京都新聞夕刊「旅へのいざない」第8回 ロシア(毎月第一木曜日掲載)

京都新聞夕刊連載「旅へのいざない」第8回は、ロシア。モンゴルからロシアへ入り、シベリア鉄道で足掛け9日間移動して、再び中国へ。日本を出て4年になり、当時の自分の現状についてあれこれ悩みながらの鉄道での日々について書きました。ひとまず第12回での完結を目指してます。

写真 2019-12-07 22 31 16-2.jpg

「吃音」をもっと知るために~重松清が近藤雄生に聞く 

すでに半年がたってしまいましたが、重松清さんに聞き手となっていただく形で5月に下北沢のB&Bで実現した、拙著『吃音 伝えられないもどかしさ』の刊行トークイベントが記事になり、ウェブ「考える人」に掲載されました。

重松さんの素晴らしいリードとお言葉の数々、熱心に聞いてくださった来場者の皆さまのおかげで、深く心に残るイベントになりました。今日から4日間連続更新の全4回です。是非多くの方に読んでいただきたいです。
どうぞよろしくお願いします。

「吃音」をもっと知るために~重松清が近藤雄生に聞く


重松さんにいただいた書評も、改めて掲載してもらっています。未読の方は是非こちらもどうぞ。

〈書評〉理解されない苦しさ、を理解するために。

shigematsusantalk.jpg

戦争で残虐な行為に手を染めた二人の元日本兵が語った言葉(映像)

ぼくは学生のころ、日本と中国をテーマとした映像制作を中国人留学生はじめ複数の学生たちとともにやっていました(『東京視点』)。その中で自分が中心となって作った作品の一つに「ある二人の戦後」(14分、2002年)があります。戦中から戦後にかけて中国で残虐な行為に手を染めたと語る二人の元日本兵(永富博道さんと湯浅謙さん)の姿を撮ったものです。

先日ふと、こうしたことを語れる人がもはやほとんどいないということを考える機会がありました。そこで、やはりすでに亡くなられているこのお二人が自らの過去を思い出して語る姿はもっと広く見られてほしいという思いがわき、ここにアップしようと考えました。

いま見ると、内容的に不十分な部分が多々あって作り手としては気恥ずかしくもあるのですが、若いころに多くの人を残虐な方法で殺し「閻魔大王」と呼ばれたという永富さん、そして、生きたままの中国人を解剖したことを語る元軍医の湯浅謙さんが、戦後半世紀以上が経ってから自らの行いについて語る姿をこのような形で記録できてよかったと、改めて思ってます。永富さんが涙ながらに思いを語る部分は、何度見ても胸がいっぱいになります。

永富さんはこの映像を撮った2、3ヵ月後に亡くなられました。そのタイミングに何か意味を感じざるを得ない永富さんの言葉があったこともあり、当時ぼくは、永富さんへの追悼文を書く機会をいただきました。その追悼文も映像の下に載せました。それを読んでいただくと概要がわかるかと思います。その上で、よかったら映像も見ていただければ嬉しいです。

そして先ほど、この映像のアップ作業を始めた昨日11月4日がちょうど永富さんの命日であることに気づかされ、何かただならぬ思いを感じています。


追悼文:『季刊 中帰連』23号(2002年冬)に寄稿
映像:2002年制作(近藤雄生、吉田史恵)「東京ビデオフェスティバル2004」優秀作品賞受賞

(以下が追悼文です)

「永富さん、安らかに」 (近藤雄生、『季刊 中帰連』23号 2002年冬)

私は永富さんについてほとんど何も知らないといってもいいかもしれません。少なくとも永富さんにとって私は一介の若者以上のものではないはずです。そんな自分がここに永富さんの追悼文を書かせていただいて本当にいいものだろうかと、正直多少とまどいを覚えながらも、その機会をいただけたことを感謝しています。

私が永富さんのことを知ったのはほんの最近のことであり、お会いしたのも先の八月のある真夏日のたった数時間あまりでしかありません。永富さんの八六年に及ぶ人生の中に自分が多少なりとも直接的な関係を持つことが出来たのは、ドキュメンタリー映像を作るための取材でお会いした、そのほんのわずかな時間だけでした。しかしそれは、私にとってどれだけ長い時間に匹敵するか分からないほど貴重な出会いだったということを今、切に感じています。

そのころ私はもう一人の同年代の者とともに、生体解剖に関わった元軍医である湯浅謙さんの現在の活動を取材しており、そのときに湯浅さんから永富さんをご紹介いただきました。永富さんが近くの老人ホームにいらっしゃると聞いて、是非お会いしたいとお願いしました。「閻魔大王」と呼ばれていたほどの永富さんが今何を思いながら生活されているのか、私は聞いてみたいと思ったのです。

突然の訪問にもかかわらず快く私たちを迎え入れてくださった永富さんの、私たちへの最初の言葉は、「申し訳ありません、申し訳ありませんでした……」というものでした。背中を丸め、前かがみになりながら、しっかりと手を合わせて祈るようにそうおっしゃる姿を前に、私はなんと対応していいものか分からず、ただ沈黙し続けていたことを覚えています。

