2013年に自死された看護師の飯山博己さん(拙著『吃音 伝えられないもどかしさ』に詳述)について、昨年10月の労災認定の判決を受けて書いた記事が、ウェブ「考える人」に掲載されました。掲載までだいぶ時間がかかってしまいましたが、弁護士の見解や自分の考えを含め、思いを込めて書きました。
ご家族に写真も複数枚提供いただきました。飯山さんの人生について、少しでも多くの方の記憶にとどめていただける機会になれば嬉しいです。
2013年に自死された看護師の飯山博己さん(拙著『吃音 伝えられないもどかしさ』に詳述)について、昨年10月の労災認定の判決を受けて書いた記事が、ウェブ「考える人」に掲載されました。掲載までだいぶ時間がかかってしまいましたが、弁護士の見解や自分の考えを含め、思いを込めて書きました。
ご家族に写真も複数枚提供いただきました。飯山さんの人生について、少しでも多くの方の記憶にとどめていただける機会になれば嬉しいです。
12月4日の中日新聞の夕刊に、旅をテーマにしたコラムを書きました。すでに8年ほど毎年やっている、大谷大学の旅と生き方についての講義、今年は動画配信での実施となり、果たしてどうなることやらと思ったら、意外にも…、という話です。旅ができないからこそ見えてくる旅の魅力があるのかも、と思います。旅をしたいと思っている若い人たちが、自由にまた各地に行ける日が早く戻ってくることを願います。
『まだ見ぬあの地へ』の刊行に絡めての執筆です。これ読んで、本を読みたいと思ってくださった方がいれば嬉しいのですが…、引き続き、本の方もよろしくお願いします!
しばらく更新されていなかった、スムフムラボの連載「劇的進行中~“夫婦の家”から“家族の家”へ」ですが、サイトのコラム欄が終了することになり、夏に、急遽、最終回となることを知らされました。その最終回が、アップされていました。
最終回 「書くこと」は「子どもと一緒に生きること」
https://www.sumufumulab.jp/column/writer/w/2
この連載、次女のさらが生まれたころから年4回で約7年半、30回続けました。まさに娘たちの歩みと、その時々に自分が感じたことをリアルタイムで記録していくような内容でした。でも最近、そろそろ終えた方がいいのかな、と思うタイミングでの最終回となりました。そんな思いを書きました。
極めて私事ながら、読んでコメントを下さる方も少なくなくて、嬉しかったです。ご愛読くださったみなさんに感謝です。そして、娘たちと妻にも。
ちなみに次女さらは、最近は毎日元気に登校してくれてます。教室の後ろで自分が縮こまって座ってることもなくなりました。
今後とも色々よろしくお願いします!
10月10日発売の中央公論11月号に、『「役に立たない」科学が役に立つ』(東京大学出版会)の書評を書きました。プリンストン高等研究所初代所長と現所長によるエッセイ集で、自由に研究することの重要性を説く一冊です。
書評記事がYahooニュースに掲載されていました(11月2日追記)
「有用性」や「有益さ」に捉われず自由に研究することがいかに大切かを訴える初代所長エイブラハム・フレクスナーの80年以上前の言葉は心を打ちます。
とりわけ心に残ったのは、結果的に大きな成果をあげられるから自由に研究するのが重要だ、というのではなく、<精神と知性の自由のもとで行われた研究活動は、音楽や芸術と同様に、人間の魂を解放し満足をもたらすという点だけで、十分に正当化されるべきなのだ>のように書かれている点です。フレクスナーの、学問への深い敬意が滲み出ています。
奇しくも日本学術会議の会員任命拒否問題によって、学問の自由にも危機を感じざるを得なくなってしまいつつありますが、だからこそ、いま広く読まれたい本です。
5月9日発売の「文藝春秋」6月号「令和の開拓者たち」の連載で、妙心寺・退蔵院の襖絵70面超を描く、絵師・村林 由貴さんについて書きました。
600年の歴史を持つ妙心寺退蔵院の本堂の襖絵を、若い描き手に、寺に住み込み禅を学びながら描いてもらうというこのプロジェクトが始まったのは、9年前の2011年、震災直後のことでした。ぼくが取材を始めたのも同年8月です。
その絵師に選ばれたのが当時24歳の村林由貴さんで、当初は3年の予定だったものの、始まってみたら到底3年で終わるものではなく、9年が経った今も継続しています。
プロジェクト開始当初から、彼女が、禅と絵と自分自身とに向き合いながら、禅の修行をし、絵の技術を磨いて一歩一歩前進していく様子をずっと見続けさせてもらってきました。その姿を『新潮45』や『芸術新潮』などに書かせてもらってきましたが、最後に彼女について書いたのはすでに7年前、2013年のことでした。
その後、彼女は大きな壁にぶつかって、深い苦悩の時期を経ました。しかし立ち上がり、彼女自身大きく変化を遂げて、現在に至り、いよいよ最終局面へと来ています。
彼女が背負っているものの大きさや、しかし描き続ける情熱は、並大抵のものではないことをこの9年間、感じてきました。自分には想像することしかできない部分も多いものの、その生き様には本当にすごい迫力と覚悟を感じ、自分自身とても大きな刺激をもらってきました。20代~30代の10年をかけて絵を仕上げようとしている彼女の姿を、自分は、文章を書くことで伝えるべく、自分なりに力を尽くし、プロジェクトのこれまでを書きました。9年間の出来事を語りつつ、かつ時間の流れを十分に感じてもらえるものにするという点で、自分的に心残りの部分もあるものの、いずれより長い形で、書けたらとも思っています。
禅とは何か、芸術とは何か。彼女が積み重ねてきた日々は、普遍性のある様々な世界を見せてくれると感じます。
是非広く村林さんとこのプロジェクトについて知ってもらえたら嬉しいです。
今日も彼女は、描き続けています。
冒頭の写真は、ともに村林さんを9年前から取材してきた吉田 亮人さん撮影。
昨年春より月1回、京都新聞夕刊のアジアページに連載していた「旅へのいざない」が4月2日木曜掲載分で最終回となりました。
アジアがテーマだったので、国別はイランを最後として、最終回となった今回はまとめ的な内容にしました。これだけ世界が小さくなりながらも、互いに内向きになっている今の時代、個と個が繋がる大切さ、そのための旅の意義を痛感します。日々コロナのことで気持ちも生活も満たされてしまっていますが、再び自由に世界を旅できる日が来るのを楽しみにしつつ。
読んでくださった皆様、一年間どうもありがとうございました。
児童書の新刊情報誌「こどもの本」(2020年4月号、日本児童図書出版協会)のコラム「心にのこる一冊」で、山本有三著『心に太陽を持て』を紹介させていただきました。
本とは無縁の幼少期を過ごしていた小学校時代の自分に、祖母がある日『君たちはどう生きるか』(何年か前に、漫画などの形で復活して大ヒットした本です)を勧めてくれ、読みました。その時おそらく初めて、本を読んで面白いなあと感じ、そのあとがきに紹介されていて、読んでみたいと思って手に取ったのが『心に太陽を持て』でした。
真っ直ぐに「心を打つ話」という感じの逸話を世界中から集めた短編集で、久々に思い出して読んだら、記憶に残っている話が多くて驚きました。自分はきっと、物事の考え方などにおいて、知らずしらずこの本の影響を受けてきたんだろうなあと感じました。そして改めて、子どもの頃に読む本って重要だなと思ったのでした。
って言っても自分はほとんど幼少期には本を読んでないのですが、この本をきっかけに山本有三だけは『路傍の石』をはじめ、何冊か読んだ記憶があります。
