生産性という言葉に蝕まれているの感じながら思い出した、生産性を求めていた自分

朝日新聞Re:Ronに掲載された「微うつ」歴50年の異変…ヨシタケシンスケさんと「助けてボタン」を読んで、「生産性」ということについて考えました。

ここ数年、自分自身、生産性の魔にがんじがらめになっている感じがします。生活していくためにそうならざるを得ない部分もあるものの、じつは自分で自分を必要以上に焦らせているような気も。ヨシタケさんの言葉にはとても共感しました。

一方、自分は、「もっと生産性の高い生活をしたい」と思っていた時期がありました。長い旅から帰国したすぐあとのことです。そんなころにあった忘れられない出来事について書いたエッセイを『まだ見ぬあの地へ』に載せています。「旅の生産性」というタイトルの文章です。思い出したのでこちらに転載します。「旅が非生産的」だとすれば、それを5年間も続けられていたことはいかに豊かなことかと思います。「旅は非生産的だ」という言葉がいまは、まるっきり別な意味に聞こえます。ここに書いた友人とは、それ以降連絡を取ってないのですが、機会があったら、このことを直接話したいなあ…。

(以下、『まだ見ぬあの地へ 旅すること、書くこと、生きること』(産業編集センター)より)

旅の生産性

「『旅は非生産的だ』って近藤さんは言っていましたが、どういうことなのでしょうか」

『遊牧夫婦』の旅を終えて日本に帰ってきた直後、二〇〇八年の暮れに、ぼくは一人の友人からそんな内容が書かれたメールをもらいました。

友人というのは、その前年の二〇〇七年に中央アジア・キルギスの首都ビシュケクで知り合った二〇代の女性です。ぼくらが中央アジアを東から西へと移動しているときのことで、彼女は確か一週間ぐらいの日程でキルギスを訪れていて、宿だったかで一緒になったのでした。

それから一年ほどが経ち、ぼくらが五年間の旅を終えて帰国して少ししたころ、彼女を含めキルギスで一緒だった数人と、東京で再会する機会がありました。そのときぼくは、自分たちが日本に帰ってきた理由について彼女にこんなことを言ったのです。

「五年間、ずっと旅の中にいたら、ふと、『おれ、何やってるんだろう』って思うときが出てきたんだよね。ただ移動を繰り返してるだけの日々に嫌気がさしてきたというか。旅って、なんていうか、非生産的だし、だからもっと、仕事をしたりして生産的な生活がしたい、って思うようになった。それも日本に帰ろうって思った大きな理由の一つだったんだ」

その場では彼女は特に何も言わなかったものの、ぼくのその言葉が引っかかっていたようでした。そのすぐあとに、冒頭のメールが彼女から届いたのでした。

 

そのころぼくは、日本に帰ってまだ数カ月しか経っていなく、ライターとしてやっていくかどうかもはっきり決めていない時期でした。京都に住むことは決まったものの、いきなりフリーのライターとして食べていける自信など全くなく、とりあえず理系の仕事に就いて、会社などで働きながら細々と書いていくしかないかなと思い、派遣の登録に行ったりする日々を送っていました。しかし、就職経験が一切なく、五年間海外をふらふらしていた三〇代の自分にとって、就職先を見つけるのは想像以上に困難であるのがだんだんとわかってきました。こちらが興味を持った会社は、どこも会ってもくれませんでした。最初はタイミングが合わないだけかと思ったのですが、何らかの理由をつけられて「会えない」と告げられるケースが続くうちに、そうか、これは拒絶されているのだ、と気がつきました。そして思ったのです。これはもう、覚悟を決めてフリーライターでいくしかないな、と……。

ただ、いずれにしても、何をやっていくにしても、ちゃんと仕事をして、日本で普通に生活できるようにならなければ、という思いが強くありました。そして、旅に対しては、倦んでいたとも言える気持ちを抱いていました。それが言い過ぎでも、旅することに疲れ切り、とにかく、じっくりと腰を据えた生活がしたかった。

