バンコクに数日行ったら、血圧が見たこともない数値に…

2月9日から12日まで、バンコクに行っていました。

今回の滞在の目的は、タイで吃音の当事者・関係者とのつながりを作って、3年に一度世界各地で開催されている吃音関係者による世界大会のアジア版を開く足がかりを作ろう、ということでした。

僕自身は、声をかけてもらって、どちらかといえば付いていく側での参加のつもりだったのですが、提案者のお二人が、諸々の事情でともに来られなくなり、結果として僕と他二人、付いていく側の3人だけで行くことになりました。

コロナウィルスのこともあり、さらに僕個人としては、謎の胸の痛みと高い血圧がしばらく続いていて、心臓を検査してもらっていたのもあって、前日の昼頃までは行かない方向に傾いていました。しかし検査での異常はなく、直前に体調が好転してきたこともあり、やはり行くことにしたのですが、来てよかったなと感じています。

当初の目的通り、バンコクの病院に勤務されている日本人の言語聴覚士の方にお会いして吃音に関連した現地の状況を伺い、さらにタイ国日本人会の方にもお会いして、アジアでの大会を開催する上での今後のいろんな可能性について伺いました。

海外ならではの事情を知って新たな知見を得させてもらうとともに、色々と簡単ではない点もわかり、アジア大会を開催するとしても道のりは長いことを感じましたが、少なくとも第一歩にはなるつながりを持つことができて、有意義な滞在になったように思います。

また、自分としては中国・昆明時代の友人にも会えたり、久々に東南アジアの雰囲気を体感することができて、すごく気持ちがリフレッシュされました。

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その友人には、彼女自身を含め、昆明時代に親しくしていた同世代の人たちの近況を聞き、それぞれ今も世界各地で、全く常識にとらわれない「マジか、すげえ…!」という日々を送り続けている様子を知って、当時の感覚を色々思い出させてもらいました。

今回会ったその友人自身も、バンコク生活が約10年となるといういま、今後どう生きていくかを考えていて、これから、未知の冒険の旅に出るということで話がまとまり(!)、今後が楽しみでありつつ、すごく刺激を受けました。やはり自分もいまなお、新たな未知の場所に身を置いて、「さあ、どうやって生きていこうか」という先の見えない人生を送りたい願望が強くあることを改めて確認しました(って、ずっとそう思いつつ京都生活が10年を過ぎてしまったのですが)。 また、バンコクの町を歩いていて、各所のガードマンや店員、ホテルの人が、隙あらばスマホゲームに興じたり寝てたりするのを見て、それでも世の中は回ってるわけで、なんかほっとするというか、本来このくらいでいいんじゃないのかなとすごく感じました。

日本で暮らし続けていると、思うように効率よく進むのが当然で、そうでなければ文句が出て、人がみなさらに効率的、合理的に行動する、という流れに馴れてしまうけれど、そろそろ効率化も、誰も望んでないレベルにまで至ってる気がします。

バンコクの、なあなあな力の抜けた雰囲気と人々の大らかな感じ、各人が思い思いに日々暮らしてそうな様子を見て、世の中、ちょっと不備不足があって思い通りにならないくらいがちょうどいいんじゃないかなあと再確認?しました。

とともに、自分が知らず知らず、いかに日本の感覚を普通に思うようになっていたかに気づかされます。やはりとりあえず異国・異文化の空間に、できるだけ身を置く機会を作ることが大事だと痛感しました。ただその場にいて空気を吸って人々の様子を見ているだけで、日々の考え方がほぐされるし、そういう機会をもっと持たねばと。旅のこと書いたり、大学で講義をしつつも、完全にエア旅人になってしまっている昨今の自分は特に。

また、観光エリアを歩いていると、年配の客引きが、古典的な手法でにじり寄ってきたので話していると、「ジャパン、フットボールプレイヤー、グッ!」という定番の展開になり、その流れで出てきた名前は案の定、ナカタ、イナモト、ナカムラ、オノ…と、20年くらい前からアップデートされてない状況。それがまた味わい深く、そして、お互い時代の変化の速さについていけない感じで共感したりもしました。

