とても残念なことながら、『吃音 伝えられないもどかしさ』の文庫版が――

自分としてかなりショックなことながら、『吃音 伝えられないもどかしさ』の文庫版が「品切れ重版未定」となってしまいました。事実上の絶版のような形です。

まだ3年も経っていないので、いまそんなことになるとは全く想像していなく、知った時には愕然としました。また、正直拙著の中でも、『吃音』に限ってはまさかそういうことはないだろうと思っていたのですが、皮肉なことに、自分の著書の中でこの本だけがそのような事態に陥ってしまいました。無念です。

さすがにもう少し粘ってほしかったし、他の方法はなかったものかとも思ってしまいますが、思うように売れてなかったということであり、商業出版であれば仕方なく、現実を受け入れるしかないのだろうとも思います。

数日間だいぶ沈みましたが、単行本の方はまだ生きています。今後は、これを生き延びさせるべく尽力しなければと、いまできることを考えています。

そんな状況のため、『吃音』の文庫版は、今後あらたに書店に補充されることはありません。

単行本も、決して安穏と構えていられる状態でもないようです。もし、本書にご興味を思ってくださる方がいたら、よろしければ単行本の購入を検討いただければ幸いです。

…と、なりふり構わない感じになって恐縮ですが、この本は、まだまだ果たすべき役割があるように思っています。興味ありそうな方などいらっしゃいましたら、紹介していただけたりしたら嬉しいです。

『吃音 伝えられないもどかしさ』(新潮社)、今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

重松清さんによる本当にありがたい書評も、改めてこちらに。よろしければ…!

<頁をめくるごとに、つらかった記憶や悔しかった記憶、言葉がうまく出ないもどかしさに地団駄を踏んだ記憶がよみがえって、何度も泣いた。いい歳をして子どものように――子どもの頃の自分のために、涙をぽろぽろ流した。>

https://www.bookbang.jp/review/article/563177

読売新聞夕刊の書評欄「ひらづみ!」の担当最終回『ナチスは「良いこと」もしたのか?』

読売新聞夕刊の書評欄「ひらづみ!」に先週、『ナチスは「良いこと」もしたのか?』(小野寺拓也、田野大輔著(岩波ブックレット))を紹介しました。記事がオンラインでも読めるようになりました。

良い本かつ重要な本だと思うので、ご興味ありましたらぜひ本書を手に取って読んでみてください。

https://www.yomiuri.co.jp/.../columns/20231204-OYT8T50037/

自分は2021年春から3年近く、この欄のノンフィクション本を担当してきましたが、今回で最後となりました。

最近になってようやくオンラインでも読めるようになったところということもあり残念ですが、長くやらせていただき、ありがたい仕事でした。「ひらづみ!」という名の通り、売れてる本から毎回自分で1冊選び、概ね隔月で17回書きました(全部載せ切れてないですが、14回目までは こちらから、紙面の画像で読めます。 読売新聞月曜夕刊 本よみうり堂 の「ひらづみ!」欄の書評コラム )。

ところで、自分は子どものころは本に全く興味が持てず、ほとんど本を読まないまま10代を終えてしまいました。

大学時代までにちゃんと読んだ本は通算10冊あるかないかというレベル。読書感想文は、一度読んだ漱石の『こころ』で中高で何度も書き、高校の時は『火垂るの墓』をアニメを見るだけで本の感想文を仕上げました。

国語は苦手で、高校入試直前の模試では、国語だけ極端に成績が悪く、確か、625人中598番で偏差値34でした(直前にかなり衝撃的な順位だったのでよく覚えています)。第一志望の高校では本番の国語で、幸運にも、古文の文章が読んだことあるもので「うおおお、助かった!」と感激したことを覚えています(それで合格できたのかも)。

大学に合格した時、真っ先に思ったことの一つが、「これでもう本とか一切読まなくていいんだ、数学や物理だけをやっていこう」ということでした。

というくらい、活字を読むのが苦手かつ縁遠かったので、いまでも本を読むのがとても遅く、我ながら残念な限りです。

そんな状態から大学時代にライターを志すようになったのにはいろいろ紆余曲折があったのですが、いずれにしても、そんなだったので、この欄の担当メンバーの一人として、定期的に書評を書く機会をいただけたことは、自分にとってもとても貴重な経験でした。

さすがに文筆業を20年以上やってきたので、いまでは、読むのが遅くとももちろんそれなりに読みますし、本っていいなあとことあるごとに感じています。ただ、本を読むことが自分にとって自然な営みにになってきたのはここ数年の気がします。

書評を書く機会は今後も他紙誌で少なからずありそうなので、また見つけたら読んでいただければ嬉しいです。

『ナチスは「良いこと」もしたのか?』書評の記事誌面↓

『遊牧夫婦 はじまりの日々』<6 Uさんの死>

毎日、TBSラジオ<朗読・斎藤工 深夜特急 オン・ザ・ロード>を聞き、深夜特急の旅を一緒にしている気分になっています。もうトルコまで来てしまった。そして聞いてる途中で本当によく、自分自身が旅をしていたころのことを思い出します。

昨日は聞きながら、自分は旅をしてなかったらどんな人生を送っていたかを想像し、その一方で、旅をするきっかけをくれた大切な友人について思い出したりしていました。

ふと懐かしくなって、『遊牧夫婦』の中でその友人の死について書いた章を読み返し、そしたら、いろんな人に友人のことを知ってもらいたくなり、その章「6 Uさんの死」をアップすることにしました。彼の死から今年で20年。自分の年齢は当時の彼と離れていくばかりだけれど、その一方で、最近、死がいろんな意味で身近になってきたゆえに、彼との距離が近づいているような気もします。

本を読んで下さった方からもっとも言及されることの多かった章の一つでもあります。よかったら是非読んでみてください。

6 Uさんの死

「八月五日に兄が亡くなりました。とても静かな顔で、まるで、眠っているようでした」

高校時代の友人からそんなメールが届いたのは、まだバンバリーでの生活を始めて間もない二〇〇三年八月十一日のことだった。

「兄」といっても、「友人の兄」としてちょっと知っているという程度の関係ではない。「兄」もまた、ぼくと同じ高校で、二つ年上のバスケ部の先輩としてぼくは彼と知り合った。そしてその後、大学で同期になったことによって、ぼくは「兄」と仲のよい友人として付き合うようになった。その彼が、日本で命を絶ったというのだった。

何の前触れもない突然の知らせで、メールを読んでぼくはとても動揺した。ワンダーインのコンピュータスペースで、驚きのあまりしばらく呆然とした。

彼は、親しい友人という以上に、明らかに自分が大学時代にもっとも影響を受けた人の一人だった。なんといっても、ぼくが何年にもわたって海外で生活しようと思ったきっかけを与えてくれたのが、まぎれもなく彼だったのだ。

その彼が、この世を去った。そのことがすんなりとは納得できないまま、ぼくは自分が知っている彼のいろんな姿をコンピュータの前で思い出していた。先輩・後輩から始まった関係で、ずっとぼくは彼を「○○さん」と呼んでいたので、以下、Uさんとする。

Uさんは、高校時代からおしゃれで都会的で大人びた雰囲気を持った、とにかくかっこいい先輩だった。そのころは部活の一先輩後輩という程度の付き合いだったが、その時代から数年がたったある日、思わぬところでぼくは彼と再会することになった。

それは、Uさんが高校を卒業してから二年以上がたっていたときのことで、ぼくはその何カ月か前――ちょうど阪神・淡路大震災が起きた直後で、地下鉄サリン事件が起きる直前の二月――に大学受験に失敗し、浪人界へ暗く静かなデビューを果たしたばかりのころである。ぼくが通っていた駿台予備校がある東京・御茶ノ水の本屋「丸善」で、ばったりと出会ったのだ。

