『遊牧夫婦こぼれ話』第2回「上海の落とし穴1」(2014年7月「みんなのミシマガジン」掲載記事を再掲)

【『遊牧夫婦こぼれ話』は、ミシマ社のウェブマガジン「みんなのミシマガジン」にて、2014年6月~2017年7月まで毎月書かせてもらっていた連載です(全38回)。「遊牧夫婦」シリーズの中に収められなかったエピソードや出来事を振り返りつつ、しかしただ過去を振り返るだけでなく前を向いて、旅や生き方について、いまだからこそ感じられることを綴っていく、というコンセプトの連載でした。現状、ミシマガジンでは読むことができないので、ひとまず、面白がってもらえた回だけでもこちらに随時アップしていく予定です。再掲にあたって細部は少し調整しました。】

第2回 上海の落とし穴 その1

2014.07.04更新

  6月、上海に行きました。4月にソウルに行ったのと同じく紀行文の連載のためです。
 行き先はドイツかニューヨークになりそうだということだったのに、直前になって急に、「上海に決まりました」との連絡が。すっかり気分は西洋だったので、気持ちを切り替えるのがちょっと大変だったものの、上海といえば、2006~07年にかけて1年半ほど住んだ土地です。気持ちを切り替えてしまえば、7,8年ぶりの再訪がとても楽しみになりました。 

 2008年の北京オリンピック、2010年の上海万博を経て、中国はガラリと変わったというようなことは聞いていました。いったいどうなっているんだろう、とわくわくしながら上海の町に降り立ちました。
 しかし、着いた瞬間の感想としては、みながスマホを持っていることぐらい以外、ほとんど記憶通りの風景でした。
 ああ、懐かしい――。

  上海は、自分のライター人生にとって1つの転機となった場所です。というのは、ここに住んでいるときに初めて、貯金を食いつぶすことなくライターとしての収入で生活ができるようになったからです。ちょうど30歳になったころのことでした。
  そういう意味でも、いろんな思い出のある、極めて親しみのある町です。そこに1週間滞在して紀行文を書くのが今回のミッション。
 こんなに楽しい仕事はめったにない! そう思って、ぼくは気楽に、本当に気楽な気持ちで上海の町を歩き続けたのでした。 

 しかし、そこに落とし穴が待っていました。
 まんまとやられてしまったのです――。
 5年半の旅においても、こんなに間抜けななことはありませんでした。

  自分の馬鹿っぷりをしっかりと記録するため、
 この悔しさを忘れないため、
 さらにみなさんに注意を促すために、
 そしてなんといっても、こんな話をネタにしない手はないので、
 その顛末の一部始終を書きました。

 長文すぎて3回にわたって掲載という、連載2回目から変則的な形になってしまいますが、どうぞみなさまお付き合いください。

  *

  上海滞在2日目の夜――。
 テレビ塔や超高層ビル、西洋近代建築がまるで博物館のように川の両側にずらりと並ぶ外灘(ワイタン)から西に延びる南京東路を歩いていたときのことである。無数の観光客の中にいた旅行者風の男が突然地図を出しながら中国語で聞いてきた。
「ここからどう進めば○×に行けますか?」

外灘(ワイタン)から西に延びる南京東路。写真奥は東向き。ピンクと紫に光っているのが川の向こうにあるテレビ塔。この道を西向き(写真手前方向)に歩いてるとき、男に声をかけられた。

外灘(ワイタン)から西に延びる南京東路。写真奥は東向き。ピンクと紫に光っているのが川の向こうにあるテレビ塔。この道を西向き(写真手前方向)に歩いてるとき、男に声をかけられた。

  「すみません、わかりません。ぼくも上海の人間じゃなくて旅行者なんです」
 そう答えると、ああそうなんですか、と彼は言った。日本人だというと、彼も自分のことを話しだした。
「ぼくは天津から旅行で上海に来ています。日本の会社の工場で働いているので、日本語が少しわかります」
 なるほど、たしかに日本語が話せるようだった。白いシャツに薄茶色のパンツをはいた典型的な中国人ファッション。坊主頭で背は小さく、人の良さそうな顔が印象的だった。年齢は45歳だと言い、話しているうちに日本語はだんだんと流暢になる。途中から会話はすべて日本語になった。 
「ぼくは劉です」「近藤です」
 互いに自己紹介をし、何をしているのかなどを話しながら、賑やかな南京東路を西に向かって二人で歩いた。今回、いろんな中国人の話を聞きたいと思っていたこともあって、ちょうどいい人が声をかけてくれたと内心ぼくは喜んでいた。 

