9月23日(祝) 名古屋市の守山図書館で吃音をテーマとして講演します

9月23日に、名古屋市の守山図書館で吃音をテーマとして講演させていただきます。演題は

「吃音とは何か "伝えられないもどかしさ"の中を生きる100万人の苦悩」

『吃音 伝えられないもどかしさ』を出版した5年前は、自分の中で吃音に関する悩みはほとんどなくなったと思っていました。しかし、それからの5年の間で、吃音の症状に関しても浮き沈みがありました。また、症状とは別に、自分自身の性格や生き方、書き手としてのあり方に、ずっと影響し続けていることを感じさせられています。つくづく一筋縄にはいかないなあと感じます。

ご興味のある方、よろしければお気軽にご参加ください。人数も多くなく、交流の時間もあり、アットホームな場になりそうだなあと想像しています。

以下のURLよりお申込みいただけます。今日9月3日から受付開始になりました。どうぞよろしくお願いいたします。
https://eventwebreserve.tackport.co.jp/eventUsr_ngy/main/view/4889

6月に朝日新聞Re:Ronに寄稿した文章もよろしければぜひ。
マリリン・モンロー、エド・シーランも当事者 吃音の苦しみと理解

生産性という言葉に蝕まれているの感じながら思い出した、生産性を求めていた自分

朝日新聞Re:Ronに掲載された「微うつ」歴50年の異変…ヨシタケシンスケさんと「助けてボタン」を読んで、「生産性」ということについて考えました。

ここ数年、自分自身、生産性の魔にがんじがらめになっている感じがします。生活していくためにそうならざるを得ない部分もあるものの、じつは自分で自分を必要以上に焦らせているような気も。ヨシタケさんの言葉にはとても共感しました。

一方、自分は、「もっと生産性の高い生活をしたい」と思っていた時期がありました。長い旅から帰国したすぐあとのことです。そんなころにあった忘れられない出来事について書いたエッセイを『まだ見ぬあの地へ』に載せています。「旅の生産性」というタイトルの文章です。思い出したのでこちらに転載します。「旅が非生産的」だとすれば、それを5年間も続けられていたことはいかに豊かなことかと思います。「旅は非生産的だ」という言葉がいまは、まるっきり別な意味に聞こえます。ここに書いた友人とは、それ以降連絡を取ってないのですが、機会があったら、このことを直接話したいなあ…。

(以下、『まだ見ぬあの地へ 旅すること、書くこと、生きること』(産業編集センター)より)

旅の生産性

「『旅は非生産的だ』って近藤さんは言っていましたが、どういうことなのでしょうか」

『遊牧夫婦』の旅を終えて日本に帰ってきた直後、二〇〇八年の暮れに、ぼくは一人の友人からそんな内容が書かれたメールをもらいました。

友人というのは、その前年の二〇〇七年に中央アジア・キルギスの首都ビシュケクで知り合った二〇代の女性です。ぼくらが中央アジアを東から西へと移動しているときのことで、彼女は確か一週間ぐらいの日程でキルギスを訪れていて、宿だったかで一緒になったのでした。

それから一年ほどが経ち、ぼくらが五年間の旅を終えて帰国して少ししたころ、彼女を含めキルギスで一緒だった数人と、東京で再会する機会がありました。そのときぼくは、自分たちが日本に帰ってきた理由について彼女にこんなことを言ったのです。

「五年間、ずっと旅の中にいたら、ふと、『おれ、何やってるんだろう』って思うときが出てきたんだよね。ただ移動を繰り返してるだけの日々に嫌気がさしてきたというか。旅って、なんていうか、非生産的だし、だからもっと、仕事をしたりして生産的な生活がしたい、って思うようになった。それも日本に帰ろうって思った大きな理由の一つだったんだ」

その場では彼女は特に何も言わなかったものの、ぼくのその言葉が引っかかっていたようでした。そのすぐあとに、冒頭のメールが彼女から届いたのでした。

 

そのころぼくは、日本に帰ってまだ数カ月しか経っていなく、ライターとしてやっていくかどうかもはっきり決めていない時期でした。京都に住むことは決まったものの、いきなりフリーのライターとして食べていける自信など全くなく、とりあえず理系の仕事に就いて、会社などで働きながら細々と書いていくしかないかなと思い、派遣の登録に行ったりする日々を送っていました。しかし、就職経験が一切なく、五年間海外をふらふらしていた三〇代の自分にとって、就職先を見つけるのは想像以上に困難であるのがだんだんとわかってきました。こちらが興味を持った会社は、どこも会ってもくれませんでした。最初はタイミングが合わないだけかと思ったのですが、何らかの理由をつけられて「会えない」と告げられるケースが続くうちに、そうか、これは拒絶されているのだ、と気がつきました。そして思ったのです。これはもう、覚悟を決めてフリーライターでいくしかないな、と……。

ただ、いずれにしても、何をやっていくにしても、ちゃんと仕事をして、日本で普通に生活できるようにならなければ、という思いが強くありました。そして、旅に対しては、倦んでいたとも言える気持ちを抱いていました。それが言い過ぎでも、旅することに疲れ切り、とにかく、じっくりと腰を据えた生活がしたかった。

その気持ちの中には、自分は三二歳にもなりながら、社会に対してほとんど何も生み出すことができていない、積極的にかかわることもできていない、という焦りのようなものがありました。まずは日本でしっかりと稼いで食べていくということを最低限実現しなければいけない。そのためには自分が何かを生み出さなければいけない。しかし自分にとっては、それが決して容易ではなさそうなことをこのころ実感するようになっていたのです。

そう思うのと表裏一体な気持ちとして、良くも悪くも雑誌の原稿料などのわずかな収入で細々と食いつないでこられてしまった旅中の自分が、やたらと非生産的であったように感じるようになりました。そしてそのことをネガティブに捉えるようになっていました。「旅は非生産的だ」と負の意味合いで言ったのは、当時の自分のそのような状況と内面の表れでした。

 

そんな時期から、三年以上が経ちました。

いまは一応、文章を書いて最低限食べていけるようにはなっています。生産的でありたいという思いも、それなりに満たされるようになりました。でもその一方、毎日、仕事や子育てに追われ、旅らしい旅など全くできなくなっている中で、過去の旅を思い出しながら紀行文を書いていると、旅をしたい、と思う気持ちが再び強烈に湧き上がってくるのを感じます。

正直なところぼくはこれまで、紀行文の面白さ、魅力というものを、さほど感じたことがありませんでした。それゆえに、もともとは紀行文を書くつもりはなかったのですが、いろいろな経緯から『遊牧夫婦』などを書くことになり、いまもずっと書き続けています。さらに昨年からは大学で紀行文についての講義を担当するようにもなりました。

そうした中、ようやくいま、紀行文は面白いと確信をもって人に伝えられるようになっています。一言でまとめることは困難ですが、それはおそらく、旅というものが人間にとっていかに普遍的で必然的な行為であるのかを、自分自身の旅を振り返りながら文章化することを通じて、実感できるようになったということなのだろうと思います。

旅の持つ普遍的な魅力を感じられるようになるにつれて、自分が三年半前に言った、「旅は非生産的だ」という言葉をふと思い出すようになりました。友人がぼくに対して、「なぜそんなことを思うのか」と、おそらく多少の反感も抱きながら問うてきた気持ちがいまはよくわかる気がします。

そしていまはこう思います。旅は、何か具体的なものを生産する行為ではないかもしれない。でも、だからこそ、形では表せない無限の世界をその人の中に生み出すのだろう、と。

(2012・5)

今年も「旅と生き方」に関する講義を終えて(レポートを読んで思ったこと等)。

毎年前期に大谷大学で行っている、旅と生きることをテーマにした講義(人間学)も、今年でたぶん13年目くらいになりました。今年もようやく、レポートの採点、成績入力までを終了しました。

この講義は、旅が人生にどう影響するかということを、自分の長旅の経験や、様々な映像作品、世界情勢、歴史、文化などから語っていく内容で、毎年100人~200人くらいが受けてくれます。(講義の基本的な内容はこちらに書いています)

講義を受けて、少なからず影響を受けてくれる学生が毎年何人かはいるように感じます。ある年は、講義が終わったあとに休学してユーラシア横断の旅に出てくれた学生もいたし、行くかどうしようか迷っていた留学を、行くことに決めたと伝えてくれた学生もいました。またその他に、進路の相談や留学の相談をしに来てくれた複数の学生も含め、彼らの姿を見て、旅について考えることは、学生たちにとって大きな意味があるように感じています。

そのような中、今年度の講義のレポートを読み終えて、今年はとりわけ、いろんなことを感じてくれた学生が多かったかもしれないように思いました。

ある学生は、全然大学に行けてなかった中、たまたまこの講義をとって聴いていくうちに、いろんな生き方があっていいんだと思うようになり、背中を押され、そのうちに他の授業にも出られるようになったと書いていました。

またある学生は、姉が高校卒業後に海外の大学に進学し、そのままその国で就職して現在に至るとのことでした。その学生は、姉がどうしてそんな選択をしたのかがわからず、かつ、遠くに行ってしまったことがショックだったこともあり、姉の出国以来、かれこれ5年ほどほとんど連絡しないままだったとのこと。しかし、この講義を受けて彼女は、姉がどうして海外に行くという選択をしたのかがわかったような気がした。そして、姉にちゃんと連絡をしてみることに決めましたと書いてくれていました。

