毎日新聞書評ページ「この3冊」に寄稿しました(4月7日掲載)

永遠に続くように思っていたことが有限であることを知り、人生の有限性と向き合うようになる時、人の青春は終わり、生きる姿勢が変わり、旅の仕方も変わるような気がしています。そんな思いをこめて選んだ本を今朝4月7日の毎日新聞読書面「この3冊」で紹介しました。『荒野へ』『檀』『最後の冒険家』の3冊。各書を手にとっていただくきっかけになれば嬉しいです。記事は南伸坊さんのイラスト付き。

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<以下、記事本文>

私は20代後半から30代にかけて、5年半にわたって異国を巡る長い旅をした。文章を書いて収入を得ながらずっと旅をし続けたい、というのが出発時の気持ちだった。しかし、5年がたち、さらに旅し続けることも可能だと実感した時に、「終わりがあるからこそ旅なのだ」と思うようになっていた。そして私は帰国した。

 旅に出たばかりの自分の気持ちを思い出させてくれるのが、①の『荒野へ』だ。大学卒業間もない主人公は物質的なものをすべて捨て、家族や友人からも離れ、一人アラスカを目指した。無情な結末が待っているが、本書は、人生の終結点を意識する必要のない若者が持ちうる、大きな行動力と情熱に満ちている。
 一方、私の旅の終盤や現在の私がより身近に感じる旅が描かれているのが、②の『檀』である。檀一雄の妻・ヨソ子の一人称で、作家の妻として生きる彼女の思いを沢木耕太郎が丹念に描いた本作は、決して旅の本ではない。しかし、愛人との生活を文章として発表する夫にただならぬ感情を抱きながらも、夫が異国で体調を崩しているらしいと知って彼の元へ向かうヨソ子の姿を描いた部分には、人生が遠くない将来終わることを知る人間ゆえの、旅に対する切実さのようなものがにじみ出ているように感じた。

 青春はいつ終わるのか。私は死を実感として意識するようになった時だと思っている。それ以前は、人生が終わることなど考えない。だからこそ、無限の未来を見据えた大胆な旅ができる。一方、死を意識すると人は、今この瞬間のかけがえのなさを知る。そうして様々な事象へ感動する気持ちを強めるようになるからこそできる旅がまたあるのだ。私も旅中、自分なりに死を意識するようになる経験をした。そのことで青春が終わり、旅への気持ちが変化した。

 ただし、誰もがそうであるわけではないのだろう。旅とは少し異なるが、③の『最後の冒険家』では、当時50代の熱気球冒険家・神田道夫は、著者の石川直樹とともに行った冒険で死の淵に触れる体験をする。にもかかわらず、その後、死など全く意識にないような驚くべき冒険を単独で敢行し、空のかなたに姿を消した。

 死をどう捉えるか。その違いによってきっと、旅の仕方も、旅の本の見え方も、変化する。

『月刊すこ~れ』連載 「子どものなぜへのある父親の私信」について

 昨年の夏ごろから『月刊すこ~れ』(公益社団法人 スコーレ家庭教育振興協会)にて、「子どものなぜへのある父親の私信」と題して、子どもの疑問に答えるという形の短いエッセイを毎月連載しています。子どもがふと疑問に思うだろう問いに真剣に向き合い、自分なりの回答を、思いを込めて、自らの言葉で提出していこうというものです。連載を始めるにあたっての言葉で、私は、以下のようなことを書きました(『月刊すこ~れ 」2018年8月号):

<いまの子どもや若者は……と、ため息交じりに語る声はいつも多く聞こえてきます。しかし、若い世代に何か問題があるとすれば、それは今ある社会や環境を作り上げた自分たち大人世代のあり方が問われるべきだと思っています。特に最近、社会をリードする立場にいる人間が平然とウソを言い、自らの行動にも責任を取らないことが常態化する中で、大人たち一人ひとりがしっかりと若い世代に向き合っていかなければ、何十年後の日本社会はとんでもない方向に進んでしまうのではと危惧しています。
 私たちがすべきことは何なのか。その一つは、真剣に子どもたちの思いに応え、その人なりの「理想」を語っていくことではないかと思います。子どもたちにとって、現実の複雑さや割り切れなさを知ることはもちろん重要なことですが、それはいずれ、おのずと現実が教えてくれるはずです。しかし、理想は脆く、時に容易に荒波のような現実に押し流されてしまいます。だからこそ、誰かが語らなければ伝わらない。しかも、本気で、熱を持って。>