 そしてそのうち、彼はこんなことを言い出した。
「天津じゃ、家族といるからなかなか羽を伸ばせないでしょ。だからこうやって旅行に来たときに、女の子と遊ぶのが好きなんだよね。それが一番楽しいんだよね。近藤さんはどう? 日本では最後までやるといくらくらい?」
 ああ、普通にエロいおっさんなんだなと思い、笑って適当に答えておく。ホテルの人に安くてかわいい子が多い店を聞いてきたんだ、エヘエヘと笑うので「そうか、よかったね、楽しんでね」とぼくも笑った。

 その後15分ぐらい歩いていると、彼は「一緒にお茶屋さんにいかないか」と誘ってきた。話していて楽しかったし、時間もあったので、ぼくは一緒に行くことにした。
 鉄観音のお茶を試飲しながらまた二人で世間話。彼は、試飲させてもらった鉄観音を家族に買うといって50元(800円ほど)払い、ぼくは何も買わないで店を出た。
 「じゃ、ぼくはこれから女の子と遊びに行くけど、近藤さんはどうする?」
 男が言うので、じゃあ、ぼくはもう帰るよと言った。すると彼は名残惜しそうに誘ってくる。
「ビール一杯だけでもどう?一杯飲んで帰っても大丈夫だから。そのあとぼくは女の子と遊ぶから」

  このとき、会話では女の子と遊ぶ場所として「KTV」という言葉を使っている。ぼくの認識では、KTVとは、キャバクラや風俗店の意味がありつつも、普通のカラオケという意味でも使われているものと思っていた。上海に住んでいた当時、日本人の友達と何度かカラオケに行ったことがあったけれど、そのときも「KTVに行こう」と言っていたと記憶している。境界がよくわからずにいた。
 だからこのとき、男にKTVと言われても、ビールだけ飲んで話したりできる部屋があり、そこでまず飲んでから、彼だけ女の子と奥に行くのだろうぐらいに思っていた。

 ビール一杯だけ飲んで帰ろう。本当に何の疑問もなくそう思って、ぼくは男についていった。そして暗がりの中にあった、男が「ここだ、ここだ」という店に彼と二人で入っていった。

  カラオケのある大きな部屋に案内されると、数秒遅れてミニスカートの女性2人と普通の店員っぽい女性が入ってきた。おいおい、いきなりそういう展開か、とソファに腰を掛けつつ思っていると、ミニスカートの女性2人はそれぞれぼくと男の横に座り、店員女が説明を始めた。 

「30分150元、1時間300元、うちは明朗会計の店だから、安心して遊んで行ってくださいね」

  ビールを頼むとハイネケンの缶が2本出てきて、早速30分150元(約2500円)を払わざるを得ない展開になった。
「ああ、ビールだけとちがったのか......」
 と思ったが、仕方がない。

  一方、男は1時間だからと300元を支払った。そして男は、話す間もなく隣で女性に触り始め、2分もしないうちに、「じゃあ、ぼくは別の部屋に行くから」と女性の身体をまさぐりながら消えてしまった。

 随分話がちがうじゃないかとぼくは思った。でも、彼はやりたくてしょうがない感じだったので、まあ納得した。ただ、ぼくも女の子と二人になってしまい、彼女もなんだか積極的な雰囲気なので、そういう店なら、もうぼくは帰ることにした。

  女性は、髪が長く、顔立ちのはっきりとしたちょっとベトナム人っぽい子だった。仕事熱心なのか、積極的に誘ってくるので、「いや、ほんとにそういうのはなしで。ビールだけ飲んですぐに帰るから」というも、「ええ、なんで~。いいじゃない、誰も入ってこないから、あなたの好きにしていいのよ」と食い下がる。

