4 人生最大のコンプレックス、吃音
香田さんの死を知ってから八日後に、ぼくらはやっとチェンマイを出発した。
結果的に今回のチェンマイ滞在は、原稿書きのために毎日ネット屋とカフェと宿を行ったり来たりするだけだったものの二週間半にもおよんでしまった。
チェンマイにいる間に十一月になり、年の瀬が近づいていることを感じ始めた。オーストラリアから徐々に北上を続けてきてすでに八カ月。中国は、随分と近づいていた。
陸続きで移動し続けると、人の姿かたちが徐々に変わっていくのがわかる。肌の色が濃くて彫りも深かった東ティモールやインドネシアに比べると、タイ北部で会う人はかなり日本人や中国人に近いのっぺりした顔つきに見える。グラデーションをなすように人の姿が変わっていく。バスなどを使って移動してきた道のりを思い出すと、これだけの変化を感じるためにどれだけの距離を、どれだけの時間をかけて、どれだけ汗をかいて移動してきたかを実感できる。それが陸路での移動の醍醐味のように思えた。
年末までには中国に着きたい。中国に着いたらひとまずこの北上の旅も終わりとなる。そして中国での定住生活を始める前に年末年始に一度日本に帰って、年越しは家族と過ごそうと思っていた。
旅がまた次の節目を迎えようとしている。オーストラリア・バンバリーでのボランティア生活が第一ステージであるなら、この八カ月の北上の日々は、第二ステージ。それも間もなく終わろうとしているのだ。
チェンマイを出発する前日、微熱があり体調が悪かったが、朝起きたらよくなっていた。
朝、ネット屋に行って校正用の原稿(ゲラ)を受信してから、荷物をまとめて出発した。午後一時のバスで、再びビルマと国境の町メーサイに向かった。
二度目となるこのルートを通りながら、ぼくは、時間の経過の速さに焦っていた。まだ旅は始まったばかりだと思っていたのに、いつの間にか二〇〇四年も終わりが見えてきてしまった。日本を出てから一年半となり、もはや旅は始まったばかりといえる段階ではなくなっていた。
その間に、ライターとして自立するという旅の目的はどれだけ達成されていたのか。実績が限りなくゼロに近かった日本出発時に比べれば少しは進展があったのは間違いない。しかし、書いたものが掲載されることを何度か続けるうちに、今度はいまのままではとても食っていけないという現実が見えるようになってくる。
バスの窓から遠くに見える緑の山々を眺めながら、今年の自分の収入を計算してみる。連載の一回分が一万円で、あの二つのルポが四万円と五万円。日本を出る前に書いたルポが今年になって掲載されたのが一〇万円、そしてもう一つのあの原稿が……と数えていった。若干の「粉飾決算」をしても年収は五〇万にも満たないじゃないか……。何度数え直しても、結果は変わらない。オレ、大丈夫なんだろうか……。
中国に着く。年末年始を日本で過ごす。するともう二〇〇五年だ。そのことを考えるたびに、ぼくは焦ったり、気持ちが沈んだりした。
そして、だからこのころ、自分にとっての一番の悩みであり、コンプレックスであったことが表面化しやすくなっていた。それは冒頭にも少し書いた吃音、すなわちどもりである。
ぼくは高校時代からずっと吃音に悩まされてきていた。
吃音にも種類があり、ぼくの場合、難発性といって、状況によって言葉がまったく発せられなくなるというものだった。自分の名前など決まった言葉や、言わなければならないと思った言葉を言おうとすると喉のあたりが硬直する感覚に襲われ、そのまま何も言えなくなってしまうのだ。
高校時代にその問題に自覚的になり、それ以降ずっと吃音が自分にとって一番大きな悩みであり続けた。しかしそれでも、ぼくは基本的にはよくしゃべる方だった。なんとか吃音を人に気づかれないように隠す方法があり、うまくごまかせば、周囲にはほとんど気づかれることなく、一見よどみなく話しているように見せかけることができたのだ。実際、「よく話す陽気なヤツ」と思われていたという意識があっただけに、そのイメージを守りたくて、あえてよく話すように見せかけていた面もあった。
そんな自分にとって、吃音はどうしても人に知られたくない最大のコンプレックスだった。吃音を隠すために、いつでもすごい神経を使っていた。
この言葉は言えなそうだ、と思ったら、別の言葉で言い換えることでなんとか切り抜けることができた。しかし言い換えの聞かない言葉を発しなければならないとき、一番困った。それはたとえば、名前だ。
