことに気づかされた。一年遅れるしなあと迷っていた留学に行くことに決めました。夏は旅に行ってみることにしました。やろうと思っていたことに思い切って挑戦してみることに決めました>

と。今の学生は内向きで従順で、などと思いがちだったけれど、きっかけがないだけなのではないかと思います。やりたいことをみなが必ず追求すべきだとは思わないけれど、システマティックに進んでいく学生時代を少しでも疑問に思うのであれば、やりたいことをやっていいんだと、背中を押してあげたいとすごく思います。

お金のことなど現実的な問題は別として、一年遅れたらヤバイとか、履歴書に空白時期があってはいけないとか、人生的には本当にどうでもいい、ただ企業の採用的にだけ意味をなすローカルな価値観を、社会が意識させすぎではないかと思います。

1年や2年遅れようが、振り返れば人生に影響はほとんどないし、遅れないようにとわけもわからず就活をするよりも、疑問があれば、立ち止まって自分がどう生きたいかをじっくり考える期間を持つ方がよっぽど大切だと感じます。その上で、本人が納得した上で就活をするならする、別の道を進むなら進む、という選択を後押ししたい。

僕の講義は、人生の長い道のりを考えたとき、若い時代の旅は少なからぬ意味をもちうること、同時に、生き方はそれぞれ違って当然だということを、15回かけて様々な角度から伝えるのが目的なのですが、毎回の講義に対しての学生の感想やレポートを読むほどに、思い切って自分の道を進んでいっていいんだということをこれまで全く言われたことがないらしい学生が多いことに気づかされました。

もちろん、やりたい道に進んだ結果、思う通りに行かず苦労する可能性は大いにあります。頑張れば夢は叶うとは僕は思っていません。ただ、こう生きたいと思って自分なりに方法を模索して、考え、動いていけば、思い通りには行かずとも、きっとそれまで見えてなかった広い世界が目の前に見えてくる、そしてそれなりに道は開けていくはずであると思っています。

だからみな、気持ちに素直に、進みたい進路を選んでほしいと思います。そこで思い切り動いて悩んで、人生を模索してほしいなと。その際に旅は、きっと大きなヒントを与えうるものであるはずです。応援しています。

あまりにもシステムが整い過ぎたこの時代に、「旅と生き方」の講義をして、学生たちの感想・レポートを読んで思ったこと

「旅と生き方」をテーマにした大学講義のレポートの採点を終え、先日成績を提出しました。履修者が299人いて、レポートが270人分ぐらい。読むのがかなり大変だったけれど(おそらく新書3,4冊分)、7年目の今年は、講義をしていても、レポートを読んでも、おそらくこれまでで一番、学生たちがいろいろと感じてくれ、何か行動を起こそうとするきっかけになったらしいことが感じられました。

旅が人生においてどのような意味を持つか、というのが講義の主テーマで、いろんな人の生き方や表現物、また、自分自身の経験を元に話していくという講義です。

毎回小テーマを1つ決め、関連するドキュメンタリー映画などの映像作品を20分ほど見てもらい、あとは講義するという形をとっています。

たとえば「人はなぜ旅をするのか」というテーマでは、一人の若者が全てを捨てて旅に出る「イントゥ・ザ・ワイルド」、「異文化」がテーマの回は捕鯨に関する問題作「ザ・コーヴ」、「冒険」の回では迫真の登山映画「運命を分けたザイル」、旅の空気感そのものを知ってもらいたい回では「深夜特急」、「国とは何か」を考える回では、東ティモールで起きた虐殺事件に絡んだニュースドキュメンタリー映像やインドネシアの"英雄"たちをかつてない方法で描いた「アクト・オブ・キリング」の一部を観てもらい、そこから話を広げていく、という具合です。

その全体の縦糸となるのは、自分自身の26歳~32歳までの長旅の話です。15回で、5年半の旅が少しずつ進んでいき、毎回、その時々で自分が直面した問題、出会った人、その土地のこと、悩んでいたこと、などの話をとっかかりとして、それに関連するテーマを一つ絞って上のように紹介します。

とりあげるテーマのおそらく半分くらいは、たとえば「働くとはどういうことか」「コンプレックス」「異国で暮らすこと」「メディアの問題」「表現すること」「時間が有限であることの意味」など、必ずしも旅とは関係ありません。ただそれらはいずれも自分にとっては、旅を通じて感じ考え、いまの自分の深い部分を形成しているテーマです。そしてそれらは、結果としていずれも、いまの学生たちがそれぞれ、現在の悩みや気持ちと重ねて考えられる事柄が多いようで、旅が自分に与えてくれた課題のようなものは、ある意味、若い世代にとって普遍的なテーマであるんだろうなあとも感じます。

