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YUKI KONDO WRITER

近藤雄生・こんどうゆうき ライター
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『中国でお尻を手術。 遊牧夫婦、アジアを行く』 3 日本人旅行者の死から見えた“日本”

July 17, 2026

<2 元旅人の西洋人僧侶、プラ・ノア>

3 日本人旅行者の死から見えた“日本” 

 タイは四つの国と国境を接している。南はマレーシア、南東はカンボジア、北東はラオス。北西から西にかけてはビルマ(ミャンマー、当時の自分たちの呼称に合わせて以下ビルマに統一する)だ。

 ワット・プラタート・ドイ・ステープでの瞑想の日々が終わり、チェンマイで数日飲み食いに励むと、さらに北西に移動した。そして、タイのほぼ北端のメーサイから、メーサロン、メーホーンソン、メーソットという具合に、ビルマとの国境そばを北から反時計回りに動いていった。

 この国境近傍は、実に興味の尽きない一帯だった。

 チェンマイからまず、国境の町メーサイを訪れ(ここからビルマに入国できる。ぼくらはこのとき、タイの滞在資格を延ばすため、半日だけビルマに入った。一度国境を越えると、さらに一ヵ月ビザなしでタイにいられるようになる)、それからぼくらはメーサロンという中国人の村に向かった。なぜこんなタイの山奥に中国人の村があるのかといえば、これは「残党村」なのだ。すなわち、毛沢東率いる共産党軍との戦いに敗れた国民党の軍隊の一部が逃げ延びて作り上げた村なのである。

中国人の村メーサロン。尾根に沿って線上に村が続く。

 中国では第二次大戦の前後をまたいで国民党と共産党の内戦、いわゆる「国共内戦」が続いていた。その戦いは、一九四九年、共産党が勝利し、毛沢東をトップに据えた中華人民共和国が建国されることで終結する。

 蒋介石率いる国民党の国民革命軍の大部分は、共産党に敗北したあと台湾へ逃れたが、中国南西部の雲南省にいたその一部は、より近くの東南アジアへと逃げ延びた。徒歩や馬で南下し、まずビルマへ渡り、それからタイ北部までやってきた。そうしてたどり着いたのがここ、メーサロンなのだ。

 彼らはこの地で訓練を続けながら、いつか再び中国へ攻め入り、国民党による「中華民国」を復活させる日を夢見ていた。その間の生活の糧は、アヘンの栽培によって得た。この地域は、「ゴールデントライアングル」と呼ばれる世界の一大麻薬地帯なのである。また、この地にとどまるために、当時タイで勢力を強めていたタイ共産党の軍とも戦うことを余儀なくされた。

 そのように生き延びる方法を模索しながらなんとかこの地を拠点として、台湾からの指令を待った。しかしその指令が来ることはついになかった。

国民党軍の退役軍人クラブ(?)「栄民之家」。蒋介石、孫文の写真やその他旗などが方々に。中にいたのは、負傷した兵士やらその家族だとか。筆談でかろうじて会話。

 何十年もたつうちに、いつしか人々はこの地に根を張り出した。ここタイで国籍を取得してタイ人として暮らすために、武装解除に応じ、麻薬取引からも手を引いた。そしてメーサロンは、お茶を主な産業とした平和な中国人村となっていったのだ。

 村は、緑溢れる山奥の一本の尾根上に細長く延びていた。その尾根の上をなぞるメインストリートの左右には、漢字表記の看板とお茶屋さんが並んでいる。歩くと、東アジア系の顔立ちの人の姿が多数見え、中国語らしき言葉がほうぼうで聞こえてくる。

 「ニイハオ!」

 と挨拶すると、見た目的にもきっと同じ中国人だと思われたのだろう。お茶屋の店員のおばちゃんや女の子が、次々に中国語で話しかけてくる。だが、彼らが何を言っているのかほとんどわからない。ただ笑ってごまかし、「日本人です」と、正しい発音がわからないまま「リーベンレン」と繰り返した(日本人の意味。ただし、「リ」も「レ」もカタカナ表記と実際の発音はかなり異なる)。