 そんな思いを持ちながら、毎月、決まった答えのない2つの問いに向き合っています。毎月、誌面のみに掲載されていますが、さらに広く読んでもらえればと思い、過去のものをこちらのブログにも掲載することにしました。順次掲載していきます。

『遊牧夫婦こぼれ話』第13回「自分に全然自信がない?」(2015年6月「みんなのミシマガジン」掲載記事を再掲)

【『遊牧夫婦こぼれ話』は、ミシマ社のウェブマガジン「みんなのミシマガジン」にて、2014年6月~2017年7月まで毎月書かせてもらっていた連載です(全38回)。「遊牧夫婦」シリーズの中に収められなかったエピソードや出来事を振り返りつつ、しかしただ過去を振り返るだけでなく前を向いて、旅や生き方について、いまだからこそ感じられることを綴っていく、というコンセプトの連載でした。現状、ミシマガジンでは読むことができないので、ひとまず、当時面白がってもらえた回だけでもこちらに随時アップしていく予定です。】

第13回 自分に全然自信がない?
2015.06.04更新

 先日、26歳の男性から、相談に乗ってもらえないかと連絡をもらいました。
 ぼくの本を読んでくださった方で、いま、アルバイトをしながら就職活動をしているけれど、思うところあって就職以外の生き方を模索している、ぼくの紀行文やインタビューを読むかぎり、自分と重なるところが多くあるように感じ親近感が沸いて連絡した、とのことでした。

 数週間後、この方と会いました。
 話を聞くと、彼は大学院の修士課程修了後、一度会社に勤めたもののほどなくやめて、いま次の就職先を探している。しかし本当は就職する以外に具体的にやりたいことがあり、その道に進みたいと思っている。ただ、なかなか思い切って踏み出せない、また両親にも反対されている、という状況のようでした。
 もちろん状況は違うとはいえ、自分が2003年に旅に出たときも同じく、修士課程を終えたばかりの26歳で、また、確かに彼が言うように、考え方にも似たようなところが少なからずありました。話を聞きながらぼくは、どこか当時の自分を見るような気持ちになり、自分が日本を出たときのことを思い出しました。そしてふと、あのとき自分が、随分と大胆な決断をしたような気がしてきたのでした。

 大学院を修了し、周囲はみな、さあこれから社会に出るという中、就職せずに、貯めたお金で旅をしながら自分でライターの修業をする――。ライターとしての経験はほとんどなく、そんな生活が成り立つとは自分自身思えていなかったことを考えると、とても思い切った行動です。そもそもそんな豪快な性格でもない自分が、どうしてそんな決断を下し、実際に実行に移せたのか。いまさらながら不思議に思えたのです。

 なぜあのとき、自分はあまり迷うことなく旅に出ることができたのだろう。
 そのもっとも大きな理由が、吃音であったことは間違いありません。吃音のために会社勤めがうまくいかなそうだから就職しない道を模索し始め、そこに、文章を書きたい、旅をしたいという気持ちが合わさった結果、こういう選択に行きつきました。会社勤めができそうにない、という消極的な理由がとても大きく自分を後押しすることになったのです。
 しかし、それ以外にも何かあったのではないか。彼と話しながら、改めてその点を考え直す機会を得て、一つ、思い至ることがありました。
 彼はぼくにこう言いました。
「私は自分に全然自信が持てない人間なんです。いつも他者に対して猛烈な劣等感を持っています」
 それを聞いて、それが自分にも少なからず共通する点であると、ぼくはその方に伝えました。そして、まさにその性格こそが、自分が旅に出ることを決意し実行できたもう一つの理由なのではなかったかと、気がつきました。

 
 こんなことを告白するように書くのはなんだか気恥ずかしさがありますが、ぼくはかなり「自己肯定感」(というのでしょうか)が低い人間だと自分について感じています。
 劣等感というのとは少し違うのかもしれませんが、ぼくはいつも、ちょっとしたことで、自分は嫌われてしまったかもしれないと不安に思ったり、自分はつまらない人間だと思われているのではないか、相手を怒らせてしまったのではないか、と落ち着かない気持ちになっています。年齢とともに少し和らいだ気はするものの、学生時代からいまに至るまで基本的にそうした傾向は変わっていません。