血圧が若干心配だったため、バンコクにも血圧計を持ってきて毎日測ってたのだけど、こっちに来て急に、これまで見たこともない正常値が出るようにもなりました。一時的かもしれないけど、やはりこっちに来てストレスが軽減されたのかなと思ったり。15年前に、中国・昆明にいた頃に吃音の症状が消えていったのも、やはり何かそういうことと関係あるのかなと改めて考えたりもしています。

最後の日は深夜の便だったので日中はアユタヤに行ってきました。アユタヤの遺跡は思っていた以上に壮大で、この周囲に当時、日本人町があったというのも新鮮で、色々思いを馳せました。アユタヤの中心部の郊外、チャオプラヤ川沿いの確か長さ1キロ、幅200mだったかな、そのくらいの土地に、様々な理由で日本では暮らしづらそうなキリシタンや浪人などが自由に暮らしていたそうな。タイに日本とは違う居心地の良さを求めて移住する流れは実はものすごく歴史が長かったということかな、などと想像しました。

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バンコクからアユタヤまでは、電車で2時間弱、15バーツ(50円ほど!)。目の前に乗り合わせたイタリア人のイケメン大学生と話し、これからどうやって生きていこうかと考えている彼の話を聞きながら、20年前の自分を思い出しました。夏に日本に来る予定とのことなので、京都に来たら、よかったら会おうと言い、インスタとFBを交換。爽やかないい出会い。
アユタヤでは、レンタルバイクで移動。タイでは免許なしでパスポートだけで借りられるので(1日200バーツ)、郊外ではよく利用します(バンコクで運転するのは怖いので借りたことないですが)。自分での移動手段を持つと、やはり楽しいです。

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アユタヤからバンコクへは、また電車で戻るつもりだったものの、バイクを返して駅に着くと、電車が遅れていて2時間後まで来ないことが判明。2時間待つと、夜の飛行機にかなりギリギリになりそうだったので、どうしようかと思っていると、バンコクへ乗り合いのバンがあることを教えてもらい、バイクに乗せてもらってバン乗り場へ。するとバンコクへ出発直前のバンに乗ることができてホッ(70バーツ、1時間半ほど)。

バンの中で、その日までに返信しなければいけなかった物理学関係(原子核時計に関する研究)の原稿の確認があったことを思い出し、車内でなんとか確認し、修正案を書いて送信。するとすぐに神戸にいる担当者から了解の返事。その返信をタイの田舎道を突っ走るバンの中で読んでいる状況に、つくづく不思議で面白い世の中になったなと思い、やはりもっと旅をしなければと気持ちを新たにしたのでした。

京都新聞夕刊「旅へのいざない」第8回 ロシア(毎月第一木曜日掲載)

京都新聞夕刊連載「旅へのいざない」第8回は、ロシア。モンゴルからロシアへ入り、シベリア鉄道で足掛け9日間移動して、再び中国へ。日本を出て4年になり、当時の自分の現状についてあれこれ悩みながらの鉄道での日々について書きました。ひとまず第12回での完結を目指してます。

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戦争で残虐な行為に手を染めた二人の元日本兵が語った言葉(映像)

ぼくは学生のころ、日本と中国をテーマとした映像制作を中国人留学生はじめ複数の学生たちとともにやっていました(『東京視点』)。その中で自分が中心となって作った作品の一つに「ある二人の戦後」(14分、2002年)があります。戦中から戦後にかけて中国で残虐な行為に手を染めたと語る二人の元日本兵(永富博道さんと湯浅謙さん)の姿を撮ったものです。

先日ふと、こうしたことを語れる人がもはやほとんどいないということを考える機会がありました。そこで、やはりすでに亡くなられているこのお二人が自らの過去を思い出して語る姿はもっと広く見られてほしいという思いがわき、ここにアップしようと考えました。

いま見ると、内容的に不十分な部分が多々あって作り手としては気恥ずかしくもあるのですが、若いころに多くの人を残虐な方法で殺し「閻魔大王」と呼ばれたという永富さん、そして、生きたままの中国人を解剖したことを語る元軍医の湯浅謙さんが、戦後半世紀以上が経ってから自らの行いについて語る姿をこのような形で記録できてよかったと、改めて思ってます。永富さんが涙ながらに思いを語る部分は、何度見ても胸がいっぱいになります。