その気持ちの中には、自分は三二歳にもなりながら、社会に対してほとんど何も生み出すことができていない、積極的にかかわることもできていない、という焦りのようなものがありました。まずは日本でしっかりと稼いで食べていくということを最低限実現しなければいけない。そのためには自分が何かを生み出さなければいけない。しかし自分にとっては、それが決して容易ではなさそうなことをこのころ実感するようになっていたのです。

そう思うのと表裏一体な気持ちとして、良くも悪くも雑誌の原稿料などのわずかな収入で細々と食いつないでこられてしまった旅中の自分が、やたらと非生産的であったように感じるようになりました。そしてそのことをネガティブに捉えるようになっていました。「旅は非生産的だ」と負の意味合いで言ったのは、当時の自分のそのような状況と内面の表れでした。

 

そんな時期から、三年以上が経ちました。

いまは一応、文章を書いて最低限食べていけるようにはなっています。生産的でありたいという思いも、それなりに満たされるようになりました。でもその一方、毎日、仕事や子育てに追われ、旅らしい旅など全くできなくなっている中で、過去の旅を思い出しながら紀行文を書いていると、旅をしたい、と思う気持ちが再び強烈に湧き上がってくるのを感じます。

正直なところぼくはこれまで、紀行文の面白さ、魅力というものを、さほど感じたことがありませんでした。それゆえに、もともとは紀行文を書くつもりはなかったのですが、いろいろな経緯から『遊牧夫婦』などを書くことになり、いまもずっと書き続けています。さらに昨年からは大学で紀行文についての講義を担当するようにもなりました。

そうした中、ようやくいま、紀行文は面白いと確信をもって人に伝えられるようになっています。一言でまとめることは困難ですが、それはおそらく、旅というものが人間にとっていかに普遍的で必然的な行為であるのかを、自分自身の旅を振り返りながら文章化することを通じて、実感できるようになったということなのだろうと思います。

旅の持つ普遍的な魅力を感じられるようになるにつれて、自分が三年半前に言った、「旅は非生産的だ」という言葉をふと思い出すようになりました。友人がぼくに対して、「なぜそんなことを思うのか」と、おそらく多少の反感も抱きながら問うてきた気持ちがいまはよくわかる気がします。

そしていまはこう思います。旅は、何か具体的なものを生産する行為ではないかもしれない。でも、だからこそ、形では表せない無限の世界をその人の中に生み出すのだろう、と。

(2012・5)

今年も「旅と生き方」に関する講義を終えて(レポートを読んで思ったこと等)。

毎年前期に大谷大学で行っている、旅と生きることをテーマにした講義(人間学)も、今年でたぶん13年目くらいになりました。今年もようやく、レポートの採点、成績入力までを終了しました。

この講義は、旅が人生にどう影響するかということを、自分の長旅の経験や、様々な映像作品、世界情勢、歴史、文化などから語っていく内容で、毎年100人~200人くらいが受けてくれます。(講義の基本的な内容はこちらに書いています)

講義を受けて、少なからず影響を受けてくれる学生が毎年何人かはいるように感じます。ある年は、講義が終わったあとに休学してユーラシア横断の旅に出てくれた学生もいたし、行くかどうしようか迷っていた留学を、行くことに決めたと伝えてくれた学生もいました。またその他に、進路の相談や留学の相談をしに来てくれた複数の学生も含め、彼らの姿を見て、旅について考えることは、学生たちにとって大きな意味があるように感じています。

そのような中、今年度の講義のレポートを読み終えて、今年はとりわけ、いろんなことを感じてくれた学生が多かったかもしれないように思いました。

ある学生は、全然大学に行けてなかった中、たまたまこの講義をとって聴いていくうちに、いろんな生き方があっていいんだと思うようになり、背中を押され、そのうちに他の授業にも出られるようになったと書いていました。

