X で不登校が話題になっていたので。親切にしてくれた友だちが本当にありがたかった。

X で不登校が話題になっていたので、いくつかポストを覗いて見たら、不登校の子に対して、嫌いだとかむかつくと書いている声が多くて驚いた。そう書いている人は主に、子どものころ、不登校の子が学校に来た時などにお世話を任されていた人のようだった。

僕の娘については、週3日くらい付き添い登校(僕か妻かが付き添って一緒に学校に滞在)するようになった小6時(小5はほぼ完全に行かず)、クラスメートが驚くほど娘に優しく親切にしてくれて本当にありがたく、感激した。積極的に声かけてくれたり、一緒のグループに誘ってくれたり。

確かに、あまり積極的に話さない娘に声をかけて誘って一緒に何かするのは、子どもたちには大変だったろうと思う。距離を置きたくなる気持ちもよくわかるし、親切にしてくれる子も内心はどう思っていたかはわからない。負担をかけていたかもしれない。だからこそ、とにかくいつも気持ちよく話しかけてくれる子たちには本当に感謝しかなかった。僕はその子たちに折を見て直接御礼を言った。するとその子たちは、「うん、全然」と笑っていた。

きっと先生も、娘と同時にその子たちにも気も使いながら、いい按配で声かけをしてくれてたんだろうなと今思う。その子たちへの気遣いやケアはとても大切だと思うし、たとえその子たちが、世話を任されることで不登校児に対していい印象を持たなくなったとしても、それは彼女たちのせいではないとも思う。

ただ、不登校の子たちも、学校行かなくて楽しているわけでは決してない。おそらく大半の子は、皆のように行きたいと思ってるけど、行けないのだ。行けなくてとても苦しんでる。行かないことには多大なるエネルギーが必要になる、ということを娘を見て感じてきた。その苦しさはわかってほしい。

ちなみに修学旅行のことも話題になっていたので書いておくと、娘の場合、修学旅行も僕が付き添って一緒に行った。いろんな考え方はあるだろうけど、それで行けるなら行った方がいいなと思ってそうすることにした。行きは僕の車で2人で行って、各地でみなと合流して見学や活動は一緒にした(僕も一緒に)。その結果、一日目の最後に30分くらいだけみなとバスに乗ることができた。その時もやはり友だちはみな温かく迎えてくれて、話しかけてくれ、娘も楽しかったようだった。そして気持ちが緩んで、その夜はホテルでみなと一緒に泊まることができた。僕は近くの安宿に宿泊した。

宿での様子を先生に確認すると「元気にしてますよ。笑顔も見えます」とのことだったので、翌日はなんとか僕抜きでみなと一緒に過ごしてくれたらと思った。そこで先生に、「お父さんは常に近くにいる。何かあればすぐ行くから、今日一日みなと一緒に行動できる?」と聞いてもらった。すると、「うん、それでいい」とのことだったので、僕は各現場の駐車場などで待機しつつも顔は見せず、結局2日目は全行程、参加できた。帰りの長時間のバスはきついというので、帰り道は僕の車に乗ったけれど、最後は再び学校で合流して、無事、修学旅行に参加することができた。それ以降、付き添いつつもほぼ毎日学校に行けるようになり、小6の終わりには、朝送るだけで自分で行けるようになった。そしていま、中学校は毎日通えている。

Xの一連のポストを見て、改めて親切にしてくれた友達に感謝しなければと思った。本当にその子たちの存在がありがたかった。本当にありがとう。

一緒に修学旅行に行ったときに書いたブログ

東えりかさんの『見えない死神』を読んで。愛にあふれる魂の一冊。

東えりかさんの『見えない死神』を読みました。それまで全く元気だった夫・保雄さんが突然の腹痛で倒れ、しかし長く原因がわからないまま衰弱され、3か月ほどが経ってから「原発不明がん」と診断されて亡くなられてしまったという出来事について書かれたノンフィクションです。著者の東さんにとってこれ以上なく辛く困難な出来事ながら、しかしその深い悲しみと苦しみを原動力に保雄さんの最期を描き切った、本当に心を打つ一冊でした。突然死の淵に立たされることになってしまった保雄さんへの愛情が一文一文から感じられて、辛く悲しい内容ながら、保雄さんへのこれ以上ない鎮魂の書であり、愛に溢れる本であると感じました。

そして東さんは、保雄さんの死後からまだ遠くない時期に、保雄さんの命を奪った原発不明がんとは何かをできる限りよく理解すべく、医療者への取材を重ねます。それが後半の内容になるのですが、この稀有な病気が少しでも広く知られ、いま苦しんでいる人や未来の患者・家族に有用な情報を提供できるよう、そしておそらく保雄さんの死をよりよく受け止められるよう、深い悲しみの中にある時期に取材・執筆を進めていった東さんの姿勢に深く感服しました。

その中で東さんは、当初不信感を抱いた医師への取材も行っています。他の医師からの見解も書かれていて、その医師への客観的な評価が記されています。そうした点も含めて、医療者へのリスペクトもとても感じられる内容で、本当に貴重な、魂のこもった記録だと感じました。読み終わって改めて、言葉の力、書くことの力を感じさせられ、東さんの保雄さんへの愛の深さに打たれました。ぜひ広く読まれてほしい一冊です。

