とても残念なことながら、『吃音 伝えられないもどかしさ』の文庫版が――

自分としてかなりショックなことながら、『吃音 伝えられないもどかしさ』の文庫版が「品切れ重版未定」となってしまいました。事実上の絶版のような形です。

まだ3年も経っていないので、いまそんなことになるとは全く想像していなく、知った時には愕然としました。また、正直拙著の中でも、『吃音』に限ってはまさかそういうことはないだろうと思っていたのですが、皮肉なことに、自分の著書の中でこの本だけがそのような事態に陥ってしまいました。無念です。

さすがにもう少し粘ってほしかったし、他の方法はなかったものかとも思ってしまいますが、思うように売れてなかったということであり、商業出版であれば仕方なく、現実を受け入れるしかないのだろうとも思います。

数日間だいぶ沈みましたが、単行本の方はまだ生きています。今後は、これを生き延びさせるべく尽力しなければと、いまできることを考えています。

そんな状況のため、『吃音』の文庫版は、今後あらたに書店に補充されることはありません。

単行本も、決して安穏と構えていられる状態でもないようです。もし、本書にご興味を思ってくださる方がいたら、よろしければ単行本の購入を検討いただければ幸いです。

…と、なりふり構わない感じになって恐縮ですが、この本は、まだまだ果たすべき役割があるように思っています。興味ありそうな方などいらっしゃいましたら、紹介していただけたりしたら嬉しいです。

『吃音 伝えられないもどかしさ』(新潮社)、今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

重松清さんによる本当にありがたい書評も、改めてこちらに。よろしければ…!

<頁をめくるごとに、つらかった記憶や悔しかった記憶、言葉がうまく出ないもどかしさに地団駄を踏んだ記憶がよみがえって、何度も泣いた。いい歳をして子どものように――子どもの頃の自分のために、涙をぽろぽろ流した。>

https://www.bookbang.jp/review/article/563177

読売新聞夕刊の書評欄「ひらづみ!」の担当最終回『ナチスは「良いこと」もしたのか?』

読売新聞夕刊の書評欄「ひらづみ!」に先週、『ナチスは「良いこと」もしたのか?』(小野寺拓也、田野大輔著(岩波ブックレット))を紹介しました。記事がオンラインでも読めるようになりました。

良い本かつ重要な本だと思うので、ご興味ありましたらぜひ本書を手に取って読んでみてください。

https://www.yomiuri.co.jp/.../columns/20231204-OYT8T50037/

自分は2021年春から3年近く、この欄のノンフィクション本を担当してきましたが、今回で最後となりました。

最近になってようやくオンラインでも読めるようになったところということもあり残念ですが、長くやらせていただき、ありがたい仕事でした。「ひらづみ!」という名の通り、売れてる本から毎回自分で1冊選び、概ね隔月で17回書きました(全部載せ切れてないですが、14回目までは こちらから、紙面の画像で読めます。 読売新聞月曜夕刊 本よみうり堂 の「ひらづみ!」欄の書評コラム )。

ところで、自分は子どものころは本に全く興味が持てず、ほとんど本を読まないまま10代を終えてしまいました。

大学時代までにちゃんと読んだ本は通算10冊あるかないかというレベル。読書感想文は、一度読んだ漱石の『こころ』で中高で何度も書き、高校の時は『火垂るの墓』をアニメを見るだけで本の感想文を仕上げました。

国語は苦手で、高校入試直前の模試では、国語だけ極端に成績が悪く、確か、625人中598番で偏差値34でした(直前にかなり衝撃的な順位だったのでよく覚えています)。第一志望の高校では本番の国語で、幸運にも、古文の文章が読んだことあるもので「うおおお、助かった!」と感激したことを覚えています(それで合格できたのかも)。

