5 中国国境の町へ
バスの中でいろいろと考えているうちに、吃音が意識の中で存在感を増してきてしまった。まったくこういうことばかりなのだ。考えれば考えるほど負のスパイラルに陥ってますます解決は遠のいていく。モトコに話して、
「まあ、気にしんときやー」
と涼しい顔で言ってもらって、そうだよな、と無理やり自分に言い聞かせるしかない。そんなときに場所が移動するというのはいい気分転換になる。ぼくらは再び、タイの最北部のメーサイに着こうとしていた。
バスがメーサイの町から少し離れたバスステーションに着く。降りると目の前には複数のソンテウ(乗り合いタクシー)が客に声をかけながら待っている。その中で、間もなく出発しそうな、人がギュウギュウに乗ったものに、「すみません! 乗せてください」と乗り込んで、町の中心部である国境付近までまた戻った。そして前に泊まったのと同じ「バンブー・ゲストハウス」にチェックインした。
そうしてとにかく旅は進み、再びビルマとの国境まで来た。ぼくらはこれからビルマに入国する。しかも今度はビザ更新のためではなく、本格的にビルマに入るのだ。
当初ぼくらはビルマを北上して、ビルマから中国雲南省へと国境を越えようと思っていた。だが、このときはすでにその計画はあきらめていた。
というのも、ちょうどこの三週間ほど前から、不穏なニュースが入ってきだしたからだ。ビルマの軍事政権内で民主化に積極的なキンニュン首相が拘束・更迭され、首相に近い複数の幹部が逮捕されたらしいというのだ。首相逮捕か、クーデターか、など、情報が錯綜していたが、いずれにしても、民主化を望まない強硬派による政変が起きたようだった。
しかも気になったのは、この政変らしき動きのニュースの中に、ぼくらが中国へ抜けようとしていた国境の町ムセの名前が出てくることだった。今回の出来事に関連して、ムセで銃撃戦があったとか、そんな情報も目にした。これはまずいな、と思ったのだ。
もともと、その国境から中国へ陸路で抜けたという話は聞いたことがなく(逆に中国からビルマへ抜けた人はいたようだった)、ネットで調べても、そこは通過できないらしいという声ばかりだった。だが、バンコクでビザを取得するときビルマ大使館で聞いてみると、
「行ってみないとわからないけれど、ビザがあれば越えられるんじゃないか」
と、まるで他国のことのような心もとない返事ながらも、越えられそうなことをにおわされたので、じゃあ、とりあえず行ってみようかと考えていた。
しかし、その町で政変に関連した出来事があったとすれば、しばらく国境が閉鎖される可能性は十分に考えられる。もちろん、それでもかまわず行ってみることもできたのだが、ビルマ国内では外国人には自由な移動が許可されておらず、移動がかなりやっかいなのだ。途中で一部、空路も使わなければならない行程を考えると、メーサイのタイ・ビルマ国境から、ムセの中国・ビルマ国境までは行くのがかなり大変そうで、国境まで行った挙句中国へ抜けられず引き返すことになったら相当面倒な移動になることが予想された。その可能性を考えたとき、無理してその国境を通過しなければならない理由はなかったので、やめることにしたのだ。
それでも、ビルマへは予定通りに入国した。
国境となるのは茶色く濁った幅数十メートルほどの小さな川で、その両岸には河にはみ出しそうなほどギリギリまで、白壁の家や木々が並ぶ。その上に架かる橋を渡り、"UNION OF MYANMAR″と書かれた青いゲートをくぐって、タイのメーサイからビルマのタチレクへ。そこから陸路のみで行ける範囲は限られているが、とりあえず北へ、ビルマ内部へと入っていこうと思っていた。
タイ・ビルマ(ミャンマー)の国境を成す川
