『遊牧夫婦こぼれ話』第2回「上海の落とし穴2」(2014年7月「みんなのミシマガジン」掲載記事を再掲)

【『遊牧夫婦こぼれ話』は、ミシマ社のウェブマガジン「みんなのミシマガジン」にて、2014年6月~2017年7月まで毎月書かせてもらっていた連載です(全38回)。「遊牧夫婦」シリーズの中に収められなかったエピソードや出来事を振り返りつつ、しかしただ過去を振り返るだけでなく前を向いて、旅や生き方について、いまだからこそ感じられることを綴っていく、というコンセプトの連載でした。現状、ミシマガジンでは読むことができないので、ひとまず、連載時に面白がってもらえた回だけでもこちらに随時アップしていく予定です。再掲にあたって細部は少し調整しました。】

第2回 上海の落とし穴 その2 (その1はこちらです
2014.07.05更新

 「一緒だった男はどうした?」
そう聞くと、パパイヤ女はすぐ言った。
「あいつは金を持ってなかったから、すぐに帰らせたよ!」

  ・・・そういうことだったのか。男はとても感じがよくて、ぼくは正直、1ミリたりとも、1秒たりとも疑わなかった。1時間ほど楽しく話していたあの時間が、すべて自分をはめるための伏線だったのかと思うと、本当にショックで悔しくて、強い怒りが込み上げてきた。

  5年半の旅を含めても、こんなに完全に騙されたことは初めてだった。中国に慣れ切っていたということもあったけれど、あまりにも初歩的な騙され方に、自分が本当に情けなかった。
 ただ同時に、1000元でよかった、とも思っていた。高々17000円程度だし、はめられて盗られる額としては大したことはない。10倍ぐらいとられてもおかしくない状況だったので、その点はほっとした。
 そして若干気を取り直して、とりあえず強気に言った。

 「ふざけんな、そんな金払わねえーぞ!」 

 大使館に電話するぞとか、500元にまけてくれとか、手当たり次第にいろいろと言いながら、打開策を考えたが、パパイヤ女は気にする様子もまるでないし、自分も妙案は浮かばない。するとそのうちにパパイヤ女はこんなことを言いだした。

 「そんなに払いたくないなら、私と一発やれ。そしたら金は払わなくていい。お前はいい身体してるから」

  まさか上海で、この展開で、高校のバスケ部時代に若干鍛えただけの見せかけボディを褒められようとは。おお、これぞ旅! などと思っている余裕はなかったけれど、あまりに意外で、ありえない「妙案」に思わず吹いてしまいそうになった。 

 しかしさすがに自分も、パパイヤにボディを褒められ、お前とやりたいと言われて喜ぶほど間抜けではない。それは相手を諦めさせる定番の決め台詞だったのかもしれない。そしてその台詞が有用だとすれば少々パパイヤが哀れでもあるけれど、実際その辺りからぼくはもう諦め始めた。

 どうやっても1000元取られるのは避けられなそうな展開だった。ドアの外には格闘技でもやっていそうなごつい男が腕を組んで控えている。
 財布を出した。1500元はバッグの中に隠していて、財布の中には900元+細かいのしかなかったのが幸いした。

「なんだ、それしかないのか!」

 若干もめはしたものの、最後にはパパイヤも手を打った。
「じゃあ、900元でいい!さっさと、帰れ!」 

 情けなさと怒りをうちに秘めながら、ぼくは、ガードマン的筋肉男に見送られ、先ほど隣で上半身を肌けようとした若い女のツンとした顔を睨みながら、彼女の横を通って店を出た。ガードマンに、なぜか妙に丁寧に、「再見」と手を振って見送られたのが、ますます気持ちをいらだたせた。

  本当に情けなかった。すでに人通りが少なくなり、道端にごみが散乱するうす暗い通りを歩きながら、あまりの不甲斐なさに呆然とした。

  あの男・・・。チクショー、本当に頭に来る。まったく疑わなかった自分にもまた頭に来た。そうして、なんだかずぶ濡れになったような気持ちで、地下鉄に乗って、ぼくは宿へと戻っていった。やり場のない怒りをいったいどうすればいいんだろう、と思いながら――。

男に声をかけられて、しばらくルンルン気分で歩いてしまった南京東路。

男に声をかけられて、しばらくルンルン気分で歩いてしまった南京東路。

  しかし、まだ話は終わらない。

  その翌日、ぼくは旧日本人街と言われる虹口(ホンコウ)地区を訪ね、四川北路という大通りをずっと南に歩いていった。そして夜になったころ、また前日と同じエリアにまでたどり着いた。上海のランドマークとも言えるテレビ塔が煌々と輝き、川を挟んで高層ビルと壮麗な西洋建築がずらりと並ぶ外灘から少し入ったあたりの南京東路。そう、あの男に会った辺りの場所である。

  そのころにはだいぶ気持ちも収まって、昨日のことは、自分の中でむしろ笑いのネタに変わりつつあった。しかし、観光客で溢れ、賑わいを極めている南京東路の辺りまで来たときに、ふと、昨日のことを思い出し、怒りが蘇ってきたのである。そして、思った。

  あいつ、今日もここにいるんじゃないか?もしかしたら、ばったり出くわすんじゃないか――?くそ、このままでは終わらせねーぞ。

  いつになく強気な気持ちで、ぼくは、男に声をかけられた辺りをゆっくりと周囲を見回しながら歩き始めた。南京東路を西に歩き、河南中路という南北の広い通りとの交差点までやってきた。凄まじい人ごみとクラクションの音、そして、アディダスやGAPといった大企業の巨大な広告と複数のネオンがまばゆいばかりに輝いている。

  チクショー、あの野郎、待ってたらこの辺を通りがかるんじゃねえか? 見つけたら絶対許さねーぞ。

 我ながら久々にアグレッシブな気持ちが次々に湧き上がる。ますます気持ちを盛り上げながら、交差点の南東の角に立ち、ぼくは無数の西洋人観光客の間にじっと視線を送り続けた。そしてそれから5分も経ってないころのこと――。

  自分が立っていた同じ角で、信号を待つ観光客の奥の方、10メートルも離れていないところに、見覚えのある男の顔が、タンクトップ姿の欧米人の中に紛れて一瞬現れたのである。まさかこんなすぐに、と思ったが、背が低く、磯野カツオのような坊主頭をしたその姿は、たしかにあの男のように見えた。

  ぼくが身体を動かすと、ほぼ同時に、男もこちらに気が付いたようだった。観光客と角の建物の間ですぐに身を低くして、左手で顔を覆い隠すようにして、少し足早にその場から立ち去ろうとした。その動作で確信した。間違いない。あの野郎だ、と。

 ぼくは何も言わずに、大股で観光客の間をぬって一気に距離を縮めていった。すると男も走り出す。

  おい、待てよ――!

  そういって、ぼくも駆けだした。思っていた以上に距離は近く、すぐ追いついた。ぼくは男の腕をぐいっとつかんだ。すると男は、「はなせ!」というように腕を大きく振り上げる。しかしそんな力で振り切られるほどぼくの決意は甘くない。力を入れて観念させた。

 すると男はあきらめて、足を止め、強張った顔をこっちに向けた。

 「おい、この野郎、だましやがって・・・お前、ふざけてんじゃねーぞ!」

 渾身のヤンキー顔を作って、一気に凄んだ。すると男はとっさに言った。

 「ぼくも、だまされたんだ」

  ・・・なんだとこの野郎。この期に及んでまだ言い訳しようとは、全くしけた輩である。その言葉にさらに頭に来て、ぼくはたたみかけるようにいった。 

「おい、ふざけたこと言ってんなよ!じゃあ、なんで逃げんだよ!」

  男はだまった。そして少し恐れおののくような顔をして、ただぼくのことをじっと見つめた。別に彼を改心させようというような高尚な思いは持っていない。けれども、悪かった、とは思わせたかった。彼にもきっとあるはずの良心に訴えかけたいと思っていた。だからぼくは、悔しいけれど本心を言った。 

