眞子さんの結婚会見を見て、香田証生さんのことを想い出す

眞子さんの結婚会見を見て、結婚の会見で謝らないといけない状況に追い込む日本って本当に辛いなあ、と感じました。

思い出したのは2004年にイラクで香田証生さんが亡くなった後にご両親がお詫びの言葉を発表したことでした。息子を殺された親がまず謝らないといけない社会って何なんだろうと当時思ったのですが、それからずっと変わってないんだなあと愕然としました。

いや、いま思えば2004年は、SNSもまだ黎明期だったし、状況はいまよりずっと穏やかだったのかもなあとも思ったり。

そんなことをツイートして、興味ある方がいればと思い、拙著『中国でお尻を手術。』の香田証生さんについて書いた部分もアップしたら思っていた以上に多くの人に読んでもらってる感じだったので、こちらにも掲載します。

自分は長旅の途中、タイにいたときに事件を知り、香田さんの死、そして日本の反応が衝撃でした。香田さんが動画で「すみません」とは言ったものの「助けて」とは一度も言わなかったことも心に残っています。

新刊『まだ見ぬあの地へ --旅すること、書くこと、生きること--』が10月29日に発売になります。

新刊のお知らせです。

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旅にまつわる断想集
『まだ見ぬあの地へ --旅すること、書くこと、生きること--』(産業編集センター)https://www.shc.co.jp/book/13537

が10月29日に刊行になります。産業編集センターの「わたしの旅ブックス」というシリーズの一冊となります。

最近全然旅とかしてないのに、いつまで過去の旅を引っ張るんだ…と若干自分で突っ込みたくもなりますが^^;、内容としては、長い旅を終えて帰国してからのこの10年ほどの日々の中で、旅がさまざまな形で自分に与えてきた影響、そしてそこを発端として自分が考えてきたことをまとめたものになっています。

2014~17年にミシマ社のウェブ雑誌「みんなのミシマガジン」に連載していた「遊牧夫婦こぼれ話。」をベースに構成したものですが、その中から、今も違和感なく読めると思ったものだけを選び、書籍化にあたってだいぶブラッシュアップしました。

基本的には過去に書いたものでありながら、結果としては、いまの自分のさまざまな考えや正直な気持ちがこもった、自分にとっても新鮮な本になったような気がしています。この本を書いて、あの旅の5年間の経験がいまの自分の考え方や生き方に本当に大きく影響していることを改めて感じました。

どのように感じてもらえるのか、いつもながら発刊前はどきどきしてしまいますが、ご興味もってもらえたら、手に取っていただけたら嬉しいです。

ちなみに、『遊牧夫婦』シリーズを読んでないとわからない部分があるとか、そういうことは全くないように書いたので、この本だけでもよろしかったら是非。

どうぞよろしくお願いします!

<目次>

はじめに

<第一部 あの日がいまを作ってる>

赤面モノ、思い出の手紙
はじまりの場所へもう一度
いつかまたラマレラで
「違い」はあっても「壁」はない
新年は巡る
いきたくないよう、いやだよう
幻想ではない世界に向けて
旅の生産性

紀行文1 短い旅だからこそ

<第二部 自分にとっての書くということ>

二〇代、まだ何も始めていなかったころ
話を聞いてわかること
思い出すことが糧になる
お金がないっ!
七年前の旅を書き直す
自分に全然自信がない?
何かを選ばないといけないときに

紀行文2 上海の落とし穴

<第三部 旅することと生きること>

取り戻せない自転車旅行
自分の力ではどうにもならないことがある
先の見えない素晴らしさ
あたたかな後ろ姿
もしもの人生
生きることの愛おしさ

紀行文3 荒野を、ヴェガスへ

おわりに

ルート66を「ヴェガス」へ (2014年12月執筆の紀行文です)

(2014年12月にウェブ連載のために書いたものの、諸事情より掲載できなかったアメリカのルート66を巡る紀行文です。とても気に入っている文章ながらお蔵入りしたままだったのでこちらに再掲します。前編、後編と以下に続きます)

 
(前編) 

