「シミルボン」(23年10月1日に閉鎖)掲載のコラムを再掲:『新・冒険論』(角幡唯介著、インターナショナル新書)のレビュー的コラム

「シミルボン」(shimirubon.jp)という本紹介サイトが残念ながら10月1日をもって閉鎖に。そのため、そのサイトに書いた記事が見られなくなったため、こちらに転載することにしました。それが以下、『新・冒険論』(角幡唯介著、インターナショナル新書)のレビュー的コラムです。角幡さんは、冒険家・ノンフィクション作家として、自分の世代のトップランナー。彼の「脱システム」という概念には、ぼく自身とても影響を受けています。このコラムを読んで興味持ってもらえたら是非本を読んでみてください。


<「脱システム」が必要なのは、冒険するものだけではない>

 角幡唯介氏は、太陽の昇らない冬の北極圏や隔絶されたチベット奥地の峡谷など、世界各地の極限の環境の中で壮絶な冒険を行い、それを優れたノンフィクション作品として世に問うてきた作家、探検家である。その彼の深い経験と思索の末にたどりついた、冒険についての論考をまとめたのが本書『新・冒険論』である。

 冒険にとって何よりも重要な要素は「脱システム」である、というのが本書の主旨だ。すなわち、現代社会に出来上がった複雑で重層的なシステム――様々な科学技術、そしてそれによって形成された私たちの“常識”や“倫理”に覆われた世界――からいかに抜け出し、未知で混沌とした領域に飛び出すか、であると。 

 角幡氏は、記録に残る冒険のうち最大の偉業は、19世紀末のナンセンの北極海漂流横断だとする。シベリアから海流に乗れば北極点を経由してグリーンランドに行けるはずだとナンセンは考え、実際に船に乗って漂流した。そして驚くべきことに、彼とその相棒のヨハンセンは、途中で氷に囲まれてしまった船を降りて、氷上を歩いて北極点を目指したのだ。一度降りればもう二度と船には戻れないことを覚悟の上で、だ。その後、二人は奇跡的に生還するが、彼らのように、人間が作り上げたシステムの外に文字通り飛び出して、何が起きるかは全く予想できない環境に身を置いて未知の世界へと入っていくことこそが冒険の本質であり意義なのだと著者は言う。冒険者は、そうしてシステムの外に出ることで新たな世界を切り開く。さらに、システムの外からシステム内を見ることで、システム内にいては決して得られない独自の視点で社会を批評することができるのだと。

 しかし現代は、地理的に未知の空間などほとんどなくなってしまった上、地球全体が科学技術に覆いつくされている。その状況の中で、ナンセンのように完全に他と隔絶された領域に身を置くのは、現実的にも、また、現代人の意識としても不可能になったと言える。それどころか現代では、冒険の性質を根本から変えてしまうGPSや衛星電話の使用が当然のこととされ、危険な状況になれば救助を呼ぶことも厭わないのが普通となった。その結果、いまでは“冒険”と呼ばれる多くの行為が、管理されたシステムの中で行われるスポーツと化していると著者は説く。そういう時代ゆえに、冒険する人間が「脱システム」することを強く意識しなければ、冒険そのものが消滅してしまうということだろう。そして角幡氏自身はもちろん、脱システムすることを希求して、極夜(一日中太陽が昇らない)の北極圏を3ヵ月近く放浪するというかつて例を見ない冒険を行ったのである(その全貌は『極夜行』(文藝春秋)として刊行されている)。                                                           
 一方、角幡氏の言う、脱システムすることの意義は、冒険という分野を超えて、現代社会で生きる私たちの誰もに関係していることにも思える。私たち現代人の生は、社会の細部まで張り巡らされた巨大なシステムの中で、自分たちの意思とは関係なく進むものになりつつあるからだ。
 
 私は現在、大学で講義を持っているが、学生たちと接する中で強くそう感じるようになっている。学生たちは、立ち止まって自分の生き方についてじっくりと考えたいと思っても、インターンだ就活だと決められたイベントを次々に突き付けられる。そしてそのためにいまはこれをやりなさい、いまから手をうっておかないとやばいです、生き残れません、というような外からの声も大量に聞こえてくる。自然と、その流れに従うように促される。その流れはあまりにも強大なため、就活をして就職する、というのではない道を選びたいという気持ちがあっても、よほど強い意志がなければ、流れを抜け出してシステムに依存しない生き方をすることが難しくなっているように思うのだ。それはまさに、角幡氏が言う、冒険がスポーツ化していく過程と同じではないかと私は感じている。