 「いや、ほんとにそういうんじゃないから」
「いや、でも・・・」

 そんなやり取りが何度か続いた。彼女はなんとかぼくを説得しようと必死だった。最初に来た店員ふうの女性を連れてきて、「とりあえずblow jobだけでも」と言わせたり、私が気に入らないんだったら、ほかの女の子を選んでもらってもいいのよ、と別の3人を並ばせたり・・・。
 いくら、「そういうのはいいんだって」といってもわかってもらえず、ぼくはだんだんと面倒になった。そして帰ろうとすると、彼女は言った。
「わかった、わかった、話すだけでいいから」
 さっさと帰りたいと思ったものの、30分まであと10分ぐらいになっていたため、時間まで話してすぐ帰ろうと、とりあえず話し出した。
 しかし、ただ話すだけだったはずの彼女は、暗がりの中、気づくと自ら脱ごうとしている。その執拗さにいよいよ呆れ、ぼくはバックパックを持って勢いよく立ちあがった。中国語に英語を交え、「いいっていってんだろ!話すのがいやなら、もう帰るから!」といって、足早に外に出ようとした。

  が、そのときのことである――。
 部屋を出ようとしたのとほとんど同じタイミングで、外からゴツいおばちゃんが体を揺らしながら入ってきた。パパイヤ鈴木と大仁田厚を混ぜ合わせた感じの、タフそうで、見るからにめんどくさそうな中年女だった。「私は厄介です」と、顔に書いてあるようなそんな女だ。
 うわ、こいつはやばそうだ・・・と思っていると、パパイヤ女が言った。
「おい、おまえ!帰るなら、わかった。帰っていいから、その前に金を払っていけ!」「金?さっき150元払ったじゃないか!まだ30分もたってないぞ!あ、ビール代は払うよ、いくらだよ」
 というと、彼女は言う。

「さっきの150元は、あの女のチップだ。うちとは関係ないよ。ビール2本で70元、あとはこのVIPルームが400元、あの女の子のギャラが300元、それに○○が300元、全部で1070元。金を置いて出ていけ!」 

 その言葉を聞き、ぼくははっとした。そして、ドアの中央の窓越しに部屋の外を見ると、ドアの前にはゴツイ男がこっちをにらみながら立っている。

 このとき初めて気がついた。おれははめられていたんだと。愕然として、全身から力が抜けた。思わず前に倒れそうになる身体を、ぼくはひざに手を当てて必死に支えた。

 くそ、いったい、どうすりゃいいんだ……。

その2に続く)

ノンフィクション『吃音(仮)』、2019年1月に刊行予定となりました

2013年に取材を始め、2014年より『新潮45』で不定期連載をしてきた吃音に関するノンフィクションの書籍版『吃音(仮)』の原稿がかたまり、ようやく、ようやく、入稿段階(本の形にする段階→ここから仕上げの修正作業に入ります)まで来ました。

昨年夏に連載を終えてから書籍化作業に着手してからすでに1年以上。予想以上に長い時間がかかりましたが、担当編集者の多大な力添えを得ながら、構成から細部まで大幅に書き直し、新たな取材も多く加えて、現状の自分の全てを出し切ったと思える一作になりました。

今年の春、よし、これで完成!と思った段階で、編集者から厳しくとても熱のこもった指摘を受け、そのときは、いったいどうすればいいのだろうかと途方に暮れてしまいましたが、それを機に改めて全体を見直し、4カ月ほどかけて全体を練り直した結果、本当に見違えるように変化しました。厳しい言葉をかけてもらえて本当にありがたかったです。そして、なんとか自分自身納得いく形にまでもっていくことができました。

吃音は、高校時代から現在に至るまで、自分自身の生き方に最も大きな影響を与えてきた要素と言えるかもしれません。吃音に悩まされ、就職するという選択肢を消し、自分なりにどう生きていこうかと模索する日々を経てなかったら、きっと長旅にも出ていなかったし、文章も書いていなかったかもしれないと思います。

また、いまから15,6年前の2002~03年、日本を出る直前に、ライターとして初めて自分でテーマを決めて取材して書いたルポルタージュも、吃音に関するものでした。まだライターとしての経験が皆無に近い自分が、自分にしか書けないと思えて、かつ、文章として世に問う意味の大きいテーマは何だろうと考えた結果、これしかないと思ったのです。