大学に合格した時、真っ先に思ったことの一つが、「これでもう本とか一切読まなくていいんだ、数学や物理だけをやっていこう」ということでした。

というくらい、活字を読むのが苦手かつ縁遠かったので、いまでも本を読むのがとても遅く、我ながら残念な限りです。

そんな状態から大学時代にライターを志すようになったのにはいろいろ紆余曲折があったのですが、いずれにしても、そんなだったので、この欄の担当メンバーの一人として、定期的に書評を書く機会をいただけたことは、自分にとってもとても貴重な経験でした。

さすがに文筆業を20年以上やってきたので、いまでは、読むのが遅くとももちろんそれなりに読みますし、本っていいなあとことあるごとに感じています。ただ、本を読むことが自分にとって自然な営みにになってきたのはここ数年の気がします。

書評を書く機会は今後も他紙誌で少なからずありそうなので、また見つけたら読んでいただければ嬉しいです。

『ナチスは「良いこと」もしたのか?』書評の記事誌面↓

『遊牧夫婦 はじまりの日々』<6 Uさんの死>

毎日、TBSラジオ<朗読・斎藤工 深夜特急 オン・ザ・ロード>を聞き、深夜特急の旅を一緒にしている気分になっています。もうトルコまで来てしまった。そして聞いてる途中で本当によく、自分自身が旅をしていたころのことを思い出します。

昨日は聞きながら、自分は旅をしてなかったらどんな人生を送っていたかを想像し、その一方で、旅をするきっかけをくれた大切な友人について思い出したりしていました。

ふと懐かしくなって、『遊牧夫婦』の中でその友人の死について書いた章を読み返し、そしたら、いろんな人に友人のことを知ってもらいたくなり、その章「6 Uさんの死」をアップすることにしました。彼の死から今年で20年。自分の年齢は当時の彼と離れていくばかりだけれど、その一方で、最近、死がいろんな意味で身近になってきたゆえに、彼との距離が近づいているような気もします。

本を読んで下さった方からもっとも言及されることの多かった章の一つでもあります。よかったら是非読んでみてください。

6 Uさんの死

「八月五日に兄が亡くなりました。とても静かな顔で、まるで、眠っているようでした」

高校時代の友人からそんなメールが届いたのは、まだバンバリーでの生活を始めて間もない二〇〇三年八月十一日のことだった。

「兄」といっても、「友人の兄」としてちょっと知っているという程度の関係ではない。「兄」もまた、ぼくと同じ高校で、二つ年上のバスケ部の先輩としてぼくは彼と知り合った。そしてその後、大学で同期になったことによって、ぼくは「兄」と仲のよい友人として付き合うようになった。その彼が、日本で命を絶ったというのだった。

何の前触れもない突然の知らせで、メールを読んでぼくはとても動揺した。ワンダーインのコンピュータスペースで、驚きのあまりしばらく呆然とした。

彼は、親しい友人という以上に、明らかに自分が大学時代にもっとも影響を受けた人の一人だった。なんといっても、ぼくが何年にもわたって海外で生活しようと思ったきっかけを与えてくれたのが、まぎれもなく彼だったのだ。

その彼が、この世を去った。そのことがすんなりとは納得できないまま、ぼくは自分が知っている彼のいろんな姿をコンピュータの前で思い出していた。先輩・後輩から始まった関係で、ずっとぼくは彼を「○○さん」と呼んでいたので、以下、Uさんとする。

Uさんは、高校時代からおしゃれで都会的で大人びた雰囲気を持った、とにかくかっこいい先輩だった。そのころは部活の一先輩後輩という程度の付き合いだったが、その時代から数年がたったある日、思わぬところでぼくは彼と再会することになった。

それは、Uさんが高校を卒業してから二年以上がたっていたときのことで、ぼくはその何カ月か前――ちょうど阪神・淡路大震災が起きた直後で、地下鉄サリン事件が起きる直前の二月――に大学受験に失敗し、浪人界へ暗く静かなデビューを果たしたばかりのころである。ぼくが通っていた駿台予備校がある東京・御茶ノ水の本屋「丸善」で、ばったりと出会ったのだ。

