ハードルと可能性

ニュージーランド、今日で5日目、あと2日となりました。初日は夜、オークランドに着き、空港で車を借りて(1日3000円ほどと安い!)、市内の中心部でゲストハウスの7人ドミに宿泊。そこで、ニュージーランド人の旅行者からいろいろと話を聞くところからのスタート。会う人会う人、親切で印象がいい。一方、いまのゲストハウスは、聞いていた通り、みな各自スマホしてて実に話しづらいということも実感。それは残念。

翌日は、朝からオークランド大学へ。街中の森のようなキャンパスがじつにいい感じ。大学で働ける可能性はないかと、聞いて回りました。2ヶ所回ったあとに、日本語専攻コースのアドミニの人にたどり着き、話に行くと、とても親切かつにこやかに対応してくれるけれど、ネットでのjob offerを見て仕事を探しなさい、というとても全うな回答(job offerを見てメールしたけれど、返事が得られにくそうだったので直接来ましたと説明)。

そして、いま直接先生と話に行きたい、と言うと、「いや、みな忙しい人たちだから、礼儀としても先にメールを入れてアポを入れるべきなんじゃないか」といわれて、確かにそうですと納得して、しかしそれでも、あと一歩踏み込むべきかもしれないと思い、先生方の部屋の前まで行ったものの、いろいろ悩み考えた挙句、もう一歩先に進めず退散。

その日の午後、今回NZ行きを誘ってくださった方(一ヶ月前にインタビューで初めて会った方)を頼って、オークランドから120キロほど南のハミルトンへ。いまもその方のおうちに泊めてもらっています。

ハミルトンでは、その方のご紹介で、初日は中学校2校の見学へ。NZの教育の、日本とのあまりの違いに驚かされる。みなが一緒に学ばなければいけない科目は最小限で、あとは、それぞれ自分の得意なところをいかに伸ばすか、というところに最大のエネルギーを使っている模様。たとえば、僕らを案内してくれる子どもたちは、授業など出ないでぼくらを案内することを優先させてもらえる。音楽が得意な子は、一人で音楽家について練習をさせてもらってる。という感じでした。

その次の日は、同じく泊めてくださっている方のご紹介でハミルトンにあるワイカト大学で、南極の研究者、そして2人の大学の先生方に会う。研究者には、サイエンスライターとして仕事を得ることができないかと相談し、2人の先生方には、ライティングの授業などが自分に出来る可能性がないかを相談。可能性は決して大きくはないものの、みなさんそれぞれに方法を探ってくださる感じで、大感謝。

実際にどう展開するかは別にして、こうして、真剣に考えてくださるNZの方々の雰囲気に、大きな魅力を感じています。

そして今日は、ハミルトン各地のオープンハウスを見学に。家を買うというイメージは現状一切ないものの、とりあえずハミルトンで生活する場合の住宅そして必要な費用の感覚がなんとなくイメージできるようになりました。

自分たちには資金力もなく、子どもたちをつれての移住というのはハードルが高いことを実感してます。でも、実現できるかどうかは別として、まだ見ぬ人生の可能性、先が予想できない生き方の可能性を探るというのは、それだけで本当に、ありうる様々な人生を想像させてくれ、日常を豊かにしてくれると感じながら、この数日を過ごしています。

あと明日一日過ごしたら、明後日オークランドに戻り、できることをして、夜の便で日本に戻ります。

Auckland

Auckland

先の見えない人生を取り戻すべく

とても偶然な展開から、来月ニュージーランドに行き、住めるかどうか検討することになりました。

NZに住みたいというのは、前々から妻と話していたことでしたが、これまで具体性はゼロ、むしろ考えれば考えるほど、生活のことを考えると実現は難しいだろうという気持ちが増していました。

今月の初めまではまさにそんな状態だったのですが、たまたま仕事で出会うことになった人から思わぬ誘いをいただきました。これを断ったらおそらく一生行くことはないだろうというぐらいのタイミングと縁だったため、とりあえず一週間ほどですが、一人で行ってみることにしました。

別に仕事のあてが決まったとか、家をもらったとか、宝くじに当たったとか、そういうことは全くなく、ただ、現地に行くきっかけをいただいたというだけで一切白紙の状態です。テクニカルな面は何も変わってはいません。

でも、この機会を最大限に生かしたいなと、いま人生初の就職活動的なことをしており、Linked Inのページをつくり、仕事の合間をぬって急遽NZの大学や会社など、自分が働くことができそうなところに連絡をとって、とりあえず会って話だけでもしてきたいと思い、動いています(というのも、家族で生活することを考えると自分が仕事を得て労働ビザをもらうことが不可欠だからです)。

とはいえ、そんなにうまくことが進むわけもなく、すでに厳しい現実を垣間見つつありますが、それでも、なんというか、NZを意識して動き出してから、気持ちがすがすがしいというか、やっぱり先が見えないっていいなあって改めて感じさせられています。

長い旅していたときは、2,3年前のことでも、日付があれば、どこで何をしていたかを鮮明に思い出して風景を思い浮かべることができました。それだけ一日一日が違ったのだと思います。そして明日のことも来月のこともわからなかった。

しかし最近は、1週間が、10年前の1日のような速さで過ぎ去り、1年前と2年前のことの区別がつかなくなっています。そして数ヶ月後もかなりの確度で想像ができてしまうような日々に、このままでいいんだろうかという気持ちが強くなってきていました。