名前は? と聞かれたら、「近藤」としか言いようがない。そのことが極度に緊張を強いるせいか、言えなかった。だから、自己紹介をしなければならない場面は特にいやだったし、初対面の人と会うのも気が重かった。名前が言えないので電話もできない。いつしか電話の音を聞くだけで怖くなるという電話恐怖症のようなことにもなってしまった。
また、たとえばマクドナルドで「てりやきマックバーガー」を買おうと決めると、「てりやき」の「て」がどうしても言えなくなる。自分の順番になると、とっさに「えーと、あのー」と悩んでるふりをした挙句、思わず「あ、チーズバーガーください」と、ぱっと言えそうになった言葉を言ってしまったりするのだ。そしてそのたびに、「おれは何をしてんだ……」と落ち込んだものだった。
高校二年になってバスケ部で主将を務めていたときも、最大の悩みは、円陣を組んだときに掛け声をかけられるかどうかだった。主将としてのプレッシャーなどもあってこのころ吃音はもっともひどい時期を迎えていたが、円陣を組んだときの「イチ、ニ、サン!」「オー!」という掛け声の、主将担当部分の「イチ、ニ、サン!」を言えるかどうか練習中ずっとどきどきしていた。
円陣を組んですぐに自分が掛け声をかけなければ、「おい、なにしてんだコンドー、早くしろよ」とみな思うだろう。そんな想像をすることで、ますます円陣を組むのが怖くなる。だからぼくは、副主将の柳町にだけは自分の吃音のことを伝えていた。
「もしおれが円陣でどもりそうだったら、代わりに掛け声かけてくれないか? 足を叩いて知らせるから隣にいてほしい」
もしものときは柳町に言ってもらえると思うと、気が楽になった。だから、彼が隣にいてくれれば、ほとんどのとき無事に掛け声をかけることができた。それでもどうしても言えないこともあり、ときどき、柳町の掛け声で練習が始まると、みなが不思議そうな顔をする。そのたびにぼくは、苦笑いをしながらさらに激しく落ち込んだものだった。
吃音を人にばれないように先手を打たなければならない場面は周囲に満ちていた。そのために全エネルギーの半分ぐらいを使っていたかもしれず、いつも疲労困憊していたのだ。
大学時代、一人で旅をしようと思ったもともとのきっかけも、吃音を克服するためだった。一人で旅をすれば、タフになって吃音なんて吹っ飛んでしまうだろう。そんなことを思い、ぼくは大学二年になる直前の春、オーストラリアに行ったのだ。そこでモトコに出会うことになるのだが、吃音はまったく改善されなかった。
その後も、吃音を治すため、というのは自分にとってあらゆる行動の源となっていたが、何をしても吃音がなくなることはなかった。ぼくは吃音が自分の人生を大きく左右し出していることをだんだんと実感するようになっていく。
就職したとしてもこんな状態じゃ仕事に集中できるはずがない。電話ができないんです、なんてことを理解してもらえるはずがない。だから、なんとか組織に所属することなく、自分が持っているスキルでできることを探さないといけない。もはや治すことより、受け入れてなんとか生きていく方法を見出すしかない。そう考えるようになっていった。
そしてそんなことを思っていたころに、インドに行って旅の魅力を知り、また、沢木耕太郎さんの文章に触れることなどによって、旅をしながらフリーでライターをやっていくという生き方を考えるようになったのだ。
もちろん、ライターをやっていくには電話が商売道具になるだろうことは容易に想像がつく。そう考えると気が重くなったけれど、それでも、組織に所属して周囲に吃音を隠しながら仕事をしていくよりははるかに気楽に思えた。その方がきっと自分には生きやすいと思った。
ぼくは日本社会から逃げているという自覚があった。でも、稼いで食っていくことはしなくてはならないし、逃げるならちゃんと自分で稼ぐ方法は見つけて逃げなければいけないとは思っていた。
逃げるなら本気で、真剣に逃げよう、と。
そうして、大学院を修了してほとんど経験のないまま、自称ライターとしての日々が始まると、とにかく早いうちに何か一つでも自分でテーマを決めてルポルタージュを書き上げないといけないと思った。とはいえ、何の経験もない自分に何が書けるのだろうか。そう途方に暮れかけたとき、最初に思い浮かんだテーマは、やはり吃音だった。