毎回の講義ごとに出欠を兼ねてみなに感想を書いてもらい、次回の講義の冒頭でその中のいくつかを紹介するのですが、みなの感想を読んでいると、「自分はいったい何しに大学に来ているのだろう」とか、「なんとなく大学、就活という流れに乗っているけれど、これからどうやって生きていったらいいのかわからない」などと、現状に悩む学生がとても多いことを感じます。

きっと本当は、それぞれ何かもっと時間やエネルギーを費やして考えたり、行動したいと思う対象があったり、または自分はどう生きたいかということにじっくりと向き合いたいのにもかかわらず、今の世は、あまりにも、やれ就活だインターンだ資格だ、そのためにはいまこれをやりなさい、説明会をやります、いまから手をうっておかないと人生やばいです、生き残れません、そんなことで将来大丈夫ですか、みたいな外からの声や圧力が大きすぎて、それらを振り切って自分の好きな道に進むというのが、ぼくが大学生だった20年前に比べて圧倒的に難しくなっているように感じます。

社会や時代の要請ありきではなく、自分がどう生きたいかをそれぞれが考え、それぞれに合った道を思い切って進めるのが理想だとぼくは考えていますが、いまの日本はあまりにもシステムが出来上がりすぎていて、そのシステムの中でいかに高いパフォーマンスを発揮できるかという価値観が強すぎるとつくづく感じます。

ちなみにぼくらの学生時代は、就活なんて自分が動かなければ大学が何を言ってくるわけでもなかったし、そういう意味では、今と比べると、人生がとても本人にゆだねられていたような気がします。昔の方がよかった、とかそういうことでは全くありませんが、ただ、そういう時代だったからこそ、決してそんなに大胆ではない自分でも、就活しないでライター修行を兼ねた長旅に出る、などという、いまから思うと突飛な進路に進もうと思えたのかもしれないようにも感じます(吃音で就職したくない、というきっかけが大きな後押しになったわけですが)。

つまり、振り返ると、当時は、生きたいように生きることが、意識の上ではいまよりも簡単だったように思います。いまは、技術的には可能なことが圧倒的に多いから、自分はこう生きるんだ、という明確な意志がある人にとってはおそらく可能性は、以前に比べて格段に大きく広がっている。でも、ちょっと立ち止まって考えたい人、どうしようかと悩んでいる人にとっては、辛い時代になっているような気がします。生きていく道は実は他に無数にあるのに、そのことを考える隙や時間を与えてもらえず、ものすごい勢いの流れの中で、なんとか溺れないようにその流れについていくのにみな必死、という印象を受けるのです。

そうした流れに乗っていくのが当然で、人生とはそういうものだと知らず知らずに考えるようになっている学生たちにとっては、旅に出る、または全然違う道を歩いていく、ということは、あまりにも無謀で破天荒で、ちょっとそんなことはありえない、、と感じるらしいことをかれらの感想を読むほどに感じます。

でも、講義を進めていくうちに、だんだんと、「いや、まてよ、生き方ってそんなに画一的なものではないらしい、もっと自分がやりたいことをやっていいんじゃないか?」と思うようになってくれた人が少なからずいてくれたようでした。一歩外に踏み出せば、こんなにも別世界が広がっていて、こんなに違った生き方をしている人たちがたくさんいる。そして自分自身もまた、いま当然と思っている以外の生き方が、じつはいくらでもできる可能性があるんだ、と。もちろん、自分で選んだ道を進むのには、当然厳しさもついてくるけれど、それでも、より自分の気持ちに率直に動いてみたい、動いてみます、と、おそらく本音で書いてくれている人が多くいました。

ネットによって、コミュニケーションに関しては物理的な距離はほとんどなくなったものの、それに反比例するように、現実の中での異国や未知の世界への距離はどんどん大きくなっているのかもしれません。

そしてそんな時代だからこそ、未知の中に身を置くことが本質にある「旅」というテーマが、逆に深く響くのかもしれません。

今年は、講義を受けた結果、留学や旅行に行くことを決めました、とレポートのあとの感想に書いてくれた人が多くいました。直接、留学などに関して相談に来てくれた学生も複数名いて、そうしたことに、講義をした意味を感じて、嬉しかったです。