「ほんとに信じたんだよ。話してて楽しかったし。ショックだったよ、あれが全部、騙すためのウソだったなんて・・・」

  おれはなんてあまちゃんなんだと思いつつ、男を睨みつけながらそう言ってみた。すると男は困惑したように、ただ、そのままの顔で「ああ・・・」とだけ言った。
 何を期待していたわけではないけれど、そんなやりとりを何度かしているうちに、やはりむしょうにむかついてきた。 とにかくこの男に後悔させてやりたかった。自分が物書きをしていることは話していたので、渾身のハッタリをかましてこう言った。 

「お前のこと、全部調べて雑誌とか新聞に書くからな。もう調べ始めてんだよ。ふざけたことしやがって、絶対後悔させてやるよ」

  男は強張った顔のまま、ぼくの目を見つめ続ける。なんとか言えよ、と思った。しかし何も言ってこないので、それ以上言うことがなくなってしまった。調べているわけではないし、具体的に言えることがあるはずがない。なんだか分が悪くなり、仕方なく話を変えた。 

「お、おい、とにかくお前、金返せよ。もってんだろ」 

 すると男は口を開いた。

「いくら払ったの?」

 悔しい気持ちを思い出しながらぼくはいった。

「1000元だよ」

 そして続ける。

「おい、お前そのくらいもってんだろ、返せよ!」

 そう言いながら男を睨みつけていると、いつの間にか自分が、小男をつかまえて脅すカツアゲ野郎になったような気分になる。いや、ちがうんだ、これは正当な要求なんだ、被害者はおれなんだ・・・、と言い聞かせながら、慣れない台詞を繰り返した。

「おい、金出せよ!」

  男は言う。

「いまは持ってない。金は店にあるよ。店に行こう」

  このアウェイな異国の道端で無理やり金を出させるわけにもいかない。それにこの男が大した金を持ってないのは本当だろう。しかも強引に金を奪ったりしようものなら、いよいよ強盗ふうになってしまう。

 しかし、店に行っても金が戻ってくるわけがない。そして第一、さすがに店に戻るのはまずいと思った。ただ、とりあえず歩きながらいい作戦を考えるしかなかった。

 「よし、じゃあ、店に連れていけよ」

「うん、わかった」

 そうして二人、人ごみをかき分けて、誰もいない北側の暗がりに向かって足早に歩き出したのである。

その3に続く)

『遊牧夫婦こぼれ話』第2回「上海の落とし穴1」(2014年7月「みんなのミシマガジン」掲載記事を再掲)

【『遊牧夫婦こぼれ話』は、ミシマ社のウェブマガジン「みんなのミシマガジン」にて、2014年6月~2017年7月まで毎月書かせてもらっていた連載です(全38回)。「遊牧夫婦」シリーズの中に収められなかったエピソードや出来事を振り返りつつ、しかしただ過去を振り返るだけでなく前を向いて、旅や生き方について、いまだからこそ感じられることを綴っていく、というコンセプトの連載でした。現状、ミシマガジンでは読むことができないので、ひとまず、面白がってもらえた回だけでもこちらに随時アップしていく予定です。再掲にあたって細部は少し調整しました。】

第2回 上海の落とし穴 その1

2014.07.04更新

  6月、上海に行きました。4月にソウルに行ったのと同じく紀行文の連載のためです。
 行き先はドイツかニューヨークになりそうだということだったのに、直前になって急に、「上海に決まりました」との連絡が。すっかり気分は西洋だったので、気持ちを切り替えるのがちょっと大変だったものの、上海といえば、2006~07年にかけて1年半ほど住んだ土地です。気持ちを切り替えてしまえば、7,8年ぶりの再訪がとても楽しみになりました。 

 2008年の北京オリンピック、2010年の上海万博を経て、中国はガラリと変わったというようなことは聞いていました。いったいどうなっているんだろう、とわくわくしながら上海の町に降り立ちました。
 しかし、着いた瞬間の感想としては、みながスマホを持っていることぐらい以外、ほとんど記憶通りの風景でした。
 ああ、懐かしい――。

  上海は、自分のライター人生にとって1つの転機となった場所です。というのは、ここに住んでいるときに初めて、貯金を食いつぶすことなくライターとしての収入で生活ができるようになったからです。ちょうど30歳になったころのことでした。
  そういう意味でも、いろんな思い出のある、極めて親しみのある町です。そこに1週間滞在して紀行文を書くのが今回のミッション。
 こんなに楽しい仕事はめったにない! そう思って、ぼくは気楽に、本当に気楽な気持ちで上海の町を歩き続けたのでした。 

 しかし、そこに落とし穴が待っていました。
 まんまとやられてしまったのです――。
 5年半の旅においても、こんなに間抜けななことはありませんでした。

  自分の馬鹿っぷりをしっかりと記録するため、
 この悔しさを忘れないため、
 さらにみなさんに注意を促すために、
 そしてなんといっても、こんな話をネタにしない手はないので、
 その顛末の一部始終を書きました。

 長文すぎて3回にわたって掲載という、連載2回目から変則的な形になってしまいますが、どうぞみなさまお付き合いください。

  *

  上海滞在2日目の夜――。
 テレビ塔や超高層ビル、西洋近代建築がまるで博物館のように川の両側にずらりと並ぶ外灘(ワイタン)から西に延びる南京東路を歩いていたときのことである。無数の観光客の中にいた旅行者風の男が突然地図を出しながら中国語で聞いてきた。
「ここからどう進めば○×に行けますか?」

外灘(ワイタン)から西に延びる南京東路。写真奥は東向き。ピンクと紫に光っているのが川の向こうにあるテレビ塔。この道を西向き(写真手前方向)に歩いてるとき、男に声をかけられた。

外灘(ワイタン)から西に延びる南京東路。写真奥は東向き。ピンクと紫に光っているのが川の向こうにあるテレビ塔。この道を西向き(写真手前方向)に歩いてるとき、男に声をかけられた。

  「すみません、わかりません。ぼくも上海の人間じゃなくて旅行者なんです」
 そう答えると、ああそうなんですか、と彼は言った。日本人だというと、彼も自分のことを話しだした。
「ぼくは天津から旅行で上海に来ています。日本の会社の工場で働いているので、日本語が少しわかります」
 なるほど、たしかに日本語が話せるようだった。白いシャツに薄茶色のパンツをはいた典型的な中国人ファッション。坊主頭で背は小さく、人の良さそうな顔が印象的だった。年齢は45歳だと言い、話しているうちに日本語はだんだんと流暢になる。途中から会話はすべて日本語になった。 
「ぼくは劉です」「近藤です」
 互いに自己紹介をし、何をしているのかなどを話しながら、賑やかな南京東路を西に向かって二人で歩いた。今回、いろんな中国人の話を聞きたいと思っていたこともあって、ちょうどいい人が声をかけてくれたと内心ぼくは喜んでいた。 

 そしてそのうち、彼はこんなことを言い出した。
「天津じゃ、家族といるからなかなか羽を伸ばせないでしょ。だからこうやって旅行に来たときに、女の子と遊ぶのが好きなんだよね。それが一番楽しいんだよね。近藤さんはどう? 日本では最後までやるといくらくらい?」
 ああ、普通にエロいおっさんなんだなと思い、笑って適当に答えておく。ホテルの人に安くてかわいい子が多い店を聞いてきたんだ、エヘエヘと笑うので「そうか、よかったね、楽しんでね」とぼくも笑った。

 その後15分ぐらい歩いていると、彼は「一緒にお茶屋さんにいかないか」と誘ってきた。話していて楽しかったし、時間もあったので、ぼくは一緒に行くことにした。
 鉄観音のお茶を試飲しながらまた二人で世間話。彼は、試飲させてもらった鉄観音を家族に買うといって50元(800円ほど)払い、ぼくは何も買わないで店を出た。
 「じゃ、ぼくはこれから女の子と遊びに行くけど、近藤さんはどうする?」
 男が言うので、じゃあ、ぼくはもう帰るよと言った。すると彼は名残惜しそうに誘ってくる。
「ビール一杯だけでもどう?一杯飲んで帰っても大丈夫だから。そのあとぼくは女の子と遊ぶから」