その時以来ずっと、いつか吃音をテーマに、本格的な、自分ならではのノンフィクションを書きたいと思い続けてきました。そして2013年にその機会を得て不定期の連載を始め、それから5年の月日をへてようやく、一冊の本としての完成が見えてきました。

吃音を取り巻く環境はこの5年の間に少なからず変わりました。当事者の活動も活発になったし、メディアなどで話題になる機会も増えました。それでも、実際に吃音で苦しむ人の状況は決して大きくは変わっていません。そんな中で、何か新たな一石を投じられる一作にしたいという思いで書き上げました。

これからまだ細かな確認・修正作業、また、本として仕上げていく作業が続きます。2019年1月刊行予定です。

ライターとして仕事をするようになってから15年がたつ自分の、現時点での集大成という気がしています。

是非是非、多くの方に読んでいただきたいです。

また、この5年間にわたってとても多くの方に取材に協力していただきました。本当に感謝の念に堪えません。


『新潮45』休刊に際して思うこと

最悪な形で、『新潮45』が休刊に。4日前にツイッターに

<炎上商法に走る雑誌は、苦しくなった紙の雑誌がまさに最後の断末魔の叫びを上げながら火の中に飛び込んでいき、盛大に燃え消えていく前段階のようにも見える。『新潮45』、思い入れのある媒体だけに、なんとかもう一度、志のある雑誌に戻ってほしいなと心より思う。>

と書いたけれど、前段階などではなく、想像以上の勢いと、雑誌として最も悲惨な形で早々に燃え消えていってしまった。

『新潮45』は、いま、最終局面を向かえている自分のノンフィクション作品の連載媒体(最後に掲載になったのは2017年8月号)であり、自分にとっては最も身近な雑誌の一つだったこともあり、最近の杉田水脈氏の論文から今号のあまりにもひどい記事、そして炎上騒動まで、非常に残念な気持ちで注視していたけれど、歴史の長いこの雑誌が休刊になるとまでは思ってはなく、致し方ないとはいえ、極めて悲しいです。

自分が書かせてもらい始めた5,6年前は全然こんな雑誌ではなかったと思う。ぼくが個人的に知ってる『新潮45』の編集者は、優秀で常識的な方たちばかりの印象で、本当になぜこんな風に凋落していったのかがわからない。しかし一方で、最近の2号だけではなく、どのくらいだろう、今年に入ってからぐらいかな、毎回、特集のタイトルがあまりにネトウヨ的でひどくて、なんでこんな雑誌になってしまったんだろうと、ページを開く気もしないまま、ポンと置いてしまってそのままになることが多かった。

と考えると、この状況に至るのも振り返れば必然だったのかもという気もする。しかし一方、その変化も含めて、単に編集部がどうこうというより、紙の雑誌が売れなくなった時代の、一つの残念すぎる末路という感じがする。売れない→しかしなんとか部数を伸ばさないといけない→どうするか→内容のおかしさには目をつぶって炎上商法に走ってなんとか部数を確保しようとしてしまう。

ぼくが連載させてもらっていた新潮社のもう一つの雑誌『考える人』も、昨年、こちらは自分の連載中に休刊になった。状況は『新潮45』とは全然違って、最後まで内容的には信念を貫いて作られたとてもいいものだったと思うけれど、売上的には苦戦していたのだろう、経営判断として、休刊となった(結果、編集長も、自分の担当編集者も新潮社を去った)。

形は違えど、どちらもいまの時代の紙の雑誌の難しさを反映した出来事なんだろうと思う。

時代の流れだと思うと、今回の『新潮45』のような最悪な終わり方をする雑誌が今後も出てるかもしれない気もする。しかしそれは絶対に避けてほしい。紙の雑誌の役割は、一部を除いてかなり微妙になってきているのは読み手としても書き手としても思うけれど(その一方で、本は全然そんなことない)、今回のひどい展開を教訓に、どの雑誌も、なんとかここまでは落ちないでほしいなと願いたい。