『心に太陽を持て』、80年以上も生き残ってきただけある名作です。もし気になったら是非手に取ってみてください。
(2014年12月にウェブ連載のために書いたものの、諸事情より掲載できなかったアメリカのルート66を巡る紀行文です。とても気に入っている文章ながらお蔵入りしたままだったのでこちらに再掲します。前編、後編と以下に続きます)
(前編)
先月末(=2014年11月末)、海外紀行文の連載の仕事でアメリカ西海岸に行きました。アメリカ大陸は「遊牧夫婦」の旅では行くことができてなく、ぼくにとっては大学1年のとき以来、18年ぶりとなりました。
今回の一番の目的地はロサンゼルスでしたが、より広大なアメリカを体感するため、車を借りてロサンゼルスの外へも行くことにしました。目指したのはラスベガスです。
ロサンゼルスからラスベガスへ向かう道は、いわゆる「ルート66」と一部重なります。ルート66は、アメリカ西部の開拓のために1926年に開通した、シカゴ(五大湖の畔、アメリカ中北部の大都市)とサンタモニカ(ロサンゼルス郊外)を結ぶ道路です。すでにその多くの部分は他の大きな道に取って代わられ、その役割を終えていますが、アメリカを語る上で外すことができないこの道を走るのはひとつの憧れでもありました。
ここを走れば、アメリカを感じられるのではないか。そう思い、撮影を担当してくれている写真家の吉田亮人さんとぼくは、ロサンゼルスからラスベガスへ向けて、NISSANの白い車で走り出したのです――。
*
ロサンゼルスを出て5時間ほど経っても、ぼくらはまだロス市内から1時間程度のところにいた。ロス郊外で入ったガソリンスタンドで、キーを中に残したままドアをロックしてしまい、4、5時間立ち往生してしまったからだ。ガソリンスタンドの人たちに助けてもらって道具を借りて自力で開けようとするもかなわない。仕方なくレンタカー会社に電話して救援を呼んでもらうことにしたけれど、それもなかなか来なかった。ようやく問題を解決できたのは夕方6時ごろになってからのことだった。
このまま5時間ほどガソリンスタンドで待つことに
「今日はもうラスベガスまでは無理そうだなあ……」
そう言いながらも、すでに真っ暗になった中、とりあえず少しでもラスベガスに近づこうとぼくらは再び走り出した。日本の高速に当たるフリーウェイは、片道5,6車線で頻繁に合流と分岐を繰り返す。オレンジ色の灯りの中、他の無数の車とともにひたすら走った。右側走行の運転にはすでにぼくも吉田さんも慣れていた。
ルート66にはどうやったら入れるのだろう。不覚にもほとんど何も調べていないままだったので、フリーウェイからどうやってルート66を見つけられるのかがわからなかった。ルート66に行くためにはどこかでフリーウェイを降りなければならないはずだが、どこを出ればいいのか検討もつかない。しかも周囲は深い暗闇に包まれていて、どんなところを走っているのかもわからない。
「これは見つかりっこないな……」
何度かそう口にし、あきらめるしかないかとぼくは思った。もうこのままフリーウェイを突っ走ってラスベガスに向かうことになるのかもしれないなと。しかし、あるとき、前方に茶色の小さな看板が見えてきた。そこにこう書いてあった。
“Historical Route 66 Next Exit”
―歴史的なルート66へは、次の出口―
「サインがあったよ。ここだ、きっと」
そのサイン以外には何もわからないまま車線を急いで右に移してフリーウェイを降りた。そしてその下の道を走ってみる。しばらくいくと、ここが確かにルート66であることを示す石柱みたいなのものが中央分離帯に立っていた。
おお、これでいいんだ、と盛り上がる。これを走っていけばきっとそれらしい風景になるのだろう。いつ、果てしない荒野が見えてくるのだろうか。二人でそれを期待ながら走り続けた。
しかし、行けども行けども風景はこれまで見てきたロス付近の国道沿いと変わらない。ファーストフード店などが道の両脇にただ無秩序に並ぶ、大雑把で投げやりな風景がただ続くだけだった。
「ルート66っていっても、いまはやっぱりこんな感じなのかな……」。
もうそろそろ、フリーウェイに戻ったほうがいいのだろうか。きっとこのまま進んでも何もないのだろう。カーナビを見ると、このまま東にルート66を進んでいくと、北東にあるラスベガスへ通じるフリーウェイからは離れるばかりのように見えた。そして、21時ぐらいになってからだろうか、通りがかった「バーガーキング」に寄って夕食としたあと、ぼくらはフリーウェイに戻ることにした。
もうあきらめるしかないのか、とも思った。しかしそれからしばらくフリーウェイを走ると、再び茶色い小さな看板が見えてきた。
“Historical Route 66 Old Town Victorville”
「オールドタウン」とある。おそらくここを降りたらルート66沿いのVictorvilleという古い町に出るに違いなかった。これだと思い、出口を降りた。そして交差点に出ると、こここそが自分たちの来たかった場所であることがすぐにわかった。
道路の端にはゴツゴツした岩肌が遠くまで広がっているのが、暗闇の中でもよく見えた。使われてなさそうな建物が複数あり、トレーラーを家のようにしたひと気のないトレーラーハウスもいくつもあった。建物には、ときどき、Route66の文字が見える。空気は常に砂埃で白濁しているかのようでもある。場末感にあふれ、いかにもアメリカ映画の舞台のようなその光景に、吉田さんが言った。
「おお、まさにこれですよ!映画で見ていたぼくのアメリカの雰囲気って!」
ぼくらはついに、ルート66の旧跡の町の一つに着いたのだ。
人の気配のほとんどない中、オレンジ色の街灯だけが闇を静かに照らし出す。ガソリンスタンドなどといくつかの店だけが開いているだけで、人々がどうやって暮らしているのか、ぱっとはわかりにくい光景だった。
とにかく今日は休もうと、宿を探して適当に大きな道を走ってみた。すると一軒のモーテルが見つかった。こぎれいだったがアメリカらしい寂しげな雰囲気。”VACANCY” (空室あり)という赤い電飾文字が寂しげに光っていた。
駐車場に車を泊めてレセプションを見ると、アジア系の老婦人が遠い目をしてじっとこちらを見つめている。どこかうつろで不思議な視線だった。その女性の脇を通り、静かに「ハイ」と挨拶をしてレセプションの中に入ると、ヒスパニック系の夫婦が迎えてくれて無事に部屋を確保できた。
書類にサインをしていると、隣では先のアジア系の女性が、外にいる夫らしい西洋人男性に向かって怒鳴っている。するとあるとき驚いたことに、女性はにわかに日本語で声を荒げた。その声にぼくは思わず振り返った。どうしてこんな場所に、70代ぐらいの日本人らしき女性がいるのだろうか。そしてぼくはつい、「日本の方ですか?」と聞いてしまった。すると彼女は、不快そうな顔つきで眉間にしわをよせてぼくを見ながら日本語でこう言った。
「え?何?あなたがお迎えに来てくれた方?」
ぼくはその意味が理解できなかった。ぼくを誰かと勘違いしているのかもしれない。その上彼女は、ぼくが日本人であることには一切興味はなさそうだった。いずれにしても、話しかけるべき状況でなかったことは確かだった。「いや、すみません、違います」と言い、それだけで会話を終え、ぼくらはレセプションを後にした。
車から荷物を出し、2階の部屋に運びながら、その日系の女性とアメリカ人男性が駐車場で「うるさい!」「FUCK!」と両言語で罵り合う声が聞こえてくる。周囲は暗くてはっきりとは見えないものの、ゴーストタウンのように荒涼として真っ暗な景色の中に、昔ながらの電飾の文字がいくつも浮かんでいる。そのすべてが、この町の寂寥感を色濃く感じさせるのだった。