「おお、コンドー!」

ちょっといたずら好きそうで、でもいつもながらの凛々しい笑顔と軽快な口調の彼に、ぼくは呼び止められた。黒く焼けた肌を、いますぐにでもインドに行ってしまいそうなシンプルな衣服に包んだUさんがそこにいた。彼がすでに、ある私立大学に入学していたことを知っていたぼくは、こんな浪人たちの巣窟で参考書を片手に持った彼と会うことが意外だった。あれ、どうして……? と聞くと、

「おれ、大学やめたんだよ。カンボジアに行ってアンコールワットを見てさ、すげえ衝撃を受けて、どうしても建築をやりたくなって。帰国してからすぐに大学やめてさ、いまは建築学科に入り直そうと思って、もう一度予備校に通い出したんだ」

そう言って彼は、どんよりとした浪人時代を過ごしていた自分とは全く異なる明るいエネルギーをみなぎらせながら、参考書を選んでいた。ぼくは当時、大学で物理学を真剣にやりたいと思っていたバリバリの理系男子で、旅をしたいと思ったことなど一度もなかった。だから、「カンボジアでアンコールワットを見て感動して大学をやめる」という流れ自体が、よく理解できずにいた。

しかし、とにかくかっこいい遊び人で夜の東京を駆け回っているような印象のUさんが、自分には未知の外国で本当にやりたいことに気が付いて、大きな一歩を踏み出そうとしているらしいことは、新鮮な刺激となった。

それからたまに予備校で会ったりしながら、ともに一年の浪人生活を終えた春、ぼくらは同じ大学に入学することになった。Uさんは、受験当日に会場で会ったときは、「おれは記念受験だよ」などと笑っていたが、ふたを開けてみればしっかりと合格を手にしていた。ぼくが本格的に彼とつるみ出したのは、それからのことである。

類は友を呼ぶのか、浪人は浪人を呼び、大学時代のぼくの友だちには一浪した同い年の人間が多かった。その中に、年齢的にはぼくらの二つ上をいくUさんもいた。

彼はただ年上であるという以上に、カリスマ的なかっこよさと陽気なキャラ、そして、豊富な遊びと旅の体験に裏打ちされた確固たる豪快さと幅の広さがあった。都会らしいスマートさを漂わせつつも、アジア、アフリカ、南米などを数カ月から半年の単位で旅し続けている経験をもとに、とにかく旅が面白くすばらしいものであることを、色白でもやしっ子なぼくらに全身で教えてくれた。

エチオピアからだったか、ぼくらに手紙をくれ、彼の興奮を短く伝えてくれたこともあった。また、外国にいても「ホットメール」を使えばメールを送受信できるんだよ、と教えてくれて、当時まだ、大学に行かないとメールが出せず、家で手書きのファックスを夜な夜なオーストラリアに送ったりしていた自分は、へえ、そうなのか、すごいなあ、とびっくりしたことを覚えている。

またUさんは、大学の授業にも手馴れたメリハリをよく効かせた。単位を落としそうな科目については、「試験が悪かったら、あとは政治力だよ。×○先生には菓子折りだ、がはははー」などと言って、オトナのやり方があることを見せてくれたりもするのであった。

一般教養の授業では、相対性理論だったか量子力学だったか、難しい物理学の授業を一緒に受講し、ぼくは自分が物理学を志す身なのにほとんど理解できないことをまずいなあと思っていると、Uさんは頭のよさそうな本を手に、なんとなくそれらしいことを言っている。よく聞くと、やはり彼もわかっていないのだが、それっぽい本を携えることによって、ちゃんと物理学をファッションへと昇華させる術を心得ていて、Uさん、やっぱりさすがだなあ、と笑わせてくれたりするのである。

そして一九九七年十二月、すなわち大学二年の冬、ぼくが「ストーカー」時代を成功裡に終えて、今度は楽しく前向きな旅行のためにその年最後のオーストラリアへと向かうときには、Uさんが他の友人とともに、車でぼくを成田空港まで送ってくれた。

車内にはジミヘンの曲が流れ、軽快な走りでレインボーブリッジを渡って空港に向かった。ぼくも、その数カ月前の悲愴感溢れる旅立ちとは違い、今度ばかりは楽しいオーストラリア滞在になりそうで気持ちはとても軽かった。

空港が近づいてくるとUさんは、助手席に座るぼくに言った。

「パスポート、出しとけよ」

するとその直後、空港のパーキングの入り口で係員がUさんに、「免許証を――」と言うか言わぬかのところで、Uさんはすかさずぼくのパスポートを差し出した。すると係員は、パスポートを見て、「はい、いいですよ」と通してくれた。通り過ぎると、Uさんがニヤリと笑った。

「おれ今日、免許証忘れちゃってよ。ここ、ヤバイなって思ってたんだけど、お前らに言うときっと動揺すると思って、言わなかったんだよ」

さすがUさん、とぼくは思った。たしかに、Uさんが免許証を持っていなくて空港に入れないかもしれないことを知っていたら、この係員の前でぼくは若干不自然な挙動をとっていたかもしれなかった。けれどUさんが機転を利かせてくれたおかげでそうはならず、ぼくはすんなりとこの年四度目のオーストラリアへと飛ぶことができたのだった。

いつもそんな感じで、Uさんはぼくらにはない余裕と貫禄を見せてくれた。旅で培ったワイルドさと都会的で洗練された華やかさがいい具合に調和されて染みついている人で、とにかく別格の魅力があったのだ。そんなUさんの存在はぼくらの仲間内ではとても大きく、おそらく彼がいたからこそ、長期の旅をする友人が増えていった。

ぼくが学部卒業前にアジアを旅しようと思ったのも、やはりUさんの影響が大きかった。行き先がインドになったのも、Uさんに、「どこか一カ所っていうなら、インドかな。やっぱりインドは違うよ」と言われたことが決め手となった。そのインドでの体験によってぼくは旅の魅力に激しく惹かれ、この長期の旅について考えるようになったのだ。

「旅をして生き続けることができたら、めちゃくちゃ幸せなんだけどな。でも、そうはいかねえよなあ」

牧歌的な学生時代の終わりが近づき、自分の生き方を各自が真剣に考えなければならない時期がやってくると、Uさんはそんなことをよく言った。どうやってこの社会の中で生きていくべきなのか、何が自分にとって一番いい選択なのか。そう考えるとき、Uさんの中にはいつも旅のことがあったのだと思う。彼は本当に旅が好きだったのだ。

彼の言葉を聞きながら、そんなことができたらいいよなあ、とぼくも漠然とは思ったものの、実践しようとは考えてもいなかった。だがそのときすでに、Uさんと日々接する中で、旅がいかに魅力的なもので、かつ人をたくましく育てるものなのかを、肌で感じていたことは確かだった。Uさん自身の魅力が、そのままぼくらにとっては旅の魅力と映っていたともいえるのだ。

しかし、皮肉なことに、そんなUさんを少しずつ別の方向に変えていったのもまた旅だった。いつだったか、Uさんはたしか半年ほど南米に行ったが、帰ってくると明らかに様子が変わっていたのだ。

最初はただ、旅の疲れか何かで体調が悪いだけかと思っていたが、言動がはっきりとそれまでとは違ったものになっていることにぼくらは気づいた。どうしたのだろうと、何度か尋ねたことはあったけれど、ペルーあたりでなにやら凄まじい経験をしたと言うだけで、彼は決してそれ以上詳しく話そうとはしなかった。少なくともぼくにはそうだった。

ただ明らかだったのは、Uさんが激しく厭世的になっているらしいことであった。

もともとUさんは、いまの世の中に対して旺盛な批判精神を持っている人だった。それはおそらく、簡単にいえば、旅をして世界を見て回る中で培っていったものの一つなのだろう。

その思いは、たとえばコンビニは利用しないなど、物質的で記号化した現代社会を象徴するものを避けるような形で、彼の行動の随所に表れていた。ただ以前は、そんなUさんの独特なポリシーは、常にUさん一流の明るいポップさを伴っていて、ぼくたちも「おお、Uさん、アツいなあ、こだわるなあ」、などといって笑って見ていられる陽気さとコミカルさがあった。

