ウェブ「考える人」に科学の本10冊を紹介するエッセイ、京都新聞夕刊に「旅へのいざない」北朝鮮。

☆ウェブ考える人のリレー書評「たいせつな本」に、科学の本10冊を紹介するエッセイを書きました。
https://kangaeruhito.jp/article/10264


紹介したのは、以下の10冊。
立花隆『宇宙からの帰還
コペルニクス『天体の回転について
ガリレオ『天文対話
トーマス・クーン『科学革命の構造
森田真生『数学する身体
福岡伸一『できそこないの男たち
チェリー・ガラード『世界最悪の旅
スティーヴン・ホーキング『ホーキング、宇宙を語る
幸村誠『プラネテス』(全4巻)
サイモン・シン『フェルマーの最終定理

自分の次のテーマを探りつつ、再読したり新たに読んだり。宇宙、物理、数学、科学史などのノンフィクションに漫画も。どれかを手にとりたくなってもらえますように。

☆京都新聞夕刊連載「旅へのいざない」第6回は北朝鮮(10月3日掲載)。よくあんな無茶な方法で国境の橋を渡れたものだと、当時の無知、無謀さに我ながら驚く。しかしそれが若さが持つ力でもあるはずで、当時の自分が羨ましくもあります。

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母校で講義 & 各賞の選評を読む

先週、母校の高校で講義をする機会をいただきました。じつは2011年3月に、高校に講義のために呼んでいただいたことがあったものの、直前に東日本大震災が起き、急遽キャンセル。それから8年半が経って、また違った形で実現しました。今回は、障害講座で吃音について話してほしいというご依頼で、生徒や保護者の方々の前でお話しさせていただきました。

自分が吃音で悩みだしたのが、まさに高校時代だったこともあり、話しながら当時の感覚が蘇りました。バスケ部でキャプテンをしていたとき、円陣を組んで掛け声をかけるのが本当に嫌で、悩んだなあとか。その一方、考えてみたら、授業中などでは不思議なことに吃音で悩んだ記憶はほとんどない。なぜだろう。

学校全体の雰囲気もほとんど変わってなく、校舎や体育館を見ては懐かしい日々が思い出され、ああ、青春だったなあ、と感慨に。校内を歩いている中、当時いらした先生の何人かとも挨拶。すでに卒業から24年かあ、としみじみ。

そしてその帰りに、コンビニで『週刊現代』と『週刊新潮』を購入。今号にそれぞれ、講談社本田靖春ノンフィクション賞と新潮ドキュメント賞の選評が載っているのです。両賞とも落選ではあったものの、各委員からお褒めの言葉をいただいて大いに励みになりました。しかし、ギリギリだったと言われると、嬉しさとともに残念さも増してしまう。でもその思いは、次作へのエネルギーにしなければと思います。

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物理学をテーマに

物理学の歴史をテーマにしたノンフィクションを書きたいという気持ちがだんだんと固まりつつある中で『ホーキング、宇宙を語る』を読んでます。もう古典のような本で、30年くらい前に確か途中で挫折して以来の再読なのですが、なんとなくしか理解できてなかった事柄がすごい的確でシンプルな比喩で説明されてて感動してます。

学生時代、一度ホーキング博士が大学に講演に来たことがあり、その時、一枚のパワポの中央に確か、りんご一つだけが描かれた図がありました。どういうことだろうと思ったら、機械を使った音声による彼の説明の後に、そのリンゴだけの図が見事にその説明の全てを物語っていることを知って感動した記憶が今も残っているのですが、この本もまた、そのような魅力に満ちています。彼のような天才的な人物が、わかりやすい言葉で伝える力も備えているというのは、本当に稀有でありがたいことのように、読んでて思えます。

吃音というテーマをひとまず書き終えたいま、次の数年間、場合によっては40代のかなりの時間を費やすことになるだろう次作のテーマを何にすべきなのかとしばらく考えてきたのですが、やはり自分はサイエンス、特に物理にまつわる人間ドラマが書きたいという気持ちが強まっています。サイモン・シンの『フェルマーの最終定理』のような作品が長年の憧れなのですが、あの本のような絶大な魅力と深みを持つ本を目指すとき自分はどんなテーマを選ぶべきなのか。ずっと考え続けている中、ぼんやりとながら、テーマが具体的になってきているのですが、果たして書いていけるのか…。
この本を読みながらも、そんなことを考え続けています。

先月受賞作の発表があった新潮ドキュメント賞も、講談社のに続いて残念ながら落選。しかも結果の連絡が来るという日の朝に、まだ新しいスマホが突然壊れるという不吉なアクシデントにも見舞われて、結果もそれに追随するような感じでアウト。キャンプ中だった中、それから1日ぐらいテントの内外でがっくり来てましたが、今となっては、その残念な思いが次作へのエネルギーになった気も。

これから、力を尽くして取り組みたいです。

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『月刊すこ~れ』連載 「子どものなぜへのある父親の私信」第3回(2018年11月号掲載)

『月刊すこ~れ』2018年11月号掲載の連載第3回です。

Q シイタケが嫌い。でも、「好き嫌いしないで、食べなさい」って言われる。なぜ、嫌いなものも食べないといけないの? 