 ちなみに私自身が学生だった20年前は、就職活動(当時は“就活”という言葉もまだそれほど一般的ではなかった)など自分が動かなければ大学が何を言ってくるわけでもなかった。そういう意味では、現在と比べると、人生がとても本人にゆだねられていたように思う。ライターとして長いノンフィクション的な文章を書きたいと思っていた私は、就職をせずにライター修行を兼ねた長旅に出るという選択をし、結果、5年半にわたって各国を旅しながら文章を書いて生きてきた。決して大胆ではない自分でもそういう選択ができたのは、就職への圧力がいまほど強くなかったゆえだろうとも、振り返ると感じるのだ。
 
 つまり当時は、生きたいように生きるという道を選ぶことが、意識の上ではいまよりも簡単だった。いまは、技術的には可能なことが当時に比べて圧倒的に多いゆえに、自分はこう生きるんだという明確な意志がある人にとってはおそらく可能性はより大きく広がっている。しかし、ちょっと立ち止まって考えたい人、どうしようかと悩んでいる人にとっては、辛い時代になっているようにも思う。自分はこうやって生きたいんだと考え、決断し、行動する隙や時間を与えてもらえず、ものすごい勢いの流れの中で、なんとか溺れないようについていくのにみな必死、という印象を受けるのだ。
 
 生きるとは、決してただシステムに従うことではない。
 
 本来生き方は無数にあるし、一人ひとり違っていて当然である。システムに従った方が楽ではあり、脱システムすることには、ナンセンの冒険のような厳しさがある。しかしそれでも、脱システムすることには代えがたい意義と魅力があることを角幡氏は教えてくれる。
 
 脱システムという概念は、冒険を志すもののみならず、現代を生きる誰にとっても重要性を増しているように思う。本書を、これから社会に出ようとする若い世代の人たちに特に薦めたい。

京都芸大でのスクーリングを今年度で終えるにあたって、来年以降の計画として考えていること

この土日は、京都芸術大学通信教育部のスクーリングの講義だった。6,7年くらいやってるインタビューの授業で、2日間の間に、学生同士で互いにインタビューしてもらい、それを文章にするところまでをやってもらう内容。

自分が考えた内容ながら、学生さんたちにとってはタイトな時間の中でやることが多くて大変だろうなと思うものの、終わって、満足して下さった方が多かった様子が伝わってきて、とても嬉しかった。

ここ数年は、インタビューに関して自分が伝えたいこと、伝えるべきこともしっかりと確立してきた感じがあって、その意味では、ある程度自信を持って話せるようになった気もする(いつも緊張しているのだけれど)。試験後、一人の方の提案で、残っていた人で集合写真を撮る展開に。ああ、よかったなと思った瞬間。ご提案感謝です。

やはり対面でインタラクティブにやる授業は充実感があるなあと思う。学生さんたちの充実感もオンラインとは全然違う感じがするし、通信の学生さん同士が互いにつながる貴重な機会でもある。だから京都芸大で来年度から対面のスクーリングがなくなり全部オンラインになるというのは自分としては何とも残念。全部オンラインで受けられるという選択肢があるのはいいことだと思うけれど、対面のスクーリングという選択肢もやはりあった方がよいのではないかといまなお強く思う。

対面がなくなる今年度で、自分の授業も終わり。あとは今月末のトラヴェル・ライティングを残すのみ。自分がやってきたスクーリングの授業は、インタビューのと、トラヴェル・ライティングの2つで、特にみなで実際に”小旅行”(というか近年は、時間が短くなって数時間の京都散策しかできないけれど)して、それを文章にする後者のスクーリングは、オンラインでは不可能なので終わるのも納得。

というわけで、通学の学生を教えてた時期から含めると10数年にわたった京都芸術大学(「京都造形芸術大学」の名称の方がいまもなじみがあるけれど)で教えるのは、今月でひとまずおしまいに。

いま思うと、3日間のスクーリングができた時代(ここ数年は、すべて土日の2日間になった)のトラヴェル・ライティングの授業は特に、自画自賛するようで恐縮ですが、参加者の多くがいつもすごく満足して下さった印象で、自分もいつもすごく充実感があった。