吃音で悩む人はどの集団にも平均して一パーセントの割合でいるという。つまり一〇〇人に一人だ。有名人にも多く、調べていくと、マリリン・モンローやブルース・ウィリスなど、とても意外な人物の名前まで出てくることに驚かされた。
また一方で、当時、「どもり・赤面、治します」のようなコピーで吃音者たちをターゲットにする吃音矯正所というものもよく見かけた。しかし自分が知る限り、こうすれば吃音が治るという方法はないはずだった。だからぼくは、矯正所という存在に少なからぬ胡散臭さを感じていた。吃音矯正所がもし、藁をもすがる思いの吃音者たちの弱みにつけこむビジネスだとしたら――、そう考えると、自分の問題としても怒りがこみ上げてくる。だが吃音のことが一般のメディアで話題になることはほとんどない。少なくともぼくはほとんど聞いたことがなかった。だからきっとこの問題なら、自分独自のものが書けるような気がしたのだ。
そうして、しどろもどろになりながら電話をかけ、ネットを使い、多数の吃音者に会っていった。吃音矯正所にも連絡を取って話を聞きに行った。
吃音者に会ってみると、症状の重い人の中には、社会生活が成り立ちがたいような人もいた。ある一人は「自分は障害者として認定してもらいたい。そして支援を受けたい」とも言った。
一方、いくつか異なる矯正所を取材していくうちに、矯正所というのは、自ら吃音を克服したという人が独自の理論や矯正方法を掲げている場合が多いことがわかってくる。だから、それぞれに矯正方法は異なるし、どれも、科学的根拠はないと確信できるようなものばかりだった。それでもそこにわずかな可能性を見出した吃音者が通い、その結果「やはりこの方法もだめだった」と落胆し、金だけを失うということが繰り返されているのだった。
ところが、吃音矯正所と吃音者という、結果として「騙す側」と「騙される側」とも見える両者の関係は、必ずしもそのように単純ではないようだった。そのことにぼくは、ある吃音者からの連絡によって気づかされた。
――私にとってクリニック(=矯正所)は神様みたいな存在だったんです。
――自分で選んで受けていまも続けようとしてるわけです。そのやる気を失わせる気持ちにさせるものならば正直見たくも聞きたくもありません。
それは、東京にあるとりわけ悪名高くきな臭い矯正所に通っていた関西の女性からのメールに書かれていた言葉だ。ぼくがネット上で、この矯正所に対しての意見を求めていたときの返信として届いたものだった。彼女は半年間、関西から東京までこの矯正所を信じて通い続けていた。
問題は事実なんかじゃない。信じたいという気持ちを壊すようなことはやめてくれませんか――。メールの文面にはそんな思いが滲み出ていた。
その後、電話で話したとき、彼女はぼくにこう言った。
「(その矯正所には)いろいろと問題があるのかもしれません。実際、吃音がよくなった気がしているわけでもありません。でも……、知らない人と電話で話すなんていうことは……これまで考えられなかった自分が、……いまこうしてお話しできているということ自体が大きな進歩なんです……」
彼女にとって、矯正方法の良し悪しや事実関係は、もはや問題ではないのかもしれなかった。ただ、どもりは治るんだと信じさせてほしい、そう信じて行動することで、何かが変わるはずなんだ――そう思う気持ちが伝わってきた。
取材を続けていくと、この女性の気持ちは、その悪名高い矯正所の代表者自身にも通じることはなのではないかと思えてきた。代表の男性は幼いころから重度の吃音に苦しめられ、その末に克服し、矯正所を開いたというが、彼自身もまだ吃音から逃れることはできていないのではないか、そして、自らの吃音が治るんだということを信じたくて、吃音は治ると言い続け、その理論を作り上げたのではないか、そんな推測が立ってきたのだ。
吃音という問題でいかに多くの人が悩んでいるか、その悩みがどれだけ多様かを、ぼくは取材をしながら感じることができた。ここには、吃音ということを越えて、何か問題を抱えながら生きるすべての人に通じるテーマが横たわっているような気がした。
吃音者を通じて、そんな思いをぼくは描きたいと思い、原稿を書いていった。