しかし南米への旅のあとに様子が変化してからは、その一つひとつが普通ではないシリアスさとストイックさで実践されるようになり、そこまでやらなくても、とぼくらが思うぐらいのものになっていった。彼はそれまでとは全く違うレベルで、いまの社会に対して違和感を覚えているようだった。すべてが薄っぺらく見えるいまの社会をなんとか変えないといけない、自分はこんないい加減な生き方をするわけにはいかないんだと、何かに追われ、思いつめているようにぼくには見えた。

そんなUさんが心の底に抱えている思いは、極めて真っ当で、ぼくたちにも激しく訴えるものがあった。とはいっても、誰もがあらゆることになんらかの形で妥協しながら生きていかざるをえなかったし、Uさんほどその信念をストイックに貫き、行動に移すことはぼくたちにはできなかった。

だんだんと会話がかみ合わなくなった。そしてときに非常に緊迫した言葉を発するようにもなっていった末に、すっかり大学にも姿を見せなくなってしまったのだ。

最後にUさんと話したのは、二〇〇〇年にぼくが大学院に入ったのちフィリピンに行こうとしていたときのことだったと思う。フィリピンについて何か教えてくれようとしたのか、突然電話をくれたときだった。詳細は思い出せないが、そのとき久しぶりに話したUさんは、やはり少し張り詰めた様子でぼくに何かを伝えようとしてくれていた。

その同じ年のことだったはずだ。ついに彼は外界との一切の接触を絶ってしまった。ぼくらの誰にも、Uさんに何が起こったのかはわからないままだった。

生前、彼の近況を最後に聞いたのは、それから三年後の二〇〇三年三月、東京で友人たちを招待して行ったぼくとモトコの結婚パーティーの日のことである。パーティーに来てくれたUさんの弟に、「Uさんどうしてる?」と聞くと、

「じつは兄貴、こんちゃんのパーティーに参加するって言っててね、渋谷までは一緒に来たんだよ。でも、やっぱりやめるって、帰っちゃったんだ」

その次に聞いた報告が、その五カ月後の、冒頭のメールだったのだ。

ワンダーインでの掃除の仕事を終えたあとに、そのメールを見て呆然としながら、ぼくは自分が知る彼のいくつかの姿を断片的に思い出し、もうその彼がこの世にいないんだ、ということを落ち着かない思いで繰り返し考えた。

キッチンで作ったパスタを夕食に食べたあと、ぼくはUさんの弟にすぐ返事を書き始めた。書きながらいろんなことを思い出した。「旅をしながら生きていきたい」と言っていた彼が、旅によって変わり、この世を去った。その一方、もともと旅にあまり興味もなかった自分が、彼と出会ったことをきっかけに、いま旅を生きようとオーストラリアで暮らしている。それが不思議だった。ぼくは、Uさんの弟への返事にこう書いた。

《(ぼくらの友人たちの)誰もがUさんの大胆な発想や生き方をどこかで自分と比べながら、どうやって生きていこうかって考えていたんだと思う。今現在の状況を見れば、おれはその中でもとくに、自分の生き方を考える上でUさんのことがいつも頭にあるんだと思っています。だからUさんには、言葉ではいえないような感謝の気持ちがあります。Uさんと同期で大学に入学して、ともにあの時代をすごせたことをとても幸運に思ってるし、そしてそれは、これからも間違いなく自分にとっては、とてもとても大きな財産になるんだと思っています》

人は何よりも、人との出会いによって変わっていく。そんなことを、Uさんと出会ったことによってぼくは感じるようになった。

この日、ワンダーインの部屋の中で、考えていた。Uさんから得たものを自分の身体に染み込ませて、ぼくはこの先何年になるかわからない旅生活の中で、どのような日々を送り、どのように変わっていくのだろうかと。

どんな絵も思い浮かんではこなかった。そして考え直した。想像などできないからこそ、人は旅をするのだろうと。

きっとUさんも、同じだったのだろうと思う。

(6 Uさんの死 終わり)


『遊牧夫婦 はじまりの日々』プロローグ全文

「トラヴェル・ライティング」のスクーリング授業(京都芸大通信教育部)を受講して下さった方へ

10月末に、京都芸大通信教育部で、トラヴェル・ライティングに関する2日間のスクーリング授業を行いました。その時に皆さんが書いてくださった紀行文を読み、僭越ながら若干のコメントをいま書いているところです。短い旅時間と短い執筆時間によく書いてくださったなあ……、と思うものばかりで、楽しく拝読しています。

そうした中、駆け足だった授業時間中にお伝えできなかったなあと思うことがいろいろと思い浮かんできました。蛇足かもですが、見て下さる方がいればと思い、授業の際にお伝えしたかったけれどできなかったことのいくつかをここに書いておこうと考えました。と言いつつ、もしかしたら授業で話したことと重複する部分もあるかもですが、よかったら参考にしていただければ嬉しいです。

                    *

まず、紀行文を書く上で、自分はこのような手順でやってます、ということを話しましたが、それはあくまでも自分にとっての方法で、そうやった方がいい、ということでは全くありません、ということは授業の中でもお話ししたかと思います。

自分はもともと、すらすらと文章が書けるタイプではありません。それゆえに、なんらかの手順があった方が書きやすく、長年いろいろとやっていくうちになんとなく、このような手順で書いているなあという方法ができていきました。その方法や考え方を、皆さんの参考までにお伝えした感じです。人それぞれ、どのように書くのがよいか、というのは全く違うと思うので、僕が授業でお伝えした方法や考え方の中で「なるほど、そのようにしたら書きやすい」といったことがあれば、参考にしていただければと思いますし、「いや、自分は全然別の書き方の方が書きやすい」ということであれば、ご自身の方法を優先する方がよいと思います。

ただいずれにしても、どんな文章を書く上でも、自分なりの手順や方法、あるいは型のようなものを身に付けておくことは、文章を長く書き続けていく上で大切だと思っています。それがあると、ひとまず書き出せる。たたき台ができる。するとその先に進めます。

文章が自然に湧き出てくる人にはそのような型は必要ないかもしれないなと想像しつつも、自分の場合は、そういう型がそれなりに身に付いてきたゆえに、なんとか文章を書き続けられているように思います。

一方、逆説的かもですが、いま自分としては、なんとなくてできてきた型をどうやって崩していくかということが、重要になってきています。その型にはまらない文章を書きたく、しかしそれがなかなかできず、どうすればいいのだろうかと悩んだりしています。

でも、そのように考えられるのも、ひとまず自分なりの型があるからこそだとも思います。型があるから、それを壊す、という次の道ができてくるのだろうと。そういう意味も含めて、それぞれ、ご自分の書き方、型、というものを身に付けていってほしいなと思います。

また、その際に、この人のような文章を書きたい、という自分の理想形のような書き手を持っておくことはとても大きな助けになると思います。目指すところがあると、自分が何をすべきかが見えてくるはずだからです。自分にとっては学生時代に、沢木耕太郎さんの文章に出会い、沢木さんのような文章、ノンフィクションを書きたいと心から思えたことが、大きな指針を与えてくれました。

旅に出る前には沢木さんになんとか自分の文章を読んでもらおうと手紙を書き、厚かましくも、自宅のプリンターで印刷したどこに載るあてもない文章を出版社経由でお送りし(その結果どうなったか…といったあたりは『まだ見ぬあの地へ』に書きました)、長い旅に出てからも、沢木さんの文庫本数冊(『敗れざる者たち』『紙のライオン』『檀』『彼らの流儀』『人の砂漠』あたり)をバックパックに入れて、記事を書くたびに、沢木さんの文章の構成、文体、書き出し、を参考にし、真似していました。一人で文章を書いていく上で、ほとんどそれだけが自分にとっての指針でした。