 自分のそうした性格の原因を考えると、中学時代まで遡ります。小学校時代は特にそういうことを思わずに、どちらかといえば気楽でやんちゃにやっているほうでしたが、中学1年のとき、あることをきっかけに急激に学校内での人間関係が難しくなり、それからおそらく1年くらいの間、ぼくは周囲の人にひどくおびえながら過ごすことになりました。
 そのころの感覚や気持ちはいまもとても鮮明で、とにかく人間関係をこれ以上悪化させてはならないと、毎日、自分でも驚くぐらいビクビクしていました。関係がうまくいってない人に少しでもそっけなく見える反応をされたり、すれ違った先輩に一瞬でも睨まれたような気がすると、「やはり自分は嫌われている」「あの先輩は自分のことを怒っている、いつか殴られるのではないか」といったことを明けても暮れても考え続け、再度その人に会って自分の考えすぎであったことが何らかの形で確認できるまで、常に恐怖感を抱えながら過ごすという状況でした。

 中学3年になるころには、そうした関係も一応はすべて沈静化していったのですが、自分は嫌われているのではないか、馬鹿にされているのではないか、みなが自分のことを怒っているのではないか、という不安感はずっと拭い去れないままでした。
 その感覚は高校時代も根深く残りました。高校2年ごろに吃音が深刻になったのも、そのことが関係しているのではないかとぼく自身は感じていますが、いつしかそうした感覚は自分の性格そのものとなり、その後大学に入ると、今度は別の形で表面化することになりました。

 大学で仲良くなった友だちの多くは、本や音楽、映画や旅が好きな、ある種文化的な匂いのする人たちだったのですが、自分はそれまで、本を読んだり、映画を見たりということを全くしてこなかった人間で、物事を斜めに見たり、深く考察するということがあまりできないタイプでした。
 食べ物でいえば、カレーとハンバーガーが好きという感じの、シンプルでド直球な人間だったので(いや、決してカレーとハンバーガーを軽く見ているわけではありません。カレーもハンバーガーも、いまなお大好きです)、友人たちの話はとても新鮮で、ある種の羨望を持って聞いていました。

 そうした影響でようやく本などにも興味を持つようになり、徐々に世界が広がっていったのですが、同時に、友人たちの話を聞きながら常に、おれはなんて何も知らないんだろう、ああ、おれはつまらないやつだと思われているに違いない、という恥ずかしさのような感覚がいつもありました。きっと、自意識過剰でプライドが高かったのでしょう、表面的にはそんなそぶりを隠しつつ、いつしかそれが劣等感にもつながっていきました。

 ぼくが大学時代に旅をしたいと思うようになったきっかけの一つは、そうした友人たちの影響であり、さらに言えば、彼らに認めてもらいたいという気持ちがあったのは間違いありません。
 大学院修了後に長期的な旅に出る、そしてライターになる、という決断の拠り所の一つも、こうして独自なことをすれば周囲に認めてもらえるのではないかという気持ちだったのです。それは他の人を抜きんでたいという気持ちではなく、そうすることでようやく他の人に追いつける、やっと対等に扱ってもらえるのではないか、という、いま思うとあまりにも自己肯定感の低い意識ですが、確かにそういう感覚でした。

 ライターとしてうまくいくかどうかはとりあえず考えずに飛び出すことができたのは、おそらくそのような意識があったからです。
 つまり、ライターとして生計を立てるなどということはそもそも無理だとしても、とにかく旅に出て金が尽きるまで数年ふらふらしさえすれば、それだけで自分は、少しは独自の経験をしたと胸を張れるのではないか。そんな気持ちが間違いなくあったのです。

 もちろん、生活していくためには必死にやらねばという意識も強くあり、だからこそあれこれやっていくことになるわけですが、とにかく旅に出るということさえ実行すれば目的が一つ達成される、そう考えていたからこそ、ぼくはある意味とても楽観的に、うまくいくかどうかを深く考えることなく思い切って踏み出すことができたのだろうと思います。吃音という悩みから逃れたいという気持ちと重なって、その、認められたいという願望は、驚くほどのエネルギーをぼくに与えていたのです。
 そうした気持ちをいま改めて思い出して、はっとさせられました。

 ぼくはいまもなお、自己肯定感が低く、何事にもあまり自信が持てません。常に、周囲の人は自分に対して不満を募らせているのではないかと想像しておどおどする性格は変わっていません。そうした意識はときにとてもしんどくて、自分自身はもちろん、ときには周囲にもストレスを与えていることがあるように思いますが、それはきっと一生変わらないのでしょう。
 でも、年齢とともに、そうした自分を認められるようにはなってきました。さらには、そういう性格だからこそ、後れをとらないよう、嫌われないよう、できる限りのことをしなければと願う気持ちが強く、それがいまの自分を支えているのだなと実感しています。そうした性格こそが自分にとっての一番の原動力であり、もっとも大切なものの一つなのかもしれないと思えるようになったのです。

