心療内科に

最近、気持ちが不安定な状況が続いていた中、一昨日、心療内科に行った。1年半ほど前も行こうと思ったことがあり、その時は、クリニックの中にまでは行ったものの、初診は要予約で、いきなりは受診できないことがわかり、予約をして改めてこようかと思いつつも、そのうちに気持ちが収まっていった。しかしここ1、2カ月はこれまでになくしんどくて、これはと思い、予約をした。そして数週間待って、ようやく精神科医の先生に話を聞いてもらう機会を得た。

自分なりに思い当たるストレスは複数あり、そのそれぞれを「これこれこういう状況で…」と話していった。「うん、うん、そうでしたか、それは大変ですね、しんどいですね」と言ってもらいながら、自分でも考えが整理されてきたり、思わぬことを思い出したり。

先生的には、これだけストレスの要因がいろいろあれば、不安感が高まったりするのは自然な反応で、いわゆる病気的なうつ状態とはちょっと違うと考えますとのこと(この辺は医師によっても考え方や判断が変わってきますが、とも加えつつ)。一方、鍵を閉めたかとか、火を消したかがやたらと気になって何度も確認する、ということはないか、といった話になり、「まさにそれです(笑)」という流れから、そしたらちょっと薬をためしてもいいかもしれない、とのことで抗不安薬をもらうことになった。

ところで、自分がいま直面しているいくつかの問題は、個々には別個の問題ながら、突き詰めて考えていくと「自分は死ぬのが怖いんだな」というところにたどりつく。人生の残り時間を、ここ数年かなり意識するようになり、自分が生きている間にできることは限られてるなとよく感じる。40代半ばになって、身体の各所の不調や衰えを日々実感する中で、その意識が高まっている。

また、最近よく感じるのは、自分は文章を書くことが好きじゃないんだなということ。書くのが辛い。自分は幼少期、書いたり読んだりすることから最も遠くにいるような人間で、しかし、色々な流れからライターになり、早20年ほど文章を書き続け、それを生業にしているけれど、でもやはり根本では、自分は書くことが好きじゃないんだなあという、何をいまさら的な、なかなか辛い実感にたどり着いてしまった。同業のライターの人たちの、書くことが本当に好きそうな人たちに囲まれる中で、最近その事実から目を背けることが難しくなってきてしまった。

じゃあ、いっそのこと全く別な仕事をすればいいかと言えばそうもいかない。厄介なことに、それでもぼくは、自分にとって切実な問題については、自分なりの方法で思いを伝えたいという気持ちが強くあるからだ。つまり、そういった事柄は、書くのがしんどくてもなんとか書きたいという気持ちがある。その思いを一番はっきりと形にできたのは『吃音 伝えられないもどかしさ』だと思う。今後も、吃音のような、自分に本当に切実なテーマについては、本のようなまとまった形で世に問いたい。いや、むしろ、人生の残り時間が常に気にかかる中で、そのモチベーションはむしろ上がっているようにも思う。

ただ一方で、自分はそういうテーマだけを書いて生活していけるような、書き手としての能力はない。書くのにもとても時間がかかる。だから、日々単発の仕事として書くことを次々にやっていかないと生きていけないのだけれど、それがどうにも苦痛になってきてしまったのだ。そうした仕事に追われていると、ただ技術と時間をお金に換えているだけで人生の残り時間がどんどん過ぎていっているだけに思え、焦ってしまう。このままただ時間だけがものすごい速さで過ぎていき、あっという間に人生が終わってしまうような気がしている(とはいえ、ひとこと付け加えると、そのような単発の仕事も決して手を抜いたりはしていません。発注される方は、これを読んでもどうぞご安心を)。

旅も人生も、終わりがあるから感動がある、というのは、5年の旅を経ての実感だし、それはいまもそうだと思っている。何事も、終わりがあるからいいんだと。大学の講義でもいつもそんなことを話している。でも、そう言いながらも、自分が一番、終わりを怖がっているのかもしれないとも思う。終わりがあるからいい、というのは自分に言い聞かせてるような気がしてきている。

どうにも、吐き出す場所がなく、ブログに気持ちを書いてしまった。最近、仕事以外では全く文章を書く気がしないので、こういう自発的な文章を書けてよかった、という気持ちと、それだけ気持ちがいっぱいいっぱいなのかもしれない、という恐れと半々な思い。