また、最近難病であることがわかったという学生は、これからどうやって生きていこうか途方に暮れる気持ちだったけれど、世界にはいろんな生き方をしている人し、いろんな生き方をしていいんだということを講義を通じて感じ、自分も自分の道を生きていけるような気がするようになった、と記してくれていました。

他にも多くの学生が、内面の深いところの変化について書いてくれました。僕の講義がまだ途中の段階で旅に出かけたくなってバイクの旅に出たという学生もいたし、夏休みに旅に出ることにしましたと書いている学生も複数いました。そして旅というテーマを通じて自分自身のこれからの生き方を真摯に考えていることが伝わってくるレポートがいくつもありました。

そんなみんなのレポートを読んで、僕自身がとても励まされました。この講義を12,3年やりながらも、なぜかいまも毎回毎回、緊張してしまうのだけれど(それは自分の性格ゆえ)、そんな緊張感を抱えつつも講義をやってきてよかったなと思いました。

一方、こんな講義をしながらも、じつは自分がいま全然旅をしていません。2020年の初頭にタイに行った直後にコロナ禍が始まったこともあり、以来海外が遠くなり、精神面や生活面でも思うようにいかないことが多くあり、気づいたらパスポートも切れてしまっていました。

そのように旅がすっかりと遠のいてしまった自分ですが、みんなのレポートを読んで、皆が旅の可能性を強く感じてくれたのを知って、自分自身もまた、短くてもいいから近いうちに旅がしたいと、いまとても強く思っています。

皆が講義に興味を持ってくれたことで、逆に自分自身がいま、旅の可能性を改めて強く感じています。

講義を聴いてくれた皆さんのこれからの人生を、陰ながら応援しています。「偶然性」と「有限性」を心に留め、そして「脱システム」を――。

デイリー新潮に記事掲載 <吃音をコントロールして流暢に話せるようになったはずの男性が、なぜあえて「どもる」話し方に戻したのか>

拙著『吃音 伝えられないもどかしさ』で全てをさらけ出してくれたTさんの現状について、記事を書きました。(7月5日、デイリー新潮掲載)

Tさんは現在、決して楽ではない状況にいます。その困難を、率直に語ってくれました。記事の中にも書きましたが、僕は彼に対して、取材を通して尊敬の念をも抱くようになりました。なぜその彼に、このような大変なことが起きるのだろうと、思わざるを得ません。広く届いてほしいです。

<吃音をコントロールして流暢に話せるようになったはずの男性が、なぜあえて「どもる」話し方に戻したのか>

吃音についての論考を、朝日新聞「Re:Ron」に寄稿しました

朝日新聞Re:Ronに初めて寄稿しました。再び自分の吃音が気にかかるようになっている今、思うことを。

マリリン・モンロー、エド・シーランも当事者 吃音の苦しみと理解
(有料記事ですが、8割程は無料で読めます)

吃音については、認知が広がり、社会の見方も変わり、取り巻く環境は近年大きく変わってきました。それは本当に良いことだと思うけれど、しかし、当事者の核にある困難はあまり変わっていないのでは、ともよく思います。それはおそらく、あらゆる生きづらさについて言えることなのでは。

そしていま、刑務所にいる知人の思いを届けたく、書きました。

こういうことを子どものころに教わりたかった――『君の物語が君らしく──自分をつくるライティング入門』 (岩波ジュニアスタートブックス)

僕はもともと、文章を読んだり書いたりすることに全く興味が持てなかった。子どものころ、本は嫌いで一切読まずで、たぶん、大学に入学するまでの18年ほどの間に積極的に読んだ本らしい本は、10冊あるかないかだと思う。記憶にあるところで、祖母で勧められて中学時代に読んだ『君たちはどう生きるか』、その流れで少し興味を持って読んだ山本有三の『路傍の石』『心に太陽を持て』など。あとは、読書感想文のために『こころ』を、中学、高校で読んだのと、中高時代に強く影響を受けた尾崎豊の小説は1,2つ読んだように思う。が、それくらい。また中学時代、塾では国語の成績だけ極端に悪かった。受験直前の模試で、国語が625人中598番で偏差値34。この数字はインパクトが強くて30年以上たったいまも覚えている。国語は完全に捨てて、残りの4教科で勝負しようと覚悟を決めたのもよく覚えている。

いずれにしても、そんな具合で本当に本や国語的なものとは縁が遠い幼少期で、その一方数学や物理がとても好きだったため、将来は物理学者などになりたいと思っていた。大学で合格した時にはまず「これでも国語の勉強をしなくていい、本を読まなくてもいいんだ」と思ったほどだ。

しかしそれが、大学時代のあれこれを経て、ノンフィクションを書きたいと思うようになり、そのまま、20年以上文筆業を生業としているのだから人生はわからないなと思う。

そしていま、なぜあんなに文章を読んだり書いたりするのが嫌だったのかと思ったりもするのだけれど、『君の物語が君らしく──自分をつくるライティング入門』 (岩波ジュニアスタートブックス)を読んで、少し当時の自分の気持ちが見えたような気もした。


この本は、書くことが持つ喜びや豊かさについて、平易で優しい言葉で書かれている。当時の自分のような、読み書きが好きだったり得意だったりしない子どもに寄り添い、語りかけてくるような本である。著者の澤田さんは現役の国語の教員である。きっとそういう子どもたちの姿を間近で見てきて、彼らの気持ち、彼らにどうやったら書くことの楽しさが伝わるのだろうとずっと考えてきたのだろうなと思った。

自分には、文章を書くことが楽しい、という感覚なんて当時一切わからなかったし、楽しいものなのかもしれない、と考えたことすらなかったと思う。読書感想文もひたすら苦痛でしかなかった。それはまさにこの本にあるように、先生が求める正解のようなものを書かないといけないと思っていたからなのだろう。

澤田さんは、自分のために書く喜び、楽しさを、いろんな角度から語ってくれている。なぜ書くことが喜びになるのか。<「書くことが得意/苦手」ってどういうことなのか>。<書くことを、自分の手に取り戻す>ためには、どんなことをすればよいのか。そんな問いを通じて、上手い下手とは全く別の、書くことの意味や価値を感じさせてくれる。こういうことを子どものころにしっかりと教わる機会があれば、書くことへの見方は全く変わっていたかもしれないなと思った。この本に出てくる「作家の時間」という澤田さんの授業を受けられている生徒さんたちがうらやましくなった。

僕はいまなお時々、自分が文筆業を仕事にしていることが不思議になることがある。また、幼少期に文章に接してこなかったことのツケや、書き手として致命的に欠けているものがあるのも感じている。でもその一方でいまは、この本に書かれているような、書くことが自分自身に与えてくれる喜びや意味は実感としてわかるようになってきている気がする。

澤田さんが本書の中で紹介しているスティーブン・キングの『書くことについて』については、自分もとても好きな本(この本について書いた拙文はこちら)。キングがこの本の終盤に書いている次の言葉は、澤田さんの本のメッセージと通じると思う。

<ものを書くのは、金を稼ぐためでも、有名になるためでも、もてるためでも、セックスの相手を見つけるためでも、友人をつくるためでもない。一言でいうなら、読む者の人生を豊かにし、同時に書く者の人生も豊かにするためだ。立ち上がり、力をつけ、乗り越えるためだ。幸せになるためだ>

書くことの楽しさを知ることは、生きていく上で、大きな力となり、支えになる。いまは実感としてそう言える。

ものを書くのは、幸せになるためだ――スティーブン・キングの『書くことについて』

今年度、書くことについて授業したりする機会が少し増えそうな予感がある。であればこれまでよりも確固たる意識で臨みたく、こないだ本多勝一の『日本語の作文技術』を20年以上ぶりに読み返した。やはり名著だなと感じ、その流れで、スティーブン・キングの『書くことについて』も読み返した。

『書くことについて』は、10年程前、作家の新元良一さんに薦められて読み、大きな刺激をもらって以来、文芸学科の学生などによく薦めている。一度読んだきりだったので詳細は忘れてしまいつつも、読んだ時の気持ちの高まりや、おれももっと書こう!と思った気持ちだけはずっと頭に残っていた。久々に読み返すとまさに、「そうだった、この興奮だった」と、最初に読んだ時の気持ちを思い出した。

キング本人の自叙伝的文章から始まり、書くことについての具体的な方法論へと移っていく。全体として物語性があり、引っ張る力がすごい(田村義進さんの訳の良さもあると思う)。1つのノンフィクション作品のような作風だが、読み進めるほどに、「書くことついて」というテーマがいろんな形で伝わってくる。

自叙伝的部分からは、超大御所の作家でもやはり最初は苦労したんだなということが伝わってくるし(クリーニングの仕事や高校教師をしながら、作品を投稿しては不採用通知が届く、という時代がしばらくあった)、方法論の部分も、文章の技術的な点(とにかく文章はシンプルにしろ、と)、どう書き進めるか、原稿の見直しの仕方、リサーチの方法、編集者へ手紙を書く上で大事な点など、自身の経験に基づいた方法や考えを率直に、具体的に書いている。