「おお、コンドー!」

ちょっといたずら好きそうで、でもいつもながらの凛々しい笑顔と軽快な口調の彼に、ぼくは呼び止められた。黒く焼けた肌を、いますぐにでもインドに行ってしまいそうなシンプルな衣服に包んだUさんがそこにいた。彼がすでに、ある私立大学に入学していたことを知っていたぼくは、こんな浪人たちの巣窟で参考書を片手に持った彼と会うことが意外だった。あれ、どうして……? と聞くと、

「おれ、大学やめたんだよ。カンボジアに行ってアンコールワットを見てさ、すげえ衝撃を受けて、どうしても建築をやりたくなって。帰国してからすぐに大学やめてさ、いまは建築学科に入り直そうと思って、もう一度予備校に通い出したんだ」

そう言って彼は、どんよりとした浪人時代を過ごしていた自分とは全く異なる明るいエネルギーをみなぎらせながら、参考書を選んでいた。ぼくは当時、大学で物理学を真剣にやりたいと思っていたバリバリの理系男子で、旅をしたいと思ったことなど一度もなかった。だから、「カンボジアでアンコールワットを見て感動して大学をやめる」という流れ自体が、よく理解できずにいた。

しかし、とにかくかっこいい遊び人で夜の東京を駆け回っているような印象のUさんが、自分には未知の外国で本当にやりたいことに気が付いて、大きな一歩を踏み出そうとしているらしいことは、新鮮な刺激となった。

それからたまに予備校で会ったりしながら、ともに一年の浪人生活を終えた春、ぼくらは同じ大学に入学することになった。Uさんは、受験当日に会場で会ったときは、「おれは記念受験だよ」などと笑っていたが、ふたを開けてみればしっかりと合格を手にしていた。ぼくが本格的に彼とつるみ出したのは、それからのことである。

類は友を呼ぶのか、浪人は浪人を呼び、大学時代のぼくの友だちには一浪した同い年の人間が多かった。その中に、年齢的にはぼくらの二つ上をいくUさんもいた。

彼はただ年上であるという以上に、カリスマ的なかっこよさと陽気なキャラ、そして、豊富な遊びと旅の体験に裏打ちされた確固たる豪快さと幅の広さがあった。都会らしいスマートさを漂わせつつも、アジア、アフリカ、南米などを数カ月から半年の単位で旅し続けている経験をもとに、とにかく旅が面白くすばらしいものであることを、色白でもやしっ子なぼくらに全身で教えてくれた。

エチオピアからだったか、ぼくらに手紙をくれ、彼の興奮を短く伝えてくれたこともあった。また、外国にいても「ホットメール」を使えばメールを送受信できるんだよ、と教えてくれて、当時まだ、大学に行かないとメールが出せず、家で手書きのファックスを夜な夜なオーストラリアに送ったりしていた自分は、へえ、そうなのか、すごいなあ、とびっくりしたことを覚えている。

またUさんは、大学の授業にも手馴れたメリハリをよく効かせた。単位を落としそうな科目については、「試験が悪かったら、あとは政治力だよ。×○先生には菓子折りだ、がはははー」などと言って、オトナのやり方があることを見せてくれたりもするのであった。

一般教養の授業では、相対性理論だったか量子力学だったか、難しい物理学の授業を一緒に受講し、ぼくは自分が物理学を志す身なのにほとんど理解できないことをまずいなあと思っていると、Uさんは頭のよさそうな本を手に、なんとなくそれらしいことを言っている。よく聞くと、やはり彼もわかっていないのだが、それっぽい本を携えることによって、ちゃんと物理学をファッションへと昇華させる術を心得ていて、Uさん、やっぱりさすがだなあ、と笑わせてくれたりするのである。

