『月刊すこ~れ』連載 「子どものなぜへのある父親の私信」第9回(2019年5月号掲載)

『月刊すこ~れ』2019年5月号掲載の連載第9回です。

Q ニュースを見ると、世界ではいつもどこかで戦争が起きているし、日本もいつも近くの国といがみ合ったりしているように見えます。国と国って仲良くはなれないの?  

A 大学時代に受けた政治や国際問題に関する講義の中で、先生が次のようなことを言っていたのが強く印象に残っています。
「国と国の関係も、基本的には一対一の人間の関係と同じです。喧嘩もするし、仲良くもなる。ただ、関係をつくる上で考えなければならない要素が、人と人の場合より多くて、複雑なだけ」だと。
 国と国の関係も、人と人の関係も、基本は同じ。どちらにしても、気が合うか合わないか、感覚的に好きか嫌いかということが関わってきます。ただし、国と国の関係の場合、ものすごく多くの人の生活、そして政治、経済、歴史など、様々な要素が関係してくるために、お互いに意気投合できる部分と、いや、そこは認められないと対立する部分が必ず出てきます。そうした中で、何か問題が発生したり、うまくいかないことがあったりした場合に、ニュースとして伝えられることが多いので、テレビなどを見ていると、いつも関係が良くないように見えるのかもしれません。
 そして、関係がうまくいかない点ばかりを目にしていると、そのうち本当に相手に対していい感情を持てなくなることも考えられます。その結果、お互いに相手を嫌いになり、対立が増して、ついには戦争へと発展してしまうことも……。
 嫌だなと思う友だちでも、ふとその人のいい部分を目にすることで、あ、やっぱりいいやつかもしれない、もうちょっと話してみようかな、と思い直したことがある人はいるのではないでしょうか。国と国の関係もきっと同じはず。
 特に文化や常識が異なる相手については、誰でも誤解したり、警戒したり、違和感を持ったりしがちです。だからこそ、国同士の関係においては意識して相手のいい部分を探して、そこに目を向けることが大切だと思います。
 私たち一人ひとりの感情が積もり積もって国と国との関係につながっていきます。ニュースなどを見るときに、ふとここに書いたこと思い出してもらえたら嬉しいです。

Q テレビや新聞で見たことをうのみにしてはいけないよ、って先生に言われた。テレビや新聞は本当のことを伝えているわけではないの?

A テレビや新聞のように、様々な情報を伝えてくれるものを「メディア」といいます。普段私たちは、メディアのニュースや情報を通じて、世の中で起こっていることを知ります。最近では、インターネットの発達によって、ありとあらゆる意見や情報を簡単に知ることができるようになりましたが、そうした中で、テレビや新聞といったメディアは、情報を伝えることを職業とする人たちが、時間やお金をかけて調べ、内容を吟味したうえで発信する情報であるという点で、信頼性が高いといえます。
 でも、だからといって、それらのメディアが伝える情報がいつも正しいのかといえば、必ずしもそうではありません。それは、テレビや新聞がウソを伝えているというわけではなく、メディアとはそういうものだということです。
 たとえば、同じ日に出た複数の新聞を見比べてみると、一面に載っているニュースは新聞ごとに違います。それは、新聞社によって、どのニュースが大事かという判断が異なるからです。つまり、新聞は決して客観的なわけではなく、作り手の意図や価値判断が含まれているということです。ある新聞では大事なニュースだと判断されて大きな記事になっている出来事が、別の新聞では、自分たちの考えに合わないから目立たない小さな記事にしよう、といったことが当然あります。また、賛否両論ある政治家の発言について街の人の声をテレビで紹介する場合、賛成意見を紹介したあとに反対意見を紹介するのか、その逆にするのかで、見ている人の印象は大きく変わります。一般に人は、後に紹介した意見の方を正しく感じる傾向があり(伝え方にもよりますが)、そのような性質を利用して、メディアは自分たちの考え方に合った方法で伝えようとします。
 すなわち、どんなメディアも、作り手の考え方が反映されたものになります。うのみにしてはいけないというのは、そういうことでしょう。これは、メディアに悪意があるということではなく、情報とは必ずそういうものだということです。そのことを知っておくと、ニュースなどをより深く理解することができるはずです。

 

『月刊すこ~れ』連載 「子どものなぜへのある父親の私信」第8回(2019年4月号掲載)

『月刊すこ~れ』2019年4月号掲載の連載第8回です。

Q 中学生になって以来、「もう子どもじゃないんだから」と言われたり「まだ子どもなんだから」と言われたり。大人の都合で使い分けられているような……。いったい自分は子ども?大人?  

