『月刊すこ~れ』連載 「子どものなぜへのある父親の私信」第5回(2019年1月号掲載)

『月刊すこ~れ』2019年1月号掲載の連載第5回です。

Q ぼくは虫が嫌いです。そう話すとよく、「え、男の子なのに……」って言われます。どうして? 

A カブトムシやカマキリやセミを捕まえて遊ぶのはぼくも小さいとき、友だちと一緒によくやりました。虫かごに入れたり、水槽に土を敷き詰めて幼虫を飼ったり、カブトムシとクワガタを無理やり戦わせてみたり……。思い出すと、そのように遊んでいたのはいつも男の子ばかりだったような記憶があります。そして確かにぼくも、男の子は虫が好き、その一方、女の子はあまり虫が好きではない、というイメージを持っているように思います。
 でもその記憶やイメージは、いつしかぼくが持つようになった思い込みの結果なのかもしれません。ぼくの妻も子どもの時は虫で遊んだ経験があり、「虫は男の子、という印象はないよ」と彼女が言うのを聞くと、そうなのかも、とも思いました。全くの記憶違いなのかもしれません。
 しかし、もし実際に虫好きに圧倒的に男の子が多かったとしても、そのことと、一人ひとりが何を好むかは全く別の話です。男の子で虫が嫌いでももちろんいいし、女の子が虫が大好きでも、何もおかしいことはありません。
 にもかかわらず、そのようなイメージが一人ひとりにも当てはめられて、男の子なんだから虫が好きで当然で、女の子なんだからこの子もきっと虫が苦手なはず、というように語られることは多いなとぼくもよく感じます。そして虫だけでなくいろんなことが、いつの間にか当たり前のように、男はこう、女はこう、とイメージで語られる。その積み重ねが、いまの日本社会全体に映し出されているような気がします。
 大人の人などに「え、男の子なのに……」と言われたら、なんといえばいいのかわからないよね、きっと。でも、それに対して、「どうしてそんなことを言うんだろう」と思う気持ちは大切です。その気持ちを持ち続けることがきっと、未来の社会がいま以上に誰にとっても生きやすいものになることにつながるように思います。

Q 注射を打ちに行く前に、お母さんは「絶対に痛くないから」って言ったのに、痛かった。ウソをついてはだめっていつも言われているのに……。

A よくないと思うことをしてしまった時や、怒られそうな失敗をしてしまった時、ああ、本当のことは言いたくないな、隠しておきたいなと思うことはきっと誰でもあるでしょう。でも、そんなときにウソをつくと、たとえその場ではうまくごまかせたように感じても、後からもっと大変なことになる場合がよくあります。ウソがばれそうになって、それを隠すためにまた別のウソをつき……、とどんどんウソが膨らんでいったりするからです。
 そんな経験を何度もしてきたせいなのか、年をとるほどにやっぱりウソはよくないなあ思うようになりました。仕事においても、他の人との関係においても、たとえ言いづらいことがあったとしても、ウソをつかずに本当のことを伝えるのが問題解決のためには一番いいんだなってよく思います。
 でもその一方、矛盾するようではあるけれど、長く生きていくほどに、世の中にはウソがよい働きをするような場面ってあるんだなあとも感じます。自分の失敗を隠すためだけのようなウソでなく、また、もしウソだとわかっても相手を傷つけるようなものでもなく、本当のことを言う以上に相手を優しく包み込むようなウソ……。そのようなウソがきっとあり、それであれば、悪いばかりではないように思います。
 「絶対に痛くないから」というお母さんの言葉は、そのような類に当たるのかな、と思います。お母さんの言葉によってあまり心配することなく注射の時を迎えられて、実際に痛くてウソだったとわかった時にはもう終わっていて気持ちもすっきり、笑っていられる……。とすれば、こういうウソは、ぼくはいいのかなと。
 でも、実際にいいか悪いかを判断するのは、ウソを言われたあなた自身。お母さんが良かれと思って言ったとしても、あなたが嫌だったのであれば、やっぱり本当のことを言うべきだったのかもしれません。うん、ウソってやっぱり難しい。

『月刊すこ~れ』連載 「子どものなぜへのある父親の私信」第4回(2018年12月号掲載)

『月刊すこ~れ』2018年12月号掲載の連載第4回です。

Q 学校でとても嫌なことがあって、いまは学校に行きたくない。「がんばって行きなさい」って言われるけれど、どうしても行かないといけないの? 