永富さんはこの映像を撮った2、3ヵ月後に亡くなられました。そのタイミングに何か意味を感じざるを得ない永富さんの言葉があったこともあり、当時ぼくは、永富さんへの追悼文を書く機会をいただきました。その追悼文も映像の下に載せました。それを読んでいただくと概要がわかるかと思います。その上で、よかったら映像も見ていただければ嬉しいです。

そして先ほど、この映像のアップ作業を始めた昨日11月4日がちょうど永富さんの命日であることに気づかされ、何かただならぬ思いを感じています。


追悼文:『季刊 中帰連』23号(2002年冬)に寄稿
映像:2002年制作(近藤雄生、吉田史恵)「東京ビデオフェスティバル2004」優秀作品賞受賞

(以下が追悼文です)

「永富さん、安らかに」 (近藤雄生、『季刊 中帰連』23号 2002年冬)

私は永富さんについてほとんど何も知らないといってもいいかもしれません。少なくとも永富さんにとって私は一介の若者以上のものではないはずです。そんな自分がここに永富さんの追悼文を書かせていただいて本当にいいものだろうかと、正直多少とまどいを覚えながらも、その機会をいただけたことを感謝しています。

私が永富さんのことを知ったのはほんの最近のことであり、お会いしたのも先の八月のある真夏日のたった数時間あまりでしかありません。永富さんの八六年に及ぶ人生の中に自分が多少なりとも直接的な関係を持つことが出来たのは、ドキュメンタリー映像を作るための取材でお会いした、そのほんのわずかな時間だけでした。しかしそれは、私にとってどれだけ長い時間に匹敵するか分からないほど貴重な出会いだったということを今、切に感じています。

そのころ私はもう一人の同年代の者とともに、生体解剖に関わった元軍医である湯浅謙さんの現在の活動を取材しており、そのときに湯浅さんから永富さんをご紹介いただきました。永富さんが近くの老人ホームにいらっしゃると聞いて、是非お会いしたいとお願いしました。「閻魔大王」と呼ばれていたほどの永富さんが今何を思いながら生活されているのか、私は聞いてみたいと思ったのです。

突然の訪問にもかかわらず快く私たちを迎え入れてくださった永富さんの、私たちへの最初の言葉は、「申し訳ありません、申し訳ありませんでした……」というものでした。背中を丸め、前かがみになりながら、しっかりと手を合わせて祈るようにそうおっしゃる姿を前に、私はなんと対応していいものか分からず、ただ沈黙し続けていたことを覚えています。

ただじっと聞いていることしかできない私たち若者に対して丁寧な言葉で接してくださるその姿からは、この人がそれほど残虐な行為を繰り返したなどということがどうしてもイメージできませんでした。しかし、そのギャップこそが現実だったのだと思います。永富さんの人生が半世紀以上前の話だけで説明されるものでは決してないという当然のことが、本人を目の前にして再確認できたような気がしたのです。特異な経験を経てきた人の人生は、その特異さだけで語られがちになりますが、もちろん実際にはその何倍もの、他の人と変わらぬ静かな日々が続いています。数々の残虐な行為と戦犯管理所での生活を経た後に、永富さんには四〇年ほどの時間がありました。私の会った永富さんはその全ての時間を内に抱えていたのです。それは、過去を見つめ、そして今自分が生きていることの意味を深く考える一人の老人の姿でした。

意識がない状態で同じ老人ホームに暮らしていらっしゃる奥様のことに話が及んだときに、永富さんのただならぬ思いはもっとも強く伝わってきました。

「生かされているというだけで…、ほんとうに幸せです…」

家内は「眼も見えない、口もきけない…、死んでるとおんなじ」です。しかし、生きている。その生きているという事実がいかに大きなことなのか…。「死んだらもうさわることもできない…」生きているからこそ、「毎日、いって、さわって、手を握って」やることができるんです…。「生きているということだけでも、ほんとうに幸せです…」