  このとき、会話では女の子と遊ぶ場所として「KTV」という言葉を使っている。ぼくの認識では、KTVとは、キャバクラや風俗店の意味がありつつも、普通のカラオケという意味でも使われているものと思っていた。上海に住んでいた当時、日本人の友達と何度かカラオケに行ったことがあったけれど、そのときも「KTVに行こう」と言っていたと記憶している。境界がよくわからずにいた。
 だからこのとき、男にKTVと言われても、ビールだけ飲んで話したりできる部屋があり、そこでまず飲んでから、彼だけ女の子と奥に行くのだろうぐらいに思っていた。

 ビール一杯だけ飲んで帰ろう。本当に何の疑問もなくそう思って、ぼくは男についていった。そして暗がりの中にあった、男が「ここだ、ここだ」という店に彼と二人で入っていった。

  カラオケのある大きな部屋に案内されると、数秒遅れてミニスカートの女性2人と普通の店員っぽい女性が入ってきた。おいおい、いきなりそういう展開か、とソファに腰を掛けつつ思っていると、ミニスカートの女性2人はそれぞれぼくと男の横に座り、店員女が説明を始めた。 

「30分150元、1時間300元、うちは明朗会計の店だから、安心して遊んで行ってくださいね」

  ビールを頼むとハイネケンの缶が2本出てきて、早速30分150元(約2500円)を払わざるを得ない展開になった。
「ああ、ビールだけとちがったのか......」
 と思ったが、仕方がない。

  一方、男は1時間だからと300元を支払った。そして男は、話す間もなく隣で女性に触り始め、2分もしないうちに、「じゃあ、ぼくは別の部屋に行くから」と女性の身体をまさぐりながら消えてしまった。

 随分話がちがうじゃないかとぼくは思った。でも、彼はやりたくてしょうがない感じだったので、まあ納得した。ただ、ぼくも女の子と二人になってしまい、彼女もなんだか積極的な雰囲気なので、そういう店なら、もうぼくは帰ることにした。

  女性は、髪が長く、顔立ちのはっきりとしたちょっとベトナム人っぽい子だった。仕事熱心なのか、積極的に誘ってくるので、「いや、ほんとにそういうのはなしで。ビールだけ飲んですぐに帰るから」というも、「ええ、なんで~。いいじゃない、誰も入ってこないから、あなたの好きにしていいのよ」と食い下がる。

 「いや、ほんとにそういうんじゃないから」
「いや、でも・・・」

 そんなやり取りが何度か続いた。彼女はなんとかぼくを説得しようと必死だった。最初に来た店員ふうの女性を連れてきて、「とりあえずblow jobだけでも」と言わせたり、私が気に入らないんだったら、ほかの女の子を選んでもらってもいいのよ、と別の3人を並ばせたり・・・。
 いくら、「そういうのはいいんだって」といってもわかってもらえず、ぼくはだんだんと面倒になった。そして帰ろうとすると、彼女は言った。
「わかった、わかった、話すだけでいいから」
 さっさと帰りたいと思ったものの、30分まであと10分ぐらいになっていたため、時間まで話してすぐ帰ろうと、とりあえず話し出した。
 しかし、ただ話すだけだったはずの彼女は、暗がりの中、気づくと自ら脱ごうとしている。その執拗さにいよいよ呆れ、ぼくはバックパックを持って勢いよく立ちあがった。中国語に英語を交え、「いいっていってんだろ!話すのがいやなら、もう帰るから!」といって、足早に外に出ようとした。

  が、そのときのことである――。
 部屋を出ようとしたのとほとんど同じタイミングで、外からゴツいおばちゃんが体を揺らしながら入ってきた。パパイヤ鈴木と大仁田厚を混ぜ合わせた感じの、タフそうで、見るからにめんどくさそうな中年女だった。「私は厄介です」と、顔に書いてあるようなそんな女だ。
 うわ、こいつはやばそうだ・・・と思っていると、パパイヤ女が言った。
「おい、おまえ!帰るなら、わかった。帰っていいから、その前に金を払っていけ!」「金?さっき150元払ったじゃないか!まだ30分もたってないぞ!あ、ビール代は払うよ、いくらだよ」
 というと、彼女は言う。

「さっきの150元は、あの女のチップだ。うちとは関係ないよ。ビール2本で70元、あとはこのVIPルームが400元、あの女の子のギャラが300元、それに○○が300元、全部で1070元。金を置いて出ていけ!」 

 その言葉を聞き、ぼくははっとした。そして、ドアの中央の窓越しに部屋の外を見ると、ドアの前にはゴツイ男がこっちをにらみながら立っている。

 このとき初めて気がついた。おれははめられていたんだと。愕然として、全身から力が抜けた。思わず前に倒れそうになる身体を、ぼくはひざに手を当てて必死に支えた。

 くそ、いったい、どうすりゃいいんだ……。

その2に続く)

ノンフィクション『吃音(仮)』、2019年1月に刊行予定となりました

2013年に取材を始め、2014年より『新潮45』で不定期連載をしてきた吃音に関するノンフィクションの書籍版『吃音(仮)』の原稿がかたまり、ようやく、ようやく、入稿段階(本の形にする段階→ここから仕上げの修正作業に入ります)まで来ました。

昨年夏に連載を終えてから書籍化作業に着手してからすでに1年以上。予想以上に長い時間がかかりましたが、担当編集者の多大な力添えを得ながら、構成から細部まで大幅に書き直し、新たな取材も多く加えて、現状の自分の全てを出し切ったと思える一作になりました。

今年の春、よし、これで完成!と思った段階で、編集者から厳しくとても熱のこもった指摘を受け、そのときは、いったいどうすればいいのだろうかと途方に暮れてしまいましたが、それを機に改めて全体を見直し、4カ月ほどかけて全体を練り直した結果、本当に見違えるように変化しました。厳しい言葉をかけてもらえて本当にありがたかったです。そして、なんとか自分自身納得いく形にまでもっていくことができました。

吃音は、高校時代から現在に至るまで、自分自身の生き方に最も大きな影響を与えてきた要素と言えるかもしれません。吃音に悩まされ、就職するという選択肢を消し、自分なりにどう生きていこうかと模索する日々を経てなかったら、きっと長旅にも出ていなかったし、文章も書いていなかったかもしれないと思います。

また、いまから15,6年前の2002~03年、日本を出る直前に、ライターとして初めて自分でテーマを決めて取材して書いたルポルタージュも、吃音に関するものでした。まだライターとしての経験が皆無に近い自分が、自分にしか書けないと思えて、かつ、文章として世に問う意味の大きいテーマは何だろうと考えた結果、これしかないと思ったのです。

その時以来ずっと、いつか吃音をテーマに、本格的な、自分ならではのノンフィクションを書きたいと思い続けてきました。そして2013年にその機会を得て不定期の連載を始め、それから5年の月日をへてようやく、一冊の本としての完成が見えてきました。

吃音を取り巻く環境はこの5年の間に少なからず変わりました。当事者の活動も活発になったし、メディアなどで話題になる機会も増えました。それでも、実際に吃音で苦しむ人の状況は決して大きくは変わっていません。そんな中で、何か新たな一石を投じられる一作にしたいという思いで書き上げました。

これからまだ細かな確認・修正作業、また、本として仕上げていく作業が続きます。2019年1月刊行予定です。

ライターとして仕事をするようになってから15年がたつ自分の、現時点での集大成という気がしています。

是非是非、多くの方に読んでいただきたいです。

また、この5年間にわたってとても多くの方に取材に協力していただきました。本当に感謝の念に堪えません。


『新潮45』休刊に際して思うこと

最悪な形で、『新潮45』が休刊に。4日前にツイッターに

<炎上商法に走る雑誌は、苦しくなった紙の雑誌がまさに最後の断末魔の叫びを上げながら火の中に飛び込んでいき、盛大に燃え消えていく前段階のようにも見える。『新潮45』、思い入れのある媒体だけに、なんとかもう一度、志のある雑誌に戻ってほしいなと心より思う。>

