9月に新刊共著『いたみを抱えた人の話を聞く』(創元社)が発売になります。

9月に、共著の本が発売になります。創元社から『いたみを抱えた人の話を聞く』というタイトルで、共著者は緩和ケア医の岸本寛史さん(静岡県立総合病院 緩和医療課部長)です。

岸本先生はがんを専門とする医師であるとともに臨床心理を学び、多くの患者さんの話を聞き、見送ってこられた方です。本当に素晴らしい先生で、お会いするたびにその思いを強め、考え方や生きる姿勢に共感を覚えました。この本は、そんな岸本先生が、タイトルのテーマについて語る言葉を、自分が聞き手となり、綴ったものです。

一方この本においては、自分の聞き手としての役割は、いつも以上に大きなものになったような気がします。
というのは岸本先生は、<聞き手の役割は、ただ聞いているだけではない。語り手が語る言葉というのは、聞き手の存在によって、その相互作用によって生まれる>という考えを強く持ち、それを実践されてきた方だからです。

それゆえに、「どう聞くか」ということがテーマのこの本において、どう聞くかということは、この本の聞き手である自分自身に強く問われたことでもありました。

岸本先生はあらかじめその点を私に意識させてくださるご提案をされ、自分もそのことをよく意識した上で、岸本先生との複数回の対話に臨み、それを文章にしていきました。

その結果、自分もこの本の対話の作り手として少なからぬ意味を持ったように感じています。そして自分自身、岸本先生との対話を通じて、心を動かされ、大きく学ばされ、また、ある大切な気づきを得ることになりました。

岸本先生と編集者と自分自身の思いがしっかりと詰まった本になりました。必要とされる人にはきっと、読んでよかったと思える本になっているのではないかと思っています。

ブックデザインは納谷衣美さん。何度も本文を読んでくださって、自分たちが本文に込めた思いや言葉を本当に美しく本の形にしてくださいました。自分も手に取るのがとても楽しみです。

発売まで1カ月半ほどありますが、店頭に並びましたら是非手に取っていただけたら嬉しいです。

大学の講義中に何度か怒ってしまったことについて

今年は大学の講義で学生を注意する回数が増えている。
あまり学生に怒ると、うるさいおじさんだなと思われそうだし、かつ授業の雰囲気も悪くなる。また自分自身、できるだけ怒りたくない、という気持ちも強いので、なかなか悩ましい。しかし今年は、スルーしてはまずいだろう、という感じのことがたびたびあった。


授業中、自分が近くを通っても、全く気付く様子もなくスマホでゲームをしていたり、映画を見ていたり、みたいな学生が今年は特に多い気がした。
それで一度全体に注意した。

授業中、聞いていたけど眠くなって寝てしまったり、途中で集中力が切れてちょっと他のことをしてしまう、ということは誰でもあるし、それは問題ない。というか、そういうときは、自分の授業内容に魅力がなかったのだと思うし、それはこっちが反省しないといけない部分も大きいと思っている。そう伝えた。

しかし、最初から全く聞く気なく突っ伏して寝ていたり、バッグを机に載せたままずっとスマホでゲームをしているとかはさすがに認められない。そういう学生が今年は特に多いように感じた。さらに、自分が真横を通っても全く動じずにゲームをやり続けていたりする。それはメンタルが強いとかそういうことではなく、さすがに問題だと思う。ゲームなどをするにしても、せめてこちらにばれないようにうまくやる、というか、うまくやろうとする意志くらいは見せることが必要なのではないかと話した。隠そうとしてくれたら、基本的には見て見ぬふりをするから、とも言った。

授業だから聞きなさい、ということではない。真剣に話している相手に対して、それが最低限のリスペクトなのではないかと思う。話している側を完全に無視するような態度は、人と人の関係性として決してよくない。自分がそれをスルーしたら、学生は、それでもいいんだと思ってしまうのではないだろうか。金払ってるのはこっちなんだから、授業を聴こうが聴くまいがこっちの自由だろう、と思っているのかもしれないとも感じた。

決してそうではないはずだ。

授業に出るか出ないかは、学生の自由だと思う。出なくて学ぶべきことが学べない、単位がもらえない。それは残念なことではあるし、出てほしいとは思うけれど、でもそれはその人の選択だと思う。しかしもし授業に来るからには、この時間と空間をともに共有するからには、最低限、授業する人間へのリスペクトは必要だと思う。そして授業をする自分自身も、授業を受ける側へのリスペクトを持っていないといけないということもいつも思っている。