 餃子屋があり、水餃子と焼き餃子を食べた。朝のマーケットであんまんとおこわを買った。どれもおいしかった。中国がそのまま、移転してきたような場所で、この地にいると、中国が本当に近いことが感じられた。

 中国人村メーサロンのあとは、南北に延びるビルマとの国境線に沿う形で南下していった。ここでぼくたちは、残留日本兵と呼ばれる人たちの存在を知った。それは、戦争が終わったあと、なんらかの理由で日本に帰らず現地にとどまることを決めた元兵士たちだ。みなそれぞれ終戦後に収容所を脱出するなどしてこの地に住み出したのだ。

 メーホーンソンでは、いまは亡き残留日本兵の家族に出会った。ちょっとした情報から彼らの存在を知り、探してみるとすぐに会えた。その家族が、元日本兵の本名すら知らないまま、長年一緒に過ごしてきたことを聞いて驚いた。彼の妻も、息子も、孫も、彼のことを「ラペ」というこの地でつけられた名前のみで知り、彼が過去に何をしていたか、戦争中はどうしていたかなどはまったく知らないようだったのだ。

 だがそれは逆にいえば、その元日本兵がきっとこの地で、それまでとはまったく違った新たな人生を送っていたということなのかもしれない。ぼくらはこの人物を元日本兵としてばかり見てしまうけれど、彼には、夫として、父として、祖父として、そして村の一人の男としての、長い人生がその後にあったのだ。そんな当たり前のことに改めて気づかされた。

亡き日本兵「ラぺ」さんの妻と孫

 その後さらに南に下ってメーソットに行くと、別の二人の元日本兵に会うことができた。二人ともすでに八十代半ばで、ともにとても穏やかな表情が印象に残った。そのうちの一人、中野弥一郎さんは、こう言った。

 「十五年前に、戦友の説得で一度だけ日本に帰ったことがあるんです。五十年ぶりの故郷新潟は、道路もライトもすべて変わっていて昔の面影はありませんでした。五人いた兄弟もすでに姉と弟と自分の三人だけになっていましてね。墓参りなどをして回って、二十日間だけでタイに戻ってきたんです。日本へ帰って暮らしていればよかったという気持ちもありましたよ。でも、いまはもう考えません。自分で決めて残ったのだから、最後まで残ります」

 出征前に母親からもらったお守りを、彼はまだ大切に持っていた。それが唯一、自分の身体とともに戦場から生き延びてきたものだという。半世紀分の色が染み込んだその小さな紙片には、中野さんの日本への思いのすべてが詰め込まれているような気がした。

中野弥一郎さん

 そしてさらにメーソットでは、ビルマの内戦からタイに逃れてきた難民の若者たちとも多くの時間を一緒に過ごすことができた。先の見えないなか必死に勉強し、自らの道を切り開こうとする彼らの姿に、自分ももっとがんばらないと、と思わされた。

 国境という境界線が人為的なものだからこそ、その周りにはさまざまなひずみが凝縮される。そのひずみの中に、中国も、日本も、姿を現した。国境の面白さはまさにそのひずみの強さにあるのだろうとぼくは感じた。

 毎日を夢中で過ごし、気が付くとこの国境付近で一ヵ月ほどがたっていた。

ソンテウ(乗合バス・タクシー)で移動中に

*

 国境地帯から久々にチェンマイに戻ると、少しのんびりしながら原稿を書くという時間を過ごした。このときは主に、メーソットで取材したビルマの難民の話を書いていた。

 原稿書きはいつも、ネットカフェに通って資料を調べながら進めていく。このころになると、ネットを使って国連機関やNGOの資料、新聞記事を読むことにもだいぶ慣れてきた。英語は、話せることはもちろん重要だが、それと同じくらい、大量の資料をちゃんと読めるかどうかが重要であることも実感するようになっていた。ネット上において出所がはっきりしていて信頼しうる資料が、英語だと、日本語に比べて比較にならないほどたくさん見つけられるからだ。それを読もうという気力を持てるかどうか、そして実際に読めるかどうかが、記事を書けるかどうかの分かれ道にもなった。