と書いたけれど、前段階などではなく、想像以上の勢いと、雑誌として最も悲惨な形で早々に燃え消えていってしまった。

『新潮45』は、いま、最終局面を向かえている自分のノンフィクション作品の連載媒体(最後に掲載になったのは2017年8月号)であり、自分にとっては最も身近な雑誌の一つだったこともあり、最近の杉田水脈氏の論文から今号のあまりにもひどい記事、そして炎上騒動まで、非常に残念な気持ちで注視していたけれど、歴史の長いこの雑誌が休刊になるとまでは思ってはなく、致し方ないとはいえ、極めて悲しいです。

自分が書かせてもらい始めた5,6年前は全然こんな雑誌ではなかったと思う。ぼくが個人的に知ってる『新潮45』の編集者は、優秀で常識的な方たちばかりの印象で、本当になぜこんな風に凋落していったのかがわからない。しかし一方で、最近の2号だけではなく、どのくらいだろう、今年に入ってからぐらいかな、毎回、特集のタイトルがあまりにネトウヨ的でひどくて、なんでこんな雑誌になってしまったんだろうと、ページを開く気もしないまま、ポンと置いてしまってそのままになることが多かった。

と考えると、この状況に至るのも振り返れば必然だったのかもという気もする。しかし一方、その変化も含めて、単に編集部がどうこうというより、紙の雑誌が売れなくなった時代の、一つの残念すぎる末路という感じがする。売れない→しかしなんとか部数を伸ばさないといけない→どうするか→内容のおかしさには目をつぶって炎上商法に走ってなんとか部数を確保しようとしてしまう。

ぼくが連載させてもらっていた新潮社のもう一つの雑誌『考える人』も、昨年、こちらは自分の連載中に休刊になった。状況は『新潮45』とは全然違って、最後まで内容的には信念を貫いて作られたとてもいいものだったと思うけれど、売上的には苦戦していたのだろう、経営判断として、休刊となった(結果、編集長も、自分の担当編集者も新潮社を去った)。

形は違えど、どちらもいまの時代の紙の雑誌の難しさを反映した出来事なんだろうと思う。

時代の流れだと思うと、今回の『新潮45』のような最悪な終わり方をする雑誌が今後も出てるかもしれない気もする。しかしそれは絶対に避けてほしい。紙の雑誌の役割は、一部を除いてかなり微妙になってきているのは読み手としても書き手としても思うけれど(その一方で、本は全然そんなことない)、今回のひどい展開を教訓に、どの雑誌も、なんとかここまでは落ちないでほしいなと願いたい。

実際自分も雑誌を買うことはかなり減ったし、紙媒体を作り上げるものすごい手間や作業量、その割に全然売れない実情を考えると、紙の雑誌が姿を消していくのは避けられないとも思う。しかし、強調しておきたいのは、紙の媒体というのは、ネット媒体に比べて総じて、本当に幾重にも人の手や目での確認や修正を経て、出来上がっている。しかも、紙という有限の空間にいかに収めるかということで、ネットでは考えられないような細かな手間暇が込められ、文章が練られて、出来上がっている。それゆえに、紙ならではの文章というのが確実にあると思うし、売れないなら、じゃあ、全部ネットでいいじゃんとは全然ぼくは思わない。なんとか紙媒体、紙の雑誌が、生き残っていってほしいと心から思う。紙媒体があるかないかで、今後、私たちが書く文章のあり方が変わってくる気がしている。

ただ、手間暇がかけられているゆえに、逆に、今回の『新潮45』のような唖然とする記事を掲載することの重みも大きいと思うし、だからこそ今回については、休刊やむなしとも言えるのかもしれない。

新潮社は、一緒に仕事をさせてもらっている編集者を見ても、また同社の本や歴史を見ても、本当に日本にとって大切な出版社だと思うし、自分もこれからも仕事をさせてもらいたいと思う出版社。なんとか、今回の件を乗り越えてまた信頼を取り戻し、復活してほしい。

自分も、上記のように『新潮45』で連載させてもらい、近々完成する予定のノンフィクション本を、納得いくものにして世に送り出したい。

引き続き全力でがんばります。

あまりにもシステムが整い過ぎたこの時代に、「旅と生き方」の講義をして、学生たちの感想・レポートを読んで思ったこと

「旅と生き方」をテーマにした大学講義のレポートの採点を終え、先日成績を提出しました。履修者が299人いて、レポートが270人分ぐらい。読むのがかなり大変だったけれど(おそらく新書3,4冊分)、7年目の今年は、講義をしていても、レポートを読んでも、おそらくこれまでで一番、学生たちがいろいろと感じてくれ、何か行動を起こそうとするきっかけになったらしいことが感じられました。

旅が人生においてどのような意味を持つか、というのが講義の主テーマで、いろんな人の生き方や表現物、また、自分自身の経験を元に話していくという講義です。

毎回小テーマを1つ決め、関連するドキュメンタリー映画などの映像作品を20分ほど見てもらい、あとは講義するという形をとっています。

たとえば「人はなぜ旅をするのか」というテーマでは、一人の若者が全てを捨てて旅に出る「イントゥ・ザ・ワイルド」、「異文化」がテーマの回は捕鯨に関する問題作「ザ・コーヴ」、「冒険」の回では迫真の登山映画「運命を分けたザイル」、旅の空気感そのものを知ってもらいたい回では「深夜特急」、「国とは何か」を考える回では、東ティモールで起きた虐殺事件に絡んだニュースドキュメンタリー映像やインドネシアの"英雄"たちをかつてない方法で描いた「アクト・オブ・キリング」の一部を観てもらい、そこから話を広げていく、という具合です。

その全体の縦糸となるのは、自分自身の26歳~32歳までの長旅の話です。15回で、5年半の旅が少しずつ進んでいき、毎回、その時々で自分が直面した問題、出会った人、その土地のこと、悩んでいたこと、などの話をとっかかりとして、それに関連するテーマを一つ絞って上のように紹介します。

とりあげるテーマのおそらく半分くらいは、たとえば「働くとはどういうことか」「コンプレックス」「異国で暮らすこと」「メディアの問題」「表現すること」「時間が有限であることの意味」など、必ずしも旅とは関係ありません。ただそれらはいずれも自分にとっては、旅を通じて感じ考え、いまの自分の深い部分を形成しているテーマです。そしてそれらは、結果としていずれも、いまの学生たちがそれぞれ、現在の悩みや気持ちと重ねて考えられる事柄が多いようで、旅が自分に与えてくれた課題のようなものは、ある意味、若い世代にとって普遍的なテーマであるんだろうなあとも感じます。

毎回の講義ごとに出欠を兼ねてみなに感想を書いてもらい、次回の講義の冒頭でその中のいくつかを紹介するのですが、みなの感想を読んでいると、「自分はいったい何しに大学に来ているのだろう」とか、「なんとなく大学、就活という流れに乗っているけれど、これからどうやって生きていったらいいのかわからない」などと、現状に悩む学生がとても多いことを感じます。

きっと本当は、それぞれ何かもっと時間やエネルギーを費やして考えたり、行動したいと思う対象があったり、または自分はどう生きたいかということにじっくりと向き合いたいのにもかかわらず、今の世は、あまりにも、やれ就活だインターンだ資格だ、そのためにはいまこれをやりなさい、説明会をやります、いまから手をうっておかないと人生やばいです、生き残れません、そんなことで将来大丈夫ですか、みたいな外からの声や圧力が大きすぎて、それらを振り切って自分の好きな道に進むというのが、ぼくが大学生だった20年前に比べて圧倒的に難しくなっているように感じます。

社会や時代の要請ありきではなく、自分がどう生きたいかをそれぞれが考え、それぞれに合った道を思い切って進めるのが理想だとぼくは考えていますが、いまの日本はあまりにもシステムが出来上がりすぎていて、そのシステムの中でいかに高いパフォーマンスを発揮できるかという価値観が強すぎるとつくづく感じます。