A ぼくも子どもの頃、シイタケが嫌いでした。いまは美味しいって思うけれど、当時は、なんでこんなものを好んで食べる人がいるのだろうと不思議でした。でもやはり、親には「食べなさい」って言われたし、いま自分自身、子どもに対して、好き嫌いはよくないよと、当然のように言っている気がします。
 でも、「どうして嫌いなものも食べないといけないの?」と問われると、じつは少し考えてしまいます。栄養が偏らないようにというのが、おそらく一番よく言われる理由でしょう。でも、よく考えると少し疑問も。もちろん、野菜を一切食べなかったり、嫌いなものがすごく多かったりすれば、栄養が偏って身体によくないと思いますが、たとえばシイタケだけを食べなくても、そんなに問題ではないのでは? 栄養という意味では、きっと他の食べ物で補えるし、何か一種か二種だけを食べなかったから病気になるということはおそらくないような気がします。そう考えると、嫌だなと思うものを無理に食べる必要は、ないのかもしれません。そのためにご飯が楽しく食べられなかったら、その方が問題のようにも思います。
 ただその一方で思うのは、食事にはいつも、作ってくれた人がいるということ。お母さんやお父さん、おばあちゃんやお店の人。好き嫌いしないで食べられたら、そういう人たちが喜んでくれるということはきっとあります。特に、毎日のご飯を作ってくれる人、たとえばお母さんやお父さんは、家族が何でも食べてくれたらきっと嬉しい。ぼく自身、まさにそうです。逆に、自分が作った料理を子どもが、「これは嫌!」って言って残したら、悲しい気持ちになってしまいます。
 でも、作った人のことを考える以上に、好き嫌いなく何でも食べられたら、きっといつも食事が楽しくなるし、毎日の喜びも増えるはずです。それが何よりも大切なようにも思います。そのことを知っているから、大人は子どもに、好き嫌いしないように、っていうのかもしれませんね。  

Q 猫や犬を殺してはダメ。でもどうして牛や豚は食べてもいいの?

A 多くの日本人は、牛、豚や鶏を肉として食べることにおそらく抵抗はないでしょう。でも犬や猫を食べることは、普段はまずありません。ペットとして飼い、一緒に暮らす対象です。しかし韓国や中国では、犬を肉として食べることもあります。一方、インドに行けば、牛はとても大切にされていて、基本的には食べません。また、イスラム教の国では豚を食べないのですが、その理由は、大切にされているからではなく、汚い動物と考えられているからです。そしてオーストラリアでは、牛や豚などに加え、カンガルーもよく食べられます。とてもたくさんいるからです。
 こうしてみると、人がどの動物を食べて、どの動物を食べないかは、その国や地域の風土、文化、宗教など、様々な要素と関係しているのがわかるでしょう。
 つまり結局は人間側の都合であって、どの動物は食べてよくて、どの動物はダメ、ということにみなが納得する客観的な基準はありません。
 ただ、確かなのは、生物は生きていくためには他の命を食べなければならないということ。人間も、他の生命を殺し、食べることがどうしても必要です。しかしそれは本当に重いことです。自分たちは他の生命によって活かされているのだということを、私たちは常に意識しておかなければならないと思います。
 昔、アマゾンのある民族の話を読んだことがあります。その民族の人たちは、子どもが生まれると、一匹の子猿を飼い、子どもとともに育てるそうです。すると子どもと猿は、仲の良い親友として一緒に大きくなっていきます。しかしその子が、一定の年齢に達し、大人になる儀式を行う時に、その猿を殺してみなで食べなければならないのです。その子は当然、とても嘆き苦しみます。残酷なことに思えるかもしれません。しかし、他の生命を食べて生きていくというのはこういうことなのです。そのことをしっかりと知って生きていかなければならないのだ、というこれ以上ない教育法なのでしょう。
 私たちはいま、食べることの重さを少し忘れすぎているのかもしれません。