ただじっと聞いていることしかできない私たち若者に対して丁寧な言葉で接してくださるその姿からは、この人がそれほど残虐な行為を繰り返したなどということがどうしてもイメージできませんでした。しかし、そのギャップこそが現実だったのだと思います。永富さんの人生が半世紀以上前の話だけで説明されるものでは決してないという当然のことが、本人を目の前にして再確認できたような気がしたのです。特異な経験を経てきた人の人生は、その特異さだけで語られがちになりますが、もちろん実際にはその何倍もの、他の人と変わらぬ静かな日々が続いています。数々の残虐な行為と戦犯管理所での生活を経た後に、永富さんには四〇年ほどの時間がありました。私の会った永富さんはその全ての時間を内に抱えていたのです。それは、過去を見つめ、そして今自分が生きていることの意味を深く考える一人の老人の姿でした。

意識がない状態で同じ老人ホームに暮らしていらっしゃる奥様のことに話が及んだときに、永富さんのただならぬ思いはもっとも強く伝わってきました。

「生かされているというだけで…、ほんとうに幸せです…」

家内は「眼も見えない、口もきけない…、死んでるとおんなじ」です。しかし、生きている。その生きているという事実がいかに大きなことなのか…。「死んだらもうさわることもできない…」生きているからこそ、「毎日、いって、さわって、手を握って」やることができるんです…。「生きているということだけでも、ほんとうに幸せです…」

多くの人の命を自ら絶たせてしまった永富さんが、目を潤ませながらおっしゃったその言葉からは、他のどんな人にも表しえない重みと感慨が滲み出ていました。そのときの永富さんの涙は、奥様へと同じくらいに今生きている自分自身に、そして何よりも、彼が命を絶たせることになってしまった多くの人たちにへ注がれていたような気がします。

その涙は、いつしか取材を続ける私たちのもとへとつたってきました。

そしてその日から一ヶ月半ほどして、ドキュメンタリー映像は完成しました。

永富さんが亡くなられたのはその映像のテープを氏のおられた老人ホームに送ってから三週間ほどしてからのことです。テープが着いた頃にはすでに他の病院に入院されていたということを知らず、「永富さんはあれを見てどう思ったかな…」などとのどかに考えていた自分にとって、彼の死はあまりにも突然のことでした。

死の報告を受けたとき、永富さんのおっしゃっていたある言葉が頭をよぎりました。体が不自由になってはいるけど、特に病気もなく今を過ごしていることについて、

「私は死なせてもらえないのです。自分の罪をすべてこの世でぬぐいつくせるまで私はしぬことができないみたいなのです。…まだすべきことがたくさんある。そのためにこうして生かされているのではないかと思うんです…」

永富さんは「すべきこと」を終えることができたのだろうか…。それはしかし、私には分かるはずもありません。ただ、ちょうど偶然にも私たちがこの時期に映像を撮ることになったことが、もしかしたら死を迎える前の永富さんにとっての「すべきこと」に何らかの関係があったのか…そんな気がしないでもありません。私たちが作ったものが、少しでも永富さんが安らかに眠れず材料になればと願うばかりです。
(終)

大阪で開催された言友会全国大会に参加して

10月13日と14日、大阪で、吃音の当事者団体である言友会の全国大会に参加しました。

台風の影響で、3日間だったところ12日が中止となるなど、直前まで大変な状況ながら、実行委員の皆さんのご尽力によって素晴らしい大会になりました。さまざまな充実したプログラムがあり、全体での会も、分科会も、参加したものはどれも印象に残る時間となりました。僕はその中で講演の機会をいただきました。

実行委員のみなさま、改めてお疲れ様&ありがとうございました。

夜は会場に併設されたユースホステルに皆で宿泊して深夜遅くまで懇親会。多くの当事者の人たちと話しながら、多く笑い、いい出会いに嬉しくなるとともに、それぞれの経てきた日々を思い、胸が熱くなること多々ありました。吃音のみならず、個々の様々な問題について、互いに想像力と寛容さを持ち合える社会になってほしいと改めて思いました。

吃音の問題についていえば、自分が学生で悩んでいたころに比べると、ネットによって当事者同士がつながり、問題を共有し合うことが容易になったことは本当に大きいと思います。それでも、職場や学校で吃音で困り悩むときはそれぞれ一人。その苦しさを軽減するのは容易ではありません。だからこそ、苦しいときは、弱音を吐き、人に頼り、逃げるという選択も大事だと思うし、逃げていいんだと思ってほしいです。無理をせず、それぞれ自分が楽に生きられる方法を考えてほしい。僕にとっては、それが旅へと出ることでした。

一方、拙著『吃音 伝えられないもどかしさ』に寄せられた多くの感想からは、当事者ではない人の多くが、吃音について真剣に考えてくれていることを感じました。からかわれたり、笑われたり、というネガティブな経験を持っている当事者は多いけれど、それはきっと吃音の困難が知られていなかったことが大きくて、ちゃんと知ってもらえたら、少なからぬ人は理解してくれようとするのではないかと感じました。そこに希望を感じるし、本に寄せられた数々の温かい言葉から、きっとそうなんだと思うようになりました。

同時に、私たち当事者の側も、当事者でない人が問題を理解することが難しい、ということを理解する必要があると感じています。それは吃音以外のあらゆる問題でも同じはずであり、自分たちも、吃音以外の問題を抱えている人を知らずに傷つけているかもしれない。そのことを意識しなければならないと思います。

みながお互いにその可能性を意識しつつ、想像力を持ちあうこと。お互いに、自分とは違う立場の人に寛容になること。そんなことが大切なのではないかと、改めて思うようになっています。

そんなことを講演会でお話しさせていただきました。

本当に素晴らしい大会でした。
また皆さんにお会いできる機会を楽しみにしてます。
実行委員のみなさま、本当にありがとうございました!

IMG-2196.JPG