ちなみにぼくらの学生時代は、就活なんて自分が動かなければ大学が何を言ってくるわけでもなかったし、そういう意味では、今と比べると、人生がとても本人にゆだねられていたような気がします。昔の方がよかった、とかそういうことでは全くありませんが、ただ、そういう時代だったからこそ、決してそんなに大胆ではない自分でも、就活しないでライター修行を兼ねた長旅に出る、などという、いまから思うと突飛な進路に進もうと思えたのかもしれないようにも感じます(吃音で就職したくない、というきっかけが大きな後押しになったわけですが)。

つまり、振り返ると、当時は、生きたいように生きることが、意識の上ではいまよりも簡単だったように思います。いまは、技術的には可能なことが圧倒的に多いから、自分はこう生きるんだ、という明確な意志がある人にとってはおそらく可能性は、以前に比べて格段に大きく広がっている。でも、ちょっと立ち止まって考えたい人、どうしようかと悩んでいる人にとっては、辛い時代になっているような気がします。生きていく道は実は他に無数にあるのに、そのことを考える隙や時間を与えてもらえず、ものすごい勢いの流れの中で、なんとか溺れないようにその流れについていくのにみな必死、という印象を受けるのです。

そうした流れに乗っていくのが当然で、人生とはそういうものだと知らず知らずに考えるようになっている学生たちにとっては、旅に出る、または全然違う道を歩いていく、ということは、あまりにも無謀で破天荒で、ちょっとそんなことはありえない、、と感じるらしいことをかれらの感想を読むほどに感じます。

でも、講義を進めていくうちに、だんだんと、「いや、まてよ、生き方ってそんなに画一的なものではないらしい、もっと自分がやりたいことをやっていいんじゃないか?」と思うようになってくれた人が少なからずいてくれたようでした。一歩外に踏み出せば、こんなにも別世界が広がっていて、こんなに違った生き方をしている人たちがたくさんいる。そして自分自身もまた、いま当然と思っている以外の生き方が、じつはいくらでもできる可能性があるんだ、と。もちろん、自分で選んだ道を進むのには、当然厳しさもついてくるけれど、それでも、より自分の気持ちに率直に動いてみたい、動いてみます、と、おそらく本音で書いてくれている人が多くいました。

ネットによって、コミュニケーションに関しては物理的な距離はほとんどなくなったものの、それに反比例するように、現実の中での異国や未知の世界への距離はどんどん大きくなっているのかもしれません。

そしてそんな時代だからこそ、未知の中に身を置くことが本質にある、旅というテーマが、逆に深く響くのかもしれません。

今年は、講義を受けた結果、留学や旅行に行くことを決めました、とレポートのあとの感想に書いてくれた人が多くいました。直接、留学などに関して相談に来てくれた学生も複数名いて、そうしたことに、講義をした意味を感じて、嬉しかったです。

旅に出ることであったり、自分の好きな道に進むことだったり、自分の気持ちに従って一歩踏み出しますと、書いてくれてた皆さん、心から応援しています。気をつけて、かつ思い切って、よく考え、でも考えすぎずに、未知の世界へ一歩を踏み出してみてください。きっとそこから世界は想像以上に膨らんでいくはずです。

プロフェッショナル

中学時代に通い、学生時代には講師もしていた塾で、拙著『旅に出よう』(岩波ジュニア新書、先日9刷になりました)がテキストとして使われていたことを知りました(下リンク)。

変わる進学/「国語4技能」小中学生から
https://www.asahi.com/articles/CMTW1805281300007.html

塾はSAPIX。いまは代ゼミと合体して組織も状況も全く違いそうだし、また小学生と中学生ではいろいろと違うのだけれど、中学時代、出来て間もないこの塾に通えたのは、自分にとって大きな人生の転機だったと思うほどしっくりくるいい塾でした。

受験や塾の現在のあり方には違和感が多いけれど、自分は生徒としてはどっぷり受験に浸ってきた方です。あの時代はなんだったんだろうと思うときもあるし、でも一方で、よかったなと思うことも多々あります。

その中で、先の塾に出会わなければ勉強に対する興味も何も全然違っただろうなと思うぐらい、勉強の面白さを教えてもらった感謝の念があります。数学1問を、ヒントをもらいつつ3時間かけてでもとにかく自分で考え抜くという経験をこの塾でしたことで、その後物事を学ぶ上で自分自身にいろんな変化があったような。

いまは超大手となったこの塾も、自分が通っていたとき(91~92年)はまだ、ある塾から一部の先生たちが独立して作ったばかりのころ。2教室しかなく、教室も整ってないバタバタした借り住まいの中、手作り感満載の状況。

雪が降ったら途中雪合戦の時間も交えたりもし、でもやるときはみな集中して勉強する、すごく楽しい雰囲気だった。勉強ってスパルタ的にやる必要はない、楽しくやってもちゃんとできるようになるんだってこの時の先生たちが教えてくれました。

当時、この塾を率いていた一人である英語のN先生は、ものすごく熱く、志が高い人でした。たぶん、その熱さと不器用なほどの志の高さによって、前の塾から独立してきたのだと想像していたけれど、その後10年以上かけてこの塾が有名になり組織が大きくなって、どんどん変化していく中(学生時代にぼくがここで講師をしていたとき、すでに自分が中学生だったときとはだいぶ違う印象でした。組織が大きくなるとはそういうことなんだなと当時実感)、おそらく彼だけは信念を一切曲げなかった。

他の先生から言わせたらたぶん融通が利かない人ということになるのだろうけれど、そのころ、自分が30代になったころ、旅の途中で一時帰国した際に、何らかのきっかけでN先生と連絡を取り再会することになって会ってみたら、驚くほど当時と印象が変わらなくて、びっくりし、凄いなと感じました。熱くて、志が高いままで。

結局、再び、他の先生と折り合いがつかなくなって彼はまた独立して新しい塾を作り、大学受験の世界へ。そこは広告とかを見る限り、ぼくが当時知っていたSAPIXに近い印象で、なんだか懐かしい感じでした。

「プロフェッショナル」ということを考えるとき、このN先生はよく頭に思い浮かぶ一人です。30年間、おそらくずっと志を貫いている彼のすごさが、自分も仕事をするようになって実感できます。ただ「いい点を取れ、合格しろ」というのではなく、もっと大きな意味で、N先生はじめ、当時の先生たちには背中を押してもらったという気持ちが自分にはあります。

一般論として、いまの塾のあり方についてはいろいろと懐疑的だけれど、当時のあの塾であれば、また行きたいなと思います。

ハードルと可能性

ニュージーランド、今日で5日目、あと2日となりました。初日は夜、オークランドに着き、空港で車を借りて(1日3000円ほどと安い!)、市内の中心部でゲストハウスの7人ドミに宿泊。そこで、ニュージーランド人の旅行者からいろいろと話を聞くところからのスタート。会う人会う人、親切で印象がいい。一方、いまのゲストハウスは、聞いていた通り、みな各自スマホしてて実に話しづらいということも実感。それは残念。

翌日は、朝からオークランド大学へ。街中の森のようなキャンパスがじつにいい感じ。大学で働ける可能性はないかと、聞いて回りました。2ヶ所回ったあとに、日本語専攻コースのアドミニの人にたどり着き、話に行くと、とても親切かつにこやかに対応してくれるけれど、ネットでのjob offerを見て仕事を探しなさい、というとても全うな回答(job offerを見てメールしたけれど、返事が得られにくそうだったので直接来ましたと説明)。

そして、いま直接先生と話に行きたい、と言うと、「いや、みな忙しい人たちだから、礼儀としても先にメールを入れてアポを入れるべきなんじゃないか」といわれて、確かにそうですと納得して、しかしそれでも、あと一歩踏み込むべきかもしれないと思い、先生方の部屋の前まで行ったものの、いろいろ悩み考えた挙句、もう一歩先に進めず退散。

その日の午後、今回NZ行きを誘ってくださった方(一ヶ月前にインタビューで初めて会った方)を頼って、オークランドから120キロほど南のハミルトンへ。いまもその方のおうちに泊めてもらっています。