方法論の中で特に印象的な部分がある。<ストーリーは自然にできていくというのが私の基本的な考えだ>(p217)というあたりだ。<作家がしなければならないのは、ストーリーに成長の場を与え、それを文字にすることなのである><ストーリーは以前から存在する知られざる世界の遺物である。作家は手持ちの道具箱のなかの道具を使って、その遺物をできるかぎり完全な姿で掘りださなければならない>

ストーリーは、土の中に埋まった化石のようにすでにそこにあり、それを丁寧に、傷つけずに掘り起こすのが作家の仕事だと言うのである。

<最初に状況設定がある。そのあとにまだなんの個性も陰影も持たない人物が登場する。心のなかでこういった設定がすむと、叙述にとりかかる。結末を想定している場合もあるが、作中人物を自分の思いどおりに操ったことは一度もない。逆に、すべてを彼らにまかせている。予想どおりの結果になることもあるが、そうではない場合も少なくない。サスペンス作家にとって、これほど結構なことはないだろう。私は小説の作者であると同時に、第一読者でもある。私が結末を正確に予測できないとすれば、たとえ心のなかでは薄々わかっていたとしても、第一読者はページをめくりたくてうずうずしつづけるだろう。いずれにせよ、結末にこだわる必要がどこにあるのか。どうしてそんなに支配欲をむきだしにしなければならないのか。どんな話でも遅かれ早かれおさまるべきところへおさまるものなのだ>(p219)

この言葉は、小説に限らずさまざまな文章を書く上でのスタンスとして、すごくヒントになる気がした。

方法論について書かれたあと、再びキング自身の話に戻るのだが、そこには、1999年の大事故について書かれている。彼は散歩中にヴァンに轢かれ、生死の境をさまようほどの大けがを負ったのだ。それはこの本を書いている最中のことだった。病院での苦しい治療中に彼は考える。<こんなところで死ぬわけにはいかない。> <もっと書きたい。家に帰れば、『書くことについて』の書きかけの原稿が机の上に積まれている。死にたくない>(p346)……。

その章の最後は、大事故による困難を経たあとの彼の、書くことについての思いで結ばれているが、その言葉が深く響いた。

<ものを書くのは、金を稼ぐためでも、有名になるためでも、もてるためでも、セックスの相手を見つけるためでも、友人をつくるためでもない。一言でいうなら、読む者の人生を豊かにし、同時に書く者の人生も豊かにするためだ。立ち上がり、力をつけ、乗り越えるためだ。幸せになるためだ><あなたは書けるし、書くべきである。最初の一歩を踏みだす勇気があれば、書いていける。書くということは魔法であり、すべての創造的な芸術と同様、命の水である。その水に値札はついていない。飲み放題だ。/腹いっぱい飲めばいい>(p358-359)

文筆業をはじめて20年以上が経ち、いま、書くことは自分にとって、生きるための手段という側面が随分大きくなってしまった。だからこそか、この言葉はすごく響いた。強く背中を押してもらった。読者を幸せにし、自分も幸せになるために――。

あと一点、どこだったか見つけられなくなってしまったけれど、前半に書いてあったこと。投稿しては不採用の通知をもらうという日々でのことだったか、作家デビュー直前のころのことだったか。ある編集者がかけてくれた一言によって、救われた、といった話があった。

それを読んで思い出したのが、自分が旅に出る前に、「週刊金曜日」のルポルタージュ大賞に応募した時のことである。確か原稿を送ったのは2002年の年末で、2003年3月に発表があった。送ったのは、吃音矯正所について書いた原稿用紙50枚ほどのルポルタージュ。

受賞の連絡はないままに結果発表の号が発売する日となったので、「ああ、だめだったんだな……」とがっくりしながらその号を手に取った。結果発表のページを見ると、やはり受賞はしていなかった。ところが意外なことに、誌面に自分の名前が見えた。編集長が講評の中で、自分の応募作について触れてくれていたのである。確かこんな主旨の言葉だったと記憶している。

<近藤さんの吃音矯正所のルポもよかった。ただ、構成の面でもう少し工夫がほしかった。次回作に期待したい>

その言葉は、実績もなく先行きも見えないまま、ライターとしてやっていくために日本を離れる直前だった自分にとって、かすかな、しかし大きな希望となった。その言葉があったから、結果発表のすぐあとに思い切って「週刊金曜日」の編集部を訪ね、なんとか載せてもらえないかと相談に行けた。結果、分量を半分くらいにし、追加取材をすることで掲載してもらえることになった(その記事)。そうして初めて、自らテーマを決めて書いた記事が雑誌に載ることが決まり、一応はライターと名乗ってもいいだろうと思える状態で6月、日本を出発することができたのだった。

その時の編集長は岡田幹治さん。2008年に帰国した後、同編集部に挨拶に行ったときにはすでに編集長を退任されていたのでお会いすることはできなかったが、あの一言が自分の背中を大きく押してくれたことは間違いない。いまもとても感謝している。

その岡田幹治さんが、2021年7月に亡くなられていたことをいま知った。

確実に時間が経った。いまやるべきことはいまやらないと、と改めて思う。

AIR DOの機内誌「rapora」に、<能楽師・有松遼一と巡る 源氏物語の京都>を執筆

北海道の航空会社AIR DOの機内誌「rapora」2024年4月号(4月1日発行)に記事を執筆しました。

<能楽師・有松遼一と巡る 源氏物語の京都>

大河ドラマ「光る君へ」によって『源氏物語』が盛り上がる中、舞台となる京都にある物語ゆかりの地を紹介しようという6ページの特集記事です。案内役となってもらったのは、若き能楽師として活躍する有松遼一さん。京都在住の有松さんとは友人でもあり、この特集の案内役に彼以上の適任はいないだろうと、依頼することになりました。取材・執筆は、僕と堀香織さんで担当し、撮影は松村シナさん。

有松さんとの打ち合わせで4か所のスポットが決まり(夕顔町、上賀茂神社、野宮神社、宇治川)、有松さん、堀さん、松村さん、そして制作会社である140Bの営業・青木さんとともに、昨年末に取材。記事を書きながら、この4か所を通じて『源氏物語』の大きな流れが見えてきて、学び多く楽しい仕事になりました(取材も大人の遠足のようで楽しかった!)。有松さんに案内役になってもらえて本当によかったです!

『光る君へ』もきっとさらに楽しくなるかと思います。
AIR DOご利用の機会には是非手に取ってみてください。







本多勝一さんの『日本語の作文技術』を20年以上ぶりに再読し、この本から受けてきた多大な影響に気がついた。

文章を書く上で自分が最も影響を受けてきた書き手は、沢木耕太郎さんだ。最初の出会いは確か、学部時代、研究室のスタッフだった女性に『一瞬の夏』を勧められたこと。その後、大学4年の卒業前に数週間インドに行った後に『深夜特急』を読み、そこから沢木さんのノンフィクション作品を次々読んだ。そして沢木さんのようなノンフィクションを自分も書きたいと思うようになり、ライター修行も兼ねた長い旅に出ることになった。長旅に出たとき、教科書としてバックパックに入れていったのもすべて沢木さんの文庫本だった。『敗れざる者たち』、『人の砂漠』、『紙のライオン』、『彼らの流儀』、『檀』などで、中でも、『彼らの流儀』と『人の砂漠』は、書き出しや構成を考える上で、何度も何度も読み返した。

一方、そもそも本の面白さを初めて自分に知らしめてくれたのは、立花隆さんの作品だった。それは沢木耕太郎作品に出会う前、大学に入って間もないころのことである。一浪をへて大学に入り、「物理学者か宇宙飛行士を目指すぞ」と高いモチベーションを持っていたころ、立花氏の『宇宙からの帰還』を知った。高校時代まで、読むことにも書くことにも興味を持てず、本とはほとんど無縁だったが、ふとこの本を読み出したら、夢中になった。初めて本を面白いと思った。その後、彼の作品をあれこれ読み進めていく中で、もしかしたら自分は、サイエンスについて書くジャーナリストのような仕事に興味があるのかもしれない、と思うようになる。当時大学で立花氏の講義があり、それを何度か聴講した影響もきっとあったのだろうと思う(やってくるゲストがすごかった。大江健三郎だったり、鳩山邦夫だったり。90分の授業を180分まで延長したあげく「これで前半終了。これから後半」と言ったのにも衝撃を受けた)。

いずれにしても、そうして立花隆の影響を受けたあと、ようやくそれなりに本を読むようになり、その過程で沢木耕太郎作品に出会った。そして結果として沢木さんの影響をより濃く受けるようになったというのが、自分自身の認識である。

しかしその認識は少し修正されるべきかもしれないと、最近ある本を読んで、思った。それは本多勝一の『日本語の作文技術』である。大学時代に読んだこの本を再読し、自分はこの本の影響をとても強く受けているだろうことに気づかされたからだ。

立花隆を知ってからか、沢木耕太郎を知ってからかははっきりとは覚えていない。けれども、文章を書いて生きていきたいと考えるようになってからこの本を読み、読んだだけでなぜか文章がうまくなった気がしたことはよく覚えている。