そして一九九七年十二月、すなわち大学二年の冬、ぼくが「ストーカー」時代を成功裡に終えて、今度は楽しく前向きな旅行のためにその年最後のオーストラリアへと向かうときには、Uさんが他の友人とともに、車でぼくを成田空港まで送ってくれた。

車内にはジミヘンの曲が流れ、軽快な走りでレインボーブリッジを渡って空港に向かった。ぼくも、その数カ月前の悲愴感溢れる旅立ちとは違い、今度ばかりは楽しいオーストラリア滞在になりそうで気持ちはとても軽かった。

空港が近づいてくるとUさんは、助手席に座るぼくに言った。

「パスポート、出しとけよ」

するとその直後、空港のパーキングの入り口で係員がUさんに、「免許証を――」と言うか言わぬかのところで、Uさんはすかさずぼくのパスポートを差し出した。すると係員は、パスポートを見て、「はい、いいですよ」と通してくれた。通り過ぎると、Uさんがニヤリと笑った。

「おれ今日、免許証忘れちゃってよ。ここ、ヤバイなって思ってたんだけど、お前らに言うときっと動揺すると思って、言わなかったんだよ」

さすがUさん、とぼくは思った。たしかに、Uさんが免許証を持っていなくて空港に入れないかもしれないことを知っていたら、この係員の前でぼくは若干不自然な挙動をとっていたかもしれなかった。けれどUさんが機転を利かせてくれたおかげでそうはならず、ぼくはすんなりとこの年四度目のオーストラリアへと飛ぶことができたのだった。

いつもそんな感じで、Uさんはぼくらにはない余裕と貫禄を見せてくれた。旅で培ったワイルドさと都会的で洗練された華やかさがいい具合に調和されて染みついている人で、とにかく別格の魅力があったのだ。そんなUさんの存在はぼくらの仲間内ではとても大きく、おそらく彼がいたからこそ、長期の旅をする友人が増えていった。

ぼくが学部卒業前にアジアを旅しようと思ったのも、やはりUさんの影響が大きかった。行き先がインドになったのも、Uさんに、「どこか一カ所っていうなら、インドかな。やっぱりインドは違うよ」と言われたことが決め手となった。そのインドでの体験によってぼくは旅の魅力に激しく惹かれ、この長期の旅について考えるようになったのだ。

「旅をして生き続けることができたら、めちゃくちゃ幸せなんだけどな。でも、そうはいかねえよなあ」

牧歌的な学生時代の終わりが近づき、自分の生き方を各自が真剣に考えなければならない時期がやってくると、Uさんはそんなことをよく言った。どうやってこの社会の中で生きていくべきなのか、何が自分にとって一番いい選択なのか。そう考えるとき、Uさんの中にはいつも旅のことがあったのだと思う。彼は本当に旅が好きだったのだ。

彼の言葉を聞きながら、そんなことができたらいいよなあ、とぼくも漠然とは思ったものの、実践しようとは考えてもいなかった。だがそのときすでに、Uさんと日々接する中で、旅がいかに魅力的なもので、かつ人をたくましく育てるものなのかを、肌で感じていたことは確かだった。Uさん自身の魅力が、そのままぼくらにとっては旅の魅力と映っていたともいえるのだ。

しかし、皮肉なことに、そんなUさんを少しずつ別の方向に変えていったのもまた旅だった。いつだったか、Uさんはたしか半年ほど南米に行ったが、帰ってくると明らかに様子が変わっていたのだ。

最初はただ、旅の疲れか何かで体調が悪いだけかと思っていたが、言動がはっきりとそれまでとは違ったものになっていることにぼくらは気づいた。どうしたのだろうと、何度か尋ねたことはあったけれど、ペルーあたりでなにやら凄まじい経験をしたと言うだけで、彼は決してそれ以上詳しく話そうとはしなかった。少なくともぼくにはそうだった。

ただ明らかだったのは、Uさんが激しく厭世的になっているらしいことであった。

もともとUさんは、いまの世の中に対して旺盛な批判精神を持っている人だった。それはおそらく、簡単にいえば、旅をして世界を見て回る中で培っていったものの一つなのだろう。