 一方、原稿の作成は、編集者とのやり取りがメールだけで行われるため、どうしてもスムーズに行かず時間がかかってしまう。このときは、締め切りが近かったこともあり、ある原稿が完全に仕上がるまでチェンマイを動くことができなかった。小さな町に移動してしまってから、「やばい、ネットができない!」という展開になるとまずいからだ。

 取材し、原稿を書くという経験が増えるにしたがって、だんだんとモトコが重要な役割を果たすようになっていった。

 ぼくが取材したいと思うことには彼女も大抵興味を持ち、多くの場合、取材に一緒について来てくれた。話を聞くときにメモを取ってくれたり、またぼくとは違ったモトコならではの質問をしてくれたりもした。また、女性に話を聞くときなどはよく、モトコと一緒でよかったなと思った。一人だったらおそらく「なによこのヒゲのデカイ男は?」と警戒されていただろう場面も、女性のモトコがいることですんなりと進むからだ。

 原稿を書いたときにも、いつも最初にモトコに読んでもらった。もっとも彼女以外に書いたものを見てくれる人はいなかったのだけれど、彼女は率直に意見を言ってくれるので、自分にとっては貴重な編集者的存在でもあった。

 「全然面白くないで。ちょっと書き直した方がええんちゃう?」

 などと彼女は平気で言ってくるのだ。まずはモトコに面白いと言ってもらえることが原稿を書く上での最初のハードルだった。

 とはいえモトコは、ぼくが取材を終えて、どこかの街でひたすら原稿に取り組む日々になると、いつも不満そうではあった。旅自体の行き先については、どちらかと言えば彼女の方が積極的に調べ考えていたので、行きたいところが複数あっても、ぼくの原稿完成を待たないといけなかったからだ。

 「早く仕上げやー。明後日には出られる? そしたらこの村に行こうさ」

 モトコは都会でダラダラというのは決してそんなに好きではないのだった。

 しかしこのときのチェンマイでは、モトコは新たな楽しみを見つけていた。ちょっと裏道に入った、涼しく閑静な通りに、カフェを兼ねた小さなアートスクールを発見し、そこにあった短期滞在者向けの数日間の写真のコースに通うことにしたのだ。

 ぼくもモトコも写真を撮るのは好きで、できれば本格的に習ってみたいとも思っていたので、彼女にとってチェンマイでそういう機会があるのは思いがけずうれしいことだった。

 ゆっくりと時間が流れるチェンマイの町をモトコは写真に収め、それを自分で現像、プリントした。その間ぼくはスクールの下のカフェで原稿を書いたり、近くのネット屋に原稿を送信しに行ったりした。そうして、チェンマイでの穏やかな毎日は過ぎていった。

 

 そんなある日のことだった。驚愕のニュースをネットで知った。一人の日本人旅行者がイラクで人質になった、というのだった。

 それを知ってすぐに、NHKが見られる食堂に行ってテレビのニュースを確認すると、香田証生さんという若者が黒い服を着たイスラム過激派の男たちに囲まれて座っている映像が映し出された。自分たちと同じ年くらいで、同じような旅をしていそうな彼が、カメラに向かって恐怖を押し殺すような様子でこう言った。

 「すみませんでした。また日本に戻りたいです」

 いままさに彼が、テレビに映し出されているこの状況にいると思うと、言葉を失った。どんな気持ちでカメラの前に座っているのか。想像を絶する彼の窮地に、ただただぼくは呆然とした。