何か生活を変えられないか。旅していたころのような感覚を取り戻したい。いつしかそんなことをよく思うようになっていました。そんなときにふと、NZという未知の世界を少しだけ現実的に考えられる機会が目の前に現れた。それを思わずぱっと手でつかみ、するっと手から滑り落ちそうな状態ながら、さてどうすればいいのか、と必死に捉まえながら考えているような状況なのです。

繰り返しますが、何も状況は変わってないので、何か進展があるかどうかは一切分かりません。しかし、ただ目の前に、未知の世界が広がっていて、そこでの新たな人生を模索するだけでこんなにも気持ちが新鮮になるのか、ということをいま感じています。

先が見えないというのは、やはり素晴らしい。

いい意味でこれからも、先が見えない人生を送りたい。

そんな気持ちを新たにしながら、3月の後半を過ごしています。

7年間を終えるにあたって、大学で出会った学生のみなさんへ

2011年から7年間講義をやらせてもらっていた京都造形芸術大学の非常勤講師職が今年度でいったん終了となり(通学部。通信教育部は継続します)、先週、最後の授業(合評会)を終えました。

その日は学生たちにとっても学期の授業の最終日で、例年通り、学科の学生と教職員全体での飲み会がありました。
その場でぼくは、思いがけず皆さんから花束までいただき、学生たちにも先生方にも温かい言葉をかけてもらい、幸せな気持ちで最後の日を過ごさせていただきました。

またその際、思っていた以上に複数の学生が、自分の講義や言葉を覚えていてくれたり、大切にしてくれていたことがわかって感無量でした。

その会の終盤、ひと言挨拶をさせていただきました。

嬉しい気持ちやお礼とともに、文芸・文筆を学ぶ学生たちに、以下のようなことを話させていただきました。

参加していなかった学生たちや卒業生たちにも伝えたいと思ったので、話したことを改めて文章にしました。学生の皆さんの今後の活躍を祈りつつ。

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文章を15年ほど書き続けてきてなんとか生計を立てられるようになったいま、強く感じるのは、書く上での"技術"を学ぶことの大切さです。

文章で何かを伝えるということには、技術がいる。
そのことを最近痛感するようになりました。

これといった技術がなくとも文章は書けるし、思いを伝えることも可能です。ときにむしろ技術なんてない方が、思いが伝わる場合もあるように思います。

しかし、文筆を仕事とし、継続的に書き続けていこうとすれば、どうしても基盤となる技術が必要です。文芸を学ぶ学生たちには、それを大学時代に身に付けてほしいし、大学で教える身としても、そういった技術をしっかりと教えなければならないと、ここ1,2年で強く感じるようになりました。

特に今、ネットメディアやSNSの発達により、媒体は無数にあり、誰でも書いたものを多くの人に読んでもらえる機会があります。それはとてもいいことです。しかしそれだからこそ、文章を書くことを仕事にしようと思えば、伝えるための技術が必要だと思います。

その技術を身に付けるために必要なことはいろいろありますが、大切なことの一つは、文章を書くとき、その全てに自覚的になることだと思います。自分の原稿の一文一文について、たとえば、この文はなぜ「である」ではなく「だ」で終わるのかと問われたら、その理由を自分なりに答えられるべきだというのがぼくのいまの考えです。その理由に正解などはないけれど、ただ、書き手が自覚して書くことが大事だということです。一文一文にそのくらい自覚的に書いていくことで、文章は少なからず研ぎ澄まされていくと思っています。

その一方、技術では人を感動させられません。人の心を動かすのは、ほとんどの場合、技術ではありません。心を動かすのは、その言葉にどれだけ書き手の気持ちが込められているかだと思います。

それは、書き手の生き方、考え方、これまでに経てきた悲しみや喜びなど、様々な経験や時間が問われます。取材して書くのであれば、書かれる側の人に対して、十分心を寄せることができるか、読む人たちの思いにも想像力を働かせられるか。また、書くということが決して軽いことではなく、ある種、責任の伴う重いものなのだということを意識できるか。文章を書くということは、そういったあらゆることが問われているように思います。

文章を書くことの魅力でもあり怖いところは、そうしたその人自身の人間性のようなものが、必ずどこかに滲み出ることです。それは文章に書かれた主張ではなく、一文一文のちょっとした表現や語尾などに表れるもののように思います。長い文章を書けば、どうやっても、必ずどこかにその人自身が投影されるものです。その点をどうすればいいかは、大学などで人から学ぶことはできません。日々を生きていく中で自分自身で身に付けていくしかありません。それだからこそ、価値があるのだと思います。

技術と思い。

その両面が揃うことで、いい文章が生まれるのだと思います。
もちろん、必ずしもそうではないかもしれないけれど、自分としては、その両面をできる限り大学時代に高めていってほしい、というのがみなさんに伝えたいことでした。

そして、文章を書くことに正面から向き合うことは、文章を書く以外のことにも大きく役に立つはずです。どんなことをして生きていくにしても、自分自身の行いに自覚的になり、自分自身を見つめ、掘り下げ、深めていくことは必ず力になるだろうと。

みなさんのこれからの活躍を期待しています。

どうもありがとうございました!
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