 コンプレックスは最大のエネルギー源になることがある。
 弱さの中にこそ、最大の強みが眠り、打開策が潜んでいる。
 ぼくはいまそのように感じています。もちろんあらゆるコンプレックスが必ずしもそうなるとは言い切れませんし、そう簡単にプラスに転化なんてできないよ、という声も多くあると思います。
 ただ、コンプレックスから逃れたいというエネルギーは誰にとってもとても大きなもののはずです。だからこそ、それをもし何らかの形で別の方向に活かすことができれば――、思わぬ道が開けるかもしれないという気がするのです。

 相談に来てくださった男性は、彼自身の弱さを存分にぼくに見せてくれました。
 その中にこそ、彼の強みが隠れているのではないか。ぼくはそう想像しています。
 迷いや葛藤はそう簡単に消えないだろうし、容易に打開策が見つかるわけでもないと思います。でも、彼がこの先どういう選択をし、どういう道を進むことになっても、自分の弱さと向き合う経験はきっといつか力になる。ぼくはそのように感じています。
 なんとか、踏ん張ってくれますよう。

『遊牧夫婦こぼれ話』第2回「上海の落とし穴3」(2014年7月「みんなのミシマガジン」掲載記事を再掲)

【『遊牧夫婦こぼれ話』は、ミシマ社のウェブマガジン「みんなのミシマガジン」にて、2014年6月~2017年7月まで毎月書かせてもらっていた連載です(全38回)。「遊牧夫婦」シリーズの中に収められなかったエピソードや出来事を振り返りつつ、しかしただ過去を振り返るだけでなく前を向いて、旅や生き方について、いまだからこそ感じられることを綴っていく、というコンセプトの連載でした。現状、ミシマガジンでは読むことができないので、ひとまず、連載時に面白がってもらえた回だけでもこちらに随時アップしていく予定です。再掲にあたって細部は少し調整しました。】

第2回 上海の落とし穴 その3 (その1 その2
2014.07.06更新

  男を斜め前に歩かせて、そのすぐ後ろをついていった。
 河南中路と南京東路の大きな交差点を、車のクラクションの音とヘッドライトをかきわけるようにして、斜めに渡り、河南中路を北に歩いた。
 「おい、警察官を一緒に連れて行くからな。いいか」
 そう言ってみたが、「いいよ」とまったく動じない。むしろこっちが若干ビビっているのがばれただけかもしれなかった。
 そもそもぼくが金を巻き上げられたという証拠はない。その上、警察を連れて行っても、場合によっては言葉が通じない中、むしろウソをでっち上げられ警察に金をにぎらせられて、逆にぼくが窮地に陥る可能性も十分にある。というか、その可能性の方が高そうだ。異国にいることを否応なく実感させられた。

 くそ、どうすればいいんだ。どうすればこの男に一番のダメージを当たられるのか。どうすれば悔しい思いをさせられるのか――。いい案は何も思い浮かばなかった。そして、それならばとぼくは思った。とにかくはったりでもビビらせよう、と。
 静かにポケットからiPhoneを取り出して、ぼくはカメラアプリを立ち上げた。写真を撮って、これを雑誌などに載せるぞと言ったらビビるのではないか――。古典的だがそう考え、横を歩きながら、突然彼の前にiPhoneを無言でかざしたのだ。そして、有無を言わさずシャッターを数回押した。

 「おい、なんだよ! なんで、撮るんだ! やめろよ!」

 男はびっくりした顔でこちらを向いた。苛立たしそうに僕のiPhoneを手で遮る。ぼくは言った。

「この写真を、雑誌とかに載せてやる。撮ったからな!」

  何の証拠にもなりえない無意味な写真であることを自覚しつつもそうすごむと、男は、手でぼくを遮りながら

「やめろよ!」

 ともう一度言った。そしてその次の瞬間、彼はその手をパッとどけて、体勢を変えた。と思ったら、一気に走り出したのである。東西に走る小さい道を河南中路から西に向かってダッシュで逃げた。あ――、と思ったときにはもう、彼は手の届かないところにいた。

