『月刊すこ~れ』連載 「子どものなぜへのある父親の私信」第7回(2019年3月号掲載)

『月刊すこ~れ』2019年3月号掲載の連載第7回です。

Q 宇宙人って、いるのかな? 

A 「UFO(ユーフォー)が飛んでた!」「宇宙人が実は地球に来たらしい!」という話は、昔からよくありました。子どものころ、ぼんやりした円盤のようなものが空に浮かんで見える写真が出回って、これは本物のUFOだ、いや、偽物に決まってる、などと友達同士で話したことを覚えています。
 大抵の場合、というか、おそらくこれまでにあったそのような話の全てが、間違いやただの作り話だったはずですが、だからと言って、宇宙人はいない、とはっきりしているわけではありません。むしろ宇宙人はいるに違いないと考える科学者は多く、今も、日本を含めた世界各地で、大きな電波望遠鏡などを宇宙に向け、〝宇宙人〟すなわち「地球外知的生命体」から何かメッセージが来ないかと探る試みが行なわれています。
 「いるはず」と信じられているのはなぜかと言えば、宇宙には数えきれないほどたくさんの星があり、そのすべての中で、生命が生まれたのがこの地球だけだとは考えにくいからです。 そして138億年前から広がり続けているこの宇宙のどこかに、地球のような発展を遂げた星があるとしても全く不思議ではないのです。
 ただその一方、そうであればその中に、地球よりももっと発展している星があって、その星から何かメッセージが送られてきたりしてもよさそうなのに、実際にはこれまでそのようなものが届いた様子はありません。そのため、生き物がいる星があったとしても、様々な理由から、地球にメッセージを送ってこられるような高度な技術や知性を持つ、いわゆる〝宇宙人〟はいないのではないか、という意見もあります。
 いったいどっちなのでしょう。ぼくは、いると思っています。きっとあと数十年もしないうちに、宇宙人との交信が行われる日が来るような気がします。
 でも大切なのは、わからないことに対して、こうに決まっていると決めつけないこと。わからないということは、いろいろな可能性があるということ。そう思って、自分で調べたり考えたりしてみると、世界は大きく広がっていくはずです。

Q 「暴力は絶対ダメ」っていつも言われるのに、テレビに出てくる正義のヒーローは敵を蹴ったり殴ったりしてやっつけて、褒められる。あれはいいの?

A 戦隊モノなどのテレビ番組では、主人公であるヒーローは大体、力で〝敵〟を倒します。〝敵〟となる相手は何かしら悪さをしたことで、ヒーローにコテンパンにやっつけられる。言ってみれば、暴力です。でもヒーローは、誰にも「暴力はダメだよ!」などと言われないどころか、感謝されたり喜ばれたりしています。いったいどうしてなのでしょうか。
 正義のヒーローにはひとまず、力で相手をやっつけねばならない理由があります。地球を守るため、または弱い人を守るため。でも、そうであれば、「悪者」の方にも、彼らなりに悪さをしなければならない理由があるのかもしれません。いやそれどころか、彼らからすれば自分たちの方が正しくて、私たちが正義のヒーローと思っている主人公の方が悪者なのかもしれません。
 つまり、正義のヒーローだから暴力はOKとすれば、きっとどちらも、正義のヒーローは自分だと考えているので、どちらも暴力を振るっていいということになる。そしてそれこそが、国と国の間に起きる戦争なのです。お互いに、自分たちが正しくて相手が悪いと考えて、力で相手を倒そうとする。その結果、暴力がより激しくなり、多くの人を死なせたり、不幸にしたりしてしまうのです。
 すなわち、正義のヒーローでも暴力はダメなはず。それでも、ヒーローは、暴力を振るうことでヒーローになります。それは、私たちみなのどこかに、自分が正しいと思うことに限っては、〝悪〟をやっつけるためならば時に暴力を使うことも仕方がない、という気持ちがあるからなのではと思います。
 うん、ダメって言いながら、おかしいですよね。ぼく自身もそう思います。でもやはりすっきりとは言い切れない……。もしかしたら戦隊モノなどの番組は、正義のヒーローは暴力を振るってもいい、といっているわけではなく、そのような矛盾に気づいてもらうための教材のようなものなのかもしれませんね。

