「シミルボン」(23年10月1日に閉鎖)掲載のコラムを再掲:『新・冒険論』(角幡唯介著、インターナショナル新書)のレビュー的コラム

「シミルボン」(shimirubon.jp)という本紹介サイトが残念ながら10月1日をもって閉鎖に。そのため、そのサイトに書いた記事が見られなくなったため、こちらに転載することにしました。それが以下、『新・冒険論』(角幡唯介著、インターナショナル新書)のレビュー的コラムです。角幡さんは、冒険家・ノンフィクション作家として、自分の世代のトップランナー。彼の「脱システム」という概念には、ぼく自身とても影響を受けています。このコラムを読んで興味持ってもらえたら是非本を読んでみてください。


<「脱システム」が必要なのは、冒険するものだけではない>

 角幡唯介氏は、太陽の昇らない冬の北極圏や隔絶されたチベット奥地の峡谷など、世界各地の極限の環境の中で壮絶な冒険を行い、それを優れたノンフィクション作品として世に問うてきた作家、探検家である。その彼の深い経験と思索の末にたどりついた、冒険についての論考をまとめたのが本書『新・冒険論』である。

 冒険にとって何よりも重要な要素は「脱システム」である、というのが本書の主旨だ。すなわち、現代社会に出来上がった複雑で重層的なシステム――様々な科学技術、そしてそれによって形成された私たちの“常識”や“倫理”に覆われた世界――からいかに抜け出し、未知で混沌とした領域に飛び出すか、であると。 

 角幡氏は、記録に残る冒険のうち最大の偉業は、19世紀末のナンセンの北極海漂流横断だとする。シベリアから海流に乗れば北極点を経由してグリーンランドに行けるはずだとナンセンは考え、実際に船に乗って漂流した。そして驚くべきことに、彼とその相棒のヨハンセンは、途中で氷に囲まれてしまった船を降りて、氷上を歩いて北極点を目指したのだ。一度降りればもう二度と船には戻れないことを覚悟の上で、だ。その後、二人は奇跡的に生還するが、彼らのように、人間が作り上げたシステムの外に文字通り飛び出して、何が起きるかは全く予想できない環境に身を置いて未知の世界へと入っていくことこそが冒険の本質であり意義なのだと著者は言う。冒険者は、そうしてシステムの外に出ることで新たな世界を切り開く。さらに、システムの外からシステム内を見ることで、システム内にいては決して得られない独自の視点で社会を批評することができるのだと。

 しかし現代は、地理的に未知の空間などほとんどなくなってしまった上、地球全体が科学技術に覆いつくされている。その状況の中で、ナンセンのように完全に他と隔絶された領域に身を置くのは、現実的にも、また、現代人の意識としても不可能になったと言える。それどころか現代では、冒険の性質を根本から変えてしまうGPSや衛星電話の使用が当然のこととされ、危険な状況になれば救助を呼ぶことも厭わないのが普通となった。その結果、いまでは“冒険”と呼ばれる多くの行為が、管理されたシステムの中で行われるスポーツと化していると著者は説く。そういう時代ゆえに、冒険する人間が「脱システム」することを強く意識しなければ、冒険そのものが消滅してしまうということだろう。そして角幡氏自身はもちろん、脱システムすることを希求して、極夜(一日中太陽が昇らない)の北極圏を3ヵ月近く放浪するというかつて例を見ない冒険を行ったのである(その全貌は『極夜行』(文藝春秋)として刊行されている)。                                                           
 一方、角幡氏の言う、脱システムすることの意義は、冒険という分野を超えて、現代社会で生きる私たちの誰もに関係していることにも思える。私たち現代人の生は、社会の細部まで張り巡らされた巨大なシステムの中で、自分たちの意思とは関係なく進むものになりつつあるからだ。
 
 私は現在、大学で講義を持っているが、学生たちと接する中で強くそう感じるようになっている。学生たちは、立ち止まって自分の生き方についてじっくりと考えたいと思っても、インターンだ就活だと決められたイベントを次々に突き付けられる。そしてそのためにいまはこれをやりなさい、いまから手をうっておかないとやばいです、生き残れません、というような外からの声も大量に聞こえてくる。自然と、その流れに従うように促される。その流れはあまりにも強大なため、就活をして就職する、というのではない道を選びたいという気持ちがあっても、よほど強い意志がなければ、流れを抜け出してシステムに依存しない生き方をすることが難しくなっているように思うのだ。それはまさに、角幡氏が言う、冒険がスポーツ化していく過程と同じではないかと私は感じている。

 ちなみに私自身が学生だった20年前は、就職活動(当時は“就活”という言葉もまだそれほど一般的ではなかった)など自分が動かなければ大学が何を言ってくるわけでもなかった。そういう意味では、現在と比べると、人生がとても本人にゆだねられていたように思う。ライターとして長いノンフィクション的な文章を書きたいと思っていた私は、就職をせずにライター修行を兼ねた長旅に出るという選択をし、結果、5年半にわたって各国を旅しながら文章を書いて生きてきた。決して大胆ではない自分でもそういう選択ができたのは、就職への圧力がいまほど強くなかったゆえだろうとも、振り返ると感じるのだ。
 
 つまり当時は、生きたいように生きるという道を選ぶことが、意識の上ではいまよりも簡単だった。いまは、技術的には可能なことが当時に比べて圧倒的に多いゆえに、自分はこう生きるんだという明確な意志がある人にとってはおそらく可能性はより大きく広がっている。しかし、ちょっと立ち止まって考えたい人、どうしようかと悩んでいる人にとっては、辛い時代になっているようにも思う。自分はこうやって生きたいんだと考え、決断し、行動する隙や時間を与えてもらえず、ものすごい勢いの流れの中で、なんとか溺れないようについていくのにみな必死、という印象を受けるのだ。
 
 生きるとは、決してただシステムに従うことではない。
 
 本来生き方は無数にあるし、一人ひとり違っていて当然である。システムに従った方が楽ではあり、脱システムすることには、ナンセンの冒険のような厳しさがある。しかしそれでも、脱システムすることには代えがたい意義と魅力があることを角幡氏は教えてくれる。
 
 脱システムという概念は、冒険を志すもののみならず、現代を生きる誰にとっても重要性を増しているように思う。本書を、これから社会に出ようとする若い世代の人たちに特に薦めたい。