読んだだけでどうしてそんな気持ちになれたのか。それを知りたいという気持ちもあって今回再読したのであるが、読むほどに納得できた。いま自分が文章を書く上で大切にしている技術的なポイントの数々が、これでもかと書かれていた。緻密ながらもわかりやすく。「そうか、自分はこの本を読んだから、このような意識で文章を書いているのか」と再認識した。

2章の冒頭にこんな例文が登場する。

<私は小林が中村が鈴木が死んだ現場にいたと証言したのかと思った。>

多くの人は、「こんなわかりにくい文を書く人はいないだろう」と思うだろう。自分も思った。ちょっと笑った。うん、確かにこれは極端だ。しかし、私たちが日々接する少なからぬ文章が、実際にはこのような書き方になってしまっているらしいことが本書を読むと見えてくる。こうならないように気を付けるだけで文章はかなりわかりやすくなる、そのためにはどうすればいいか、を様々な側面から極めて具体的に教えてくれるのがこの本なのだ。

私たちが学校で習う日本語の文法は、明治以降の西洋の文法観の影響のもとに築かれたものであると本書は言う。その結果、日本語の文法は、日本語にそぐわない形で体系化されてしまったという話もなるほどだった。特に、「主語と述語」が大事だというのは英語の話で、日本語には「主語はない」(主格があるだけ)、という論には頷かされた。この例を代表とするような西洋の文法観が知らぬ間に私たちの日本語の捉え方にも影響を与えているのだとすれば、それは私たちが書く日本語にも影響を与えているのだろう。50年前に書かれたことだから、いまでは常識なのかもしれないけれど。

一方、50年近く前の本ゆえに、いま読むと驚かされることも数多い。
たとえば、本多氏は言う。いま(=70年代)「あぶないです」「うれしいです」という言葉遣いが増えているがこれは間違い、「あぶのうございます」「うれしゅうございます」と言うべきである、と。また、英語は専門家にしか必要がないから中学生が学ぶ必要などない、とも書かれていた。いずれも、いま読むと逆にとても新鮮だった。さらに、当時は手書きで書くのが当然の時代だったからだろう、植字工が植字を間違えないようにするための原稿執筆段階での工夫なども書いてあって興味深い。

背景がそれだけ違う時代に書かれた本でありながら、しかし、文章技術に関する話は、いま読んでも一切古びた感じがないし、違和感もない。

文筆を生業として20年以上がたったいま、改めて読めてよかった。

古賀史健『さみしい夜にはペンを持て』を読んで、思いがけない光が見えた

次女は本が好きなので、学校に行かずに家で過ごす午前中に、よく一緒に本屋に行く。

行くといつも、「何か一冊ほしいのがあったら」ということになり、次女は喜んで本を探す。その彼女が先日選んだのがこの本だった。古賀史健さんの『さみしい夜にはペンを持て』。娘はこの本を書店で何度か見たことがあるようで知っていて、自分も読みたいと思っていた本だった。

帰って早速読み出した次女は、学校に行けない主人公のタコジローに共感することが多かったようで、「気持ちすごくわかるー」「読書感想文が好きじゃない理由、タコジローと全く同じやわ」などと言っていた。読み終わると「好きな本の一冊になった」。「日記、少し書いてみようかなって気持ちになった」とも。実際に書いてはいないようだけど。また、ならのさんのイラストにもとても惹かれたようだった。

僕も昨日読み出して、さっき読み終わった。娘の話から想像するよりも文章読本的要素が強かったけれど、娘が「気持ちわかる」と言っていたのにすごく納得した。文章、そして日記を書く意味を教わっていくタコジローが、教えにすぐには納得せずに「でも……」と疑問をぶつける様子が、娘の感覚に似ているのだろうなと思った。

自分にとっても、タコジローが疑問を挟むのは、「そう、そこを聞いてほしいと思ってた!」と感じる点ばかりで、とてもしっくりきた。本全体として「誤魔化していない」感じがあった。子どもを言いくるめようとしてなくて、正面から答えている。だから、子どもに届くのだろうなと思った。

また、書くことについてたくさんの発見があった。「世界をスローモーションで眺める」「メモは、ことばの貯金」「『これはなにに似ているか?』と考えてみよう」などの言葉は、なるほど!だった。文章を書く上でなんとなく自分もそのようにやっているような気はするけれど、言語化できるほど意識できてはいなかった。このような形で明確に言葉にしてもらえると、その点に意識的になれて、これから書いていく上で少なからず助けになりそうに思う。これらが書かれた<4章 冒険の剣と、冒険の地図>はまた読み直したい。

そして何よりも、この本を読みながら、ふと大きな気づきを得た。
どうすればいいかわからないまま1年ほどが経とうとしている事柄について、もしかしたら、こうすればいいかもしれないという案が浮かんだ。初めて、フィクションとして書いたらいいのかもしれない、と思った。ある人に宛てた手紙のような形にして。会ったことはなく、向こうも自分を知らない、ある一人の人に宛てた物語として。

明らかにこの本がくれた気づきだった。
大きな光が見えた気がする。
できるかどうかわからないけれど、やってみたい。

タコジローの物語に、大きな力をもらいました。
この物語を届けてくれた古賀さんに感謝です。

武田砂鉄『わかりやすさの罪』のライブ感に圧倒され、読みながらぐるぐる考えた

武田砂鉄『わかりやすさの罪』読了。圧巻の読後感で、いまの気持ちを書き留めておきたいと思って、読んだ直後にこの文章を書きだしている。何を書いたらいいかはわかっていない。

武田さんがこの本の中で、何を書くかを決めないまま「見切り発車」でいまこの原稿を書いている、といったことを書いていた。そう言いつつ、ある程度道筋を立ててから書いているのだろうと当初は思ったりもしたのだけれど、読み進めると確かに、その場で必死に手探りしながら話を展開させているように感じられてくる。その章のテーマに関する話題が縦横無尽に飛び込んでくる。急に話が変わったりする。で、その一つ一つが、確かにテーマを多面的に考えさせてくれる。臨場感やライブ感が文章にあり、その熱量がこちらに直球で届いてきて、こちらも激しく思考することになる。読んでいてこちらも息が切れてくるというか、まさにライブを見にいったときのような心地よい疲労感を得ながらページをめくった。

自分自身のことを言えば、自著について「読みやすかった」「わかりやすかった」という感想をもらうのは、正直そんなに嬉しくはない。昔は嬉しかった気もするのだけれど、いまは、わかりやすいかどうかよりも、自分が伝えたいと思った事実やメッセージがどう届いたかが気になる。読後に思わず考えこんだ。などと言われたら、読んでもらえてよかったと思う。

でも一方で、自分の日々の仕事として多いのは、研究者にインタビューしてその研究について記事を書くことである。その場合は、「わかりやすかった」と言われるのは嬉しいし、よかったと思う。というのも、こういう記事の場合、記事を書く主要な目的は、専門家でないととてもわからないような難解な事柄を、その分野に縁のない人にもわかってもらえるように伝えることだから。

とは思いながらも、改めて考えてみると、科学の研究というのは、どんな分野のことであっても大抵、そんな記事1本では本当の深いところはわかりようがない。本当にはわかっていないことについてあたかもわかったような気持ちになれる記事を自分は書いているだけ、ともいえる。それでいいのか。いや、このような記事の目的は、研究を細部まで理解してもらおうということでは決してなく、あくまでも研究に興味を持ってもらう入り口としての役割を果たすことであるからいいのだ、とも思う。それを読んで、さらに深く知りたいと思ってもらえるきっかけが作れたらよいのだと。

ただ自分自身、にわか勉強とインタビューだけでは、研究者が人生を賭してきた研究の細部は到底理解できない。わかっていないまま書いている。自分の理解が及んだ範囲で、研究の内容を咀嚼して、必要なところを自分の表現に置き換えて書いている。そう考えると自分は、本当にはわかっていないことを、あたかもわかった気になれるような文章を書く技術だけが身についてきてしまったのではないか、という気もする。この本を読んで、そう思った。

でも、じゃあ、本当に細部までわかっていないのであれば、書かない方が良いのかと言えば、そうは思わない。もしそうであれば、研究者や当事者本人以外、何も書けなくなってしまう。武田さんも書いている通り、それは違うだろう。大事なのは、書き手が、話し手が、「わかっていない」ことを自覚しながら発信することだと思う。そしてまた受け取り手も、何かを読んだり聞いたりしても、決してすべてをわかったような気にはならないこと。ある事柄のほんの断片を知ることができただけだと考えること、ではないか。世の中のあらゆることは複雑で、わかりやすいことなどほとんどないのだから。

しかし現実には、わかっていないことをわかったように伝え、わかっていないことをわかった気になって安心するという現象・状態が蔓延している。わかっていないのに、わかったようなふりをして、「これを読めばすぐにすべてがわかりますよ!」とアピールして人を引きつけ、儲ける。それを読んで、「そうだったのか、これで全部わかった」という気持ちになって、考えることをやめる。そういうことがますます増強される社会になっている。