参加者は毎年10人程度で、1日目にみなで小旅行(→朝から一日、琵琶湖の竹生島や長浜に行って帰ってくるので、これは実際に”小旅行感”はあった)して、2日目、3日目で授業&紀行文を執筆してもらうという内容。

3日目はたいてい数時間、書いたものを互いにシェアしてみなで円になって意見を言い合い、ディスカッションした。その時間がいつも盛り上がり、有意義だったように思う。その時間を経て、さらに書き直してもらって後日提出してもらっていた 。

この形式の授業は毎年、3日間で受講者同士の交流も深まり、いい人間関係が生まれ、最後はみな名残惜しい様子で、終了していった印象。この授業を機に、学内の文芸サークルも誕生し、いまもこの授業のことを思い出して連絡を下さる方がいてとても嬉しいです。

そんなわけで、来年から自分で、この形式の講座を復活させられないかな、と模索しています。しかし、大学の枠なしでこれをやって、果たして人が来てくれるのかなと、少々不安。というか、だいぶ不安。小心な自分はそこで躊躇してしまう。が、これから具体的に考えていきたいところです。

緩和ケア医の岸本寛史さんとの共著『いたみを抱えた人の話を聞く』(創元社)、9月7日頃発売です。

9月7日に、共著の新刊が発売になります。『いたみを抱えた人の話を聞く』というタイトルで創元社から。共著者は緩和ケア医の岸本寛史さん(静岡県立総合病院 緩和医療科部長)です。

岸本先生はがんを専門とする医師であるとともに臨床心理を学び、多くの患者さんの話を聞き、見送ってこられた方です。とても素晴らしい先生で、お会いするたびにその思いを強め、考え方や生きる姿勢に共感を覚えました。この本は、そんな岸本先生が、タイトルのテーマについて語る言葉を、自分が聞き手となり、綴ったものです。

創元社の内貴麻美さんがこの本を企画・編集してくださり、装丁は納谷衣美さんが担当してくださいました。本の中身と外観がとてもよく合っていると感じます。

40代後半になり、自分自身いろんな意味で、いたみを抱える側でもあり、またいたみを抱える人の話を聞く機会も増えたように感じます。

自分はこのようなテーマを、これからもずっと書いていくのではないかとこの本を書きながら思いました。

必要とされる人にはきっと、読んでよかったと思ってるもらえる内容になっているのではないかと、願いも込めつつ、思ってます。

よろしくお願いいたします。

『終わりなき旅の終わり さらば、遊牧夫婦』(ミシマ社) プロローグ全文

『遊牧夫婦』『中国でお尻を手術。』に続いて、シリーズ最終巻『終わりなき旅の終わり』のプロローグ全文も公開します(『遊牧夫婦』のプロローグ『中国でお尻を手術』のプロローグ)。2006年、上海に住んでいた時、中国東北部に小旅行をした際、妙な展開で北朝鮮へと国境を越えてしまった顛末についてです。久々に読み返して、自分たちのことながら、よくこんなことをしたものだと、ひやりとしました。

本書『終わりなき旅の終わり』では、ユーラシア大陸を東から西へ、次々に国境を越え、5年をこえた旅の終わりへと向かっていきます。そしてその中で思うようになりました。終わりがあるからこそ感動があるんだ。旅も人生も、と。プロローグだけでも読んでいただけたら嬉しいです。



0 プロローグ

 

 二〇〇六年十月四日午前十一時過ぎ、雲一つない青空の下、ぼくと妻のモトコは一本の橋を渡ろうとしていた。橋は、普通車が二台通れるほどの幅があり、長さは五〇〇メートルほどもありそうに見える。剥がれた欄干の赤いペンキが、橋が刻んできた時間の長さを物語る。その下には、橋の長さに見合った大きな川が穏やかに流れている。