先月末(=2014年11月末)、海外紀行文の連載の仕事でアメリカ西海岸に行きました。アメリカ大陸は「遊牧夫婦」の旅では行くことができてなく、ぼくにとっては大学1年のとき以来、18年ぶりとなりました。
 今回の一番の目的地はロサンゼルスでしたが、より広大なアメリカを体感するため、車を借りてロサンゼルスの外へも行くことにしました。目指したのはラスベガスです。
 ロサンゼルスからラスベガスへ向かう道は、いわゆる「ルート66」と一部重なります。ルート66は、アメリカ西部の開拓のために1926年に開通した、シカゴ(五大湖の畔、アメリカ中北部の大都市)とサンタモニカ(ロサンゼルス郊外)を結ぶ道路です。すでにその多くの部分は他の大きな道に取って代わられ、その役割を終えていますが、アメリカを語る上で外すことができないこの道を走るのはひとつの憧れでもありました。
 ここを走れば、アメリカを感じられるのではないか。そう思い、撮影を担当してくれている写真家の吉田亮人さんとぼくは、ロサンゼルスからラスベガスへ向けて、NISSANの白い車で走り出したのです――。
                                                             *

  ロサンゼルスを出て5時間ほど経っても、ぼくらはまだロス市内から1時間程度のところにいた。ロス郊外で入ったガソリンスタンドで、キーを中に残したままドアをロックしてしまい、4、5時間立ち往生してしまったからだ。ガソリンスタンドの人たちに助けてもらって道具を借りて自力で開けようとするもかなわない。仕方なくレンタカー会社に電話して救援を呼んでもらうことにしたけれど、それもなかなか来なかった。ようやく問題を解決できたのは夕方6時ごろになってからのことだった。