イミグレーションオフィス(入国管理局)で、どこまで行く予定なのかを聞かれたので、「チャイントンまで行きたい」と、ここからさらに北に行った町の名を告げると、すぐに政府の旅行会社Myanmar Tours & Travel(MTT)に連れて行かれた。
中に入ってみると、ビルマの観光ポスターらしきものがわずかに貼ってある以外、派出所のように殺風景な場所だったが、そこには職員の他に一人の同年代の西洋人の男がいた。
「ヘーイ! おれはTJ(そのままティー・ジェー)っていうんだ。アメリカ人だよ。おれらビルマにいるんだぜ、すげえな! おれの旅はっていうとさ……」
赤の柄入りバンダナに細ぶちのメガネをかけ、うっすらとヒゲを生やした陽気で感じのよい男だった。しかし若干オレオレなキャラがいかにもアメリカ人らしい。また見ていると、どことなく加藤茶に似ている。カッコよく振舞おうとするが、何かが足りずいまいち雰囲気が出ない、そんな男だ。
彼もチャイントンへ行くというので(といっても、それ以外の選択肢はほとんどない)、一緒に行くことになった。
「チャイントンまでか。一人四〇〇バーツ(一〇〇〇円強)でいいぞ」
MTTで値段を聞くと、肌の浅黒い細身の職員にそう言われた(ここではまだタイバーツが使える)。政府の旅行会社ということでこのMTT自体に怪しげなにおいを感じていたので、「高いな、他もちょっと当たってみるよ」と、揺さぶりをかけつつ、本当に外に出て車かバスかを探して回る。でもどうもそれ以上に安いのは見つからない。そうして、まあ、そんなもんなのかもしれないな、と納得し、MTTのセダンの車に乗っていくことになった。
四時間ほど北に走って、チャイントンへ。ビルマに入ったとはいえ、道中の雰囲気はタイの田舎とそれほど変わらない。大きな違いは、右側通行、右ハンドルという奇妙な車事情だけだったかもしれない。すなわちドライバーがみな、道の端に近い側に座って運転するという妙なことになっているのだ。そのときはどうしてそんなことになっているのかはわからなかったけれど、その後聞いたところによれば、ビルマも以前は、宗主国のイギリスと同じく車両は左側通行だったものの、ときの独裁者ネウィンが、ひいきにしている占い師の言葉に従って突然右側通行に変えたのだという。だから、左側通行用の右ハンドル車が多いまま、右側通行の国となったようなのだ。
ちなみに、右ハンドルのため日本の中古車も多く使われているのだろう、あるバスを見ると、それは日本の幼稚園の送迎バスそのままだった。クリーム色の車体には側面にはリスやウサギやチューリップのほんわかしたイラストが描かれ、正面には「久喜幼稚園」という文字が大きく書かれていた。そういえば東ティモールにもヤマト宅急便のトラックが走っていたのを思い出した。
このあたりは、ビルマの中でも東の僻地として国の中心部分から隔絶されてきた地域だ。北は中国、東はラオス、南はタイに囲まれて、西側に広がるビルマの中央部からも距離がある。アヘンの取引も盛んで、政府としても手に負えない勢力が跋扈してきた土地だった。
タイからの道が整備されたことによって人の出入りが多くなり開けていったものの、なお袋小路的な場所であることは変わりなかった。外国人は、ここからビルマの中央部へ陸路で抜けることは許されていないし、このちょっと北にある中国国境も越えることはできないとのことだった(これはもともと越えようと思っていた国境とは別)。
そんな場所なのに、チャイントンで泊まることになった安宿は、予想外にきれいで驚かされた。まだ新しいタイルが敷き詰められた室内は輝いていて、掃除も行き届いているではないか! シーツもきれいでパリッとしていることに逆にびっくりしてしまった。値段は米ドルで一人五ドルだった(通貨が不安定で、米ドルが幅を利かせている)。
