『10代のうちに考えておきたい「なぜ?」「どうして?」』(岩波ジュニアスタートブックス)が重版に。

今年2月に刊行した

『10代のうちに考えておきたい「なぜ?」「どうして?」』(岩波ジュニアスタートブックス)

が重版になりました。

ネットで売れている気配はほとんど感じられず、書店でリアルで見かけたことも実は1回しかなく(笑、↓の写真。8月末の紀伊国屋書店 梅田本店さん。ありがとうございます)、でも担当編集者は、順調に売れているといつもおっしゃってくださっていて、いったいどこでどう売れているのだろう、、と謎だったのですが、重版になり、ようやく、手にとって下さってる方が少なからずいることを実感できました。読んで下さったみなさま、感謝です。

嬉しい感想は随時いただいており、それなりに読んでよかったと思っていただけるものにはなっているのではないかと思っています…。よかったら以下リンクより、「はじめに」と目次だけでも読んでいただけたらありがたいです。
「はじめに」と目次と「どうして男の人は子どもを産めないんですか?」

また、同世代に多い受験生の親御さん向けにアピールさせていただくと、中学受験の大手塾の模擬試験にも出題してもらったようです。ちなみに、同じく岩波書店刊の『旅に出よう 世界にはいろんな生き方があふれてる』(岩波ジュニア新書)は、刊行から13年経ちますが、今年も、Y-SAPIXの「リベラル読解論述研究」の中1用の指定書籍となっています(入試出題もこれまでに多数)。

https://www.y-sapix.com/mypage/request-for-purchase/

重版を機に、扱っていただける書店も増えたら嬉しいです(→書店員さん、よろしくお願いします…!)

とアピール満載で失礼しますが、本が売れてくれることが切実に重要で、必死です(笑)

引き続きよろしくお願いいたします。

「シミルボン」(23年10月1日に閉鎖)掲載のコラムを再掲:『新・冒険論』(角幡唯介著、インターナショナル新書)のレビュー的コラム

「シミルボン」(shimirubon.jp)という本紹介サイトが残念ながら10月1日をもって閉鎖に。そのため、そのサイトに書いた記事が見られなくなったため、こちらに転載することにしました。それが以下、『新・冒険論』(角幡唯介著、インターナショナル新書)のレビュー的コラムです。角幡さんは、冒険家・ノンフィクション作家として、自分の世代のトップランナー。彼の「脱システム」という概念には、ぼく自身とても影響を受けています。このコラムを読んで興味持ってもらえたら是非本を読んでみてください。


<「脱システム」が必要なのは、冒険するものだけではない>

 角幡唯介氏は、太陽の昇らない冬の北極圏や隔絶されたチベット奥地の峡谷など、世界各地の極限の環境の中で壮絶な冒険を行い、それを優れたノンフィクション作品として世に問うてきた作家、探検家である。その彼の深い経験と思索の末にたどりついた、冒険についての論考をまとめたのが本書『新・冒険論』である。

 冒険にとって何よりも重要な要素は「脱システム」である、というのが本書の主旨だ。すなわち、現代社会に出来上がった複雑で重層的なシステム――様々な科学技術、そしてそれによって形成された私たちの“常識”や“倫理”に覆われた世界――からいかに抜け出し、未知で混沌とした領域に飛び出すか、であると。 

 角幡氏は、記録に残る冒険のうち最大の偉業は、19世紀末のナンセンの北極海漂流横断だとする。シベリアから海流に乗れば北極点を経由してグリーンランドに行けるはずだとナンセンは考え、実際に船に乗って漂流した。そして驚くべきことに、彼とその相棒のヨハンセンは、途中で氷に囲まれてしまった船を降りて、氷上を歩いて北極点を目指したのだ。一度降りればもう二度と船には戻れないことを覚悟の上で、だ。その後、二人は奇跡的に生還するが、彼らのように、人間が作り上げたシステムの外に文字通り飛び出して、何が起きるかは全く予想できない環境に身を置いて未知の世界へと入っていくことこそが冒険の本質であり意義なのだと著者は言う。冒険者は、そうしてシステムの外に出ることで新たな世界を切り開く。さらに、システムの外からシステム内を見ることで、システム内にいては決して得られない独自の視点で社会を批評することができるのだと。