このまま5時間ほどガソリンスタンドで待つことに

このまま5時間ほどガソリンスタンドで待つことに

 「今日はもうラスベガスまでは無理そうだなあ……」
 そう言いながらも、すでに真っ暗になった中、とりあえず少しでもラスベガスに近づこうとぼくらは再び走り出した。日本の高速に当たるフリーウェイは、片道5,6車線で頻繁に合流と分岐を繰り返す。オレンジ色の灯りの中、他の無数の車とともにひたすら走った。右側走行の運転にはすでにぼくも吉田さんも慣れていた。
 ルート66にはどうやったら入れるのだろう。不覚にもほとんど何も調べていないままだったので、フリーウェイからどうやってルート66を見つけられるのかがわからなかった。ルート66に行くためにはどこかでフリーウェイを降りなければならないはずだが、どこを出ればいいのか検討もつかない。しかも周囲は深い暗闇に包まれていて、どんなところを走っているのかもわからない。
 「これは見つかりっこないな……」
 何度かそう口にし、あきらめるしかないかとぼくは思った。もうこのままフリーウェイを突っ走ってラスベガスに向かうことになるのかもしれないなと。しかし、あるとき、前方に茶色の小さな看板が見えてきた。そこにこう書いてあった。
“Historical Route 66 Next Exit” 
―歴史的なルート66へは、次の出口―
 「サインがあったよ。ここだ、きっと」
 そのサイン以外には何もわからないまま車線を急いで右に移してフリーウェイを降りた。そしてその下の道を走ってみる。しばらくいくと、ここが確かにルート66であることを示す石柱みたいなのものが中央分離帯に立っていた。
 おお、これでいいんだ、と盛り上がる。これを走っていけばきっとそれらしい風景になるのだろう。いつ、果てしない荒野が見えてくるのだろうか。二人でそれを期待ながら走り続けた。
 しかし、行けども行けども風景はこれまで見てきたロス付近の国道沿いと変わらない。ファーストフード店などが道の両脇にただ無秩序に並ぶ、大雑把で投げやりな風景がただ続くだけだった。
「ルート66っていっても、いまはやっぱりこんな感じなのかな……」。
 もうそろそろ、フリーウェイに戻ったほうがいいのだろうか。きっとこのまま進んでも何もないのだろう。カーナビを見ると、このまま東にルート66を進んでいくと、北東にあるラスベガスへ通じるフリーウェイからは離れるばかりのように見えた。そして、21時ぐらいになってからだろうか、通りがかった「バーガーキング」に寄って夕食としたあと、ぼくらはフリーウェイに戻ることにした。
 もうあきらめるしかないのか、とも思った。しかしそれからしばらくフリーウェイを走ると、再び茶色い小さな看板が見えてきた。
“Historical Route 66 Old Town Victorville”
 「オールドタウン」とある。おそらくここを降りたらルート66沿いのVictorvilleという古い町に出るに違いなかった。これだと思い、出口を降りた。そして交差点に出ると、こここそが自分たちの来たかった場所であることがすぐにわかった。
 道路の端にはゴツゴツした岩肌が遠くまで広がっているのが、暗闇の中でもよく見えた。使われてなさそうな建物が複数あり、トレーラーを家のようにしたひと気のないトレーラーハウスもいくつもあった。建物には、ときどき、Route66の文字が見える。空気は常に砂埃で白濁しているかのようでもある。場末感にあふれ、いかにもアメリカ映画の舞台のようなその光景に、吉田さんが言った。
 「おお、まさにこれですよ!映画で見ていたぼくのアメリカの雰囲気って!」
 ぼくらはついに、ルート66の旧跡の町の一つに着いたのだ。
 人の気配のほとんどない中、オレンジ色の街灯だけが闇を静かに照らし出す。ガソリンスタンドなどといくつかの店だけが開いているだけで、人々がどうやって暮らしているのか、ぱっとはわかりにくい光景だった。
 とにかく今日は休もうと、宿を探して適当に大きな道を走ってみた。すると一軒のモーテルが見つかった。こぎれいだったがアメリカらしい寂しげな雰囲気。”VACANCY” (空室あり)という赤い電飾文字が寂しげに光っていた。
 駐車場に車を泊めてレセプションを見ると、アジア系の老婦人が遠い目をしてじっとこちらを見つめている。どこかうつろで不思議な視線だった。その女性の脇を通り、静かに「ハイ」と挨拶をしてレセプションの中に入ると、ヒスパニック系の夫婦が迎えてくれて無事に部屋を確保できた。
 書類にサインをしていると、隣では先のアジア系の女性が、外にいる夫らしい西洋人男性に向かって怒鳴っている。するとあるとき驚いたことに、女性はにわかに日本語で声を荒げた。その声にぼくは思わず振り返った。どうしてこんな場所に、70代ぐらいの日本人らしき女性がいるのだろうか。そしてぼくはつい、「日本の方ですか?」と聞いてしまった。すると彼女は、不快そうな顔つきで眉間にしわをよせてぼくを見ながら日本語でこう言った。
 「え?何?あなたがお迎えに来てくれた方?」
 ぼくはその意味が理解できなかった。ぼくを誰かと勘違いしているのかもしれない。その上彼女は、ぼくが日本人であることには一切興味はなさそうだった。いずれにしても、話しかけるべき状況でなかったことは確かだった。「いや、すみません、違います」と言い、それだけで会話を終え、ぼくらはレセプションを後にした。
 車から荷物を出し、2階の部屋に運びながら、その日系の女性とアメリカ人男性が駐車場で「うるさい!」「FUCK!」と両言語で罵り合う声が聞こえてくる。周囲は暗くてはっきりとは見えないものの、ゴーストタウンのように荒涼として真っ暗な景色の中に、昔ながらの電飾の文字がいくつも浮かんでいる。そのすべてが、この町の寂寥感を色濃く感じさせるのだった。
 ロサンゼルスとはまったく違う世界がここにはあった。アメリカ西部がまだ未開の地であったころとおそらく同じ景色が、そのままここには残っていた。
 来るべき場所にたどり着いた。そう思い、部屋のドアを開けて、ソファに荷物を投げ出した。赤いベッドカバーがかかったこぎれいなベッドの上には木の台が置かれ、その上に聖書が開かれている。その聖書を手にとって薄い紙の感触を手に感じたのち、ぼくは身体をベッドに横たえた。テレビをつけると、アメリカンアイドルというのだろうか、オーディション番組がにぎやかな音を立てている。
 広い荒野の中にいま自分はいる。そのことがうれしかった。明日の朝、外にはどんな景色が見えるのだろうか。いろいろな想像を膨らませながら、ぼくはテレビをしばらく眺めた。
 長い一日がようやく終わりを告げたのだった。

Victorvilleの大通りにはこんなゲートも

Victorvilleの大通りにはこんなゲートも

(後編)