書けるようになるために、『檀』を読む

先月、沢木耕太郎『檀』を読みました。通して読んだのはすでに4度目か5度目かもしれません。断片的にであれば、または好きな章とかだけであれば、ここ20年以上の間に何十回と読んでいる気がします。記録を見たら、去年もちょうど同じ春のこの時期に僕は『檀』を読んでいました。なぜこの同じ時期だったのか、また、その時はなぜ読もうと思ったのかは全く覚えていないのですが、今回は明らかに、文章が書けなくなっていることが原因でした。『檀』を読んで、再び書けるようになりたいなと思って読んだのでした。

書けなくなっている、といっても、僕は今も収入の9割くらいは文章を書くことで得ているので、毎日だいぶ書いています。特にこの2月、3月は、これまでにないくらい仕事が重なり、ひたすら書くことに追われていました。ただ、そうして書いている文章は、いまはほとんどが企業や大学に依頼されての仕事です。研究者などにインタビューして、研究やその周辺のこと、あるいはその企業の取り組みなどについて書くことがほとんどです。

で、そうした文章については、これまで以上に効率的に、そして技術的にも先方の期待を裏切らないものを書けるようになっている実感はあります。しかしその一方で、そのような文章を書けば書くほど、自分にとってよりクリエイティブと言えるような、枠組みの決まっていない表現としての文章が書けなくなってくるような気がする時があります。

ちなみにいま書いているこの文章も、思いつくままに書いているという意味では、最近書けない類の文章です。でもさっき『「書くこと」の哲学』(佐々木敦)という本を大学で買って、少し読んだら久々に書けそうな気持ちになったのでいま一気に書いています。まだ30ページくらいしか読んでませんが、この本、帯に【読み終えると、なぜか「書ける自分」に変わっている!】とありますが、本当かもしれません。

話を戻して、そのように「ああ、依頼仕事以外の自由な文章が書けないなあ」と思う時、何かを読むと急に書きたいと思って筆が進むようになることがあるのですが、僕にとってそういう時に手に取りたくなる本の代表的な一冊が『檀』なのです。

この本は、作家、檀一雄の妻である檀ヨソ子さんの独白のような形式で書かれた作品です。むろん書いたのは沢木耕太郎さんですが、沢木さんがヨソ子さんに週に一度、一年間ほどにもわたって繰り返し話を聞いて、あたかもヨソ子さん本人の手記のような形で書かれています。

檀一雄は、自身の愛人との日々を書いた『火宅の人』が代表作とされる作家です。その作品は当然のことながら妻にとっては心地よい作品ではないはずで、それが夫の代表作であるということは嬉しいことではないだろうと想像できます。しかしヨソ子さんは、『火宅の人』が長年にわたって書かれ続けるのを、しかもその一部の文章は、愛人との生活がリアルタイムに進行中で雑誌に掲載されていくという日々の中を、妻として生きていました。その時、ヨソ子さんは何を思い、どのように生きていたのか。その日々を沢木耕太郎が、檀一雄が死んで20年近い月日が経った後にヨソ子さんから直接聞いて書いたのがこの本です。

内容としては、とりわけ派手さはないというか、その当時の出来事がヨソ子さんの内面とともに淡々と描かれているような作品なのですが、僕はこの本が、「好きな本ベスト3」くらいに入るかもしれないほど好きです。理不尽でわがまま極まりない夫・檀一雄の身勝手さに苦しみながらもなんとか折り合いをつけて生きていくヨソ子さんの姿に心打たれる、みたいに書くと、そういう日本の家父長制的な空気を美化し肯定するように聞こえるかもしれませんが、全くそうではありません。むしろそういう、男が好き勝手やって女性が従うみたいな構図には僕はかなり嫌悪感があり、それ自体は「檀一雄、ひどすぎる、ありえないな」と読むたびに思います。しかしそれはそれとしても、自分自身がだんだんと年齢を重ね、いろいろ思うようにいかないまま人生が終盤に向かって進んでいることを実感するようになるほどに、そういう時代を生きるヨソ子さんが、内面に怒りや葛藤、苦しみを抱えながらも、それでも夫・檀一雄を受け入れ、思いを寄せ、最後までそばにいる姿になんとも心を揺さぶられるのです。

愛人との日々が終わり、ヨソ子さんとの関係も落ち着いてきた檀一雄が、旅先で体調を崩していると聞いて心配して、ポルトガルにまで一人訪れるシーンは、読むたびにぐっとくるものがあります。そして、そのヨソ子さんの様子そのものと同時に、そのシーンを目の前に思い浮かべさせてくれる文章の力に引き込まれ、その辺りを読むといつも、ああ、自分もこういうものが書きたいなと思わされます。

今回『檀』を読み返して、まだ書くべき文章は書けずにいます。でもなんとなく、今のこの時間は、何か大切なものを自分の中に培ってくれているようにも感じます。

とりあえず、いまこのブログの文章を一気に書くことができたことで、ちょっと嬉しい気持ちになっています。