 

『月刊すこ~れ』連載 「子どものなぜへのある父親の私信」第6回(2019年2月号掲載)

『月刊すこ~れ』2019年2月号掲載の連載第6回です。

Q かけっこで友だちに勝って、嬉しくてすごく喜んだら、それからその友だちがあまり話してくれなくなった。喜んではいけなかったのかな……。

A 勝負ごとで勝ったら嬉しいのは、程度の違いはあっても、きっとみな同じだと思います。特にそれが一生懸命に練習した結果であったり、これまではどうしても勝てなかったのに勝てた、ということであれば一段と嬉しいはず。そういった場合に喜ぶことはおかしなことではないし、悪いことでもありません。ただ、勝負にはいつも相手がいます。つまり、勝った人がいるときには負けた人がいる。そしてその人もまた、勝負のあとにいろんな気持ちを抱えているはずです。
 勝負ごとで大切なのは勝ち負けの結果だけではありません。勝負のあと、勝負を離れて相手の気持ちに立つことも同じくらい大事です。ラグビーでは、試合終了のことを「ノーサイド」と言いますが、これは試合が終わったら敵と味方(=サイド)はなくなり(=ノー)、みな仲間に戻るということです。そして、一緒に大切な勝負を戦った仲間として、互いに相手に敬意を払い、称え合う。
 二〇一八年の平昌オリンピックのスピードスケート女子五〇〇メートルで金メダルを獲得した小平奈緒さんが、勝利の後に、二位になって涙するライバルに寄り添った場面を覚えている人は多いかもしれません。二人の姿が美しく心を打つものであったのは、全力で戦い合った二人が、それゆえにお互いを大切にし、敬意を抱き合っていることが感じられたからだと思います。そしてきっと二人はお互いに、健闘を称え合えたはずです。
 あなたが勝って喜んだら友だちが話してくれなくなったとすると、友だちは、あなたの喜ぶ姿を見て、そのような気持ちにはなれなかったということなのかもしれません。それは必ずしもあなたのせいではないかもしれないけれど、誰でも嬉しいときはつい相手のことを忘れてしまいがちです。なので、そういう時こそ特に、意識して相手の気持ちを想像しようと心がけるとよいかもしれません。その気持ちは自然と振る舞いにも表れて、相手にも伝わるだろうと思います。 

Q テニスの大切な試合で負けてしまい、大きな大会に進める貴重なチャンスを逃しました。取り返しのつかない失敗をしてしまったのではないかと、いまとても落ち込んでいます。

A 試合に負けてしまったのは、本当に残念でした。それだけ落ち込むということは、きっととても頑張って練習してきたのだと思います。しばらくは辛い気持ちが続くかもしれないけれど、うん、それはもう仕方ないのかもしれません。でも、きっとその経験は将来、とても貴重なものになるはずです。
 ぼく自身の経験を言えば、試合ではないけれど、高校三年で大学入試を受けたとき、志望の大学に合格できなくてとても落ち込んだことがあります。自分なりにがんばって勉強していたこともあって、合格発表の掲示板に名前がなかったときは、本当に絶望的な気持ちになりました。これからもう一年間、予備校に通って勉強して来年また受験しなければならず、しかも来年も受かる保証がないことを思うと、やりきれない気持ちでした。
 しかし、時間とともにその気持ちも収まり、実際に予備校に通う生活が始まると、それはそれで楽しい一年間を過ごすことができました。そして翌年は無事合格でき、終わってみると、すごく貴重な経験ができたような気がしました。
 その思いは、その後、年齢を増すごとに強くなっています。大きな失敗して辛い気持ちになることは、生きていく上で本当に重要な経験だからです。
 失敗して見えてくることは、成功して見えてくることよりもずっと大切なように思います。自分が苦しい気持ちを実際に体験することで、他の人の辛い気持ちを想像できるようになり、それはその人の優しさや思いやりにつながっていきます。一方、失敗そのものについては、これからきっと何らかの形で挽回できるチャンスがくるはずです。
 ……と、大人が過去の失敗について語る言葉を聞いても、きっといまの辛い気持ちはなくならないと思います。いまはそれに向き合うしかないのかもしれません。でも、その辛さこそが、きっとあなたの人生をより豊かにするはずだということは、頭のどこかに入れておいてください。なんとかいまを、乗り越えられますよう。

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『月刊すこ~れ』連載 「子どものなぜへのある父親の私信」第5回(2019年1月号掲載)

『月刊すこ~れ』2019年1月号掲載の連載第5回です。

Q ぼくは虫が嫌いです。そう話すとよく、「え、男の子なのに……」って言われます。どうして? 