ロサンゼルスとはまったく違う世界がここにはあった。アメリカ西部がまだ未開の地であったころとおそらく同じ景色が、そのままここには残っていた。
来るべき場所にたどり着いた。そう思い、部屋のドアを開けて、ソファに荷物を投げ出した。赤いベッドカバーがかかったこぎれいなベッドの上には木の台が置かれ、その上に聖書が開かれている。その聖書を手にとって薄い紙の感触を手に感じたのち、ぼくは身体をベッドに横たえた。テレビをつけると、アメリカンアイドルというのだろうか、オーディション番組がにぎやかな音を立てている。
広い荒野の中にいま自分はいる。そのことがうれしかった。明日の朝、外にはどんな景色が見えるのだろうか。いろいろな想像を膨らませながら、ぼくはテレビをしばらく眺めた。
長い一日がようやく終わりを告げたのだった。
Victorvilleの大通りにはこんなゲートも
(後編)
VictorvilleにはRoute66 Museumも
寝たのは2時ごろだったが、翌朝6時半ごろには眼が覚めた。寒くて起きてしまったのだ。若干体調が悪いような気もして、風邪をひいてしまったかなと思いながらベッドの中でうとうとしていると、外から「ボー!ボー!ボー―!」「ダダンダダン、ダダンダダン」という音が、長く、細く、聞こえてくる。
そばを列車が走っているのだ。とても長い貨物列車のようだった。音がいつまでも途切れない。その音を聞きながら、昨日は真っ暗で見ることができなかった外の風景を想像し、またしばらくベッドの中で寝たり起きたりを繰り返した。そしてそれから1時間ほどもしていよいよ起き上がったあと、部屋のドアを開けてみた。
ドアを開けるとすぐ外で、目の前には大きな駐車場がある。その向こうに、ヤシの木が並ぶ大通り。そして通りの逆側には、雲一つない青空の下、黄土色や薄茶色のザラザラした表面を持つ山が延々と連なっていた。映画『パリ・テキサス』や小説『オン・ザ・ロード』の世界としてイメージしていた荒涼としたアメリカそのものの風景を前に、ぼくは思わずため息が出た。
「こういうのを見たかったんだ」
そう思いながらじっと眺めていると、また列車の音が聞こえてくる。「ボー!ボー!ダダンダダン、ダダンダダン……」。その音はそのまましばらく響き続けた。
準備をして部屋を出て、吉田さんとともに車に乗り込んだ。町のメインストリートらしき道沿いにある駅らしき建物に入ってみると、すぐ向こうには線路が通っている。何人か立っている人がいるので、見ると、そこはグレイハウンドという長距離バスの乗り場だった。グレイハウンドもまた、アメリカを語るときに欠かせない、長距離の旅の代表的な交通手段だ。
建物の前を歩いていると、カメラを持っているぼくらを見て、40代ぐらいの中肉中背の男性が、おちゃらけたポーズで近寄ってきた。着古した黒いロック系のスウェットとカーゴパンツ、そしてキャップ。ラフな格好のその男は、片手を顔の横に上げて、「撮ってくれよ」と笑いながら言った。グレイハウンドを待っているらしいので、どこに行くのかと聞くと、彼は低くつぶれた声でこう答えた。
「ヴェガスだよ」
ヴェガス――。強い響きが突き刺さった。砂漠の町からグレイハウンドで「ヴェガス」を目指す。それは典型的な小説の世界のようにぼくには聞こえた。
きっと地元の人間が何らかの用事があってラスベガスに行くのだろう。そう思い、ぼくは率直に、この町を見て感じた感動を伝えた。
「この町にはとても雰囲気があるよね。すごいアメリカっぽいなって感じてるよ」
すると彼は、顔をしかめて苦笑しながらこう言った。
「おい、本気かよ?この町はおわってるじゃねえか」
そして、続けた。
「まったくひどい町だ。やることなんて何もねえよ。おれはもともとヴェガスの人間だ。仕事をしにこの町に来て1年住んだけど、暇で仕方なくて、もういやなんだ。だから今日、ヴェガスに戻るんだ。ここにはもういたくねえよ」
何をしている人なのかと聞くと、彼は、いや、何ってことはないんだ、と口ごもった。そしてこう続けた。背中を怪我してからは社会保障をもらって暮らしてるんだ。ヴェガスで何をするかなんて決まってないし、これから先のことなんてわからない、と。
ただとにかく、おれはこの町から出たい。ヴェガスに帰りたいんだ。そんな気持ちが一言ひとことに込められていた。
退屈な小さな町を離れ、新たな生活を求めてグレイハウンドで都市を目指す。これまで何人ものアメリカ人が同じ理由でこの町を離れたに違いない。40号線が開通し、このあたりのルート66が役目を終えたあとVictorvilleは荒涼としていったのだろう。ラスベガスは、産業のなかったネバダ州の政策によって生まれた町だ。1929年からアメリカを襲った大恐慌のとき、税収を増やすために賭博を合法化してことによって一気に成長していった。何もない砂漠の中で、巨額の金と人の欲望を吸い上げることで肥大化していったこの巨大な人工世界は、きっと、その周りの荒涼とした小さな町のアメリカ人たちの夢を託される存在でもあったのだろう。
彼の話を聞きながら、ぼくはふと、その2日前にロサンゼルスのヴェニスビーチの桟橋で出会った一人の釣り人のことを思い出した。
それはちょうど日が沈む夕方の時間のことだった。桟橋の向こうに広がる海は、夕日がとても幻想的な風景を作り上げていた。空から水平線に向かって、青から赤の繊細なグラデーションが真っ黒な水面を覆い、その上には、全体の輪郭をうっすら残す三日月が、白く静かに輝いている。
その月の光に導かれるように桟橋を海の方へと歩いていくと、その一番突端に、グレーの髪の毛のヒスパニック系の男性がいた。ふと気になり、釣竿をセットする彼の隣に立って桟橋のふちにもたれながら話しかけた。
「釣れる?」
すると「いや、いまはじめたところなんだ」と、作業をしながら陽気に答えてくれた。そして彼がえさの準備をするのを見ながら、さらにいろんな話を聞いていった。
週2回はここにきて釣りをしているんだ。サバがたくさん釣れる、でも釣っても誰かにあげるかまた海に戻すよ。楽しみのためにやっているだけだから。ヒラメだけは持ちかえってバターで焼いて食べるけどな。本当にうまいんだ。釣竿を海に投げて、その様子を見ながらビール2本を数時間かけてゆっくり飲む。それがいまの自分の楽しみなんだ。ビールがなくなったら帰る。それだけだよ。
LA育ちの53歳。すでに退職して仕事はしていないという。もとはトラックの運転手だったが、2000年に怪我をして車が運転できなくなったので、いまは社会保障で暮らしてる。運転で事故に遭ったのかと聞くと、そうじゃないと彼はいった。
「刺されたんだ。強盗に襲われてよ。それでおれは運転ができなくなってしまったんだ」
そういって、シャツをまくり上げて、わき腹の傷あとを見せてくれた。胸の下の前から後ろにかけて、横に10センチ以上の太い線がくっきりと刻まれていた。
あの日で、おれの人生は変わった。でも、そんなことはもう昔の話だよ。人生はそんなもんさ。でもいまが楽しいから、それでいいんだ。楽しそうに釣りをする彼の表情は、そういっているようにもぼくには見えた。
物価の高いロスでの生活は大変じゃないのか、と聞くと、彼は言った。ロサンゼルスは安く暮らしていける方法がいろいろある。だから大丈夫なんだ、と。
「おれはこの町が好きだよ。ずっとこの町で育ったんだから当然だよ」
そしてそれからしばらくあれこれ話したあとのこと。ふと彼は「ヴェガス」という言葉を口にした。