その思いは、たとえばコンビニは利用しないなど、物質的で記号化した現代社会を象徴するものを避けるような形で、彼の行動の随所に表れていた。ただ以前は、そんなUさんの独特なポリシーは、常にUさん一流の明るいポップさを伴っていて、ぼくたちも「おお、Uさん、アツいなあ、こだわるなあ」、などといって笑って見ていられる陽気さとコミカルさがあった。

しかし南米への旅のあとに様子が変化してからは、その一つひとつが普通ではないシリアスさとストイックさで実践されるようになり、そこまでやらなくても、とぼくらが思うぐらいのものになっていった。彼はそれまでとは全く違うレベルで、いまの社会に対して違和感を覚えているようだった。すべてが薄っぺらく見えるいまの社会をなんとか変えないといけない、自分はこんないい加減な生き方をするわけにはいかないんだと、何かに追われ、思いつめているようにぼくには見えた。

そんなUさんが心の底に抱えている思いは、極めて真っ当で、ぼくたちにも激しく訴えるものがあった。とはいっても、誰もがあらゆることになんらかの形で妥協しながら生きていかざるをえなかったし、Uさんほどその信念をストイックに貫き、行動に移すことはぼくたちにはできなかった。

だんだんと会話がかみ合わなくなった。そしてときに非常に緊迫した言葉を発するようにもなっていった末に、すっかり大学にも姿を見せなくなってしまったのだ。

最後にUさんと話したのは、二〇〇〇年にぼくが大学院に入ったのちフィリピンに行こうとしていたときのことだったと思う。フィリピンについて何か教えてくれようとしたのか、突然電話をくれたときだった。詳細は思い出せないが、そのとき久しぶりに話したUさんは、やはり少し張り詰めた様子でぼくに何かを伝えようとしてくれていた。

その同じ年のことだったはずだ。ついに彼は外界との一切の接触を絶ってしまった。ぼくらの誰にも、Uさんに何が起こったのかはわからないままだった。

生前、彼の近況を最後に聞いたのは、それから三年後の二〇〇三年三月、東京で友人たちを招待して行ったぼくとモトコの結婚パーティーの日のことである。パーティーに来てくれたUさんの弟に、「Uさんどうしてる?」と聞くと、

「じつは兄貴、こんちゃんのパーティーに参加するって言っててね、渋谷までは一緒に来たんだよ。でも、やっぱりやめるって、帰っちゃったんだ」

その次に聞いた報告が、その五カ月後の、冒頭のメールだったのだ。

ワンダーインでの掃除の仕事を終えたあとに、そのメールを見て呆然としながら、ぼくは自分が知る彼のいくつかの姿を断片的に思い出し、もうその彼がこの世にいないんだ、ということを落ち着かない思いで繰り返し考えた。

キッチンで作ったパスタを夕食に食べたあと、ぼくはUさんの弟にすぐ返事を書き始めた。書きながらいろんなことを思い出した。「旅をしながら生きていきたい」と言っていた彼が、旅によって変わり、この世を去った。その一方、もともと旅にあまり興味もなかった自分が、彼と出会ったことをきっかけに、いま旅を生きようとオーストラリアで暮らしている。それが不思議だった。ぼくは、Uさんの弟への返事にこう書いた。

《(ぼくらの友人たちの)誰もがUさんの大胆な発想や生き方をどこかで自分と比べながら、どうやって生きていこうかって考えていたんだと思う。今現在の状況を見れば、おれはその中でもとくに、自分の生き方を考える上でUさんのことがいつも頭にあるんだと思っています。だからUさんには、言葉ではいえないような感謝の気持ちがあります。Uさんと同期で大学に入学して、ともにあの時代をすごせたことをとても幸運に思ってるし、そしてそれは、これからも間違いなく自分にとっては、とてもとても大きな財産になるんだと思っています》