VictorvilleにはRoute66 Museumも

VictorvilleにはRoute66 Museumも

 寝たのは2時ごろだったが、翌朝6時半ごろには眼が覚めた。寒くて起きてしまったのだ。若干体調が悪いような気もして、風邪をひいてしまったかなと思いながらベッドの中でうとうとしていると、外から「ボー!ボー!ボー―!」「ダダンダダン、ダダンダダン」という音が、長く、細く、聞こえてくる。
 そばを列車が走っているのだ。とても長い貨物列車のようだった。音がいつまでも途切れない。その音を聞きながら、昨日は真っ暗で見ることができなかった外の風景を想像し、またしばらくベッドの中で寝たり起きたりを繰り返した。そしてそれから1時間ほどもしていよいよ起き上がったあと、部屋のドアを開けてみた。
 ドアを開けるとすぐ外で、目の前には大きな駐車場がある。その向こうに、ヤシの木が並ぶ大通り。そして通りの逆側には、雲一つない青空の下、黄土色や薄茶色のザラザラした表面を持つ山が延々と連なっていた。映画『パリ・テキサス』や小説『オン・ザ・ロード』の世界としてイメージしていた荒涼としたアメリカそのものの風景を前に、ぼくは思わずため息が出た。
 「こういうのを見たかったんだ」
 そう思いながらじっと眺めていると、また列車の音が聞こえてくる。「ボー!ボー!ダダンダダン、ダダンダダン……」。その音はそのまましばらく響き続けた。