ハミルトンでは、その方のご紹介で、初日は中学校2校の見学へ。NZの教育の、日本とのあまりの違いに驚かされる。みなが一緒に学ばなければいけない科目は最小限で、あとは、それぞれ自分の得意なところをいかに伸ばすか、というところに最大のエネルギーを使っている模様。たとえば、僕らを案内してくれる子どもたちは、授業など出ないでぼくらを案内することを優先させてもらえる。音楽が得意な子は、一人で音楽家について練習をさせてもらってる。という感じでした。

その次の日は、同じく泊めてくださっている方のご紹介でハミルトンにあるワイカト大学で、南極の研究者、そして2人の大学の先生方に会う。研究者には、サイエンスライターとして仕事を得ることができないかと相談し、2人の先生方には、ライティングの授業などが自分に出来る可能性がないかを相談。可能性は決して大きくはないものの、みなさんそれぞれに方法を探ってくださる感じで、大感謝。

実際にどう展開するかは別にして、こうして、真剣に考えてくださるNZの方々の雰囲気に、大きな魅力を感じています。

そして今日は、ハミルトン各地のオープンハウスを見学に。家を買うというイメージは現状一切ないものの、とりあえずハミルトンで生活する場合の住宅そして必要な費用の感覚がなんとなくイメージできるようになりました。

自分たちには資金力もなく、子どもたちをつれての移住というのはハードルが高いことを実感してます。でも、実現できるかどうかは別として、まだ見ぬ人生の可能性、先が予想できない生き方の可能性を探るというのは、それだけで本当に、ありうる様々な人生を想像させてくれ、日常を豊かにしてくれると感じながら、この数日を過ごしています。

あと明日一日過ごしたら、明後日オークランドに戻り、できることをして、夜の便で日本に戻ります。

Auckland

Auckland

先の見えない人生を取り戻すべく

とても偶然な展開から、来月ニュージーランドに行き、住めるかどうか検討することになりました。

NZに住みたいというのは、前々から妻と話していたことでしたが、これまで具体性はゼロ、むしろ考えれば考えるほど、生活のことを考えると実現は難しいだろうという気持ちが増していました。

今月の初めまではまさにそんな状態だったのですが、たまたま仕事で出会うことになった人から思わぬ誘いをいただきました。これを断ったらおそらく一生行くことはないだろうというぐらいのタイミングと縁だったため、とりあえず一週間ほどですが、一人で行ってみることにしました。

別に仕事のあてが決まったとか、家をもらったとか、宝くじに当たったとか、そういうことは全くなく、ただ、現地に行くきっかけをいただいたというだけで一切白紙の状態です。テクニカルな面は何も変わってはいません。

でも、この機会を最大限に生かしたいなと、いま人生初の就職活動的なことをしており、Linked Inのページをつくり、仕事の合間をぬって急遽NZの大学や会社など、自分が働くことができそうなところに連絡をとって、とりあえず会って話だけでもしてきたいと思い、動いています(というのも、家族で生活することを考えると自分が仕事を得て労働ビザをもらうことが不可欠だからです)。

とはいえ、そんなにうまくことが進むわけもなく、すでに厳しい現実を垣間見つつありますが、それでも、なんというか、NZを意識して動き出してから、気持ちがすがすがしいというか、やっぱり先が見えないっていいなあって改めて感じさせられています。

長い旅していたときは、2,3年前のことでも、日付があれば、どこで何をしていたかを鮮明に思い出して風景を思い浮かべることができました。それだけ一日一日が違ったのだと思います。そして明日のことも来月のこともわからなかった。

しかし最近は、1週間が、10年前の1日のような速さで過ぎ去り、1年前と2年前のことの区別がつかなくなっています。そして数ヶ月後もかなりの確度で想像ができてしまうような日々に、このままでいいんだろうかという気持ちが強くなってきていました。

何か生活を変えられないか。旅していたころのような感覚を取り戻したい。いつしかそんなことをよく思うようになっていました。そんなときにふと、NZという未知の世界を少しだけ現実的に考えられる機会が目の前に現れた。それを思わずぱっと手でつかみ、するっと手から滑り落ちそうな状態ながら、さてどうすればいいのか、と必死に捉まえながら考えているような状況なのです。

繰り返しますが、何も状況は変わってないので、何か進展があるかどうかは一切分かりません。しかし、ただ目の前に、未知の世界が広がっていて、そこでの新たな人生を模索するだけでこんなにも気持ちが新鮮になるのか、ということをいま感じています。

先が見えないというのは、やはり素晴らしい。

いい意味でこれからも、先が見えない人生を送りたい。

そんな気持ちを新たにしながら、3月の後半を過ごしています。

7年間を終えるにあたって、大学で出会った学生のみなさんへ

2011年から7年間講義をやらせてもらっていた京都造形芸術大学の非常勤講師職が今年度でいったん終了となり(通学部。通信教育部は継続します)、先週、最後の授業(合評会)を終えました。

その日は学生たちにとっても学期の授業の最終日で、例年通り、学科の学生と教職員全体での飲み会がありました。
その場でぼくは、思いがけず皆さんから花束までいただき、学生たちにも先生方にも温かい言葉をかけてもらい、幸せな気持ちで最後の日を過ごさせていただきました。

またその際、思っていた以上に複数の学生が、自分の講義や言葉を覚えていてくれたり、大切にしてくれていたことがわかって感無量でした。

その会の終盤、ひと言挨拶をさせていただきました。

嬉しい気持ちやお礼とともに、文芸・文筆を学ぶ学生たちに、以下のようなことを話させていただきました。

参加していなかった学生たちや卒業生たちにも伝えたいと思ったので、話したことを改めて文章にしました。学生の皆さんの今後の活躍を祈りつつ。

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文章を15年ほど書き続けてきてなんとか生計を立てられるようになったいま、強く感じるのは、書く上での"技術"を学ぶことの大切さです。

文章で何かを伝えるということには、技術がいる。
そのことを最近痛感するようになりました。

これといった技術がなくとも文章は書けるし、思いを伝えることも可能です。ときにむしろ技術なんてない方が、思いが伝わる場合もあるように思います。

しかし、文筆を仕事とし、継続的に書き続けていこうとすれば、どうしても基盤となる技術が必要です。文芸を学ぶ学生たちには、それを大学時代に身に付けてほしいし、大学で教える身としても、そういった技術をしっかりと教えなければならないと、ここ1,2年で強く感じるようになりました。

特に今、ネットメディアやSNSの発達により、媒体は無数にあり、誰でも書いたものを多くの人に読んでもらえる機会があります。それはとてもいいことです。しかしそれだからこそ、文章を書くことを仕事にしようと思えば、伝えるための技術が必要だと思います。

その技術を身に付けるために必要なことはいろいろありますが、大切なことの一つは、文章を書くとき、その全てに自覚的になることだと思います。自分の原稿の一文一文について、たとえば、この文はなぜ「である」ではなく「だ」で終わるのかと問われたら、その理由を自分なりに答えられるべきだというのがぼくのいまの考えです。その理由に正解などはないけれど、ただ、書き手が自覚して書くことが大事だということです。一文一文にそのくらい自覚的に書いていくことで、文章は少なからず研ぎ澄まされていくと思っています。

その一方、技術では人を感動させられません。人の心を動かすのは、ほとんどの場合、技術ではありません。心を動かすのは、その言葉にどれだけ書き手の気持ちが込められているかだと思います。

それは、書き手の生き方、考え方、これまでに経てきた悲しみや喜びなど、様々な経験や時間が問われます。取材して書くのであれば、書かれる側の人に対して、十分心を寄せることができるか、読む人たちの思いにも想像力を働かせられるか。また、書くということが決して軽いことではなく、ある種、責任の伴う重いものなのだということを意識できるか。文章を書くということは、そういったあらゆることが問われているように思います。