 しかし現代は、地理的に未知の空間などほとんどなくなってしまった上、地球全体が科学技術に覆いつくされている。その状況の中で、ナンセンのように完全に他と隔絶された領域に身を置くのは、現実的にも、また、現代人の意識としても不可能になったと言える。それどころか現代では、冒険の性質を根本から変えてしまうGPSや衛星電話の使用が当然のこととされ、危険な状況になれば救助を呼ぶことも厭わないのが普通となった。その結果、いまでは“冒険”と呼ばれる多くの行為が、管理されたシステムの中で行われるスポーツと化していると著者は説く。そういう時代ゆえに、冒険する人間が「脱システム」することを強く意識しなければ、冒険そのものが消滅してしまうということだろう。そして角幡氏自身はもちろん、脱システムすることを希求して、極夜(一日中太陽が昇らない)の北極圏を3ヵ月近く放浪するというかつて例を見ない冒険を行ったのである(その全貌は『極夜行』(文藝春秋)として刊行されている)。                                                           
 一方、角幡氏の言う、脱システムすることの意義は、冒険という分野を超えて、現代社会で生きる私たちの誰もに関係していることにも思える。私たち現代人の生は、社会の細部まで張り巡らされた巨大なシステムの中で、自分たちの意思とは関係なく進むものになりつつあるからだ。
 
 私は現在、大学で講義を持っているが、学生たちと接する中で強くそう感じるようになっている。学生たちは、立ち止まって自分の生き方についてじっくりと考えたいと思っても、インターンだ就活だと決められたイベントを次々に突き付けられる。そしてそのためにいまはこれをやりなさい、いまから手をうっておかないとやばいです、生き残れません、というような外からの声も大量に聞こえてくる。自然と、その流れに従うように促される。その流れはあまりにも強大なため、就活をして就職する、というのではない道を選びたいという気持ちがあっても、よほど強い意志がなければ、流れを抜け出してシステムに依存しない生き方をすることが難しくなっているように思うのだ。それはまさに、角幡氏が言う、冒険がスポーツ化していく過程と同じではないかと私は感じている。

 ちなみに私自身が学生だった20年前は、就職活動(当時は“就活”という言葉もまだそれほど一般的ではなかった)など自分が動かなければ大学が何を言ってくるわけでもなかった。そういう意味では、現在と比べると、人生がとても本人にゆだねられていたように思う。ライターとして長いノンフィクション的な文章を書きたいと思っていた私は、就職をせずにライター修行を兼ねた長旅に出るという選択をし、結果、5年半にわたって各国を旅しながら文章を書いて生きてきた。決して大胆ではない自分でもそういう選択ができたのは、就職への圧力がいまほど強くなかったゆえだろうとも、振り返ると感じるのだ。
 
 つまり当時は、生きたいように生きるという道を選ぶことが、意識の上ではいまよりも簡単だった。いまは、技術的には可能なことが当時に比べて圧倒的に多いゆえに、自分はこう生きるんだという明確な意志がある人にとってはおそらく可能性はより大きく広がっている。しかし、ちょっと立ち止まって考えたい人、どうしようかと悩んでいる人にとっては、辛い時代になっているようにも思う。自分はこうやって生きたいんだと考え、決断し、行動する隙や時間を与えてもらえず、ものすごい勢いの流れの中で、なんとか溺れないようについていくのにみな必死、という印象を受けるのだ。
 
 生きるとは、決してただシステムに従うことではない。
 
 本来生き方は無数にあるし、一人ひとり違っていて当然である。システムに従った方が楽ではあり、脱システムすることには、ナンセンの冒険のような厳しさがある。しかしそれでも、脱システムすることには代えがたい意義と魅力があることを角幡氏は教えてくれる。
 
 脱システムという概念は、冒険を志すもののみならず、現代を生きる誰にとっても重要性を増しているように思う。本書を、これから社会に出ようとする若い世代の人たちに特に薦めたい。

京都芸大でのスクーリングを今年度で終えるにあたって、来年以降の計画として考えていること

この土日は、京都芸術大学通信教育部のスクーリングの講義だった。6,7年くらいやってるインタビューの授業で、2日間の間に、学生同士で互いにインタビューしてもらい、それを文章にするところまでをやってもらう内容。

自分が考えた内容ながら、学生さんたちにとってはタイトな時間の中でやることが多くて大変だろうなと思うものの、終わって、満足して下さった方が多かった様子が伝わってきて、とても嬉しかった。