「来月はヴェガスに行くよ。娘と孫たちが住んでるからさ。そのために、今週からひとつ新しい仕事を始めることになってるんだ。クリスマスまでは仕事がいっぱいある。そしてクリスマスは家族でヴェガスで過ごすんだ……」
その言葉を聞いて、ぼくは思わずこう言った。「明日からラスベガスに行く予定なんです」。そう言うと、それまで真っ暗な海に向かって作業をしながら話していた彼が、驚いた顔をしてこちらを向いた。
「明日、ヴェガスに行くのか?本当か?そうなのか……」
その少し寂しげな声に、いますぐにでもおれも行きたい、でも行けない……そんな気持ちが読み取れた。
ヴェニスビーチの夕日と桟橋
Victorvilleでグレイハウンドを待つ男性と話しながら、ぼくはこの釣り人のことを思い出した。彼がいまにでも行きたがっていたラスベガスに、自分たちは今日つくのだ、と。
10分ほどするとグレイハウンドがやってきた。青く大きなバスには大勢が乗っていて、すぐそばを通る線路上には、列車が、100個以上はあるだろうコンテナを引いて、ダダンダダン、ダダンダダン、ダダンダダン……といつまでも音を立てながら通り過ぎていった。その光景を目に焼き付けて、ぼくらもこの町を後にした。
ラスベガスへの道は、ますます砂漠の中のようになっていく。砂地の上に強靭な灌木だけが連綿と生え、遠くには木の一本も見えない茶色い山が連なっている。ときどき遠くには、長い列車が見えてくる。あれはさっきVictorvilleで眺めていた列車かもしれない。そう思いながら、茶色い山陰に消えてくるその長い車列の姿を見送った。
荒涼とした風景の中を走り続けていくほどに、ほとんどの生物が生きていくことはできないだろうこの厳しい環境の中に、滑らかに舗装された真っ直ぐな道がずっと続いていることがとても不思議に思えてきた。19世紀、ゴールドラッシュのころに東部から西部を目指した人たちは、おそらく何も道らしきものもないところを、きっと何週間も何ヶ月もかけて移動してきたのだろう。1920年代にルート66が開通してアメリカの東西が「道路」で結ばれたことがどうしてそれほど衝撃的な出来事だったのか、ルート66がアメリカにとってどうしてそれほど重要なのか、この荒野の中を走るほどにわかるような気がしてくる。
前方をずっと眺めていると、真っ青だった空は、日が沈むとともに不思議な色に染まってきた。地平線沿いに、きれいに虹のような色の層が見えてきたのだ。空から地面に向かって青、黄、赤、紫、そして緑。緑色は空なのか、それとも向こうに草原が広がるのか一瞬わからなくなるほどだった。でもそれは、確かに空の色だった。茶色しかない陸地の上に、自然が豊かな色を輝かせていた。
「こんな風景、これまで見たことない気がします……」
吉田さんは何度もそう言い、ぼくもまた、同じことを繰り返した。
虹色に染まった夕焼けの空
その夕日の色に驚いてから数十分もしたとき、ネバダ州へと州境を越え、徐々に巨大な人工世界が近づいてくることが感じられた。車が増え、大きな建造物がポツポツと増えていく。そろそろかな、と考えていると、砂漠の中の地平線上の遠い向こうに、無数の白い光が見えてきた。
気がつくと目の前は赤いテールランプに満ちていて自分たちも渋滞の中にいた。そして、空が青から深い濃紺に変わったころ、ぼくらは煌びやかなネオンライトの中にいた。
ついに、ラスベガスに着いたのだ。
それはまるでオアシスだった。いや、砂漠の中に作られたこの巨大都市は、この地の人々にとってオアシス以外の何物でもないだろう。
Victorvilleの男性も、いまごろここにいるのかもしれない。あの釣り人は、今日もあの桟橋で、ときどきラスベガスのことを思いながらビールを飲んでいるのかもしれない。
毒々しいまでのネオンに彩られたヴェガスの町を歩きながら、もう二度と会うことはないだろうあの二人の日々を想像した。そして考えた。自分にとっても、この欲望渦巻く巨大都市はオアシスとなるのだろうかと。
(終わり)
京都新聞夕刊連載「旅へのいざない」第8回は、ロシア。モンゴルからロシアへ入り、シベリア鉄道で足掛け9日間移動して、再び中国へ。日本を出て4年になり、当時の自分の現状についてあれこれ悩みながらの鉄道での日々について書きました。ひとまず第12回での完結を目指してます。
すでに半年がたってしまいましたが、重松清さんに聞き手となっていただく形で5月に下北沢のB&Bで実現した、拙著『吃音 伝えられないもどかしさ』の刊行トークイベントが記事になり、ウェブ「考える人」に掲載されました。
重松さんの素晴らしいリードとお言葉の数々、熱心に聞いてくださった来場者の皆さまのおかげで、深く心に残るイベントになりました。今日から4日間連続更新の全4回です。是非多くの方に読んでいただきたいです。
どうぞよろしくお願いします。
「吃音」をもっと知るために~重松清が近藤雄生に聞く
重松さんにいただいた書評も、改めて掲載してもらっています。未読の方は是非こちらもどうぞ。
〈書評〉理解されない苦しさ、を理解するために。
ぼくは学生のころ、日本と中国をテーマとした映像制作を中国人留学生はじめ複数の学生たちとともにやっていました(『東京視点』)。その中で自分が中心となって作った作品の一つに「ある二人の戦後」(14分、2002年)があります。戦中から戦後にかけて中国で残虐な行為に手を染めたと語る二人の元日本兵(永富博道さんと湯浅謙さん)の姿を撮ったものです。
先日ふと、こうしたことを語れる人がもはやほとんどいないということを考える機会がありました。そこで、やはりすでに亡くなられているこのお二人が自らの過去を思い出して語る姿はもっと広く見られてほしいという思いがわき、ここにアップしようと考えました。
いま見ると、内容的に不十分な部分が多々あって作り手としては気恥ずかしくもあるのですが、若いころに多くの人を残虐な方法で殺し「閻魔大王」と呼ばれたという永富さん、そして、生きたままの中国人を解剖したことを語る元軍医の湯浅謙さんが、戦後半世紀以上が経ってから自らの行いについて語る姿をこのような形で記録できてよかったと、改めて思ってます。永富さんが涙ながらに思いを語る部分は、何度見ても胸がいっぱいになります。
永富さんはこの映像を撮った2、3ヵ月後に亡くなられました。そのタイミングに何か意味を感じざるを得ない永富さんの言葉があったこともあり、当時ぼくは、永富さんへの追悼文を書く機会をいただきました。その追悼文も映像の下に載せました。それを読んでいただくと概要がわかるかと思います。その上で、よかったら映像も見ていただければ嬉しいです。
そして先ほど、この映像のアップ作業を始めた昨日11月4日がちょうど永富さんの命日であることに気づかされ、何かただならぬ思いを感じています。
追悼文:『季刊 中帰連』23号(2002年冬)に寄稿
映像:2002年制作(近藤雄生、吉田史恵)「東京ビデオフェスティバル2004」優秀作品賞受賞
(以下が追悼文です)
「永富さん、安らかに」 (近藤雄生、『季刊 中帰連』23号 2002年冬)
私は永富さんについてほとんど何も知らないといってもいいかもしれません。少なくとも永富さんにとって私は一介の若者以上のものではないはずです。そんな自分がここに永富さんの追悼文を書かせていただいて本当にいいものだろうかと、正直多少とまどいを覚えながらも、その機会をいただけたことを感謝しています。