ぼくはその橋の一端に立ち、緑の木々に包まれた対岸を望みながら、緊張感と高揚感に満たされていた。

 「あっちは北朝鮮なのか……」

 川は図們江(トゥーメンジャン)という。その両岸は中国と北朝鮮。ぼくらはいま、その橋の中国側に立ち、対岸の北朝鮮の大地に向かって歩き出そうとしていた。

 しかし、まさにその橋の上にいながらも、不思議でならなかった。いったいおれたちは、どうしてこんなところまで来ることができてしまったのだろうか。

 当時上海に住んでいたぼくらは、このとき短い日程の旅行で中国東北部を訪れていた。その際、近かった北朝鮮との国境付近にも足を延ばした。北朝鮮に行こうなどというつもりは微塵もなかったし、いきなり入国できるはずがないこともわかっていた。だから、この前日、その橋のそばにある国境の入口で車を降り、その前に立っていた門番のような職員にこう訊いたのは、ただの挨拶代りのようなものだった。

 「この国境から北朝鮮に渡ることはできるんですか?」

 しかしそのとき、全く予想もしなかった答えが返ってきたのだ。

 「可以(クゥーイー。できるよ)」

「外国人でも?」

「可以」

まさか、とぼくは思った。行けるはずがないだろう、と。しかし同時に、気持ちは一気に高揚した。もしちょっとでも北朝鮮を見ることができるのならば――。宿に帰ってモトコと一晩考えた。そして翌朝、思い切って行ってみることに決め、その場所に戻ったのだ。

「日本人ですが、ここから北朝鮮には行けますか?」

 「不可以(ブクゥーイー。行けないよ)」

前日とは別の職員が、当たり前のようにそう言った。
 やはりそうかとは思ったものの、はい、そうですかとはあきらめられない。

「昨日の職員はは行けると言われた。たった一時間、向こう側をちょっと見るだけでもかまわないから」

無理を承知でそう言ってみると、「ちょっと待て」と門番はトランシーバーでなかの人間に問い合わせた。そしてしばらくすると彼は言った。

「じゃあ、建物の中へ」

おお、ほんとに行けるのか……。通してもらえたことに驚きながら、少し興奮気味に建物の中に入っていった。そしてひと気のない建物の中をしばらく歩くと出国審査の場所に着いた。

さすがにここは厳しいだろうと思いつつ、門番に言ったのと同じことを言ってみる。すると、「じゃあ、一時間で帰ってくるんだな」と、笑ってパスポートに出国のスタンプを押してくれるではないか。橋のたもとに行くまでにさらにもう二人を説得する必要があったが、同様なゴリ押しの交渉がなぜか次々とうまくいき、気づくとぼくらは橋の目の前まで来ていたのだ。

 なんて適当な国境なんだろう。そう思った。どうして通してもらえたのか、理由はまったくわからない。しかしとにかく、あとは渡るだけという場所までぼくたちは来ることができてしまったのだ。

前日、遠くからこの橋を望んだとき、渡ることなど想像すらしなかった。あの橋の向こうにはどんな大地が広がっているのか、どんな人々が生きているのか。自分の目で確認することなど、一生ないと思っていた。しかしいま、少なくともその川の対岸にまではいけそうな状況になっていた。

 

「本当に渡っても大丈夫なのかな」

当然ながらひと気などない。風の音と自分たちの足音しか聞こえない静寂さを少し不気味に感じながら、モトコと二人、対岸に向かって歩き出した。北朝鮮側の大地の緑色と、太陽の光で薄められた空の青色は、一見、平和そのものの風景をつくり上げていた。しかしこの橋の向こうはけっしてそんな単純な場所ではないはずである。 

いきなり撃たれたりしないだろうか。そんな妄想も頭をよぎる。カメラを取り出して、さっと数枚写真を撮るとモトコが言った。

「写真撮るの、もうやめて!」

平然としていた彼女も、さすがに若干緊張しているようだった。

 しばらく行くと、橋の中間を示す赤いラインが現れた。

 「止歩」

 大きくそう書かれている。この先からは北朝鮮側になるのだろう。さらに歩くと、いよいよ橋も終わりに近づき、小さなゲートと、ポールに掲げられた北朝鮮の国旗が見えてくる。その隣の詰所には少年のような国境の番人が待っていた。自分が漠然と持っていた北朝鮮の兵士のイメージとは全然違う人のよさそうな少年だった。