ただ、型の話と重なりますが、自立した書き手として長くやっていくためには、好きな書き手を真似るということをどこかでやめ、自分自身の書き方を身に付ける必要があります。自分はどう書いていくのか、何を軸にして書いていくのか、といったことを模索していかなければなりません。僕は、沢木さんのような作品を書きたい、という当初の思いはいまなお全く実現できてはいないけれど、少なくとも、自分なりの方法、文体というのは、いつしかなんとなく自分の中にできていったような気がしています。その過程においてやはり、この人のような文章を書きたいと思える書き手がいたことが本当にありがたかったです。そうした経験から、好きな作家・書き手を持てることは、文章を書いていく上で大切なことであり、幸せなことだと僕は考えています。
                   
20年ほど文筆業をやってきた中で強く思うのは、書く上での「技術」を身に付けることはとても大事だということです。文章はこれといった技術がなくとも書くことはできるし、こう書くのが正しいという正解もありません。むしろ技術なんてない方が、思いが伝わる場合もあるかもしれません。でも確実に、書く上での技術はある。長く書き続けようと思えば、そのような、基盤となる技術がとても重要になってくることを実感してきました。

だから大学で授業をするのであれば、自分は、自分なりにその技術の部分を伝えないといけないと思ってきました。紀行文に関して言えば、授業中にお話した自分なりの手順・型のようなものがそれにあたります。その部分を授業でお伝えして、各人がそれぞれにあった形で自分の中に取り入れてもらって、自分自身の型・方法を構築していってほしいと思っています。それが大学で学ばれる上で最も大切なことだと考えています。

しかしその一方で、技術では人の心は動かせないとも痛感してきました。やはり、人の心を動かすのは、書き手の思いであり、言葉にどれだけ気持ちを込められるかだと思います。

それはその書き手の生き方、考え方、これまでに経てきた悲しみや喜びなど、その人自身の人生が問われます。取材して書くのであれば、書かれる側の気持ちや、読む人たちの思いにも想像力を働かせられるか。また、書くことに伴う責任などを意識できるか。文章を書くということは、そういったあらゆることが問われているように思います。

文章を書くことの魅力でもあり怖いところは、そうしたその人自身の人間性のようなものが、必ずどこかに滲み出ることです。それは文章に書かれた主張そのものではなく、一文一文のちょっとした表現や語尾などに表れるもののように思います。本一冊分くらいの分量の文章を書くと、避けがたくその人自身が表れるものだと感じます。

その点をどうすればいいかは、おそらく人から学ぶことはできないし、日々を生きていく中で自分自身で作り上げていくしかありません。そしてそれだからこそ、一人ひとり、異なる人が書いたものに価値があるのだと思います。文章を書くこと自体は決して好きとは言えない自分が、それでも書きたいものがあり、書き続けてこられたのはそれゆえのようにも感じます。

技術と思い。

その両面を身に付けていくことを、大学で学ばれる中で意識していってほしいなと思っています。

……と、そんなことを、授業の中で伝えられていたら、と、みなさんの紀行文を読みながら思ったのでした。とりわけ今回、そんな気持ちをこのような文章にしようと思ったのは、こないだのトラヴェル・ライティングが、京都芸大における最後の授業だったからのようにも思います。最後の授業にお付き合いくださって、どうもありがとうございました。

少しでも、皆さんの今後につながることをお伝えできていたらと願っています!

『責任 ラバウルの将軍 今村均』で知った、オーシャン島での日本軍による驚愕の島民200人殺害事件。

長らく積読だった『責任 ラバウルの将軍 今村均』を、先日思い出して読み出したら想像以上に面白い。その中に、自分は全く初耳の驚愕の事件についての記述があって驚かされました。太平洋のオーシャン島(現キリバスのバナバ島)で終戦直後に起きた日本軍による島民200人の殺害事件。

本書では、殺害を行った元日本兵が率直にその背景を語っています。

この島を日本が占領した時、島民2500人のうち屈強な男性200人だけを残してあとは他の島に移住させた。その200人には武器を与えて訓練し、良好な関係を結んできたのに、1945年8月、終戦の4,5日後に全員を銃殺したのだと。理由は、占領当時に島にいた宣教師など数人の白人を処刑したことが発覚するのを恐れたためというのです。

白人の処刑については200人の誰もが知っていたとのこと。だから、敗戦となって連合国軍が島にやって来た時にとても隠し通せないだろうから、全員殺してしまったのだと…。島民の殺害についてはその後ラバウルでの戦犯裁判で明らかになり、8人の日本兵が処刑されたけれど、白人殺害を隠すための集団殺害だったというのは裁判でも隠されたまま、資料にも一切残ってないようでした。

実際このオーシャン島の島民殺害事件についてはその後も全然知られていないのではないかと思って、調べたら、1年前の東京新聞にこんな記事がありました。
最後の指揮官命令は島民の虐殺だった…元日本兵が書き残した敗戦直後のオーシャン島で起きたこと
いまなお、やはり全然知られてない事件なのだなと改めて驚かされました。

角田房子著『責任 ラバウルの将軍 今村均』は1985年ごろに刊行されていて、当時、関係者の多くが存命で、こういう話を当事者に取材で直接聞いています。この島民殺害事件を語った元日本兵も当時まだ60代。生々しさがすごいです。また、今村均の人格者ぶりもとてもリアルに描かれてて説得力があります。ラバウルの戦犯裁判のいい加減さ、無実の罪で処刑された日本兵がかなりの数いたのだろうことも伝わってきます。

もっと広く知られるべき内容が多々あり(自分が知らないだけかもですが)、本としてもすごく面白いです。


京都芸大でのスクーリングを今年度で終えるにあたって、来年以降の計画として考えていること

この土日は、京都芸術大学通信教育部のスクーリングの講義だった。6,7年くらいやってるインタビューの授業で、2日間の間に、学生同士で互いにインタビューしてもらい、それを文章にするところまでをやってもらう内容。

自分が考えた内容ながら、学生さんたちにとってはタイトな時間の中でやることが多くて大変だろうなと思うものの、終わって、満足して下さった方が多かった様子が伝わってきて、とても嬉しかった。

ここ数年は、インタビューに関して自分が伝えたいこと、伝えるべきこともしっかりと確立してきた感じがあって、その意味では、ある程度自信を持って話せるようになった気もする(いつも緊張しているのだけれど)。試験後、一人の方の提案で、残っていた人で集合写真を撮る展開に。ああ、よかったなと思った瞬間。ご提案感謝です。

やはり対面でインタラクティブにやる授業は充実感があるなあと思う。学生さんたちの充実感もオンラインとは全然違う感じがするし、通信の学生さん同士が互いにつながる貴重な機会でもある。だから京都芸大で来年度から対面のスクーリングがなくなり全部オンラインになるというのは自分としては何とも残念。全部オンラインで受けられるという選択肢があるのはいいことだと思うけれど、対面のスクーリングという選択肢もやはりあった方がよいのではないかといまなお強く思う。

対面がなくなる今年度で、自分の授業も終わり。あとは今月末のトラヴェル・ライティングを残すのみ。自分がやってきたスクーリングの授業は、インタビューのと、トラヴェル・ライティングの2つで、特にみなで実際に”小旅行”(というか近年は、時間が短くなって数時間の京都散策しかできないけれど)して、それを文章にする後者のスクーリングは、オンラインでは不可能なので終わるのも納得。

というわけで、通学の学生を教えてた時期から含めると10数年にわたった京都芸術大学(「京都造形芸術大学」の名称の方がいまもなじみがあるけれど)で教えるのは、今月でひとまずおしまいに。

いま思うと、3日間のスクーリングができた時代(ここ数年は、すべて土日の2日間になった)のトラヴェル・ライティングの授業は特に、自画自賛するようで恐縮ですが、参加者の多くがいつもすごく満足して下さった印象で、自分もいつもすごく充実感があった。