私が永富さんのことを知ったのはほんの最近のことであり、お会いしたのも先の八月のある真夏日のたった数時間あまりでしかありません。永富さんの八六年に及ぶ人生の中に自分が多少なりとも直接的な関係を持つことが出来たのは、ドキュメンタリー映像を作るための取材でお会いした、そのほんのわずかな時間だけでした。しかしそれは、私にとってどれだけ長い時間に匹敵するか分からないほど貴重な出会いだったということを今、切に感じています。
そのころ私はもう一人の同年代の者とともに、生体解剖に関わった元軍医である湯浅謙さんの現在の活動を取材しており、そのときに湯浅さんから永富さんをご紹介いただきました。永富さんが近くの老人ホームにいらっしゃると聞いて、是非お会いしたいとお願いしました。「閻魔大王」と呼ばれていたほどの永富さんが今何を思いながら生活されているのか、私は聞いてみたいと思ったのです。
突然の訪問にもかかわらず快く私たちを迎え入れてくださった永富さんの、私たちへの最初の言葉は、「申し訳ありません、申し訳ありませんでした……」というものでした。背中を丸め、前かがみになりながら、しっかりと手を合わせて祈るようにそうおっしゃる姿を前に、私はなんと対応していいものか分からず、ただ沈黙し続けていたことを覚えています。
ただじっと聞いていることしかできない私たち若者に対して丁寧な言葉で接してくださるその姿からは、この人がそれほど残虐な行為を繰り返したなどということがどうしてもイメージできませんでした。しかし、そのギャップこそが現実だったのだと思います。永富さんの人生が半世紀以上前の話だけで説明されるものでは決してないという当然のことが、本人を目の前にして再確認できたような気がしたのです。特異な経験を経てきた人の人生は、その特異さだけで語られがちになりますが、もちろん実際にはその何倍もの、他の人と変わらぬ静かな日々が続いています。数々の残虐な行為と戦犯管理所での生活を経た後に、永富さんには四〇年ほどの時間がありました。私の会った永富さんはその全ての時間を内に抱えていたのです。それは、過去を見つめ、そして今自分が生きていることの意味を深く考える一人の老人の姿でした。
意識がない状態で同じ老人ホームに暮らしていらっしゃる奥様のことに話が及んだときに、永富さんのただならぬ思いはもっとも強く伝わってきました。
「生かされているというだけで…、ほんとうに幸せです…」
家内は「眼も見えない、口もきけない…、死んでるとおんなじ」です。しかし、生きている。その生きているという事実がいかに大きなことなのか…。「死んだらもうさわることもできない…」生きているからこそ、「毎日、いって、さわって、手を握って」やることができるんです…。「生きているということだけでも、ほんとうに幸せです…」
多くの人の命を自ら絶たせてしまった永富さんが、目を潤ませながらおっしゃったその言葉からは、他のどんな人にも表しえない重みと感慨が滲み出ていました。そのときの永富さんの涙は、奥様へと同じくらいに今生きている自分自身に、そして何よりも、彼が命を絶たせることになってしまった多くの人たちにへ注がれていたような気がします。
その涙は、いつしか取材を続ける私たちのもとへとつたってきました。
そしてその日から一ヶ月半ほどして、ドキュメンタリー映像は完成しました。
永富さんが亡くなられたのはその映像のテープを氏のおられた老人ホームに送ってから三週間ほどしてからのことです。テープが着いた頃にはすでに他の病院に入院されていたということを知らず、「永富さんはあれを見てどう思ったかな…」などとのどかに考えていた自分にとって、彼の死はあまりにも突然のことでした。
死の報告を受けたとき、永富さんのおっしゃっていたある言葉が頭をよぎりました。体が不自由になってはいるけど、特に病気もなく今を過ごしていることについて、
「私は死なせてもらえないのです。自分の罪をすべてこの世でぬぐいつくせるまで私はしぬことができないみたいなのです。…まだすべきことがたくさんある。そのためにこうして生かされているのではないかと思うんです…」
永富さんは「すべきこと」を終えることができたのだろうか…。それはしかし、私には分かるはずもありません。ただ、ちょうど偶然にも私たちがこの時期に映像を撮ることになったことが、もしかしたら死を迎える前の永富さんにとっての「すべきこと」に何らかの関係があったのか…そんな気がしないでもありません。私たちが作ったものが、少しでも永富さんが安らかに眠れず材料になればと願うばかりです。
(終)
☆ウェブ考える人のリレー書評「たいせつな本」に、科学の本10冊を紹介するエッセイを書きました。
https://kangaeruhito.jp/article/10264
紹介したのは、以下の10冊。
立花隆『宇宙からの帰還』
コペルニクス『天体の回転について』
ガリレオ『天文対話』
トーマス・クーン『科学革命の構造』
森田真生『数学する身体』
福岡伸一『できそこないの男たち』
チェリー・ガラード『世界最悪の旅』
スティーヴン・ホーキング『ホーキング、宇宙を語る』
幸村誠『プラネテス』(全4巻)
サイモン・シン『フェルマーの最終定理』
自分の次のテーマを探りつつ、再読したり新たに読んだり。宇宙、物理、数学、科学史などのノンフィクションに漫画も。どれかを手にとりたくなってもらえますように。
☆京都新聞夕刊連載「旅へのいざない」第6回は北朝鮮(10月3日掲載)。よくあんな無茶な方法で国境の橋を渡れたものだと、当時の無知、無謀さに我ながら驚く。しかしそれが若さが持つ力でもあるはずで、当時の自分が羨ましくもあります。
『月刊すこ~れ』2018年11月号掲載の連載第3回です。
Q シイタケが嫌い。でも、「好き嫌いしないで、食べなさい」って言われる。なぜ、嫌いなものも食べないといけないの?
A ぼくも子どもの頃、シイタケが嫌いでした。いまは美味しいって思うけれど、当時は、なんでこんなものを好んで食べる人がいるのだろうと不思議でした。でもやはり、親には「食べなさい」って言われたし、いま自分自身、子どもに対して、好き嫌いはよくないよと、当然のように言っている気がします。
でも、「どうして嫌いなものも食べないといけないの?」と問われると、じつは少し考えてしまいます。栄養が偏らないようにというのが、おそらく一番よく言われる理由でしょう。でも、よく考えると少し疑問も。もちろん、野菜を一切食べなかったり、嫌いなものがすごく多かったりすれば、栄養が偏って身体によくないと思いますが、たとえばシイタケだけを食べなくても、そんなに問題ではないのでは? 栄養という意味では、きっと他の食べ物で補えるし、何か一種か二種だけを食べなかったから病気になるということはおそらくないような気がします。そう考えると、嫌だなと思うものを無理に食べる必要は、ないのかもしれません。そのためにご飯が楽しく食べられなかったら、その方が問題のようにも思います。
ただその一方で思うのは、食事にはいつも、作ってくれた人がいるということ。お母さんやお父さん、おばあちゃんやお店の人。好き嫌いしないで食べられたら、そういう人たちが喜んでくれるということはきっとあります。特に、毎日のご飯を作ってくれる人、たとえばお母さんやお父さんは、家族が何でも食べてくれたらきっと嬉しい。ぼく自身、まさにそうです。逆に、自分が作った料理を子どもが、「これは嫌!」って言って残したら、悲しい気持ちになってしまいます。
でも、作った人のことを考える以上に、好き嫌いなく何でも食べられたら、きっといつも食事が楽しくなるし、毎日の喜びも増えるはずです。それが何よりも大切なようにも思います。そのことを知っているから、大人は子どもに、好き嫌いしないように、っていうのかもしれませんね。
Q 猫や犬を殺してはダメ。でもどうして牛や豚は食べてもいいの?