A 中学生になると電車などが大人料金になるせいか、ぼくも中学に入った時、自分も大人の仲間入りだと思った記憶があります。でも振り返ると、中学生はやはり子どもの側だろうと思うし、ほとんどの大人は同じように考えている気がします。おそらくそう思いながらも「もう子どもじゃないんだから」と言ったりする。それは中学生のみんなが、自分は大人になりつつあるんだという自覚を持てるように後押しする意味と、あとはまさに、都合よく使い分けているのでしょう(笑)。
 それはさておき、人はいったいいつ、子どもから大人に変わるのでしょうか。大人と子どもの違いは何なのでしょうか。
 成人となる二十歳を境目だとするのが最も客観的と言えるかもしれません。また、働き出したら大人、自分で生活を営むようになったら大人、という意見もあるでしょう。つまり人によっていろんな捉え方があるように思います。
 そうした中で、ぼくにとってもまた、自分なりに考える大人と子どもの境目があります。それは、自分がいつか死ぬ、ということをはっきりと意識できるかどうか、であると考えています。ぼくは二十九歳でちょっとした手術をする機会があり、その際、自分ががんになるかもしれない可能性を意識することになりました。そしてそのとき初めて、自分もいずれ死ぬんだという実感を得ました。それはショッキングな気づきでしたが、しかし同時に、そう実感できて以来、毎日がとても貴重に思えるようになって、生きていく上での心構えが変化したように感じています。
 言い換えるとそれは、人生もう後戻りはできないんだと自覚することなのだと思います。年齢には関係なく、その気持ちを持ったときに人は、行動や考え方に変化が生じ、子どもだった時代を終えるのではないかという気がしています。それが具体的にどんな変化なのかは人によって異なると思いますが、戻れないという事実を受け入れ、向き合うようになったときに人は大人なるのかな、と。でも、そうすると、大人になるのはまだだいぶ先になりそうかな?         

Q 私は自分自身の中に、どうしても受け入れられない嫌いな部分があります。どうして自分だけこんななんだろう、って思ってしまう。どうしたらいいでしょう。

A 自分自身について受け入れられない嫌いな部分というのは、いわゆる「コンプレックス」と呼ばれるものだろうと思います。能力や容姿、性格などについて、自分が望むような状態ではなく、できることなら変えたい、直したい、と思う点。それが具体的に何なのかはわかりませんが、きっと、あなたにとって大きな問題なのだろうと想像しています。
 だとすればおそらく、誰かに、大丈夫だよ、気にすることないよ、などと言われても解決することではないかもしれません。むしろ、簡単にわかったようなことを言ってほしくないという気持ちになるかもしれません。それゆえぼくは、あなたがそれを乗り越えたり受け入れたりするのを願うことしかできないようにも思います。ただ、もしかすると参考になるかもしれない自分の経験を一つ書いてみます。
 ぼくは、高校時代から吃音、つまり、話すときにどもることで悩むようになりました。うまく話せなくて意思疎通ができなくなることがあったり、どもる姿を見られたらどうしようといつも考えてしまったり、とても大きなコンプレックスでした。自分にとってその悩みは深刻で、なんとか克服できないかといろいろ試みましたが、叶わず、結局ぼくはそれをきっかけに就職するのを断念しました。そして、考えた結果、旅をしながらフリーでライターとしてやっていけないかと、大学院を修了後に日本を離れて文章を書き始めたのでした。つまり、ぼくが文筆業で生計を立てるようになった発端は、自分のコンプレックスだったのです。そしていまは、そのような選択をしてよかったと思っています。
 一概には言えないけれど、コンプレックスをなんとかしたいと悩む気持ちは、自分の人生を動かす原動力にもなりうるように思います。嫌だという気持ちに素直になって、では、どうすれば自分は生きやすいのかを考えると、あなたならではの生き方が見えてくるかもしれません。
 ちなみにぼくの吃音は、旅の途中でなぜか突然消えていきました。その理由はわかりません。

『月刊すこ~れ』連載 「子どものなぜへのある父親の私信」第7回(2019年3月号掲載)

『月刊すこ~れ』2019年3月号掲載の連載第7回です。

Q 宇宙人って、いるのかな? 