  男の後ろ姿を、ああと思って眺めながら、もう追う気はなくなっていた。一目散に駆けていくその男の後ろ姿を、ぼくはその場でじっと見つめた。
 何か最後の捨て台詞でも吐きたかった。しかし、いい言葉が浮かばない。そうしているうちに彼は、河南中路よりも暗く細い東西の通りを、ダッダッダッダッという足音だけを響かせて、暗がりの中に消えていった。

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この男に注意、しようがない。

この男に注意、しようがない。

 ああ、行ってしまった・・・。ただ脱力感に襲われて、その場にじっと立ち尽くした。無意味な写真だけが手元に残った。 

 ただ、やり場のなかった悔しさと怒りは、男に直接言いたいことを言ったことで軽くなった。しかしその一方、男はいまごろほくそ笑んでいるのだろうかと想像するとまた頭に来た。でもこれ以上はどうしようもなかった。 

 そのまま男が歩いた道を西に歩いた。一応、見つけられただけでもよしとしないといけないのだろう。そう思いつつ歩きながら、彼との慣れないやりとりによって自分が猛烈に疲労していることに気が付いた。

 このまま地下鉄に乗って宿に帰ろう・・・。再び南京東路へと戻り、けばけばしく光り輝くネオンの中を、人民広場駅を目指してさらに西に歩いていった。通りの輝きが、すべて胡散臭く見えてくる。

 息をつく間もなくまた、怪しげな男たちから次々に声がかかる。

「ち○ち○マッサージ?」
「セックス?」
「どう? 安いよ。カワイイ子いるよ」
「ドコカラキタ?」
「ニホンジン?」

 無視して通り過ぎても、5秒もするとまた別の男から声がかかる。そして、挨拶のように、言われるのだ。

 ち○ち○マッサージ?――。

  ふざけんなよ、こいつら・・・。ち○ち○ち○ち○、小学生みたいにうるせえなああ。聞いているうちに再び怒りが込み上げてくる。そして、あの男へのいら立ちが蘇るように、途中で本当にカチンときた。
 勢い余って、ずっとついてくる若い男をぼくは思わず威嚇した。
 「おい!」
 と言って、急に振り返り、男に向かって攻めるようなポーズをとった。
 ビビって退散するだろう。そう思ったが、よく見ると血の気が多そうな男だった。男は一瞬ビクッとしながらも顔に怒りを露わにした。そして、こっちを指さしながら、逆上して声を荒げた。 

「HEY! FUCK OFF!!」

  予想しなかった反撃にむしろこっちがビビッてしまった。慣れないことをするもんじゃなかった。見かけ倒しでビビりの自分は、パパイヤにボディを褒められたとはいえ(「何気に結構喜んでるんじゃないか?」という推測ははずれです、念のため)、ケンカして勝てる自信などまったくないし、そもそもこんなところで暴力沙汰を起こせば、それこそ大変なことになるだろう。

  そして、若干目が覚めた。冷静になれ、落ち着け、落ち着け・・・。こんなところでわけのわからないトラブルを起こしたら本当の馬鹿だぞ。気持ちを静めるのに必死だった。

  それからは寄ってくる男たちをすべて無視しながら歩いて行った。そして、しばらく歩いたあと、猛烈に疲れを感じ、デパートの横のベンチ的なところに腰かけた。すると間髪入れずに今度は女性が寄ってくる。髪が長く、すらっとして、顔つきも整った比較的きれいな20半ばぐらいの子だった。彼女は中国語でこう言った。

 「すみません、道がわからないんだけれど・・・」

  ああ、またこれか。そうか、これは定番の手口だったのかと、そのときようやく気がついた。脱力感に襲われて、「もういいから」と追い払うように手を振った。すると彼女は言ってくる。

 「あれ、中国人じゃないの?どこの人?」

  しばらく黙って無視した挙句、根負けして、ぼくは言った。「中国語わからないから、聞かないで」。すると、彼女はマニュアル通りなのだろう、昨日の男と同じようなことを次々に言ってきた・・・。

  「目的はわかってるから。どっかいってくれよ。昨日同じやつに会ったから」

  「え、どういうこと、どういうこと?私の目的って何?ただ道を聞いただけなのに」

  途中から、英語と中国語が混じりあった会話になった。彼女は英語がうまかった。なかなか立ち去ろうとしない彼女を見ながら、ぼくは思った。そうか、それならば、逆に彼女にこの手口の内実を聞いてみようじゃないか、と。ぼくは、昨日騙されて金をとられたこと、その上今日も同じような連中が次々に来ることにむしょうに腹が立っていると、彼女に告げた。