参加者は毎年10人程度で、1日目にみなで小旅行(→朝から一日、琵琶湖の竹生島や長浜に行って帰ってくるので、これは実際に”小旅行感”はあった)して、2日目、3日目で授業&紀行文を執筆してもらうという内容。

3日目はたいてい数時間、書いたものを互いにシェアしてみなで円になって意見を言い合い、ディスカッションした。その時間がいつも盛り上がり、有意義だったように思う。その時間を経て、さらに書き直してもらって後日提出してもらっていた 。

この形式の授業は毎年、3日間で受講者同士の交流も深まり、いい人間関係が生まれ、最後はみな名残惜しい様子で、終了していった印象。この授業を機に、学内の文芸サークルも誕生し、いまもこの授業のことを思い出して連絡を下さる方がいてとても嬉しいです。

そんなわけで、来年から自分で、この形式の講座を復活させられないかな、と模索しています。しかし、大学の枠なしでこれをやって、果たして人が来てくれるのかなと、少々不安。というか、だいぶ不安。小心な自分はそこで躊躇してしまう。が、これから具体的に考えていきたいところです。

大学の講義中に何度か怒ってしまったことについて

今年は大学の講義で学生を注意する回数が増えている。
あまり学生に怒ると、うるさいおじさんだなと思われそうだし、かつ授業の雰囲気も悪くなる。また自分自身、できるだけ怒りたくない、という気持ちも強いので、なかなか悩ましい。しかし今年は、スルーしてはまずいだろう、という感じのことがたびたびあった。


授業中、自分が近くを通っても、全く気付く様子もなくスマホでゲームをしていたり、映画を見ていたり、みたいな学生が今年は特に多い気がした。
それで一度全体に注意した。

授業中、聞いていたけど眠くなって寝てしまったり、途中で集中力が切れてちょっと他のことをしてしまう、ということは誰でもあるし、それは問題ない。というか、そういうときは、自分の授業内容に魅力がなかったのだと思うし、それはこっちが反省しないといけない部分も大きいと思っている。そう伝えた。

しかし、最初から全く聞く気なく突っ伏して寝ていたり、バッグを机に載せたままずっとスマホでゲームをしているとかはさすがに認められない。そういう学生が今年は特に多いように感じた。さらに、自分が真横を通っても全く動じずにゲームをやり続けていたりする。それはメンタルが強いとかそういうことではなく、さすがに問題だと思う。ゲームなどをするにしても、せめてこちらにばれないようにうまくやる、というか、うまくやろうとする意志くらいは見せることが必要なのではないかと話した。隠そうとしてくれたら、基本的には見て見ぬふりをするから、とも言った。

授業だから聞きなさい、ということではない。真剣に話している相手に対して、それが最低限のリスペクトなのではないかと思う。話している側を完全に無視するような態度は、人と人の関係性として決してよくない。自分がそれをスルーしたら、学生は、それでもいいんだと思ってしまうのではないだろうか。金払ってるのはこっちなんだから、授業を聴こうが聴くまいがこっちの自由だろう、と思っているのかもしれないとも感じた。

決してそうではないはずだ。

授業に出るか出ないかは、学生の自由だと思う。出なくて学ぶべきことが学べない、単位がもらえない。それは残念なことではあるし、出てほしいとは思うけれど、でもそれはその人の選択だと思う。しかしもし授業に来るからには、この時間と空間をともに共有するからには、最低限、授業する人間へのリスペクトは必要だと思う。そして授業をする自分自身も、授業を受ける側へのリスペクトを持っていないといけないということもいつも思っている。

昨日は、イヤホンをして、完全に別な方向を向いて机の下かイスの上で何か作業をしている学生がいたので出て行ってもらった。その前は、10分くらい化粧し続けてる学生がいて、その場では、一人さらす感じにしてしまうのもどうかという気持ちが湧いて、やめてくれることを期待して注意しないままになってしまったけれど、翌週、全体に向かってそのことについて自分が思うことを話した。

こちらを完全に無視するような態度は受け入れられないし、受け入れるべきではないと思うからだ。

いま、学校で怒るということのハードルがものすごく上がっている気がする。学生は何をしても怒られたことがなくて、もしかすると、授業中に教員を無視して全く別のことをすることについて全然悪いと思ってないのかもしれない、とも感じた。

7,8年前に、授業開始とともにいつも突っ伏して寝る子がいて、それを繰り返されたために、さすがに何度目かに我慢ならなくなって出て行ってもらったことがある。するとその翌週から彼は人が変わったように真剣に聞いてくれるようになった。ただあとから、彼は学費を工面するために夜中までいつもバイトをしていて、どうしても授業中に寝てしまうのだ、ということを他の教員から聞いて、そうだったのか、と複雑な気持ちになった。

それから3年後くらいか、彼が卒業するときになって、わざわざ僕のところに謝りに来てくれた。「あの時はすみませんでした。そのまま謝ることができてませんでしたが、卒業する前には一度ちゃんと謝らないといけないと思っていて」と。真摯な気持ちが伝わってきた。

あの時、言ってよかったんだなと思った。それからは、怒ったり、注意したりすることは、やはり必要な時にはするべきなんだと思うようになった。もちろん理不尽な怒り方は言語道断だし、怒るからには、もし向こうに言い分があるのであれば、こちらはそれを聞かなければいけない。そのことも昨日は最後に伝えた。

大人気の小説を読んで感じた物足りなさの正体について

先日一つの小説を読み終えて思ったことを、記録まで。(6月30日にツイートした内容を書き直したものです)

それは大きな賞もとっている大評判の作品で、実際とても面白くてほとんど一気に読んでしまった。文章もストーリーも素晴らしい。ただ一方、何か物足りなさが残った。それは大人気の作品によく同じように感じることなので、なぜなのだろうかと考えていた。

自分なりに考えたところ、それは、描かれていない部分の堅牢さ、みたいなことにあるような気がした。登場人物たちの人生が、本に描かれていない部分にもしっかりと広がり、描かれていない部分でも生きていると信じられるかどうか。作者がその人物の人生を、
本の中に描く部分以外にどこまで想像し、作り上げられているか。本で読んでいるのはその人物の壮大な人生のほんの一部なのだと感じられるかどうか。行間や言葉の端々に、本来はだらだらと続いているはずのその人の人生の日々の時間経過、物語にならない部分の存在を感じられるかどうか、というか。その点において、自分には物足りなさが残ったのだと思った。

ヘミングウェイが確か、知らないから書かないのは物語をやせ細らせる、一方、知っていることを削り、書かないのは物語を強固にする、というようなことを言っていた、というのを沢木耕太郎が昔のエッセイに書いていた(『紙のライオン』に収録されているはず)。それがとても印象的なのだけど、最近その意味をとても強く実感している。

小説でもノンフィクションでも記事でも、文章として表面に見えている以外の部分をどこまで掘り下げ、練り、考えられているかがその文章の厚みや深みを決めているのではないかとよく感じる。

大人気の小説に対して、今回と同じような物足りなさを感じることが少なくないのは、もしかすると、書かれていない部分を深く掘り下げる、みたいなことが、次々にページをめくらせるストーリーの展開とトレードオフの関係になってたりするのかなとも思ったりする。または両立させるのが難しいのか。

自分が文章を書く上で、読む上で、何を大切だと感じるかが、最近ようやくある程度明確になってきた気がする。

旅立ちの日から20年。

昨日(6月22日)で、『遊牧夫婦』の長い旅に出発してからちょうど20年だった。

旅立ちの時考えていたのは、数年間、旅をしようということ。26歳だった自分にとって数年というのは永遠のように思えたし、旅の終わりなど来ないように思っていた。また、できることなら、いつまでも終わりのない旅がしたいと思っていた。そのためにも旅をしながらライターとして稼げるようにならねばと。

しかし5年旅して、終わりがあるからこそ旅なんだと感じるようになった。何を見ても、ほとんど感動することがなくなってしまったからだ。そして思った。終わりがあるからこそ、人は感動するし、生きる原動力も湧くのだろう、と。旅も人生も。それが5年旅しての最大の気づきだったように思う。