 準備をして部屋を出て、吉田さんとともに車に乗り込んだ。町のメインストリートらしき道沿いにある駅らしき建物に入ってみると、すぐ向こうには線路が通っている。何人か立っている人がいるので、見ると、そこはグレイハウンドという長距離バスの乗り場だった。グレイハウンドもまた、アメリカを語るときに欠かせない、長距離の旅の代表的な交通手段だ。
 建物の前を歩いていると、カメラを持っているぼくらを見て、40代ぐらいの中肉中背の男性が、おちゃらけたポーズで近寄ってきた。着古した黒いロック系のスウェットとカーゴパンツ、そしてキャップ。ラフな格好のその男は、片手を顔の横に上げて、「撮ってくれよ」と笑いながら言った。グレイハウンドを待っているらしいので、どこに行くのかと聞くと、彼は低くつぶれた声でこう答えた。
 「ヴェガスだよ」
 ヴェガス――。強い響きが突き刺さった。砂漠の町からグレイハウンドで「ヴェガス」を目指す。それは典型的な小説の世界のようにぼくには聞こえた。
 きっと地元の人間が何らかの用事があってラスベガスに行くのだろう。そう思い、ぼくは率直に、この町を見て感じた感動を伝えた。
 「この町にはとても雰囲気があるよね。すごいアメリカっぽいなって感じてるよ」
すると彼は、顔をしかめて苦笑しながらこう言った。
 「おい、本気かよ?この町はおわってるじゃねえか」
そして、続けた。
 「まったくひどい町だ。やることなんて何もねえよ。おれはもともとヴェガスの人間だ。仕事をしにこの町に来て1年住んだけど、暇で仕方なくて、もういやなんだ。だから今日、ヴェガスに戻るんだ。ここにはもういたくねえよ」
 何をしている人なのかと聞くと、彼は、いや、何ってことはないんだ、と口ごもった。そしてこう続けた。背中を怪我してからは社会保障をもらって暮らしてるんだ。ヴェガスで何をするかなんて決まってないし、これから先のことなんてわからない、と。
 ただとにかく、おれはこの町から出たい。ヴェガスに帰りたいんだ。そんな気持ちが一言ひとことに込められていた。
 退屈な小さな町を離れ、新たな生活を求めてグレイハウンドで都市を目指す。これまで何人ものアメリカ人が同じ理由でこの町を離れたに違いない。40号線が開通し、このあたりのルート66が役目を終えたあとVictorvilleは荒涼としていったのだろう。ラスベガスは、産業のなかったネバダ州の政策によって生まれた町だ。1929年からアメリカを襲った大恐慌のとき、税収を増やすために賭博を合法化してことによって一気に成長していった。何もない砂漠の中で、巨額の金と人の欲望を吸い上げることで肥大化していったこの巨大な人工世界は、きっと、その周りの荒涼とした小さな町のアメリカ人たちの夢を託される存在でもあったのだろう。
 彼の話を聞きながら、ぼくはふと、その2日前にロサンゼルスのヴェニスビーチの桟橋で出会った一人の釣り人のことを思い出した。
 それはちょうど日が沈む夕方の時間のことだった。桟橋の向こうに広がる海は、夕日がとても幻想的な風景を作り上げていた。空から水平線に向かって、青から赤の繊細なグラデーションが真っ黒な水面を覆い、その上には、全体の輪郭をうっすら残す三日月が、白く静かに輝いている。
 その月の光に導かれるように桟橋を海の方へと歩いていくと、その一番突端に、グレーの髪の毛のヒスパニック系の男性がいた。ふと気になり、釣竿をセットする彼の隣に立って桟橋のふちにもたれながら話しかけた。
 「釣れる?」
 すると「いや、いまはじめたところなんだ」と、作業をしながら陽気に答えてくれた。そして彼がえさの準備をするのを見ながら、さらにいろんな話を聞いていった。
 週2回はここにきて釣りをしているんだ。サバがたくさん釣れる、でも釣っても誰かにあげるかまた海に戻すよ。楽しみのためにやっているだけだから。ヒラメだけは持ちかえってバターで焼いて食べるけどな。本当にうまいんだ。釣竿を海に投げて、その様子を見ながらビール2本を数時間かけてゆっくり飲む。それがいまの自分の楽しみなんだ。ビールがなくなったら帰る。それだけだよ。
 LA育ちの53歳。すでに退職して仕事はしていないという。もとはトラックの運転手だったが、2000年に怪我をして車が運転できなくなったので、いまは社会保障で暮らしてる。運転で事故に遭ったのかと聞くと、そうじゃないと彼はいった。
 「刺されたんだ。強盗に襲われてよ。それでおれは運転ができなくなってしまったんだ」
 そういって、シャツをまくり上げて、わき腹の傷あとを見せてくれた。胸の下の前から後ろにかけて、横に10センチ以上の太い線がくっきりと刻まれていた。
 あの日で、おれの人生は変わった。でも、そんなことはもう昔の話だよ。人生はそんなもんさ。でもいまが楽しいから、それでいいんだ。楽しそうに釣りをする彼の表情は、そういっているようにもぼくには見えた。
 物価の高いロスでの生活は大変じゃないのか、と聞くと、彼は言った。ロサンゼルスは安く暮らしていける方法がいろいろある。だから大丈夫なんだ、と。
 「おれはこの町が好きだよ。ずっとこの町で育ったんだから当然だよ」
そしてそれからしばらくあれこれ話したあとのこと。ふと彼は「ヴェガス」という言葉を口にした。
 「来月はヴェガスに行くよ。娘と孫たちが住んでるからさ。そのために、今週からひとつ新しい仕事を始めることになってるんだ。クリスマスまでは仕事がいっぱいある。そしてクリスマスは家族でヴェガスで過ごすんだ……」
 その言葉を聞いて、ぼくは思わずこう言った。「明日からラスベガスに行く予定なんです」。そう言うと、それまで真っ暗な海に向かって作業をしながら話していた彼が、驚いた顔をしてこちらを向いた。
 「明日、ヴェガスに行くのか?本当か?そうなのか……」
 その少し寂しげな声に、いますぐにでもおれも行きたい、でも行けない……そんな気持ちが読み取れた。

ヴェニスビーチの夕日と桟橋

ヴェニスビーチの夕日と桟橋

 Victorvilleでグレイハウンドを待つ男性と話しながら、ぼくはこの釣り人のことを思い出した。彼がいまにでも行きたがっていたラスベガスに、自分たちは今日つくのだ、と。
 10分ほどするとグレイハウンドがやってきた。青く大きなバスには大勢が乗っていて、すぐそばを通る線路上には、列車が、100個以上はあるだろうコンテナを引いて、ダダンダダン、ダダンダダン、ダダンダダン……といつまでも音を立てながら通り過ぎていった。その光景を目に焼き付けて、ぼくらもこの町を後にした。
 