A 多くの日本人は、牛、豚や鶏を肉として食べることにおそらく抵抗はないでしょう。でも犬や猫を食べることは、普段はまずありません。ペットとして飼い、一緒に暮らす対象です。しかし韓国や中国では、犬を肉として食べることもあります。一方、インドに行けば、牛はとても大切にされていて、基本的には食べません。また、イスラム教の国では豚を食べないのですが、その理由は、大切にされているからではなく、汚い動物と考えられているからです。そしてオーストラリアでは、牛や豚などに加え、カンガルーもよく食べられます。とてもたくさんいるからです。
こうしてみると、人がどの動物を食べて、どの動物を食べないかは、その国や地域の風土、文化、宗教など、様々な要素と関係しているのがわかるでしょう。
つまり結局は人間側の都合であって、どの動物は食べてよくて、どの動物はダメ、ということにみなが納得する客観的な基準はありません。
ただ、確かなのは、生物は生きていくためには他の命を食べなければならないということ。人間も、他の生命を殺し、食べることがどうしても必要です。しかしそれは本当に重いことです。自分たちは他の生命によって活かされているのだということを、私たちは常に意識しておかなければならないと思います。
昔、アマゾンのある民族の話を読んだことがあります。その民族の人たちは、子どもが生まれると、一匹の子猿を飼い、子どもとともに育てるそうです。すると子どもと猿は、仲の良い親友として一緒に大きくなっていきます。しかしその子が、一定の年齢に達し、大人になる儀式を行う時に、その猿を殺してみなで食べなければならないのです。その子は当然、とても嘆き苦しみます。残酷なことに思えるかもしれません。しかし、他の生命を食べて生きていくというのはこういうことなのです。そのことをしっかりと知って生きていかなければならないのだ、というこれ以上ない教育法なのでしょう。
私たちはいま、食べることの重さを少し忘れすぎているのかもしれません。
アジアの旅をテーマとした月一の連載「旅へのいざない」の第2回が昨日掲載に。今回は東ティモール。5年間の旅の中でも最も心が揺さぶられた日々について。結局過去の旅をまた振り返っていることに気恥ずかしさもあるけれど、思い出すたびに新たな気持ちが浮かび、旅の日々は、自分の中で更新され続けるものだなと感じています。
昨日(5月9日)の第1回(今回だけGWの関係で第2木曜に)は導入として、色々なきっかけとなった大学時代のインドへの旅について。その時の写真で残っているのが自分が写ってる1枚しかなく、プロフィールもかねて今回は19年前のその写真を使うことに^^;。もう大学卒業が19年前とは。。
『月刊すこ~れ』2019年5月号掲載の連載第9回です。
Q ニュースを見ると、世界ではいつもどこかで戦争が起きているし、日本もいつも近くの国といがみ合ったりしているように見えます。国と国って仲良くはなれないの?
A 大学時代に受けた政治や国際問題に関する講義の中で、先生が次のようなことを言っていたのが強く印象に残っています。
「国と国の関係も、基本的には一対一の人間の関係と同じです。喧嘩もするし、仲良くもなる。ただ、関係をつくる上で考えなければならない要素が、人と人の場合より多くて、複雑なだけ」だと。
国と国の関係も、人と人の関係も、基本は同じ。どちらにしても、気が合うか合わないか、感覚的に好きか嫌いかということが関わってきます。ただし、国と国の関係の場合、ものすごく多くの人の生活、そして政治、経済、歴史など、様々な要素が関係してくるために、お互いに意気投合できる部分と、いや、そこは認められないと対立する部分が必ず出てきます。そうした中で、何か問題が発生したり、うまくいかないことがあったりした場合に、ニュースとして伝えられることが多いので、テレビなどを見ていると、いつも関係が良くないように見えるのかもしれません。
そして、関係がうまくいかない点ばかりを目にしていると、そのうち本当に相手に対していい感情を持てなくなることも考えられます。その結果、お互いに相手を嫌いになり、対立が増して、ついには戦争へと発展してしまうことも……。
嫌だなと思う友だちでも、ふとその人のいい部分を目にすることで、あ、やっぱりいいやつかもしれない、もうちょっと話してみようかな、と思い直したことがある人はいるのではないでしょうか。国と国の関係もきっと同じはず。
特に文化や常識が異なる相手については、誰でも誤解したり、警戒したり、違和感を持ったりしがちです。だからこそ、国同士の関係においては意識して相手のいい部分を探して、そこに目を向けることが大切だと思います。
私たち一人ひとりの感情が積もり積もって国と国との関係につながっていきます。ニュースなどを見るときに、ふとここに書いたこと思い出してもらえたら嬉しいです。
Q テレビや新聞で見たことをうのみにしてはいけないよ、って先生に言われた。テレビや新聞は本当のことを伝えているわけではないの?
A テレビや新聞のように、様々な情報を伝えてくれるものを「メディア」といいます。普段私たちは、メディアのニュースや情報を通じて、世の中で起こっていることを知ります。最近では、インターネットの発達によって、ありとあらゆる意見や情報を簡単に知ることができるようになりましたが、そうした中で、テレビや新聞といったメディアは、情報を伝えることを職業とする人たちが、時間やお金をかけて調べ、内容を吟味したうえで発信する情報であるという点で、信頼性が高いといえます。
でも、だからといって、それらのメディアが伝える情報がいつも正しいのかといえば、必ずしもそうではありません。それは、テレビや新聞がウソを伝えているというわけではなく、メディアとはそういうものだということです。
たとえば、同じ日に出た複数の新聞を見比べてみると、一面に載っているニュースは新聞ごとに違います。それは、新聞社によって、どのニュースが大事かという判断が異なるからです。つまり、新聞は決して客観的なわけではなく、作り手の意図や価値判断が含まれているということです。ある新聞では大事なニュースだと判断されて大きな記事になっている出来事が、別の新聞では、自分たちの考えに合わないから目立たない小さな記事にしよう、といったことが当然あります。また、賛否両論ある政治家の発言について街の人の声をテレビで紹介する場合、賛成意見を紹介したあとに反対意見を紹介するのか、その逆にするのかで、見ている人の印象は大きく変わります。一般に人は、後に紹介した意見の方を正しく感じる傾向があり(伝え方にもよりますが)、そのような性質を利用して、メディアは自分たちの考え方に合った方法で伝えようとします。
すなわち、どんなメディアも、作り手の考え方が反映されたものになります。うのみにしてはいけないというのは、そういうことでしょう。これは、メディアに悪意があるということではなく、情報とは必ずそういうものだということです。そのことを知っておくと、ニュースなどをより深く理解することができるはずです。
『月刊すこ~れ』2019年4月号掲載の連載第8回です。
Q 中学生になって以来、「もう子どもじゃないんだから」と言われたり「まだ子どもなんだから」と言われたり。大人の都合で使い分けられているような……。いったい自分は子ども?大人?