 それから毎日、朝はネット屋で仕事を進めながら事件の展開を追った。昼にはNHKを見るためにいつも同じ食堂に通った。ちょうど新潟県中越地震の被災者の救出作業が進んでいたときで、それとともに香田さんのことが連日報道されていた。

 しかしテレビでもネットでも、どうも日本社会は香田さんにひどく冷淡に見えた。「まったくバカで迷惑な若者だ」という声ばかりが目についたのだ。救出をリードすべき町村外相(当時)が、「危険なことが十二分にわかっていながら、なぜ旅行したのか、誠に理解に苦しむ」と真っ先に批判を公言したというのも、あまりにも冷たく響き、憤りすら感じた。

 ニュースを知ってから三日後には遺体発見かと報じられた。その後、違ったことがわかりほっとしたが、その翌日には、今度は本当に香田さんの死が確認されたことを知った。最悪の形で事件は終結することになってしまった。

 その結末が現実になったとき、それが自分にとって思っていた以上に衝撃的な出来事であったことをぼくは実感した。香田さんが哀れでならなかった。何を思い、最後の数日を過ごしていたのか。どんな思いで最期を迎えたのか……。長期で旅をしてきた自分たちにとって決して他人事ではなかったのだ。

 確かに当時、旅行者としてイラクに行くことは無謀だと言われても仕方ないとは思ったが、その一方で、彼の気持ちは、自分も含め多くの個人旅行者たちにとってまったく理解できないものではないようにも思えた。

 一般に、危険だ危険だといわれているところも、実際にはもちろん普通に人が日々の営みを持っている。危険だらけの場所なんてないんだという印象は、実際に旅をしてみると感じることが多々あった。たとえば、東ティモールがそうだった。オーストラリアのダーウィンで、旅行代理店の人などに「何しに行くんだ?」と何度も言われ続け、国連軍が去ったあとには何かが起こるかもしれないという予想や噂をネットで何度も目にしたのに、実際に着いてみると、少なくとも、自分たちが見た限りにおいては平和そのものだったのだ。

 ニュースは基本的に平和な様子は伝えない。どんなひどい戦いがあった、どれだけの人が死んだ、そういうことばかりがニュースになる。しかし実際には、どんな大きな問題で苦しんでいる国にも町にも、やはり生きている人がいて、なんの変哲もない普通の生活がある。決して、ひっきりなしに戦いが続いていたりするわけではないのだ。

 香田さんは、イラクの前にイスラエルにいたということだったが、イスラエルで彼もそんなことを感じていたのかもしれない。オーストラリアのバンバリーでイスラエル人の旅行者に会ったとき、その旅行者がこう言っていたのを思い出す。

 「イスラエルはテロのことばかりがニュースになっていて、どこ行っても爆発ばかり起きているように思っているかもしれないけど、そんなことはない。危ないといわれている特定の場所に行かなければ普段は全く平和なところなんだ」

 もしかしたら香田さんもイスラエルで実際にそう感じて、「イラクがいくら危ないっていっても、実際はそれほどではないんじゃないか」と思ったのではないだろうか(当時のイラクの場合、外国人であることで人質の標的になりうるため、単純に現地が平穏かどうかの問題だけではなかったが)。

 そしてまた、危険を回避しようとしすぎると、旅の醍醐味は損なわれていく。人に対して警戒しすぎると、貴重な出会いを失ってしまう。

 危険かどうかの境界は極めてあいまいだ。また運にも左右される。旅を続ければ続けるほど、その境界がなんとなく感覚として見えてくるようになる。理屈ではなく、なんとなくこれ以上行ってしまってはまずいかもしれない、という一線の存在が感じられるようになる。そうして自然と危険の回避方法が身についていく。

 ただし同時に、危険への感度が鈍くなってもいくものだ。一般に危険といわれている場所でも、実際にはほとんどの場合は大丈夫だということを体験として知るようになるからだ。だが、何か起きるときには、やはり起きてしまうのだ。