そんな社会に対する違和感、嫌悪感を武田さんは、本書で粘り強く、さまざまな事例から、これでもかと書く。なるほど、まさに!と頷くことが多いながら、うまく理解できなかったこともあり、また、ん、そこは自分はそうは思わない、と思うところもあった。だからいいのだろう。武田さんの言葉をこちらも真剣に考えた。お前はどう考えるんだと何度も問われた気持ちになった。そうして、考え、しかし完全にはわからないからこそ、また考える。そういう体験が社会全体に必要なのだろう。わかりにくいことを受け入れる。わかりにくいことに向かっていく。いろんな人と、感想を語り合いたいと思った。

「文庫版によせて」の最後の一文、
<「うまく言葉にできない」を率先して保ちたい。>
に自分は、吃音によってうまく言葉にできない人の思いを重ねた。
1分で要点を言える人が偉い、すごい、みたいな社会の中で、
「うまく言葉にできない」ことの意味はあると思う。
でも、それをうまく言葉にできない。考え続けたい。

武田さんにならって「見切り発車」で感想を書いたら、このような文章になった。うん、この感覚を大切にしたい。

20代のころ、旅する自分の背中を押してくれた『婦人公論』の「ノンフィクション募集」。荻田泰永さんと河野通和さんの対談から蘇った記憶。

冒険家の荻田泰永さんが主催する「冒険クロストーク」で荻田さんと河野通和さんの対談を見た。河野さんは『婦人公論』『中央公論』『考える人』などの編集長を歴任された編集者。対談では、河野さんの青年期、編集、野坂昭如、婦人公論、本、冒険、考えるとは…、興味ある話題ばかりで、3時間半という長さながら、飽きる所がなかった。

感想はとてもたくさんあるのだけれど、自分にとって特に大きかったのは、ずっと忘れていたかつての記憶がふと蘇ったこと。それは河野さんが編集長をされていた『婦人公論』のことである。

僕は長い旅に出る前の2002年ごろ、ライターとして一つでも実績を作るために、いくつかの雑誌の賞に、手探りで書いたルポを 送ったりしていた(当時はネットで書くという選択肢はほとんどなく、ライターになるためには紙の雑誌に書く場を見つけなければならなかった)。そのため当時、本屋に行ってはいろんな雑誌を見たり買ったりしていたのだが、 その中で確か知る限り『婦人公論』にだけ、「読者体験記・ノンフィクションを随時募集しています」といった記載があった。

河野さんのお話から考えると、 当時『婦人公論』はリニューアルしてすでに4年ほど経っていたことになるが(河野さんは、1998年の同誌のリニューアル時から数年の間編集長をされていたとのこと)、なんとなく自分の中に、表紙がスタイリッシュになって新しくなった雑誌という印象があり、内容も自分の感覚に近いような印象があった。加えて、ノンフィクションを募集している雑誌としても記憶に残った。

そして2003年6月、僕は結婚直後の妻とともに旅に出た。旅をしながら、なんとかライターとしての道筋を構築するために、ほとんどツテも縁もない中で、書いたものをいろんな雑誌にメールで送ったりしていたが、送る先はほとんど、ネットで見つけたinfo@出版社名.co.jpとかwebmaster@出版社名.co.jp的なアドレスだった。当然返事は期待できなそうな中、『婦人公論』だけは、原稿を募集しているし、でも旅の話なんてお門違いかなあとか…、いろいろ思いながらも、堂々と送ってもよさそうな媒体だった。そして旅のことだったか、取材したことだったかを、オーストラリアからだったか、東ティモールからだったか、送ったのだった。

すると思いがけずご丁寧な返事が届いた。原稿の掲載は難しいという内容だったものの、読んで返事を下さったことがとても嬉しく、 それからまた別なのを送って、また返事をもらい、 ということにつながった。結局原稿が掲載されることはなかったものの、やり取りができたことに背中を押された。その後、5年にわたった旅の日々の最初の時期、つまり、ライターとして全く仕事になっていなかった時代に、投げ出すことなくなんとか書き続けていくための原動力の一つに、『婦人公論』から届いたメールは確かになっていた。その時に送った原稿は、『遊牧夫婦』の元型の一部になっていると思う。

その時、お返事をくださった編集者はTさんで、 いま、中公新書の編集長をされている。旅を終えて日本に帰ってから、 お会いしに行ったり、やり取りさせていただいたり、 ということにつながっていった。

そして、Tさんとのつながりから、旅の終盤、2007年~08年、ユーラシアを横断している最中には、『中央公論』のグラビアページに、 写真と短い文章を2度掲載していただいたが(中国西部で出会ったイスラム教徒たちの姿と、スイスの亡命チベット人の僧侶の姿)、その時の編集長はおそらく河野さんだったことを知り、思わぬご縁を感じるのだった(河野さんとはその後、氏が『考える人』の編集長をされていた時に同誌で連載をする機会をいただいたりして、以来いろいろとお世話になっています)。

いずれにしても、当時の『婦人公論』の、 「読者体験記・ノンフィクションを随時募集しています」 という記載は、先行きが見えなかった自分にとって、 一つの目標となるような、数少ない希望になっていた。また、ライター経験はほとんどなく、海外で旅をしながらメールで文章を送ってきた若者にお返事をくださったTさんにすごく励まされたことはいまもよく覚えているし、本当にありがたかった。 そういう意味で、『婦人公論』には助けられた感覚があり、いまもなんとなく身近であり続けている。原稿を書いたことは今なおないのだけれど。そして同誌のサイトを見たら、同様の「ノンフィクション募集」の記載がいまもあり、嬉しくなった。

『婦人公論』のことを書いていたら、また別の形で背中を押してもらった媒体がいくつかあることを思い出した。その編集者の方たちが下さった一本のメールが、いまの自分へとつながっているんだなあと改めて思った。

                   *

下の写真は、旅出してから間もないころ、オーストラリア東部のカウラという町で、日本人捕虜暴動事件について取材らしきことをしていて、地元の新聞社を訪ね、事件の関係者を探しているといったら載せてくれた記事(Cowra Guardian, July 4, 2003)。急にこの記事のことも思い出し、探したら出てきた。

10日前に日本を出たところ、と記事に。一番の連絡先が滞在していた安ホテルの電話番号になっているのがすごい。メールアドレスも載せてもらっているけれど。当時は携帯電話も持ってなかったし、メールより電話だった時代なような。
『婦人公論』に送った原稿にも、この事件のことを書いた部分があったような…。

吃音「治療」の歴史 『吃音 伝えられないもどかしさ』第2章より

吃音「治療」の歴史について、近年の流れをざっと読めるサイトはあまりないように思ったので、拙著『吃音 つたえられないもどかしさ』から該当箇所を以下にアップしました。第二章の冒頭部分になります。2019年に刊行した本なので、現在の最新の治療など情報はありませんが、これまでの流れなどを知るのに参考にしていただければと思います(以下の文章は2021年に刊行した文庫版。2019年の単行本版から微修正あり)

治療と解明への歴史


一九二三年九月、関東大震災のどさくさの中、社会運動家の大杉栄は殺された。東京の憲兵隊本部にて、陸軍憲兵隊大尉甘粕正彦に絞殺されたのだと言われている。アナーキストとしてひるむことなく自らの主張を活動に移す大杉は、当時の政府や軍部にとってそれほどの脅威だった。

その大杉を特徴づけるものの一つが、吃音だった。社会主義者の山川均はこう記す。

《大杉君は非常に吃った。ことにカキクケコの発音をするときには、あの大きな眼をパチクリさせ、金魚が麩を吸うような口つきをした》

この文を含む追悼文集『新編 大杉栄追想』(土曜社刊)を読むと、山川を含む寄稿者一六人のうち半分以上が、大杉の吃音について触れている。大杉自身も『獄中記』の中で、二年以上の刑務所生活を送ったあとにどもりが急にひどくなったことを書いている。《その後まる一カ月くらいはほとんど筆談で通した》というほどだった。

大杉は、吃音を自分とは切り離せない「癖」として、特に隠そうともしなかった。だがその一方で、吃音を治すべく吃音矯正所に通っていた。

大杉が通った「楽石社」という矯正所は、教育家・伊沢修二によって東京の小石川に設立され、本格的に吃音矯正に取り組んだ日本で最初の施設として知られている。伊沢は、明治大正期において、特に音楽教育の分野で影響力を持った人物である。彼は、日本語や英語の発音の矯正法を探っていく中で、吃音の矯正にも興味をもち、研究を重ねた。

「吃音は、どもる人をまねることなどで身に付いてしまうただの習慣である」

伊沢はそう捉えていた。だから基本的には必ず治る、と。楽石社が創立された一九〇三年から伊沢が没する一九一七年までの間に、彼の方法で五〇〇〇人以上が吃音を「全治させた」とする記録もある。しかしその数字は、決して鵜呑みできるものではない。治ったといってもしばらくすると元に戻ったとも言われるし、大杉も最後まで吃音を治せていないのだ。

吃音とは何たるかがいま以上に知られていなかったその時代において、伊沢による吃音矯正は日本で少なからぬ存在感を持っていた。しかし彼の方法が吃音治療に効果があったとは考えにくい。それは、現在その方法が全く踏襲されていないことからも明らかだろう。