人は何よりも、人との出会いによって変わっていく。そんなことを、Uさんと出会ったことによってぼくは感じるようになった。

この日、ワンダーインの部屋の中で、考えていた。Uさんから得たものを自分の身体に染み込ませて、ぼくはこの先何年になるかわからない旅生活の中で、どのような日々を送り、どのように変わっていくのだろうかと。

どんな絵も思い浮かんではこなかった。そして考え直した。想像などできないからこそ、人は旅をするのだろうと。

きっとUさんも、同じだったのだろうと思う。

(6 Uさんの死 終わり)


『遊牧夫婦 はじまりの日々』プロローグ全文

「トラヴェル・ライティング」のスクーリング授業(京都芸大通信教育部)を受講して下さった方へ

10月末に、京都芸大通信教育部で、トラヴェル・ライティングに関する2日間のスクーリング授業を行いました。その時に皆さんが書いてくださった紀行文を読み、僭越ながら若干のコメントをいま書いているところです。短い旅時間と短い執筆時間によく書いてくださったなあ……、と思うものばかりで、楽しく拝読しています。

そうした中、駆け足だった授業時間中にお伝えできなかったなあと思うことがいろいろと思い浮かんできました。蛇足かもですが、見て下さる方がいればと思い、授業の際にお伝えしたかったけれどできなかったことのいくつかをここに書いておこうと考えました。と言いつつ、もしかしたら授業で話したことと重複する部分もあるかもですが、よかったら参考にしていただければ嬉しいです。

                    *

まず、紀行文を書く上で、自分はこのような手順でやってます、ということを話しましたが、それはあくまでも自分にとっての方法で、そうやった方がいい、ということでは全くありません、ということは授業の中でもお話ししたかと思います。

自分はもともと、すらすらと文章が書けるタイプではありません。それゆえに、なんらかの手順があった方が書きやすく、長年いろいろとやっていくうちになんとなく、このような手順で書いているなあという方法ができていきました。その方法や考え方を、皆さんの参考までにお伝えした感じです。人それぞれ、どのように書くのがよいか、というのは全く違うと思うので、僕が授業でお伝えした方法や考え方の中で「なるほど、そのようにしたら書きやすい」といったことがあれば、参考にしていただければと思いますし、「いや、自分は全然別の書き方の方が書きやすい」ということであれば、ご自身の方法を優先する方がよいと思います。

ただいずれにしても、どんな文章を書く上でも、自分なりの手順や方法、あるいは型のようなものを身に付けておくことは、文章を長く書き続けていく上で大切だと思っています。それがあると、ひとまず書き出せる。たたき台ができる。するとその先に進めます。

文章が自然に湧き出てくる人にはそのような型は必要ないかもしれないなと想像しつつも、自分の場合は、そういう型がそれなりに身に付いてきたゆえに、なんとか文章を書き続けられているように思います。

一方、逆説的かもですが、いま自分としては、なんとなくてできてきた型をどうやって崩していくかということが、重要になってきています。その型にはまらない文章を書きたく、しかしそれがなかなかできず、どうすればいいのだろうかと悩んだりしています。

でも、そのように考えられるのも、ひとまず自分なりの型があるからこそだとも思います。型があるから、それを壊す、という次の道ができてくるのだろうと。そういう意味も含めて、それぞれ、ご自分の書き方、型、というものを身に付けていってほしいなと思います。

また、その際に、この人のような文章を書きたい、という自分の理想形のような書き手を持っておくことはとても大きな助けになると思います。目指すところがあると、自分が何をすべきかが見えてくるはずだからです。自分にとっては学生時代に、沢木耕太郎さんの文章に出会い、沢木さんのような文章、ノンフィクションを書きたいと心から思えたことが、大きな指針を与えてくれました。