またある学生は、姉が高校卒業後に海外の大学に進学し、そのままその国で就職して現在に至るとのことでした。その学生は、姉がどうしてそんな選択をしたのかがわからず、かつ、遠くに行ってしまったことがショックだったこともあり、姉の出国以来、かれこれ5年ほどほとんど連絡しないままだったとのこと。しかし、この講義を受けて彼女は、姉がどうして海外に行くという選択をしたのかがわかったような気がした。そして、姉にちゃんと連絡をしてみることに決めましたと書いてくれていました。

また、最近難病であることがわかったという学生は、これからどうやって生きていこうか途方に暮れる気持ちだったけれど、世界にはいろんな生き方をしている人し、いろんな生き方をしていいんだということを講義を通じて感じ、自分も自分の道を生きていけるような気がするようになった、と記してくれていました。

他にも多くの学生が、内面の深いところの変化について書いてくれました。僕の講義がまだ途中の段階で旅に出かけたくなってバイクの旅に出たという学生もいたし、夏休みに旅に出ることにしましたと書いている学生も複数いました。そして旅というテーマを通じて自分自身のこれからの生き方を真摯に考えていることが伝わってくるレポートがいくつもありました。

そんなみんなのレポートを読んで、僕自身がとても励まされました。この講義を12,3年やりながらも、なぜかいまも毎回毎回、緊張してしまうのだけれど(それは自分の性格ゆえ)、そんな緊張感を抱えつつも講義をやってきてよかったなと思いました。

一方、こんな講義をしながらも、じつは自分がいま全然旅をしていません。2020年の初頭にタイに行った直後にコロナ禍が始まったこともあり、以来海外が遠くなり、精神面や生活面でも思うようにいかないことが多くあり、気づいたらパスポートも切れてしまっていました。

そのように旅がすっかりと遠のいてしまった自分ですが、みんなのレポートを読んで、皆が旅の可能性を強く感じてくれたのを知って、自分自身もまた、短くてもいいから近いうちに旅がしたいと、いまとても強く思っています。

皆が講義に興味を持ってくれたことで、逆に自分自身がいま、旅の可能性を改めて強く感じています。

講義を聴いてくれた皆さんのこれからの人生を、陰ながら応援しています。「偶然性」と「有限性」を心に留め、そして「脱システム」を――。

20代のころ、旅する自分の背中を押してくれた『婦人公論』の「ノンフィクション募集」。荻田泰永さんと河野通和さんの対談から蘇った記憶。

冒険家の荻田泰永さんが主催する「冒険クロストーク」で荻田さんと河野通和さんの対談を見た。河野さんは『婦人公論』『中央公論』『考える人』などの編集長を歴任された編集者。対談では、河野さんの青年期、編集、野坂昭如、婦人公論、本、冒険、考えるとは…、興味ある話題ばかりで、3時間半という長さながら、飽きる所がなかった。

感想はとてもたくさんあるのだけれど、自分にとって特に大きかったのは、ずっと忘れていたかつての記憶がふと蘇ったこと。それは河野さんが編集長をされていた『婦人公論』のことである。

僕は長い旅に出る前の2002年ごろ、ライターとして一つでも実績を作るために、いくつかの雑誌の賞に、手探りで書いたルポを 送ったりしていた(当時はネットで書くという選択肢はほとんどなく、ライターになるためには紙の雑誌に書く場を見つけなければならなかった)。そのため当時、本屋に行ってはいろんな雑誌を見たり買ったりしていたのだが、 その中で確か知る限り『婦人公論』にだけ、「読者体験記・ノンフィクションを随時募集しています」といった記載があった。

