20代のころ、旅する自分の背中を押してくれた『婦人公論』の「ノンフィクション募集」。荻田泰永さんと河野通和さんの対談から蘇った記憶。

冒険家の荻田泰永さんが主催する「冒険クロストーク」で荻田さんと河野通和さんの対談を見た。河野さんは『婦人公論』『中央公論』『考える人』などの編集長を歴任された編集者。対談では、河野さんの青年期、編集、野坂昭如、婦人公論、本、冒険、考えるとは…、興味ある話題ばかりで、3時間半という長さながら、飽きる所がなかった。

感想はとてもたくさんあるのだけれど、自分にとって特に大きかったのは、ずっと忘れていたかつての記憶がふと蘇ったこと。それは河野さんが編集長をされていた『婦人公論』のことである。

僕は長い旅に出る前の2002年ごろ、ライターとして一つでも実績を作るために、いくつかの雑誌の賞に、手探りで書いたルポを 送ったりしていた(当時はネットで書くという選択肢はほとんどなく、ライターになるためには紙の雑誌に書く場を見つけなければならなかった)。そのため当時、本屋に行ってはいろんな雑誌を見たり買ったりしていたのだが、 その中で確か知る限り『婦人公論』にだけ、「読者体験記・ノンフィクションを随時募集しています」といった記載があった。

河野さんのお話から考えると、 当時『婦人公論』はリニューアルしてすでに4年ほど経っていたことになるが(河野さんは、1998年の同誌のリニューアル時から数年の間編集長をされていたとのこと)、なんとなく自分の中に、表紙がスタイリッシュになって新しくなった雑誌という印象があり、内容も自分の感覚に近いような印象があった。加えて、ノンフィクションを募集している雑誌としても記憶に残った。

そして2003年6月、僕は結婚直後の妻とともに旅に出た。旅をしながら、なんとかライターとしての道筋を構築するために、ほとんどツテも縁もない中で、書いたものをいろんな雑誌にメールで送ったりしていたが、送る先はほとんど、ネットで見つけたinfo@出版社名.co.jpとかwebmaster@出版社名.co.jp的なアドレスだった。当然返事は期待できなそうな中、『婦人公論』だけは、原稿を募集しているし、でも旅の話なんてお門違いかなあとか…、いろいろ思いながらも、堂々と送ってもよさそうな媒体だった。そして旅のことだったか、取材したことだったかを、オーストラリアからだったか、東ティモールからだったか、送ったのだった。

すると思いがけずご丁寧な返事が届いた。原稿の掲載は難しいという内容だったものの、読んで返事を下さったことがとても嬉しく、 それからまた別なのを送って、また返事をもらい、 ということにつながった。結局原稿が掲載されることはなかったものの、やり取りができたことに背中を押された。その後、5年にわたった旅の日々の最初の時期、つまり、ライターとして全く仕事になっていなかった時代に、投げ出すことなくなんとか書き続けていくための原動力の一つに、『婦人公論』から届いたメールは確かになっていた。その時に送った原稿は、『遊牧夫婦』の元型の一部になっていると思う。

その時、お返事をくださった編集者はTさんで、 いま、中公新書の編集長されている。旅を終えて日本に帰ってから、 お会いしに行ったり、やり取りさせていただいたり、 ということにつながっていった。

そして、Tさんとのつながりから、旅の終盤、2007年~08年、ユーラシアを横断している最中には、『中央公論』のグラビアページに、 写真と短い文章を2度掲載していただいたが(中国西部で出会ったイスラム教徒たちの姿と、スイスの亡命チベット人の僧侶の姿)、その時の編集長はおそらく河野さんだったことを知り、思わぬご縁を感じるのだった(河野さんとはその後、氏が『考える人』の編集長をされていた時に同誌で連載をする機会をいただいたりして、以来いろいろとお世話になっています)。

いずれにしても、当時の『婦人公論』の、 「読者体験記・ノンフィクションを随時募集しています」 という記載は、先行きが見えなかった自分にとって、 一つの目標となるような、数少ない希望になっていた。また、ライター経験はほとんどなく、海外で旅をしながらメールで文章を送ってきた若者にお返事をくださったTさんにすごく励まされたことはいまもよく覚えているし、本当にありがたかった。 そういう意味で、『婦人公論』には助けられた感覚があり、いまもなんとなく身近であり続けている。原稿を書いたことは今なおないのだけれど。そして同誌のサイトを見たら、同様の「ノンフィクション募集」の記載がいまもあり、嬉しくなった。

『婦人公論』のことを書いていたら、また別の形で背中を押してもらった媒体がいくつかあることを思い出した。その編集者の方たちが下さった一本のメールが、いまの自分へとつながっているんだなあと改めて思った。

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下の写真は、旅出してから間もないころ、オーストラリア東部のカウラという町で、日本人捕虜暴動事件について取材らしきことをしていて、地元の新聞社を訪ね、事件の関係者を探しているといったら載せてくれた記事(Cowra Guardian, July 4, 2003)。急にこの記事のことも思い出し、探したら出てきた。

10日前に日本を出たところ、と記事に。一番の連絡先が滞在していた安ホテルの電話番号になっているのがすごい。メールアドレスも載せてもらっているけれど。当時は携帯電話も持ってなかったし、メールより電話だった時代なような。
『婦人公論』に送った原稿にも、この事件のことを書いた部分があったような…。