 自分にもこのころそんな感覚が芽生え出していたため、ぼくは香田さんの決断が、まったく信じられないというふうには正直思えなかった。

 遺体が香田さんのものだとわかったあと、ネットで見た報道によれば、香田さんの両親は、次のようなメッセージを発表したという。

 「支えていただいた多くの方々に、大変なご心労をおかけしましたことを心からおわび申し上げますとともに、お礼と感謝の気持ちでいっぱいです。このようにはなりましたが、イラクの人たちに一日も早く平和が訪れますようお祈りいたしております」

 ぼくにはこれがどうしても、異国で息子を殺された親の言葉としては読めなかった。いや確かに香田さんの両親は、そう発表したのだろう。しかし、本当に言いたいことは他にあったように思えてならない。

 この年の四月に三人の日本人がイラクで人質になったとき、ぼくらはちょうどバンによるオーストラリア大陸縦断の旅が終わろうとしていたときで、最終目的地、ダーウィンのそばにいた。同時期にバンでの北上を続けていたオランダ人のレミーとクリステルにその話をして、日本では人質に対してバッシングが起こっているらしいということを話すと、ジャーナリストであるレミーは心底、驚き、怒っていた。ぼくが、日本では戦場に行くのは大抵がフリーのジャーナリストで、大手メディアは社員を危険な場所には派遣しないのが普通なんだよと一般的な状況を伝えると、彼はこう言った。

 「危険な戦場こそ、十分な訓練を受けた専門のジャーナリストがメディアの強力なバックアップのもとで、高い報酬をもらって派遣されるべきじゃないか。フリーの人たちが自らのリスクで戦場に行って、何かあったら大手メディアは一切責任を取らないなんてまったく考えられない。テレビで戦場の様子が見られるのは、そこに誰かが命を懸けて行っているからなんだ。その人がちゃんと守られてなくていったいどうやって報道が成立するんだよ」

 まったくその通りだと思った。一時期メディアに氾濫した「自己責任」という言葉は、無責任な日本社会を象徴する言葉のようにぼくには聞こえた。海外にも同じように響いていたのだろうと思う。

 旅行者としてイラクに行った香田さんの場合は、確かにジャーナリストなどの場合とは状況が違うが、それでも両親が、まず「おわび」や「感謝」を表明しなければならなかったのは、四月に人質となった先の三人が受けたバッシングと決して無関係ではなかったはずだ。

 もちろん、自分の選択でイラクへ入り人質となってしまったことは、誰のせいにすることもできない。おそらく香田さん自身もそれはわかっていただろうと思う。彼が「すみません」と謝りはしたものの、「助けて」とは言わなかったのには、そんな気持ちが見え隠れする。

 彼は確かに判断を誤った。そして彼自身もおそらくそれを自覚していた。

 しかしそれでも、絶体絶命の状態に陥ってしまった若い同胞に対して、日本人はもっと同情してもいいのではないかと思った。間違いを犯してしまった若者にどうしてもっと寛容になれないのかと思った。

 まず助けるための声を上げ、叱るなら帰ってきてから叱ればいいのではないか。「税金を使って助けるなんて」という声を聞くたびに、あまりの狭量さに信じられない思いがした。誰でも生きていれば誤りを犯すし、みな人に迷惑をかけながら生きているのだから……。

 事件はぼくの胸のなかにどっしりと沈み込んだ。いつまでも消えることのなさそうなドロリとしたその感触は、いまも、チェンマイのネットカフェでニュースを追っていたときの気持ちを鮮明に思い出させる。 

チェンマイ

In 『中国でお尻を手術。』, 『遊牧夫婦』続編公開
『中国でお尻を手術。 遊牧夫婦、アジアを行く』 2 元旅人の西洋人僧侶、プラ・ノア →

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