河野さんのお話から考えると、 当時『婦人公論』はリニューアルしてすでに4年ほど経っていたことになるが(河野さんは、1998年の同誌のリニューアル時から数年の間編集長をされていたとのこと)、なんとなく自分の中に、表紙がスタイリッシュになって新しくなった雑誌という印象があり、内容も自分の感覚に近いような印象があった。加えて、ノンフィクションを募集している雑誌としても記憶に残った。

そして2003年6月、僕は結婚直後の妻とともに旅に出た。旅をしながら、なんとかライターとしての道筋を構築するために、ほとんどツテも縁もない中で、書いたものをいろんな雑誌にメールで送ったりしていたが、送る先はほとんど、ネットで見つけたinfo@出版社名.co.jpとかwebmaster@出版社名.co.jp的なアドレスだった。当然返事は期待できなそうな中、『婦人公論』だけは、原稿を募集しているし、でも旅の話なんてお門違いかなあとか…、いろいろ思いながらも、堂々と送ってもよさそうな媒体だった。そして旅のことだったか、取材したことだったかを、オーストラリアからだったか、東ティモールからだったか、送ったのだった。

すると思いがけずご丁寧な返事が届いた。原稿の掲載は難しいという内容だったものの、読んで返事を下さったことがとても嬉しく、 それからまた別なのを送って、また返事をもらい、 ということにつながった。結局原稿が掲載されることはなかったものの、やり取りができたことに背中を押された。その後、5年にわたった旅の日々の最初の時期、つまり、ライターとして全く仕事になっていなかった時代に、投げ出すことなくなんとか書き続けていくための原動力の一つに、『婦人公論』から届いたメールは確かになっていた。その時に送った原稿は、『遊牧夫婦』の元型の一部になっていると思う。

その時、お返事をくださった編集者はTさんで、 いま、中公新書の編集長をされている。旅を終えて日本に帰ってから、 お会いしに行ったり、やり取りさせていただいたり、 ということにつながっていった。

そして、Tさんとのつながりから、旅の終盤、2007年~08年、ユーラシアを横断している最中には、『中央公論』のグラビアページに、 写真と短い文章を2度掲載していただいたが(中国西部で出会ったイスラム教徒たちの姿と、スイスの亡命チベット人の僧侶の姿)、その時の編集長はおそらく河野さんだったことを知り、思わぬご縁を感じるのだった(河野さんとはその後、氏が『考える人』の編集長をされていた時に同誌で連載をする機会をいただいたりして、以来いろいろとお世話になっています)。

いずれにしても、当時の『婦人公論』の、 「読者体験記・ノンフィクションを随時募集しています」 という記載は、先行きが見えなかった自分にとって、 一つの目標となるような、数少ない希望になっていた。また、ライター経験はほとんどなく、海外で旅をしながらメールで文章を送ってきた若者にお返事をくださったTさんにすごく励まされたことはいまもよく覚えているし、本当にありがたかった。 そういう意味で、『婦人公論』には助けられた感覚があり、いまもなんとなく身近であり続けている。原稿を書いたことは今なおないのだけれど。そして同誌のサイトを見たら、同様の「ノンフィクション募集」の記載がいまもあり、嬉しくなった。

『婦人公論』のことを書いていたら、また別の形で背中を押してもらった媒体がいくつかあることを思い出した。その編集者の方たちが下さった一本のメールが、いまの自分へとつながっているんだなあと改めて思った。

                   *

下の写真は、旅出してから間もないころ、オーストラリア東部のカウラという町で、日本人捕虜暴動事件について取材らしきことをしていて、地元の新聞社を訪ね、事件の関係者を探しているといったら載せてくれた記事(Cowra Guardian, July 4, 2003)。急にこの記事のことも思い出し、探したら出てきた。

10日前に日本を出たところ、と記事に。一番の連絡先が滞在していた安ホテルの電話番号になっているのがすごい。メールアドレスも載せてもらっているけれど。当時は携帯電話も持ってなかったし、メールより電話だった時代なような。
『婦人公論』に送った原稿にも、この事件のことを書いた部分があったような…。