楽石社を開いた伊沢が没してから間もない一九二〇年代、アメリカでも吃音の研究が本格的にスタートした。それは、実質的に世界で初めての吃音の学術的研究だと言える。その研究をリードしたのが、アイオワ大学で言語障害の問題に取り組んでいたリー・エドワード・トラヴィスだった。

当時すでに、失語症などの研究から、脳の各部位はそれぞれ異なる機能を担うこと、そして言語は一般に大脳左半球(左脳)がつかさどることが知られていた。また一九一〇年代には、ロンドンで行われた学童への大規模な調査から、吃音のある子どものかなりの割合が、元々左利きだったのを右利きに矯正された子であったという結果が導かれ、広く知られるようになっていた。そうした中でトラヴィスは、同じアイオワ大学で精神医学を研究していたサミュエル・オートンの大脳半球についての考えもヒントに、一つの仮説を提出した。それは、大脳は本来、左右半球のいずれかが優位性を持っているが、そのバランスが崩れたときに言語機能が正常に働かなくなり吃音が生じる、とするものである。左利きの子どもは大脳右半球(右脳)が優位に働いているが、それを右利きにしようとすることで大脳左半球が働きを強め、本来の左右半球のバランスが崩れるのだ、と。

この説は、「吃音の大脳半球優位説」と呼ばれるが、より直接的には、左利きを矯正すると吃音になるとする説だと言える。そのいわゆる「左利き矯正説」は、その後の研究で反証も多く挙げられ、現在では一般に否定されている。ただ、九〇年代に行われた脳機能の研究では、吃音者は一般に大脳右半球が過剰に活動しているという結果が得られ、それは、左半球に生じている言語機能の不具合を右半球が補おうとしているゆえなのではないかなどと考えられるようになった。こうした議論がなされる出発点には、トラヴィスの仮説があるようである。

また、三〇年代になると同じくアイオワ大学で吃音を研究していたウェンデル・ジョンソンが新たな仮説を打ち立てる。それは「診断起因説」と呼ばれるもので、吃音は、発育段階でまだうまく話せない子どもに、母親なり周囲の人間が、それを吃音だと捉えて注意したり意識させたりすることによって始まるのだとする説である。つまり、吃音はその人が本来持っている特性ではなく、親などによって植えつけられることで発症するという考えだ。ジョンソンがそう考えたのは、第一に彼自身の過去の経験が関係している。ジョンソン自身、重い吃音を抱えていたが、その症状は、彼が五、六歳のとき、学校の先生からの指摘をきっかけにして両親が、息子に吃音が出始めている、と考えるようになってから悪化したと彼は信じていたのである。

ジョンソンは、その仮説を裏付けるデータを集め、一九三九年には、彼の指導の下、教え子の大学院生が、後に「モンスター・スタディ」という名で呼ばれることになる悪名高い実験も実施している。まず、吃音症状のある子どもとない子ども計二二人を孤児院から集めていくつかのグループに分ける。そして、彼らの話し方について褒めたり叱責したりすることによってどんな変化が出るかを調べるというものだった。端的に言えば、つまり、吃音がない子たちに対して、症状がないにもかかわらず「あなたは吃音の兆候を示している、その話し方をやめなさい」などと数カ月にわたって注意し続けたら実際に吃音が生じると彼らは予測し、その変化を観察しようとしたのである。

この実験によって吃音のない被験者が吃音を発症することはなかったが、結果、複数の被験者が実験途中から急に話さなくなったり、不安を訴えたりするようになった。何人かは実験を境に、その後精神的に深刻な問題を抱え出したともいう。

この実験については、ジョンソン自身もその後一切公表せず、長年知られないままだったが、二〇〇一年になってアメリカの地方紙によって発見、報道されたのをきっかけに広く知られ、大きな非難にさらされた。そしてその実験から七〇年近くが経った二〇〇七年になって、被験者に対してアイオワ大学が公式に謝罪し、慰謝料を払うという結果に至っている。

ジョンソンの「診断起因説」はすでに過去のものとなった。すなわち、吃音の状態が周囲の人間や環境の影響を受けるということはいまも信じられているものの、吃音がそれだけで発症するという考え方は否定されている。

そして近年、アメリカを中心に吃音の脳科学的研究、遺伝学的研究も進んだ結果、現在では、吃音は、その人の持って生まれた素質(遺伝子)と環境の両面に関係があると考えられるようになっている。九〇年代から二〇一〇年代に行われた七件の双子研究のうち五件では、その遺伝的要因の割合は七〇%あるいは八〇%以上であるという結果になった。加えて、二〇一〇年以降には、アメリカ国立聴覚・伝達障害研究所のデニス・ドレイナらの研究によって、GNPTAB、GNPTG、NAGPA、AP4E1という四つの遺伝子の変異が一部の吃音者に特徴的に見られることがわかってきた。ドレイナらは、これらの遺伝子の変異が、発話に関係する脳の部位の神経細胞に何らかの影響を与えているのではないかと考えるが、そのメカニズムははっきりとはわかっていない。また一方、これらの変異によって吃音を発症したと推定できるのは、吃音のある人全体の一〇%強に過ぎないであろうことも研究によって示されている。吃音と遺伝子との関連については、まだ多くが謎に包まれたままである。

治すのか 受け入れるのか

日本では現在、複数の研究者や言語聴覚士、医師によって、吃音の臨床や治療法に関する研究が進められている。大学などの機関の研究者としては、前述の九州大学病院の菊池良和、国立障害者リハビリテーションセンターの森浩一や坂田善政、金沢大学の小林宏明、北里大学の原由紀、広島大学の川合紀宗、福岡教育大学の見上昌睦らが知られ、その他、各地の病院や施設の言語聴覚士も、それぞれの方法で臨床や研究にあたっている。そうして臨床の方法などに関する知見が蓄積され、効果的とされるアプローチが徐々に絞り込まれてきた。

現在、吃音の治療や改善のための方法としては、主に

・流暢性形成法(吃音の症状が出にくい話し方を習得する)
・吃音緩和法(楽にどもる方法を身に付ける)
・認知行動療法(心理面や考え方に変化を促すことで症状を緩和する)
・環境調整(職場や学校といった生活の場面での問題が軽減されるように、周囲に働きかけたりする)

がある(子ども、特に幼児の場合については第七章で別途ふれる)。その具体的な手法には様々あり、それらを組み合わせるなどして、その人に効果的な方法を探るというやり方が一般的だ。また、これらとは別に、頭の中で好ましい体験をイメージすることで吃音を改善に導く「メンタル・リハーサル法」もよく知られている。ただ、どの方法を有用とみるかには、研究者・臨床家によって違いがある。訓練によって症状に直接働きかける流暢性形成法や吃音緩和法を重視する立場もあれば、心理的な側面や周囲の環境の整備に重きを置く立場もあり、見解は分かれる。一方、吃音の原因を解明するための脳や遺伝子に関する長期的な研究は、知る限り、日本では行われていない。

若い研究者も少しずつ増え、活性化しつつはあるものの、日本の吃音研究はまだ手探りの段階にあると言える。というのも、日本の各地で研究が進められ、それらが互いに共有されるようになってからまだ日が浅いのだ。現在のような状況へと進みだしたのは、二〇〇〇年代に入ってからぐらいのことでしかない。その理由はやはり、前述の通り、吃音が長年単なる癖などとして捉えられてきた影響だろう。

 

そのように、研究らしい研究が進みだしたのも最近であり、対処法も不明な状況が続く中、吃音のある人たちのよりどころとって少なからぬ役割を果たしてきたのが、当事者が自ら集まってつくる自助団体(または当事者団体、セルフヘルプグループ)である。ここ数年、SNSの発達などにより、急激に団体の数も増えているが、その中でも、日本で長年にわたって大きな存在感を持ち続けてきたのが「言友会」(NPO法人 全国言友会連絡協議会)である。

言友会は、そのウェブサイト(二〇一八年時点)によれば、《吃音(どもること)がある人たちのセルフヘルプグループとして、1966年に設立され》、《2016年1月現在、全国各地に32の加盟団体と約800人の会員を擁している日本最大の当事者団体》であるという。基本的なスタンスは、《吃音と向き合いながら豊かに生きる》ことを目指すというもので、その基盤にあるのは、言友会の中心的存在であった伊藤伸二らが一九七六年に採択した「吃音者宣言」である。伊藤は、小学校時代から吃音に悩まされ、矯正所に通ったこともあったが治すことは叶わず、その一方、矯正所を通じて同じくどもる人たちと出会う中で吃音と向き合えるようになったという。そしてその経験から、言友会の設立を牽引し、大学でも講師として言語障害児教育に携わるなどするうちに、吃音の関係者の間で名が知られるようになっていった。

その伊藤らは、「吃音者宣言」(たいまつ社刊『吃音者宣言』所収)の中で、吃音を治そうとすることに対して否定的な立場を明確にした。《どもりを治そうとする努力は、古今東西の治療家・研究者・教育者などの協力にもかかわらず、充分にむくわれることはなかった。》《いつか治るという期待と、どもりさえ治ればすべてが解決するという自分自身への甘えから、私たちは人生の出発(たびだち)を遅らせてきた。》と。そしてさらに、こう記した。