屋上に上がると街一帯が見渡せた。ヤシの木が視界の果てまで緑色に染め、その隙間を埋めるように、白い壁の家が点在していた。
道路には砂煙が上り、多くのバイクがぶるぶるぶると音を立てて走り抜ける。通りかかったトラックの荷台には赤いローブを着た少年の坊さんたちが大勢立ったまま乗っている。仏教国らしい風景だった。
しかし同じ仏教国とはいえ、タイと僧侶の雰囲気が異なるのが印象的だった。タイでは少年たちでも僧侶はストイックの感じだったのに、ビルマの小さな僧たちはかわいらしいガキンチョたちが、ただローブをまとっているだけといった様子だった。彼らは陽気に遊び、笑顔を見せ、ときにぼくらに「金をくれ」とせがんできた。
チャイントンに着いた翌日は、自転車を借りて屋外の大きなマーケットまで走った。ブタが、頭、足、内臓、血液、といったように分解されて並べられているそばで、たまご豆腐と麺を和えた軽食を食べた(これがウマイ)。また、黒いご飯や高菜の漬物のようなものがたびたび目についた。アジアのマーケットはどこも一見同じように見えるものの、やはり少しずつ違いがあり、その違いが面白いんだよなとぼくは思った。
さてその日、昼飯を外で食べていると、二人の西洋人に出会った。旅行者はとても少なかったため、それふうな人と出会うと、思わず目が合い挨拶を交わし、話し出すようになる。
「おお、あんたらは旅行者かい? まあ、座りなよ」
大きなヒゲと、村山元首相のような確固たる眉毛を蓄えたマッドサイエンティスト風なおじさんが、そう話しかけてくる。五十代とも六十代とも見える彼はイギリス人でトムといった。一緒にいるクールそうな女性は、イタリア人のエヴァ。彼女は三十歳ぐらいだろうか。
うながされて同席すると陽気なトムの軽快トークで話は一気に盛り上がっていく。そのうちに、彼ら二人がジャーナリストだということがわかった。そして彼らもぼくが旅をしながら文章を書いていることに興味を持ったようだった。
「何の雑誌に書いているんだ? 君らもビルマについて書いているのか?」
トムはブリティッシュイングリッシュで次々に聞いてくる。「シューカンなんとか」と日本の雑誌名を言っても「おお、知ってるよ!」となるわけがないので適当に流し、また、ビルマに書くために来ているというわけではない、とも言った。ついでに自分たちの旅の話を少しすると、彼も饒舌に語り出す。
「おれは『エコノミスト(The Economist)』にも書いてるんだ。今回も、これから取材して記事を書くつもりなんだ」
と、若干鼻の穴を大きくした。『エコノミスト』といえば、イギリスを代表するニュース週刊誌ではないか。彼の適当そうな雰囲気とはどうも結びつかないが、年齢的にもそれなりのベテランなのかもしれない。一方エヴァは、多くは語らないものの、話してみるとわりと気さくで、インドネシア語も操るなかなかのやり手風だった。
「明日、モンラーまで行くんだけど、よかったら一緒にどうだ?」
トムが言った。モンラーとは、チャイントンのさらに北の、中国との国境をなす町だ。
「あのあたりはワという民族が自治権を持つ特別区だ。面白い話がたくさんあるはずだよ。そこに行って、おれは記事を書きたいんだ」
ワ族については、ぼくも本で少し読んでいた。ワイルドで屈強な民族で、好戦的で敵の首を狩る。そしてアヘンの栽培や密売にどっぷり関わっているらしい。すなわち、先に書いた、政府の手に負えない勢力の主要メンバーがこのワ族なのだ。実際彼らは、ビルマ政府との戦いの末に、ビルマ国内に、自治権を持つ地域を手に入れているのだ。
もちろん、一緒に行くことにした。宿に帰ってTJも誘うと、彼も当然のようにのってきた。
「お、すげえな、それは! おれも一緒に行かせてくれよ!」