多くの人の命を自ら絶たせてしまった永富さんが、目を潤ませながらおっしゃったその言葉からは、他のどんな人にも表しえない重みと感慨が滲み出ていました。そのときの永富さんの涙は、奥様へと同じくらいに今生きている自分自身に、そして何よりも、彼が命を絶たせることになってしまった多くの人たちにへ注がれていたような気がします。

その涙は、いつしか取材を続ける私たちのもとへとつたってきました。

そしてその日から一ヶ月半ほどして、ドキュメンタリー映像は完成しました。

永富さんが亡くなられたのはその映像のテープを氏のおられた老人ホームに送ってから三週間ほどしてからのことです。テープが着いた頃にはすでに他の病院に入院されていたということを知らず、「永富さんはあれを見てどう思ったかな…」などとのどかに考えていた自分にとって、彼の死はあまりにも突然のことでした。

死の報告を受けたとき、永富さんのおっしゃっていたある言葉が頭をよぎりました。体が不自由になってはいるけど、特に病気もなく今を過ごしていることについて、

「私は死なせてもらえないのです。自分の罪をすべてこの世でぬぐいつくせるまで私はしぬことができないみたいなのです。…まだすべきことがたくさんある。そのためにこうして生かされているのではないかと思うんです…」

永富さんは「すべきこと」を終えることができたのだろうか…。それはしかし、私には分かるはずもありません。ただ、ちょうど偶然にも私たちがこの時期に映像を撮ることになったことが、もしかしたら死を迎える前の永富さんにとっての「すべきこと」に何らかの関係があったのか…そんな気がしないでもありません。私たちが作ったものが、少しでも永富さんが安らかに眠れず材料になればと願うばかりです。
(終)

気持ちに素直に、進みたい進路を。旅と生き方の講義のレポートを読んで。

旅と生き方の講義のレポート、200人弱の分を読んでいます。多くの学生が次のように書いているのが印象的でした。

<なんとなく日々を過ごし、時期が来たらとりあえず就活する。それでいいのかなと若干疑問に思いつつも、大学時代とはそんなものだと考えていた。でもそうじゃなくていいことに気づかされた。一年遅れるしなあと迷っていた留学に行くことに決めました。夏は旅に行ってみることにしました。やろうと思っていたことに思い切って挑戦してみることに決めました>

と。今の学生は内向きで従順で、などと思いがちだったけれど、きっかけがないだけなのではないかと思います。やりたいことをみなが必ず追求すべきだとは思わないけれど、システマティックに進んでいく学生時代を少しでも疑問に思うのであれば、やりたいことをやっていいんだと、背中を押してあげたいとすごく思います。

お金のことなど現実的な問題は別として、一年遅れたらヤバイとか、履歴書に空白時期があってはいけないとか、人生的には本当にどうでもいい、ただ企業の採用的にだけ意味をなすローカルな価値観を、社会が意識させすぎではないかと思います。

1年や2年遅れようが、振り返れば人生に影響はほとんどないし、遅れないようにとわけもわからず就活をするよりも、疑問があれば、立ち止まって自分がどう生きたいかをじっくり考える期間を持つ方がよっぽど大切だと感じます。その上で、本人が納得した上で就活をするならする、別の道を進むなら進む、という選択を後押ししたい。

僕の講義は、人生の長い道のりを考えたとき、若い時代の旅は少なからぬ意味をもちうること、同時に、生き方はそれぞれ違って当然だということを、15回かけて様々な角度から伝えるのが目的なのですが、毎回の講義に対しての学生の感想やレポートを読むほどに、思い切って自分の道を進んでいっていいんだということをこれまで全く言われたことがないらしい学生が多いことに気づかされました。

もちろん、やりたい道に進んだ結果、思う通りに行かず苦労する可能性は大いにあります。頑張れば夢は叶うとは僕は思っていません。ただ、こう生きたいと思って自分なりに方法を模索して、考え、動いていけば、思い通りには行かずとも、きっとそれまで見えてなかった広い世界が目の前に見えてくる、そしてそれなりに道は開けていくはずであると思っています。

だからみな、気持ちに素直に、進みたい進路を選んでほしいと思います。そこで思い切り動いて悩んで、人生を模索してほしいなと。その際に旅は、きっと大きなヒントを与えうるものであるはずです。応援しています。