ここ数年は、インタビューに関して自分が伝えたいこと、伝えるべきこともしっかりと確立してきた感じがあって、その意味では、ある程度自信を持って話せるようになった気もする(いつも緊張しているのだけれど)。試験後、一人の方の提案で、残っていた人で集合写真を撮る展開に。ああ、よかったなと思った瞬間。ご提案感謝です。

やはり対面でインタラクティブにやる授業は充実感があるなあと思う。学生さんたちの充実感もオンラインとは全然違う感じがするし、通信の学生さん同士が互いにつながる貴重な機会でもある。だから京都芸大で来年度から対面のスクーリングがなくなり全部オンラインになるというのは自分としては何とも残念。全部オンラインで受けられるという選択肢があるのはいいことだと思うけれど、対面のスクーリングという選択肢もやはりあった方がよいのではないかといまなお強く思う。

対面がなくなる今年度で、自分の授業も終わり。あとは今月末のトラヴェル・ライティングを残すのみ。自分がやってきたスクーリングの授業は、インタビューのと、トラヴェル・ライティングの2つで、特にみなで実際に”小旅行”(というか近年は、時間が短くなって数時間の京都散策しかできないけれど)して、それを文章にする後者のスクーリングは、オンラインでは不可能なので終わるのも納得。

というわけで、通学の学生を教えてた時期から含めると10数年にわたった京都芸術大学(「京都造形芸術大学」の名称の方がいまもなじみがあるけれど)で教えるのは、今月でひとまずおしまいに。

いま思うと、3日間のスクーリングができた時代(ここ数年は、すべて土日の2日間になった)のトラヴェル・ライティングの授業は特に、自画自賛するようで恐縮ですが、参加者の多くがいつもすごく満足して下さった印象で、自分もいつもすごく充実感があった。

参加者は毎年10人程度で、1日目にみなで小旅行(→朝から一日、琵琶湖の竹生島や長浜に行って帰ってくるので、これは実際に”小旅行感”はあった)して、2日目、3日目で授業&紀行文を執筆してもらうという内容。

3日目はたいてい数時間、書いたものを互いにシェアしてみなで円になって意見を言い合い、ディスカッションした。その時間がいつも盛り上がり、有意義だったように思う。その時間を経て、さらに書き直してもらって後日提出してもらっていた 。

この形式の授業は毎年、3日間で受講者同士の交流も深まり、いい人間関係が生まれ、最後はみな名残惜しい様子で、終了していった印象。この授業を機に、学内の文芸サークルも誕生し、いまもこの授業のことを思い出して連絡を下さる方がいてとても嬉しいです。

そんなわけで、来年から自分で、この形式の講座を復活させられないかな、と模索しています。しかし、大学の枠なしでこれをやって、果たして人が来てくれるのかなと、少々不安。というか、だいぶ不安。小心な自分はそこで躊躇してしまう。が、これから具体的に考えていきたいところです。

緩和ケア医の岸本寛史さんとの共著『いたみを抱えた人の話を聞く』(創元社)、9月7日頃発売です。

9月7日に、共著の新刊が発売になります。『いたみを抱えた人の話を聞く』というタイトルで創元社から。共著者は緩和ケア医の岸本寛史さん(静岡県立総合病院 緩和医療科部長)です。

岸本先生はがんを専門とする医師であるとともに臨床心理を学び、多くの患者さんの話を聞き、見送ってこられた方です。とても素晴らしい先生で、お会いするたびにその思いを強め、考え方や生きる姿勢に共感を覚えました。この本は、そんな岸本先生が、タイトルのテーマについて語る言葉を、自分が聞き手となり、綴ったものです。

創元社の内貴麻美さんがこの本を企画・編集してくださり、装丁は納谷衣美さんが担当してくださいました。本の中身と外観がとてもよく合っていると感じます。

40代後半になり、自分自身いろんな意味で、いたみを抱える側でもあり、またいたみを抱える人の話を聞く機会も増えたように感じます。

自分はこのようなテーマを、これからもずっと書いていくのではないかとこの本を書きながら思いました。

必要とされる人にはきっと、読んでよかったと思ってるもらえる内容になっているのではないかと、願いも込めつつ、思ってます。

よろしくお願いいたします。