 「ちょっとだけ観光しに来ました」

 中国語でぼくは言った。最初は意味がわからないようだったが、ゆっくりと何度か繰り返すと理解してくれた。そして彼は中国語でこう答えた。

 「不行(ブ・シン)」

 だめだ、と。電話で中に確認も取ってくれたが、やはりだめだという。しかし数メートル先に北朝鮮の土地を見てこのまま戻るわけにはいかない。パスポートに中国出国のスタンプがあることを示し、笑顔を振りまきながらこのままじゃ帰らないぞという意志を見せると、しばらく黙りこんだ後、突然少年は、何か意を決した顔をした。
「わかった、行きなよ」

なぜかはわからなかったが、このとき彼は自らの決断でぼくたちを通してくれたのだった。おお、ありがとう! と喜びつつも、不可解なまますべてがぼくらを北朝鮮へと導き入れているような展開に少し怖さも感じ始めた。

 そうして橋を渡り切った。ついに北朝鮮の大地へ、第一歩を踏み入れたのだ。

 

早足に奥の建物まで歩いていき、扉からなかに入った。入国審査の窓口はあるが、職員は誰もいない。入国するのを待っている中国人が数人いたので訊いてみると、昼休みだとのことだった。うろうろしていると、奥から中年の職員が登場した。

「隣の部屋で待ちなさい」

そう言われ、ソファのある応接間のような部屋に入るように促された。そこは十数畳ほどの広さの白壁のガランとした空間だったが、壁には金正日と金日成の二人が笑顔で並んで立つ大きな赤い肖像画が飾られ、こげ茶色の木の扉の上には、力強いスローガンらしき言葉が掲げてある。いよいよ北朝鮮にいるんだな。緊張感が高まった。

 「写真撮っても大丈夫かな?」

 職員が去ったあと、ビクビクしつつもさっとカメラを取り出して、肖像画や部屋の様子を座りながら撮影した。物音がするたびにびっくりした。そしてすぐにカメラをしまった。


それにしてもすべてがわからなくなってきた。なぜこんなところまで来ることができたのか。なぜ自分たちだけこんな部屋に通されたのか。いったいこれからどうなるのか。自ら無理やりここまで来てみたものの、徐々に落ち着かない気持ちになっていく。

「もう、帰ろうよ。これ以上はもう無理やろ」

モトコに言われて、そうだな、と思った。どう考えてもこの状態で正式に入国できるはずはない。来られるところまで来た気はする。十二時になると橋の中国側が一時的に閉められるとも橋を渡る前に聞いていた。それになんといっても、ぼくもモトコも、金親子が笑う静かなこの部屋の雰囲気にびびっていた。

 そのとき十一時四十五分。橋が閉まるまで十五分ある。ぼくらは金親子の部屋を出て建物を後にした。そして周囲に拡がる牧歌的な風景を眺めながら、中国に戻るべく橋の付け根まで戻っていった。そこにはやはり先の少年の番人が立っている。彼に礼を言って再び中国側に戻ろう。そう思った。

 しかし――。
 茶と緑の風景から目を離し、正面の橋を見ると、北朝鮮側のゲートが閉まっているではないか。あっ、と思った。中国側が閉まるのであればこちら側が閉まるのも予想できたはずだった。だが、なぜかそのことをぼくもモトコもまったく考えていなかった。
 それでも、少年がさっきのように笑顔で通してくれるはずだと、不安を打ち消して歩を進めると、彼がさっきとはまるで異なる真剣な形相でこう言うではないか。

 「不行(ブ・シン)」

 え? と思い、急いで彼に近づいた。

「入国できなかったんだ、中国に戻るから橋を渡らせてくれ」

彼は続けて首を振った。「不行、不行!」。だめだ、だめだ! と。そしてぼくの足が、彼が立つコンクリートの台の部分に載っているのを見ると、彼は一切の穏やかさを消してこう言ったのだ。

 「そこから降りろ。向こうに戻って待っていろ」

 柔和な雰囲気はなくなっていた。初めて、もう交渉は無理だと感じた。

 「どうしよう……」

 ただ昼休みで扉が閉まっているだけなのかもしれなかったが、まずい展開の予感もした。 どうなるんだろうと不安に思いながら、しかたなく、歩いて入国審査の建物へと戻っていった。少し待ったらあの少年兵はぼくらを通してくれるのだろうか。それとも、強引に橋を渡ってきたことが何か問題になっているのか。いま何か調べられているのかもしれない。あれこれ考えを巡らせて気持ちはますます落ち着かなくなった。