《全国の仲間たち、どもりだからと自身をさげすむことはやめよう。どもりが治ってからの人生を夢みるより、人としての責務を怠っている自分を恥じよう。そして、どもりだからと自分の可能性を閉ざしている硬い殻を打ち破ろう。
 その第一歩として、私たちはまず自らが吃音者であること、また、どもりを持ったままの生き方を確立することを、社会にも自らにも宣言することを決意した》

吃音を治そうとするべきではない。いかに受け入れて生きていくかを考えよう。そう訴える宣言なのである。

「吃音者宣言」はさまざまな議論を呼びつつも吃音当事者の間で大きな存在感を持つようになっていった。現在の言友会では、必ずしも会員みなが「吃音者宣言」を受け入れているわけではない。だが、治すことにとらわれず、吃音者同士が出会い交流し、様々な考え方や生き方を互いに共有することで各自が自らの生き方を探っていこうという方向性は、この宣言から始まっていると言っていいだろう。

言友会は半世紀以上にわたって、吃音のある人たちにとって貴重な交流の場を作ってきた。吃音者に与えてきた影響は小さくない。と同時に、言友会の存在は、当事者たちの置かれている状況の一面を表しているとも言える。すなわち、各々が吃音とともに生きていく方法を自ら見出していくしかないということだ。出口も治療法も、ないのだから――。

しかし、本当にそうなのだろうか。治す方法はないのだろうか。

(続く)

以降、書籍では、吃音の治療にかける言語聴覚士と当事者たちの物語が深まっていきます。

また、本書のプロローグはこちらから読めます。(2025年10月14日追記)

もしご興味持っていただけたら、本書を手に取っていただければ幸いです。現在、文庫版は品切れ重版未定となってしまったので、お求めの場合は、単行本をぜひ。

2月3日(土)18時半~ 名古屋市のカフェこねっこ(Book Cafe Co-Necco)でともに話す会をやっていただけることに

もう明日ですが、名古屋市にあるカフェこねっこで、自分と一緒に飲んでお話をする会というのを開いてくださることになりました。カフェこねっこは、発達障害などの障害を持つ方の居場所に、というコンセプトで開かれたカフェで、拙著『吃音 伝えられないもどかしさ』にも登場します。こねっこが今年10周年とのことで(おめでとうございます!)、10周年企画第一弾として現在、僕の本の特集をやってくださっています。たまたま明日2月3日に、機会があって訪れることになったので、いっしょに飲んでお話しする会を、ということになりました。
18時30分~、会費2000円くらいで、アルコール・ソフトドリンク、軽い食事は用意してくださるとのことです。
もしご興味ある方いらっしゃったら、お気軽にご参加ください!僕自身、何を話せるというわけでもないですが、集まってくださる方とともに、ただゆるく気軽な時間を過ごせたらと思ってます。楽しみにしています。

カフェこねっこ
https://co-necco.xii.jp/

自著をお送りするので、その代金+アルファを被災地支援に各自募金のお願い

チーム・パスカルの仲間である小説家・ライターの寒竹泉美さんが

<ZOOMで「インタビューライター入門講座」、受講料は被災地支援に各自募金(金額・寄付先はお任せ)>

ということをやっていて、とてもいいアイディアだなと、発想に共感しました。詳細を知って、能登半島地震の被災地への支援の輪が広がっていきそうな方法だなあと思いました。

そこで自分も、支援の輪を広げるために、何かそのような方法で被災地支援ができないかと考えました。自分の場合、すぐに講座をというのが現状なかなか簡単ではないため、思いついたのが自著を使って支援ができたら、ということでした。そこで、以下のいずれかの自著・共著を、ご希望の方にお送りします。その代金を自分に払ってもらう代わりに、ご自身でここぞと思える団体・組織に、本の代金+αを、被災地支援として寄付していただければ嬉しいです(金額はお任せします)。

また、支援の輪を広げたり、さまざまな寄付先の認知が広がるように、可能であれば、ご自身のSNSなどで寄付先を共有していただければ幸いです(その際に自著の宣伝みたいになってしまうのは本意ではないので、本のことは書いていただかなくて結構です)。

<対象の本>

『吃音 伝えられないもどかしさ』(単行本)1650円

『いたみを抱えた人の話を聞く』1870円

いずれか、ご希望の本をご指定の上、メール(ykon★wc4.so-net.ne.jp ★=@)や旧Twitter(@ykoncanberra)のDM、Instagram(kondo7888)のDMなどで、ご連絡ください。差し支えないお送り先を教えていただければ幸いです。

この2つの本を選んだのには自分なりに意図があります。

災害が起きて、避難所で生活をしたりする中で、いろんな人とその場でコミュニケーションを取らなければならなかったり、また電話をしなければならないとなったとき、吃音のある人には少なからぬ心理的負荷になりえます。普段とは違う状況下で、普段あまり関わりのない人に、何かを伝えたり尋ねたりしなければならないことは、かつて自分はとても苦手で、大きな心理的負荷がかかりました。結果として、尋ねることを断念して自分でなんとかする、ということもよくやりました(例:名前を言うということが難しかったため、自分の名前を言わないといけない場は必要であっても断念するとか、旅中、トイレの場所を聞くことができずに激しく我慢した、などなど)。

しかし緊急時はそうは言っていられないことも多いだろうと想像できます。その上、すぐに伝えなければならなかったり、即座に返答を求められたり、その場で名前を言わないといけないようなこともあるのではないかと思います。または、ご自身の生活のために必要なことを、話すことを回避するために断念してしまうということにもつながりかねません。そういう時に、相手が吃音のことを少しでも知っていてくれたら、気持ちが楽になり、話したり必要な行動を取ったりもしやすくなるし、また吃音当事者と向き合う人も、状況が理解できれば、不可解に思ったりせずに済むはずです。

『吃音 伝えられないもどかしさ』をお送りすると表明し、このページを読んでもらったりすることが、吃音当事者が被災地の現場でそうした問題を抱えている可能性があるということを意識してもらうきっかけになったら嬉しく思います。また、吃音以外でも、一見わかりにくい障害や問題を抱える方たちが、さまざまな困難を抱えている可能性を想像してもらうきっかけになったら幸いです。

また、『いたみを抱えた人の話を聞く』については、いま被災地に、想像を絶するいたみを抱えた人たちが数多くいらっしゃること、そしてそういう方たちの話を聞くということがこれからきっと重要になっていくということに、少しでも広く意識が向けられるきっかけになったらと思いました。この分野については、自分は専門的に語れる立場にないため、何も言うことはできませんが、共著者の緩和ケア医・岸本寛史さんの言葉はきっと、困難な状況下にある方たちの話を聞く上でのヒントになるように思います。

自分の貧弱な資金力では、どれだけの数のご希望に対応できるか現状わかりませんが、とりあえずご希望の方がいらっしゃったらお気軽にご連絡ください。

とても微力ですが、被災地支援の輪を広げることに少しでも役立てることを願っています。そして、被災地で困難な状況にあるみなさんの状況が一日でも早く改善されることを願っています。

『君たちはどう生きるか』と『心に太陽を持て』

年明け最初に読了した本は『君たちはどう生きるか』(吉野源三郎著)になりました。

この本は、子どものころ全く本を読まなかった自分に、ある時(おそらく小学生のとき)祖母が「読んでみたら」と岩波文庫版を買ってきてくれたのをきっかけに読んだものでした。おそらく自分が初めて最後まで読み通した本だったように記憶しています。

先日、宮崎駿の映画『君たちはどう生きるか』を子どもたちとともに見にいったのをきっかけに久々に本書を読みたくなり、子どもたちも読むのではと思い買って、結局いまのところ自分だけが読んだ、という状況です。

90年近く前に書かれた本なので、さすがに現在と価値観の違いを感じる部分はあるものの、人としてどうあるべきかという根本の部分は全然変わらないなと思い、心打たれるものがありました。近年再びブームが来て読まれるようになったのもよくわかる作品でした。

ぼくはこの本を読んだのをきっかけに、この本と深く関係する山本有三の本をいくつか読み、その中の一つが『心に太陽を持て』という短編集でした。これもずっと心に残っている素敵な作品で、この本について少し前に、「こどもの本」という雑誌に以下のようなエッセイを書いたことがありました。こちらに転載しておきます。『君たちはどう生きるか』も『心に太陽を持て』も、ずっと読まれ続けるんだろうなあ。

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私は小学校時代、本を全く読まない子どもでした。そんな自分に、一緒に暮らしていた祖母がある日、「読んでみたら」と一冊の本を勧めてくれました。『君たちはどう生きるか』という本でした。その内容に心を動かされた私は、その作品と強いつながりがある本としてあとがきに紹介されていた一冊を、読んでみたいと思いました。それが、山本有三著『心に太陽を持て』でした。

この本は、子どものためのよい本を作りたいと願った著者が、今から八〇年以上も前に、世界の様々な逸話を集めてまとめたものです。何かを成し遂げた人の話もあれば、困難を抱えた人々にひたすら尽くした名もなき人の話もあります。どの話も、生きる上で大切なものは何かということを優しく真っ直ぐに伝えてくれます。努力すること、思いやりを持つこと、希望を捨てないこと、公正、正直であること……。