そしていま改めて、そうだなと思う。

ところが、昨年あるコラムに自分がこんなことを書いていたのを思い出した。

ロームシアター京都のサイトへの寄稿「終わりがあるからこそ、と思えるように」より

そういえば去年、終わりがあるからこそ、と思えなくなっていたのだった。そのことを忘れていた。そしていままた、終わりがあるからこそ、と思えている自分に気づかされる。
それはもしかすると、最近、とても親しかったある人の死に向き合わないといけなかったからかもしれない。彼女の死のあとからなんとなくまた、終わりがあるからこそ、と思えているような気もする。去年、上のように書いていたことをいまはすっかり忘れていたのだ。

こうして移りゆく自分の気持ちもまた、記憶しておきたいと思う。

2003年6月23日、シドニーに降り立つ前の飛行機から。

2008年9月30日 旅の最後に撮った写真。マラウィ湖からモザンビークの大地を望む。

初めてメディアに載った自分の文章を手に… (2001年8月18日朝日新聞「声」欄) 

3年前にフェイスブックにアップしたらしく通知が。初めてメディアに載った自分の文章(2001年8月18日 朝日新聞「声」欄)。この翌年に大学院を修了し、03年に結婚、旅立つのだけれど、その際、ほぼこの投稿記事で得た図書券3000円?だけを根拠に、「ライターしながら2人で旅して暮らします」と京都の両親の元へ結婚の了承を得に行ったのは我ながらワイルドだった。


職はなく、旅の予定は3,4年。そして結婚3カ月後に2人で日本を出ますなんて、さすがに一発殴られるかもしれないと覚悟していったら、逆に背中を押してくれるような両親で「行ってきなさい」と。改めてとてもありがたかった。自分もそう言える親でありたい。

「村林由貴が描く禅の世界」がついにスタート!

絵師・村林由貴さんが11年かけて描いた渾身の襖絵の一般公開が、12月24日からからついに始まりました。

特別公開詳細はこちら 

2011年から今年まで、24歳から35歳という時期を、村林さんは、まさにこの襖絵を描くためだけに生きてきたと言っても過言ではない日々を送ってきました。

寺に住み込み、絵の技術を磨き、禅の修行を繰り返し、悩みながら、一歩一歩描き進める日々。行き詰まって描けなくなり、寺も離れた時期もあり、しかし、その時期も乗り越え、モチーフを固め、膨大な量の絵を描き続けた末に、仕上げていった退蔵院方丈の5部屋76面の襖絵。

約6年の間、修行や訓練を重ねて描くべきものが決まり、そこからさらに2年ほどかけて本番に向けて技術を高め、そして本番を描き始めてから完成までが3年。

それだけの間、禅に身を投じて、深く自分と向き合った結果、何百年もの間描きつがれてきた対象へと行き着いたところに、大きなすごみ、そして村林さんの過ごした日々の重さを感じます。

プロジェクト開始当時からこの11年間、ぼくは取材者の立場で、村林さんの姿を近くで見させてもらってきました。ぼく自身、彼女の創作の姿勢にはとても影響を受けていて、また、途中の彼女の苦労も肌で感じてきたため、本当にこの絵の完成には感無量でした。

一般公開が始まってからいろんな方がこの絵を見る様子もここ何日かで見させてもらってきましたが、多くの人が絵に、彼女の姿勢に、感嘆する姿にぼく自身も感激しています。

本当に、彼女が人生をかけて描いた大作です。

引き続き是非多くの人に見てもらいたいです。

村林さんについて、このプロジェクトについて、ぼくが過去に書いた記事の一部がこのウェブサイトにpdfでアップされています。すでに絵を見られた方、これから見ようという方、併せてこちらの記事を読んでいただくとより楽しめると思います。

『新潮45』2012年10月号
<よみがえる「お抱え絵師」 京都・妙心寺「退蔵院方丈襖絵プロジェクト」>
プロジェクトが始まった当初の村林さんの姿を描いたものです。

『芸術新潮』2013年5月号
<妙心寺退蔵院の襖絵プロジェクトを支える職人たち>
プロジェクトのもう一つのカギを握る、職人さんたちの仕事についてです。

『文藝春秋』2020年6月号
「令和の開拓者たち」絵師・村林 由貴
京都・妙心寺退蔵院の襖絵を描く“現代の御用絵師”村林由貴の「新しい水墨画」

退蔵院の襖絵を描き出して、いよいよプロジェクト終盤に向かう村林さんの姿を描いたもの。リンク先は、文藝春秋digitalのサイトで記事全体の前半部分が読めます。彼女の苦悩の部分は後半にあり、そちらが話の中心だったのでそこを読んでもらいたいですが…。pdfがアップできるようになれば、後日そうします。




ロームシアター京都のウェブサイトにコラム執筆

ロームシアター京都のウェブサイトにコラムを書きました。
ロームシアター京都は2022年度、「旅」をテーマに自主事業ラインアップを決定。
そのラインアップテーマ「旅」への応答、ということで寄稿しました。

2022年度自主事業ラインアップテーマへの応答
終わりがあるからこそ、と思えるように


旅も人生も、終わりがあるからいい、と思い続けてきました。終わりがあるから感動があるし、今日を充実させようと思うのだと。それが5年間の旅を終えての実感でした。しかし最近そう思えない自分がいます。そんな気持ちを、いまの状況含め、率直に書きました。そしてなぜ旅が必要なのかを。

心療内科に

最近、気持ちが不安定な状況が続いていた中、一昨日、心療内科に行った。1年半ほど前も行こうと思ったことがあり、その時は、クリニックの中にまでは行ったものの、初診は要予約で、いきなりは受診できないことがわかり、予約をして改めてこようかと思いつつも、そのうちに気持ちが収まっていった。しかしここ1、2カ月はこれまでになくしんどくて、これはと思い、予約をした。そして数週間待って、ようやく精神科医の先生に話を聞いてもらう機会を得た。

自分なりに思い当たるストレスは複数あり、そのそれぞれを「これこれこういう状況で…」と話していった。「うん、うん、そうでしたか、それは大変ですね、しんどいですね」と言ってもらいながら、自分でも考えが整理されてきたり、思わぬことを思い出したり。

先生的には、これだけストレスの要因がいろいろあれば、不安感が高まったりするのは自然な反応で、いわゆる病気的なうつ状態とはちょっと違うと考えますとのこと(この辺は医師によっても考え方や判断が変わってきますが、とも加えつつ)。一方、鍵を閉めたかとか、火を消したかがやたらと気になって何度も確認する、ということはないか、といった話になり、「まさにそれです(笑)」という流れから、そしたらちょっと薬をためしてもいいかもしれない、とのことで抗不安薬をもらうことになった。

ところで、自分がいま直面しているいくつかの問題は、個々には別個の問題ながら、突き詰めて考えていくと「自分は死ぬのが怖いんだな」というところにたどりつく。人生の残り時間を、ここ数年かなり意識するようになり、自分が生きている間にできることは限られてるなとよく感じる。40代半ばになって、身体の各所の不調や衰えを日々実感する中で、その意識が高まっている。

また、最近よく感じるのは、自分は文章を書くことが好きじゃないんだなということ。書くのが辛い。自分は幼少期、書いたり読んだりすることから最も遠くにいるような人間で、しかし、色々な流れからライターになり、早20年ほど文章を書き続け、それを生業にしているけれど、でもやはり根本では、自分は書くことが好きじゃないんだなあという、何をいまさら的な、なかなか辛い実感にたどり着いてしまった。同業のライターの人たちの、書くことが本当に好きそうな人たちに囲まれる中で、最近その事実から目を背けることが難しくなってきてしまった。