と、そんなとき。今度は、全く予想もしていない声が聞こえてきた。

 「あなたたち、日本人? なんでこんなところにいるの?!」

明らかにネイティブの日本語だった。驚いて声の主を見ると、それは一人の初老のおじさんだった。いったい誰だろう? 不思議に思いながら、早足で彼に近づき、ぼくは言った。

「こんにちは……。はい、日本人です」

訊くと彼は、仕事で北朝鮮に行くところなのだと言った。在日朝鮮人なのだと言う。それから、「で、あなたたちは?」とこちら以上に不思議そうな顔でぼくたちの素性を訊いてきた。ぼくが、自分たちは単なる旅行者であること、適当な交渉でなぜかここまで来れてしまったことを説明すると、心底驚いたようだった。

 「え、本当に? 招聘状も何もなしでここまで来れるなんて知らなかったよ。びっくりしたなあ。まさかこんなところに旅行者がいるなんて。それに、いまは日本もどこも大騒ぎなのは知ってる? 昨日北朝鮮が核実験をやるって宣言したんだよ」

え?! 今度はぼくらが驚く番だった。

 すでに書いた通り、この日は二〇〇六年十月四日だった。その前日、十月三日に北朝鮮が核実験を実施すると宣言したというのだ。僻地にいてろくにネットも見ていなかった。完全に初耳だった。まさかこのタイミングで、そんな事態になっていようとは思いもよらない。一気に緊張感が増幅した。こんな日に、わけのわからない入国未遂のようなことをしでかして、しかも国境の写真を撮っているのがばれたりしたら……。

 するとぼくの携帯が鳴った。メールだなと思って携帯を取り出そうとすると、おじさんはびっくりした顔でこっちを見た。

「いまのは携帯? まずいよ! 携帯は持ち込み禁止。中国側で預かってもらわないといけないんだよ。すぐに電源切って! カメラも隠しておいたほうがいいよ!」

そう言われてぼくはようやく気がついた。国境というものを軽く考えすぎていた……。あるいは、旅への意識があまりにも甘くなりすぎていたのかもしれない。ふと、自分たちが、よくも悪くもこの生活に慣れすぎてしまっているような気がしてきた。そして改めて時間の経過を意識した。もう三年以上になったのだ。

 

結婚直後に無職のままで、モトコと二人で日本を出たのは二〇〇三年六月のことだった。当時、ぼくは二十六歳、モトコは二十七歳。旅を暮らしにしようと心に決め、住むことと移動することを繰り返す日々を送り始めた。

オーストラリア西海岸バンバリーでイルカを見ながら半年を過ごしたあと、オンボロのバンでオーストラリア大陸を縦断し、バスや列車で東南アジアを縦断した。そして二〇〇四年の暮れに中国に着くと、雲南省の昆明で暮らしながら中国語を勉強した。その生活が一年ほどになった二〇〇六年の初頭からは上海に移り、今度は仕事中心の生活を開始した。モトコは就職活動をして食品関係の会社に就職した。一方ぼくは、自分にとって旅の大きな目的である、旅をしながらライターとして食べていけるようになることを、ようやく上海で実現できそうになっていた。

 しかし、そんな場当たり的な生活を夫婦二人で送りながらも、自分たちがそのような人生を生きていることが、つくづく不思議になることがあった。

 そもそも自分は、物理や宇宙の世界に憧れて理系に進んだ人間だ。大学に入るまでは、自分は必ず研究職的な仕事に就くだろうと考えていた。対象が宇宙になるにしろ、地球の気候変動になるにしろ、中学時代から慣れ親しんできた理科や数学を使う仕事が自分のフィールドになるだろうことは確信していた。実際大学院に至るまで、ぼくはずっと理系畑を歩いてきた。学部では宇宙や航空機について学び、大学院では北極の海氷の未来予測シミュレーションが研究テーマだったのだ。その一方で、文筆業などという仕事は、高校時代まではもっとも縁も興味もない分野のはずだった。

モトコもまた、いかにもこういう生活を好みそうなタイプではまったくない。旅が好きであったとはいえ、常識的で手堅い道をそうそう逸脱しそうもない性格であることはおそらく周囲も本人も認めるところだった。