A 学校での嫌な出来事、それがどんなことなのかはわからないけれど、きっとあなたにとってとても重大なことだったのだと思います。
 学校は、新しいことを学んだり、友だちと遊んだり、長い人生を生きていく上で大切な役割を果たす場所です。行けるのであれば行った方がよいとは思います。ただし、それは一般論としての話。一人ひとりについていえば、必ずしも誰もが学校に行った方がいいとは限らない、というのがぼくの考えです。
 ぼく自身、中学時代、友人や先輩との関係がうまくいかず学校に行くのが憂鬱で苦しかった時期がありました。自分の場合、結局は通い続ける中で問題は解決していったのだけれど、それから三十年近くが経ったいまも、当時の記憶は自分の心に残っています。学校が時にものすごく重苦しい場所になるのは、自分の経験からも理解できるように感じます。
 ぼくの友人には、小学校時代から学校に行かなくなり、中学の時にふとインドに住みたいと思い立ち、両親とともに移住して大人になるまでインドにいたという人がいます。そしてインドで絵を描くようになり、いま彼は、奥さんと子どもとともに日本で暮らし、本のデザインなどの分野で独自の世界を切り開いています。彼の場合、学校に通わないという選択が人生を広げていったようにも見えます。
 また、最近『不登校でも大丈夫』(岩波ジュニア新書)という本を出した、末富晶さんという女性も、小学校三年で不登校になって以来、学校には行かずに大人になった方です。彼女は、当時は学校に行かない/行けないゆえの辛さや葛藤もあったけれど、その後、学校の外に様々な世界が開けていき、いまはこう思っていると書いています。「不登校児だった過去は、幸福な人生につながる必要な時間だった」と。
 学校は大切な場所ですが、決して何を差し置いても行かないといけないところではありません。無理はしないで、自分の気持ちに従ってください。行かない時間が、いまあなたには必要なのかもしれません。

Q 友だちがいじめられているのを見た。でも、止めることができなかった。そのことがすごく気になってしまっています。

A いじめの現場を見てどうすることもできなかった。そんな経験がある人は少なくないかもしれません。なんで止めなかったの? なんとしてでも勇気を出して止めるべきだった、と言う意見もあるでしょう。でも、現実にはそれが決して簡単ではないとぼく自身も感じてきたから、正面からそのように書くことができません。
 正直なところ、ぼくはいまこの問いに対して、自信をもって伝えられる言葉を残念ながらもっていません。でも、それだからこそ、真剣に考えて、いまの気持ちを自分なりの言葉で伝えたいと思っています。
 まず、どうして止められなかったのかを考えてみることが重要です。もし、止めなくてもいいや、という気持ちだったのであれば、考え直さないといけないとぼくは心から思います。でも、いま気になっているということは、そうではなく、止めたくとも怖くてできなかった、といったような理由があったのだと想像します。
 大切なのはおそらく、その気持ちを忘れないこと。止めることができなかった自分を情けなくもしくは残念に思う気持ち。どうすればよかったんだろう。これから何ができるのだろう。いま心の中にあるだろうそのような思いをしっかりと覚えておくことがきっととても大事です。
 その上で、もしできたら、その友だちに、自分の正直な気持ちを伝えるのがよいと思います。友だちはよく思わないかもしれないし、言い訳のように受け取るかもしれない。でもその気持ちが心からのものであれば、きっとそれは伝わるだろうし、その気持ちは、友だちにとっても力になるのではないかなという気がします。
 でも、それで終わりではいけない。次につながってこそ、いまの経験が生きてきます。同じような状況になったときに、今度はどうすればいいのかを考える。具体的にこうすれば、と言えないのが心苦しいのだけれど、とにかくいまの気持ちを忘れずに、考え続けるしかないのかもしれません。ぼくも親として、これからも考えていきます。

 

『月刊すこ~れ』連載 「子どものなぜへのある父親の私信」第2回(2018年10月号掲載)

『月刊すこ~れ』2018年10月号掲載の連載第2回です。

Q 大人はどうしてみな仕事をするの?