 ラスベガスへの道は、ますます砂漠の中のようになっていく。砂地の上に強靭な灌木だけが連綿と生え、遠くには木の一本も見えない茶色い山が連なっている。ときどき遠くには、長い列車が見えてくる。あれはさっきVictorvilleで眺めていた列車かもしれない。そう思いながら、茶色い山陰に消えてくるその長い車列の姿を見送った。
 荒涼とした風景の中を走り続けていくほどに、ほとんどの生物が生きていくことはできないだろうこの厳しい環境の中に、滑らかに舗装された真っ直ぐな道がずっと続いていることがとても不思議に思えてきた。19世紀、ゴールドラッシュのころに東部から西部を目指した人たちは、おそらく何も道らしきものもないところを、きっと何週間も何ヶ月もかけて移動してきたのだろう。1920年代にルート66が開通してアメリカの東西が「道路」で結ばれたことがどうしてそれほど衝撃的な出来事だったのか、ルート66がアメリカにとってどうしてそれほど重要なのか、この荒野の中を走るほどにわかるような気がしてくる。
 前方をずっと眺めていると、真っ青だった空は、日が沈むとともに不思議な色に染まってきた。地平線沿いに、きれいに虹のような色の層が見えてきたのだ。空から地面に向かって青、黄、赤、紫、そして緑。緑色は空なのか、それとも向こうに草原が広がるのか一瞬わからなくなるほどだった。でもそれは、確かに空の色だった。茶色しかない陸地の上に、自然が豊かな色を輝かせていた。
 「こんな風景、これまで見たことない気がします……」
 吉田さんは何度もそう言い、ぼくもまた、同じことを繰り返した。

虹色に染まった夕焼けの空

虹色に染まった夕焼けの空

 その夕日の色に驚いてから数十分もしたとき、ネバダ州へと州境を越え、徐々に巨大な人工世界が近づいてくることが感じられた。車が増え、大きな建造物がポツポツと増えていく。そろそろかな、と考えていると、砂漠の中の地平線上の遠い向こうに、無数の白い光が見えてきた。
 気がつくと目の前は赤いテールランプに満ちていて自分たちも渋滞の中にいた。そして、空が青から深い濃紺に変わったころ、ぼくらは煌びやかなネオンライトの中にいた。
 ついに、ラスベガスに着いたのだ。
 それはまるでオアシスだった。いや、砂漠の中に作られたこの巨大都市は、この地の人々にとってオアシス以外の何物でもないだろう。
 Victorvilleの男性も、いまごろここにいるのかもしれない。あの釣り人は、今日もあの桟橋で、ときどきラスベガスのことを思いながらビールを飲んでいるのかもしれない。
 毒々しいまでのネオンに彩られたヴェガスの町を歩きながら、もう二度と会うことはないだろうあの二人の日々を想像した。そして考えた。自分にとっても、この欲望渦巻く巨大都市はオアシスとなるのだろうかと。
 

 (終わり)

『遊牧夫婦こぼれ話』第13回「自分に全然自信がない?」(2015年6月「みんなのミシマガジン」掲載記事を再掲)

【『遊牧夫婦こぼれ話』は、ミシマ社のウェブマガジン「みんなのミシマガジン」にて、2014年6月~2017年7月まで毎月書かせてもらっていた連載です(全38回)。「遊牧夫婦」シリーズの中に収められなかったエピソードや出来事を振り返りつつ、しかしただ過去を振り返るだけでなく前を向いて、旅や生き方について、いまだからこそ感じられることを綴っていく、というコンセプトの連載でした。現状、ミシマガジンでは読むことができないので、ひとまず、当時面白がってもらえた回だけでもこちらに随時アップしていく予定です。】

第13回 自分に全然自信がない?
2015.06.04更新

 先日、26歳の男性から、相談に乗ってもらえないかと連絡をもらいました。
 ぼくの本を読んでくださった方で、いま、アルバイトをしながら就職活動をしているけれど、思うところあって就職以外の生き方を模索している、ぼくの紀行文やインタビューを読むかぎり、自分と重なるところが多くあるように感じ親近感が沸いて連絡した、とのことでした。