翌朝。八時半に宿を出る。しかしすぐに出発はできない。チャイントンの外に行くためには、現地人のドライバーを雇い、そのドライバーとともに町のイミグレーションオフィスまで行って許可証をもらわないといけないのだ。自由に移動することは許されず、町ごとに許可証が必要なようだった。TJは、ビザの関係だったか、アメリカ人だったかのため、国境にパスポートを預けていたので手続きが煩雑だったが、なんとかみな許可証が手に入り、すし詰め状態になった白いワゴン車でチャイントンを出発した。
車内は、陽気に盛り上がる。トムがビルマに関するウンチクを調子よく披露し、そこにエヴァが冷静な注釈をつける。さらにTJが妙な独自見解を述べるも「何言ってんだ、お前は。わかってないな」とトムにすぐに却下される。トムはその合間をぬってくだらないジョークを飛ばし、それをぼくとモトコがさわやかさを装った笑顔で聞きつつ、ギャグのつまらなさに疲労感を蓄積させる。現地出身らしいドライバーはただひたすら運転する。そんな道中だった。
緩やかな山の間をすり抜けるように走る道路の両脇には、緑の木々や草が繁茂し、上には日本まで続くはずの青い空がどこまでも見えている。時折ウシや人間が姿を見せ、その横をぬって車は北上していった。
ぼくは東ティモールを思い出していた。数少ない旅行者同士が親しくなり、短期間でも家族のような気分にすらなれる雰囲気のせいだろう。ディリの宿主のヘンリーはどうしてるかな、宿で働いていたティモール人のエモンはいまも働いているかな、スウェーデンにいるはずのヨハンは論文を書いているかな……、と急に彼らのことが懐かしく頭に浮かんだ。
その東ティモールの日々から半年がたって、今日、間もなく中国の大地が見えるところに行くのである。ついにここまで来たんだ。気持ちが高ぶった。
二時間ほど走るとワ族が支配する特別区に入る。地区の入り口には検問があり、荷物検査がある。そして越境料金を払わされる。料金は一人「三六元」だという。そう、ここはビルマ国内であるにもかかわらず通貨は中国の人民元なのだ(人民元はチャイントンで手に入れていた)。料金を払うと渡される領収書のような紙には、ビルマの文字とともに漢字表記があり、また、特別区に入ってすぐの小さな小屋には、漢字で「公厠」と書いてある。トイレだということがすぐわかる。
検問所を抜けてワ族が支配する特別区へ
ウシが道路を横切るのどかな風景は、特別区に入ってもまったく変わらない。見かける人の様子にも変わりはなく、ゴツい軍人に理不尽に囲まれたりすることもない。
ただ、漢字表記が目に入ると、急に意思の疎通ができそうな気がしてくる。そしてモンラーの町に着くと、完全に漢字中心の世界となった。まるで中国に着いたかのようだった。
食堂に入って麻婆豆腐と青椒肉絲を食べたあと、国境へ。中国へとまっすぐに延びる道路には大勢の中国人観光客の姿があった。青空の下、両国の境目をなす場所で多くの中国人が写真を撮り、賑やかに話している。
国境にあったトイレにもやはり手書きの赤ペンキで「公厠」とあった。入ってみると、年季の入った汚いアジア式スクワット便器(和式の、前方のカバーがないタイプ)がむき出しのまま並んでいた。互いにコンクリートの低い壁で仕切られてはいるものの扉はなく、全貌が見える。便器の横のカゴには使い終わったトイレットペーパーが山積みになり、その隣のバケツには水と手桶が入っている。無機質なコンクリートの壁と床はハードに黒ずみ、突き刺すような刺激的なニオイが充満していた。初めて見たドアなしトイレだった。
その汚いトイレを眺め、こいつはなかなかすげえなと仰天し、中国がいよいよもうそこにあることを実感した。
モトコも若干青ざめながら、女性トイレの見学を終えて出てきた。
「これ、ありえへんな……。中国はずっとこんななんかな」
と深刻そうな笑いを浮かべた。