取材を進めるうちに、ぼく自身もまた、同じことを考えていることに気づいていった。旅をすることも、このルポを書くことも、それをきっかけに吃音から解放されるのではないか、という思いが常にどこかにあったからなのだ。このときも、取材をするほどに、吃音はやはり治らないとますます確信せざるをえなくなっていったが、いや、でも、これを書くことで、何かよい変化が起こるのではないか……、とかすかな期待を抱いていたことも確かだった。
知り合いのジャーナリストの方に見てもらったりしながら、なんとか原稿用紙五〇枚程度のルポルタージュらしきものを書き上げることができたのは取材を始めてから半年以上がたってからのことだった。
そしてある雑誌のルポルタージュの賞に応募した。少しだけ期待しながら結果を待ったが、結果は落選だった。ぼくは大きく落胆した。このときすでに旅に出るのが三ヵ月後に迫っていて、旅立つ前の最後のチャンスと思っていたからだ。しかし救いは、講評の中で編集長がぼくのルポについて励みとなるコメントを寄せてくれていたことだった。
もう一押ししてみよう。そう思い、思い切ってその雑誌の編集者に連絡をとった。すると、社内での評判も悪くなかったことを教えてくれ、結局長さを半分ほどに縮め、少し追加で取材をすることでなんとか掲載してもらえることが決まったのだ。
ゲラの修正までを終えた状態で日本を発つことができ、出発してから一ヵ月後に掲載となった。オーストラリアで生活を始めたとき、それだけが唯一、自分をライターだと名乗れる拠り所だった。一方で、これを書くことで吃音を克服できるのではないかという淡い期待は、あっさりと裏切られた。
週刊金曜日「なんとか治したい 吃音矯正所にすがる人々」 第469号(2003年7月25日)
旅立ってからも、吃音は自分の心の中でいつも大きな比重を占めていた。英語で話すときはどもりがさらに障害となった。というのも日本語なら言葉の言い換えで済むはずのところも、英語では自在に言い回しを変えることができなかったため、どもりそうになるとそのまま話すのをやめるしかなかったからだ。その一方、英語なら、口ごもっていても「英語の単語が出てこないだけなんだろうな」と思ってもらえる気がしたため、かえって気が楽で話しやすいというときもあった。
しかし、もっともつらかったのは、結局のところいくら英語を勉強しても吃音がなくならない限り流暢に話せることはないんだろうな、と感じてしまうことだった。英語は比較的よく勉強していただけに、それを考えると悔しくてならなかった。
取材の電話をかけなければならないときなどは、前日から憂鬱になった。実際に電話をかけるときは、とにかく気持ちをハイに持っていかなければならず、そのため、よく隣でモトコに歌を歌ってもらったりした。
受話器を耳にあて、呼び鈴を聞きながら、なぜかいつも頭のなかで、サッカー日本代表が登場するキリンのCMソングとして知られる"PASSION"を響かせたりしていた。とにかく「うおおー、電話かけるぜ!」といった最大限に盛り上がった気持ちで、相手が受話器を取る瞬間を迎えないとならないという涙ぐましい状況だったのだ。が、電話一本かけることがそこまで一大事になりつつも、実際に相手が電話に出ると毎回ほとんど何も問題なく会話することができるということも経験上わかっているのだった。
調子がいいときには何日かすっかり影を潜めることもあり、そのときにはとてもうれしくなった。でも油断していると、何かをきっかけにまたひどくなる。旅をしながらもその繰り返しだった。すなわち、どもり具合は、ぼくにとってそのときの自分の精神状態を知る上でのバロメーターのようなものでもあったのだ。
その吃音が、東南アジアも終わりに近づいてきたこのころ、再びとても気になるようになってきていた。カフェでトイレの場所を聞こうと思って店員に話しかけたものの、その先が言えなくなってしまい、「いや、あの、なんでもありません」などということがあると一気に落ち込み、さらに吃音がひどくなった。
それは明らかに、東南アジア北上という第二ステージが終わり、旅が次の段階に進んでしまうことへの焦りであり、一時帰国するということで日本が見えてきたからであった。ぼくにはいつも、旅が終わりに近づいていくことへの少なからぬ不安があった。そしてその不安は、言葉が話せないふりができない日本に帰ったらさらにどもるんじゃないかという心配ともつながっていたのだ。