 数週間後、この方と会いました。
 話を聞くと、彼は大学院の修士課程修了後、一度会社に勤めたもののほどなくやめて、いま次の就職先を探している。しかし本当は就職する以外に具体的にやりたいことがあり、その道に進みたいと思っている。ただ、なかなか思い切って踏み出せない、また両親にも反対されている、という状況のようでした。
 もちろん状況は違うとはいえ、自分が2003年に旅に出たときも同じく、修士課程を終えたばかりの26歳で、また、確かに彼が言うように、考え方にも似たようなところが少なからずありました。話を聞きながらぼくは、どこか当時の自分を見るような気持ちになり、自分が日本を出たときのことを思い出しました。そしてふと、あのとき自分が、随分と大胆な決断をしたような気がしてきたのでした。

 大学院を修了し、周囲はみな、さあこれから社会に出るという中、就職せずに、貯めたお金で旅をしながら自分でライターの修業をする――。ライターとしての経験はほとんどなく、そんな生活が成り立つとは自分自身思えていなかったことを考えると、とても思い切った行動です。そもそもそんな豪快な性格でもない自分が、どうしてそんな決断を下し、実際に実行に移せたのか。いまさらながら不思議に思えたのです。

 なぜあのとき、自分はあまり迷うことなく旅に出ることができたのだろう。
 そのもっとも大きな理由が、吃音であったことは間違いありません。吃音のために会社勤めがうまくいかなそうだから就職しない道を模索し始め、そこに、文章を書きたい、旅をしたいという気持ちが合わさった結果、こういう選択に行きつきました。会社勤めができそうにない、という消極的な理由がとても大きく自分を後押しすることになったのです。
 しかし、それ以外にも何かあったのではないか。彼と話しながら、改めてその点を考え直す機会を得て、一つ、思い至ることがありました。
 彼はぼくにこう言いました。
「私は自分に全然自信が持てない人間なんです。いつも他者に対して猛烈な劣等感を持っています」
 それを聞いて、それが自分にも少なからず共通する点であると、ぼくはその方に伝えました。そして、まさにその性格こそが、自分が旅に出ることを決意し実行できたもう一つの理由なのではなかったかと、気がつきました。

 
 こんなことを告白するように書くのはなんだか気恥ずかしさがありますが、ぼくはかなり「自己肯定感」(というのでしょうか)が低い人間だと自分について感じています。
 劣等感というのとは少し違うのかもしれませんが、ぼくはいつも、ちょっとしたことで、自分は嫌われてしまったかもしれないと不安に思ったり、自分はつまらない人間だと思われているのではないか、相手を怒らせてしまったのではないか、と落ち着かない気持ちになっています。年齢とともに少し和らいだ気はするものの、学生時代からいまに至るまで基本的にそうした傾向は変わっていません。

 自分のそうした性格の原因を考えると、中学時代まで遡ります。小学校時代は特にそういうことを思わずに、どちらかといえば気楽でやんちゃにやっているほうでしたが、中学1年のとき、あることをきっかけに急激に学校内での人間関係が難しくなり、それからおそらく1年くらいの間、ぼくは周囲の人にひどくおびえながら過ごすことになりました。
 そのころの感覚や気持ちはいまもとても鮮明で、とにかく人間関係をこれ以上悪化させてはならないと、毎日、自分でも驚くぐらいビクビクしていました。関係がうまくいってない人に少しでもそっけなく見える反応をされたり、すれ違った先輩に一瞬でも睨まれたような気がすると、「やはり自分は嫌われている」「あの先輩は自分のことを怒っている、いつか殴られるのではないか」といったことを明けても暮れても考え続け、再度その人に会って自分の考えすぎであったことが何らかの形で確認できるまで、常に恐怖感を抱えながら過ごすという状況でした。

 中学3年になるころには、そうした関係も一応はすべて沈静化していったのですが、自分は嫌われているのではないか、馬鹿にされているのではないか、みなが自分のことを怒っているのではないか、という不安感はずっと拭い去れないままでした。
 その感覚は高校時代も根深く残りました。高校2年ごろに吃音が深刻になったのも、そのことが関係しているのではないかとぼく自身は感じていますが、いつしかそうした感覚は自分の性格そのものとなり、その後大学に入ると、今度は別の形で表面化することになりました。