そんな自分たちが、旅の中を生きることになり、いま、よくわからない展開で北朝鮮の入口に立って右往左往しているのだ。この三年で、モトコもぼくも、妙に大胆に無鉄砲になっていることが、このとききわめてよく実感できた。

そうはいっても、ぼくもモトコも根が小心な本質は変わらない。このときはとにかく、中国に戻ることばかりを考えていた。

 

そわそわしながらおじさんと話し、時間がたつのをひたすら待った。そうして二時間ほどが経過した。

 「そろそろ国境がまた開く時間のはずだよ。大丈夫だと思うけど、無事に中国側に戻れるといいね。何かわからないことあったら連絡くださいよ」

 そう言われ、ぼくらは礼を言って彼と別れた。たしかに橋の小さな門は開いている。少し軽くなった足取りで橋に向かって歩きながら、その周囲を見て、写真に撮れないこの景色をずっと記憶に焼きつけておかないと、と思った。

 川沿いにはきれいに整った畑がある。数百万人が餓死しているというようなニュースがまったくイメージできないほど青々とした野菜が育っているのが印象的だった。そのそばには子どもたちの姿が見えた。赤や青や白などきれいな服装をした彼らは、お互いにふざけあいながら元気に楽しそうに歩いている。
 結局、北朝鮮を見たと思えるのはこの風景だけだな、と話しながら、ぼくらは橋へと近づいた。そして、例の少年兵が今度はにこやかに通してくれるだろうと期待すると、立っていたのは別の人物だった。言葉が通じないなかでこの状況を説明するのはやっかいだなと思いながらも、彼に「北朝鮮に入国できなかったので、中国に戻ります」と中国語で言った。すると彼は、無情にも手を横に振った。

 「不行(ダメだ)」

 え? 中国に戻るんだよ、いいでしょう?
 しかし彼は態度を変えない。予想もしなかった展開に愕然としながら粘ったものの、まったく交渉の余地はなさそうだった。どうも出国のために必要な書類があるらしいのだ。

 「この状況でいったいどうすればいいってんだよ……」

意気消沈しながらまた出入国審査場へと戻っていったが、この複雑な状況を、言葉もあまり通じない相手にわかってもらえるとは思えなかった。そうだ、頼めるのは、あのおじさんしかいない。彼が入国してしまう前になんとか助けてもらわないと!
 そう思って二人で走って再びあの建物のなかへと駆け込んでいった。

 なかに戻ると、幸い、彼とその同行者の中国人らしき人物が書類を出したり荷物検査を受けたりしているところだった。お願いすると、同行者の男性が窓口で、朝鮮語でぼくらのことを説明し必要な書類をもらってくれた。教えてもらいながら必要事項を記入すると、あとは何カ所かにハンコとサインをもらうだけの状態になった。なんとか、中国帰還が見えてきた。北朝鮮へと入国するおじさんたちに礼を言って別れを告げる。そしてすぐに二階に上がりしばらく待つと、ようやくすべてのサインとハンコが手に入った。

 「やった……。もう早く出よう」

 誰かに呼び止められたりしないかとまだビクビクしていたが、今度こそ、本当に出国できるんだと確信できた。
 相変わらずの晴れ空の下で身体がぐっと軽くなる。逃げるように橋に向かうと、建物の前に止まっていたバスのなかの中国人に呼び止められた。

 「橋はバスで渡るんだ! 歩いちゃ渡れないよ」

 その言葉で、そもそも橋を歩いて渡ってきたところから何かがおかしかったらしいことに気づかされた。ボロボロのバスに乗りこんだ。橋で恐る恐る書類を渡すと先の番人が確認する。問題はなかった。

 バスは中国に向かって、バババババッと重く大きな音を立てながらゆっくりと橋を渡り始めた。たった数百メートルの橋の向こう側があまりにも遠く感じられたが、このときやっとその向こう側に戻れることが確実となった。

 「助かった……」

 国境というものが何なのか、このとき少しわかった気がした。自分たちの無知と無謀さに我ながらゾッとした。川の向こうの中国がとてつもなく遠く感じられたあの瞬間、国境の恐ろしさを肌で知った。しかし同時に、強く魅せられている自分もいた。二年前、東南アジアの国境を越えて北上を続けていたときの興奮を思い出す。そして思った。

 次々に国境を越える旅を、もう一度したい――。