『月刊すこ~れ』連載 「子どものなぜへのある父親の私信」第8回(2019年4月号掲載)

『月刊すこ~れ』2019年4月号掲載の連載第8回です。

Q 中学生になって以来、「もう子どもじゃないんだから」と言われたり「まだ子どもなんだから」と言われたり。大人の都合で使い分けられているような……。いったい自分は子ども?大人?  

A 中学生になると電車などが大人料金になるせいか、ぼくも中学に入った時、自分も大人の仲間入りだと思った記憶があります。でも振り返ると、中学生はやはり子どもの側だろうと思うし、ほとんどの大人は同じように考えている気がします。おそらくそう思いながらも「もう子どもじゃないんだから」と言ったりする。それは中学生のみんなが、自分は大人になりつつあるんだという自覚を持てるように後押しする意味と、あとはまさに、都合よく使い分けているのでしょう(笑)。
 それはさておき、人はいったいいつ、子どもから大人に変わるのでしょうか。大人と子どもの違いは何なのでしょうか。
 成人となる二十歳を境目だとするのが最も客観的と言えるかもしれません。また、働き出したら大人、自分で生活を営むようになったら大人、という意見もあるでしょう。つまり人によっていろんな捉え方があるように思います。
 そうした中で、ぼくにとってもまた、自分なりに考える大人と子どもの境目があります。それは、自分がいつか死ぬ、ということをはっきりと意識できるかどうか、であると考えています。ぼくは二十九歳でちょっとした手術をする機会があり、その際、自分ががんになるかもしれない可能性を意識することになりました。そしてそのとき初めて、自分もいずれ死ぬんだという実感を得ました。それはショッキングな気づきでしたが、しかし同時に、そう実感できて以来、毎日がとても貴重に思えるようになって、生きていく上での心構えが変化したように感じています。
 言い換えるとそれは、人生もう後戻りはできないんだと自覚することなのだと思います。年齢には関係なく、その気持ちを持ったときに人は、行動や考え方に変化が生じ、子どもだった時代を終えるのではないかという気がしています。それが具体的にどんな変化なのかは人によって異なると思いますが、戻れないという事実を受け入れ、向き合うようになったときに人は大人なるのかな、と。でも、そうすると、大人になるのはまだだいぶ先になりそうかな?         

Q 私は自分自身の中に、どうしても受け入れられない嫌いな部分があります。どうして自分だけこんななんだろう、って思ってしまう。どうしたらいいでしょう。

A 自分自身について受け入れられない嫌いな部分というのは、いわゆる「コンプレックス」と呼ばれるものだろうと思います。能力や容姿、性格などについて、自分が望むような状態ではなく、できることなら変えたい、直したい、と思う点。それが具体的に何なのかはわかりませんが、きっと、あなたにとって大きな問題なのだろうと想像しています。
 だとすればおそらく、誰かに、大丈夫だよ、気にすることないよ、などと言われても解決することではないかもしれません。むしろ、簡単にわかったようなことを言ってほしくないという気持ちになるかもしれません。それゆえぼくは、あなたがそれを乗り越えたり受け入れたりするのを願うことしかできないようにも思います。ただ、もしかすると参考になるかもしれない自分の経験を一つ書いてみます。
 ぼくは、高校時代から吃音、つまり、話すときにどもることで悩むようになりました。うまく話せなくて意思疎通ができなくなることがあったり、どもる姿を見られたらどうしようといつも考えてしまったり、とても大きなコンプレックスでした。自分にとってその悩みは深刻で、なんとか克服できないかといろいろ試みましたが、叶わず、結局ぼくはそれをきっかけに就職するのを断念しました。そして、考えた結果、旅をしながらフリーでライターとしてやっていけないかと、大学院を修了後に日本を離れて文章を書き始めたのでした。つまり、ぼくが文筆業で生計を立てるようになった発端は、自分のコンプレックスだったのです。そしていまは、そのような選択をしてよかったと思っています。
 一概には言えないけれど、コンプレックスをなんとかしたいと悩む気持ちは、自分の人生を動かす原動力にもなりうるように思います。嫌だという気持ちに素直になって、では、どうすれば自分は生きやすいのかを考えると、あなたならではの生き方が見えてくるかもしれません。
 ちなみにぼくの吃音は、旅の途中でなぜか突然消えていきました。その理由はわかりません。