『遊牧夫婦 はじまりの日々』<6 Uさんの死>

毎日、TBSラジオ<朗読・斎藤工 深夜特急 オン・ザ・ロード>を聞き、深夜特急の旅を一緒にしている気分になっています。もうトルコまで来てしまった。そして聞いてる途中で本当によく、自分自身が旅をしていたころのことを思い出します。

昨日は聞きながら、自分は旅をしてなかったらどんな人生を送っていたかを想像し、その一方で、旅をするきっかけをくれた大切な友人について思い出したりしていました。

ふと懐かしくなって、『遊牧夫婦』の中でその友人の死について書いた章を読み返し、そしたら、いろんな人に友人のことを知ってもらいたくなり、その章「6 Uさんの死」をアップすることにしました。彼の死から今年で20年。自分の年齢は当時の彼と離れていくばかりだけれど、その一方で、最近、死がいろんな意味で身近になってきたゆえに、彼との距離が近づいているような気もします。

本を読んで下さった方からもっとも言及されることの多かった章の一つでもあります。よかったら是非読んでみてください。

6 Uさんの死

「八月五日に兄が亡くなりました。とても静かな顔で、まるで、眠っているようでした」

高校時代の友人からそんなメールが届いたのは、まだバンバリーでの生活を始めて間もない二〇〇三年八月十一日のことだった。

「兄」といっても、「友人の兄」としてちょっと知っているという程度の関係ではない。「兄」もまた、ぼくと同じ高校で、二つ年上のバスケ部の先輩としてぼくは彼と知り合った。そしてその後、大学で同期になったことによって、ぼくは「兄」と仲のよい友人として付き合うようになった。その彼が、日本で命を絶ったというのだった。

何の前触れもない突然の知らせで、メールを読んでぼくはとても動揺した。ワンダーインのコンピュータスペースで、驚きのあまりしばらく呆然とした。

彼は、親しい友人という以上に、明らかに自分が大学時代にもっとも影響を受けた人の一人だった。なんといっても、ぼくが何年にもわたって海外で生活しようと思ったきっかけを与えてくれたのが、まぎれもなく彼だったのだ。

その彼が、この世を去った。そのことがすんなりとは納得できないまま、ぼくは自分が知っている彼のいろんな姿をコンピュータの前で思い出していた。先輩・後輩から始まった関係で、ずっとぼくは彼を「○○さん」と呼んでいたので、以下、Uさんとする。

Uさんは、高校時代からおしゃれで都会的で大人びた雰囲気を持った、とにかくかっこいい先輩だった。そのころは部活の一先輩後輩という程度の付き合いだったが、その時代から数年がたったある日、思わぬところでぼくは彼と再会することになった。

それは、Uさんが高校を卒業してから二年以上がたっていたときのことで、ぼくはその何カ月か前――ちょうど阪神・淡路大震災が起きた直後で、地下鉄サリン事件が起きる直前の二月――に大学受験に失敗し、浪人界へ暗く静かなデビューを果たしたばかりのころである。ぼくが通っていた駿台予備校がある東京・御茶ノ水の本屋「丸善」で、ばったりと出会ったのだ。

「おお、コンドー!」

ちょっといたずら好きそうで、でもいつもながらの凛々しい笑顔と軽快な口調の彼に、ぼくは呼び止められた。黒く焼けた肌を、いますぐにでもインドに行ってしまいそうなシンプルな衣服に包んだUさんがそこにいた。彼がすでに、ある私立大学に入学していたことを知っていたぼくは、こんな浪人たちの巣窟で参考書を片手に持った彼と会うことが意外だった。あれ、どうして……? と聞くと、

「おれ、大学やめたんだよ。カンボジアに行ってアンコールワットを見てさ、すげえ衝撃を受けて、どうしても建築をやりたくなって。帰国してからすぐに大学やめてさ、いまは建築学科に入り直そうと思って、もう一度予備校に通い出したんだ」