文章を書くことの魅力でもあり怖いところは、そうしたその人自身の人間性のようなものが、必ずどこかに滲み出ることです。それは文章に書かれた主張ではなく、一文一文のちょっとした表現や語尾などに表れるもののように思います。長い文章を書けば、どうやっても、必ずどこかにその人自身が投影されるものです。その点をどうすればいいかは、大学などで人から学ぶことはできません。日々を生きていく中で自分自身で身に付けていくしかありません。それだからこそ、価値があるのだと思います。

技術と思い。

その両面が揃うことで、いい文章が生まれるのだと思います。
もちろん、必ずしもそうではないかもしれないけれど、自分としては、その両面をできる限り大学時代に高めていってほしい、というのがみなさんに伝えたいことでした。

そして、文章を書くことに正面から向き合うことは、文章を書く以外のことにも大きく役に立つはずです。どんなことをして生きていくにしても、自分自身の行いに自覚的になり、自分自身を見つめ、掘り下げ、深めていくことは必ず力になるだろうと。

みなさんのこれからの活躍を期待しています。

どうもありがとうございました!
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藤原辰史さん『戦争と農業』

制作に関わらせていただいた、藤原辰史さんの『戦争と農業』(インターナショナル新書、集英社、2017年10月刊行)が、早々に重版に。藤原さんは農業史やナチスの研究で知られる京大の先生で、『ナチスのキッチン』という本でお名前は前から知っていたのですが、この本の制作で2年近く前から一緒に仕事をさせてもらうようになって、人物、研究の素晴らしさにとても惹かれるようになりました。

一時期、この本の関係で藤原さんの講演をいくつも聴いて回っていましたが、聴く度に心打たれてぐっと来てしまう、という連続でした。そして、藤原さんの、世の中に対する視線はとても熱く、温かく、優しく、信頼できると感じるようになりました。同じ年ということもあって、以来とても親しくさせてもらうようになり、本当に知り合えてよかったと思う人の一人です。

この本には、そんな藤原さんの真摯な研究の積み重ねと熱い思いが詰まっています。そして押しつけがましくないゆえに、ぐっとこちらに迫ってくるというか、いろんなことを考えさせられる一冊です。

読んだ方々からもとてもいい感想をいただいていて、これからもきっと広く読み継がれる一冊になる気がしています。

是非手に取っていただければ嬉しいです。

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3年前に書いた一つの記事から

3年前にある記事を書いたことがFBの過去の思い出機能みたいなのから上がってきました。この共同通信配信の記事は、短いけど書けて嬉しかったもので、つい懐かしくなってしまいました。(下の写真)

ここ数ヶ月、吃音ルポの連載を書籍にまとめるために再構成し直してて、ようやくかなり形になりつつあるのですが、まだいくつもの山があり、起きてる間はずっと頭を悩ましています。

このルポのそもそもの原型となるものを書いたのは15年前、日本を出る前年のことで、それを熱烈な手紙とともに沢木耕太郎さんにお送りしたところ、日本を出る直前に携帯に電話をいただきました。そこで沢木さんにお言葉をいただいたことが自分にとって、旅をしながら書き続ける大きな原動力になりました。

あれから15年。自分も沢木さんのように書きたいと思いつつやってきて、その壁の高さに圧倒されてきました。ようやくあの時に書き始めたルポが本になる、というところ。それだけに、悔いのない一冊に仕上げたい。

下の記事を久々に読み返して、そんなことを思った次第です。
 

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明後日10月28日土曜日、京都岡崎の蔦屋書店さんでのイベントでご紹介予定の本を読み直しています。

明後日10月28日土曜日、京都岡崎の蔦屋書店さんでのイベントでご紹介予定の本を読み直しています。

『荒野へ』(ジョン・クラカワー)、『檀』(沢木耕太郎)、『最後の冒険家』(石川直樹)。他もいろいろと話の中でご紹介する予定ですが、今回は主に、それぞれ思い出深いこの3冊を。

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『荒野へ』を読むと、自分に旅の魅力を教えてくれた友人かつ先輩のことを思い出します(『遊牧夫婦』登場のUさん)。彼は心から旅を愛し、旅によって変わり、自らの信念を貫いて28歳で亡くなりました。彼が短く濃密な人生の中で僕の心に残したものはとても大きく、いまもふとしたときに、彼に時々問われる気がします。「そんな生き方をしていてお前はいいのか」と。

『檀』は、読み返す度に心の深いところに響きます。沢木耕太郎作品で最も好きなものの1つ。書く側として、書かれる側の複雑な思いについて深く考えさせてくれるからでしょうか。沢木さんの、書かれる側への敬意が、檀ヨソ子さんの言葉の端々に現れていて、自分も旅をしながらこの本を読んで受けた影響がいまも色濃く残っています。そして後半、舞台がポルトガルに移る辺りは、なんかいつもこみ上げてくるものがあります。同じ人間でも、別の土地で会うとき、また違った関係になるのかも、と思ったりも。

『最後の冒険家』は、冒険の本として本当に素晴らしい作品です。石川直樹さんの、「冒険」に対する真摯な姿勢と内面の葛藤や、もう一人の主人公である神田道夫さんの冒険に対する突き抜けた思いと人生は、ずっと心に残っています。人はなぜ冒険をするのか、人間にとって冒険とは何なのかということを、鮮烈な物語とともに深く考えさせてくれます。

この3冊を軸に、グーグルアースで場所を実際に見て、思い浮かべ、自分の体験と重ね、写真なども交えながら、旅について、紀行作品について、いろいろと感じていただける時間にできればと思っています。

まだ席はある感じなので、よろしければ是非いらしてください!

【トークイベント】旅を読む、旅を書く ―ノンフィクションライター近藤雄生と読む旅行記3選―
http://real.tsite.jp/kyoto-okazaki/event-news/2017/…/-3.html

『叔父を探しています - Looking for my Japanese Family by Julie-Marie Duro』

日本人の叔父を捜しているベルギー人写真家の友人が、今月以下の個展を開きます。

叔父を探しています - Looking for my Japanese Family by Julie-Marie Duro
https://www.facebook.com/events/830430997139467/

彼女、Julie-Marie Duro とは、3年ほど前にカウチサーフィンを通じて知り合いました。ぼくらの家に宿泊しながら叔父さん探しを始め、その後、毎年のように日本を訪れ、叔父さんを捜しつつその過程自体を写真に収めていくという活動を続けています。

亡き祖父がじつはかつて日本(おそらく京都)で暮らしていて、日本の女性との間に子どもを持っていたということを彼女は数年前に初めて知りました。どこかで生きているだろうその叔父を捜そう、そしてその過程を写真に収めよう、と地道に活動を続ける経緯に興味を惹かれ、また彼女、ジュリーはとてもいい人柄の人で、その後も親しくしています。

以前『考える人』にカウチサーフィンのついてのエッセイを書きましたが、それは彼女との出会いがきっかけでした。
(いま、以下のウェブで読めます)
http://kangaeruhito.jp/articles/-/1608

お祖父さんが働いていたという京都の会社を一緒に訪れたり、Meetsリージョナルにインタビュー記事を載せてもらったりしたこともあり、とても身近に感じていて、いつか叔父さんが見つかったら、、と密かに願っています。(探偵!ナイトスクープへも彼女は調査依頼を送りました)。

ジュリー自身、とても楽しい人なので、東京近郊にいらっしゃる方でご興味ありましたら、出かけて行って、写真と彼女に会いにいってもらえたらうれしいです。

 

2011年に書いた「私の京都新聞評」の記事を読み直して

ARTICLESのページに過去に書いた記事を順次アップしています。その中で、2011年に半年間、月に一度京都新聞で連載させてもらっていた「私の京都新聞評」の最終回を読み直したところ、最近もどこかで読んだような事柄が結構含まれているように感じました(って自分の書いたものですが)。6年経っても状況はそう変わらないのかなという気持ちに。参考までに以下全文を載せました。(ARTICLES内にもアップしました)。

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(2011年11月13日掲載、最終回全文)
この欄の連載も今回で最後となった。半年間、京都新聞をいつも以上に精読する中で、社説のバランス感覚や各連載の中にある温かみを感じてきた。今回は最後に、今後への願いを込めて、こうしてほしいと思うところを書きたい。