じゃあ、いっそのこと全く別な仕事をすればいいかと言えばそうもいかない。厄介なことに、それでもぼくは、自分にとって切実な問題については、自分なりの方法で思いを伝えたいという気持ちが強くあるからだ。つまり、そういった事柄は、書くのがしんどくてもなんとか書きたいという気持ちがある。その思いを一番はっきりと形にできたのは『吃音 伝えられないもどかしさ』だと思う。今後も、吃音のような、自分に本当に切実なテーマについては、本のようなまとまった形で世に問いたい。いや、むしろ、人生の残り時間が常に気にかかる中で、そのモチベーションはむしろ上がっているようにも思う。

ただ一方で、自分はそういうテーマだけを書いて生活していけるような、書き手としての能力はない。書くのにもとても時間がかかる。だから、日々単発の仕事として書くことを次々にやっていかないと生きていけないのだけれど、それがどうにも苦痛になってきてしまったのだ。そうした仕事に追われていると、ただ技術と時間をお金に換えているだけで人生の残り時間がどんどん過ぎていっているだけに思え、焦ってしまう。このままただ時間だけがものすごい速さで過ぎていき、あっという間に人生が終わってしまうような気がしている(とはいえ、ひとこと付け加えると、そのような単発の仕事も決して手を抜いたりはしていません。発注される方は、これを読んでもどうぞご安心を)。

旅も人生も、終わりがあるから感動がある、というのは、5年の旅を経ての実感だし、それはいまもそうだと思っている。何事も、終わりがあるからいいんだと。大学の講義でもいつもそんなことを話している。でも、そう言いながらも、自分が一番、終わりを怖がっているのかもしれないとも思う。終わりがあるからいい、というのは自分に言い聞かせてるような気がしてきている。

どうにも、吐き出す場所がなく、ブログに気持ちを書いてしまった。最近、仕事以外では全く文章を書く気がしないので、こういう自発的な文章を書けてよかった、という気持ちと、それだけ気持ちがいっぱいいっぱいなのかもしれない、という恐れと半々な思い。



「いまさら」も「遅すぎる」もない

昨日、ついにギターを購入しました。

ほぼ捨ててあったような状況らしいギターを妻が職場でもらってきてくれ、練習を始めて今で1年3カ月ほど。1年経っても飽きてなかったらちゃんとしたギターを買おうと思っていたところ、熱は冷めず。Youtubeのおかげで、思っていた以上に自分だけでも練習できることがわかりました。

その上最近、ライター&ギター仲間の大越さん、青山さんとオンラインギターセッションを始めるようになって、ますますやる気が上昇して、ついに買うことにきめ、最近楽器屋を回って探していました。

東京と京都で何店舗か見て回って弾かせてもらっているうちに、いいギターの素晴らしさやモノとしての魅力を実感し、さらに買う気は上昇。

しかし、なかなかこれというのに出会えないなあと思っていたところ、先週末、最も気になっていた国産ハンドメイドのヤイリギターの「ああ、これだ」という一本に出会い、すぐ気持ちが決まりました。

最近、モノを買って嬉しい、ということがほとんどなくなっていたけれど、今回は久々に本当に嬉しい。触ってるだけで幸せって、なんか子供の時に超合金のロボットを買ってもらった時のよう笑。ギターとの出会いは、コロナ禍においてもっともよかったことかもです。

最も弾きたかった曲の一つ、Jack JohnsonのBetter Togetherが、一応最後まで弾けるようになり嬉しい。

(一応、です…! 今日オンラインセッションで弾き語りしたら、2人の前で緊張して笑、歌詞が全部飛んでほとんど歌えず)

40代半ばでギターを弾く楽しみを知って、いまさらとか、遅すぎるはないと実感してます。

眞子さんの結婚会見を見て、香田証生さんのことを想い出す

眞子さんの結婚会見を見て、結婚の会見で謝らないといけない状況に追い込む日本って本当に辛いなあ、と感じました。

思い出したのは2004年にイラクで香田証生さんが亡くなった後にご両親がお詫びの言葉を発表したことでした。息子を殺された親がまず謝らないといけない社会って何なんだろうと当時思ったのですが、それからずっと変わってないんだなあと愕然としました。

いや、いま思えば2004年は、SNSもまだ黎明期だったし、状況はいまよりずっと穏やかだったのかもなあとも思ったり。

そんなことをツイートして、興味ある方がいればと思い、拙著『中国でお尻を手術。』の香田証生さんについて書いた部分もアップしたら思っていた以上に多くの人に読んでもらってる感じだったので、こちらにも掲載します。

自分は長旅の途中、タイにいたときに事件を知り、香田さんの死、そして日本の反応が衝撃でした。香田さんが動画で「すみません」とは言ったものの「助けて」とは一度も言わなかったことも心に残っています。

『ペスト』と『コロナの時代の僕ら』

やはりのブックカバーチャレンジの流れでFBに書いた本の感想をこちらにも。
取り上げるのは、最近読んだ、いま話題の2冊です。

『ペスト』(カミュ)
『コロナの時代の僕ら』(パオロ・ジョルダーノ)

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『ペスト』は、80年ほど前に書かれたカミュの代表作の一つで、ペストが流行って封鎖された町で生きる人々の様子を描いた、現代に通じる作品です。
が、正直、読むのに相当時間がかかってしまい、途中しんどかったです。。しかし読了後に「100分de名著」を見たら、そんな熱い人間関係と物語が展開していたのか!とびっくり(笑)。全然理解できていませんでした。文章が、なんだか読みづらくて、細部が頭に入ってこず。世界的名著と言われる作品なので、自分の読解力のせいなのかとも思いつつ、いや、翻訳が悪いのか、そもそもこういう文体なのか、とか悩む始末…。

ただ、封鎖されたアルジェリアの町で生きる人たちの様子が、現在の状況と驚くほど似てる部分があったりして、いまも昔も、人間の本質が変わらないのを感じ、読みながら不思議な気分になりました。

『コロナの時代の僕ら』は、若きイタリア人作家によるエッセイ集で、おそらく初めての世界的なコロナ文学的作品。本文を成す27篇の短いエッセイは、著者のちょっとした気づきを書き留めたといった感じの印象だったけれど、あとがきは、評判通り、とても美しく心に残るものでした。コロナ騒動が始まったあの時期に、自分が何を思いどう行動したかを、きっと読者一人ひとりに思い返させてくれるとともに、これからどう生きるべきかを考えさせてくれる文章だと思います。

『ペスト』では、主人公にとっての大切な人が、病気で、封鎖された町の外にいて、主人公と会うことができず連絡も取れないまま亡くなってしまうのですが、主人公はそのことを8日後(?)に知るという場面があります。

一方、『コロナの時代の僕ら』では、僕が読み終えたあとにそのことをツイートしたことをきっかけに、この本の訳者でイタリア在住の飯田亮介さんと、その10分後ぐらいにはやり取りをしていました。飯田さんの日本語訳が美しかったことに加え、彼がかつて中国の昆明に留学していたのを経歴を見て知り、奇遇だったので、つい連絡を取りたくなり…。

主人公が大切な人の死を知るのに8日間かかった『ペスト』の時代と、読後10分で異国にいる訳者とやり取りできる『コロナの時代の僕ら』の時代。そんな、人と人との距離感の違いが、各作品に描かれた時代に通じ、そしてそれぞれの時代の感染の広がり方にも通じるのだなあと、しみじみ感じたのでした。

興味あるかたは是非~。

週刊文春「森友自殺財務省職員 遺書全文公開」を読んで

今日の週刊文春の記事「森友自殺財務省職員遺書全文公開」(相澤冬樹さん筆)
を読み、こんな人たちが財務官僚として社会の中枢にいるのかと思うと本当に腹立たしくなった。

自分自身、おそらくそういう人たちと同様に、受験勉強にエネルギーを使い、結果としていまの学歴社会でうまく立ち振る舞ってきたという自覚がある。でも、傲慢に聞こえかねないことを覚悟で言えば、そういう点において恵まれた環境で生きてきた自分自身について、居心地の悪さというか、後ろめたさみたいなものがあり、同時に、自分がそういう境遇を利用して生きていることについて自覚的でなければいけないと思っている。