そう言って彼は、どんよりとした浪人時代を過ごしていた自分とは全く異なる明るいエネルギーをみなぎらせながら、参考書を選んでいた。ぼくは当時、大学で物理学を真剣にやりたいと思っていたバリバリの理系男子で、旅をしたいと思ったことなど一度もなかった。だから、「カンボジアでアンコールワットを見て感動して大学をやめる」という流れ自体が、よく理解できずにいた。

しかし、とにかくかっこいい遊び人で夜の東京を駆け回っているような印象のUさんが、自分には未知の外国で本当にやりたいことに気が付いて、大きな一歩を踏み出そうとしているらしいことは、新鮮な刺激となった。

それからたまに予備校で会ったりしながら、ともに一年の浪人生活を終えた春、ぼくらは同じ大学に入学することになった。Uさんは、受験当日に会場で会ったときは、「おれは記念受験だよ」などと笑っていたが、ふたを開けてみればしっかりと合格を手にしていた。ぼくが本格的に彼とつるみ出したのは、それからのことである。

類は友を呼ぶのか、浪人は浪人を呼び、大学時代のぼくの友だちには一浪した同い年の人間が多かった。その中に、年齢的にはぼくらの二つ上をいくUさんもいた。

彼はただ年上であるという以上に、カリスマ的なかっこよさと陽気なキャラ、そして、豊富な遊びと旅の体験に裏打ちされた確固たる豪快さと幅の広さがあった。都会らしいスマートさを漂わせつつも、アジア、アフリカ、南米などを数カ月から半年の単位で旅し続けている経験をもとに、とにかく旅が面白くすばらしいものであることを、色白でもやしっ子なぼくらに全身で教えてくれた。

エチオピアからだったか、ぼくらに手紙をくれ、彼の興奮を短く伝えてくれたこともあった。また、外国にいても「ホットメール」を使えばメールを送受信できるんだよ、と教えてくれて、当時まだ、大学に行かないとメールが出せず、家で手書きのファックスを夜な夜なオーストラリアに送ったりしていた自分は、へえ、そうなのか、すごいなあ、とびっくりしたことを覚えている。

またUさんは、大学の授業にも手馴れたメリハリをよく効かせた。単位を落としそうな科目については、「試験が悪かったら、あとは政治力だよ。×○先生には菓子折りだ、がはははー」などと言って、オトナのやり方があることを見せてくれたりもするのであった。

一般教養の授業では、相対性理論だったか量子力学だったか、難しい物理学の授業を一緒に受講し、ぼくは自分が物理学を志す身なのにほとんど理解できないことをまずいなあと思っていると、Uさんは頭のよさそうな本を手に、なんとなくそれらしいことを言っている。よく聞くと、やはり彼もわかっていないのだが、それっぽい本を携えることによって、ちゃんと物理学をファッションへと昇華させる術を心得ていて、Uさん、やっぱりさすがだなあ、と笑わせてくれたりするのである。

そして一九九七年十二月、すなわち大学二年の冬、ぼくが「ストーカー」時代を成功裡に終えて、今度は楽しく前向きな旅行のためにその年最後のオーストラリアへと向かうときには、Uさんが他の友人とともに、車でぼくを成田空港まで送ってくれた。

車内にはジミヘンの曲が流れ、軽快な走りでレインボーブリッジを渡って空港に向かった。ぼくも、その数カ月前の悲愴感溢れる旅立ちとは違い、今度ばかりは楽しいオーストラリア滞在になりそうで気持ちはとても軽かった。

空港が近づいてくるとUさんは、助手席に座るぼくに言った。

「パスポート、出しとけよ」

するとその直後、空港のパーキングの入り口で係員がUさんに、「免許証を――」と言うか言わぬかのところで、Uさんはすかさずぼくのパスポートを差し出した。すると係員は、パスポートを見て、「はい、いいですよ」と通してくれた。通り過ぎると、Uさんがニヤリと笑った。