A 「UFO(ユーフォー)が飛んでた!」「宇宙人が実は地球に来たらしい!」という話は、昔からよくありました。子どものころ、ぼんやりした円盤のようなものが空に浮かんで見える写真が出回って、これは本物のUFOだ、いや、偽物に決まってる、などと友達同士で話したことを覚えています。
 大抵の場合、というか、おそらくこれまでにあったそのような話の全てが、間違いやただの作り話だったはずですが、だからと言って、宇宙人はいない、とはっきりしているわけではありません。むしろ宇宙人はいるに違いないと考える科学者は多く、今も、日本を含めた世界各地で、大きな電波望遠鏡などを宇宙に向け、〝宇宙人〟すなわち「地球外知的生命体」から何かメッセージが来ないかと探る試みが行なわれています。
 「いるはず」と信じられているのはなぜかと言えば、宇宙には数えきれないほどたくさんの星があり、そのすべての中で、生命が生まれたのがこの地球だけだとは考えにくいからです。 そして138億年前から広がり続けているこの宇宙のどこかに、地球のような発展を遂げた星があるとしても全く不思議ではないのです。
 ただその一方、そうであればその中に、地球よりももっと発展している星があって、その星から何かメッセージが送られてきたりしてもよさそうなのに、実際にはこれまでそのようなものが届いた様子はありません。そのため、生き物がいる星があったとしても、様々な理由から、地球にメッセージを送ってこられるような高度な技術や知性を持つ、いわゆる〝宇宙人〟はいないのではないか、という意見もあります。
 いったいどっちなのでしょう。ぼくは、いると思っています。きっとあと数十年もしないうちに、宇宙人との交信が行われる日が来るような気がします。
 でも大切なのは、わからないことに対して、こうに決まっていると決めつけないこと。わからないということは、いろいろな可能性があるということ。そう思って、自分で調べたり考えたりしてみると、世界は大きく広がっていくはずです。

Q 「暴力は絶対ダメ」っていつも言われるのに、テレビに出てくる正義のヒーローは敵を蹴ったり殴ったりしてやっつけて、褒められる。あれはいいの?

A 戦隊モノなどのテレビ番組では、主人公であるヒーローは大体、力で〝敵〟を倒します。〝敵〟となる相手は何かしら悪さをしたことで、ヒーローにコテンパンにやっつけられる。言ってみれば、暴力です。でもヒーローは、誰にも「暴力はダメだよ!」などと言われないどころか、感謝されたり喜ばれたりしています。いったいどうしてなのでしょうか。
 正義のヒーローにはひとまず、力で相手をやっつけねばならない理由があります。地球を守るため、または弱い人を守るため。でも、そうであれば、「悪者」の方にも、彼らなりに悪さをしなければならない理由があるのかもしれません。いやそれどころか、彼らからすれば自分たちの方が正しくて、私たちが正義のヒーローと思っている主人公の方が悪者なのかもしれません。
 つまり、正義のヒーローだから暴力はOKとすれば、きっとどちらも、正義のヒーローは自分だと考えているので、どちらも暴力を振るっていいということになる。そしてそれこそが、国と国の間に起きる戦争なのです。お互いに、自分たちが正しくて相手が悪いと考えて、力で相手を倒そうとする。その結果、暴力がより激しくなり、多くの人を死なせたり、不幸にしたりしてしまうのです。
 すなわち、正義のヒーローでも暴力はダメなはず。それでも、ヒーローは、暴力を振るうことでヒーローになります。それは、私たちみなのどこかに、自分が正しいと思うことに限っては、〝悪〟をやっつけるためならば時に暴力を使うことも仕方がない、という気持ちがあるからなのではと思います。
 うん、ダメって言いながら、おかしいですよね。ぼく自身もそう思います。でもやはりすっきりとは言い切れない……。もしかしたら戦隊モノなどの番組は、正義のヒーローは暴力を振るってもいい、といっているわけではなく、そのような矛盾に気づいてもらうための教材のようなものなのかもしれませんね。

 