昨日は、イヤホンをして、完全に別な方向を向いて机の下かイスの上で何か作業をしている学生がいたので出て行ってもらった。その前は、10分くらい化粧し続けてる学生がいて、その場では、一人さらす感じにしてしまうのもどうかという気持ちが湧いて、やめてくれることを期待して注意しないままになってしまったけれど、翌週、全体に向かってそのことについて自分が思うことを話した。

こちらを完全に無視するような態度は受け入れられないし、受け入れるべきではないと思うからだ。

いま、学校で怒るということのハードルがものすごく上がっている気がする。学生は何をしても怒られたことがなくて、もしかすると、授業中に教員を無視して全く別のことをすることについて全然悪いと思ってないのかもしれない、とも感じた。

7,8年前に、授業開始とともにいつも突っ伏して寝る子がいて、それを繰り返されたために、さすがに何度目かに我慢ならなくなって出て行ってもらったことがある。するとその翌週から彼は人が変わったように真剣に聞いてくれるようになった。ただあとから、彼は学費を工面するために夜中までいつもバイトをしていて、どうしても授業中に寝てしまうのだ、ということを他の教員から聞いて、そうだったのか、と複雑な気持ちになった。

それから3年後くらいか、彼が卒業するときになって、わざわざ僕のところに謝りに来てくれた。「あの時はすみませんでした。そのまま謝ることができてませんでしたが、卒業する前には一度ちゃんと謝らないといけないと思っていて」と。真摯な気持ちが伝わってきた。

あの時、言ってよかったんだなと思った。それからは、怒ったり、注意したりすることは、やはり必要な時にはするべきなんだと思うようになった。もちろん理不尽な怒り方は言語道断だし、怒るからには、もし向こうに言い分があるのであれば、こちらはそれを聞かなければいけない。そのことも昨日は最後に伝えた。

読売夕刊「ひらづみ!」23年7月3日掲載『「戦前」の正体』(辻田真佐憲著、講談社現代新書)

今日3日の読売夕刊「ひらづみ!」欄に、この本、辻田真佐憲さんの『「戦前」の正体』の書評を書きました。明治維新後、近代化を進める理屈づけのために都合よく神話が使用・解釈され、その結果、日本全体が絡め取られていく過程に驚かされました。すでにかなり読まれている本ですが、ますます広く読まれてほしいと思いました。

本書を読んだ流れで、未読だった半藤一利『日本のいちばん長い日』をいま読んでいるのですが(こちらも超面白い)、神武天皇の物語がこのように45年8月15日へとつながるのかと思うと、実に考えさせられます。

『なんでそう着るの? 問い直しファッション考』(江弘毅著、亜紀書房)を読んだ

江弘毅さんの新刊『なんでそう着るの? 問い直しファッション考』(亜紀書房)。

読み出した時に書いたツイートが↓。

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「はじめに」の一行目から一気に江さんの世界に引きずり込まれ、テンションが上がる!厄介なおじさんにバーで捕まり、延々語られながら、しかしもっと聴かせてほしい!と思わせる文章には本当憧れる。続きが楽しみ。
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そして少し間が空いたけれど、昨夜読了。最初の印象のまま最後まで。

仕事の本を読む合間に、一話ずつ読んでいったけれど、だんだんと江さんの文体に中毒になり、進みが早くなっていった。めちゃくちゃ笑い、唸り、思い出し、考えた。

最初の方では、著者のファッションについての各種の論に対して、「うわ、この人の前では何を着ていったらいいんだろう」と思ったりする人もいるかもだけれど(若干自分も思ってしまった)、時折、文末に()で囲まれた一言を読んでいくと、江さん”B面”とも言おうか、自分でツッコミを入れるお茶目な姿が見えまくり、全然そんな心配はないことがわかっていく。(リアルな江さんを知る自分にとっては、()内の方が”A面”感がある)。ポロシャツの辺りだったか、いくつかの章ではめちゃくちゃ笑った。

著者は、表層や情報だけで服を見る人には厳しいが、自分の感覚を大切にして、悩みつつ服を着る人にはすこぶる優しく愛がある。その姿勢にしびれる。

この本の主旨を自分なりにまとめると、次のようになった。
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ダサいかダサくないか、カッコいいか悪いかは、着ているもの自体の問題ではなく、その人自身の服やカッコよさへの向き合い方である。