A 中学生になると電車などが大人料金になるせいか、ぼくも中学に入った時、自分も大人の仲間入りだと思った記憶があります。でも振り返ると、中学生はやはり子どもの側だろうと思うし、ほとんどの大人は同じように考えている気がします。おそらくそう思いながらも「もう子どもじゃないんだから」と言ったりする。それは中学生のみんなが、自分は大人になりつつあるんだという自覚を持てるように後押しする意味と、あとはまさに、都合よく使い分けているのでしょう(笑)。
それはさておき、人はいったいいつ、子どもから大人に変わるのでしょうか。大人と子どもの違いは何なのでしょうか。
成人となる二十歳を境目だとするのが最も客観的と言えるかもしれません。また、働き出したら大人、自分で生活を営むようになったら大人、という意見もあるでしょう。つまり人によっていろんな捉え方があるように思います。
そうした中で、ぼくにとってもまた、自分なりに考える大人と子どもの境目があります。それは、自分がいつか死ぬ、ということをはっきりと意識できるかどうか、であると考えています。ぼくは二十九歳でちょっとした手術をする機会があり、その際、自分ががんになるかもしれない可能性を意識することになりました。そしてそのとき初めて、自分もいずれ死ぬんだという実感を得ました。それはショッキングな気づきでしたが、しかし同時に、そう実感できて以来、毎日がとても貴重に思えるようになって、生きていく上での心構えが変化したように感じています。
言い換えるとそれは、人生もう後戻りはできないんだと自覚することなのだと思います。年齢には関係なく、その気持ちを持ったときに人は、行動や考え方に変化が生じ、子どもだった時代を終えるのではないかという気がしています。それが具体的にどんな変化なのかは人によって異なると思いますが、戻れないという事実を受け入れ、向き合うようになったときに人は大人なるのかな、と。でも、そうすると、大人になるのはまだだいぶ先になりそうかな?
Q 私は自分自身の中に、どうしても受け入れられない嫌いな部分があります。どうして自分だけこんななんだろう、って思ってしまう。どうしたらいいでしょう。
A 自分自身について受け入れられない嫌いな部分というのは、いわゆる「コンプレックス」と呼ばれるものだろうと思います。能力や容姿、性格などについて、自分が望むような状態ではなく、できることなら変えたい、直したい、と思う点。それが具体的に何なのかはわかりませんが、きっと、あなたにとって大きな問題なのだろうと想像しています。
だとすればおそらく、誰かに、大丈夫だよ、気にすることないよ、などと言われても解決することではないかもしれません。むしろ、簡単にわかったようなことを言ってほしくないという気持ちになるかもしれません。それゆえぼくは、あなたがそれを乗り越えたり受け入れたりするのを願うことしかできないようにも思います。ただ、もしかすると参考になるかもしれない自分の経験を一つ書いてみます。
ぼくは、高校時代から吃音、つまり、話すときにどもることで悩むようになりました。うまく話せなくて意思疎通ができなくなることがあったり、どもる姿を見られたらどうしようといつも考えてしまったり、とても大きなコンプレックスでした。自分にとってその悩みは深刻で、なんとか克服できないかといろいろ試みましたが、叶わず、結局ぼくはそれをきっかけに就職するのを断念しました。そして、考えた結果、旅をしながらフリーでライターとしてやっていけないかと、大学院を修了後に日本を離れて文章を書き始めたのでした。つまり、ぼくが文筆業で生計を立てるようになった発端は、自分のコンプレックスだったのです。そしていまは、そのような選択をしてよかったと思っています。
一概には言えないけれど、コンプレックスをなんとかしたいと悩む気持ちは、自分の人生を動かす原動力にもなりうるように思います。嫌だという気持ちに素直になって、では、どうすれば自分は生きやすいのかを考えると、あなたならではの生き方が見えてくるかもしれません。
ちなみにぼくの吃音は、旅の途中でなぜか突然消えていきました。その理由はわかりません。
『月刊すこ~れ』2019年3月号掲載の連載第7回です。
Q 宇宙人って、いるのかな?
A 「UFO(ユーフォー)が飛んでた!」「宇宙人が実は地球に来たらしい!」という話は、昔からよくありました。子どものころ、ぼんやりした円盤のようなものが空に浮かんで見える写真が出回って、これは本物のUFOだ、いや、偽物に決まってる、などと友達同士で話したことを覚えています。
大抵の場合、というか、おそらくこれまでにあったそのような話の全てが、間違いやただの作り話だったはずですが、だからと言って、宇宙人はいない、とはっきりしているわけではありません。むしろ宇宙人はいるに違いないと考える科学者は多く、今も、日本を含めた世界各地で、大きな電波望遠鏡などを宇宙に向け、〝宇宙人〟すなわち「地球外知的生命体」から何かメッセージが来ないかと探る試みが行なわれています。
「いるはず」と信じられているのはなぜかと言えば、宇宙には数えきれないほどたくさんの星があり、そのすべての中で、生命が生まれたのがこの地球だけだとは考えにくいからです。 そして138億年前から広がり続けているこの宇宙のどこかに、地球のような発展を遂げた星があるとしても全く不思議ではないのです。
ただその一方、そうであればその中に、地球よりももっと発展している星があって、その星から何かメッセージが送られてきたりしてもよさそうなのに、実際にはこれまでそのようなものが届いた様子はありません。そのため、生き物がいる星があったとしても、様々な理由から、地球にメッセージを送ってこられるような高度な技術や知性を持つ、いわゆる〝宇宙人〟はいないのではないか、という意見もあります。
いったいどっちなのでしょう。ぼくは、いると思っています。きっとあと数十年もしないうちに、宇宙人との交信が行われる日が来るような気がします。
でも大切なのは、わからないことに対して、こうに決まっていると決めつけないこと。わからないということは、いろいろな可能性があるということ。そう思って、自分で調べたり考えたりしてみると、世界は大きく広がっていくはずです。
Q 「暴力は絶対ダメ」っていつも言われるのに、テレビに出てくる正義のヒーローは敵を蹴ったり殴ったりしてやっつけて、褒められる。あれはいいの?