  彼女は「え?いくらとられたの?」などと言って驚いたふりをしながらも、ぼくが、「もういいから、いいから」と言い続けると、ようやく素の様子で話し始めた。自分もまた、同じようにあなたをKTVに誘おうとしているんだ、と。

 「男の人はみんな女の子が好きでしょ?女の子としたいんでしょ?私は、ただ男の人にお店を紹介するだけよ。行くか行かないかは本人の勝手。選べるんだから、別に騙してるわけじゃない」

  そんなことを言い、結局あなたもお店に行ったんだから、やりたかったんでしょ・・・などと言った。

  いやいや、ちがうんだ・・・、と言いながら、細かく説明する気もしなくて、とにかく、まあ、いいから、と彼女がどんな生活をしているのかをぼくは聞いた。 

「昼間は英語を習いに行って、夜はこの仕事をしてるの。好きでやってるわけじゃない。他の仕事を探してるけれど、見つからなくて。だからしょうがいないのよ、みな生活のために働くんでしょ」

  そして、言った。
"That's life, right?"

 彼女のその言葉を聞いたとき、ぼくは少し笑って「うん、そうだよな」と頷いた。そして、思った。あの男にも、それなりの事情があったのかもしれないと。無駄な怒りをぶつけるのではなく、むしろ、金はいいから、その代わりにどんな生活をしているのかを教えてくれ、と言うべきだったと思い至った。それが自分の仕事のはずだった。

  やられたことはむかつくけれど、たしかにあの男も、こうでもしないと生きていけないのかもしれなかった。怒りとは別に、それを聞きだすことこそ、書き手として、自分がやるべきことではなかったのか。いや、しかし、あんなに日本語がうまいなら、いくらでもまともな仕事を見つけることだってできるはずだ・・・。

  そんなことを思っているうちに、彼女が言った。 

「ねえ、飲みに行かなくてもいいから。あそこのハーゲンダッツでアイスを買ってくれるぐらいいいでしょ」

  ぼくは冷たく言い放った。

 「何言ってんだ。なんでおれが奢るんだよ。おれと話してても時間の無駄だよ。他の男を探しにいけよ」

 「ちょっとぐらいお金をちょうだいよ」

 「ふざけんな、やらねえーよ」

 彼女は顔に怒りを表した。そして、「チッ」と舌打ちをして足早に立ち去った。
 彼女が立ち去ると、待っていたかのように、今度は2人組の大学生ぐらいの女の子が話しかけてくる。彼女らを遮って歩き始め、地下鉄の人民広場駅の入口に入ろうとすると、次は派手な女の子が、露骨にぼくの腕をつかんできた。

 「ねえ、どこにいくの・・・」

 ぼくは唖然としてしまった。上海ってこんなところだっただろうか――。住んでいたころは、あまり南京東路などには来なかったから気づかなかっただけだろうか。それとも今回はあまりにも自分が観光客然として映っているのだろうか――。

 異国にいるということをこんなにも実感したのは久々のことだった。地下鉄の駅に入りながら、ぼくはあの男のことを考えた。いったい今、あいつはどんな顔をしているのだろう。馬鹿な日本人だったな、と笑っているのか。そして次の獲物と一緒に南京東路をすでに歩き出しているのだろうか――。

 あの男にも事情が・・・なんていう気持ちは消え去った。そしてまた猛烈に怒りが襲ってきた。 

 クソッ!

 何度もそう呟きながら、そしてその一方、さっき"FUCK OFF!"と言った男の仲間なんかがまさか追いかけてきたりしてないだろうな、とわずかばかりビビりながら、ぼくは終電間際の地下鉄に乗り込んだ。

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                   *

  というのが2014年に久々に訪れた上海での経験でした。 

 ただし、上海は基本的にはとても平和で安全な町です。ぜんぜん説得力ないかもですが、上海はおそらく、世界でも数少ない外国人女性が夜一人で歩いても大丈夫な大都市のひとつであるはず。この時も現地に住む日本人女性がそのように言ってました。2014年のことですが。

 ちなみにこの何日か後、ぼくが帰国した後に、この仕事の写真を撮ってくれた写真家の吉田亮人さんが、同じ詐欺男に同じ場所で声をかけられたとのこと。カツオ氏、全くたくましい男です。