A 大人はだいたい、「忙しい忙しい」と言いながら、朝、仕事に出かけ、夜までずっと働いています。家でずっと家事をする場合もあるけれど、それも含めて大人はみな、多かれ少なかれ何らかの形で仕事をして生きている。時には「大変だ、いやだなあ」と言いながら。でも、やめるわけにはいかなそう。いったいどうしてなんだろう?
 私たち人間が、集まってできる集団やその場所を「社会」といいます。その中で、私たちはみな、電車に乗ったり、お店で物を買ったり、学校に行ったりして毎日を過ごしています。みながそうやって生活していくためには、電車を動かす人がいて、物を作る人や売る人がいて、学校には先生がいなければなりません。その他にも、道路を作る人、病気の人を診てくれるお医者さん、テレビの番組を作る人……などなど、考えていくと、私たちが普段、何気なく使っているものにも場所にも、必ずそこで働いている人がいることがわかります。つまり、社会とは、みながそれぞれ働いて、互いに何らかの役割を果たし合うことで成り立っているのです。
 それぞれが自分の仕事をし、お互いにできることを交換し合う。その交換を簡単にするための道具がお金です。自分の仕事をしてお金をもらう、そしてそのお金を他の人に渡すことで、その人の仕事を利用させてもらうのです。
 お金は本来、そのように何かと何かを交換する際に、間に入ってくれる道具として作られたのだけれど、それがいつしかいろんな問題も生むようにもなってしまった。そのことについてはまた別の機会に書くとして、ここでは、なぜ大人がみな仕事をしてお金を稼がないといけないのかがわかってもらえたらと思います。
 ただし、様々な理由で働けない人、働かない人もいます。そういう人は社会の中で役割を果たしていないことになる? だとしたらそれはいけないこと? いや、どちらも、決してそうでありません。それはなぜって? 大切なことなので、この問いもいずれこのコーナーで考えてみたいと思います。

Q「将来、プロのサッカー選手になりたい」って言ったら、「難しいからやめた方がいい」って言われました。難しいかどうかって、最初から決まってるの?

A サッカー選手のみならず、ミュージシャン、学者……、それにいまはユーチューバ―も入るかな。そういった人気のある職業に将来就きたい人はきっと少なくないでしょう。でもその気持ちを大人に言って、「それは難しいから、もっと現実的になりなさい」などと言われたことがあるかもしれない。さて、本当にそうなんだろうか?
 みんなが「なりたい!」と思う仕事に就くのは、おそらく簡単ではありません。きっといろんな壁を乗り越えなければならないし、すごい努力が必要かもしれません。もし身近な大人に「難しいよ」って言われたとすれば、それはきっと、なれなくて悲しんだり困ったりしないように、そう言ってくれたのだとは思います。
 でもぼくは、「○○になりたい」という気持ちがあるのなら、その気持ちを大切にして、がんばって目指してほしい!って思います。
 いまその仕事に就いて活躍している人でも、最初から「自分はなれる」と思っていた人は決して多くはないはずです。ぼくがよく感じるのは、なれるかなれないかはやってみないと決してわからないということ。そして、○○になりたいという夢を叶えた人の多くは、必ずしも才能があったから叶ったのではない。きっとすごい努力をしているのだけれど、その部分は周りには見えにくいから、「あの人は、きっと才能があったからできたんだ」って想像で言われているだけだということです。
 大事なのは、とにかくやってみることです。では、それでもなれなかったらどうするかって? うん、それは辛いことかもしれないけれど、そういう場合もやはりある。もしかすると、その場合の方が多いぐらいかもしれません。でも、じゃあ、やらない方がいいのかといえば決してそうではありません。やってみるということ自体が、そしてうまくいかなくて悩むことそのものが、とても大切な経験だからです。その経験によって必ず、それまでは見えなかった世界が見えてきます。そして、生きる世界がぐっと広がっていくのです。そう信じて、思いっきりがんばって!