「おれ今日、免許証忘れちゃってよ。ここ、ヤバイなって思ってたんだけど、お前らに言うときっと動揺すると思って、言わなかったんだよ」

さすがUさん、とぼくは思った。たしかに、Uさんが免許証を持っていなくて空港に入れないかもしれないことを知っていたら、この係員の前でぼくは若干不自然な挙動をとっていたかもしれなかった。けれどUさんが機転を利かせてくれたおかげでそうはならず、ぼくはすんなりとこの年四度目のオーストラリアへと飛ぶことができたのだった。

いつもそんな感じで、Uさんはぼくらにはない余裕と貫禄を見せてくれた。旅で培ったワイルドさと都会的で洗練された華やかさがいい具合に調和されて染みついている人で、とにかく別格の魅力があったのだ。そんなUさんの存在はぼくらの仲間内ではとても大きく、おそらく彼がいたからこそ、長期の旅をする友人が増えていった。

ぼくが学部卒業前にアジアを旅しようと思ったのも、やはりUさんの影響が大きかった。行き先がインドになったのも、Uさんに、「どこか一カ所っていうなら、インドかな。やっぱりインドは違うよ」と言われたことが決め手となった。そのインドでの体験によってぼくは旅の魅力に激しく惹かれ、この長期の旅について考えるようになったのだ。

「旅をして生き続けることができたら、めちゃくちゃ幸せなんだけどな。でも、そうはいかねえよなあ」

牧歌的な学生時代の終わりが近づき、自分の生き方を各自が真剣に考えなければならない時期がやってくると、Uさんはそんなことをよく言った。どうやってこの社会の中で生きていくべきなのか、何が自分にとって一番いい選択なのか。そう考えるとき、Uさんの中にはいつも旅のことがあったのだと思う。彼は本当に旅が好きだったのだ。

彼の言葉を聞きながら、そんなことができたらいいよなあ、とぼくも漠然とは思ったものの、実践しようとは考えてもいなかった。だがそのときすでに、Uさんと日々接する中で、旅がいかに魅力的なもので、かつ人をたくましく育てるものなのかを、肌で感じていたことは確かだった。Uさん自身の魅力が、そのままぼくらにとっては旅の魅力と映っていたともいえるのだ。

しかし、皮肉なことに、そんなUさんを少しずつ別の方向に変えていったのもまた旅だった。いつだったか、Uさんはたしか半年ほど南米に行ったが、帰ってくると明らかに様子が変わっていたのだ。

最初はただ、旅の疲れか何かで体調が悪いだけかと思っていたが、言動がはっきりとそれまでとは違ったものになっていることにぼくらは気づいた。どうしたのだろうと、何度か尋ねたことはあったけれど、ペルーあたりでなにやら凄まじい経験をしたと言うだけで、彼は決してそれ以上詳しく話そうとはしなかった。少なくともぼくにはそうだった。

ただ明らかだったのは、Uさんが激しく厭世的になっているらしいことであった。

もともとUさんは、いまの世の中に対して旺盛な批判精神を持っている人だった。それはおそらく、簡単にいえば、旅をして世界を見て回る中で培っていったものの一つなのだろう。

その思いは、たとえばコンビニは利用しないなど、物質的で記号化した現代社会を象徴するものを避けるような形で、彼の行動の随所に表れていた。ただ以前は、そんなUさんの独特なポリシーは、常にUさん一流の明るいポップさを伴っていて、ぼくたちも「おお、Uさん、アツいなあ、こだわるなあ」、などといって笑って見ていられる陽気さとコミカルさがあった。

