『月刊すこ~れ』連載 「子どものなぜへのある父親の私信」第4回(2018年12月号掲載)

『月刊すこ~れ』2018年12月号掲載の連載第4回です。

Q 学校でとても嫌なことがあって、いまは学校に行きたくない。「がんばって行きなさい」って言われるけれど、どうしても行かないといけないの? 

A 学校での嫌な出来事、それがどんなことなのかはわからないけれど、きっとあなたにとってとても重大なことだったのだと思います。
 学校は、新しいことを学んだり、友だちと遊んだり、長い人生を生きていく上で大切な役割を果たす場所です。行けるのであれば行った方がよいとは思います。ただし、それは一般論としての話。一人ひとりについていえば、必ずしも誰もが学校に行った方がいいとは限らない、というのがぼくの考えです。
 ぼく自身、中学時代、友人や先輩との関係がうまくいかず学校に行くのが憂鬱で苦しかった時期がありました。自分の場合、結局は通い続ける中で問題は解決していったのだけれど、それから三十年近くが経ったいまも、当時の記憶は自分の心に残っています。学校が時にものすごく重苦しい場所になるのは、自分の経験からも理解できるように感じます。
 ぼくの友人には、小学校時代から学校に行かなくなり、中学の時にふとインドに住みたいと思い立ち、両親とともに移住して大人になるまでインドにいたという人がいます。そしてインドで絵を描くようになり、いま彼は、奥さんと子どもとともに日本で暮らし、本のデザインなどの分野で独自の世界を切り開いています。彼の場合、学校に通わないという選択が人生を広げていったようにも見えます。
 また、最近『不登校でも大丈夫』(岩波ジュニア新書)という本を出した、末富晶さんという女性も、小学校三年で不登校になって以来、学校には行かずに大人になった方です。彼女は、当時は学校に行かない/行けないゆえの辛さや葛藤もあったけれど、その後、学校の外に様々な世界が開けていき、いまはこう思っていると書いています。「不登校児だった過去は、幸福な人生につながる必要な時間だった」と。
 学校は大切な場所ですが、決して何を差し置いても行かないといけないところではありません。無理はしないで、自分の気持ちに従ってください。行かない時間が、いまあなたには必要なのかもしれません。

Q 友だちがいじめられているのを見た。でも、止めることができなかった。そのことがすごく気になってしまっています。

A いじめの現場を見てどうすることもできなかった。そんな経験がある人は少なくないかもしれません。なんで止めなかったの? なんとしてでも勇気を出して止めるべきだった、と言う意見もあるでしょう。でも、現実にはそれが決して簡単ではないとぼく自身も感じてきたから、正面からそのように書くことができません。
 正直なところ、ぼくはいまこの問いに対して、自信をもって伝えられる言葉を残念ながらもっていません。でも、それだからこそ、真剣に考えて、いまの気持ちを自分なりの言葉で伝えたいと思っています。
 まず、どうして止められなかったのかを考えてみることが重要です。もし、止めなくてもいいや、という気持ちだったのであれば、考え直さないといけないとぼくは心から思います。でも、いま気になっているということは、そうではなく、止めたくとも怖くてできなかった、といったような理由があったのだと想像します。
 大切なのはおそらく、その気持ちを忘れないこと。止めることができなかった自分を情けなくもしくは残念に思う気持ち。どうすればよかったんだろう。これから何ができるのだろう。いま心の中にあるだろうそのような思いをしっかりと覚えておくことがきっととても大事です。
 その上で、もしできたら、その友だちに、自分の正直な気持ちを伝えるのがよいと思います。友だちはよく思わないかもしれないし、言い訳のように受け取るかもしれない。でもその気持ちが心からのものであれば、きっとそれは伝わるだろうし、その気持ちは、友だちにとっても力になるのではないかなという気がします。
 でも、それで終わりではいけない。次につながってこそ、いまの経験が生きてきます。同じような状況になったときに、今度はどうすればいいのかを考える。具体的にこうすれば、と言えないのが心苦しいのだけれど、とにかくいまの気持ちを忘れずに、考え続けるしかないのかもしれません。ぼくも親として、これからも考えていきます。