 大学で仲良くなった友だちの多くは、本や音楽、映画や旅が好きな、ある種文化的な匂いのする人たちだったのですが、自分はそれまで、本を読んだり、映画を見たりということを全くしてこなかった人間で、物事を斜めに見たり、深く考察するということがあまりできないタイプでした。
 食べ物でいえば、カレーとハンバーガーが好きという感じの、シンプルでド直球な人間だったので(いや、決してカレーとハンバーガーを軽く見ているわけではありません。カレーもハンバーガーも、いまなお大好きです)、友人たちの話はとても新鮮で、ある種の羨望を持って聞いていました。

 そうした影響でようやく本などにも興味を持つようになり、徐々に世界が広がっていったのですが、同時に、友人たちの話を聞きながら常に、おれはなんて何も知らないんだろう、ああ、おれはつまらないやつだと思われているに違いない、という恥ずかしさのような感覚がいつもありました。きっと、自意識過剰でプライドが高かったのでしょう、表面的にはそんなそぶりを隠しつつ、いつしかそれが劣等感にもつながっていきました。

 ぼくが大学時代に旅をしたいと思うようになったきっかけの一つは、そうした友人たちの影響であり、さらに言えば、彼らに認めてもらいたいという気持ちがあったのは間違いありません。
 大学院修了後に長期的な旅に出る、そしてライターになる、という決断の拠り所の一つも、こうして独自なことをすれば周囲に認めてもらえるのではないかという気持ちだったのです。それは他の人を抜きんでたいという気持ちではなく、そうすることでようやく他の人に追いつける、やっと対等に扱ってもらえるのではないか、という、いま思うとあまりにも自己肯定感の低い意識ですが、確かにそういう感覚でした。

 ライターとしてうまくいくかどうかはとりあえず考えずに飛び出すことができたのは、おそらくそのような意識があったからです。
 つまり、ライターとして生計を立てるなどということはそもそも無理だとしても、とにかく旅に出て金が尽きるまで数年ふらふらしさえすれば、それだけで自分は、少しは独自の経験をしたと胸を張れるのではないか。そんな気持ちが間違いなくあったのです。

 もちろん、生活していくためには必死にやらねばという意識も強くあり、だからこそあれこれやっていくことになるわけですが、とにかく旅に出るということさえ実行すれば目的が一つ達成される、そう考えていたからこそ、ぼくはある意味とても楽観的に、うまくいくかどうかを深く考えることなく思い切って踏み出すことができたのだろうと思います。吃音という悩みから逃れたいという気持ちと重なって、その、認められたいという願望は、驚くほどのエネルギーをぼくに与えていたのです。
 そうした気持ちをいま改めて思い出して、はっとさせられました。

 ぼくはいまもなお、自己肯定感が低く、何事にもあまり自信が持てません。常に、周囲の人は自分に対して不満を募らせているのではないかと想像しておどおどする性格は変わっていません。そうした意識はときにとてもしんどくて、自分自身はもちろん、ときには周囲にもストレスを与えていることがあるように思いますが、それはきっと一生変わらないのでしょう。
 でも、年齢とともに、そうした自分を認められるようにはなってきました。さらには、そういう性格だからこそ、後れをとらないよう、嫌われないよう、できる限りのことをしなければと願う気持ちが強く、それがいまの自分を支えているのだなと実感しています。そうした性格こそが自分にとっての一番の原動力であり、もっとも大切なものの一つなのかもしれないと思えるようになったのです。

 コンプレックスは最大のエネルギー源になることがある。
 弱さの中にこそ、最大の強みが眠り、打開策が潜んでいる。
 ぼくはいまそのように感じています。もちろんあらゆるコンプレックスが必ずしもそうなるとは言い切れませんし、そう簡単にプラスに転化なんてできないよ、という声も多くあると思います。
 ただ、コンプレックスから逃れたいというエネルギーは誰にとってもとても大きなもののはずです。だからこそ、それをもし何らかの形で別の方向に活かすことができれば――、思わぬ道が開けるかもしれないという気がするのです。

 相談に来てくださった男性は、彼自身の弱さを存分にぼくに見せてくれました。
 その中にこそ、彼の強みが隠れているのではないか。ぼくはそう想像しています。
 迷いや葛藤はそう簡単に消えないだろうし、容易に打開策が見つかるわけでもないと思います。でも、彼がこの先どういう選択をし、どういう道を進むことになっても、自分の弱さと向き合う経験はきっといつか力になる。ぼくはそのように感じています。
 なんとか、踏ん張ってくれますよう。