社会に承認された権威や巷の情報を頼って、安全そうな逃げ場の中にあるカッコよさのようなものを求める人間は猛烈にダサい。一方、何を着るか自ら悩み、権威や情報に頼らずに自分の感覚や好き嫌いで服を選び、カッコよさに常に伴う不確実性に身をゆだねる人間はカッコいい。そして、後者の道を歩み続けることによって自分の感性を育てあげていくことでしか、人はカッコよくはなれない。

ただ同時に、社会を無視して自分の好き嫌いだけを貫くのは違う。何を着るかを考えるうえで、場や環境を意識することも重要である。

その間、つまり、自分と社会との間で、自分は何を着るか、というところが服の面白さである。
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改めてしびれる。

読みながら思い出したのが自分自身の高校時代。

部活のない日は学校の帰りに下北、渋谷、原宿によって古着屋を回るのが何よりも楽しかった。ヴィンテージのジーンズやミリタリー系が好きで、あとはスウェットやTシャツ、ブーツ、スニーカーなども自然にディテールをあれこれ知るようになっていった。うわ、これかっけー、これすげー、などと言って、渋谷から原宿まで歩いたりして、しかし金がないので買えるのはわずかだが、というのが趣味のようになっていた。

ヴィンテージのジーンズは価格的に全く手が出ず、結局、軍モノのチノパン(これは結構価格的に買いやすかった)をはいてることが多かったなあとか、また、いまふと思い出したのはジージャンのこと。リーの101Jのだいぶコンディションが悪いのをなんとか出せる金額のものを見つけて買って大事に着て(破れまくって血痕もついていた)、あとはどう手に入れたのか覚えてないがマーベリックのを着ていた記憶が蘇る(しかしサイズが小さかった)。

あと思い出深いのはやはりMA-1。初期型、中期型とかをよく見て回ってやたらと知識がついてしまい、ほしくなるのは全部何十万とかして、ただ眺めることしかできない。そんな中、高2のときかなあ、いよいよ本物のMA-1、それなりの物を買おうと思って、バイト代を貯めに貯め、予算8万くらいで探し回った。裏地がオレンジ色になった70年代くらいのしか手が届かなかったけれど、たしか高円寺のヌードトランプで見つけたのが汚れ具合などがすごくカッコよくて、8万くらいで、少しサイズが大きかったけど、腰の辺りもちょっと伸びてたんだけど、これくらいは仕方ない、「一生着る!」と自分で自分を納得させて購入。

しかし、買ってみたら、やはりだんだんと、サイズが大きいのが気になってくる。買った時に思っていた以上にデカい。腰回りがカパカパして「これ、デカすぎだろ?」という感じがしてきて、これが似合うように太ろうか、とも考えたような考えてないような(たぶん20キロは太らないとジャストフィットしない感じ)。結局、そんなこんなで、「一生着る」はずが、大学に入って以降は、どうも着た覚えがない(笑)。いまはいったいどこにあるのか。

また、この後、レプリカか本物か微妙な感じのL2-Bを手に入れた(今度は懲りてジャストフィットのもの)。MA-1っぽいけど、違うやつ。何が違うのかは忘れてしまった。見た目は本物感あったけれど、本物にしては安すぎて、でもなんとか納得して着ていた。胸にかつての所有者のものらしき名前が刺繍されていて、その名前が「PAI.O」だった。これが本物感を出していたのだけれど、友人らにいつしか「これ、パイ・オツ?」と言われ出し、そのL2-B自体が「パイオツ」と命名されてネタにされるうちに、なんだか嫌になってきてこれも着なくなってしまった(笑)。これもどこにあるのやら。ああ。

……江さんの本を読みながら、30年前のそんな記憶が次々に蘇った。あのころは雑誌からかなり情報を仕入れつつ、でもやはり、自分の足で見て回り、金を使って失敗し、自分なりの好き嫌いを構築していったという感覚がある(というか、ネットないし、店に行かないと服なんて見られない)。そして、いまもその感覚が生きている。

読んでる途中に、服がほしくなり、アウトレットに行った時に、バナナ・リパブリックでコートと、アダム・エ・ロぺでTシャツを買った。テンション上がった。また、久々にポロシャツも欲しくなってる(自分はラコステではなく、ラルフローレンが多かったけれど)。

久々に、服を買うことが本当に幸せだったころの感覚を思い出した。
そしてなんとなく文体が江さんの影響を受けた(笑)。あのような文章は自分には決して書けないけれど。