実際自分も雑誌を買うことはかなり減ったし、紙媒体を作り上げるものすごい手間や作業量、その割に全然売れない実情を考えると、紙の雑誌が姿を消していくのは避けられないとも思う。しかし、強調しておきたいのは、紙の媒体というのは、ネット媒体に比べて総じて、本当に幾重にも人の手や目での確認や修正を経て、出来上がっている。しかも、紙という有限の空間にいかに収めるかということで、ネットでは考えられないような細かな手間暇が込められ、文章が練られて、出来上がっている。それゆえに、紙ならではの文章というのが確実にあると思うし、売れないなら、じゃあ、全部ネットでいいじゃんとは全然ぼくは思わない。なんとか紙媒体、紙の雑誌が、生き残っていってほしいと心から思う。紙媒体があるかないかで、今後、私たちが書く文章のあり方が変わってくる気がしている。

ただ、手間暇がかけられているゆえに、逆に、今回の『新潮45』のような唖然とする記事を掲載することの重みも大きいと思うし、だからこそ今回については、休刊やむなしとも言えるのかもしれない。

新潮社は、一緒に仕事をさせてもらっている編集者を見ても、また同社の本や歴史を見ても、本当に日本にとって大切な出版社だと思うし、自分もこれからも仕事をさせてもらいたいと思う出版社。なんとか、今回の件を乗り越えてまた信頼を取り戻し、復活してほしい。

自分も、上記のように『新潮45』で連載させてもらい、近々完成する予定のノンフィクション本を、納得いくものにして世に送り出したい。

引き続き全力でがんばります。

あまりにもシステムが整い過ぎたこの時代に、「旅と生き方」の講義をして、学生たちの感想・レポートを読んで思ったこと

「旅と生き方」をテーマにした大学講義のレポートの採点を終え、先日成績を提出しました。履修者が299人いて、レポートが270人分ぐらい。読むのがかなり大変だったけれど(おそらく新書3,4冊分)、7年目の今年は、講義をしていても、レポートを読んでも、おそらくこれまでで一番、学生たちがいろいろと感じてくれ、何か行動を起こそうとするきっかけになったらしいことが感じられました。

旅が人生においてどのような意味を持つか、というのが講義の主テーマで、いろんな人の生き方や表現物、また、自分自身の経験を元に話していくという講義です。

毎回小テーマを1つ決め、関連するドキュメンタリー映画などの映像作品を20分ほど見てもらい、あとは講義するという形をとっています。

たとえば「人はなぜ旅をするのか」というテーマでは、一人の若者が全てを捨てて旅に出る「イントゥ・ザ・ワイルド」、「異文化」がテーマの回は捕鯨に関する問題作「ザ・コーヴ」、「冒険」の回では迫真の登山映画「運命を分けたザイル」、旅の空気感そのものを知ってもらいたい回では「深夜特急」、「国とは何か」を考える回では、東ティモールで起きた虐殺事件に絡んだニュースドキュメンタリー映像やインドネシアの"英雄"たちをかつてない方法で描いた「アクト・オブ・キリング」の一部を観てもらい、そこから話を広げていく、という具合です。

その全体の縦糸となるのは、自分自身の26歳~32歳までの長旅の話です。15回で、5年半の旅が少しずつ進んでいき、毎回、その時々で自分が直面した問題、出会った人、その土地のこと、悩んでいたこと、などの話をとっかかりとして、それに関連するテーマを一つ絞って上のように紹介します。

とりあげるテーマのおそらく半分くらいは、たとえば「働くとはどういうことか」「コンプレックス」「異国で暮らすこと」「メディアの問題」「表現すること」「時間が有限であることの意味」など、必ずしも旅とは関係ありません。ただそれらはいずれも自分にとっては、旅を通じて感じ考え、いまの自分の深い部分を形成しているテーマです。そしてそれらは、結果としていずれも、いまの学生たちがそれぞれ、現在の悩みや気持ちと重ねて考えられる事柄が多いようで、旅が自分に与えてくれた課題のようなものは、ある意味、若い世代にとって普遍的なテーマであるんだろうなあとも感じます。

毎回の講義ごとに出欠を兼ねてみなに感想を書いてもらい、次回の講義の冒頭でその中のいくつかを紹介するのですが、みなの感想を読んでいると、「自分はいったい何しに大学に来ているのだろう」とか、「なんとなく大学、就活という流れに乗っているけれど、これからどうやって生きていったらいいのかわからない」などと、現状に悩む学生がとても多いことを感じます。