A カブトムシやカマキリやセミを捕まえて遊ぶのはぼくも小さいとき、友だちと一緒によくやりました。虫かごに入れたり、水槽に土を敷き詰めて幼虫を飼ったり、カブトムシとクワガタを無理やり戦わせてみたり……。思い出すと、そのように遊んでいたのはいつも男の子ばかりだったような記憶があります。そして確かにぼくも、男の子は虫が好き、その一方、女の子はあまり虫が好きではない、というイメージを持っているように思います。
 でもその記憶やイメージは、いつしかぼくが持つようになった思い込みの結果なのかもしれません。ぼくの妻も子どもの時は虫で遊んだ経験があり、「虫は男の子、という印象はないよ」と彼女が言うのを聞くと、そうなのかも、とも思いました。全くの記憶違いなのかもしれません。
 しかし、もし実際に虫好きに圧倒的に男の子が多かったとしても、そのことと、一人ひとりが何を好むかは全く別の話です。男の子で虫が嫌いでももちろんいいし、女の子が虫が大好きでも、何もおかしいことはありません。
 にもかかわらず、そのようなイメージが一人ひとりにも当てはめられて、男の子なんだから虫が好きで当然で、女の子なんだからこの子もきっと虫が苦手なはず、というように語られることは多いなとぼくもよく感じます。そして虫だけでなくいろんなことが、いつの間にか当たり前のように、男はこう、女はこう、とイメージで語られる。その積み重ねが、いまの日本社会全体に映し出されているような気がします。
 大人の人などに「え、男の子なのに……」と言われたら、なんといえばいいのかわからないよね、きっと。でも、それに対して、「どうしてそんなことを言うんだろう」と思う気持ちは大切です。その気持ちを持ち続けることがきっと、未来の社会がいま以上に誰にとっても生きやすいものになることにつながるように思います。

Q 注射を打ちに行く前に、お母さんは「絶対に痛くないから」って言ったのに、痛かった。ウソをついてはだめっていつも言われているのに……。

A よくないと思うことをしてしまった時や、怒られそうな失敗をしてしまった時、ああ、本当のことは言いたくないな、隠しておきたいなと思うことはきっと誰でもあるでしょう。でも、そんなときにウソをつくと、たとえその場ではうまくごまかせたように感じても、後からもっと大変なことになる場合がよくあります。ウソがばれそうになって、それを隠すためにまた別のウソをつき……、とどんどんウソが膨らんでいったりするからです。
 そんな経験を何度もしてきたせいなのか、年をとるほどにやっぱりウソはよくないなあ思うようになりました。仕事においても、他の人との関係においても、たとえ言いづらいことがあったとしても、ウソをつかずに本当のことを伝えるのが問題解決のためには一番いいんだなってよく思います。
 でもその一方、矛盾するようではあるけれど、長く生きていくほどに、世の中にはウソがよい働きをするような場面ってあるんだなあとも感じます。自分の失敗を隠すためだけのようなウソでなく、また、もしウソだとわかっても相手を傷つけるようなものでもなく、本当のことを言う以上に相手を優しく包み込むようなウソ……。そのようなウソがきっとあり、それであれば、悪いばかりではないように思います。
 「絶対に痛くないから」というお母さんの言葉は、そのような類に当たるのかな、と思います。お母さんの言葉によってあまり心配することなく注射の時を迎えられて、実際に痛くてウソだったとわかった時にはもう終わっていて気持ちもすっきり、笑っていられる……。とすれば、こういうウソは、ぼくはいいのかなと。
 でも、実際にいいか悪いかを判断するのは、ウソを言われたあなた自身。お母さんが良かれと思って言ったとしても、あなたが嫌だったのであれば、やっぱり本当のことを言うべきだったのかもしれません。うん、ウソってやっぱり難しい。

『月刊すこ~れ』連載 「子どものなぜへのある父親の私信」第4回(2018年12月号掲載)

『月刊すこ~れ』2018年12月号掲載の連載第4回です。

Q 学校でとても嫌なことがあって、いまは学校に行きたくない。「がんばって行きなさい」って言われるけれど、どうしても行かないといけないの? 