旅に出る前には沢木さんになんとか自分の文章を読んでもらおうと手紙を書き、厚かましくも、自宅のプリンターで印刷したどこに載るあてもない文章を出版社経由でお送りし(その結果どうなったか…といったあたりは『まだ見ぬあの地へ』に書きました)、長い旅に出てからも、沢木さんの文庫本数冊(『敗れざる者たち』『紙のライオン』『檀』『彼らの流儀』『人の砂漠』あたり)をバックパックに入れて、記事を書くたびに、沢木さんの文章の構成、文体、書き出し、を参考にし、真似していました。一人で文章を書いていく上で、ほとんどそれだけが自分にとっての指針でした。

ただ、型の話と重なりますが、自立した書き手として長くやっていくためには、好きな書き手を真似るということをどこかでやめ、自分自身の書き方を身に付ける必要があります。自分はどう書いていくのか、何を軸にして書いていくのか、といったことを模索していかなければなりません。僕は、沢木さんのような作品を書きたい、という当初の思いはいまなお全く実現できてはいないけれど、少なくとも、自分なりの方法、文体というのは、いつしかなんとなく自分の中にできていったような気がしています。その過程においてやはり、この人のような文章を書きたいと思える書き手がいたことが本当にありがたかったです。そうした経験から、好きな作家・書き手を持てることは、文章を書いていく上で大切なことであり、幸せなことだと僕は考えています。
                   
20年ほど文筆業をやってきた中で強く思うのは、書く上での「技術」を身に付けることはとても大事だということです。文章はこれといった技術がなくとも書くことはできるし、こう書くのが正しいという正解もありません。むしろ技術なんてない方が、思いが伝わる場合もあるかもしれません。でも確実に、書く上での技術はある。長く書き続けようと思えば、そのような、基盤となる技術がとても重要になってくることを実感してきました。

だから大学で授業をするのであれば、自分は、自分なりにその技術の部分を伝えないといけないと思ってきました。紀行文に関して言えば、授業中にお話した自分なりの手順・型のようなものがそれにあたります。その部分を授業でお伝えして、各人がそれぞれにあった形で自分の中に取り入れてもらって、自分自身の型・方法を構築していってほしいと思っています。それが大学で学ばれる上で最も大切なことだと考えています。

しかしその一方で、技術では人の心は動かせないとも痛感してきました。やはり、人の心を動かすのは、書き手の思いであり、言葉にどれだけ気持ちを込められるかだと思います。

それはその書き手の生き方、考え方、これまでに経てきた悲しみや喜びなど、その人自身の人生が問われます。取材して書くのであれば、書かれる側の気持ちや、読む人たちの思いにも想像力を働かせられるか。また、書くことに伴う責任などを意識できるか。文章を書くということは、そういったあらゆることが問われているように思います。

文章を書くことの魅力でもあり怖いところは、そうしたその人自身の人間性のようなものが、必ずどこかに滲み出ることです。それは文章に書かれた主張そのものではなく、一文一文のちょっとした表現や語尾などに表れるもののように思います。本一冊分くらいの分量の文章を書くと、避けがたくその人自身が表れるものだと感じます。

その点をどうすればいいかは、おそらく人から学ぶことはできないし、日々を生きていく中で自分自身で作り上げていくしかありません。そしてそれだからこそ、一人ひとり、異なる人が書いたものに価値があるのだと思います。文章を書くこと自体は決して好きとは言えない自分が、それでも書きたいものがあり、書き続けてこられたのはそれゆえのようにも感じます。

技術と思い。

その両面を身に付けていくことを、大学で学ばれる中で意識していってほしいなと思っています。

……と、そんなことを、授業の中で伝えられていたら、と、みなさんの紀行文を読みながら思ったのでした。とりわけ今回、そんな気持ちをこのような文章にしようと思ったのは、こないだのトラヴェル・ライティングが、京都芸大における最後の授業だったからのようにも思います。最後の授業にお付き合いくださって、どうもありがとうございました。

少しでも、皆さんの今後につながることをお伝えできていたらと願っています!