旅に出ることであったり、自分の好きな道に進むことだったり、自分の気持ちに従って一歩踏み出しますと、書いてくれてた皆さん、心から応援しています。気をつけて、かつ思い切って、よく考え、でも考えすぎずに、未知の世界へ一歩を踏み出してみてください。きっとそこから世界は想像以上に膨らんでいくはずです。

7年間を終えるにあたって、大学で出会った学生のみなさんへ

2011年から7年間講義をやらせてもらっていた京都造形芸術大学の非常勤講師職が今年度でいったん終了となり(通学部。通信教育部は継続します)、先週、最後の授業(合評会)を終えました。

その日は学生たちにとっても学期の授業の最終日で、例年通り、学科の学生と教職員全体での飲み会がありました。
その場でぼくは、思いがけず皆さんから花束までいただき、学生たちにも先生方にも温かい言葉をかけてもらい、幸せな気持ちで最後の日を過ごさせていただきました。

またその際、思っていた以上に複数の学生が、自分の講義や言葉を覚えていてくれたり、大切にしてくれていたことがわかって感無量でした。

その会の終盤、ひと言挨拶をさせていただきました。

嬉しい気持ちやお礼とともに、文芸・文筆を学ぶ学生たちに、以下のようなことを話させていただきました。

参加していなかった学生たちや卒業生たちにも伝えたいと思ったので、話したことを改めて文章にしました。学生の皆さんの今後の活躍を祈りつつ。

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文章を15年ほど書き続けてきてなんとか生計を立てられるようになったいま、強く感じるのは、書く上での"技術"を学ぶことの大切さです。

文章で何かを伝えるということには、技術がいる。
そのことを最近痛感するようになりました。

これといった技術がなくとも文章は書けるし、思いを伝えることも可能です。ときにむしろ技術なんてない方が、思いが伝わる場合もあるように思います。

しかし、文筆を仕事とし、継続的に書き続けていこうとすれば、どうしても基盤となる技術が必要です。文芸を学ぶ学生たちには、それを大学時代に身に付けてほしいし、大学で教える身としても、そういった技術をしっかりと教えなければならないと、ここ1,2年で強く感じるようになりました。

特に今、ネットメディアやSNSの発達により、媒体は無数にあり、誰でも書いたものを多くの人に読んでもらえる機会があります。それはとてもいいことです。しかしそれだからこそ、文章を書くことを仕事にしようと思えば、伝えるための技術が必要だと思います。

その技術を身に付けるために必要なことはいろいろありますが、大切なことの一つは、文章を書くとき、その全てに自覚的になることだと思います。自分の原稿の一文一文について、たとえば、この文はなぜ「である」ではなく「だ」で終わるのかと問われたら、その理由を自分なりに答えられるべきだというのがぼくのいまの考えです。その理由に正解などはないけれど、ただ、書き手が自覚して書くことが大事だということです。一文一文にそのくらい自覚的に書いていくことで、文章は少なからず研ぎ澄まされていくと思っています。

その一方、技術では人を感動させられません。人の心を動かすのは、ほとんどの場合、技術ではありません。心を動かすのは、その言葉にどれだけ書き手の気持ちが込められているかだと思います。

それは、書き手の生き方、考え方、これまでに経てきた悲しみや喜びなど、様々な経験や時間が問われます。取材して書くのであれば、書かれる側の人に対して、十分心を寄せることができるか、読む人たちの思いにも想像力を働かせられるか。また、書くということが決して軽いことではなく、ある種、責任の伴う重いものなのだということを意識できるか。文章を書くということは、そういったあらゆることが問われているように思います。

文章を書くことの魅力でもあり怖いところは、そうしたその人自身の人間性のようなものが、必ずどこかに滲み出ることです。それは文章に書かれた主張ではなく、一文一文のちょっとした表現や語尾などに表れるもののように思います。長い文章を書けば、どうやっても、必ずどこかにその人自身が投影されるものです。その点をどうすればいいかは、大学などで人から学ぶことはできません。日々を生きていく中で自分自身で身に付けていくしかありません。それだからこそ、価値があるのだと思います。

技術と思い。

その両面が揃うことで、いい文章が生まれるのだと思います。
もちろん、必ずしもそうではないかもしれないけれど、自分としては、その両面をできる限り大学時代に高めていってほしい、というのがみなさんに伝えたいことでした。

そして、文章を書くことに正面から向き合うことは、文章を書く以外のことにも大きく役に立つはずです。どんなことをして生きていくにしても、自分自身の行いに自覚的になり、自分自身を見つめ、掘り下げ、深めていくことは必ず力になるだろうと。

みなさんのこれからの活躍を期待しています。

どうもありがとうございました!
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