きっと本当は、それぞれ何かもっと時間やエネルギーを費やして考えたり、行動したいと思う対象があったり、または自分はどう生きたいかということにじっくりと向き合いたいのにもかかわらず、今の世は、あまりにも、やれ就活だインターンだ資格だ、そのためにはいまこれをやりなさい、説明会をやります、いまから手をうっておかないと人生やばいです、生き残れません、そんなことで将来大丈夫ですか、みたいな外からの声や圧力が大きすぎて、それらを振り切って自分の好きな道に進むというのが、ぼくが大学生だった20年前に比べて圧倒的に難しくなっているように感じます。

社会や時代の要請ありきではなく、自分がどう生きたいかをそれぞれが考え、それぞれに合った道を思い切って進めるのが理想だとぼくは考えていますが、いまの日本はあまりにもシステムが出来上がりすぎていて、そのシステムの中でいかに高いパフォーマンスを発揮できるかという価値観が強すぎるとつくづく感じます。

ちなみにぼくらの学生時代は、就活なんて自分が動かなければ大学が何を言ってくるわけでもなかったし、そういう意味では、今と比べると、人生がとても本人にゆだねられていたような気がします。昔の方がよかった、とかそういうことでは全くありませんが、ただ、そういう時代だったからこそ、決してそんなに大胆ではない自分でも、就活しないでライター修行を兼ねた長旅に出る、などという、いまから思うと突飛な進路に進もうと思えたのかもしれないようにも感じます(吃音で就職したくない、というきっかけが大きな後押しになったわけですが)。

つまり、振り返ると、当時は、生きたいように生きることが、意識の上ではいまよりも簡単だったように思います。いまは、技術的には可能なことが圧倒的に多いから、自分はこう生きるんだ、という明確な意志がある人にとってはおそらく可能性は、以前に比べて格段に大きく広がっている。でも、ちょっと立ち止まって考えたい人、どうしようかと悩んでいる人にとっては、辛い時代になっているような気がします。生きていく道は実は他に無数にあるのに、そのことを考える隙や時間を与えてもらえず、ものすごい勢いの流れの中で、なんとか溺れないようにその流れについていくのにみな必死、という印象を受けるのです。

そうした流れに乗っていくのが当然で、人生とはそういうものだと知らず知らずに考えるようになっている学生たちにとっては、旅に出る、または全然違う道を歩いていく、ということは、あまりにも無謀で破天荒で、ちょっとそんなことはありえない、、と感じるらしいことをかれらの感想を読むほどに感じます。

でも、講義を進めていくうちに、だんだんと、「いや、まてよ、生き方ってそんなに画一的なものではないらしい、もっと自分がやりたいことをやっていいんじゃないか?」と思うようになってくれた人が少なからずいてくれたようでした。一歩外に踏み出せば、こんなにも別世界が広がっていて、こんなに違った生き方をしている人たちがたくさんいる。そして自分自身もまた、いま当然と思っている以外の生き方が、じつはいくらでもできる可能性があるんだ、と。もちろん、自分で選んだ道を進むのには、当然厳しさもついてくるけれど、それでも、より自分の気持ちに率直に動いてみたい、動いてみます、と、おそらく本音で書いてくれている人が多くいました。

ネットによって、コミュニケーションに関しては物理的な距離はほとんどなくなったものの、それに反比例するように、現実の中での異国や未知の世界への距離はどんどん大きくなっているのかもしれません。

そしてそんな時代だからこそ、未知の中に身を置くことが本質にある「旅」というテーマが、逆に深く響くのかもしれません。

今年は、講義を受けた結果、留学や旅行に行くことを決めました、とレポートのあとの感想に書いてくれた人が多くいました。直接、留学などに関して相談に来てくれた学生も複数名いて、そうしたことに、講義をした意味を感じて、嬉しかったです。

旅に出ることであったり、自分の好きな道に進むことだったり、自分の気持ちに従って一歩踏み出しますと、書いてくれてた皆さん、心から応援しています。気をつけて、かつ思い切って、よく考え、でも考えすぎずに、未知の世界へ一歩を踏み出してみてください。きっとそこから世界は想像以上に膨らんでいくはずです。