先月の「新聞週間」のころ、新聞のあり方を考える記事が多かったが、その中で気になったのは、インターネットの捉え方だ。10月18日付朝刊の「新聞週間に思う」のコラムの中で「ネットやケータイなどがもてはやされるにつれ、紙の新聞に暗雲が垂れ込み始めた」とあり、新聞と対立する存在とされていた。加えて10月24日付朝刊の社説「荒れるネットの裏側には」でもネットが暗に否定的に扱われているように読めたが、そこにある種の危うさを感じた。ネットに多くの問題があるのは言うまでもないが、それはいまや明らかに世界を動かす最大の装置であり社会の基本的なインフラだ。その絶大な存在感と役割を新聞関係者はもっと率直に受け止めるべきなのではないか。ネットへの深い理解があって初めて、紙の新聞にしかできないことが見えてくるように思う。

また、新聞が読まれるために何が必要なのか。自分は、信念と覚悟を感じる記事だと思う。いまの日本は、あらゆる場面で仔細なルールが決められすぎのように感じる。そのため私たちはただルールに沿って生きることに慣れ、自ら判断して行動する機会が減ってきてはいないか。それは責任感や信念の欠如につながっているように思う。その中にあって新聞は、率先して信念や覚悟を伴った主張をする存在であるべきだと私は思う。しかし果たしてそうあり得ているか。

たとえば10月19日付朝刊、平野復興相の「逃げなかったばか」発言についての記事。この発言をメディアは批判的に報道したが、前後の文脈を見れば平野氏の真意は分かるはずだ。しかしただ「ばか」と言ったからと一律に批判される状況を見て、メディア自身が信念を持って考えているのか疑問に思った。記事の中の「遺族からは反発も出そうだ」という言い方にもその一端が表れていると思う。これは新聞でよく見る表現だが、批判する主体を他にゆだねるところに、自らは責任を負わないで済まそうとする意志を感じてしまう。この点こそ、新聞に一番変わってほしいと思うところだ。

夕刊のコラム「灯」が好きだ。記者個人の思いが垣間見えるからだ。10月26日付「襲名披露」では、「京都丹波」という新たな呼称を巡って記者の地域への愛を感じた。11月7日付「怒りの臨界」では、洪水に襲われているタイと丹波をだぶらせて、丹波の背負ってきたであろう怒りを記者が代弁した。記者一人ひとりが持つそういった信念や怒りこそが新聞の命である気がするし、それがしっかりと紙面を埋めてほしいと願う。京都新聞の静かに輝く良識がより熱く感じられる紙面作りに期待したい。

偉そうなことを書き並べ誠に恐縮だが、この欄で書く意義、そして同じ書き手としての自戒も込めて、あえて率直に書かせていただいた。半年間、どうもありがとうございました。
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「旅と生き方」に関する大学講義の学生レポートを読み終えて

かれこれ6年ほど、大谷大学において「人間学」という講義をやらせてもらっています。いろいろな先生が同じタイトルでそれぞれ違ったテーマの授業をやられている中、自分は「旅と生き方」をテーマとして、毎年前期にやっています。旅が人生にどう影響するのか、旅することはどんな意味を持つのか。そのことを、さまざまな映像作品や自分の体験を通じて15回にわたって話していくという講義です。受講者は毎年二百数十名おり、今年も、200人ほどが最終レポートを提出してくれました。そして今日、ようやくそれをすべて読み終えることができました。

最近の学生はあまり海外に行かない、旅をしない、とよく言われます。自分がこの講義をするようになったここ5,6年の間でも、確かに海外には全く行ったことがない、興味がない、という学生が多いのを感じます。その一方で、海外や旅に興味がある学生は、ぼくが大学生だった20年ほど前に比べてもかなり積極的に旅をしているし、また現在は、高校の修学旅行が海外だったという学生も多く、海外への距離そのものは自分たちの学生時代に比べて格段に近くなっていると思います。

にもかかわらず、総じてみると、海外をとても遠くに感じている学生が多いことを実感します。そして今年は特に、「外国は怖い」「海外は危険という印象しかない」「一生行くことはないと思っていた」とレポートに書いている学生が多いことに驚かされました。

ただ、それゆえなのでしょうか。今年は例年に増して、みなが講義から大きな刺激を受けてくれたことがレポートから感じられました。講義を受けて「海外が怖いばかりではないと感じた」「旅にとても出たくなった」「夏に一人旅をすることを決めた」「来年留学するために本格的に動き出した」「世界の見方が変わった」などと書いてくれている学生が多く、それはとても嬉しいことでした。また、旅に出たいとは思わずとも、それぞれの今後の生き方を考える上で、なんらかの真剣な決意表明を書いてくれていた学生も多く、旅が持つ意味、旅が人に与えるものについて学生たちに話すことの意味を改めて実感しました。

またレポートを読む中で、多くの学生たちが、これまでそれぞれにいろんな経験を経てきたこと、生き方に迷い、葛藤し、社会に出るのを前にさまざまな悩みや不安を抱えていること、そして、生きることに真剣に向き合っていることが伝わってきました。

そういう学生たちに対してぼくは、40代になったいまの立場から、「自分も同じように悩んだよ」「気持ち、わかるよ」「大丈夫だよ」などとは安易に言いたくないと思っています。自分も学生時代、年上の大人にそのように言われても決して安心したりすることはなかったように思うし、そういう言葉はいま現在悩んでいる学生たちに対してほとんど響くことはないように思うからです。

できることは、ただその悩みや迷いや不安を聞くことであり、自分のこれまでの経験や現状をわずかに共有しつつ、自分自身いまなお悩み葛藤しながら生きている現状を知ってもらうことだけのような気がします。

個々の悩みは、究極には、その人本人が乗り越えるしかないないことがほとんどだと感じます。ただ、悩んでいる人にとって、その時々で力になりうる言葉は少なからずあるように感じます。それが本を読んだり、人の話を聞いたりする意味なのだと思います。

ぼくは、旅にまつわる言葉には、そう言った、誰かの力になりうるものが多々あると感じています。自分が旅を通して得てきた実感や大切にしている言葉は、そう言った意味で、学生たちにとって、わずかに力になりうる可能性があることを信じながら、毎年この授業をやらせてもらっています。

そうした自分の思いが、学生たちに届いていればこれ以上に嬉しいことはありません。講義を受けてくれた学生たちにとって、何か一つでも、今後もずっと心にひっかかり続ける言葉を届けられていますよう。

それぞれのこれからの人生の選択を、陰ながら、心より、応援しています。


※同じくこの授業に関連して2013年に読売新聞に書いた記事もARTICLESから全文読めます。






 

「旅も人生も、終わりがあるからこそ感動がある」 リュエルしなやかでのイベント無事終了

今日(7月29日)は、滋賀県大津市のリュエルしなやかにて、年配の方を中心とした場で自分の旅についてお話をさせていただきました。自分の親ぐらいの年齢の方がほとんどの中、どのようなテーマでお話するのがよいだろうかといろいろ考え、結局、「旅も人生も、終わりがあるからこそ感動がある」という、自分が最近もっとも強く思うようになっていることを一番のメッセージとして全体の話を構成しました。

今回、中国から北朝鮮へと無理やり国境を越えた話から始めることにしましたが、自分たちのやったことの無謀さを改めて痛感。まだ30歳になったばかりのあの頃は、どんなことがあっても自分は大丈夫、とどこかで思っていたのでしょう。それは結局は、自分の人生にもいつか終わりが来ることを意識できていなかったということなのだと思います。いまから見ると、当時の自分は無知だったと感じます。その一方、それゆえに得られる自由さや行動力こそが若さであるんだろうなとも。

あそこで思い切って国境を越えられる自分を再び取り戻したい。今日、そんな気持ちにもなりました。

イベント終了後も、皆さんと、そして個人的にもいろいろとお話することができて、充実した半日になりました。主催してくださったみなさま、ご来場の方々、どうもありがとうございました!