写真 2019-12-14 17 00 36.jpg

『月刊すこ~れ』連載 「子どものなぜへのある父親の私信」第1回(2018年9月号掲載)

『月刊すこ~れ』2018年9月号掲載の連載第1回です。

Q どうして勉強しないといけないの?

 A みんな、昼間は学校で勉強して、学校の後は家で宿題をしたり塾に行ったり、という生活かな? もっと遊びたい、と思っても、先生からも親からも、「勉強しなさい」と言われているかもしれないね。そしてきっと一度はみな、こう考えることがあると思う。「どうして勉強なんてしないといけないんだろう?」って。
 いったいどうしてだろう。勉強すると「いい」学校に入れるんだ、すると「いい」会社に入れて、大人になってから安定した生活ができるんだよ、と言われたことがあるかもしれない。だとすれば、勉強することの目的は「いい」学校に合格することで、入学試験の問題を解けるようになることになる。
 でも、入学試験に受かって学校に入っても勉強は終わらない。その学校できっともっと難しい勉強をすることになる。つまり勉強するのは、試験に合格するためじゃなくて、勉強すること自体に意味がある、ということが分かると思う。
 では勉強とは何だろう? それは、みんなが暮らしているこの世界がいったいどんな場所かを知ることなんだ。ずっと昔に宇宙が誕生して、その中に地球ができて、人間が生まれた。その間に様々な変化が起こり、生まれてきたすべての人や動物が、少しずつ何かを残していった結果、いまの世界になったんだ。
 勉強というのは、その、ものすごく長い間に人が考え作り上げていったものや、自然が経てきた変化を知り、理解するためにするものなんだと思う。そして勉強して、この世界がどんな場所かが理解できると、では、その中で、自分はどのように生きたいか、そのために何をすればいいか、といったことを自分で考えて実現しやすくなるはずなのです。つまり、勉強するほどきっと自由に生きられるようになる。
「いい」会社を目指すのももちろんいい。でも、それは無数にある生き方の一つでしかないことは知っておいてもいいかもしれない。みんなの可能性は無限大なのだから。

Q スマホやテレビばかりを見ていたらどうしてだめなの?

 A スマホやテレビは、楽しいからついつい夢中になってしまいます。ぼくも時々、時間を忘れて見入ってしまうことがあります。でも、ずっとそればかりを見ているのはよくないなとはいつも思う。なぜかって?
 理由はいくつか挙げられると思います。他のことをする時間がなくなるから。目に悪いから。刺激が強くて疲れるから。そのどれもきっとそう。でもそれらの中で、ぼくが特に重要だと思うのは、ただじっと画面を見ているだけ、になるのがよくないんじゃないかなってこと。
 人間にとって、最も大事なことの一つは、自分で身体を動かしたり、考えたり想像したりすることだとぼくは思う。どこかに行ったり、人に会ったりして、新しいことを体験すると、その体験は感覚として身体に残る。または、ふと顏を上げて目の前の風景を眺めたり、空気や音、匂いに気持ちを向けてみると、思わぬことが頭に思い浮かんだり、いろんな想像が膨らんだりすることがある。
 一方、スマホで動画などを見ているときは、じつはただ画面に出てくることを〝浴びてる〟だけになっている。あまりに多くの情報や刺激が頭の中に飛び込んでくるから、何かを自分で考えるための隙間がなくなるのだと思います。ぼく自身、スマホやテレビを見ている時、「あ、画面上の絵と音を受け止めているだけになっているな」って気づくことがよくあります。その時間が楽しかったり、新しいことを知ったりもできるから、決して悪いだけではないけれど、そればかりだと、頭や心や身体を動かすことがだんだんと面倒になってしまうような気がします。
 自分で考えたり想像したりする時間、また自分で動いて何かをする時間。そういう時間が毎日あると、きっと、気持ちも豊かになっていくのではないかなって思う。その中に少しスマホやテレビがあるくらいがきっといい。大切なのはバランスだね。みんなはどう思うかな?

IMG_0405.JPG