一方そばではTJが、パスポートを持っていないのに国境越えに意欲を見せた。パスポートを持っていたって外国人には越えられない国境だ、それは無理じゃないか、とぼくが言うと、彼は真剣な眼差しで答えた。
「おれ、アメリカの運転免許証を持ってるんだ。これで国境越えられるかもしれないよ」
彼はどこまでも自分の国の強さを信じて疑わない人なのだった。
その後、モンラーが誇る大きなカジノに行った。緑の庭に囲まれた大きな敷地の奥にあるガラス張りの建物がそれだった。金持ちの中国人観光客を目当てとして、中国など外国の資本によってできた施設だとのことで、トムはこここそが取材すべき場所だと目星をつけたようだった。建物は白、ピンク、青でカラフルに仕上げられ、大きなガラスには周囲の景色が映りこむ。全体的にチープな感じは否めなかったが、周囲の町並みから見れば異質な存在で、確かに何やらいろいろ政治的な思惑などが絡んでいそうな雰囲気ではある。
「中に入ってみようぜ」
トムの声に従って、秘密のアジトに潜入でもするかのようにみなで中に進んだ。敷地の奥に入っていくと、昼間だったせいか、ガランとして誰も人がいない。なぜか建物の外に檻があり、その中では一頭のトラがもぞもぞと動いていた。そのトラを眺めていた中国人らしき人物が、どういうわけだか突然「オラッ!」とトラに向かって檻の外から蹴りをお見舞いしていた……。
だが、そんな不可思議さにもかかわらず、建物の中に入ると、ここがビルマ東部と中国南西部の国境の小さな町であることを忘れさせる都会的なカジノ空間が広がっていた。
その空間は、トムにとっては何やらすごいものだったらしい。
トムは内部の写真を撮ると、スクープ映像を手にしたように浮かれ騒いだ。そして、併設された豪華なホテルの価格表を手に入れると、極秘情報を入手したかのように「やったぞ、やったぞ!」と喜んだ。トムのはしゃぎようを見てモトコは、「いいおっさんがまったく……」と失笑する。一方ぼくは、とてもそれほど重大な事実をつかんだとは思えなくて、このおっさん、ホントにベテランジャーナリストなのだろうかという疑いばかりが強まってしまった。ぼくの目が節穴で、この場所の重要性に気づけなかった可能性もゼロではないが、それでも明らかにトムははしゃぎすぎだった。
TJとトム(後)。TJの表情が残念で申し訳ないけれど、22年前ということで…。
たった数時間程度のそんな浮かれたモンラー滞在ではもちろん、ビルマのこの地域への五日間の滞在でも、ぼくがこの国についてわかったことは、決して多くはない。
ただこの地域が、北の中国と南のタイによって押しつぶされてしまいそうだという感覚を得ることはできた。まるで平板のパレットの上で、赤色と青色に挟まれて置かれた小さな白色の絵の具のように、染み出してくる両国によって、特に北の大国・中国によって、その存在が消されてしまいそうな気すらしたのだ。その象徴の一つが、モンラーであり、あのカジノだといえるのかもしれない。
モンラーからの帰り、特別区の境界のチェックポイントがある小屋に入ると、中の壁には毛沢東のカレンダーが貼られていた。真っ赤な背景の中で、笑顔の毛沢東が拍手するポーズをとっていた。
毛沢東のその不敵な笑みを見ながら、国境そばの丘の上にあるお寺から見た風景を思い出した。水色の空の中に、ボリュームのあるもくもくっとした雲が真っ白く輝き、そのすぐ下には、緑の山が緩やかに続いていた。その風景こそが、初めて目にした中国の大地だった。あそこは中国の雲南省。そしてそのどこまでもどこまでもどこまでも先まで、中国であるにちがいなかった。自分たちは、これからあの地に住むことになるのだ。
ぼくは、数ヵ月後には始まるだろう中国での生活を想像しながら、旅がいよいよ、次のステージに向かっていることを感じていた。