うまく言えないけれど、おそらく多かれ少なかれ彼らと近い環境にいた時期がある身として、いったいどうして、そんな生き方をして平気でいられるんだ、という気持ちがある。勉強して、エリート街道みたいな人生を進んで権力を得て、その挙句にその立場を利用して改ざんや隠ぺいをして、自分より立場の上の人にだけはこびへつらって、責任は自分の部下に押し付けて。なぜ恥ずかしくないのだろう。なぜ平然とその立場にい続けられるのか。

こういうことを書くこと自体に、自分の傲慢さのようなものがあるのかもしれず、その点も含めて色々自覚的でなければと思うのだけれど、赤木さんが遺書に書いている財務官僚の面々などに、自分もある種近しい立場的なものを感じるだけに、無性に腹立たしく、悔しく、彼らに、本当によく自分の人生を省みてほしいと思う。

余計な内面を変な形で書いてしまったかもしれずですが、でも、記事を読んで本当に怒りが沸きました。この記事の訴え、亡き赤木さんの声が無視されるような社会には生きていたくないな、と心底思う。

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バンコクに数日行ったら、血圧が見たこともない数値に…

2月9日から12日まで、バンコクに行っていました。

今回の滞在の目的は、タイで吃音の当事者・関係者とのつながりを作って、3年に一度世界各地で開催されている吃音関係者による世界大会のアジア版を開く足がかりを作ろう、ということでした。

僕自身は、声をかけてもらって、どちらかといえば付いていく側での参加のつもりだったのですが、提案者のお二人が、諸々の事情でともに来られなくなり、結果として僕と他二人、付いていく側の3人だけで行くことになりました。

コロナウィルスのこともあり、さらに僕個人としては、謎の胸の痛みと高い血圧がしばらく続いていて、心臓を検査してもらっていたのもあって、前日の昼頃までは行かない方向に傾いていました。しかし検査での異常はなく、直前に体調が好転してきたこともあり、やはり行くことにしたのですが、来てよかったなと感じています。

当初の目的通り、バンコクの病院に勤務されている日本人の言語聴覚士の方にお会いして吃音に関連した現地の状況を伺い、さらにタイ国日本人会の方にもお会いして、アジアでの大会を開催する上での今後のいろんな可能性について伺いました。

海外ならではの事情を知って新たな知見を得させてもらうとともに、色々と簡単ではない点もわかり、アジア大会を開催するとしても道のりは長いことを感じましたが、少なくとも第一歩にはなるつながりを持つことができて、有意義な滞在になったように思います。

また、自分としては中国・昆明時代の友人にも会えたり、久々に東南アジアの雰囲気を体感することができて、すごく気持ちがリフレッシュされました。

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その友人には、彼女自身を含め、昆明時代に親しくしていた同世代の人たちの近況を聞き、それぞれ今も世界各地で、全く常識にとらわれない「マジか、すげえ…!」という日々を送り続けている様子を知って、当時の感覚を色々思い出させてもらいました。

今回会ったその友人自身も、バンコク生活が約10年となるといういま、今後どう生きていくかを考えていて、これから、未知の冒険の旅に出るということで話がまとまり(!)、今後が楽しみでありつつ、すごく刺激を受けました。やはり自分もいまなお、新たな未知の場所に身を置いて、「さあ、どうやって生きていこうか」という先の見えない人生を送りたい願望が強くあることを改めて確認しました(って、ずっとそう思いつつ京都生活が10年を過ぎてしまったのですが)。 また、バンコクの町を歩いていて、各所のガードマンや店員、ホテルの人が、隙あらばスマホゲームに興じたり寝てたりするのを見て、それでも世の中は回ってるわけで、なんかほっとするというか、本来このくらいでいいんじゃないのかなとすごく感じました。

日本で暮らし続けていると、思うように効率よく進むのが当然で、そうでなければ文句が出て、人がみなさらに効率的、合理的に行動する、という流れに馴れてしまうけれど、そろそろ効率化も、誰も望んでないレベルにまで至ってる気がします。

バンコクの、なあなあな力の抜けた雰囲気と人々の大らかな感じ、各人が思い思いに日々暮らしてそうな様子を見て、世の中、ちょっと不備不足があって思い通りにならないくらいがちょうどいいんじゃないかなあと再確認?しました。

とともに、自分が知らず知らず、いかに日本の感覚を普通に思うようになっていたかに気づかされます。やはりとりあえず異国・異文化の空間に、できるだけ身を置く機会を作ることが大事だと痛感しました。ただその場にいて空気を吸って人々の様子を見ているだけで、日々の考え方がほぐされるし、そういう機会をもっと持たねばと。旅のこと書いたり、大学で講義をしつつも、完全にエア旅人になってしまっている昨今の自分は特に。

また、観光エリアを歩いていると、年配の客引きが、古典的な手法でにじり寄ってきたので話していると、「ジャパン、フットボールプレイヤー、グッ!」という定番の展開になり、その流れで出てきた名前は案の定、ナカタ、イナモト、ナカムラ、オノ…と、20年くらい前からアップデートされてない状況。それがまた味わい深く、そして、お互い時代の変化の速さについていけない感じで共感したりもしました。

血圧が若干心配だったため、バンコクにも血圧計を持ってきて毎日測ってたのだけど、こっちに来て急に、これまで見たこともない正常値が出るようにもなりました。一時的かもしれないけど、やはりこっちに来てストレスが軽減されたのかなと思ったり。15年前に、中国・昆明にいた頃に吃音の症状が消えていったのも、やはり何かそういうことと関係あるのかなと改めて考えたりもしています。

最後の日は深夜の便だったので日中はアユタヤに行ってきました。アユタヤの遺跡は思っていた以上に壮大で、この周囲に当時、日本人町があったというのも新鮮で、色々思いを馳せました。アユタヤの中心部の郊外、チャオプラヤ川沿いの確か長さ1キロ、幅200mだったかな、そのくらいの土地に、様々な理由で日本では暮らしづらそうなキリシタンや浪人などが自由に暮らしていたそうな。タイに日本とは違う居心地の良さを求めて移住する流れは実はものすごく歴史が長かったということかな、などと想像しました。

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バンコクからアユタヤまでは、電車で2時間弱、15バーツ(50円ほど!)。目の前に乗り合わせたイタリア人のイケメン大学生と話し、これからどうやって生きていこうかと考えている彼の話を聞きながら、20年前の自分を思い出しました。夏に日本に来る予定とのことなので、京都に来たら、よかったら会おうと言い、インスタとFBを交換。爽やかないい出会い。
アユタヤでは、レンタルバイクで移動。タイでは免許なしでパスポートだけで借りられるので(1日200バーツ)、郊外ではよく利用します(バンコクで運転するのは怖いので借りたことないですが)。自分での移動手段を持つと、やはり楽しいです。

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アユタヤからバンコクへは、また電車で戻るつもりだったものの、バイクを返して駅に着くと、電車が遅れていて2時間後まで来ないことが判明。2時間待つと、夜の飛行機にかなりギリギリになりそうだったので、どうしようかと思っていると、バンコクへ乗り合いのバンがあることを教えてもらい、バイクに乗せてもらってバン乗り場へ。するとバンコクへ出発直前のバンに乗ることができてホッ(70バーツ、1時間半ほど)。

バンの中で、その日までに返信しなければいけなかった物理学関係(原子核時計に関する研究)の原稿の確認があったことを思い出し、車内でなんとか確認し、修正案を書いて送信。するとすぐに神戸にいる担当者から了解の返事。その返信をタイの田舎道を突っ走るバンの中で読んでいる状況に、つくづく不思議で面白い世の中になったなと思い、やはりもっと旅をしなければと気持ちを新たにしたのでした。