『月刊すこ~れ』連載 「子どものなぜへのある父親の私信」第6回(2019年2月号掲載)

『月刊すこ~れ』2019年2月号掲載の連載第6回です。

Q かけっこで友だちに勝って、嬉しくてすごく喜んだら、それからその友だちがあまり話してくれなくなった。喜んではいけなかったのかな……。

A 勝負ごとで勝ったら嬉しいのは、程度の違いはあっても、きっとみな同じだと思います。特にそれが一生懸命に練習した結果であったり、これまではどうしても勝てなかったのに勝てた、ということであれば一段と嬉しいはず。そういった場合に喜ぶことはおかしなことではないし、悪いことでもありません。ただ、勝負にはいつも相手がいます。つまり、勝った人がいるときには負けた人がいる。そしてその人もまた、勝負のあとにいろんな気持ちを抱えているはずです。
 勝負ごとで大切なのは勝ち負けの結果だけではありません。勝負のあと、勝負を離れて相手の気持ちに立つことも同じくらい大事です。ラグビーでは、試合終了のことを「ノーサイド」と言いますが、これは試合が終わったら敵と味方(=サイド)はなくなり(=ノー)、みな仲間に戻るということです。そして、一緒に大切な勝負を戦った仲間として、互いに相手に敬意を払い、称え合う。
 二〇一八年の平昌オリンピックのスピードスケート女子五〇〇メートルで金メダルを獲得した小平奈緒さんが、勝利の後に、二位になって涙するライバルに寄り添った場面を覚えている人は多いかもしれません。二人の姿が美しく心を打つものであったのは、全力で戦い合った二人が、それゆえにお互いを大切にし、敬意を抱き合っていることが感じられたからだと思います。そしてきっと二人はお互いに、健闘を称え合えたはずです。
 あなたが勝って喜んだら友だちが話してくれなくなったとすると、友だちは、あなたの喜ぶ姿を見て、そのような気持ちにはなれなかったということなのかもしれません。それは必ずしもあなたのせいではないかもしれないけれど、誰でも嬉しいときはつい相手のことを忘れてしまいがちです。なので、そういう時こそ特に、意識して相手の気持ちを想像しようと心がけるとよいかもしれません。その気持ちは自然と振る舞いにも表れて、相手にも伝わるだろうと思います。 

Q テニスの大切な試合で負けてしまい、大きな大会に進める貴重なチャンスを逃しました。取り返しのつかない失敗をしてしまったのではないかと、いまとても落ち込んでいます。

A 試合に負けてしまったのは、本当に残念でした。それだけ落ち込むということは、きっととても頑張って練習してきたのだと思います。しばらくは辛い気持ちが続くかもしれないけれど、うん、それはもう仕方ないのかもしれません。でも、きっとその経験は将来、とても貴重なものになるはずです。
 ぼく自身の経験を言えば、試合ではないけれど、高校三年で大学入試を受けたとき、志望の大学に合格できなくてとても落ち込んだことがあります。自分なりにがんばって勉強していたこともあって、合格発表の掲示板に名前がなかったときは、本当に絶望的な気持ちになりました。これからもう一年間、予備校に通って勉強して来年また受験しなければならず、しかも来年も受かる保証がないことを思うと、やりきれない気持ちでした。
 しかし、時間とともにその気持ちも収まり、実際に予備校に通う生活が始まると、それはそれで楽しい一年間を過ごすことができました。そして翌年は無事合格でき、終わってみると、すごく貴重な経験ができたような気がしました。
 その思いは、その後、年齢を増すごとに強くなっています。大きな失敗して辛い気持ちになることは、生きていく上で本当に重要な経験だからです。
 失敗して見えてくることは、成功して見えてくることよりもずっと大切なように思います。自分が苦しい気持ちを実際に体験することで、他の人の辛い気持ちを想像できるようになり、それはその人の優しさや思いやりにつながっていきます。一方、失敗そのものについては、これからきっと何らかの形で挽回できるチャンスがくるはずです。
 ……と、大人が過去の失敗について語る言葉を聞いても、きっといまの辛い気持ちはなくならないと思います。いまはそれに向き合うしかないのかもしれません。でも、その辛さこそが、きっとあなたの人生をより豊かにするはずだということは、頭のどこかに入れておいてください。なんとかいまを、乗り越えられますよう。

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