A 学校での嫌な出来事、それがどんなことなのかはわからないけれど、きっとあなたにとってとても重大なことだったのだと思います。
 学校は、新しいことを学んだり、友だちと遊んだり、長い人生を生きていく上で大切な役割を果たす場所です。行けるのであれば行った方がよいとは思います。ただし、それは一般論としての話。一人ひとりについていえば、必ずしも誰もが学校に行った方がいいとは限らない、というのがぼくの考えです。
 ぼく自身、中学時代、友人や先輩との関係がうまくいかず学校に行くのが憂鬱で苦しかった時期がありました。自分の場合、結局は通い続ける中で問題は解決していったのだけれど、それから三十年近くが経ったいまも、当時の記憶は自分の心に残っています。学校が時にものすごく重苦しい場所になるのは、自分の経験からも理解できるように感じます。
 ぼくの友人には、小学校時代から学校に行かなくなり、中学の時にふとインドに住みたいと思い立ち、両親とともに移住して大人になるまでインドにいたという人がいます。そしてインドで絵を描くようになり、いま彼は、奥さんと子どもとともに日本で暮らし、本のデザインなどの分野で独自の世界を切り開いています。彼の場合、学校に通わないという選択が人生を広げていったようにも見えます。
 また、最近『不登校でも大丈夫』(岩波ジュニア新書)という本を出した、末富晶さんという女性も、小学校三年で不登校になって以来、学校には行かずに大人になった方です。彼女は、当時は学校に行かない/行けないゆえの辛さや葛藤もあったけれど、その後、学校の外に様々な世界が開けていき、いまはこう思っていると書いています。「不登校児だった過去は、幸福な人生につながる必要な時間だった」と。
 学校は大切な場所ですが、決して何を差し置いても行かないといけないところではありません。無理はしないで、自分の気持ちに従ってください。行かない時間が、いまあなたには必要なのかもしれません。

Q 友だちがいじめられているのを見た。でも、止めることができなかった。そのことがすごく気になってしまっています。

A いじめの現場を見てどうすることもできなかった。そんな経験がある人は少なくないかもしれません。なんで止めなかったの? なんとしてでも勇気を出して止めるべきだった、と言う意見もあるでしょう。でも、現実にはそれが決して簡単ではないとぼく自身も感じてきたから、正面からそのように書くことができません。
 正直なところ、ぼくはいまこの問いに対して、自信をもって伝えられる言葉を残念ながらもっていません。でも、それだからこそ、真剣に考えて、いまの気持ちを自分なりの言葉で伝えたいと思っています。
 まず、どうして止められなかったのかを考えてみることが重要です。もし、止めなくてもいいや、という気持ちだったのであれば、考え直さないといけないとぼくは心から思います。でも、いま気になっているということは、そうではなく、止めたくとも怖くてできなかった、といったような理由があったのだと想像します。
 大切なのはおそらく、その気持ちを忘れないこと。止めることができなかった自分を情けなくもしくは残念に思う気持ち。どうすればよかったんだろう。これから何ができるのだろう。いま心の中にあるだろうそのような思いをしっかりと覚えておくことがきっととても大事です。
 その上で、もしできたら、その友だちに、自分の正直な気持ちを伝えるのがよいと思います。友だちはよく思わないかもしれないし、言い訳のように受け取るかもしれない。でもその気持ちが心からのものであれば、きっとそれは伝わるだろうし、その気持ちは、友だちにとっても力になるのではないかなという気がします。
 でも、それで終わりではいけない。次につながってこそ、いまの経験が生きてきます。同じような状況になったときに、今度はどうすればいいのかを考える。具体的にこうすれば、と言えないのが心苦しいのだけれど、とにかくいまの気持ちを忘れずに、考え続けるしかないのかもしれません。ぼくも親として、これからも考えていきます。