三〇年以上ぶりに読み返してみると、驚くほど、「あ、この話」と思い出すものが多くありました。幼少期に読んだこれらの話が自分の心のどこかにずっと残り、今の自分につながっているのかもしれないと感じました。

 今の時代にはもしかすると、メッセージがきれいすぎると感じる人もいるかもしれません。でも私は、子どものころに、理想に満ちた真っ直ぐな物語を読み、それを心の中に留めておくのは大切なことだと思っています。そのような物語は、誰にとっても、複雑な現実の中を生きていく上での心の支えや人生の指針になりうると思うからです。

 この本は、多くの人の心の中にそのような形で生き続けている気がします。久々に読み直してそう感じました。そして自分にとってはこの本こそが、タイトルにある「太陽」の一つだったのかもしれないと思い、ふと胸が熱くなりました。

(「こどもの本」2020年4月号)

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『吃音 伝えられないもどかしさ』の単行本をこちらからも販売します

『吃音 伝えられないもどかしさ』文庫版の「品切れ重版未定」について、このブログやSNSでお伝えしたところ(そのブログ記事はこちらです)、たくさんの方にご連絡をいただきました。気にかけてもらって嬉しかったです。ありがとうございました。いろいろなありがたいお声がけにも感謝です。とても励まされました。

そうした中、これからは単行本をもっと広く読んでもらうべく、単行本をほしいと思ってくださる方には、自分でも販売していくことにしました。

もしほしいという方がいらっしゃったら、『吃音 伝えられないもどかしさ』の単行本を、僕から直接、少し安くでお送りします。税込&送料込で1500円で大丈夫です(参考まで、定価は税込1650円)。ご希望であれば喜んでサインもします(…と、自分で書くのは気恥ずかしいですが^^;)。 

ご希望の方がいらしたら、メール(ykon★wc4.so-net.ne.jp ★=@)や旧Twitter(@ykoncanberra)のDM、Instagram(kondo7888)のDMなどで、ご連絡ください。詳細をご連絡します。また、お送り先を伺わなければなりませんが、差し支えない宛先を教えていただければ幸いです。

どうぞよろしくお願いいたします!

重松清さんによる書評もぜひ。

<頁をめくるごとに、つらかった記憶や悔しかった記憶、言葉がうまく出ないもどかしさに地団駄を踏んだ記憶がよみがえって、何度も泣いた。いい歳をして子どものように――子どもの頃の自分のために、涙をぽろぽろ流した。>

https://www.bookbang.jp/review/article/563177

とても残念なことながら、『吃音 伝えられないもどかしさ』の文庫版が――

自分としてかなりショックなことながら、『吃音 伝えられないもどかしさ』の文庫版が「品切れ重版未定」となってしまいました。事実上の絶版のような形です。

まだ3年も経っていないので、いまそんなことになるとは全く想像していなく、知った時には愕然としました。また、正直拙著の中でも、『吃音』に限ってはまさかそういうことはないだろうと思っていたのですが、皮肉なことに、自分の著書の中でこの本だけがそのような事態に陥ってしまいました。無念です。

さすがにもう少し粘ってほしかったし、他の方法はなかったものかとも思ってしまいますが、思うように売れてなかったということであり、商業出版であれば仕方なく、現実を受け入れるしかないのだろうとも思います。

数日間だいぶ沈みましたが、単行本の方はまだ生きています。今後は、これを生き延びさせるべく尽力しなければと、いまできることを考えています。

そんな状況のため、『吃音』の文庫版は、今後あらたに書店に補充されることはありません。

単行本も、決して安穏と構えていられる状態でもないようです。もし、本書にご興味を思ってくださる方がいたら、よろしければ単行本の購入を検討いただければ幸いです。

…と、なりふり構わない感じになって恐縮ですが、この本は、まだまだ果たすべき役割があるように思っています。興味ありそうな方などいらっしゃいましたら、紹介していただけたりしたら嬉しいです。

『吃音 伝えられないもどかしさ』(新潮社)、今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

重松清さんによる本当にありがたい書評も、改めてこちらに。よろしければ…!

<頁をめくるごとに、つらかった記憶や悔しかった記憶、言葉がうまく出ないもどかしさに地団駄を踏んだ記憶がよみがえって、何度も泣いた。いい歳をして子どものように――子どもの頃の自分のために、涙をぽろぽろ流した。>

https://www.bookbang.jp/review/article/563177

<信州岩波講座 高校生編>「いまも自分に自信が持てない僕から、10代のみなさんへ」

12月7日、長野県須坂市の「信州岩波講座 高校生編」に呼んでいただき、同市の3校の高校生に向けてお話させていただきました。

演題は、最近の自分の気持ちそのままにしようと、

「いまも自分に自信が持てない僕から、10代のみなさんへ」

としました。

前半70分ほどはこのテーマで僕が話したのですが、後半は、代表の高校生12人が壇上に上がり、考えてきてくれた質問をその場でぶつけてくれました。

後半の質問パート、最初の問いが「すべらない話をしてほしい」というもので、あたふたして思い切りすべりましたが、困ってる友人へどう言葉をかけたらいいかや、進路のこと、旅のことなど、一人ひとりが自身の率直な問いを投げてくれました。また800人ほどがいる大きな会場の中からも手がたくさん上がり、いろんな質問をしてくれました。必ずしもうまく答えられなかったものの、それも含めて、楽しく貴重な時間となりました。

また、講演の前後に、控室の方に個人的に話に来てくれたりした子も複数いて、恋愛の相談なんかもあって、それぞれの思い悩んだりする姿に、遠い自分の高校時代を思い出しました。

前半の講演では、40代後半のおじさんが、わかったようなことを話すよりも、いまもなお10代のころとそんなに変わらず日々悩み、右往左往しているということを話した方が、聞いてもらえるのではないかと思い、そんな気持ちを前面に出しながら話しました。それでも、届いているか心もとなくもありましたが、何か一つでも心に残る言葉を伝えられていたら、と願っています。

信濃毎日新聞さんが、講演要旨と講座全体について、記事にしてくださいました(全文読むのは会員登録が必要ですが)。

講演要旨
https://www.shinmai.co.jp/news/article/CNTS2023121400146

講座全体(下写真はこの記事)
https://www.shinmai.co.jp/news/article/CNTS2023120700923

読売新聞夕刊の書評欄「ひらづみ!」の担当最終回『ナチスは「良いこと」もしたのか?』

読売新聞夕刊の書評欄「ひらづみ!」に先週、『ナチスは「良いこと」もしたのか?』(小野寺拓也、田野大輔著(岩波ブックレット))を紹介しました。記事がオンラインでも読めるようになりました。

良い本かつ重要な本だと思うので、ご興味ありましたらぜひ本書を手に取って読んでみてください。

https://www.yomiuri.co.jp/.../columns/20231204-OYT8T50037/

自分は2021年春から3年近く、この欄のノンフィクション本を担当してきましたが、今回で最後となりました。

最近になってようやくオンラインでも読めるようになったところということもあり残念ですが、長くやらせていただき、ありがたい仕事でした。「ひらづみ!」という名の通り、売れてる本から毎回自分で1冊選び、概ね隔月で17回書きました(全部載せ切れてないですが、14回目までは こちらから、紙面の画像で読めます。 読売新聞月曜夕刊 本よみうり堂 の「ひらづみ!」欄の書評コラム )。

ところで、自分は子どものころは本に全く興味が持てず、ほとんど本を読まないまま10代を終えてしまいました。

大学時代までにちゃんと読んだ本は通算10冊あるかないかというレベル。読書感想文は、一度読んだ漱石の『こころ』で中高で何度も書き、高校の時は『火垂るの墓』をアニメを見るだけで本の感想文を仕上げました。

国語は苦手で、高校入試直前の模試では、国語だけ極端に成績が悪く、確か、625人中598番で偏差値34でした(直前にかなり衝撃的な順位だったのでよく覚えています)。第一志望の高校では本番の国語で、幸運にも、古文の文章が読んだことあるもので「うおおお、助かった!」と感激したことを覚えています(それで合格できたのかも)。

大学に合格した時、真っ先に思ったことの一つが、「これでもう本とか一切読まなくていいんだ、数学や物理だけをやっていこう」ということでした。

というくらい、活字を読むのが苦手かつ縁遠かったので、いまでも本を読むのがとても遅く、我ながら残念な限りです。

そんな状態から大学時代にライターを志すようになったのにはいろいろ紆余曲折があったのですが、いずれにしても、そんなだったので、この欄の担当メンバーの一人として、定期的に書評を書く機会をいただけたことは、自分にとってもとても貴重な経験でした。

さすがに文筆業を20年以上やってきたので、いまでは、読むのが遅くとももちろんそれなりに読みますし、本っていいなあとことあるごとに感じています。ただ、本を読むことが自分にとって自然な営みにになってきたのはここ数年の気がします。

書評を書く機会は今後も他紙誌で少なからずありそうなので、また見つけたら読んでいただければ嬉しいです。

『ナチスは「良いこと」もしたのか?』書評の記事誌面↓