A 戦隊モノなどのテレビ番組では、主人公であるヒーローは大体、力で〝敵〟を倒します。〝敵〟となる相手は何かしら悪さをしたことで、ヒーローにコテンパンにやっつけられる。言ってみれば、暴力です。でもヒーローは、誰にも「暴力はダメだよ!」などと言われないどころか、感謝されたり喜ばれたりしています。いったいどうしてなのでしょうか。
正義のヒーローにはひとまず、力で相手をやっつけねばならない理由があります。地球を守るため、または弱い人を守るため。でも、そうであれば、「悪者」の方にも、彼らなりに悪さをしなければならない理由があるのかもしれません。いやそれどころか、彼らからすれば自分たちの方が正しくて、私たちが正義のヒーローと思っている主人公の方が悪者なのかもしれません。
つまり、正義のヒーローだから暴力はOKとすれば、きっとどちらも、正義のヒーローは自分だと考えているので、どちらも暴力を振るっていいということになる。そしてそれこそが、国と国の間に起きる戦争なのです。お互いに、自分たちが正しくて相手が悪いと考えて、力で相手を倒そうとする。その結果、暴力がより激しくなり、多くの人を死なせたり、不幸にしたりしてしまうのです。
すなわち、正義のヒーローでも暴力はダメなはず。それでも、ヒーローは、暴力を振るうことでヒーローになります。それは、私たちみなのどこかに、自分が正しいと思うことに限っては、〝悪〟をやっつけるためならば時に暴力を使うことも仕方がない、という気持ちがあるからなのではと思います。
うん、ダメって言いながら、おかしいですよね。ぼく自身もそう思います。でもやはりすっきりとは言い切れない……。もしかしたら戦隊モノなどの番組は、正義のヒーローは暴力を振るってもいい、といっているわけではなく、そのような矛盾に気づいてもらうための教材のようなものなのかもしれませんね。
『月刊すこ~れ』2019年2月号掲載の連載第6回です。
Q かけっこで友だちに勝って、嬉しくてすごく喜んだら、それからその友だちがあまり話してくれなくなった。喜んではいけなかったのかな……。
A 勝負ごとで勝ったら嬉しいのは、程度の違いはあっても、きっとみな同じだと思います。特にそれが一生懸命に練習した結果であったり、これまではどうしても勝てなかったのに勝てた、ということであれば一段と嬉しいはず。そういった場合に喜ぶことはおかしなことではないし、悪いことでもありません。ただ、勝負にはいつも相手がいます。つまり、勝った人がいるときには負けた人がいる。そしてその人もまた、勝負のあとにいろんな気持ちを抱えているはずです。
勝負ごとで大切なのは勝ち負けの結果だけではありません。勝負のあと、勝負を離れて相手の気持ちに立つことも同じくらい大事です。ラグビーでは、試合終了のことを「ノーサイド」と言いますが、これは試合が終わったら敵と味方(=サイド)はなくなり(=ノー)、みな仲間に戻るということです。そして、一緒に大切な勝負を戦った仲間として、互いに相手に敬意を払い、称え合う。
二〇一八年の平昌オリンピックのスピードスケート女子五〇〇メートルで金メダルを獲得した小平奈緒さんが、勝利の後に、二位になって涙するライバルに寄り添った場面を覚えている人は多いかもしれません。二人の姿が美しく心を打つものであったのは、全力で戦い合った二人が、それゆえにお互いを大切にし、敬意を抱き合っていることが感じられたからだと思います。そしてきっと二人はお互いに、健闘を称え合えたはずです。
あなたが勝って喜んだら友だちが話してくれなくなったとすると、友だちは、あなたの喜ぶ姿を見て、そのような気持ちにはなれなかったということなのかもしれません。それは必ずしもあなたのせいではないかもしれないけれど、誰でも嬉しいときはつい相手のことを忘れてしまいがちです。なので、そういう時こそ特に、意識して相手の気持ちを想像しようと心がけるとよいかもしれません。その気持ちは自然と振る舞いにも表れて、相手にも伝わるだろうと思います。
Q テニスの大切な試合で負けてしまい、大きな大会に進める貴重なチャンスを逃しました。取り返しのつかない失敗をしてしまったのではないかと、いまとても落ち込んでいます。
A 試合に負けてしまったのは、本当に残念でした。それだけ落ち込むということは、きっととても頑張って練習してきたのだと思います。しばらくは辛い気持ちが続くかもしれないけれど、うん、それはもう仕方ないのかもしれません。でも、きっとその経験は将来、とても貴重なものになるはずです。
ぼく自身の経験を言えば、試合ではないけれど、高校三年で大学入試を受けたとき、志望の大学に合格できなくてとても落ち込んだことがあります。自分なりにがんばって勉強していたこともあって、合格発表の掲示板に名前がなかったときは、本当に絶望的な気持ちになりました。これからもう一年間、予備校に通って勉強して来年また受験しなければならず、しかも来年も受かる保証がないことを思うと、やりきれない気持ちでした。
しかし、時間とともにその気持ちも収まり、実際に予備校に通う生活が始まると、それはそれで楽しい一年間を過ごすことができました。そして翌年は無事合格でき、終わってみると、すごく貴重な経験ができたような気がしました。
その思いは、その後、年齢を増すごとに強くなっています。大きな失敗して辛い気持ちになることは、生きていく上で本当に重要な経験だからです。
失敗して見えてくることは、成功して見えてくることよりもずっと大切なように思います。自分が苦しい気持ちを実際に体験することで、他の人の辛い気持ちを想像できるようになり、それはその人の優しさや思いやりにつながっていきます。一方、失敗そのものについては、これからきっと何らかの形で挽回できるチャンスがくるはずです。
……と、大人が過去の失敗について語る言葉を聞いても、きっといまの辛い気持ちはなくならないと思います。いまはそれに向き合うしかないのかもしれません。でも、その辛さこそが、きっとあなたの人生をより豊かにするはずだということは、頭のどこかに入れておいてください。なんとかいまを、乗り越えられますよう。
『月刊すこ~れ』2019年1月号掲載の連載第5回です。
Q ぼくは虫が嫌いです。そう話すとよく、「え、男の子なのに……」って言われます。どうして?
A カブトムシやカマキリやセミを捕まえて遊ぶのはぼくも小さいとき、友だちと一緒によくやりました。虫かごに入れたり、水槽に土を敷き詰めて幼虫を飼ったり、カブトムシとクワガタを無理やり戦わせてみたり……。思い出すと、そのように遊んでいたのはいつも男の子ばかりだったような記憶があります。そして確かにぼくも、男の子は虫が好き、その一方、女の子はあまり虫が好きではない、というイメージを持っているように思います。
でもその記憶やイメージは、いつしかぼくが持つようになった思い込みの結果なのかもしれません。ぼくの妻も子どもの時は虫で遊んだ経験があり、「虫は男の子、という印象はないよ」と彼女が言うのを聞くと、そうなのかも、とも思いました。全くの記憶違いなのかもしれません。
しかし、もし実際に虫好きに圧倒的に男の子が多かったとしても、そのことと、一人ひとりが何を好むかは全く別の話です。男の子で虫が嫌いでももちろんいいし、女の子が虫が大好きでも、何もおかしいことはありません。
にもかかわらず、そのようなイメージが一人ひとりにも当てはめられて、男の子なんだから虫が好きで当然で、女の子なんだからこの子もきっと虫が苦手なはず、というように語られることは多いなとぼくもよく感じます。そして虫だけでなくいろんなことが、いつの間にか当たり前のように、男はこう、女はこう、とイメージで語られる。その積み重ねが、いまの日本社会全体に映し出されているような気がします。
大人の人などに「え、男の子なのに……」と言われたら、なんといえばいいのかわからないよね、きっと。でも、それに対して、「どうしてそんなことを言うんだろう」と思う気持ちは大切です。その気持ちを持ち続けることがきっと、未来の社会がいま以上に誰にとっても生きやすいものになることにつながるように思います。
Q 注射を打ちに行く前に、お母さんは「絶対に痛くないから」って言ったのに、痛かった。ウソをついてはだめっていつも言われているのに……。
A よくないと思うことをしてしまった時や、怒られそうな失敗をしてしまった時、ああ、本当のことは言いたくないな、隠しておきたいなと思うことはきっと誰でもあるでしょう。でも、そんなときにウソをつくと、たとえその場ではうまくごまかせたように感じても、後からもっと大変なことになる場合がよくあります。ウソがばれそうになって、それを隠すためにまた別のウソをつき……、とどんどんウソが膨らんでいったりするからです。
そんな経験を何度もしてきたせいなのか、年をとるほどにやっぱりウソはよくないなあ思うようになりました。仕事においても、他の人との関係においても、たとえ言いづらいことがあったとしても、ウソをつかずに本当のことを伝えるのが問題解決のためには一番いいんだなってよく思います。
でもその一方、矛盾するようではあるけれど、長く生きていくほどに、世の中にはウソがよい働きをするような場面ってあるんだなあとも感じます。自分の失敗を隠すためだけのようなウソでなく、また、もしウソだとわかっても相手を傷つけるようなものでもなく、本当のことを言う以上に相手を優しく包み込むようなウソ……。そのようなウソがきっとあり、それであれば、悪いばかりではないように思います。
「絶対に痛くないから」というお母さんの言葉は、そのような類に当たるのかな、と思います。お母さんの言葉によってあまり心配することなく注射の時を迎えられて、実際に痛くてウソだったとわかった時にはもう終わっていて気持ちもすっきり、笑っていられる……。とすれば、こういうウソは、ぼくはいいのかなと。
でも、実際にいいか悪いかを判断するのは、ウソを言われたあなた自身。お母さんが良かれと思って言ったとしても、あなたが嫌だったのであれば、やっぱり本当のことを言うべきだったのかもしれません。うん、ウソってやっぱり難しい。