しかし南米への旅のあとに様子が変化してからは、その一つひとつが普通ではないシリアスさとストイックさで実践されるようになり、そこまでやらなくても、とぼくらが思うぐらいのものになっていった。彼はそれまでとは全く違うレベルで、いまの社会に対して違和感を覚えているようだった。すべてが薄っぺらく見えるいまの社会をなんとか変えないといけない、自分はこんないい加減な生き方をするわけにはいかないんだと、何かに追われ、思いつめているようにぼくには見えた。

そんなUさんが心の底に抱えている思いは、極めて真っ当で、ぼくたちにも激しく訴えるものがあった。とはいっても、誰もがあらゆることになんらかの形で妥協しながら生きていかざるをえなかったし、Uさんほどその信念をストイックに貫き、行動に移すことはぼくたちにはできなかった。

だんだんと会話がかみ合わなくなった。そしてときに非常に緊迫した言葉を発するようにもなっていった末に、すっかり大学にも姿を見せなくなってしまったのだ。

最後にUさんと話したのは、二〇〇〇年にぼくが大学院に入ったのちフィリピンに行こうとしていたときのことだったと思う。フィリピンについて何か教えてくれようとしたのか、突然電話をくれたときだった。詳細は思い出せないが、そのとき久しぶりに話したUさんは、やはり少し張り詰めた様子でぼくに何かを伝えようとしてくれていた。

その同じ年のことだったはずだ。ついに彼は外界との一切の接触を絶ってしまった。ぼくらの誰にも、Uさんに何が起こったのかはわからないままだった。

生前、彼の近況を最後に聞いたのは、それから三年後の二〇〇三年三月、東京で友人たちを招待して行ったぼくとモトコの結婚パーティーの日のことである。パーティーに来てくれたUさんの弟に、「Uさんどうしてる?」と聞くと、

「じつは兄貴、こんちゃんのパーティーに参加するって言っててね、渋谷までは一緒に来たんだよ。でも、やっぱりやめるって、帰っちゃったんだ」

その次に聞いた報告が、その五カ月後の、冒頭のメールだったのだ。

ワンダーインでの掃除の仕事を終えたあとに、そのメールを見て呆然としながら、ぼくは自分が知る彼のいくつかの姿を断片的に思い出し、もうその彼がこの世にいないんだ、ということを落ち着かない思いで繰り返し考えた。

キッチンで作ったパスタを夕食に食べたあと、ぼくはUさんの弟にすぐ返事を書き始めた。書きながらいろんなことを思い出した。「旅をしながら生きていきたい」と言っていた彼が、旅によって変わり、この世を去った。その一方、もともと旅にあまり興味もなかった自分が、彼と出会ったことをきっかけに、いま旅を生きようとオーストラリアで暮らしている。それが不思議だった。ぼくは、Uさんの弟への返事にこう書いた。

《(ぼくらの友人たちの)誰もがUさんの大胆な発想や生き方をどこかで自分と比べながら、どうやって生きていこうかって考えていたんだと思う。今現在の状況を見れば、おれはその中でもとくに、自分の生き方を考える上でUさんのことがいつも頭にあるんだと思っています。だからUさんには、言葉ではいえないような感謝の気持ちがあります。Uさんと同期で大学に入学して、ともにあの時代をすごせたことをとても幸運に思ってるし、そしてそれは、これからも間違いなく自分にとっては、とてもとても大きな財産になるんだと思っています》

人は何よりも、人との出会いによって変わっていく。そんなことを、Uさんと出会ったことによってぼくは感じるようになった。

この日、ワンダーインの部屋の中で、考えていた。Uさんから得たものを自分の身体に染み込ませて、ぼくはこの先何年になるかわからない旅生活の中で、どのような日々を送り、どのように変わっていくのだろうかと。

どんな絵も思い浮かんではこなかった。そして考え直した。想像などできないからこそ、人は旅をするのだろうと。

きっとUさんも、同じだったのだろうと思う。

(6 Uさんの死 終わり)


『遊牧夫婦 はじまりの日々』プロローグ全文